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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第四章b:サンダルウッドの少女(下)

 シボレーはまだ燃えていたが、暗闇の中に光源が一つしかないというのは、明暗の区別が強烈だという事で、むしろ見えにくくなるものである。人が多すぎるせいでシーザーは刀使いの心拍を見分ける事ができず、すぐそばまで迫っていても容易に気づくことはできなかった。
 突然、黒色の凄まじい孤線がロ・メイヒの背後に現れた。刀使いは即座にロ・メイヒの背後まで移動し、長刀をロ・メイヒの後ろ首に向けた。彼の完全な黒色の刀は炎の光を反射せず、全身黒い服も相まって、ロ・メイヒは自身に危険が迫っていることに全く気付いていないようだった。
 だが「鎌鼬」の領域内では、こういった隠密トリックは役に立たない。むしろ相手が素早く動けば動く程、刀の空気を裂く音が明瞭になっていく。
 シーザーは一歩飛び出し、ロ・メイヒの首根っこを掴んで地面を転がし、ディクテイターを繰り出して黒刀の先に割って入れた。二本の刃が叩き合い、激しい火花が四散し、互いに刀身を震わせながら退いた。即座に立ち上がって飛びつくなどという無駄なことはしなかった。シーザーは上着を脱いで前腕に掛け、刀を逆手に持ち、刀身を上着の中に隠した。第二次世界大戦前にフサリアと呼ばれるポーランドの軽騎兵が用いていた軍用剣術だ。軍用マントの中にサーベルを隠し、サーベルの位置を知られないようにしながら、敵と交わる一瞬だけマントを翻して攻撃するのだ。彼は黒い影へ素早く向かいながら、動き回って革のジャケットを鳴らした。ジャケットに付いたシルバーチェーンがガチャガチャと音を立てて相手の聴覚を混乱させるが、本命の攻撃では音も立たない。
 相手はこの古代剣術にも通じているらしく、広範囲をカバーする横斬りに切り替えた。シーザーのナイフは長刀のリーチに圧倒されてしまう。
 双方のスピードやパワーはほぼ互角、勝負は剣術と連続攻撃の組み合わせだ。相手の刀の軌跡はほとんど見えず、直感だけが頼りだ。わずか十秒の間に数十回の斬撃が交わされた。
 この高速高密度の剣戟では小さなミスが命取りだ。だが刀は完全無欠に切り結ばれ、まるで十年来共に舞ってきたバレリーナのように、二人の間で刃が舞った。
 騎兵刀最後の一刀、最後の一刀とはすなわち最強の一刀。シーザーは跳び上がり、空中で素早く三度刃を繰り出した。彼の強力な跳躍は相手の頭上を飛び越え、落下時には相手の背中を見る形になった。そこがシーザーの待ち望んだ瞬間だ。ポーランド騎兵剣術の中の「シェッチォン・シャドル」は、元々は見世物の為の技術であり、鞍の上に立ち、相手の騎兵の背後に飛び込んで斬りつけるというものだ。馬の速度を考慮しなければならない他、気を抜くと飛び出す前に馬から落ちて踏みつけられてしまうなど、難易度はこの上なく高い。シーザーはこの「シェッチォン・シャドル」を平地で使うものにアレンジした。空中の三度の刀はただのブラフであり、最も危険な一刀はその背後から来る。
 相手に振り返る隙は与えない。シーザーの姿を捉えられない相手は真後ろからの攻撃に刀を振るうことはできない。背後に刀を持ちかえるとしても必然的に逆手の不利な状況になり、関節の角度の関係で力を込められない。
 相手は全く身体を動かさず、長刀を翻して肩を通し、背中に斜めに掲げ、左手の逆手で刀の背を持った。
 最も基本的な中国剣術、「蘇秦の背負い刀」。強烈な日本刀術を使ってきていた相手がこのとき、突然中国剣術を使ってシーザーのシェッチォン・シャドルに対応した。二本の刀がまばゆい火花を散らし、蘇秦の背負い刀がシェッチォン・シャドルを完全に捉えた。
 まるで何千回もの演習を経て調整されたかのような、一髪千鈞の変局だった。生死の境界を駆け巡った二人の勝敗は最終的にはつかなかった。暴走族の少年達は呆然と見つめるだけだった。
 刀を引いた相手はロ・メイヒに向かって急行した。ロ・メイヒが反応する前に彼はその襟元を掴んで大理石のカウンターに向かって投げ飛ばしたが、今度はシーザーもロ・メイヒを救おうとはしなかった。代わりに彼は別の方向にジャンプし、暴走族が一番集中している場所めがけて鉄製のゴミ箱を蹴飛ばした。
 そして二人の男はカウンターを飛び越え、左右からロ・メイヒを挟み込んだ。
「あそこまでやる必要があったのか? 俺だと分かったならすぐ止めろ!」ソ・シハンが叫んだ。
「クソが、ろくに見えない中でお前だと確定できるわけがないだろう! お前と同門の別人だったら止めた瞬間首が飛ぶぞ!」シーザーも叫んだ。
「内輪揉めは逃げてからやろうよ! みんなで外へ! みんなで外だよ!」ロ・メイヒもたまらず叫んだ。
 数度の攻防が交わされただけで、二人は大体互いの正体を悟った。全く相手の見えない状況下でどちらも怪我一つ負わなかったのは、力が拮抗していたからではなく、何度も練習を繰り返してきた相手だったからだ。カッセル学院本科生で随一の刀術を持つソ・シハンは、あらゆる科目で最強を求めるシーザーにとって格好のライバルであり、双方を仮想敵として緊密に戦闘法を研究している同士なのだ。シーザーはソ・シハンを上回るためにはシェッチォン・シャドルしかないと考え、ソ・シハンはその対策を一カ月かけて考えた結果、最も基本的な中国剣術で対抗することを思いついた。刀術教程の中には存在しない技術の為、見切られることもない。
 こうして互いに命拾いして生還したという事実は幸運なことに違いない。だが、その幸運を噛みしめる時間はなかった……短銃身ショットガンに弾が装填される音を、彼らは聞いた。


 銃声が耳を震わせ、圧倒的な弾幕が訪れた。バックショット弾の爆発の中にパラベラム弾の音が響く。暴走族の中には米軍配備のベレッタを使っている奴もいるらしい。武器闇市の中でも相当な高級品だ。
「MP7だ! 伏せろ!」シーザーは吼えた。
 ベレッタ9を上回る激しい連射音で、三丁のMP7サブマシンガンが咆えた。バックショット弾は白兵戦では強力なものの貫通力は非常に低く、大理石に対しての効果は破片を飛び散らせる程度である。だがMP7で使用される4.6mm口径の銅殻鋼芯硬化弾は防弾チョッキも貫通するように設計されている。その威力を十分知っていたシーザーがソ・シハンとロ・メイヒの後ろ首を引いて仰向けに倒れ込ませると、その瞬間濃密な弾孔が反対側の壁に現れた。MP7は大理石のカウンターを貫通してくるのだ。
