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#4江角和沙さんのストーリー

こんにちは。寺田望です。
それでは、4回目、始めていきます。
すっかり江角さんのトークも聞き心地がよくてリードしていただいて。
心強いばかりです。


前回は、江角さんの登場からどんなビジネスをやっていきたいのか、広報といえるものをやらなくてはならないけど、いまいちしっくりきていなくて、どういうふうに伝えたらいいかという壁にぶち当たったというお話でした。


今回は一足飛びにテクニックに走るのではなくて、江角さん自身のことをもう少し教えてもらいながらどんなフラグを立てていったらいいか、どんなタグをつけていったらいいか、一緒に紐解いていく回になっています。


江角さんは、カンマラボラトリー(COM-MA Laboratory株式会社)という会社を法人化して今まさに走っている最中です。

もともと起業家志向があったのかどうか、学生時代はどんなお子さんでいらして、どんな過程を経てコーヒーにたどり着くご縁があったのか、その辺を聞かせていただくと結構ヒントが隠れているような気がしますので、語っていただきたいと思います。では、よろしくお願いします。

1.江角和沙さんのストーリー(幼少期~大学院編)

江角さん:
まず、起業家志向があったかというと、それは全くなかったです。起業するなんて1ミリも思っていなかったぐらい、そういうマインドで生きていませんでした。

ただ、実家が地元でスーパーマーケット、小売店を経営していまして、商売人として家族全員で家族経営をしながら365日中362日ぐらい働いていました。閉店はお正月だけ、といった家庭環境で育っていたので、常にお客さんと触れているし、常に商売のことを考えていました。

仕事とプライベートは分けるものではないという感覚で育ってきたので、ハードワークだと周りから思われることも、全然ハードワークに思わない、というマインドセットはもともと生まれたときから根付いていたかな、というふうに思います。

幼少期は、普通にその辺にいる島根の田舎の子でした。ずっと島根から出ることなく、公立高校へ進学し、お受験もしなかった。お受験なんて情報さえも知る術もなく、これが当たり前だと思って生きてきました。

人生での転機はいくつかあります。高校2年生のときに、母校がスーパーサイエンスハイスクールというのに認定されて、そのクラスを開設するときに面白そうだとピンときてしまったことが最初の1つです。

それまではフランス留学するだとか、パティシエ、通訳になりたいとか、ゴリゴリの文系海外志向でしたが、好奇心から科学の世界に触れてしまったことが人生を一気に変えるタイミングとなりました。

自分が知らないことへの好奇心が高く、分解していきたい、という研究者志向のマインドがあるということを自分自身も発見し、流れで大学も理系に進もうと決めました。

高校2年生の時、脳科学というものに初めて触れて、大阪大学で行った実験がとても面白く、「私これやるために生まれてきたのかな」と勘違いして大学院まで進みました。

でも幼少期のパティシエの夢など、小さな頃から触れていた“商売の道”もチャレンジしてみたい想いも強かったので、一度脳科学はここで止めて食品会社を狙って就職活動をし、普通の研究職を志望しました。

就職活動のタイミングとしてはリーマンショック直後、大学院に通っていたのは東日本大震災の頃だったので、地方から出て活動するのは大変でしたが、ご縁があってコーヒーの会社に就職することになりました。

それまでコーヒーというものに触れていなかったのですが、そこからコーヒーに触れて、人生が少し変わっていきました。

寺田:
ありがとうございます。学生時代の江角さんの姿がイメージできる、貴重なヒアリングをさせていただきました。商売をされていると、なかなかご家族で出掛けるという経験も少なかったのかな、と思います。

そんな働くご両親にどんな想いを寄せていたのでしょうか。お手伝いもされていましたか?

