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さかなたち、とんと暗い

 さいきんは夢のなかでもだいぶうまく走れるようになってきたとあの子が手紙のなかで言う。長い手紙はときどき送られてくる。あたしは返事を書かない。メールで手紙届いたよとだけ送る。

 夢であの子はあたしを追う。夕まぐれ。前の冒険で手に入れた魔法の靴をはいているから飛ぶように走れる。でも追いつけない。簡単に見失ってしまう。あの子の目の前を、あたしをたくさん載せた電車が過ぎていく。黒い革のジャケットを着ているのが唯一のほうのあたしだ。あの子にはわかる。銀色の車両。めちゃくちゃに走る電車だった。あの子の長い髪がじゃんじゃんなびく。電車に映ったじぶんの顔や髪がまるでお化けみたいだとあの子は思う。お化けはひとときあの子にめいっぱい近づいて膨らんで、すぐにしぼんで遠ざかる。なんで線路を無視するんだ!とあの子は怒って叫ぶ。青いフェンスを勝手に越えて、電車は道路を走る。あの子の叫びに応えるみたいに市内放送が鳴り響く。……不明老人の……に……ついて……反響でうまくききとれない。
 夢の舞台はいつもだいたいおなじで、だからもうすっかり覚えてしまった、とあの子は書いている。空気にまじる工場のにおい。長い煙突。バラのトンネルのある公園。山のうえの学校。校舎から見た夕陽。あたしたちのふるさと。

 ダイエーの前の坂をくだってその先の踏切を渡る。電車になぎ倒された遮断機から粘ついた黄色いインクが漏れている。そして団地が見えてくる。あばれる電車はやがて細い竜になってくねくねと団地に逃げ込んだ。団地にはたくさんの鳥が飼われている。鳥くさい。鳥くさいとあの子が思ったとたん夕焼けの金色にいた町はとたんに褪せて白黒になる。古い映画だったのかもしれないとあの子は予想する。羽ばたきがうるさい。車両に映っていたあのお化けが団地の壁面にもちらちらと現れる。お化けが黒い髪を振るたび鈴みたいな音がして、それで竜に居場所が知れてしまう。こっそりとは追えない。ただ竜は竜で鳥を食べずには進めないらしく、竜の居場所だってあの子から丸わかりだ。鳥の悲鳴がきこえるほうに行けばいい。夢だから鳥が悲鳴をあげるたびそれがただの鳴き声でなく悲鳴だと知れるし、悲鳴をきけばその場所にいる竜の姿が見える。

「なんか読むときちゃんと電気つけろって言ってるじゃん」と芹ちゃんが部屋の電気を全灯にする。白い手紙がまぶしく光る。
「おかえり」とあたしは手紙をローテーブルに置く。「きょうはわりと早かったじゃん」
「ただいま。きょうは鳩とか出なかったからね」
 芹ちゃんはコートを脱いで靴下を脱いで、脱いだ靴下を洗濯機まで捨てにいき、またリビングに帰ってくる。終えたばかりのきょうの映画館の夜番について短く話して、それからあたしにやっと訊く。
「またあの子からの手紙」
「そうだよ」
「そうか。どうだって」
「夢のなかでもだいぶうまく走れるようになってきたって」
 やったじゃん、と芹ちゃんはテーブルから手紙を拾い上げる。芹ちゃんの目玉がくっくと動いて文字を追うのを見る。
「でもまた追いつけなかったのか」
「みたいだね。でも、惜しかった」