「奴らは普通のチンピラじゃない。俺達を殺しに来ている!」ソ・シハンは地面に横たわり頭を低くしながら言った。「用意周到すぎるぞ!」
「クソッ! 完全に袋のネズミじゃないか!」シーザーは歯ぎしりした。
 MP7の銃撃が一瞬止まった。暴走族は弾倉を替えながら歓声を上げ、MP7を扱う「ヒーローガンナー」を称えて叫んだ。シャレた手つきで銃を構えるMP7の射手をベレッタを振り回す少年達が守るという形で、二十数人の肩を並べた大柄な少年達がゆっくりと近づいて来る。
 彼らの心臓の鼓動が、シーザーの耳の中で激しいドラムビートのように増幅される。少年達の心拍数は毎分180拍を超えていた。アドレナリンが急速に分泌され、人体の潜在能力が大幅に引き出されるが、心臓にも大きな負担がかかっているはずだ。血流も極端に速く、血圧は通常の倍以上まで上昇し、中年であれば身体が崩壊寸前になるレベルになっている。少年達は自らの若さに身を任せ、大幅に上昇した身体能力を手に入れているのだ。シーザーが通路でノックダウンした少年が、下顎にヒビを入れられても意識を失わなかったのも不思議ではない。アドレナリンは痛みを大幅に軽減し、神経反射を強化することにもなるからだ。
 興奮状態のチンピラは無差別発砲のような、普通よりも衝動的に、つゆほどの忌憚も無い事をするようになる。今この少年達も発砲したがってウズウズしているが、機銃の力を最大限に見せたいが為に、近づいて撃とうとしているようだ。
「校則では、龍族、堕武者、及び殺人を犯した混血種にしか、暴力は使えない……」ソ・シハンが囁いた。
「そんなこと言ってる場合か。始末書は俺が書いてやる」シーザーは冷たく言い放った。
「「「アカゾナエ、バンザイ!!」」」少年達が大声で叫んだ。
 一斉に引き金が引かれ、様々な銃がきらめく銃口炎を噴出した。ベレッタとMP7の強力な弾丸は大理石のカウンターを完全に崩壊させたが、この二種の武器よりもさらに「ゴージャス」だったのが十数丁の短銃身ショットガンから放たれた数百発の鉛弾だった。亜音速の蜂群となって、大理石のカウンターの上下四方を完全に覆った。少年達は興奮して叫んだが、次の瞬間、その快楽の叫びは苦痛の呻きに変わった。密集した鉛弾が大理石のカウンターの上で跳弾し、地面と天井で再度跳弾し、前方上方左方右方から少年達に襲い掛かったのだ。
「初心者はパチンコから始めるんだな」シーザーは嘲笑った。
 普通、子供の誕生日プレゼントといえば例えばテレビゲームだが、シーザーの14歳の誕生日プレゼントは二挺のデザートイーグルだった。銃器や弾薬に精通し尽くした彼が16歳になる前に遊び飽きてしまったバックショット弾だが、大理石の壁のような堅固で大きな目標に至近距離で放つなど、最もやってはいけないことである。火薬爆発の運動エネルギーはそれぞれの鉛弾に分配され、弾の速度は必然的に遅くなる。貫通力のある4.6mmとは比べ物にならず、鉛弾は硬い表面で跳ね返り、最終的には射手自身に向かって行ってしまう。バカの一団はカウンターから三メートルも離れないところで発砲し、即座に自らの貪欲さに苦しむことになった。
 数発の鉛弾に見舞われたとはいえ、跳弾した低運動エネルギー弾は致命的とはならず、少年達はアドレナリンのパワーの下で、一度後退して弾を装填、再度一斉発射の体制に入った。
 古代の鐘が鳴ったかのように、古めかしい詠唱が暗闇に響いた。
 気温が一瞬で上昇し、日の出のような光が沸き立つ。真っ赤な壁が押し寄せて少年達を覆い、一瞬で周囲の気温は500度さらに600度へと上がった。高温の空気が少年達の身体に入り込み、気管を燃やし、まるで太陽コロナの中に居るかのようだ。
 黒い影が赤い壁の生まれた方向に立っていた。黒赤色の光孤が、彼を中心とした透明な領域の上を流れていた。
 言霊・君焔、最小出力の爆発。一瞬で高温に達するが、殺めるまでには至らない。暴走族たちはシーザー達を非武装だと思い込んでいたし、確かに彼らは非武装だった。だがソ・シハンは違った。彼自身が一門のバルカン砲なのだ!
 気温が急速に下がり、シーザーは暴走族が取り落とした短銃身ショットガンと弾丸ベルトを回収する為、まだ熱の残る床に足を踏み入れた。勿論、MP7とベレッタを取り上げるのも忘れない。少年達の身体は激しく火傷し、アドレナリンももはや役には立たず、痛みに地面を転げまわっていた。ロ・メイヒは激しくこのアンポンタン共を踏み捩った。彼らの最年少は16か17か、最年長は20代前半だが、彼らの目に人命の価値は映っていない。問題はただ一つ、相手を間違えただけのことだ。
 ハイヒールって素晴らしい! ロ・メイヒは軽やかに踏みつけ続けた。
「似合っている……な」チャイナドレスに身を包み嫋嫋娜娜と化した後輩にどう向き合えばいいのかわからず、ソ・シハンは棒読みの褒め言葉を放った。
 彼の後ろで無数の車のライトが鋭い光の幕を作り出した。銃撃の音が暴走族を貨物搬入口に引き付けたのだ。密集した車のライトはさながら怪獣の目だ。
 ライダーがハンドルを激しく動かし、バイクが疾風の如く空を飛んだ。この暴走族は明らかに相当の刀術訓練を受けている。空中に飛び込んで切り裂く、騎兵刀術における「跳馬刀」だ。刀はソ・シハンへ、バイクはシーザーへと同時に攻撃を仕掛けてくる。バイクとライダーを合わせた重さは数百キログラム、圧し掛かられれば骨折は避けられない。黒色の長刀がしたから上に振り上げられ、ソ・シハンは横に逸れながら日本刀の「逆袈裟」を繰り出した。暴走族の刀と前輪が同時に切り裂かれ、バイクは躓いた馬のように地面に激突。ソ・シハンは空中で暴走族の小腹に膝蹴りを叩き込み、4、5メートル先に打ち飛ばした。彼のキラー的性格が災いし、つい手が出てしまった格好だ。シーザーは動かず、バックショット弾の弾帯を整理している。ソ・シハンがこんな小事を解決できないなら、カッセル学院に居る価値もない。
 さらに多くのバイクが殺到する。少年達はバイクのスロットルを強く捻り込み、赤目の闘牛の大群のように、エンジンを思い切り咆哮させた。
