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「分かる」という言葉に「分」が使われている意味

こんばんは、にぼしです。

私の大好きな作家さん、上橋菜穂子さんのエッセイを読んでいていて、とてもしっくりきた文章があったので引用させていただきます。


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「分かる」という言葉に、なぜ、「分」という字が使われてるのか、子どもの頃、不思議に思ったことがありますが、あるものが他と分かたれ、明確な区別がついて初めて、人はそれを認識するー分かるーのですね。

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最近自分と他人の感覚が違うなと感じる瞬間が多くあり、何か理解するきっかけになればと思い、『記憶する体』という本を読みました。

視覚障害、四肢切断、麻痺、吃音、難病、二分脊椎症などと呼ばれる障害を持っている11人の方々のエピソードを取り上げており、今まで大きな怪我や病気もなく育ってきた私には、自分の感覚が覆されるお話ばかりでした。

お一人お一人についても今後取り上げていきたいのですが、今回は肩を含む右腕をすべて切断して「幻肢」を持つようになった女性のお話をさせていただきたいと思います。


「幻肢」という言葉は聞いたことがありました。腕などを切断した方が、腕があるように脳が錯覚するもので、幻肢痛という痛みを伴う・・・。

このくらいの知識は持っていた私ですが、幻肢について「分かって」いる状態にはほど遠かったことをこの本を通して思い知りました。

幻肢の知識はあったのですが、実際に幻肢を持つ人の気持ちや幻肢との向き合い方を想像したことがなかったのです。


この女性は、右手をなくして数年経ち、義手を作るというステップに差し掛かりました。

義手を作ることによって得られるメリットは様々です。
左に傾きがちだった体の中心が正しい位置に戻るかもしれない。洋服の着こなしがしやすくなるかもしれない・・・。

しかし、この方は義手づくりに対して、割り切れない気持ちも抱いていました。

「手の記憶をなくすようで寂しい」

義手を使うことによって幻肢が失われるとしたら、それは「腕を忘れる」ことを意味します。幻肢痛が軽減されるという意味では喜ばしいですが、幻肢痛があるという痛みが、腕がないという悲しみに変わることかもしれない。そうだとしたら、それは「寂しい」と。


もちろん幻肢を持つ人全員がこのように感じているわけではないと思います。中には一刻も早く幻肢痛を取り除きたい方もいるのではないでしょうか。

ただ、自分が何年間か向き合って共存してきた痛みを取り除くこと。それを失うことによって、喪失感を感じることに繋がるのではないか。

この方のような感じ方もあるのだな、と経験したことがない身からすると新たな感覚を与えられたようにこのお話を読ませていただきました。


日々の生活の中で、少し聞きかじった知識だけでついつい「分かった」つもりになりがちです。

しかし、他者について理解しようとする時、自分とは違う存在として他者を分け、その感情・感覚にまで想像を巡らせることができたのかはよくよく考えてみる必要があると思いました。


まずは自分と他者を区別し、その上で、相手はどんなことを考えているのか、自分とはどんな違う目線で物事を見ているのか、日頃から注意してみたいです。


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近頃お仕事で顧客への説明の機会を多く与えて頂いているにぼしですが、自分本位な説明になってしまい、お客様に上手く説明できないことが多く悩んでいます。

自分と顧客の立場の違いを理解し、お客様にとってベストことなのはなんだろう?と考え、お客様を「分かる」ための努力をしていきたいなと思いました。

明日からまた仕事がんばりましょう!

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