2.父の背中に学ぶ経営哲学

江角さん:
中学校のときから、バックヤードに入って仕事したり、レジ打ちをしたり、とにかくそういうスキルは高かったみたいです。子どもの頃だったので、やったことはどんどん吸収していきました。

高校生からは、お手伝いするのにきちんと対価をもらっていました。最低賃金ですが。中学校からずっとお手伝いは続けていました。

父が経営をしていたこともあり、経営哲学に触れることが多かったというのも、私の中では貴重な経験だったな、と振り返ってみて思います。

「とにかく商売は簡単だよ」という父。それなりに苦労や経験を経ているのを近くで見ていた私には、簡単だったとは到底思えないので、その言葉が衝撃でした。

「単純にお客さんが今何を求めているかを考え、そこに対して自分たちがお客さんも気づかなかった面白さや驚きを盛り込めるかどうかがお店づくりだから」

父の言葉を聞いて「言われたことだけやるのではなく、本当にお客さんのことを理解して、その人の心の奥にある好奇心をくすぐることが商売の本質なのだな」と気づきました。

いろんな折に父の哲学に触れることで、「商売ってこういうものだ」ということを学ばせてもらいました。

寺田:
自分が期せずして立ち上げることになったとき、お父さんの経営哲学や何気ないセリフが響いてきたり、背中を追うような形で見ている部分もあるのかな、と思います。


まだ自我が形成される前からの日常風景と、学生時代のいろいろな知識だけではなく、江角さんが見てきた世界や経験値はすごく豊かなものなのだろうな、という感じがしましたね。

あとは、いざ社会に出る仕事のシーンになったときに、どんな現場感があったのかというのは、後半部で聞いていく内容にも入ってくると思います。

前半のほうで就職する前に自分なりのターニングポイントだった部分は、起業してみてすごく印象に残るものでいうと「家族経営していた現場」ですかね。

江角さん:
そうですね。そこと、直感を信じて自分のやりたいこと・好奇心にのってみるということは、自分自身がしてきた選択で、意外と合理的じゃないというか、最後は直感なのだな、というのを振り返ったときに思い出しますね。

寺田:
でも、第六感は本当にその人しか持ちえない判断だから、90%の人が選び得ないところを敢えて選んでいくのがイノベーター。「そこいくか!」というところを。だから人生は面白い。

私はサラリーマン家庭で、親戚も教師や公務員。どちらかというと起業や経営は皆無な立場から、期せずしてしてこういう立場なので、商売人のDNAがあるというのはうらやましいなと。

そこが育んでくれて見えてきた世界、土俵がまた違うところで出会うことで、新しいつながりもできるのではないかと感じました。

それでは、いよいよ後半に入っていきます。
江角さんの生い立ちの中で、最近に近い部分である、江角さんの社会人になってからのお話をお伺いします。


結構衝撃的な出会いやいろいろな想いもあったと聞いています。

3.江角和沙さんのストーリー(社会人編)

江角さん:
私は社会人になって本当にいろいろな衝撃を受けました。ずっと島根や鳥取という田舎にいたので、上京と就職が重なった当時はものすごい変化だったと思います。

その当時はあまりストレスと感じていなかったのですが、振り返ってみると体調が悪いとか、休まる場所がトイレしかないとか、結構追い詰められていたのかもしれません。

特に衝撃だったことは、都会の人の気持ちが分からないことと、会社員として求められる何かがわからないこと。

親や素晴らしい恩師にも温かく見守られ、これまで自分の思うままに、自由にさせてもらっていた環境から、初めて「これはおかしい」とか「こうせねばならぬ」とか、いわゆる固定概念、優等生の型に押し込められたな、というのが社会人になって最初から最後までありました。

少し個性的なことや、「こうしたほうが絶対良い!」という核心の部分や改善の部分を言ったとしても、「新入社員は黙っとけ」みたいな圧は強かったです。

その中でも理解してくださる方、その都度助けてくださる方はいて、「その着眼点は面白い。守ってあげるから行け!」と言っていただいたこともありました。

全然違う部署の方でも、困ったときは助けてくれる環境を作れたり、良い面も悪い面もいろいろな方がいて、世の中の“普通”に初めて触れたのが社会人でした。

先ほどお話ししたとおり、実家が自営業だったので家の中にサラリーマンがいませんでした。母方も開業医。父方は祖父母もずっと商売をやっていました。

そのような環境で育った私は、当たり前が分からなくて、普通じゃないと言われることが人生初で、「普通ってなに?」っていう普通迷子になってしまいました。着るものも含めて、何が“OLの正解”かが分からないことに、苦労しました。