 シーザーが腰から二挺の短銃身ショットガンを抜いた。この旧式ショットガンには一度に二発の弾丸しか装填できず、強力ではあれど、短い砲身のせいで弾道が狂い、MP7やベレッタほどシャープにはいかない。だがシーザーは敢えて軍用武器を使わなかった。シーザーやソ・シハンのような者が軍用武器を構えれば、それは命知らずの少年達の生命を刈り取る死神の鎌を握ることになってしまう。
「狂人とやり合うな! 戻れ!」シーザーは両手の銃を一斉に撃ち、一台のバイクの前輪を破壊した。

 ホールで銃声が炸裂する前に通路を走っていた少年達は、最も刺激的な女子店員を取り囲んでその手足に指を伸ばしていた。真はその少女の泣き声を聞いていられず、頭を抱えて耳を塞いだ。手足は冷え切り唇は紫色になり、心臓が不規則に激しく跳ねる。
 いくら背が高くても、彼女は昔からずっと臆病な女の子だった。雷雨の日はいつもぬいぐるみを抱えて布団の中で丸まっていたし、静かな街中では常に誰かが追いかけてきているような気がして、おもちゃ屋で働く前までは夜に出歩くこともなかった。ネットカフェで初めて働いた時もそれで恥ずかしい思いをしてしまった。客の靴を磨いている間、何気なく二度腕に触れられた時、何か卑猥な事をされるのではないかと思い込み、恐怖に声も出せないまま、持病の不整脈を発症してそのまま倒れてしまったのだ。たまたま医学部卒だった客が店長に救急箱を持ってきてもらい、ニトログリセリンカプセルを投与して心臓マッサージを行ったおかげで、、十五分ほどで目覚めたのだが。
 真が勇敢な女でいられるのは、シーザーやその仲間がいる時だけだ。彼女自身は臆病なのだ。
 彼女はシーザーが大好きだった。勿論、シーザーの背が高くハンサムで礼儀正しいからでもあるが、それとは別に、真にはシーザーに惹かれる理由があった。それはシーザーのプライドだった。真のような庶民とは無縁の、皇帝のようなプライド、「朕は正義なり」とでもいわんばかりのプライド。
 シーザーが居た時は凶暴で残酷な少年達など恐れもしなかったが、今や彼らは纏わりついて来る悪鬼のようにも思える。悪鬼はまるでご馳走を喰らうかのように別の少女の服を引き裂き、それを食い尽くした後は、自分に向かってくるのではないか。彼女は恐怖に泣き叫びそうになった。真はシーザーと離れ離れになったことを後悔し始めた。シーザーさえいてくれれば、鋭い拳で少年達など即座に倒してしまうのに。――女の子は誰でも白馬の王子を思い浮かべることがある。麻生真も例外ではなかった。祖母と一緒に暮らし、裕福とは決して言えない家庭に育った彼女は、学校でもいじめられ、常に頭を低くして小走りで動き、上級生に猥褻をされても先生に訴える事すらできなかった。他の皆はカラフルで華やかな世界に生活しているのに、自分の世界は霞掛かっている。彼女は灼熱の太陽のような白馬の王子を待ち望んでいた。太陽だけが、世界の霞を吹き飛ばしてくれるから。
 激しい銃声と共に、素早い足音が近づいて来る。直後、猛烈なストレートパンチが少女の太腿を撫でていた暴走族を打ち飛ばした……まるで真の声に答えるかのように、別れたばかりのシーザーが舞い戻ってきた!
 ソ・シハンは刀の柄で少年の後ろ首を叩いた。まともな武器の無いロ・メイヒはハイヒールを脱いで少年の脳天に叩きつけた。極力音を立てないように、彼ら三人は数人の暴走族を易々と処理した。
「シーザー!」真は興奮のままに男の名を呼んだ。何度も心の中で反芻した名前を叫ぶのには、恥じらいも抵抗も何もなかった。
 近くの誰かがそうはっきりと呼んだのを聞いたソ・シハンは、まず最初に驚きを感じた。ロ・メイヒはシーザーを「ボス」と呼ぶし、日本において「シーザー」と彼を呼ぶのはソ・シハンしかいない。彼は真を認識すると、彼女を抱えて倒れ込んだ。
 エンジンの轟音が天から降り注ぎ、黒い影がソ・シハンと真の頭上を塗りつぶした。シーザーに会えたことが嬉しすぎた真は完全に忘れていた。彼らは決して、美少女の呼び声に応えて現れた正義の味方などではない……。彼らはこの通路にアヒルのように群れて逃げて来ただけなのだ。まばゆい灯火がその背を追いかけ、先頭の暴走族が前輪を起こし、回転するバイクの車輪が真に迫る。シーザーが一台のパソコンモニターを手に取り少年の顔に叩きつけると、少年は宙を舞い、顔中血だらけになって仰向けに倒れた。
 背後の少女を守るため、シーザーはまだ轟音を立て続けるバイクを蹴飛ばした。ソ・シハンが身を翻して両手の短銃身ショットガンを連射すると、目の前のタタミが跳ね上がり、後続の二台目のバイクを真っ逆さまに吹き飛ばした。
 横転した二台のバイクが小さな障壁となり、その向こうのバイク群の前進を阻んだ。
 ロ・メイヒが少女を通路から脱出させ、シーザーとソ・シハンが制圧射撃を行う。弾を装填する暇は無かったが、腰には7、8丁の短銃身ショットガンがあり、撃ち尽くしたものから捨てて新しい銃に替える。密集した弾幕は暴走族に前輪を上げた防御態勢を強いて、いくらかその勢いを弱めることに成功した。実際、シーザーもソ・シハンも直接暴走族を撃つことはしなかった。バックショット弾が直撃すれば人命を奪うことになってしまう。二人は壁に向かって発砲し、跳弾した鋼球がバイクに当たって激しい音を立てた。
「いくよ!」ロ・メイヒが叫び、通路の先にある安全扉を閉め始めた。
 少女たちが全員通路から脱出すると、シーザーは持っていた短銃身ショットガンを捨て、ベレッタを抜いて足元にあるバイク用燃料タンクに向かって発砲した。天井まで昇る激しい炎の中、二人は急いで通路の先まで逃げ走った。
 シーザーがなんとか通路から飛び出すと、追いかけて来た暴走族がやって来た。アドレナリンに触発された少年達は死をも恐れず、激しい炎を突っ切ってバイクで突撃してきたのだ。ソ・シハンが扉を荒々しく閉めると、扉が先頭の暴走族の顔面に激突し、バイクが扉に挟まった。シーザーがそれを片手で引き抜くと同時に、ソ・シハンが残りの半分の扉も閉め、シーザーがカギを捻り、ソ・シハンとロ・メイヒがそれぞれ上下の閂を入れた。三人は扉に背を預けて激しく息をした。普通ならばシーザーとソ・シハンがこの程度の運動で息切れするなどありえないが、二人は極度の空腹だった。ロ・メイヒはラーメンと煮込み卵を食べたおかげで大丈夫だったが、空腹とは関係なく息切れしていた。
 安全扉が震動した。どうやらバイクを通路の扉に打ち付けているらしい。その上ドンドンと扉を叩くなど、この少年達はやはり頭がおかしくなっている。こんな状況で扉を叩いた所で開けてくれるなどと思っているのだろうか?
