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八代市で令和の河童退治があったってよ(前編)

最近ひょんな事からご縁をいただき、熊本県八代市の方々と交流する事が増え、このnoteは先日八代市にある『SUNABACO八代』さんにお邪魔した事をきっかけに調べたことのレポートになります。

私は仕事でもプライベートでも新しい街に行った時には時間が許す限り街を徒歩で散策してみることにしています。
街を散策していると色々なことが見えてくると同時にこの街が自分が好きな街かそうではない街か肌感覚でわかります。
そして長い付き合いになる街は直感的にわかるものです。

そして八代市は私が大好きな街になりました。

これは以前よりプログラミング教室を始めとした様々な事業を通じて八代市に溶け込んでおられる『SUNABACO八代』さんがこれまで築いてこられた信用をお借りした形で私が八代市に触れることで街の皆さんに接していただけたのが大きいと感じでおり代表のなかまこさん(@nakamakoko)と同じく代表のカリンさん(@CarinWaka21)には大変感謝をしております。

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SUNABACO八代さんでのイベントに参加した後、八代の街を散策していました。
散策をしていると大きな川に行き当たりました。
かの有名な球磨川の支流 前川です。

そこにはいきなり河童がいました。それも超巨大な。

事前情報が全くない中での訪問でしたので、この巨大河童が何を表しているのかわからず困惑したのを覚えています。

観光的なオブジェ?
それともテーマパーク的な場所の宣伝のためのオブジェ?

その近くに碑がありましたので読んでみました。
すり減ってよく読めないところが多かったのですが、後日資料で全文がわかりました

要約すると下記のような意味でした
【河童渡来の碑】
仁徳天皇時代(313〜399年)に中国から九千匹の河童が揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸したとあります。

もちろん妖怪である河童の存在は昔から知っていましたが、まさかこの八代の地が河童の日本上陸の地だとは初耳です。
しかも中国から渡ってきたという話はさらに初耳です。

さらに九千匹の河童!がまさにここから上陸してきたとか、想像したらなんだか猛烈に興味が湧いてきました。
だって考えてみてください、九千匹の河童が続々と海から上がってくるんですよ。
※おそらく9000という数字は【たくさん】を意味して使われてると考えてます。

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八代市に来てから街中の至る所でやたらとくまモンを見ましたが、八代市よ、こんな面白い観光コンテンツをほっといてくまモンかよ!!!

後で調べると八代の色々なところで河童のキャラクターはいるようですが、八代市のゆるキャラも河童じゃなかったです。

そこはぜひとも河童を推していただきたい。

後で出てきますが、八代を追い出された河童が流れ着いた福岡県久留米市はしっかり河童をゆるキャラにしとるやん・・

地元の人に聞いてみても、特に若い世代では『あぁ、昔からあそこに河童あるね』くらいの認識で市民にもあまり馴染みがなさそうでした。

そんなこんなで私にだけ深く刺さった河童ネタが気になり八代を離れてからも、時間を見つけては河童を調べてみました。

まさか人生の中でこんなに河童を調べる日が来るとは想像もつかず、今ではスマホで【か】を入力すると予測変換で【河童】が1番最初になってしまいました。

スマホを河童仕様にするという犠牲を払ってしまいましたが、おかげで情報は集まりました。

その結果、どうやら河童というのは西日本と東日本で大きくイメージが異なるようです。特に名前に関しては関東以北で呼ばれている【河童】という名称が広く全国に知られるようになって統一化が進んだようですが、元々は地方ごとに多くの名前がある妖怪で、ガラッパ、エンコウ、ヒョウスベ、カワタロウ、変わったところでは沖縄のキジムナーも河童のジャンルに入れられているようです(下記、資料参照)

