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思索:視覚化瞑想訓練の記録より

#15 The Devil の視覚化から:

パーンに挨拶をすると、パーンの前にあるカデューシャスの杖がクルクルと回転し始め、「つかまりなさい」と促す。
杖につかまった途端、翼を広げて天空へぐんぐん上昇し飛んでいく。
あっという間に飛んできた先は、宇宙だった。
「ここまで来るんですよ」杖の前にメイガスが宙に浮いていた。

夜空の星がたくさんあった。#17 The Starを示しているのでは。しかし宇宙と感じたということは、さらに #21 The Universe までということか。
気が遠くなる。今まだ #15か、という思いも湧いてくる。
でもここを示されたのは、そのことを知る必要があるからだ。
ここまで来る。ここまできて初めて、その先へ、行く。
到達のない世界、どこまでもいく。宇宙へ抜けて、そこから始まる。
だからそこからは「創造」しかないのだ。

今気づいたけれど、ここまで "行く" のではなく "来る" と言われた。
自力でたどり着くのではないことが、この言葉でも表されている。
連れて行ってくれる。私はそこについていけばいいだけなのだと思った。

杖につかまったまま、パーンの前に降りてきた。
「その杖にいつもつかまっていること。離れないこと」

それは師の探求の精神といつも共にいることを示されていると受け取った。

パーンから、角に触れなさいと促された。
両手でパーンの2本の角に触れると、歴史が映った。戦争や、人類の歴史の場面。残酷な場面もたくさんあった。

「こんな風に生きてきたのに、人はまだ滅ぼされずに生きている」(パーン)

そのときに、生かされていることの愛というものを感じた。
* 愛という言葉のほかになにかないか探しましたが、ここでは愛がふさわしいと私は思いました。

あんなひどい政治家も軍人も、生きながらえ、また現代でもたくさんいる。
滅ぼそうと思えば、私たち自身も、いつでも滅ぼされるはずなのに、生かされている。

それはキリストが人になり、人に殺され、そして復活されたからなのだと直観した。
神だけでは不可能だった。

キリストが私たちの世界に生き、この私たちによって殺されたから、罪が明るみに出され、そして神によって死から復活されたから、愛はこの人類を、こんなにも罪に埋もれ尽くされた世界をも、滅ぼさずに生かしてくださっている。
パーンの角に触れたとき、言葉にするとこんな風に感じられた。

パーンに尋ねた。
"私は矛盾の中で成熟することを学んでいます。学び続けたいです。"
「今していることがそれです」

"私は師の探求の中で、安心して過ごしている気がします。何もしていないかのように。"
「でも一方では現実も安らいでいるわけではないでしょう」

"人の言動や思惑に気づきたくなくても気づいたり、傷ついたりすることはあります。
でも以前より遥かに越えやすい。そこにとどまっていなくていいとわかるし、師の生の探求が土台となっているので、私は本当に楽なんです。
道をどんどんただ進んでいけばいいと…罰当たりなくらいな感覚でもあります。
もちろん、なんの切り札も自分にはないのですが。"

これが、矛盾なのかなと思った。
ベルジャーエフの二重性とはこのこととつながるのだろうかと思った。

 「(*人にして神、神にして人である)キリストについての啓示のみが、人間の自己意識の奥義を開示する手がかりを与えてくれる。人間の高次の自己意識は、あらゆる学的認識にとっての絶対的限界である。学が完き権利を持って認識するのは、自然世界の一部分としての人間のみであり、人間の自己意識の二重性において、学は限界に突き当たる。」

ーーー *「人間の自己意識の二重性」とは、「自らを自然世界の一部分として認識すること」と、「人間がそれ自体として存在し、自らを自然外の、世界外の事実として体験すること」、の二重性である。

人間:ミクロコスモスとマクロコスモス(4) (『ベルジャーエフ『創造の意味』ノート』 より)