 シーザーは何も考えず、扉の上から短刀を逆手で一撃突き刺した。ディクテイターの刃は4インチほど食い込み、扉の厚さの3インチを引いた1インチ程の刀が向こう側に突出した。短刀を引っ込めるとその先に小さな赤色がこびりついていたが、誰の手の平に刺さったのかは分からない。四方八方にエンジン音が響き、ネットカフェ内でバイクに乗って大暴れしているようだが、それが何人いるのかも分からない。今のシーザー達は百人の騎兵隊に包囲されているのと同じだ。百人は多すぎるかもしれないが、どちらにせよここから逃げられる退路はない。
 シーザーは残った短銃身ショットガンに弾を装填した。「両手を上げて降伏したいやつはいるか?」
「降伏なんてボスや先輩に一番似合わないよ。節操のない人は『時を読むのがインテリジェンス』とか言うけどね……」ロ・メイヒは足を琵琶のように震わせながら、持病のナンセンスおしゃべり症を発症させた。
「殺人の意思のある相手に暴力を使うのは、正当防衛といえるんじゃないのか?」ソ・シハンは冷たく言った。
 ロ・メイヒはキラー先輩が何を考えているのか理解して、三人は皆同じ思考に至った……。だが、君焔は大規模殺傷性兵器である。無為に使えば、暴力団の人質になっているような者達に影響を及ぼさないとは限らない。この少年達の全員がアウトローであるという保証はないのだ。
「更衣室に行かないんですか? ここからなら近いですよ」真が近くで言った。
「ニーハオ。ソ・シハンだ。以後宜しく」ロ・メイヒ同様日本式のアイサツを知らなかったソ・シハンは、ちょうど真に初めて会った時のロ・メイヒと同じように手を差し出して握手した……。まるで英米連合軍の兵士が塹壕で出会った時のような感じだ。
「エヴァは広間を通り抜けた先が更衣室だと言っていたが」シーザーは言った。
「広間を通り抜けても行けますけど、こっちからでも行けるんです」真は言った。「さっきまで暴走族が居たので、避けていたんですが――」
 シーザーが大きく口笛を吹いた。話がまとまりもしないうちに、背後の壁が安全扉ごと崩壊した! 高さ4メートル程の大型フォークリフトが塵の中で咆え、時速3、40キロはあろう速度で突っ込んできた。巨大な掘削ショベルを高々と掲げ、鉄の歯が砂石を削り取っていく。ソ・シハンはロ・メイヒを掴んで鉄歯の下から引き寄せ、シーザーは真を抱えて投げ飛ばし、バックステッポしながらMP7を肩から下ろして掃射した。弾丸は高々と掲げられた掘削シャベルに阻まれ、濃密な火花を散らした。通常弾ではこの巨大機械を貫くことなどできない。
 ベレッタ、MP7、掘削フォークリフト……暴走族はますます危険な装備を投入してきている。もはや計画的な軍事進攻だ。「ヤクザ・ヴェンデッタ」どころの話ではない。
「走れ!」シーザーは叫んだ。
 フォークリフトが焚き付ける黒煙を背に、四人は振り返らず前に進んだ。個室、壁、スライド・フスマが鉄歯によってなぎ倒され、濃密な塵芥が通路に沿って滾る。黒煙の中からまばゆいサーチライトがシーザーの背中を照らす。前方にはまた別の安全扉があり、その先からバイクの轟音が聞こえてくる。もはや道は無かった。この一髪千鈞の状況下ではソ・シハンが「君焔」を放っても間に合わない。反対側の壁とフォークリフトに挟まれたまま死を待つしかないだろう。
 シーザーは突然立ち止まり、背後に渦巻く巨大な黒煙に毅然と相対した。彼は決断した。賭けるしかなかった。ブラッドブーストの後に跳躍して掘削シャベルを飛び越え、運転席に乗り込んで暴走族を殺すのだ。
 その時、誰かがシーザーの腕を掴み、何の説明も無く暗闇の中に引きずり込んだ。フォークリフトが彼の顔面の傍をガタガタ言いながら通り過ぎ、幅2メートルの通路を幅3、4メートルの工業廃墟に変えた。
 繊細な手がひとつシーザーの口を覆って声が出ないようにした。シーザーはほのかなサンダルウッドの匂いを嗅いだ。真の匂いだ。
「フォークリフトに私たちは見えません。運転席からはシャベルが邪魔で、あれはただ前に進んでるだけです」真の声は蚊の音ほどに小さかった。
 シーザーはその時理解した。フォークリフトを運転する暴走族は銃への防御としてショベルを上げたが、障壁となったショベルは同時に視界の妨げになっているのだ。案の定フォークリフトはそのまま一直線に進み、それを追う暴走族は一面に銃を撃ち鳴らしながら廃墟中を探索していた。彼らの中では、シーザー達は既に廃墟の中の肉クズになっているのだろう。


 その時、真はシーザーチームを率いて、ちょうど成人ひとりが横ばいになって通れる程度の幅の従業員用通路を進んでいた。まさに日本らしい設計というところか、従業員用通路は客から見えにくい隅や隠し扉の中にあり、従業員と客が通路で鉢合わせすることのないようになっている。従業員用通路は更衣室に繋がっており、そこは精緻な客用個室と比べれば簡素でボロボロだった。年季が入って黄ばんだ四面の壁には通気口の類も無く、木製の長椅子は朽ちかけ、簡易的なシャワー設備は錆まみれ、モワモワとした白い水蒸気の中に鉄製ロッカーキャビネットが立っている。年若い少女がこんな荒れ果てた場所でセクシーでタイトなチャイナドレスに着替え、秘密の通路を通り、眉目秀麗な笑顔で客の前に姿を現すのだと考えると、シーザーの心は少し感動を覚えるのだった。
 ソ・シハンは壁に耳を寄せた。「水の音がする。EVAの情報は正しいようだ。トルコ風呂の下水道管がこの壁の裏にある」
 シーザーは周囲を見回したが、使えそうな道具が特に無いと分かると、湿った薄い壁に向かって渾身の蹴りを繰り出した。ひしめき崩れ落ちた壁の向こうに、直径2フィートほどの下水管が現れた。ソ・シハンが下水管の表面に手を伸ばすと、温度は40℃程度だった。間違いなくトルコ風呂の下水道管だ。客が沐浴した後の湯が、この管を通じて地下へ流れている。
「シット! 他人の風呂の湯に浸かれというのか!?」シーザーは眉をひそめた。
「この際仕方ない。問題は工具が何もないことだ。どうやったら下水道管を開けられるんだ」ソ・シハンが言った。
「お前の君焔で焼けばいいだろうが」
「そこまでパワーを制御するのは難しい。建物が古すぎるから、爆発で崩壊するかも分からん」
「だったら弾丸の火薬を使って配管の基部を爆破するぞ。50発分もあれば火薬は足りるはずだ」シーザーはベレッタからマガジンを引き抜いた。バックショット弾やMP7の弾に比べれば、パラベラム弾が内蔵する火薬の量は多い。
「信管に使えそうなものがないぞ」ソ・シハンが言った。
「これがある」シーザーはズボンのポケットから、広告チラシに巻かれたタバコ、ソフトセブンスターの吸い殻を取り出した。黒い顔の老婦人に白目を剥かれても、シーザーは既に二度も吸ったこの大衆向けタバコを捨てられずにいた……。金持ちのイケメンがこんな寂しいことをしなければならない程、事情は逼迫しているのだ。
