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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第二章:解けない結び目

「でも怖がらないで! 大丈夫! 僕がいるよ!」彼は力強くロ・メイヒの肩を叩いた。「兄さんから何かを奪うような奴は、誰であろうと僕たちの敵さ! シーザー・ガットゥーゾ? わかったよ……一緒に殺しに行こう!」
 彼の瞳孔の中、深い暗黒の中で金色の光が輝いている。まるで太古の巨龍が暗雲の中を舞い、天罰の巨雷を落したかのように。

―――
親愛なる母へ

 拝啓、お元気ですか。
 今月中旬に中間試験が始まります。僕は今、毎晩図書館で本を読んでいます。今年の履修はミクロ経済学、近代西洋史、機械駆動学Ⅲを取りましたが、そこまで難しくはないので、前学期のように試験もオール「A」で通ると思います。イリノイ州にもそろそろ春が訪れて、木が芽吹き始めています。毎朝キャンパスに霧が出ていて、赤リスが顔を出していたりします。
 来週は少し時間をとって、植物クラブの人たちと一緒に原生林に出かけて、標本用の葉芽でも集めようかと思います。
 夏には、ニューヨークやワシントンでエントリーするように言われたインターンシップに応募する予定です。
 そうそう、今日の朝食は目玉焼きとバターブレッド、ランチはポテトサラダとベーコンバーガー、ディナーにはニンジンのナックルとエビのスープを頂きました。
 もちろん、牛乳も毎日飲んでいます。トンおばさんに言われた通り、しっかり5分加熱してから。

あなたの愛する息子より
ソ・シハン
―――

時計が深夜11時を回る頃、ソ・シハンは先ほど一息に書きあげた電子メールを読み返していた。
 母は毎日メールボックスを見ているわけではない。それでも、ソ・シハンは毎日寝る前に母に宛てたメールを書くことにしている。母がふとメールボックスを開けた時、日付順に整列されたEメールがあって、息子が毎日何を食べているのかまで知らされれば、ソ・シハンがアメリカの大学で平穏な日々を過ごしている、と実感できるだろうから。
 そうすれば母は不安から解放され、気持ちを切り替えて友人たちと遊ぶ事ができる。
 母は当初、ソ・シハンがカッセル学院に通うのに好意的ではなかった。これほど出来の良い息子なのだから、将来はイェールやハーバードのような有名な大学に行くはずだと思っていたからだ。しかもこの「カッセル学院」なるものは、インターネットのどこをどう探してもろくな情報が見つからない。どこかの州にあるディプロマミルかもしれないとも疑った。母は何度も何度も取ってつけたような出来のカッセル学院ホームページにアクセスを重ね、その執着はグデーリアン教授曰く「まるで認知症だった」レべルだったという。
 結果、ソ・シハンはカッセル学院の学術的雰囲気をメールで説明するのに時間と骨を折ることになった――アンジェ校長は清廉で礼儀正しいケンブリッジ卒の老紳士、彼の使命は人々を教育する事――副校長は先鋭的な教育家、アメリカ西部開拓歴史学を愛し、しばしばカウボーイのような格好をしている――グデーリアン教授は文献学の偏狂趣味者、変人だけれど可愛げのある人――指導教員はシュナイダー教授、外見はちょっと怖いけど内面は善人、かつて学生を救うために火傷を負って、今は一日中顔の半分を覆うメンポを付けている――長い間地道な美化を続けて、ようやくソ・シハンの母親は、カッセル学院を知る人ぞ知る貴族学校だと了解するに至ってくれたのだ。

 大きな衝撃波で窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。英雄の館の前の大型ダクトから高さ10メートルの血のような炎が噴き出して、キャンパス全体が赤く染まった。三号宿舎の外壁に上下に大きなひびが入って、噴き上げられた灰がパラパラと舞っている。ソ・シハンはノートに落ちた壁の破片を無言で掃いた。
 大型ダクトの下には装備部の地下実験室があるのだが、また事故を起こしたのだろう。精製した硫黄が爆発したか、水銀蒸気パイプが破裂したか……。消防車が緊急サイレンを鳴らしながら、狂ったように燃えているダクトの前で急停止し、屈強な熟練消防士たちが放水ホースを手際よく伸ばしていく。
「硫黄の炎だ!」消防士は叫んだ。「全員防毒マスク着用重点!」
消防士たちは防毒マスクを被り、冷静な消火活動を続けている。放水ホースは増えていくが、火災は三号宿舎の区画へと燃え広がっていた。
 しかし、学生たちが騒ぐ気配は全くない。興奮して窓を開けるような人もいない。もちろんこれには理由がある――今日は学生自治会が舞踏会を開いていて、シーザー麾下の白いレーススカート少女たちがアンバー館で情熱的な舞に精を尽くしている。執行部のインターンシップ生は図書館のハッカー室のチューブに埋もれながら、ペンタゴンのファイアウォールを突破したり、軍事衛星の暗号化システムをクラッキングしたりしている。他の人たちはオンライン上の大学ネットワークフォーラムで火事について駄弁を重ねたり、いつ火が消えるか賭けをしたりしている。要するに――茶飯事なのだ。
 ソ・シハンはログイン状態を隠しながら「ナイトウォッチャーズ」チャンネルにアクセスした。

 #system :あなたのフレンド@CambridgeKnifesはオンラインです
 #system :あなたのフレンド@NightWatcherはオンラインです
 #system :あなたのフレンド@GreenlandShadowsはオンラインです