 きょう寒川さんが夢に出てきたよと言われて、はじめ、とてもおどろいた。あの子は名前を森百合と言う。二年生のときのロシア語の授業でおなじになった。ロシア語の詩の授業。朗読がすごくじょうずな女の子。ベラルーシ人の先生に言わせればロシア語はそんなにたいしたことないのだけれど、ほんとうに、それらしくうつくしく読み上げる。森さんとうまく発音できず先生はあの子のことをいつもモーリェさんと呼んでいた。モーリェ(море。ロシア語の「海」)さん。森さんと言うのも百合さん言うのも似合わない気がして、あたしはあの子のこと心のなかで海さんと呼ぶことにしていた。あたしと海さんはそれまでほとんど会話なんてしたことがない。
「きょう寒川さんが夢に出てきたよ。なんか悪の組織にさらわれてて、必死に追いかけたんだけど、でも夢のなかってうまく走れないじゃん、助けられなかった」
 あの日、授業が終わってあの子は言った。先生も他の学生たちもみんな去った狭い教室であたしはどう返事をしたらいいかわからずにいた。
「ごめんね」とあの子は謝る。「とつぜんこんなこと言って」
「いや」とあたしは応えた。「ぜんぜん。ありがとう」
 なにがありがとうなんだろう。助けようとしてくれてありがとう。夢に見てくれてありがとう。でもあたしこのとき、ああこの子と一生暮らすのかもしれない、とぼんやり思っていた。芹ちゃんがいなければ、それか芹ちゃんよりも先に出会っていれば、あたしはこの子を選んでいただろう。そう言うと芹ちゃんは拗ねるので、なんだか生活にめりはりがつくなあと楽しくて、このときのことをあたしはたびたびあたしたちの部屋で話題にのせる。
 あの子とあたしはすぐに友だちになった。なんでも話したと思う。ロシア語の先生たちのこと、おいしいかき氷屋さんのこと、むかし行った家族旅行、芹ちゃんと暮らし始めたころの愚痴、お気に入りの万年筆、ソルティードッグ、機種変更。そしてあたしたちのふるさとについてあの子と話すのが、あたし大好きだった。
 そしてあの子は大学を出てしばらく行方不明で、やっと連絡が来たと思ったらふるさとの製魚工場で働いていた。愛玩用の、死なないさかなをつくる工場。長い煙突。町にただよう工場のにおい。さかなは紙と6種類のナッツで作られる。いまではいつか死ぬようなペットのほうが何倍も人気で、製魚は斜陽産業なのだけれど、伝統的な技術だからと県からの補助金が出る。だから大きな工場はむかしと変わらず続いている。いちばん最初の手紙にそれは書かれていた。あの子が手紙で語るのはほとんどが夢の話なので、あの子のいまの生活についてあたしたちはほとんど知らない。工場も結局この最初の手紙にしか登場しなかった。小さな段ボール箱に張り付けられて届いた短い近況報告。段ボール箱のなかみはさかなたちだった。はじめてあの子がひとりで紙と6種類のナッツから完成までつくったさかなたちのうちの数匹だった。死なないけど、病気になったり老いたりで死なないだけで、紙とナッツなので、燃やしたり水に沈めたりすると動かなくなりますと説明がある。段ボールに耳をあてると、さかなたちがこつこつと内側から段ボールを叩いていた。

 あの子はさかなの夢もよく見る。人類のいない夢だ。あの子もあたしも芹ちゃんも、その夢ではみんなさかなだった。水没の町を泳ぐ群れのなかにあの子はちゃんとあたしを見分けた。あの子は嬉しい。でも落ちてきた隕石に水は弾けて、あの子とあたしは離ればなれにされてしまう。あの子の前に芹ちゃんのさかなが現れて、一緒にあたしを探そうと言う。さかなには声がなく、視線で会話をする。じっと見られると頭のなかに文字が流れるらしい。

 あたしと芹ちゃん、あの子の両親、友だちたち。あの子の夢には決まったたくさんの登場人物がいる。あたしに知らさせるのはあたしが出てくる夢だけだ。夢ではあの子はいつもあたしを追いかけている。
「いつも追いつけないっていうのは私への当てつけなのかな。菫ちゃんが私と別れて海さんのところに行ったら、やっと追いつく夢を見る仕組みになってるとか」と芹ちゃんは最初のころ夢の内容に不満げだった。
「追いつけなかった夢だけあたしに報告してるのかもしれないよ」
「だったら話してる二倍は菫ちゃんのこと夢に見てるわけじゃん」
「かもね」。応えながら二倍って数はどこから来たんだろうとにやついていると、
「そんなんちょっと好きすぎでしょう、やだなあ」と芹ちゃんは言って、海さんと夢の話するのやめてって言ったらソクバクしてるみたいになるかなあとあたしに訊ねた。
 結局あたしはソクバクされなかったし、芹ちゃんもあたしづたいにきく夢の場面を楽しんでいるようだった。夢に芹ちゃんが出てきたときはきゃっきゃと喜んでいた。
「なんだかんだ海さん、私のことも好きだよね」
「それは芹ちゃんもいっしょでしょ」
 あたしの大学での交友関係にあんまり興味を示さなかった芹ちゃんだけど、あの子のことは気にかけていた。じぶんの恋人を夢に見る他人なんて気にするしかないのもわかる。でもあの子に会いに大学までやって来たときはおどろいて笑ってしまった。えらいドラマチックだなあとおかしかったのだ。芹ちゃんもあの子とすぐに友だちになった。変な子だねえでも好きだよとある日芹ちゃんが言うので、だよね、あたしはじめて夢の話されたときこの子が運命の子だみたいに思った、とそこで告白した。芹ちゃんは拗ねた。