 ロ・メイヒとソ・シハンが弾の抉りを、シーザーが簡易爆弾の設置を担当した。弾丸の火薬を使い、サイをも脅かす小型爆弾を作るという、東アフリカのハンターから学んだサバイバル技術だ。
 真は自分のロッカーを開けた。ロッカーボックスにはここ二日分の彼女の給料と数着の私服が入っている。暴走族に建物そのものを破壊し尽くされてしまうのも時間の問題なら、せめて貴重品だけでも回収しようと思ったのだ。
「誰か来るぞ」シーザーは突然手を止めた。
 数秒後、全員の耳に壁を擦る音と足音が聞こえた。誰かが従業員用通路を歩いているのだ。シーザーがベレッタをソ・シハンに投げ、二人は静かに弾丸を装填した。真とロ・メイヒは一緒にロッカーボックスの裏に隠れた。ガタガタと扉を引く音が聞こえ、ガタガタと扉を押す音が聞こえると、男がひとり更衣室に入り込み、ロッカーボックスの列を手探りで歩き回り始めた。男はロッカーの扉を一つずつ引いたが、扉は全て施錠されていた。ネットカフェで働く少女たちのプライベートスペースはこれだけで、重要な私物が入れられているロッカーが全て施錠されているのも当然である。だが男は唯一施錠されていないロッカーを見つけた。真のロッカーだった。彼女は現金を取り出した後、鍵をかけるのを忘れてしまったのだ。
 その男は真のロッカーの中で何かを弄っているようだった。シーザーは真とロ・メイヒの二人に動かないようジェスチャーし、ソ・シハンに手を振り、左右から二人で包囲することを提案した。
 ソ・シハンが親指と人差し指で円形を作ると、シーザーは手のひらを広げ、前方にナイフのように振った。カッセル学院の戦術手話だ。二人で同時に攻撃し、シーザーがメインのアタッカー役になることを伝える意味だった。
 ソ・シハンが隠れ場所から狙いを定め、痩せこけた小男の背中をロックオンすると、シーザーが素早く飛び出し、男の細首に肘打ちを決め、パンパンの上腕二頭筋を喉に押し付けると、男は声も出せなくなった。男がまだ抵抗するようなら、シーザーはいつでもその細首をへし折るつもりでいた。カラーストライプのワイシャツを着た男は防御する様子も無く、シーザーに喉を抑えられるまで、手に持っていたものの匂いを嗅ぐことに集中している様子だった。シーザーが銃床で男の鼻梁を打つと、彼は鼻血を垂らしてうなだれた。男は手に真の下着を握り締め、ポケットには白い下着の紐が見えていた。彼の仲間がシーザーチームを殺しに追いかけている間、この男は女子更衣室に現れ、まさに下着泥棒を働こうとする所だったのだ。
「うわぁ!? このクソ変態、僕のお尻を触った奴だ!?」ロ・メイヒは足を高く上げ、男の顎に蹴り落とした。戦術の授業で学んだムエタイの踵落としだ。
 颯爽としたトドメ演出の代償としてチャイナドレスのストッキングがビリッと裂け、チャイナドレスのキレイな姿がより一層魅惑的な感じになった。
 広間でロ・メイヒの尻に触れた猿顔の男だった。人殺しには興味を示さず、下着を盗むことばかり考えていたらしい。荒ぶり狂う暴走族の中ではまだ普通と言える方である。
 真は傍に立ち尽くして赤面した。日本女子としてはだいぶ背の高い彼女は、おばあちゃんが使うような古めの下着しか着けられず、小さいピンク色やベビーブルー色の下着を好む学校の下着泥棒には見向きもされなかった。物干し台ごとごっそり盗まれても、真の下着だけがぽつんと残っていたこともあった。嬉しいと言っていいのかは分からないけれども、遂に自分の下着も盗まれるようになったなんて。
 シーザーは真について来させる気は無かった。三人がテレビに似顔絵付きで出て全国指名手配されていても、真に関係のあることではないし、関わるべきことでもない。確実に真の顔を見てしまった猿顔の男に何か言いふらされれば被害が真に及ぶ。事が済んだ後に様々な手掛かりを辿って、真の家まで巻き込むかもしれない。シーザーの心に一瞬殺意が湧いた。死者は最も安全だ。死人は何の秘密も吐かない。もしガットゥーゾ家の他人だったら、迷わず脳天に一発撃ち込むだろう。だがシーザーは殺意を抑えた。下着泥棒はもちろん悪だが、殺人衝動しかない野獣のような他の者どもと比べれば、死に値する程の奴ではない。
「頭蓋骨にヒビを入れられたくなかったらこれ以上動くな。俺の言う事を静かに聞け」シーザーは恐怖で男を制圧しようと、ベレッタを猿顔の男のこめかみに当てた。
「もう、怖すぎて失神したみたいだよ。失神しなくてもボスの言葉は通じないと思うけど……」ロ・メイヒは言った。
 シーザーが強い匂いを感じて視線を下ろすと、猿顔の男は白目を剥き、股間を濡らし、ズボンから黄色い尿が漏れていた。この男は体格も胆力も体力も暴走族の中で最弱、なぜこの暴力グループの中に居るのか分からないくらいだ。
 シーザーが慌てて男を投げ飛ばすと、猿顔の男は背骨の引き抜かれた蛇のようにぐったりと倒れ、ロッカーボックスの扉に頭を打った。シーザーは自分のミスを悟った。慌てて猿顔の男の首根っこを掴んだものの時すでに遅し、バゴン、という大きな音が響いた。
 いくつかの壁の向こう、往来する足音が突然止まった。銃を持ってウロウロしていた彼らは更衣室からの音を聞き、大声で何かを叫びながら、従業員用通路を探り始めた。
 日本語の分からないシーザーは、その言葉が猿顔の男の名前なのか「誰だ」と叫んでいるのも分からなかったが、どちらにせよ結果は同じ、従業員用通路を見つけた暴走族は女子更衣室に必ずやってくる。シーザーとソ・シハンは即座に顔を見合わせた。長い旅の末、二人は既に「油尽き灯枯れ」てしまっていた。致命的な武器を手にしたチンピラと正面からぶつかり、わずかな隙にバックショット弾を受けてしまえば、優秀な血統であろうと救われることはない。
「足を撃てば致命傷にはならない」ソ・シハンはベレッタの安全装置を外した。
「だが弾が無いぞ。ほとんど爆弾に使ったからな」シーザーは腰から短銃身ショットガンを抜いた。
「隠れて! ロッカーに隠れてください! あとは私に任せて!」ふと思いついたかのように、真が小さくも鋭い声で言った。
「どういうつもりだ!?」シーザーは眉をひそめた。
貴族にとって女性とは下位の存在である。骨灰磁器のように、可愛らしく美しくも貧弱無能。貴公子の使命とはこの磁器を守ることであって、敵の銃弾への盾にすることでは全然ない……。ノノのようにアグレッシブな少女なら鉄パイプを鎌鼬の如く振り回して殴り倒すこともできるだろうが、真はごくごく普通の女子学生でしかなかった。
「私にいい考えがあります!」彼女は何の説明も無くシーザーをロッカーの中に押し込んだ。ロッカーは相当狭いものの高さは二メートル程、少女たちのワンピースが入るくらいには大きく、シーザーを収容するにもちょうどいい大きさだった。
 真は別のロッカーの扉を引いたが、完全に鍵がかかっていた。代わりにソ・シハンが手を伸ばし、小さな南京錠を握りつぶした。ブラッドブーストが無くとも、この程度は彼の握力なら容易い。
