アンチを観測して思ったこと

飲食店で店員がミスしたとして、その店員に大声で文句を言う様な人とは仲良く出来ないって思ってる人でも、インターネット上では強い言葉で何かを否定したり、アンチ活動に勤しんだりしている気がする。
インターネットは滅びるべきかもしれない。


反転アンチの中には、自分がアンチだと自覚てていない人が一定数いる気がしてならない。本気でそのコンテンツが良くなるように助言しているんだと信じ込んでいたり。
自分が死んだことに気が付いていない怨霊と同じ。


運営を批判するタイプのアンチ活動、その現在進行形で批判している内容はきっかけに過ぎず、過去からのモヤモヤの積み重ねが爆発したタイミングが今なだけなことも多い気がする。
今、批判している言葉の裏には、前から溜め込んでいた「運営を否定したい」「文句を言ってやりたい」「憂さ晴らしをしたい」という気持ちが潜んでいたりする。
そういった否定したいというバイアスが認知を歪ませて、今まで気にならなかったことも許せなくなったりする。


「嫌な思いをした、傷ついた、悲しくなった」という事実があれば、コンテンツを殺しても良いと本気で思っている人間が多すぎる。


自分にとって気に食わないものは、自分の世界から排除しなければいけない、という思考。インターネット上だとタガが外れて加速しがち。


自分が正義だと認識したり、何かを否定する大義があると認識してしまうと、攻撃することを躊躇わなくなる。
そういった思考を持つ人間が集まると「みんな攻撃してるし」とか「自分だけじゃない」とか、そういう思考も生まれてくる。
みんなが石を投げているなら自分も投げて良いと思ってしまう。


インターネットに文章を書き込んだりするのが当たり前の人は、インターネット上で発言している人間が全てだと思ってしまう。発言していない所謂ROM専の人間は認識できないから、無意識のうちに居ないものだと感じてしまう。
「褒める」よりも「文句」の方が言葉にするのが楽だったり、良かったとレビューするより、何か良くなかったことを書き込むことの方が能動的にしてしまうという事が分からなくなってしまう。
インターネットは滅びるべきかもしれない。


何かを否定するときに、その何かを好きな人がいたり、否定的な言葉を見て傷つく人がいることを想像できなかったりする。


大義名分を並べ立てて否定したりする行為の根底には、結局のところ「私が気持ちよくオタクできるようにしろ」「私が好きなものを第一に運営しろ」といった「自分に都合が良いようにコンテンツを思い通りにしたい」みたいな思考があるような気がしてならない。
ただのオタクにはそんなこと出来ないし、するべきでないのに。
何の影響力も持たない人間は、起業家がそのコンテンツの運営を買収してコンテンツの名前を「X」にするという神の一手を願うしかない。

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