 べつの夢であの子はうちに帰る。階段をのぼっているとスーツの女性がうしろからすごい勢いで駆けのぼってくるから道をゆずった。でもスーツ女はあの子と同じ階の住人のようで、階段をのぼりきると再会してしまう。あの子は自分の部屋番号を知られたくなくてスーツ女がさきに部屋に入るのを待つ。やっと入れた部屋はがらんどうで、やられちゃったなとあの子は思う。カーテンのなくなった窓に目をやると、立ち並ぶビルの向こうに商店街の半透明のアーケードが見える。知っているところだと思う。ビル街と商店街のあいだには光るゲームセンターや光る観覧車が並んでいる。遊園地の水色のうさぎの着ぐるみからあの子は風船を受け取ったけど風船の引く力があんまり強くて、怖くなったので手放した。手から離れた風船はシャボン玉だったみたいにぱっと消えた。
 なんでここにいるんだろうとあの子は不思議に思う。うさぎの着ぐるみはエプロン姿のおばさんにインタビューを始めていた。おばさんは手に赤ん坊を抱いている。家が焼けてしまったから引っ越して、その家がまた焼けたから、いま、もとの家があった場所に家を建てていると言う。家の焼け跡でぺちゃんこになったトイレが揺れていた。あの子は好奇心に負けて平面的なトイレを持ち上げてみる。トイレのしたから火が出る。まだ燃えているのだ。トイレを地面に戻して、夜の海岸に向かう。海はあたたかかった。トイレが燃えているせいだとわかる。もぐるとたくさんの本が沈んでいる。全部回収したかったけど、流されるといけないので早めに帰宅した。帰宅してから、ああ本のなかのどれかがあたしだったのだということまで理解して、あの子はちょっと泣いた。合鍵で部屋に入ってきた芹ちゃんがあの子になぐさめの言葉をかける。大丈夫。沈んでいた本はぜんぶ読まれたあとだったから。本はいちど読まれたらそれだけで幸せだから。

 夢の音楽室は広い。ピアノの下で倒れている女の子がいる。女の子を救うのがあの子たちの使命だった。併設された準備室から闇の魔女が現れる。あの子の友だちが変身用のいくつかのタイプの錠剤が入った救急箱を鞄から取り出す。箱のなかには錠剤とは別にお菓子もたくさん入っているため選り分けるのがたいへんだ。袋を開けて食べかけにしているチョコやポテチの存在に気づいて、もったいないからと一気に食べようとしたら苦しかった。魔女は呆れているのかまだ攻撃してこない。広い音楽室の壁の穴は音楽室が広がったぶんだけひとつひとつが大きくて、よく見れば窓だった。窓の外の山々にはたくさんの水路がある。あたしたちの入学式は山のうえの体育館で行われていた。校長先生の長い話のあいだに体育館の床が抜けて、あたしたち生徒はみんな流されてしまう。山は上のほうからどんどん崩れて、お姫様はパラシュートで脱出したけど結局は墜落死した。ということを魔女は話す。窓の外の山は確かに崩れて、水路ではなく溶岩が流れ出しているのだ。あの子があたしを助けるために音楽室を出ようとすると、友だちたちに引き止められる。走ってみんなから離れようとすればするほど足が重くなって、ああきっと夢の外では眠ったじぶんが必死に手足をばたつかせていることだろうとあの子は考える。そのことがちょっと恥ずかしい。

 あの子とあたしと芹ちゃんははじめいっしょの電車で海沿いを走っていた。さらに海に近い線路が横にある。その、横の線路を、暴走した電車がゆく。
 ちゃんとは走らない電車もあの子の夢にはよく出てくる。
 暴走の電車には天井・壁のはがれ落ちた車両もあり、ジェットコースターみたいだとあの子は思った。車両の連結部もがたがたで、人間はどんどんこぼれ落ちていく。家畜を運ぶ電車でもあるらしく、豚や牛もどんどん海に流されていく。血の臭いがすごい。暴走電車はあたしたちの乗る電車にぶつかるのではないか、そうしたらこの電車も暴走してしまう、あの子は怯えるけれど、そうはならなかった。暴走電車はびゅんと駆け抜けていき、あたしたちの電車はちゃんと駅で止まった。こぼれたひとのうち無事なひとがこちらに運び込まれる。あたしたちはボランティアとしてよく働く。魂だけなったひとをひとの形をしたパックに詰める。パックには魂が入るごと橙色の液体が溜まった。魂も身体も両方生きてるひとにはファンタオレンジを飲ませた。
 解放されて、海辺にあるあたしたちの家まで歩く。途中、線路に転がる巨大な豚が鉄砲で撃たれ、海に落とされるのを見た。電車からこぼれ落ちたものの海に落ちることはなく、線路の障害になっていた豚だった。豚は海を漂い、遠くで島になった。なるほどこういう仕組みかとあの子は納得した。すると隣で歩いていたあたしが行くねと言って島までを泳ぎ始める。血で真っ赤な海をあたしはどんどん泳いで行く。あの子は不安ですぐにでも追いかけたかったけれど、横では芹ちゃんが冷静に立っているのできっと大丈夫なのだとじぶんに言いきかせる。
 家は血で汚れていた。ふたりはおそろいのマスクをして掃除した。人間の骨の粉が廊下にこびりついて白くなっていた。それは爪でがりがりやらないととれなかった。芹ちゃんは電車が止まって帰れなくなったあの子を泊めてやることにした。そのあたしたちの家には8つの部屋と1つの台所がある。家のすぐ横に川が流れている。川にはたくさんの鯉が泳いでいる。川はずいぶん下のほうにあるように見えた。ふたりで窓から身を乗り出して川を覗く。違う、あれは猫だとあの子は言った。鯉みたいな柄の猫が、両足をぴっとそろえて、すいすいと水の中を泳いでいるのだった。しだいに猫の群れが現れた。人間に気づくと跳ねて餌を要求する。群れはあたしたちの窓の前で立ち止まる。猫が全員で垂直に跳ぶのは不気味だった。芹ちゃんがポケットからまんじゅうを取り出し川に流す。猫の群れはまんじゅうを追って泳ぎ去る。芹ちゃんはそのまんじゅうがあたしの大好物であることを思い出して泣き始める。あの子はあたしを追いかけるべきだったと気づく。ふたりいっしょに泣くしかなかった。

