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「何のために生きるのか」があれば

先日、本を読んでいると、まるでそれまで私の中で眠っていた見えない羽根がじつはあり、その羽根が目覚めてきたかのように、シワシワの羽根をひそかに開いていくように感じた。
それはなんとも魂の痛みを引き起こすような感覚もあるのだけれど、それでいて魂は自分では行けなかった場所へ向かっていくことの深い喜びにも似たものを、どこかで感じ取っているようだった。

著者は、この地ではない世界の光を間違いなく知っている。それを知る人の言葉からは、文字を伝って言葉を超えたものが滲み出ている。それが人間の内側にまでしみ込んでくるとき、このような感覚が引き起こされるのだと思う。

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同じ日に私は、本の中ではなく実際の生活の中で、魂の痛みを感じる体験をした。
その渦中にいては、震度4強くらいの揺れの中にいるようで、ぐらぐらして、魂が痛くて痛くて、辛くて、タロットの霊にしがみつくしかなく、しがみついていても荒ぶる心が揺れ続けていた。瞑想後少し落ち着いてから振り返ると、ひさしぶりに強烈な奇襲と感じた。離間させる力なのだと思う。

翌日、#7 The Chariot の視覚化訓練でフールに会ったときの私は、指輪物語のスメアゴル(Golumn)の姿をしていた。
本当に、今の自分を言い表すのにこれよりふさわしい姿はないと思った。裸で、しかも被毛すらない、何にも覆われて(被われて)いない。心も魂も丸出しで、醜悪で脆い。感情のつまみもなくなって、ボリュームが制御できない。
これらは内側で起こっているので、実際にはそれほどあらわには出てこないけれど、それでもやはり外に表れてしまうこともある。

まざまざと見させられるのだ。からくり、獣性が、自分だけでなく他者も見られるようになって、透け透けのような感覚なのだ。今までフィルターを通して感知していたものが、ダイレクトになる。
それはどぎつい。とてもどぎつい世界。

けれども、このスメアゴルのようなつるつるの醜い私だからこその恩恵がひとつだけある。それは魂の喜びが、そのまま感じられることだ。
我性の暴力的なエネルギーも直接感知させられるだけでなく、喜びもまた直接的に感知させてもらえる。

矯正ベルトが外れたようなことなのだと受け取っている。だから自分で自分を抑えつけることができない。ので、頼らないとまんま丸ごと我性が突き出てしまう。
初めはなんて大変なんだと思ったけれど、何のために生きているのか、そしてなんのために生きていくのかという柱に触れつづけていれば、なんとかなると今は思っている。

愛によって。
愛の炎が風に乗って、無念も不信も、悔しさも吹き飛ばし、無化させる。
人をあやつり、離間させようとする力を追い散らし、我々を守り抜かれる。
私はその風の中にしがみついていればいい。
魂の痛みは、私が受け持つべき杯なのかもしれないと思った。この痛みに与れるよう祈った。

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精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相剋・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が相剋し相殺しないで、互譲し、交驩こうかんし、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。言わば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。

鈴木大拙『日本的霊性』より

外出の待ち時間に、読んでいたのと間違えて持ってきていました。これをきっかけに再開できました(上でふれた本は、また別の本です)。

「それでは人間はどうしても生きて行くわけにいかない」という言葉にこもる力強い確信が、勇気を与えてくれます。
私たちの向かおうとしている創造の時代とは、このような創造的交わりがなされるところのものではないかと思いました。#14 Art が浮かびました。

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