三次もののけミュージアムでいただいた資料

上記イラストを見ていただけば分かるように、日本全国では多種多様な呼び方をされており果たしてこれらが同じ妖怪を指しているのでしょうか。

「妖怪学」の分野では一定の結論が出ています。

それは、全国各地で色々な名前を持つ河童は全て河童とは無縁の全く別個の妖怪だということ。

実際に私が住む中国地方では、河童の事を猿猴(エンコウ)と呼びその姿は名前が示すように猿に似ているものとして描かれています。

では、なぜ色々な妖怪をまとめて『河童』としたのでしょうか。

これは唯一【水辺に住む妖怪】という共通点があったからだと考えます。

元々全国各地には「川に住んでいるよくわからない妖怪」の伝承があり、それらが次第にまとめられ一つの河童像が出来上がったのだと考えられます。

特に江戸時代、一種の妖怪ブームが起きた際に江戸近辺で浮世絵などから派生したさまざまなグッズが広がっていき、その際江戸で描かれた江戸産の河童のイラストが全国的に広がり、その過程で各地方において【水辺に住むよくわからない妖怪】の話が『地元に伝わるこの話も河童のことだったのか』という認識が急速に広まったのではないでしょうか。

つまり河童の見た目、現在の姿は「江戸型」と言って良いでしょう。

多く伝えられているのは、子供のような体格で、全身が緑色、背中に甲羅を背負っており、頭には丸い皿があります。
そして、この江戸型の河童の姿には悲しい由来も見え隠れしていますが、それはここでは割愛したいと思います。

きゅうりが好きというところも「江戸型」の特徴です。
その理由は、瑞々しいきゅうりが水神信仰の御供物に欠かせなかったからという理由と、もう一つきゅうりは江戸時代まで今のように美味しい野菜ではなく、とても不味い野菜だったそうで、その不味い野菜のきゅうりを好む変わった生き物というイメージ付けもあったようです。

そして私の考えでは「江戸型のダメ押し」として現代日本において河童のイメージを形成したのは、遠野物語・水木しげるの漫画・黄桜酒造のCM・西遊記の沙悟浄の4つであると思っています。

では、実際河童の正体はなんだったのでしょうか。
現在伝えられている各種起源説を整理したいと思います。

【河童は零落(れいらく)した水神説】
柳田国男をはじめとする多くの民俗学者が、河童の正体は水神が零落したものであると唱えています。かつて水への恐れから水神に対する信仰は厚かったのですが、技術が発達するなかで治水事業も進み、水への恐怖も薄れてそれと同時に信仰が薄らぐ中で水神は河童へと零落したというものです。

【河童見間違い説】

水辺にいた動物を昔の人が河童と見間違えたという説。
古くは室町時代中期に編纂された国語辞典『下学集』に「獺(かわうそ)老いて河童(カワロウ)に成る」という記述があります。カワウソは尾を支えに立ち上がることができ、平らな頭部のため皿を頭に乗せているようにも見えるので河童に間違えられたのだろうというものです。
川辺に立っていたら、遠くで小さな子供くらいの動物がバシャという音ともに川に飛び込む姿が河童に見えたのかもしれません。

【河童人形説】

ある有名な大工が、請け負っていた工事を頼まれていたのだが、完成間近になっても工事が終わらない。そこで大工は人形を作り、その人形に命を吹き込んだ。こうして無事に工事は完成した。ところが工事完成後、人形の処分に困りそのまま川に捨ててしまった。その人形たちがやがて野生化して河童になった。
※人形説は主に東日本で言われる説で【飛騨の匠】が造ったと言われますが、これとほぼ同じ内容の伝承が熊本県天草地方にもあるのは興味深い現象

【河童渡来人説】※今回の八代市の河童伝説がこれになります。
元々の伝承では中国に住んでいた河童の一部が、熊本県八代市に大挙上陸してきて、その河童達が全国に散らばっていったというものですが、わたしは以下のように考えています。

古代、中国から海を渡ってやってきた人々(河童)がいた。その人々は当時の日本人より遥かに進んだ文化と技術を持っていた為、その人々が持っていた知識と技術は妖怪が使う妖術とみえたことでしょう。
また移住者ですから、先住の日本人と何かと摩擦が起こったはずです。
そのことを揶揄して【河童の悪戯】と表現しているのかもしれません。

