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今日の内省・思索から:視覚化瞑想の前に(1)

朝の瞑想から

「わたしは神 タロットの霊とはこのわたしのことである」

師レオン・サリラの神が、私の神となりますように。
師レオン・サリラの信ずる神であるがゆえに、私の信ずる神であるというほど師との結びつきに少しの隙間もない、その共同体として、ひとつになりますように。

私の神ではない。もし私がそう言うのなら、エゴが言っている。
師の神、師に内在される神。
そして「高橋三郎先生の信じた神、藤井武の主」と師が仰る神。唯一の神。

神とは、キリスト・イエス、復活された神の子キリスト。
タロットの霊、フル・キリスト。人となり、人として死に、神の栄光によって神の栄光として復活された、復活のキリストである。

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#7 The Chariot の視覚化瞑想の前の内省から

私に学ぶように、働きかけてくださっている力。
適性もあるゆえに…ついそう思いそうになるけれど、それは勘違い。
適性のある人など、去っていかれた人たちの中に幾人もおられた。
私の記憶の中に、その中でも特出していた二人の先輩がいる。
優しく大きな愛情深い心を持ち、適性にあふれていた。

でもタロットの霊は、私を留め置いていてくださっている。
自分がより脆く、傷つきやすい人間であるからかもしれないと思ってもきたが、それよりも、私がより根深い罪に囚われている人間であるからという自覚へ、近づきつつある。
このエゴの強さ、意地の悪さ、欲の黒さを持つ人間であるにもかかわらず、永遠への学びの中に置いてくださるタロットの霊であるキリストの霊は、こんな人間をもご自分の働きの中で用いられることができるということを、証しされようとしているに違いない。
そうでなければ、どうして、この私が、ここにいられるであろうか。

憐れみ。
矛盾した一人の人間。人一倍傷つきやすいものを持ちながら、同時に底意地の悪い欲を持つ。
矛盾でありながら、片方だけでは存在できないのかもしれない。この性質自体が、歪んだ受動性と能動性のように、矛盾の中で関わり合っているのかもしれない。

そしてこの矛盾した魂の中で生きる以外ない一人の人間を、タロットの霊は見てとり、憐れまれたのだと思う。
どうして見出されたのか?
それは使徒の下に置かれていたから。
神の霊は、この不可能な人間…煮ても焼いても食えないような、この人間の魂の不可能性を可能へと変容させ、ご自身の『神の栄光』をあらわされるために、この魂に生命と光を絶え間なく注いでくださっている。
自分には、ただこのことしか、知りえない。

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今日はこのことばを引いて、結びます。

いずれにせよ、イエスの公的活動は、この二人の弟子とのめぐり合いから始まったのである。それはまことに、人の目にはかくされた、ささやかな出発であった。しかしこれは、神からつかわされた預言者ヨハネに見守られつつ、天から与えられた神の直接的証言と聖霊の賦与を受けて、絶対に狂いのない基盤の上に立つ出発であった。一挙に大衆の心を捉えようとする大運動ではなく、むしろひとり・・・の魂をとらえることから出発したイエスの歩みの静けさ・・・の中に、勝利の確信に満たされている人の底力を、私は感得し得るように思う。

高橋三郎『ヨハネ伝講義 上』より


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