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「ひとり散歩」のススメ(後半)ー"自由"ってなんだ?


前回の記事で書いたこと
・「選ぶこと、決めること」に疲れていたある日、ひとりで散歩をしてみた
・歩いているうちに気持ちが軽くなり、「選ぶこと、決めること」がいつのまにか、楽しくなっていた

同じ「選ぶこと、決めること」ことなのに、なぜ、あるときは疲れ、あるときは楽しくなるのか?

ぼくは少し、考えました。

そして気づいたのは、自分が「どんな気持ちで決めているか」の違いでした。

散歩のとき、僕は「どっちへ行けば、気持ち良さそうか」「どっちへ行けば、面白そうか」と思って選択をしていました。そのときの選択の基準は、「自分にとっての心地よさ」や「自分にとっての面白さ」です。

一方、仕事、家庭や、新型コロナ対応での選択においては、「どっちが正しいか」「どうすれば失敗しないか」を考えていました。さらに突き詰めると、「自分が期待されている役目を果たせるだろうか」「“あなたは頼りにならない”、“あの人にはもう任せられない”と言われないだろうか」という、他人の目を気にする気持ちがその底にはありました。そのとき、自分の基準は「他者からの期待」とか「他者からの評価」だったように思います。

*  *  * 

「あぁ、これは”自由”の話だ!」

ぼくは、10年以上前に聞いた、ある住職の話を思い出しました。
琵琶湖のほとりの、親戚の家に招かれて訪れた法事での、住職の説教です。

「みなさん、”自由”であるとは、どういうことだと思いますか」

住職は冒頭、ぼくらに問いかけました。
そして、こう続けられたのです。

「"何をやってもいい"とか"気ままでいい"とか、そういう意味ではありません。」「いいですか、自由の”由”という字は”由(よ)る”と読みます。由るとはつまり、”よって立つところ”、すなわち自分の“基準”や”ものさし”なんですね」
「だから”自由”とは、”自らに由る”ということになります。」

と。

なるほど「由る」か。ぼくは目を開かれた思いでした。

そして、こう続けられました。

「でも、世の多くの人は、なかなか”自由”に生きられていないように思います。」
「たとえば”金由”。まずお金を基準に考える生き方。」

あぁ、たしかに。自分もたしかに得か損か、採算がとれるかとれないか。そこから考えてしまうなぁ、と思いました。

「多くの人が陥っているのは、”他人由”です。あるいは”世間由“。自分のものさしではなく、他人の評価で生きる生き方です。」

がつん!とやられたように思いました。まさにそれは、自分がそうだと思ったから。

住職はさらに、こう続けられました。

「”他人由”が厄介なのは、どこまでいっても際限がない、ということです。他人は、自分がなにか達成すると、もっと、もっと、と要求をしてきます。だから、他人の評価に応じようとし続ける限り、いつまでも満たされることがないのです」と。

あぁ、そうだと思いました。

その頃ぼくは、いろんなことをがんばっていましたが、その動機には、人に認められたいとう気持ちが強かったと思います。でも、なにをやっても、どこか満たされた気持ちになれませんでした。それは、自分がシンプルに自分がしたいことをしていたのではなく、親や友人に評価されることや、世間で評判になることといった”他人由“、”世間由”で生きてきたからなんだと、わかりました。

*  *  *

その話も思い出して最近の自分を振り返ると、どっぷりと、”他人由”、“世間由”に陥っていたのだと、あらためて気づきます。

「頼れる家族の一員」「しっかりしたNPOの代表」「そして困難の中でもブレずにいられる大人」、という、他人から見て評価される自分であろうとすることに懸命になっていたのでした。

でもぼくは、”自由”の感覚を取り戻せたのでした。

「ひとり散歩」に出たことで。

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