 学校の大物たちも火事が気になっているらしい。@CambridgeKnifesは校長アンジェのID、@GreenlandShadowsは執行部の責任者シュナイダー教授のID。@NightWatcherは、このチャットチャンネルの管理者である副校長だ。

@NightWatcher:
こんな夜更けに装備部は何をしてるんだ?
私のダイビング器材が吹っ飛んだぞ!
@CambridgeKnifes:
副校長のくせに何をやっているんだと言いたいな! 
火事を見たならすぐに管理部と連絡をつけようと思わないのか? 
それとも君の仕事は酒を飲みながらこんなクソスレを立てる事か?
@NightWatcher:
ブランデーを一本半開けた私に消火活動の指揮を取れと?
そんなことより、火災現場の最前線で戦う同志たちにエールを送ろうじゃないか!
@CambridgeKnifes:
装備部のバカどもは全く!
時々本当に対地爆弾でもぶち込んでやりたいくらいだ!
@GreendlandShadow:
校長のお気持ち大変よくわかります。ぜひ執行部にもやらせていただきたい
@NightWatcher:
シュナイダーくん、こんなクソスレにレスしている時間があるなら火災現場に行ったらどうだ? 
執行部のトップは、校長に代わって公務を遂行する意識を持つべきだよ。
校長は今パリのカクテルパーティーでスケベ服を着た100歳年下の淑女たちと交流するのに忙しい。
ネット上でしか火事を観測できないからこんなことを言うが、君は装備部を本気で爆破するのかい? 装備部の暴徒と本質的には何も変わらないな!

@NightWatcherは政治思想教育を始めた。

@GreenlandShadows:
執行部は準軍事組織です。
龍族の侵攻で火災が発生すれば全責任を執行部が負いますが、装備部が火元ですからね。
私に装備部の尻拭いをする責任はない
@CambridgeKnifes:
学校事務は信頼できる人物に任せなければな。
マンシュタイン教授に連絡して、彼に火元を見てくるように言っておいたよ。
あ、新期のファッションショーがもうすぐ始まるから私はオフラインになるぞ。
管理部によろしく
@NightWatcher:
土産にシャンパーニュのスパークリングワインを忘れるなよ
@CambridgeKnifes:
忘れなければ買っておくさ

 @CambridgeKnifesはオフラインになった。 

 再び地を揺るがすような爆発が起こり、第二の血色の炎が暗いダクトから噴き出た。まるで地底で龍が咆哮と炎を噴いているかのようだ。

@EquipD.
これは予想された爆発であり実際危害はない。
先生、生徒の皆様はごあんしんください。
実験は続いているのでこれから一時間ほどで激しい爆発が二、三回あるかもしれない。
備えよう

装備部が投稿した。
 装備部の公式IDだ。議論板の熱気が地下研究室にいる頭のおかしい装備部員を刺激したのか、あるいは頭のおかしい装備部員が爆発実験だと称して議論板で煽っているだけなのか。一瞬で無数のトマトアイコンがスレッドにレスを返した。

@EquipD.:
精製硫黄の燃焼は有害な煙を出して人体に実際有害だ。
毒素を中和するニンジンを食べよう。
夕食にニンジンを食べると君の毒素が中和されて気分が良い

 しばらくして、装備部が再投稿した。

@BioD.:
悪いニュースです。
先生と学生どちらでもいいので、
ヘビのハンティングアシスタントおねがいします。
ちょうど今の爆発で地下二階の爬虫類飼育プラントが崩壊しました。
キングコブラ12匹、オオアナコンダ2匹、タイワンハブ20匹を含む、
約200種類くらいのたくさんのヘビがたくさんのトンネルから脱走中。
詳細なリストは10分後にアナウンスメント

 生物部が投稿した。
 ソ・シハンは二年生の時に「爬虫類生物学」の単位を取ったので、この種のヘビの名前は聞いたことがあった。普通の人が噛まれれば、残された時間にできるのは神に祈るくらいしかない。オオアナコンダに関しては毒はないものの、その成体は16メートル以上になり、アマゾンの水牛を絞め殺す程の力がある。

@NightWatcher:
ファック! アナコンダが時計塔を登ってきてるんだが! 助けてくれ!

 ソ・シハンは見てられずに首を振って、メールボックスのウィンドウに戻って[送信]をクリックした。
 メールは無事送信トレイに入り、数秒後、ソ・シハンの母親のメールボックスに表示された。

 子供のキャンパスライフというものはたいてい、両親の理解とは子細異なるものである。ソ・シハンがアメリカに留学する前、彼の継父はシハンに『胡適留学日記』を送り、勉学に励むよう後押しした。だがソ・シハンは今でもその断片を覚えている……。

―――
4月9日: シェン君のところで麻雀をした。
4月29日: 天気が突然華氏80度以上になる。本を読む気になれない。シェン君やチェン君と紙牌をしたり、リュウやホウと中国牌をしたりした。
5月6日: 麻雀をした。夜に中国学生会へ行く。
5月12日: 麻雀。
―――