「あの……あの、お兄さん! よろしくお願いします!」真はロ・メイヒに頭を下げた。
 この子、あの雨の夜のイケメン集団に僕らも居たこと忘れているんじゃないのか? ボスとあまりにも扱いが違いすぎる……ロ・メイヒは心の中で愚痴った。確かにボスは金持ちでイケメンだから女の子に覚えられるのも当然だけど、ソ先輩だって顔面麻痺でもイケメンなんだから無視することはないじゃないか。……ロ・メイヒは不躾にもソ・シハンに対しそう思わざるを得なかった。ロ・メイヒは真と力を合わせて猿顔の男をロッカーに引きずり込むと、ストッキングを履いた足を振り上げ、くずかごの中のゴミを圧縮するかのように猿顔の男を踏みつけてから、ロッカーの扉を閉めた。
「おい!!」シーザーがロッカーの扉を開けて頭を突き出した。「危ないことをするな、別のやりようはある!」
 言葉通り、シーザーには策があった。更衣室の一番端のロッカーの裏に隠れ、暴走族がやって来ればロッカーを引き倒し、ドミノ倒しのように一人残らずロッカーの下敷きにしてしまうという作戦だ。もちろん、死人が出る可能性は否めないが。
「 ダイジョブです! あいつらは私には何もしませんから!」真はシーザーの頭をロッカーに押し戻した。「私はここの店員です。疑われたりはしません」
 そうこう話している間、彼女はシャツとジーンズを脱ぎ、誰かのロッカーから制服を取り出して慣れた手つきで着用した。ロ・メイヒは下着姿の女の子を見て鼻血を出すことを恐れて、さっと振り返ってロッカーの中に入った。ソ・シハンは下水道管への穴をベンチで塞ぎ、暴走族に壁の穴を見つけられないようにした。彼は最初から真の意図を理解していた。女子更衣室から音がするというのは、女子更衣室に誰かがいるという事だ。これを自然な状況にするにはシーザーチームでも猿顔の男でもなく、真が原因にならなければならない。女子更衣室に女性店員が居ることには何の不思議もない。だからこそ真は自分の身分を示す為、制服に着替えなければならなかった。暴走族が本気でロッカーの中を探し回る前に、真正面からぶつかればいいのだ。
 ソ・シハンはロッカーの中から数枚の服を引っ張り出し、猿顔の男が床に残した尿を拭き取った。ふと見上げるとそこには既にチャイナドレスに着替え終えた真が立っていた。チャイナドレス姿の真をソ・シハンが見るのは初めてだった。女性の美に鈍感な彼は、真もいわゆる美少女と言う類に入ることにそこでようやく気が付いた。
 素早く別のロッカーの中に隠れたソ・シハンは、中にあった制服の裾を引っ張り前を覆った。
 暴走族たちが入り口に近づいて来る。シーザーのベレッタを握る手に力がこもり、手の甲に青筋が浮かぶ。真の策にはほとんど期待していなかった。暴走族の側からすれば当然女子更衣室は徹底的に探し回るだろうし、ロッカーの扉など開けなくてもショットガンを二発程度食らわせればそれで済んでしまう。
 突然ロッカーの扉が開き、数千円分の紙幣を持った真が現れた。客からのチップであろう多少の小銭も握られている。彼女は有無を言わさずシーザーのポケットにそれを突っ込むと、再び扉を閉めた。
 こんな時でも、彼女は落魄男子たちが無一文であることを忘れてはいなかった。
 暗いロッカーの中、わずかな紙幣はシーザーの心に触れ、ノノと一緒にラスベガスに遊びに行った時のことを思い出させた。興奮を求めるノノはポールダンスクラブに行きたいと騒ぎ、妖媚なダンサーがステージから身を乗り出してシーザーに向けて胸を揺らすと、ノノは彼の手に札束を握らせ、ダンサーの胸元に突っ込ませたのだった。このシーザー・ガットゥーゾにそんなことがあったなど、真は露ほども思わないだろう。彼は自嘲気味に笑った。
 更衣室の扉が猛然と打ち開けられ、真は恐怖に叫びながら角で縮こまった。7、8丁の短銃身ショットガンが更衣室の内部に向けられ、少年達は特別警察の真似をしてプロフェッショナルっぽい姿勢を取った。女子更衣室に非番の一人しかいないと分かると、彼らは不満をあらわにした。一人の暴走族が真の近くに迫り、彼女の長い髪を掴んで顔を無理矢理上げさせ、満足げな表情を浮かべたが、真が完全に立ち上がると、再び不満気な表情になった。真はハイヒール込みで180センチ、少年の身長はせいぜい160センチで、彼は真の顔を見上げる格好になり……まさに男のプライドが破壊される瞬間であった。
 少年が真の髪の毛を掴んだ時、背後のロッカーの中でフル装填のベレッタが二丁もその背に向けられているなどとは、全く気付いていなかった。彼は低身長に生んでくれた母親に感謝すべきだった。余計なプライドで邪な心を喪ったことが、彼の幸いだった。
 一人の暴走族がショットガンを構えて下水道管の方に向かい、ソ・シハンが置いたベンチを蹴飛ばした。真は心臓が止まるほど恐怖したが、暴走族は壁の穴を一瞥しただけで振り返り、仲間に向かって首を横に振った。老朽化した女子更衣室の壁に大きな穴が開いているのは確かだが、その後ろに逃げ道となる下水道管があるなど思いもよらなかった。一人の少年が足を上げ、ロッカーの扉に強く叩きつけた。開いた扉の中には綺麗に掛けられたワンピースやカラフルなブラやパンティ、その下には数足の女物の靴が入っていた。少年はパンティを掴んで自分の頭に被り、両手でブラを引っ張りながら振り向き、仲間に向かって長い舌を出した。その場にいる全員が大笑いした。
 少年は素早く振り返り、ポーズを決めながら銃を構えた。放たれた一射がロッカーの中の衣類をことごとく粉々にし、ピンクにブルー、アップルグリーンといった下着の破片が硝煙の中でロッカーから飛び散り、少年は思い切り狂ったように笑った。彼は弾を装填すると、さらに隣のロッカーの中にも射撃した。
 猿顔の男のようなヘンタイ性は無く、まるでブドウ畑に入り込んだイノシシがブドウの樹を全てなぎ倒そうと猛るがごとく、破壊だけを追い求めていた。
 彼の仲間もこの「下着デストロイヤー」ゲームに参加し始めた。銃口から火を吐き出す度、カラフルな薄生地が宙に舞った。
 シーザーは冷汗をかいていた。事の進展は彼の予想を完全に超えていた。少年達は現代的殺人兵器を装備してはいるが、頭のレベルはゴリラ以下らしく、ロッカーの中に人が隠れているなど疑いすらしていない。好都合なことではある。ゴリラ以下の注意力は女子の下着に完全に夢中になっていて、年頃の欲求不満を発散するかのように、下着を銃で撃つことにある種カーニバルのような満足を得ているのだろう。だが彼らの破壊の手はシーザーの隠れているロッカーに段々と近づいてきていた。このままバックショット弾でロッカーの扉ごと撃ち破られる前に、何か手を打たなければならない……。奴らがただ色んな下着が吹き飛ぶ所を見たいだけだとしても、下手な鉄砲を数撃たれる側からしたらたまったものではない!