そんな中で、何年もいると徐々に人格も矯正されて、仕事のやり方も決裁権のある役員からOKを引き出す方法がみえてしまって、成功探しのビジネスのやり方に少し慣れ始めてしまったときに、なんか違うな、と思うことも多かったです。

4.2つのターニングポイント

江角さん:
そのタイミングで2つターニングポイントがありました。

1つめは、技術畑から事業畑に異動したことです。

マーケティングや事業開発事業管理という文系の部署に理系の部署からまた異動が決まった時に、ビジネスを学ぶためにビジネススクールに通うという決断をしました。

2つめは、「私、ずっとこのままこの会社にいるんだっけ?」と悶々としていたタイミングで、転職を考えだしたら妊娠をしたことです。

妊娠したら、強制的に仕事から離れることになります。その経験はまた、大きなターニングポイントになりました。


この2つがほぼ同時期に重なったので、また生まれ変わり期が起こりまして、「本当にこのままでいいんだっけ?」と思い始めたのがこのタイミングでした。

寺田:
まさに社会の洗礼を受けて、その衝撃は計り知れないものであったと思います。入社された大手のコーヒー関連会社は、社員さんもたくさんいたのでしょうし、社内の仕組みもしっかりしていたと思います。

外注生産、工場品質管理、事業管理などもやられて、現場の工場では昼夜問わずにコーヒーにまみれて現場の方と向き合ったという骨太なエピソードも伺いました。

そういうところと、花形ともいえるマーケティングや販促、営業も、わりとダイナミックに川上から川下までいろいろ経験されて、その辺の泥臭い部分も江角さんから聞けるというのがこのビジネスをやっていく1つのきっかけでもあったのかな、なんて思います。

5.悩まされ続けた“ラベル”

江角さん:
そうですね。いろいろ経験しました。思い出したくもないくらい辛いこともたくさんあって、人格を否定されたこともありました。

当時は若いから、女性だから、というラベルも結構ありました。「もし私が同期の男性で、同じような言い回しをしていたらこんなこと言われたのだろうか」「10年後に同じことを言っていたらもっと聞く耳をもってもらえたのだろうか」といったことが本当にたくさんありました。

さらに、好き嫌いが分かれるタイプの人間である個性的な私を、「応援したい」と思ってくれる方は熱狂的に応援してくださるし、そうでない方は、足を引っ張って。あることないこと言われて、妬みって怖いと思ったのですが、その経験が広報恐怖症につながっているのだと思います。

尖って生きたからこそ、良くも悪くもいろんな感情を引き連れて、ちょっと疲れたタイミングで育休に入ると、今度はママというラベルが課されて。

「育休中」という期間限定ラベルを貼られて。いろいろなラベルのしがらみが押し寄せてきたときに、常にこのラベルに邪魔されているという感覚がありました。

女性であることを憎んだことはなく、個性の一つだと思っていたのに、「世の中はこんなにもラベルで判断するんだな」というのが重なったタイミングで、固定概念や「こうせねばならぬ」がすごく嫌になったタイミングでした。

復職をするタイミングで特にそのラベルに悩まされました。「ワーキングマザーだよね?」「子育てあるよね?」そう言われた。

今は夫の仕事の都合で群馬に住んでいますが、復職希望は都内の元職場。祖母と一緒に住んで、夫も仕事のスタイルを変えて、保育園も夫の会社の近くにすることで、通えるスタイルを構築したにも関わらず、「群馬で働いたら?」と言い渡されました。

育休中の2年間、絶えず屈伸運動していたのに、私は飛ばせてもらえなかった。

この時に、「ああ、またラベルだ」と思いました。

寺田:
育休中にMBAを取られたりとか、会社に貢献する人材になれるべく、精一杯いろんな陰日向で努力を積んできたことをどうして評価してくれないんだろう、っていうそこのジレンマというか。

組織というものがそろそろ窮屈になってきてしまったタイミングと、子育て期というものがドーンときてという感じだったかな、というのがあります。

◆次の回で、そこの部分の核心に迫る形で聞いていきたいと思います。ぜひ、リスナーの皆さんもお付き合いくださいませ。




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