一方、胡適も自身の家族に宛てた手紙の中ではアメリカで勉学に励む日々を綴っていたことを考えれば、ソ・シハンは自分のカッセル学院での生活描写は嘘というよりも、単なる文学的修正に留まるものだろうと思うのだった。
 母に正直に本当の生活を綴るのであれば、キャンパスは変態だらけ、毎日のように爆発実験をする狂人集団がいるし、校長を含めた教授たちはみんなタガが外れているか超スパルタかの二択。自分に関しても成績が良いわけじゃないし、とある暴力クラブのリーダーを務めて、別の暴力クラブのリーダーと暴力的闘争に明け暮れた日々を過ごしている。そして今はハブやらアナコンダやらの群れが学生寮に迫っている……まあ、もしそのまま送っても問題はないだろう。母のおめでたい神経は息子がおどけて冗談を言っていると勘違いして、むしろ喜んで床を転げまわるだろうから。

 ソ・シハンはシャットダウンプログラムを起動して寝ることにした。シャットダウンには約10秒かかるが、その間も彼は@NightWatcherの建てたスレッドが自動スクロールで流されていくのを見ていた。
 赤色のビビッドなスレッド投稿が突然ポップアップし、すぐにリストの一番上にあがった。赤色のスレッドは、それが懸賞依頼であることを意味する。

@Dictator:
日本皇室にコネのある人求む。
結婚式用にメイジ・シュラインを一晩借りたい

 投稿者は@Dictator、つまり学生自治会会長シーザー・ガットゥーゾのIDだ。
 ソ・シハンの指がキーボードの上で電流のように弾けた。

『プロポーズしたってこと? おめ!で!たい!』
『シーザーは中国人と結婚するってなら、北京の太庙で式を挙げりゃいいのに』
『会長愛してる! ヒロイズムと真の愛の上限突破!』某学生自治会幹部からのレス。
『シーザーこれ以上イケメンになるのか? マジ! これ以上イケメンになれるのか!?』……

 一瞬でついた大量のレスは、件の懸賞投稿を各種ランキングの最上位に押し込んで離さない。それに比べてしまえば、外で猛烈に燃える火事やキャンパス内を走り回る蛇の群れなどニュースでも何でもないということだ。今夜のトップニュースは、「幸福へのカウントダウン! 学生自治会会長が赤髪の魔女と婚約!」ということになるだろう。
 ソ・シハンがもう一度目を通そうとすると、画面は既に真っ暗になっていた。寮は静まり返って灯りもなく、窓辺にかけられた青銅の風鈴だけがチリンチリンと鳴っている。その風鈴の舌は鍵だ。
 北京旧市街の一角にある、とある扉の鍵。あるいは、自分の心のどこかの鍵……。その扉の裏も、心の中も、がらんどうで、埃まみれだ。
 ソ・シハンは椅子の背にかけた制服を掴んで机を後にした。


 食堂は静まり返っていた。
 このバロック様式の装飾が施されたホールは千人の学生の食事席を提供できるが、今ここで食事をとっているのは一人だけだ。彼は長細いダイニングテーブルの端で大袈裟な動きで咀嚼し、落ち葉を吹き飛ばす秋風のように皿の上の食べ物を攫って行く。鶏の丸焼き、豚足肉のスモーク、ビーフバーガー、野菜サラダ、大量のマッシュポテト……その食欲はある意味非常に分かりやすい。
 ロ・メイヒにとっては、これくらいの食欲はいつものことである。
 我を忘れる程食欲を貪っていると、一人の男子学生が隣に座って皿を置いた。ロ・メイヒは綺麗に食べ尽くした鶏の骨を吐き出し、無表情なソ・シハンの手元に目を向けた。
 ソ・シハンの夕食はシンプルだ。卵焼き二つ、ミルクに浸したオートミールと、オレンジジュースのグラス。
 深夜12時すぎに学校の管理部が消化に成功し、その後二時間ほどの食堂は人で賑わい、ビールで祝杯を上げていた。実際のところは祝祭といえるようなものでもなく、ただビールを飲む口実が欲しかっただけなのだが。装備部が大きな「イベント」を起こす度、こういった言い訳を付けて興奮冷めやらぬ身体を酒に浸すのがカッセルの一般学生である。時には装備部の狂人どもも地下実験室から這い出て、歌ったり踊ったりする。
 しかし今や祝賀会も終わり、テーブルいっぱいに散乱した皿やビールジョッキが放置されたままだ。食堂に居るのも二人だけ。窓の外からはカッコウの鳴き声だけが聞こえる。
 さながら文字通りの「孤独のグルメ」といったような感じだ。
 この時間、食堂でソ・シハンを見かけるのは珍しい。夜食をとらないというわけではないが、いつもは夕食時に食堂のタマゴハムサンドを持っていって、寮の部屋で片手間に食べる。ソ・シハンの生活は腕時計よりも正確な時間を刻んでいる。寮と食堂の往復に18分かかると計算して、その18分は図書館での時間に充てるべきだと考えているのだ。
 ソ・シハンは無言で頷いてロ・メイヒに挨拶し、ミルクに浸したオートミールをかきまぜた。
 北京での例の事件後、ロ・メイヒとソ・シハンの交流はめっきり減ってしまった。メイヒだけではない。ソ・シハンは自身の片腕たるス・シーを含めた全ての人と交流を避けるようになってしまった。この手の人間は常に顔面をこわばらせて、他人の人生に興味を示さず、談笑して時間を無駄にすることを避けている。だがロ・メイヒは時折思い出す。夏美という少女とソ・シハンは人生について話し合い、あるいは笑い合ったりすらしていたこと。それを見れば、愛というのは本当に人間を変えることができるのだと信じずにはいられなかったということ。
 だが、夏美は死んだ。
 あるいは、夏美とは実在する人間ではなかったのだ。