「球根の中にわざわざ入っていくことはない
  この[杖]につかまって、その矛盾の中にいること」

天と地の両方にいるような、(天ではないかもしれない)
けれど一方ではただ上方(あるいは深部)へ向かう、導かれていく精神(魂)と、
一方ではこれまでと変わらない自分と生活、葛藤も感じながら、
苦手な人は苦手なままいて、苦手じゃなくなるってことはなくて、相変わらず傷つきやすい自分を発見している日々がある。
その二つの世界にいながら、でも導かれていく。
光の中にいるような魂の感覚によって、それらの葛藤はやがてしぼんで枯れていくかのように思える。
なぜかはわからない。私の力ではもちろんない。
たぶん、その導きの働きが、絶対的で圧倒的で強力ということだけはどこかで感じ取れているのかもしれない。

その働きが、あんなにも苦しみ、今もなお悲しくなったり傷ついたりする、決して克服できない葛藤さえも全く問題にせず、私を連れて飛び越えて行かれるのではないかと、自分はどこかで確信しているように思う。

これらの感覚は全て、キリストとつながっておられる師のうちに、自分自身も包まれ庇護のもとにあるゆえに起こっているプロセスであります。

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今回の視覚化で、角に触れた際に感じたことについて、ある符合を見出しました。それは以下にあります。

朝早くシナイ山に登り、その頂に立っていたモーセの前に、神はご自身の存在を『いつくしみ(恩恵)とまこと(真理)との豊かな神』であると宣言し給うた(6節)。ここに言う『いつくしみ(恩恵)とまこと(真理)』とは、それを受けるに値しない罪人に注がれる神の恵みであり、『まこと(真理)』とは、ひとたび立てた約束に対して、最後まで真実を守り抜き給う神の『まこと』、つまり『交わりの真実』という意味であって、このような神であり給うからこそ、人類がどんなに叛逆し続けようとも、神は救いの約束を固く守って、これを放棄し給うことがないのである。(中略)

しかしヨハネの思想は、もっと深いものを持っている。彼においては、イエスの『苦難』はそのまま神の『栄光』を顕わす業であった。なぜならば、十字架の苦しみの中においてこそ、(人の叛逆にもかかわらず)救いの約束を絶対に破棄し給わぬ神の『愛の真実』が、その極点において顕わされているからである。だから、イエスが世の罪を負って死に給うことは、(たとえ人の目には恥辱の死とみえようとも)神の『愛の栄光』の顕現なのであり、それはまた神の『恩恵と真実』の顕現でもあった。そしてまた、この事実を明らかにすることによって、死につき給うイエスの見ばえなき肉の姿の中に、(単なる一人の偉人ではなく)、『神の子』の栄光を見出すことは、ただごとではなかったことが、ますます深く理解されるのである。世の人がイエスにつまずいたのは、この『愛の栄光』を見る目を持たなかったからであった。そしてヨハネと共に初代教会のキリスト者たちが、このように信仰を告白し得たことは、まさに神からの恩恵によって、特別に真理を示されたからなのである。まことにこれを人に示したのは、血肉(人間)の知恵ではなく、天の父上(父なる神)であった(マタイ16の17参照)。

高橋三郎『ヨハネ伝講義  上』より

この高橋先生の言葉から、パーンの角に触れた時に感じたことは、個人的感覚を超える普遍的なことなのだと理解できます。
ここの箇所は師も取り上げておられます( 高橋三郎著『ヨハネ伝講義』を読む(7) )。

この文章の中での「それを受けるに値しない罪人に注がれる神の恵み」というのは自分自身と強く重なりました。これゆえです。

いうまでもなく、師に出会わなければ高橋先生を知るご縁もないのですが、この「ヨハネ伝講義」を著された高橋三郎先生こそ私の師の恩師であるということは、とても重要なことなのではと感じます。それはこのタロットの修練において必要とされる「人格的真理の継承」に関わることと思われるからです。

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