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「無人島のふたり」120日以上生きなくちゃ日記/山本文緒を読んで。

 どうしても読みたいと思った。以前ならば時間を置かなくては、とても無理。


 母親を見送って40年が過ぎ、父親を見送り14年が経った。
 親が先に亡くなるのは命のバトンのようなもので、ごく当たり前だから、自分(子供)の立場からすれば、とても悲しいけど世の摂理と(今は)思えるが、親が子に先立たれる気持ちは、如何程のものだろう。例え血を分けあった葛藤があったとしても。わたしの祖母も(母方)97歳で亡くなるまで、娘を若くして亡くした出来事が、その人生に長い影を落とした。


 恋とか愛とか見えない曖昧なものを手繰り寄せて、種を蒔き花を育てるような時間をかけ深く根付かせた同志みたいな信頼する関係性のパートナーを残して、この世を去らなくてはならない理不尽な思いは、きっと割り切れない。自分も取り乱してしまうのが想像出来る。そういうかけがえのない相手に(夫)わたしも出逢ってしまったから。
 また死後、残される側が絶望から年月をかけて立ち直る姿を見届けられない切なさを思う。


 世間から見れば順調に作家になって、紆余曲折しながらも書き続けて、そんな贅沢をしなければ90歳くらいまで余裕で暮らせるお金を貯めたのに、さあこれからの矢先に、突然120日しか余命がないと宣告された現実味が感じられない状況にケリを付けられるだろうか。これもケリなど付く訳がない。

 そんな「どうして?」がたくさん書き記されてあった。

 開いて一気に読んで、またゆっくり繰り返して読んだ。咀嚼するように文章を読み進めると、明るいユーモアでふざけているような言葉の中に強い悲しみや恐怖が含まれてることに気づいて、何度も本を閉じた。
 そして、山本文緒という人は、人徳があって繊細で穏やかで優しくて人間味に溢れた人物であったと鮮やかに結び付いたと同時に、「闘病日記は絶対に読まない」と決めていたのに、それを破ったことを正直悔やんだりもした。

 なんで、もうこの世にいないんだろう。

 無人島のふたりには、時々、答えが見つかることがあった。


"人が私のために泣いてくれると、その人の中に私が生きている気がしてじーんとする。"
本文より



 年を重ねてつくづく思う。明日の朝も目覚められたら、其れもまた奇跡なのだと。
現在は"人生100年時代の到来"なのだから、自分にも当然の未来があるし時間も残されている。どうしてそんな風にいつの間にか思い込んでいたのだろう。生きている理由もないけど死ぬような理由もないから、ただ寿命まで生きる。それがどんなに傲慢な考えなのかを突きつけられたように感じた。
 若い頃はもっと未熟で生意気だったけど、それなりに悩みも抱えていた。「プラナリア」を初めて読んだ時、それはとても衝撃的だった。個人的に当時の仕事の環境も精神力も厳しい時期だったから、主人公の無気力で投げやりながらも、どこか強気な態度に少し共感するような、暗く重い中にある救いようのない世界。読んだ誰もがその描写がリアルに浮かび、同時に人間の深い闇を知っていなければ書けない。凄いものを読んでしまった。とにかく受けた衝撃は忘れられない。
 今、生きているのはその一部を離さなかったからだとも思う。作家という仕事は文章を物語りに乗せるだけじゃなく、その手にした読み手の人生まで変える力が在る。


"例えばもう仕事は最小限にして語学をやったり体を鍛えたり、お金じゃなくて時間のほうを使えばよかったのかもしれない。"
本文より
"でもどんな人でも自分のデッドエンドというのは分からないものだ。この期に及んでまだ私はデッドエンドを摑めていなくて、安くなっていたパジャマを買ったりしている。"
本文より


 このコロナ禍にわたしも、時間のほうを使う生き方に変えた。2020年の秋に向き合う事を選び学ぶと決めた。そして現在、具体的に動けば具体的な結果に辿り着く事を実感している。

 山本文緒さんが「もう小説を書く為に本を読まなくてもいいんだ」と解放された反面、人生の残り時間が僅かだと知ってからも、本を手離さずに読書を楽しんでいたのは紛れもなく、もっと生きたかったし、書きたかったからだと繰り返し読み直して思った。また一部として覚えておきます。
これからも、きっと何度も読み返します。


 最後に一言。
彼方では、どうか生前のいろんな「ごめんなさい」ではなくて沢山の「ありがとう」に包まれていますように☺︎



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