 二人は黙って食べ続けた。ロ・メイヒは手羽先をかじり、ソ・シハンはシリアルを口に運んだ。
 不思議なことに、ロ・メイヒが手羽先を一本食べるまでに、ソ・シハンのシリアルは全く減っていなかった。ロ・メイヒはしばらくの間鶏の骨で遊んでいたが、かける言葉も見つからなかったので、立ち上がって言った。「先に行くね。先輩はゆっくり食べてていいから」
 ソ・シハンは卵焼き二つとオレンジジュースをロ・メイヒの前に置いた。「まだ食えるか?」
 ロ・メイヒは戸惑いながらソ・シハンを見た。ソ・シハンの顔は以前と同じように無表情で、金色の目は氷のような視線を投げかけてくる。ロ・メイヒは戦々恐々としながら座った。卵焼きとオレンジジュースの牧歌的組合わせが苦笑いを誘う。食べなければ、銃を机にでも撃ち込まれそうな気すらしてくる。
「お前、夕食はいつもフィンゲルと一緒じゃなかったか?」
「フィンゲルはインターンに行ったんだよ。卒業するつもりなのかな?」
「寂しすぎて二人分ヤケ食いか」
 これは冗談を言ったのかもしれないが、ソ・シハンが言うと真面目な答えを返さなきゃならない質問のように聞こえて、笑う気にはなれなかった。
「いや、突然お腹がすいちゃってさ……」ロ・メイヒはしぶしぶ答えた。
「お前、肉ばっかり食いすぎだろう」
「僕は肉食動物だからね」
「油は控えた方が健康にいいぞ」
「先輩が話したいのは、ボスとノノ先輩の結婚の事でしょ?」ロ・メイヒの言葉で、シリアルを運ぶスプーンが止まった。
「……ああ。だがどう話し始めればいいかわからなかった」数秒の沈黙の後、ソ・シハンは認めた。
 実際、ソ・シハンは案外分かりやすい人だ。固い顔面から何を考えているのか推し測るのは難しいが、その思考回路はまったくカーブのないハイウェイのようなものだ。ソ・シハンの強みはポーカーフェイスではない。振られたナイフの弧のように、速く振られればそれほど弧が真っ直ぐになる、そういった実直さだ。
 ともかく、例の質問にどう話題を持っていくか四苦八苦しているのを、ロ・メイヒはすぐに見抜いたのだ。
「ボスの懸賞投稿は見たよ」ロ・メイヒは言った。「それよりもさ、10時までに火が消えない方に100ドル賭けたんだ。負けるが勝ちっていうけど、やっぱ負けたよね」
「諦めるのか?」
「先輩、冗談キツイよ。僕には他人の結婚式を爆破する趣味も度胸もないよ」ロ・メイヒは笑った。
「お前がやるというなら、俺は喜んで共犯者になるが。それがユウジョウってものだろう」
「嬉しいよ先輩。先輩の優しすぎる気遣いで涙が出そうだよ~」ロ・メイヒは頭を掻いた。「ありがとう」
「諦めるのか?」ソ・シハンはロ・メイヒの目を見つめた。「シーザーが初めてプロポーズした時のお前の落ち込み具合、俺は覚えてるぞ。その時のお前の目は、鬼が出るか蛇が出るか、あるいは虎が出るかといった目をしていた……」
「先輩、心配してくれるの? そのために僕に会いに来たの?」
 ソ・シハンは頷いた。「だが、今のお前の目には何もない。それが恐ろしい。俺に出来ることはないか?」
「僕、分かったんだよ」
「なにがだ?」
 ロ・メイヒは長い沈黙の後、言った。「ノノ先輩を幸せにできるのは、僕とボス、どっちだと思う?」
 ソ・シハンは即答した。「お前が望むなら、出来ることはいくらでもあるだろう」
 即答ではあったが、この返答を捻り出すのは難しかった。普通に考えれば、ロ・メイヒがシーザーに勝る所など何もない。シーザーは公にフィアンセとしてノノによくしているし、金でも命でも尽くすことができる。このガットゥーゾ家の若当主も、ノノの前では猟犬のように忠実で、ノノに言われた通りの相手に噛みつく。ノノには幼稚園以来彼氏が絶えず、元彼を集めてサッカーチームを作らせて対戦させることすらできる。シーザーからすればノノは初恋の相手だが、彼は気にしていない。シーザーはノノを運命の相手だと思っている。だから数多いる前彼は単なる踏み台に過ぎないと思っているし、踏み台に対してもシーザーは寛容だった。踏み台があればあるほど、自分が完璧に相応しい相手だと示すことができるからだ。
 そうして今、メイジ・シュラインで日本皇族格式に則った世紀の婚礼を挙げて、一目ぼれした女性と結婚する。恋愛ドラマのお約束なら、こんなところで問題を起こすのは悪役だけで、最終的には主人公に殴られて終わるのだ。
 ロ・メイヒが結婚式にちょっかいを出す理由はなかった。ただそのガールフレンドに惚れて、片思いしているだけ。
 世紀の大恋愛に、三人目が立つ瀬などないのだ。
「先輩、『上海要塞』っていう本は知ってる?」
「飛行機の中で読んだ覚えがある」
「あのストーリー覚えてる? バカがスーパー美女に恋するんだけど、そのスーパー美女は別の男と結婚するんだよね」ロ・メイヒの声は上ずった。「バカは美女の目を引けてると思いこんで、告白する根性もないくせに、その婚約者の事を胡散臭いアホだと思ってる。いっつも美女にメール送りまくって、美女がメールを返してくれるのは自分が好きだからだと思いこんで、全部のメールに保護ロックまでかけてるの」
 ソ・シハンは黙って聞いていた。ロ・メイヒが何を考えているのかは分かっている。何の解決もできない物語をもう一度読む気にはならない。偶然とか失敗とかでなく、決して解けない運命の結び目で繋がっている物語もある。それが悲劇だというのなら、その悲しみは初めから決まっていた結末なのだ。
 ソ・シハンはロ・メイヒのおすすめで『上海要塞』を読んだ。北京からシカゴに向かうユナイテッドのファーストクラスで読んだのだが、本を持ち帰る気にすらなれない内容で、次の乗客の為にでも置いておこうと、座席脇の雑誌ポケットにねじ込むことにしたのだった。氷水のサービスを頼んだ後、ソ・シハンは窓の外を通り過ぎる雲を黙って見つめながら、主人公がどうすれば救われるか三時間ほど考えていたが、何も思い浮かばなかった。
 愛が報われるのは一握りの幸せ者だけだ。
