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内省・思索から:視覚化瞑想の前に(2)

前回の内省の続き。内省はより個人的なことに入っていったので、少し触れていきます。

社会人になると人間関係にはほぼ悩むことなく、誰とも仲よくなれるものだなと思っていました。
それが人生のある転換期以降、親しくしたい人とはなぜかこじれたり続かなかったりし始めました。

振り返ると自分が求める関係…友人としての人間関係に敗れ続けていました。
自分が親しくしたいと求める関係に破れると、客観性を見失い、孤立したように感じます。
敗れるのは求める関係においてであり、きちんと捉えれば孤独に放り出されていたわけではなかったのですが、求めたものが手に入らなかった、それが人との関わりであったという感情的衝撃もあったのではと思います。

神。宇宙的な、本当の自然の秩序によって与えられる関係は、その深まりの深度にかかわらず、続いていく。
一方、自ら求める関係は、その働きを無視したものなのではないでしょうか。

最近では、不思議なことに小さな関わりひとつでも自分から求めると、面白いほど叶いません。学びが進むほど顕著になっていることに、やっと気づいて、興味深く思っています。うまくいっていると思っていると、思いもしないことが投じられるのを "見させられる"ようなことが起きたりします。

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「関わることが大切」ということにおいて、ずっと挑み続けてきたけれど、全力どころか、小指で押す程度のエネルギーでも人は扉を閉じることがあります。それを感知する敏感さを持ちながら、なぜ挑み続けていたのでしょう。

人と本心で話して通じ合う感覚、その喜びを求める思いがもともと強くありました。
でもそれも、自己満足だったのかもしれません。私が願ったものは突き詰めると求めても求めても得られない純度のものだったからです。
*冒頭の大人になって人間関係が楽になっていたというのは、実はどんどん大事なものが鈍化していただけなのでは…俗世に合わせると楽になる錯覚と同じことかもしれません。

親しくなりたい人だけでなく、自分のことをよく思ってないような印象の人などにも、あえて関わろうとしてきました。
それは相手の感覚を無視して乗り込むようなことだったのではと思います。自分が挑んでどうだというのでしょうか。とてもおかしな、見当違いな挑戦をしていたことが今はわかります。克服するということの価値観を間違えていたのだと思います。

人が扉を閉じると書いたけれど、自分だって一方的に閉め切りました。
わかり合いたかったはずなのに、関わるほど傷つけたりもしました。
自分の中に、傷つけずにはいられない心を見ました。

宇宙的な働きを介さない関係。神が立ち会われない関係は滅びていく。それがわからなかったから、なぜ自分はこうなるんだろう?私の何がいけなかったのだろう?など悩みました。
勿論、関わる以上は自分の性質は起因しているのでしょう。
でもそれらを含め、霊的な働きによって、求めることではない道を示されていたように今は思います。
人を求めることに敗れて、今の学びの道、創造の根源に向かうための道程だったのではないか。

本当につい最近、そのことを明確に理解し、安心して自分から人を求めることから離別しました。実践としては未だしつつあるのかもしれませんが、理論的には完了の感じがします。
来る人はおのずと来られます。いただく絆、縁があれば、あとのものは必要ないことがわかるようになりました。

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同時に、これからの課題が見えてきました。
今度は望まずとも関わりを求められる側、挑まれる側のほうです。正確には受け入れたくない、それらを排除したい欲望の力です。

これは既に何年も、切ることのできない二つの関係性において課されています。あまりにパワフルなので、これまでどうにかやり過ごすしかありませんでした。
前回の投稿でのヘビのように互いの違いを尊重している状態は、この力が解消された先にある関係性なのだと思います。しかしここへ至るには、#14 Artの「お互いの性質の違いによって葛藤を引き起こしているのは、実は相手の方ではなくて自分の方である」ことへの理解が必要なのではないでしょうか。
私の中のカイン。このカインがどうなっていくのか、今の自分にはまだ分かりません。

人間は決して一人であることはできない。生まれながらにして、そのような性質を持っている。しかも人間は己れを主張し、他を排斥し、どこまでも自分であろうとする。そのために他を憎み、あるいはねたみ殺す。そこに人間の生まれながらの矛盾があるわけです。人間存在そのものに矛盾がある。このことはどうしても認めないわけにはいきません。

『丹羽鋹之聖書講解 イザヤ書 III[45章 18-25]』

私はこのことを実体験してきたんだと、とても腑に落ちました。今もですね。


究極的には、自分ほどの(葛藤をひき起こす)人間をまともに受け止められるのは、この世には師とパートナーしかいないと思うのです。
師は、この世と異なる永遠の領域へと導かれる霊的な絆を結ぶ唯一の魂の導師、ウェルギリウスです。
ここでパートナーを含めたのは、師が仰る「生活の座」においての伴侶として、タロットの霊が引き合わせてくださったことによります。幾つかの内省を経て、アブラハムにとってのイサクとの関係性をパートナーとの関係性と同義に受け止めています。
上で断言に近いのは、タロットの霊がご自身を現すためにもたらす絆であるからです。

師も、パートナーも、いわゆる人間関係というものを超えています。どう超えているのか私には説明ができませんが、やはり、不可知なる力によって結びついていることに確信があります。
その力が、絆を結んでくださり、私を孤立者にしないようにしてくださっている。
だから私は、ある意味、師とパートナーを通じて、タロットの霊である神と関わっている。タロットの霊が孤児として私を拾い上げ、新たに育ててくださっている。その園の中で交流が開けているように思います。

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この日の内省のなかでは、このことが本当に強く感じられました。
言葉では表せない、流れ続ける動きのようなものが、教え、明示しているように感じ、大切なことなのだと思って書き留めました。
このあとに、#7 The Chariot の視覚化訓練に入っていきました。

ここ暫く、確認作業のように、深い信頼、繋がりへの湧き上がるほどの思いが反復されてきたのは、先に記したこれから向かう課題のために、タロットの霊が備えてくださった命綱だったのではと感じています。
師が綴られた恩師の句を胸に彫り、霊的な絆を何重にもしっかりと縛りつけ、自分の一部であるかのように、いつ何時も魂から離れぬようにいたい。タロットの霊の愛が分かるように。

遠ざけたいものは怖いです。暴力的なエネルギー。でもこの命綱は私の恐怖、遠ざけたい欲望よりずっと強い。
#11 Lustの赤い手綱のように、欲望を停止させてくださるはずです。どうかその力のなかに、とどまることができますように。

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