「大手まんじゅうめっちゃ好きだってあの子に話したことたぶんないのに、夢でわかってるってだいぶすごくない」
 まんじゅうの夢の手紙を読み終わったあたしは興奮して芹ちゃんに報告した。
「すごいすごい」と芹ちゃんもすっかり慣れた調子で応える。「でもあの子はじめっからそうだったじゃん」
 あたしとあの子が大学の友人同士だったころ、あたしと芹ちゃんはふたりのあいだであの子のことを海さんと呼んでいた。なぜだか、それこそ夢のなかであったことを思い出すようにぼんやりとしか思い出せないのだけど、あの子といっしょにいるときはふたりともあの子を百合ちゃんと呼んでいたという気がする。手紙が届くようになって、芹ちゃんがだんだんあの子、とずっとむかしを思い出すように呼び始めて、あたしもそれにならった。芹ちゃんがあの子のこと、巣立った子どもを言う母親みたいに語るのが気に入ったのだ。あたしたちはふたりともあの子の母親になる。あの子ははじめっからそうだった。あたしたちのふるさとについて、話す前から知っているように夢に見ていた。
 あの子の手紙がほんとうはどこから届いているのかわからない。あたしたちのふるさとから、というていで届くのだけれど、あの子はじぶんの住所を書かないし、消印はさまざまの場所のものが押される。だから返事の出しようがないのだ。森百合より、とだけ書かれた手紙。もり・ゆり・より。かわいい。手紙の届いたことを連絡するあの子へのメールに、はじめの何通かは返事を書くから住所を教えてと付け足して送っていた。でもメールには返信がいちどもなない。ほんとうにあの子があたしたちのふるさとの場所にいるとして、そこがそのままあたしたちのふるさとでないことはわかる。あたしたちの町に製魚工場なんてないのだから。死なない魚だなんて、ぜんぜん、きいたことがない。でもぜんぶあの子の創作だということでもきっとない。最初に届いた段ボールを、あたしたちふたりはずっと開けないで部屋の隅に置いている。内側からさかなたちはときどきこつこつとこちら側を気にする。
「あの子元気かなあ」と段ボールを撫でながら芹ちゃんが言う。
「とりあえず睡眠時間は足りてるみたい」とそう応えるのがお決まりになっている。
 ふたりで笑う。
 死なないさかなはたぶん、ほんとうに死なない。でも燃えたり濡れたりするのは危ないらしい。あの子が詳しい飼いかたを送らなかったので、あたしたちはさかなにとっていちばん安全なのは段ボールのなかだと定めた。さかなの姿を見てみたい気もするけど、そこにいるだけでじゅうぶんだとも思う。
「もし別れることがあったらさかな、燃やそうね」と芹ちゃんは言う。
「段ボール開けて半分こする手もあるよ。複数匹いるみたいだし」
「そういうの、なんかさみしいじゃん」
 そうだね、あたしもそう思ってた。ふたりで段ボールに触れていると、さかなたちはよりあたたかい芹ちゃんのてのひらに集まるようで、あたしの手にこつこつは伝わらない。
「ねえそういえばきいたことなかったけど、生まれ変わりとか信じてる?」
 あたしは思いついて芹ちゃんに訊ねる。
「どうだろう」
「もし生まれ変わりがずっとあるなら、芹ちゃんとあの子と、交互にいっしょにいることにするからね」
「なにそれ」と芹ちゃんは笑う。

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2014年5月発行の同人誌『二角(イエロー)』に寄稿した短い小説です。