「ある夜、バカは美女に大いなる秘密を伝える重要メッセージを送ったんだけど、美女は返事をしなかった。バカは、こんな時間に寝てるはずない、なんで返信が来ないんだろうと思い悩む。何が美女に返信させないのか……。そこでバカはひらめいた、彼氏におやすみなさいを言いに行かなきゃならなくなったんだって」ロ・メイヒは声を速めた。「人は相手との時間を大切にしなきゃならない……先輩は良く分からないと思うけど……結婚するってことは、キスをしたり耳を噛んだりしてセックスまでやるってことなんだよ。でもバカはメールしてるだけ。ずっとメールしかしてなかったんだ。一方美女とその婚約者は? 買い物に行ったり、映画見に行ったり、ディナーしたり……キスしたりしてる」
「バカは自分が美女にとって特別な存在だと思ってる。全くバカで、アホなんだ」ロ・メイヒは笑って言った。「愛ってそんなにステキなのか? 愛のどこが最高なんだ?」
「もういい」ソ・シハンは呟いた。
「わかってるさ、もう何も言わないよ。ボスとノノ先輩はお似合いさ……」ロ・メイヒは言った。
「もういいと言っている!」ソ・シハンの眉間に突然深い皺が刻まれた。彼がこんなに激高するのは珍しい。その表情はすぐに引っ込められたが、それでも獅子のような咆哮は食堂に残響した。「自分に出来ると思わなければ、本当にできなくなるぞ! 希望を持たなければ、何もできなくなるぞ!?」
 彼をそうまで言わしめたのは、ロ・メイヒの言葉の節々に纏わりつく無力感である。父を失ってから後、自分の辞書から「無力感」という三文字を消し去って心を鎮めてきた彼は、ロ・メイヒの腐った態度に疎ましさを覚えずにはいられなかったのだ。
 脳裏に浮かんでくるビジョン。嵐の中の高速道路。あの男が「オーディン」に向けて刃を振るう。ソ・シハンはマイバッハ車で逃げている。泣きそうな目尻を抑え込みながら。あの時の臆病な自分を嫌わなければ、この世の何事も受け入れることができない。もしも一度あの時に戻れるなら、扉に刺さった長剣を手にして、あの男と一緒に立ち向かうだろう。たとえそれが死を意味するとしても。
 父と共に戦い死ぬこと、それは息子にとって名誉のはずだから。
 だが、過去は変えられない。それからソ・シハンはあらゆることから逃げなかった。敵が強大であれば、それだけ闘争心は昂っていく。万年万時、背水の陣。そうでなければここまでシーザー・ガットゥーゾと隔たりを生むことももなかっただろう。何事にも退かないのはシーザーも同じだ。ノノの前を除けば。
 ロ・メイヒは怯え竦んで、震えていた。「た、ただの正直な感想だよ……そんな真剣にならないでよ……。僕のグダグダぶりは先輩も知ってるでしょ……」
「希望が無ければ、何もできない」ソ・シハンはロ・メイヒの死んだ魚のような目を見て繰り返し言った。
 ロ・メイヒはしばらくの間沈黙した後、口を開いた。「……先輩、『聖闘士星矢』って見たことある?」
 ソ・シハンは呆然とした。「聞いたことはある」
「僕はそれを見て感動したんだよね。台詞だってほとんど覚えてるくらい」ロ・メイヒはぼそぼそと呟いた。「ある話で、星矢が敵に倒されて立ち上がれない時、アテナに言うんだ。もうダメだ、もうこれ以上は、それにアテナが答えるんだ。まだ希望はあります、って。星矢はそうか、と思う。まだ希望はある、自分には一番の希望がある、そう思って立ち上がって敵を倒すんだ」ロ・メイヒは窓の外をじっと見つめている。「すごい、って思ったのはその時だよ。僕にも希望がある、希望さえあればいつだってチャンスはあると思えた」
「その後冥界編になるんだけど、星矢はまた負ける。今度は神に負けるんだ。人間は神に勝てないから。今度こそ希望は無いと思った」メイヒは話し続ける。「星矢はもう一度アテナに言うんだ。全ての力を使い果たしてしまった、何もかも失くしてしまった。それにまたアテナも答える。何もかも失くしてなんかいません、あなた達にはまだ命が残っている。星矢はそうか、と思う。オレは生きている、オレはここにいる……生命を燃やして、コスモを究極まで高める……それで星矢は立ち上がって神々を倒すんだ。僕はまた感動したよね。心がどんなに暗くなってても、生命を賭けて燃えられることがあればいいんだって」
「でも、僕わかったんだ。アテナは星矢のボスで、悪いボスなんだよ。苦痛に喘ぐ部下に希望を託すと言って、命を懸けることを強いる奴なんだ! 希望も生命もただの口先、幸福を未来に先延ばしする言い訳に過ぎないんだ」ロ・メイヒは笑った。「もちろん、多少のやる気があればいい結果になることはある。でも、希望に人生を賭けたってなんの役にも立たない」
 二人はしばらく沈黙していた。しかし突然空気中に火薬のにおいが漂い始め、ソ・シハンの瞳孔が憤怒で燃える火のように光った。
「先輩がどう思ってるかなんてわかるよ。怒りたくなる気持ちも分かる。そう、僕はただの臆病者さ……」ロ・メイヒはうなだれた。「第一印象からなんにも変わらないよ」
 ソ・シハンは深呼吸をして不可解な怒りを抑えた。彼にとっては不本意な、不可解な怒りだった。性格からして、他人のことをこうも気にすることなど、今までなかった。
「ロースクールの時、俺はイジメられていた」ソ・シハンは静かに話し始めた。「母さんが再婚していて、親父が本当の父親じゃないってことをみんな知ってたからな。インターナショナルスクールなんて、良家の子供ばっかりだったし、義父との付き合いのある親ばっかりだった。イジメの理由の一つは母親の家柄が良かったことだ。それであのスクールにも行けたんだが……俺は運転手の子供らしいからな」
 ソ・シハンの声は震えていた。「ソ・シハンの親父は母さんとネンゴロ、良くされてるのは好きだから、そういう感じの大合唱だった」
 ロ・メイヒは驚きのあまり、手足をぴくぴく震わせた。しまった、こんな私的な過去は知るべきじゃなかった。学生自治会会長シーザー・ガットゥーゾの子分として、獅子心会会長ソ・シハンと親密な関係を築いて、静かな真夜中に私的な会話をするなんて、悪名高いニュース部のパパラッチに撮られたら世紀の大スパイ扱いされてしまう。
「それを一番言いふらしてたのは空手の黒帯……中国で最年少の黒帯だった」ソ・シハンは言った。「俺の血統はその時まだ覚醒してなかった。勝てるわけがなかった」
「お義父さんは何もしてくれなかったの? 電話でもすればよかったんじゃ……おとうさんが二人もいれば負けることもないと思うけど」ロ・メイヒは口を滑らせた。
