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ひとのしを

人の死を詠みたし春の風呂場からシャワーを止める音が聞こえた
-----染野太朗「豚バラ」『あの日の海』


「シャワー借りていい」と訊かれシャワー浴びずにベッドに上がられるほうが嫌だと応えた。Tはやったーありがとうとはしゃぐみたいに言ってユニットバスに向かう。着替えは貸したほうがいいのか訊くとまだそんな汗かく季節じゃないし大丈夫だろと風呂場からくぐもった返事。
 歌会が長引いたので飲み会の時間が減ってしまった。Tは飲み足りないと騒ぎ、他に引き取り手がなかったために俺が世話をしてやることになる。同期に男子が俺たちふたりしか残らなかったのはほんとうにいただけない。すっかり仲良しふたり組みたいになってしまったし、サークル外の歌会でもいつもそろって参加するせいでその扱いは変わらなかった。じゃあよろしくね気をつけてねとみんなに見送られながらふたりで向かった居酒屋でTは見事に終電を逃した。
「おまえはまだ終電あるわけだよね」と駅までついてきたTは言った。
「カラオケとか漫喫行けよ」と返した。「締切前とかときどきやってるじゃん、ひとカラオール」
「そんなこと言ったって、きょう締切前じゃないし」
 きょうだって締切前だろと思う。来月末には研究と角川の締切がある。でもこいつの締切前っていうのは締切の一週間前から始まって、始まった三日後くらいから書き始めると知っているから、言わない。
「あといますごく金ない。さっきの会計でもう十円玉とかしかない」とTは付け足す。
「だったらなんで飲み足りないとか言うんだよ」
「だってあれは飲むためのお金だったんだから、お金たちもちゃんと飲むために使われて幸せだったと思う」
 この酔っ払いと邪険に言って改札をくぐる。するとTも隣の改札を通っている。金ないんだろと俺に睨まれ、電車賃はパスモに入ってるじゃんとTが笑う。
 満員に近い車両をなんとか降りると西武線って平和なイメージだったのに激しいのね意外ねと疲れた様子のTだった。終電近いからな、むしろ昼間みたいに空いてたら恐いだろ。えー、あなたとならなんだって恐くないわよオ。キモいからやめろってそれ、あとアパートまでけっこう距離あるけど。まじか、まあしゃーない。そんなかんじで部屋までの道のりをだらだらしゃべりながら歩いた。学部の友だち数人は何度か招いていたのにTはいちども俺の部屋を訪れたことがなかったんだな、とそこで気づいて感慨深かった。
 途中でコンビニ寄りたがるTを叱った。
「そういえば、ことしはたぶんどっちも出す」と叱られたTの話題は突然変わった。「で、どっちもとれなかったら歌壇も出す」
 短歌研究と角川、ふたつの新人賞にどちらも出す、という話だ。どちらも受賞しなかったら秋の歌壇賞にも出すという話。
「行けるんじゃん」
「おまえも出すんだろ」
「まあ出すだけだけどな」と口を動かすと、なんだか予想を超えて切羽詰まった声が出た。
 泣くなよとTはすぐにふざけた調子を取り戻した。そう言われると泣けてきた。困らせてしまうな申し訳ないという気持ちと、どうしてやろうといういらだちが同時にじぶんのなかに立ち現れる。俺もまた酔っ払いであった。
「天才はいいよな」といらだちが言った。「きょうもトップ票おめでとうございます」
「でも俺はおまえの歌に票入れたじゃん」
「俺の歌だってわかって入れただろ」とさらにいらだちは続ける。「目の付け所にハッとさせられたとか、おまえに言われると腹が立つ。おまえが短歌で好きなのって修辞とか韻律とかじゃん。それ言わないって、俺の歌、それはだめってことだろ」
 たとえばTは俺の散文をよく褒めた。ジセダイタンカのエッセイいままでのでおまえのがいちばんよかったと誇らしげに言われたときは嬉しかった。なんでおまえの手柄みたいに言うんだよと笑った。でもかなしかった。Tは俺の短歌をけして褒めないのだ。
「俺はお前みたいになりたいのに」
 いらだちはそう言うとそれきりすっと冷めていった。Tもなにも言わなかった。間隔のおおきい街灯たちに照らされながらまたゆっくり歩いていた。こういう歌があったなと思ったけど思い出せない。きっと短歌じゃなくてポップソングだったはずだ。
「俺のこと歌にすればいいのに」と沈黙を破ったのはTだった。「ほんとうのこと書いたほうがおもしろいんだから、おまえは。変に架空の恋愛で相聞歌とかしなくてもさあ」
「そういうの、ほんとは嫌いじゃんおまえ」と俺はTの好き嫌いなんて俺の歌には関係ないだろうことを気にしてしまう。
「好きな歌人がさあ」とTは低くひそめた声で言った。内緒話でもするようだった。「いちばん歌ができたのは母が死んだときだと思うみたいに言ってて、それはなんか、そっかーそうなのかーって思って、ショックだったんだけど。悔しかったっていうか。でもそれはそれって感じで」
 苦しげに言い切ったTはだめだ頭回んないわとすべてを酒の所為にした。
「お前が死んだらそれは歌にするしかないかもな」
 しばらくの静かさのあとに俺が言った。
「八十歳くらいになったら殺してもいいよ」とTはほっとした様子だった。
「やだ。殺されるほうがいい」と言うとふたりともが笑った。おまえ、俺のことアイシテルよなあまじで。しょうがないだろ、おまえは俺を愛してないよなあこんなに愛されといて。誰のことだって愛してるよ。ほら、そういうところー。
 風呂場から声に似た音が聞こえて、なにか言ったかと声をかける。また音がする。
「シャワーで聞こえない」と風呂場に顔を向け、俺ははっきりと発音する。でもTには届かなかったようで相変わらずシャワーでききとれないぼんやりとした発声があるばかりだ。メッセージではないのかもしれない。鼻歌でも歌っているのだろう。
 ほんとうに。と思う。ほんとうにTがいつか俺を殺せばいいのに。俺を殺してTが作る歌が読んでみたかった。人を殺すなんてしておいてそれを語らずにはいられないTを見たかった。だって。だってお前は。お前は嘘ばっかりを書くけれど、なんて考えながらきょうの歌稿を睨みつけていると唐突にシャワーを止める音が聞こえたのだった。ああシャワーの音が止まるのではなくシャワーを止める音があるのだなと妙な感動を覚える。それは単に閉められた水栓の、器具のこすれる音だったのかもしれない。なんにしたってその音を境に、その温水の流れは永遠に断たれた。Tも同じ音を、もっと間近に聞いたのだろうとも思った。

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2015年発行のBL短歌誌「共有結晶 vol.3」に寄稿した短い小説。
すでにこの世にある自分の作品ではない短歌をBLとして小説にしたものです。