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言葉とは何か。

言葉とはなにか。


私たちは当たり前に言葉を喋ります。
でも実は、これは奇跡であり(骨格的に)、現代の人間たらしめている最重要ファクターです。
動物の中で言葉を使うのは人間だけ。
言葉があるから僕たちは自分と他人を隔てるし、生きる事と死ぬことに想いを馳せます。

メラビアンの法則、というものをご存知でしょうか?
対人コミュニケーションにおいて相手に伝わるのは、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合だというもの。
言葉が生まれたのは一説によると5000年前。ちなみに人類が生まれて300万年。
人類はその歴史のほとんどで言語外のコミュニケーションを主体としてきました。
なので、言語の情報が極端に少ないのは当然だと言えます。

言葉は本来あくまで手段であり、目的ではありません。
これが本質です。

言葉ができたおかげで人類は歴史を後世に残すことができました。
そのおかげで今日の文明があるわけですが、弊害もあります。
生きる意味。なんて言葉に捕われてしまう人が続出するのです。
そして、自分探しの旅。に出かけてしまうのです。
もう一度言いますが、言葉は手段です。何の手段か。伝えるためです。
例えば、言葉ができるまで「木」と「森」を区別することは難しかったでしょうし、「雨」は「水」と区別されていなかったはずです。
「朝」と「夜」もなく、全ては眼に映る事象があるだけ。所謂、混沌、というものです。
僕は、アートというのはこの言語外の混沌の表現方法だと解釈しています。
こうして区別されたそれぞれのラベルを共有するための手段として言葉は生まれたのです。
先ほどの、生きる意味、ですが。ねーよそんなもん。
自分探し?そこにいるじゃねーか。
これだけのことです。
人間は言葉を生み出したことで全てを手に入れ、全てを自分の外側に追いやりました。
全てを掌握し、常に空虚を抱きます。

僕のバイブルに、井上雄彦のいのうえのという作品があります。
その中で宮本武蔵はこんなことを言っています。

言葉は海に似ている。
底に何があるかは
深く潜ってみなければ わからない。
眺めたいだけのものには
ただ綺麗で 退屈なだけのもの。

言葉は限りがありませんが、他方で非常に曖昧なものです。
例えば、太陽はみんな知っているものです。
ですが、国によって色が違います。
だから裁判でも、真実は1つなのに解釈を求めるわけです。
ジョージ・エリオットはこう言います。

言葉は翼をもつが、思うところに飛ばない。

哲学の父ソクラテスとその弟子プラトンは言葉の性質を非常にわかりやすく定義しています。
ソクラテスは一切著書を残していません。
なぜならソクラテスはそこに本人がいない言葉を死んだ言葉としたからです。
自分と相手がいて、そこに人間関係があって、この時の感情でもって文脈を持って発せられた言葉はそれらを理解しないと真に伝わることはないと説いています。
一方プラトンは真逆で、誰がいったかは関係ない。言葉こそが重要だと。死んだ言葉だとしても、そこに新たな解釈が加わるのはなにがいけない?
これ、どちらが正しいのでしょうか。
人間は常に両方を持っているように思います。
他人の言葉に対してはプラトン寄りで、自分の言葉に対してはソクラテス寄り。
非常にエゴイスティックですが、それもまた人間らしいとも思います。

そして、僕がよく思うことは、言葉は全てであり、しかし、無である、ということです。

今日の文明は間違いなく言語ができ、文字が発明されたから存在出来ています。
言葉は全てをアウトプットできますし、輪郭を創り出せます。
しかし、全てを物理的に生み出してきたのは言葉ではなくこの体なのです。
この手が、足が、体が今見える全ての物を生み出してきたのです。
言葉が何を創り出せる?
言葉は確かに全てであるのかもしれないですが、言葉しか持たない人がいるならそれは誰にも伝わらず、伝わらない言葉は無と同義です。つまり存在が無意味です。
動物や自然は美しく尊い。
なぜなら言葉を持たないそれらは、行動が、存在が全てだからです。誤解のしようがない。
狩りの仕方を教えるライオンの様に、背中でみせられる親でありたいなと思います。
言葉と行動、両輪を持ってやっと健全な人だと認識すべきでしょう。

僕たち人間、所詮は生まれて死ぬだけの動物なんです。

それが言葉を持って文明を持って意味を求めるのです。
意味って概念自体、人間にしかない認識です。

言葉がなくても伝わるなら、言葉はいらない。

言葉はあくまでも伝達のための手段です。

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