「いや、親父は関係ないと思って、何も言わなかった」ソ・シハンは声を低くした。「ただ、剣道をやらせてくれとだけ言った。俺は三年習って黒帯になった。小学生が黒帯になるのは初めてだったらしいが、三年で剣道をマスターする必要があった。卒業する前に決着を付けたかった」
「そうか!」ロ・メイヒは理解した。
「卒業式の日、奴に挑んだ。奴が飛び掛かってくる前に、俺は竹刀で奴の膝を叩いた。三年の間ずっと練習してきた空中打撃だ。どう蹴り込まれても、どう殴り込まれても、俺は打ち返した。奴は最後に倒れ込んで、どうしてお前のばっかり毎回俺に当たるんだ、と聞いてきた」ソ・シハンの声がかすれる。「俺は答えなかったが、そんなのは当たり前だ。一万回練習したからな」
 ソ・シハンはロ・メイヒの肩を叩いた。「自分ができると信じてさえいれば、自分の人生は自分の手で掴める」
 ロ・メイヒが呆然とソ・シハンを見つめると、その瞳孔は火花が鉄を打つような煌きを纏っていた。
「先輩は励まし上手だね……」しばらくして、ロ・メイヒはつぶやいた。
「俺が何を言いたいか分かるか。ノノをどうしようと勝手だが――」ソ・シハンは言った。「それ以上に、諦めるなってことだ!」
「ところで先輩、同級生をそんなに殴っちゃって、家族になんて言ったの?」ロ・メイヒは構わず突然聞いた。
「奴の母親が学校に連絡して、俺の両親が学校に呼び出された。それで俺の母親は……」ソ・シハンは頭を掻いた。「お前も知ってるだろ、俺の母親の事は……よくは知らないが……母さんは俺の一件を聞いて、“激しく前後に傾いた”らしい」
「激しく前後に傾く?」
「要するにまあ……面白がったってことだ。それで母さんはその日着られる最高級の服にパティックフィリップの時計、カルティエのダイヤモンド指輪をはめて、運転手と警備員まで付けて、親父の一番高いメルセデスに乗って学校に行ったんだ。金持ちの女はこういう時にも自慢を欠かさないというが……母さんが金色に光りながらやって来た時、俺は笑うしかなかった」
「両親のパワーって感じ?」ロ・メイヒは言った。
「だが同時に母さんの意図も分かった。その見た目で心理的に相手に先手を打ったんだ。奴の母親は母さんを見て心底動揺してた」ソ・シハンは首を振った。「それでも怒鳴られたがな。勿論、俺の母さんを皮肉りながら。今考えると、もしかしたら俺が殴った同級生は、家で親から聞いた悪口をそのままオウム返ししてただけだったのかもしれない」
「先輩のお母さんは怒ったの?」
「いや、終始穏やかだった。ただ相手の親への言葉は止まらなかった――あなたも母親ならそんな言い方はやめなさい、息子が実の父親と暮らせないのは事実です、しかし子供同士で争うのに、実親がどうとかは関係ない、結果が全てであって、事実勝利した私の子供は遺伝子的にも健康的にも優れており、その遺伝子は父親から与えられたものです――あなたの子供はまったく軟弱、それで私の子供が笑えますか、夫はお元気でいらっしゃいますか、家族と話はしていらっしゃいますか――子供の弱さに気付けないのですか、空手の黒帯はホンモノですか、私の息子がたった三年の練習で打ち倒すなんておかしいですよね、ああそういえばお怪我はいかが、病院に行って診てもらったらいかかでしょう――」ソ・シハンは苦笑いした。「母さんは医療費だけ投げつけて、家に連れ帰った後で俺を叱った」
「いいお母さんじゃないか!」ロ・メイヒは親指を立てた。
 だが、その表情に笑みはなかった。「僕も同じような理由でケンカしたことあるんだ。中等学校の同級生達はね、僕の両親は海外で離婚しただとか、誰も引き取らなかったから叔父母の家に預けられたとか言ってて……色々あって、学校に『親を出せ』なんて言われると、叔母さんが呼ばれて……」ロ・メイヒは唇を舐めた。「叔母さんは僕をこっぴどく叱ってね。僕に家を訪ねて回って謝らせて、医療費をまけてくれるように頼み込ませて……家に帰ったら叔父母が、あいつらは本当に海外で勝手に離婚したのか、今後の生活費は誰が払ってくれるんだ、だとか話してるのを聞いて……」
 ソ・シハンは驚いた。
「それで夜になってから帰ると、僕が夕食をみんなに出して、皿洗いまですることになってた。従弟は『もし来月生活費が出ないなら、引っ越すかもしれないから、一人暮らしできるようにさせてくれ』とか言う……」ロ・メイヒは笑っていたが、その顔は引きつっていた。「だから先輩、先輩は恵まれてるんだよ。先輩には面倒を見てくれる人がいて、頼りになるお義父さんがいて、きれいなお母さんもいて、みんな……みんな先輩の事が好きなんだ。どんな悪いことをしても居場所があるから、そんな勇敢になれるんだ。僕みたいなのは……生きるので精いっぱいだ」
 ロ・メイヒは大口を開けて卵焼きを頬張った。自分の表情を見せたくなかった。「中国ではカチグミとマケグミに分かれるってこと知ってる? 金持ちでイケメンのカチグミは可愛い美少女と恋愛の駆け引きをするんだ。失敗したってフラれたって気にしない。結局女の子の興味はカチグミだから。その下で泣いてるたくさんの男になんて見向きもしない、だってマケグミだもんね」半熟の卵焼きを口いっぱいに含んだロ・メイヒの声は不鮮明だった。「当然のようにカチグミの子供を孕んで、マケグミは悲しんで、憐れんで、病院に慰めに行くんだけど、退院したかと思えばすでに女の子は別のカチグミを探しに行ってるんだ。マケグミにはQQの返事すらくれない……」
 ロ・メイヒは口を拭いた。「先輩、だから先輩はカチグミなんだよ。イケメンだし頭もいいし、お金持ちだし。それに比べたら僕なんてただのノラ犬だ。同じにされたら困るんだ……現実を見せないでよ。勇気と希望をマケグミに語らないでよ」ロ・メイヒは長いテーブルの上に突っ伏して、目を閉じた。
 強烈なアルコール臭を滾らせながら、ロ・メイヒはビール瓶に囲まれて眠った。ソ・シハンが来る前まで、半分寝ながら食べていたのだ。
 小さい頃は、「酒肉の友」なる四文字で揶揄される人種は嫌いだった。しかし大人になって分かった少し悲しいしんじつは、酒を飲んで肉を食べると、心は否応なく満たされてしまうということだ。そういう意味では酒と肉は人間にとって永遠の友なのかもしれない。彼らが決して人間を見捨てないからこそ、世界には悲しく肥えたメタボばかりが増えているのかもしれない。