前述の【河童渡来の碑】にもいたずらをして捕らえられた河童が「あの石がすり減ってなくなるまでは悪さはしないから、年に一度川祭りをしてほしい」と頼んだという「ガラッパ石」が使われているそうです。
この川祭りが今も続く「オレオレデーライタ祭り」であり、この言葉がこの九千坊上陸伝説=渡来人説が根強く唱えられる原因にもなっています。「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、「呉の国からたくさん来られた」という意味だと言う人もいるからです。

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河童のイメージが西日本と東日本で大きく違うことは先ほど書きましたが、西日本、特に熊本県での河童のイメージは【河童渡来人】の伝承と、【水に関する畏れ(おそれ)】が合わさって出来たものと考えています。

河童全体を扱うととんでもない文字数になります。今回は特に八代市の河童に焦点を当ててレポートしていますので、このnoteでは【河童渡来人説】と【水に関する畏れ】を中心に書いていきたいと思います。

まず【河童渡来人】を詳しく知るために八代市に伝わる伝承を詳しく知っていきましょう。

中国からきた河童
広く親しまれている河童ですが、これが中国から八代にやってきて、やがて全国に広がったのだという話をご存知でしょうか。延亨3年(1746年)、江戸の菊岡沾凉という人が記した「本朝俗諺志」という書物にこのような話が出ています。

「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになった。その後、一族は繁栄してその数九千匹になったので、その頭領を九千坊と呼ぶようになった。
その河童どものいたずらが激しく人々を困らせた。
加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。これには河童も降参して、久留米の有馬公に許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった。

この話は後に「河童曼荼羅」など河童を題材にした小説で知られる火野葦平によって全国に広められました。
引用:熊本県総合博物館ネットワークより

古事記や日本書紀などでも海外からやってきた人々の記述がある場合もありますが、その際の表現は海の向こうからやってきたという表現が多いのに対し、八代市の場合は完全に中国からやってきたことが書かれているという非常に珍しいものです。

これは八代が当時から中国を初め海外の国と交易をしているという示唆になります

ちなみに火野葦平氏は、昭和天皇に八代が河童上陸の地だと報告しているので、八代市に河童が初めてきた地である事は正式に認められているように思います。
しかし、以下の文章を見ると火野葦平氏は河童のことを人間ではなく、あくまで妖怪として捉えていることがわかります。

河童が最初に日本に渡ってきたのは八代であることは、今や全国的に認められている。
というのは昭和天皇ご健在の頃、つまり昭和三十三年四月一日宮中で、天皇ご出席の上開かれた放談会で述べた火野葦平氏の話で明らかである。

 火野「河童は、中近東ペルシャ方面、今のヨルダン方面から大移動して来たのではないかと言えるわけです。ドイツにもワッセル、ロイテ、ニクゼンというカッパによく似た動物がいたと言えますから、もっと西から来たかも知れません。ともかくカッパの大群が九千坊という大将に率いられて、インドのヒマラヤ山の南麓、デカン高原の北、その間にあるタクラマカンという砂漠を東に移動して、蒙古を通り、中国を抜け、朝鮮から海に出た。

 そして九州・八代の徳の淵というところから上陸したと言われていまして、今でも徳の淵といわれた中島町に『河童渡来の碑』があります。

 その昔、加藤清正が可愛がっていた小姓がある日、川に溺れて死んだ。それはカッパが引いたのではなかったろうが、清正はてっきり河童の仕業に相違ないと大いに怒ってカッパ退治をやった。九千坊はじめカッパは住むことが出来ない。這々の態でそこを逃げて筑後川をはじめ九州の河川に移動した。現在筑後川が頭目九千坊残党カッパの集散地になっている」
引用:九州旅ネット

いや、中国から海を渡ってきたってだけでも驚いているのに、中近東ペルシャって!!なんやねん!河童お前何者やねん!!!!

しかも昭和天皇のお耳にも入っているって八代の河童、おめえすげえな!!

さて、ここまで八代市での河童との出会いと河童全体の話をするだけでかなりの文字数になりましたので、一旦これを前編とさせていただき後編は私が調べたことを元にしたいささか乱暴な持論を展開したいと思います!

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