2020.3.29 不要不急の痴話喧嘩と見えない動物たち

こんな時世だけれど、恋人と遠出をすることにした。もちろん移動手段も行程も行先も練り直し、最悪の事態について話し合った。私たち明日にはもう会えないかもしれないよ。そうだね、今日が最後かもしれない。そんな言葉が引き金となって、ホテルで入手した消毒用バンドジェルをお互いの指先に塗り込んだ。世界が終わる直前の恋人たちはきっとこんな風なんだろうな。


出発前日の夜、恋人から不穏なメッセージが届いた。「裏切られることは気にしていません」「他人には期待していないので全然平気です」………。申し訳ないことに、なんのことだかさっぱり見当がつかない。いくら身に覚えがなくとも当人がそういうなら何かしたのかもしれないと思いメッセージで聞いてみるけれど「大丈夫、気にしてませんから」の一点張り。嘘だ!気にしてない人間がこんなメッセージを寄越すかよ!とは思ったものの、返信も途絶えたので直接問うしかないと諦め、その日は眠ることにした。否、2時間くらい悶々として眠れなかった。

翌日、待ち合わせた駅のロータリーには見たことのない品種の桜が咲いていた。写真に撮って調べようと夢中になっている間に彼がやってくる。「そんなところで撮ってたら風邪ひくよ。傘の中に入りなさい」。ふん。昨日のあの一方的なメッセージはなんなのよ。裏切りだとか私に期待しているとかしていないとかどういうこと?わざわざあんな風に開示するということは、それなりの覚悟を持ってやられたんですよね?寝不足の腹いせに言いたいことを全部ぶつけて空気を台無しにしてみようか迷ったが、この澄ました男があれだけのことをしておいて簡単に口を割らないことはわかっていた。今晩酒を飲んだら絶対に問い詰めてやるからな。



その夜、旅先の居酒屋で痴話喧嘩をして号泣する女がそこにはいた。私だ。すれ違いの原因はたしかに私にあって、前日の夜に旅行の最終打合せをする約束を何週間も前にしていたのにすっぽかしたらしい。全く失念していた。「来ないなと思ったならLINEで確認してみるとかあるじゃん」「ダメだよ、そしたら離島ちゃんはゴメン忘れてた!くらいのノリで返してくるでしょう。約束を忘れられてることには気づいたけど、1時間以上待ってた私の悲しみを伝えるにはあの不穏なメッセージしかなかったんだよ。伝わったでしょう?」地酒を煽りながらにこにこ笑う男とめそめそ泣く女、まさに地獄のカップルだ…。不要不急の痴話喧嘩はしょうもない結末をきちんと迎えて、私たちはホテルへと戻った。

          ***

旅先でもどこでも、隣を歩く彼は「あ、キツツキが鳴いてる」「見て、ツバメの巣があるよ」「あの犬ってオオカミみたいだよねぇ。耳がピンと立ってる」と足を止めて動物を観察することが多い。その都度一緒になって自分も立ち止まるけれど、私にとってそれらの動物たちは彼が気がつかなかったらいないものというか、たとえ視界に入っても動物としては認識できない風景の一部なんだろうなと思う。キツツキの鳴き声なんて知らなかったし、ツバメも5月頃にならないといないものだと勝手に思っていた。もしかして、彼の目や耳を通して見る世界には私がまったく見えない動物たちがたくさん映っていて、とても豊かなんじゃないだろうか、そんな想像をする。

私たちは、それぞれの感覚器官を通して見えない動物を見たり聞こえない声を聞いたり、それぞれの心を通して怒ったり泣いたりしょうもない痴話喧嘩をしたり、別々の肉体と精神を有する恋人として生きている。今日も明日も明後日もそうやって、別々の人間として生きていく。いつか肉体も精神も溶けて混ざりあったら、あなたにしか見えない動物たちも見えるようになるのだろうか。一緒にいられない夜はそんな日がくることを夢見て過ごそう。今夜はゆっくりおやすみなさい。

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