 ソ・シハンが無言で食堂を出ると、白いレーススカートを来た女子学生たちがワインボトルを手に持ち、活発なフォックストロットを踊りながら通り過ぎていった。学生自治会のパーティーも終わったのだろう。薄々と広がった霧がキャンパスの夜を仄かに照らし、カッコウの鳴き声だけが静かな夜を孤独に響かせる。
 ソ・シハンが席を立つとき、ロ・メイヒは悲しそうな表情も涙も浮かべず眠りこけていた。食べ物のカスが口の周りについたままで、満腹そうに見える顔をしていた。ソ・シハンは食堂のウェイターに100ドルを渡し、ロ・メイヒを起こさないようにさせた。
 今夜は他人のお節介に来たわけでもなかった。そもそも思想的な話をするのが苦手なのだ。結果、笑われただけだった。
 誰だって希望を失う瞬間はある。マケグミだけじゃない、カチグミだってその可能性は同じだ。ソ・シハンはポケットに手を伸ばし、その中の鍵を握った。

<そうよ! 私はイェメンジャド――竜王イェメンジャドよ!!>
<まるで私がそいつを喰ったような言い方をする……そこに行って夏美を探せばいい、そいつの全てはそこにある……>

 忘れかけていたはずの声が再び脳裏を響かせた。「アレ」は自分が夏美であることを否定した。感情も想いも何もかも隠され、ソ・シハンが確かめる機会も与えられなかった。完全に、完璧に。
 ソ・シハンは敵の足を一万回打つことができる。それでも結末を変えることはできなかった。『上海要塞』の物語のような、未解決で行き詰まった悲劇が、この世界にはたくさんある。
 解けない結び目の前で、人が出来ることなどない。そんな絶望の中、希望を語ったところで何になる?
 ソ・シハンは、ロ・メイヒが思い立って結婚式を爆破までするのなら、それを手伝うことで自分の不甲斐なさが贖えると思っていたのだ。
 それは、例えば新入生に「成績なんてどうでもいい、ギターを鳴らし、バンドを初めて、バイクに乗って、好きな女と旅に出ろ」などと無責任に言う卒業生の先輩のようなものだ。後輩は真に受けて、先輩はどこへ旅に行ったのですか、と聞くのだが、先輩は悲しみながら答える。「俺はどこにもいかなかった。奨学金を貰う単位が欲しかったからな」
 人間の孤独は二種類存在する。ひとつは、全世界を自分と同じくらい不幸にしたい孤独。もう一つは、幸せな他者に幸福感を覚え、他者を少しでも幸せにしたいと願う孤独。ソ・シハンは後者だった。