 少年達はシーザーの隠れ場所までロッカー三つという所まで来たが、止まる気配は無かった。シーザーは目を閉じ、鎌鼬で少年の心拍を聞いた。まだ続けるつもりなら、武力を使うほかない。
「アッ! ナンデこんなヒデェ! マジサイアクダッゼ!」銃を持った少年が血まみれになった黒い子猫を見つけ、嫌悪感を露わにした。
 およそ生後一か月未満の黒い子猫が、小さなピンク色の篭の中にうずくまっている。少女の誰かが家にペットとして連れて帰ろうと思い、仕事が終わるまでロッカーの中に入れて置いたのだろう。高密度の弾丸がロッカーの扉を貫通して子猫の身体に突き刺さり、まだ目もろくに開かず、まともに世界を見る事もできないまま、ほんの一瞬でその命は散ってしまった。両手で顔を覆っている真が見る事は無かったが、黒い子猫は銃創の一つ一つからドクドクと血を流し、脳の半分が弾け飛んでいた。白い爪の可愛い子猫、本当なら飼い主の腕の中で揺れていたはずなのに。
「ヤメダヤメ! イクゾイクゾ! 遊んでる場合ジャネー!」暴走族のリーダー格が床に激しく唾を吐いた。
 するとその場の少年全員それぞれ床に唾を吐き、粗暴に真を更衣室から連れ出していった。日本人は黒猫をひどく忌む。黒猫が目の前を横切ると、不幸が訪れると信じている。特に毎日レースに勤しみ、交通事故が日常茶飯事の暴走族にとっては、こういった吉凶の兆候は重要なものであった。黒猫が前を歩いた車には一ヶ月乗らず、黒猫を轢死させた車は焼却処分する。黒猫はその身に鬼魂を持つ霊的存在であり、黒猫が死ねば鬼魂は車に乗り移り、遅かれ早かれ死人を出すからだ。
 シーザーは長々しいため息をついた。無辜の子猫は犠牲になったが、そのおかげで人の命が守られた。シーザー達が暴走族と銃撃戦に入れば、流血は免れえず、死人が出ても不思議ではなかった。
 真が更衣室から引っ張られていったとき、シーザーはロッカーの換気孔を通してその始終を見ていた。真はシーザーに向かって三度瞬きをして、シーザーに何かを思い出させようとしていたが、シーザーには何の心当たりも無かった。
 足音がだんだん遠ざかっていく。シーザーはロッカーの中のかすかなサンダルウッドの香りを嗅いだが、真の髪のそれとは少し違っていた。


 シーザーがロッカーの扉を押し開けると、ソ・シハンは既に銃を構えて更衣室の扉を警戒していた。フォークリフトが未だにガタガタと往来しているらしく、四階建てのこの建物はもはや穴だらけになっていた。
「真ちゃん襲われないかな? 大丈夫?」ロ・メイヒは不安がった。まだ未成熟な少年集団とはいえ、アカゾナエには良心というものが全く感じられず、悪いことは何でもしそうだと思えた。
「奴らは俺達と真さんが一緒にいる所は見ていない。関係ない彼女には何もしないだろう」ソ・シハンは囁いた。「一介の弱小暴走族がここまでやるというのは、背後に誰かがいるということだ。奴らは俺達の抹殺に派遣されているだけで、女の子をどうこうしに来たわけじゃない」
「急いでここを離れるぞ。外にさえ出ればあとは簡単、クソガキ共と爆走バトルだ」シーザーは壁の穴に向かい、爆発物の準備を続けた。
 弾丸から百グラム程の火薬を取り出し、配管の継ぎ目に詰め、適当な布で何重にも巻く。シーザーは半分になったタバコに火をつけ、その隙間に挿し込んだ。ロ・メイヒは子供の頃に遊んだ爆竹を思い出した。通常の数倍という当時最強の威力を誇った爆竹シリーズ『閃光雷』……。三人が身を隠すと、タバコが燃え尽き、沈悶とした音を響かせながら配管が震え、濁った熱水が亀裂から噴き出した。エヴァの情報はまさに正確だった。シーザーはベレッタから取り外した部品を使って二本の配管を繋げるネジを回したが、錆び付いたネジは既に相当緩んでおり、長さ1メートルの配管を下ろすのに苦労はしなかった。
 下には滔々と流れる白波の下水管が続いている。東京の下水道がここまで激しいものとは想定していなかったが、あの鉄穹神殿を見てしまえば、東京は確かに「地下水」が豊富な都市だとも思える。
 ソ・シハンが躊躇いなく飛び込んだのに続いて、ロ・メイヒも鼻をつまんで飛び降りた。他人の風呂水に浸かることは構わないが、飲んでしまうのは少し気が引けた。
 シーザーは長いため息をついた。入浴剤のブランドにまで拘りのある彼にとっては、石鹸の泡と皮脂でいっぱいの水に飛び込むのは勇気が必要だった。水の中にどれだけの細菌や微生物がいるのかも分からない。
「ボス、考えちゃダメだよ! お風呂屋さんのシャワーでおしっこくらいするでしょ!?」ロ・メイヒが水の中から手を振る。
「メイヒ、黙れ。公衆浴場で用を足す奴などいない!」ソ・シハンは真剣な表情で反論しながら手を振った。
 バカども、なんて奴らだ! 一番想像したくもないことを言ったくせに配慮ぶるな! 特にソ・シハン、お前の真面目な表情には全然説得力が無い! まるでノースコリアのアナウンサーだ! ……シーザーは心の中で言った。
 彼は目を閉じ心を無にし、口と鼻を塞いで飛び込んだ。ソ・シハンとロ・メイヒも同時に手を放し、水の流れるままに漂った。四方八方からゴウゴウという水の音が聞こえ、目の前には指先も見えない闇が広がる。


 雷も稲妻もまったくないまま、天をひっくり返したかのような暴雨が突然降り始め、大きな雨粒が車の屋根を音を立てて叩く。遠くの駐車場では赤いライトがちらついている。大雨が車の盗難防止システムを作動させたらしい。
 路地を抜けた先の長い通りに十二台の高級スポーツカーが停まっている。ヘッドライトが点灯し、エンジンも切られていないが、車の中には誰もいない。暴走族にエンジンを切るという習慣はないのだ。彼らは飄然と現れ飄然と去る風流な男を気取りたがり、決められた場所に駐車することなど滅多に無い。短時間の用事があれば車は唸らされながら路傍に停められ、通行人の目を集める。千鶴町付近で唯一の暴走族組合であるアカゾナエに、車を盗まれるなどという発想は無い。そもそも盗難車の99%は彼らの手で売られている。誰かが車を盗めばその車を盗み返し、盗人が代わりに死ぬだけだ。
