独白(海藤×佐波)

佐波視点

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耳触りのいいその声が、好きだと思った。

「〜♫」

朝。偲が気怠げな身体を這わせてでも布団から出てきたのは、ベッドルームまで漂ってきた焼き鮭の香りに釣られたからに他ならない。ぺたぺたとダイニングまで足を運べば、次第に米の炊ける匂いや味噌汁の香りも混ざり始める。
それと同時に、低い、しかし機嫌の良い鼻歌も聞こえてきた。『彼』は少しばかり怖い見た目をしているが、多分料理が好きなのだろうな。なにせ味も文句の付け所がない。料理の楽しさというのは、自分にはあまり分からないが。

(なんの歌だろう)
シェフは料理に夢中でこちらに気付いていないようで。偲もまた、特に話しかけるでもなく、ぼんやりと彼の歌を聞いていた。聞き覚えのあるような、ないような。
思い出したい気持ちもあり、耳を傾けていたのだが、メロディが突然ピタリと止んだ。

「いつの間に起きてたんだ」
「あ…おはよう、海藤」

海藤は偲に気付くと一瞬だけ驚いた顔をしたが、「待ってろ」とひとことだけ言って湯気の立つ味噌汁をよそいはじめる。

(今の、気付かれただろうか)
ただ突っ立って相手の鼻歌に聴き入っていたと知られるのは少し恥ずかしい気がした。
あのふわふわとした、それでいて勘の鋭い少年ならとっくに気付かれていたろうな。しばらくそれでからかってきたに違いない。そう考えて偲は自嘲気味に笑みを漏らす。

「生卵いるか?」
「いや大丈夫。これ運ぶよ」
「おー」

海藤の問いかけで現実に戻ると、偲は朝食の乗ったトレイを海藤から少しばかり強引に受け取った。わりかし彼には甘えてしまってはいるが、自分だけ何もしないのはどうも居心地が悪い。出来ることならやりたい主義だ。

「…………」

二人分の皿や茶碗を食卓に並べながら、偲はふと目を細める。こんな風に食事を摂るようになったのは、海藤と出会ってからだ。
仕事が何よりも優先だった偲は、コンビニ食やカロリーメイト、時にはエナジードリンクで食事を済ませていた。そうしてこじ開けた時間の隙間で、少しでも仕事がしたい人生だった。簡単に済ませようとする癖は今でも変わらず、それをよく思わないのが今や二人いる。一人は偲から不健康な食品をことごとく取り上げてしまうし、もう一人は———

「なにボーッとしてんだ。早く食えよ」

半ば強引に、と言うには滑稽なほど、偲にちゃんとした食事を摂らせようとしてくれている。

「あ、うん。いただきます」
「米5合炊いちまったわ。どんどん食えや」
「朝からそんなに食えるか」

そんなに炊いて誰が食べるんだ。と言いたいところだが、海藤なら一人でも食べ尽くしてしまうだろうな、と考えながら味噌汁に口をつける。
ふわりと香るダシは水にすぐ溶ける顆粒のもの。そこに乾燥わかめや麩を入れて味噌を溶かしたシンプルなものだ。
「うまけりゃなんだっていいんだよ」と海藤はよく言っていた。実際、海藤の料理はそこまで本格的ではない。出来合いのタレや冷凍の具材でさっさと作ってしまう。
それでも海藤の料理は美味しいし、暖かい。偲は海藤の作る食事が好きだった。

「ふふ」
「なんだよ?」
「うまい」
「おー」

朝焼けの中に、皿の上に、短く交わす言葉の下に、どうしたって幸福感が疼いてしまう。
だけど、そっと目を伏せる。

(いけないよな、これじゃ)

ハッキリ言ってしまえば、彼と偲は恋人でもなんでもない。寝食を共にする関係——肉体関係も、ないことはない——ではあるのだが、これはいわゆるセックスフレンドに近い存在だ。…と、思う。
お互い、その気になったら肌を重ねて、朝が来ればいつもどおりの日常に戻る毎日だった。尤も、彼が来たことでそのいつも通りは崩壊してしまったのだけど。

出会いからして穏やかでなかった海藤が普段どんな仕事をしているのか、あまり偲は追求しなかった。したところで、という感じ。
だけど、時折彼が新しい傷を作って帰ってくるのは少しだけ嫌だった。どういう感情なのかは分からない。恐らくは海藤が誰かを傷つけてきたことに対する不信感なのか。それとも、彼自身が傷付いたことに対する——

「お前さ」
「………うん?」

ああ、まただ。海藤の声で我に返る。耳の奥まで響くような、少し圧を感じる低い声。
けれど、

「なに考えてんのか知らねーけど、めちゃくちゃ顔に出てんぞ」

馬鹿な俺でも分かる。と、呆れたように笑うその声は、不器用な優しさに溢れていた。
偲はこの声が好きだった。

ーーーーー

背中合わせの素肌から伝わる温度に、偲はゆっくりと瞬きした。規則正しい息遣いに耳を澄ませれば、彼が既に眠っていることが分かる。
起こさないように、そっと身体を反転させた。視界に広がる背中は、自分よりずっと大きくて逞しくて、それから傷だらけだった。夥しい傷痕は、きっとこれからも増えるんだろう。何度言っても増やすんだろう。

古い縫合痕に恐る恐る指を伸ばして、やめた。起こしたら面倒だ。代わりに、額を押し付ける。さっきと同様、暖かかった。

(………………馬鹿か、俺は)

この温もりも声も、あの味も匂いも。きっといつかは自分の前から消えてしまうだろう。そんなのは分かり切っていた。それなのにこの感情は?彼がいなくなることで捨て去ることができるだろうか。

それも少しだけ怖かった。

(…もしも)

もしも、ただひとつ我儘が許されるならば、同じ末路を辿ろうと構わない。だから。

(生まれ変わったら、もう一度)

この声に、温度に、笑顔に。
また会えますようにと願うほかないのだ。