 ロ・メイヒの手がテーブルからだらりと落ちると、その下に彼のiPhoneが転がった。
 画面にはブロンズ色のルーレットホイールが映り、ポインターが1/2を指している。ライフは残り二つ、下にはドクロのマークが見える。
 寝る直前まで、ロ・メイヒはこれを見ていたらしい。残された命が可視化されるというのはそれなりに楽しいものだ。
「兄さん、本当に聖闘士星矢が好きなんだね。希望を燃やす段階をすっ飛ばして、人生を燃やし始めちゃったよ……」ロ・メイタクはロ・メイヒを見下ろした。「ホントウに熱血アニメ的な魂を持ってるよね、うんうん! でも認めたくないんだよね。自分はマケグミだって叫んで、自分で自分自身を燃やすんだ……」ロ・メイタクはロ・メイヒの髪を撫でた。
 二人が座るこの食堂の天井には、高々と描かれた絵画『神々の黄昏』がある。世界樹の根元から終末を生き延びる大蛇ニードホッグが現れ、その翼は死者の骸で覆われている。太陽が地平線へと沈もうとしているとき、神々の王オーディンが八本足の馬に乗り、黒龍へ永遠の勝利の槍を投げつける。
「兄さんが身を焼かれて死ぬとき、人間は兄さんの墓石になんて刻むんだろうね?」ロ・メイタクは微笑んだ。「“ナイス・ボーイ、リカルド・M・ロ”かな……?」
 ロ・メイヒは答えなかった。もごもごといいながら、唇から卵らしき汁が垂れている。
「豚みたい」ロ・メイタクは苦笑いした。
 ロ・メイタクはロ・メイヒの隣に座り、いつの間にか赤ワインの入ったゴブレットを手に持って、小さな口でそれを啜りながら、血のような真紅の液体を味わった。彼がかつてロ・メイヒに言ったように、王が自分の力に酔うかのようにワインを味わった。だがそのもう一つの手はロ・メイヒの肩に伸びている。昏睡状態の患者の世話をするかのように、近しい人へと掛けられている。誰にも頼れない夢の中で目が覚めてしまってはいけない。
「さあ兄さん、聞こえる? 結婚式の鐘が。兄さん、結婚式の車がやってくるよ。僕たちは兄さんの大切な人を迎えに行かなきゃ」ロ・メイタクは妖しい笑顔を見せた。「彼女はオレンジの花と白いバラを持って、真っ白なレースのウェディングドレス、ウェディングシューズを身に着けて……ブライドメイドたちがベールとトレーンを引いて、新郎はポケットからダイヤモンドの指輪を取り出す。フラワーガールは新婦のドレスのベールのそばで跪いて讃美歌を歌う……さあ立って! 立ち上がって! 新婚おめでとう! そうそう、秘密を教えてあげるよ。新婦のベールには白いストッキングの外側にレースの輪っかが付いているんだ。新郎はその場で抜き取って幸せになりたい人に投げる! さあ取ってこい! 珍しいことにそのドレスは彼女の私服だ。その一部が貰えて嬉しいよね。でも……人生の記念、生命の対価がそんなものでいいの?」
 その口ぶりはだんだん軽快に、迫真になっていく。魔術師が暗闇の奥底から湧いて出る呪いと嘲笑を口に出すかのように、笑みと怒りは言葉を重ねるうちに強くなっていく。最終的にその清らかな顔は嵐のような怒りで占められ、瞳孔は赤金のように輝いた。
 ロ・メイヒは夢の中で何かを感じたのか、わずかに震え、痛みに喘ぐかのように目をひくつかせた。
「悲しみからは逃れられないんだよ、兄さん」ロ・メイタクは穏やかに言った。「悲しみこそ真の悪魔さ。強ければ強いほど、その正体はわからなくなる」
「でも怖がらないで! 大丈夫! 僕がいるよ!」彼は力強くロ・メイヒの肩を叩いた。「兄さんから何かを奪うような奴は、誰であろうと僕たちの敵さ! シーザー・ガットゥーゾ? わかったよ……一緒に殺しに行こう!」
 彼の瞳孔の中、深い暗黒の中で金色の光が輝いている。まるで太古の巨龍が暗雲の中を舞い、天罰の巨雷を落したかのように。

(10/14修正)

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