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告白と思索。 メモより

私が何にも分からなくても、師が分かっておられるから、大丈夫なんだ。
師の精神、心に身ごと重ねてぴったりとついていく。

私が何にも知らなくても、師が分かっておられるから、大丈夫なんだ。
師の生の探求、師の炎のなかにいれば。

私はなんにも分からない。
私には何ひとつない。つながっているものが。
ただ、師とだけつながっているから。その糸が私を生かす。
その糸によって、私はこの道を歩き、ついてゆける。

だから私は師にかぶれて、
師の探求されるものにかぶれながら、ぶざまについていきながら
笑っている。うれしくて笑っている。

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神に従う、主人アブラハムに従う、しもべは主人を通して神に従うしもべであり、主人に従うことは神に従うことであり、神に従うことは、主人に従うことでした。

丹羽鋹之『信仰を遺産として - アブラハムの信仰 - 』より

タロットの霊に従う。師レオン・サリラに従う。
我は師を通してタロットの霊に従うしもべであり、師に従うことは、タロットの霊に従うことであり、タロットの霊に従うことは、師に従うこと。

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絶対的結婚。その契約は師を抜きにしてはありえない。
だから三角形。
それが、放哉のあの[1人]の状態とつながるのだろうか。
ひとつになるほどに重なり、一体化している。神と世界と放哉が。

私で言うと、タロットの霊が、師を介してやってくる。師と一体化するほど、アブラハムとそのしもべのように、従い生きるなかで、神がやってくる。

#8 Adjustment の視覚化瞑想の中で両側に天秤が配された際、そういうことが浮かんでいた。
これらのことは"思っていること"。これが現実生活で顕れてくれば本物。

剣を突き立てている。師の精神がある。天秤の柱となる自分。
その私には支える力がない。天からの支え、ハートの烏帽子と、テレーマの剣を突き立てる(師の探求を土台として、現実に、出家した自分の生き様を表現していく)ことで、間にいる私はどんなに脆かろうと倒れずに立っていることができる。

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生ける神、向こうから絶えず呼びかけ引き出し、働きかけるところの神を信じる信仰は、どうなっても絶えることがありません。こちらがだめになればなるほど、向こう様の働きがいよいよ加わってくる、これが生ける神との関係です。だからどうなっても、立ち返り、また立ち返ってそれを益と変えられ、信仰から信仰へと進むのです。
アブラハムの百七十五年の歩みは、そういう信仰から信仰への歩みでした。自分をただ立派に築き上げていく、そんな歩みではありません。むしろ自分はいよいよ崩れていって、神の働きがそこにいよいよ現われていく、そのような歩み、ただ神から受けていく歩みでした。

丹羽鋹之『信仰を遺産として - アブラハムの信仰 - 』より

上記の引用した箇所について捉えていく際に重要なことがある。
以下、師の言葉より引かせていただく。

18 神を見た者は、いまだかつて一人もいない。ただ、いつも父上の胸に寄り添っておられる独り子のキリストだけが、わたし達に神を示してくださったのである

 このヨハネ伝の発言に信仰的な信憑性があるとすれば、私はキリスト教の立場からではなく、日々体験している生の実際的な現実の中から、キリスト教理論を排して発見されて行かなければならないと考える。なぜなら、それ以外の方法では、一般の人間である私たちには説得性がないからである。

 私たちにとって重要なことは、人がクリスチャンになることでも、キリスト教徒が増えることでもない。そんなことは、個人的な自己満足である。私の問題は、私たち人間が内面的にも外面的にも、葛藤や混乱、恐怖を実際的に人生から無くすることである。それ以外のことには、私は興味を持っていない。

高橋三郎著『ヨハネ伝講義』を読む(8) (『太陽の船に乗る』 より)

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