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1/30-2/5 寝たいのではない、目を休めたいだけ_s

子どものころ、目を瞑ったまま起きる練習をした時期があった。当時は自分の身体が面白かったのだろう、瞼を押して見える模様をずっと眺めて?たり、目を開いて精神を集中させると見える光の粒子?に気を取られたりしたが、目を瞑ったまま起きる、は中でも難しい修行だった。こうした遊びが、実生活ではまったく無駄とされていることに気がついた中学生くらいになってからも、授業中に意識をなるべく授業から離す練習をしたり、耳を塞がないで聴くのを止める訓練をしたりしたが、どれも難しくて断念した。きっと誰しもが通った道(?)。

大人と呼ばれる状態になってから目を酷使する機会が増えた。毎日、パソコン画面ばかり見てるので、とにかく目が疲れてしまって、昼くらいになると目が悲鳴を上げる。幸い職場の裏は山だし緑は豊富なので昼休みに散歩に行ってる。すると道端の枯れた草花の陰影や色、形の複雑さに驚いたりする。人間も本当はこちら(草花)側の生き物なのに、わざと単調で苦しい景色の中で生きようとしてるのはなんでだろう。

人間の生活は意味や目的のあるものばかりでできてる。作業をするための机、座るためのイス、食べるための箸、移動するための電車、歩くための靴、、、。でも道端に枯れた草花は、ただそこにあるだけで、なんの目的もない。私たちだって、元々はなんの目的もない。ただ存在するから存在する。でも、日常を生きると、それがどれほどすごい出来事なのか忘れてしまう。うまくいえないが、子どものころは、そうしたただここにあるものを感じる、不思議がったり面白がったりする感覚をちゃんとわかってた気がする。そういう感覚を磨くことが、ただ在るということを肯定する力をになってたような。大人になってあらゆる感覚を使うことを諦めさせられて、どんどん肯定感から遠ざかってる。

仕事のストレスは人間関係が主だというけれど、私にとっては、感覚が、五感が塞がれた、閉塞した状態が長く続くことが一番苦しい。感覚が塞がれると、正常な判断ができなくなる。だから、視界を閉じて目を休める時間があったり、瞼の裏の景色に身体を委ねる時間があってもいいはずなのだと思うのだけど。頭ばかり使って論理的に正しいことばかり長時間かけてひねり出しても、手足がキンキンに冷えたまま眉間に皺寄せて考えていたりしたら、どんどん本来の目的から離れた結論に至ってしまう。とかいうと、スピリチュアル系?とか冷やかされるが、そうではたぶんなく、単に五感を大事にしたいのであって。まあそれが世間ではスピリチュアル系というのかもしれないけど。それに論理的に正しい話はもちろん大事ではある。要はバランスなのか、、。

バランスといえば。日々人生の先輩たちに接してきて魅力的な人にたくさん出会うわけだが、そんな中でもとりわけチャーミングだったり格好いい人たちは、バランス感覚がすごい。なんとゆうか、世間を渡り歩く才能、というのとも違うんだけど、変化にたじろがないバランス感覚。それは人の気持ちの揺れ動くのを察したり、状況を理解したり、そうゆう能力がないとできないことなんだけど、歳をとっていろんな身体的機能が低下しても、そういう能力は簡単になくならない。推測するに、こういう素敵な人たちは、あらゆる感覚への感受性が開かれているのでは、と思っている。もちろん視力や聴力は衰える。でもそうした人は、視力や聴力の低下も補えるくらいなにかの開かれた感受性みたいなものがあるのだ。その秘密を解き明かしたいと思ってるが、答えがわかるのは自分が高齢になったころだろう。とりあえずいま自分にできることは今思ってることを走り書きすることくらいだ。

と思って、ダラダラ書いてる、、なにを書きたいのかよくわからなくなってきたぞ。

週末。もろもろの家事をこなす。合間にアメリカのテレビ局(abc)のニュースを流していたら、途中からドッキリ番組("What would you do")になった。有名な人気企画らしい。カフェの外席で、小さい子供と一緒にいるベビーシッターが激しく子供を叱責する場面に遭遇した通行人がどう反応するかを撮影していた。通行人の多くは声をかけようとして立ち止まるが、なかなか止めるまではいかない。そんな中、ひとりの初老の女性が怒りながら声をかける。小さい子になんてことするの、本当に怒っている、許せない、といった感じで。言い合いになるが、譲らない。あなたはこの子に対して、あなた自身が他人に扱われたいように接しないといけないのよ!と怒る場面で、なんだかジーンときてしまった。あなたの問題は私の問題だ、みたいな発言も何人かが言っている。初めはベビーシッターがアフリカ系で子供が白人系(白人、って表現は使っていいのか、他に呼び方があるのか、誰か教えてください)。次にその逆、の2パターンでやっていた。どっちのパターンも、立ち向かう人が続々と現れる。たぶん番組的には、人種を入れ替えるところの反応が見てほしいのかもしれないが、私などは普段ぬるま湯の中で生活してるので、普通に立ち向かう人がたくさんいるのに驚いた。やっぱりアメリカに暮らす人たちの人権意識って全然違うんだな。ヒーローものがヒットするわけだよ。実在するんだから。

(リンクを貼ろうとしたがうまくできなかった)

過去に放送されたものだった模様。ちなみに他の回は確認していないので番組の方向性は知らない。そもそもドッキリ番組ってどうなのとか、俳優の方たちが迫真の演技すぎて、子どもが本当に怖い思いをしてないかどうかという別の問題もあるが

しかし、それにしても、比べて?日本、首相が差別発言とか、マジで頭の中お花畑過ぎる、といったらお花畑に失礼か。頭の中空っぽ過ぎる。空洞、なにもない、無。頭の中に理念も思想も主義主張もなんにもない人たちが政治家やってるんだな、と思ってしまう。行政の人も似た雰囲気があるが(もちろんちゃんとした人もいるが)なにを聞いてもそれっぽい、かろうじて文章にはなってるが意味がなにもない答えが返ってくる、いくら話しても通じない、あの感じ。もう今後一生、多様性という言葉を使わないでほしい。狂ってる。当事者がどんな気持ちになるか、普通に想像すればわかりそうなもんだけど。絶望的に想像力がないのか?想像力に欠ける人は人間相手に仕事してはいけない。本当に...(s)

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