 これほど威圧的なスポーツカーの陣容を、ロ・メイヒは今まで見た事も無かった。スポーツカーの車高は低く、シャーシは地面スレスレ、曲線は少女のように曼妙。暴走族の車は暴力的改造が施され、カーボンファイバー製のフロントカバーと大きなエンクロージャーが標準装備されている。様々なテーマの色や彩のライトが搭載され、それぞれがまるでSF映画に出てくる別惑星の交通車輛のようだ。ロ・メイヒたちは下水道を二条ほど漂った後、マンボ・ネットカフェに車を盗みに戻って来た。
 燃えるように赤いバイパーを選んだシーザーは、運転席に座った後、革製のアームレストに手をやり、指の匂いを嗅いだ。「ドラッグ……LSDか? 奴らの心拍がやたら早いと思えば、ドラッグをやってたのか」
 ソ・シハンはグローブボックスの中に白い粉の入った大きなビニール袋を見つけた。「純粋な四号ヘロイン……こんな高級スポーツカーを買う金があるわけだ。ドラッグレースどころか、ドラッグまで生業にしている」
「こんな高くてカッコいいスポーツカーをただの不良が買えるわけないじゃん!」ロ・メイヒは憤った。「バカ!」
「バイパーはそこまで高くないぞ。アメリカのマッスルカーはスピードを排気量に頼っていて品位が無い。お前に壊された俺のブガッティ・ヴェイロンでバイパーなんぞ二十台は買える」シーザーは軽蔑した。
「アーアー聞こえない! それよりボス、あんまり飛ばさないでよね!? 僕の首が折れちゃいそうだから!」ロ・メイヒは苦々しい顔をしながら言った。
 バイパーのような超級スポーツカーには座席が二つしかない。三人が乗る最も簡単な方法は、助手席のソ・シハンの膝の上に座ることだ。ゴロツキにナイトクラブから連れ出されたチャイナドレス娘のように、ロ・メイヒはソ・シハンの両腕に腰をしっかりと抑えつけられた。だがバイパーの屋根が低すぎて、チャイナドレス娘メイヒは首を曲げ、顔全体をフロントガラスに押し付ける形になっていた。
「先輩、あんまり強く締め付けないでね。腰が細いのはちょっと自慢だけど、あんまりギュってされるとくすぐったいし、くすぐったいと変な声出そうになるよ」ロ・メイヒはやや婉曲的に言った。
「シートベルトが締められないから仕方ない。俺がお前を抑えないと、シーザーの運転でフロントガラスを突き破って飛んでいくぞ」
 シーザーは慣れた手つきでマニュアルギアに切り替えた。血のように赤いスピードメーターが点灯し、巨大な蛇の頭がコンソール中心に現れた。バイパーの横滑り防止装置をオフにし、ダッシュボードに「ESC FULL OFF」と文字が出れば、もはや車は完全にシーザーの手の中にあった。
 ファミリーカーを運転する一般人ならABSやESCといった電子制御システムは必要だろうが、シーザーのようなレーサー級の暴走ドライバーにとっては、そういったシステムは枷でしかない。こういった暴力的メカはその両手で手綱を握ってこそだ。
 シーザーがアクセルを踏み抜いた。バイパーはその場から弾丸のように飛び出し、前方のGTRのテールランプに激突した。同じく高馬力のスポーツカーを運転したことのあるソ・シハンには先見の明があった。もし彼がしっかりと腰を握っていなければ、ロ・メイヒは一瞬でフロントガラスを砕いて鳥のように空を飛んで行っただろう。それでもロ・メイヒは全身がフロントガラスに貼り付き、圧力で顔はまるでステッカーのように歪んだ。ロ・メイヒはソ・シハンの運転する車に乗ったことがあった。時速40キロで車線を逆走するなどソ・シハンも十分暴力的な運転をする方だが、シーザーに比べればソ・シハンはまだ優良熟練ドライバーだった。
「抑えてェ!」ロ・メイヒは叫んだ。
 ソ・シハンもなんとか腰が動かないように抑えつけてはいたが、シーザーはバックでもアクセルを踏み抜き、後ろにいたアウディR8スポーツカーを十数メートル吹き飛ばした。燃えるような赤いバイパーは暴走する野獣のように前後の障害を吹き飛ばし、貴重な高級スポーツカーを横滑りさせたりひっくり返したりして、徐々に一本の道を作り上げていく。バイパーの前後のバンパーが脱落したが、シーザーは気にすることもなかった。彼にとってバイパーは遊園地で乗るバンパーカーのようなものであり、ロ・メイヒに破壊されたブガッティ・ヴェイロンに比べれば安いものだと思えた。だがロ・メイヒの心では一度衝突する度にお金の音がしていた。スポーツカーがぶつかり合う度に砕けるテールライトやガラスはお金そのものだった。地面にはお金が転げていた。その内のいくつかは本物だった。どこかの車のトランクの中にあったスーツケースが地面に落ち、一万円札が風に乗って漂い、バイパーはその万冊の風の中を駆け抜けていく。
「少しくらい拾わせてよ!」ロ・メイヒは心を痛めて叫んだ。
「俺達を殺しに雇った金か? 箱を開けてもいないなんて可哀想だな」シーザーは冷たく笑った。「降りるなよ。奴らがいつ出てきてもおかしくない」
 ソ・シハンはロ・メイヒの腰から片腕を放し、MP7を持ってネットカフェの正面扉に向けた。シーザーがこれだけ大暴れしているのはネットカフェ内の暴走族を引きずり出すためだ。彼にはカーチェイスに対する絶対の自信があった。13歳でニュルブルクリンクのレースに出場したという事実もその裏付けだ。ニュルブルクリンクは山の中を縫うように走るコースであり、レーサーにジェットコースターのような感覚を与え、木々の壁に挟まれたコースは緑の地獄とも呼ばれる。ブガッティ・ヴェイロンを失って以来ハンドルを握るのは久しぶりだったが、今日この日本男児どもに稽古をつけてやるのも悪くない。
 暴走族が群れを成してネットカフェから出てきた。彼らの最初の反応は銃を構えることではなく、絶望に打ちひしがれた表情で地に膝を着くことだった。彼らの愛車は悉くシーザーによって見るも無残。トドメとばかりにポルシェ911のエンドプレートがシーザーのバイパーに踏みつぶされた。
 MP7が銃火を噴き出した。ソ・シハンは銃口をやや上げ、全弾がマンボ・ネットカフェのネオンサインに命中した。三階に吊るされた巨大な看板が空から落ち、無数のネオンライトのガラスが粉々に砕け散った。少年達は叫び乱れながら仲間をネットカフェの中に引き込んだ。ソ・シハンは弾を打ち尽くしたMP7を車から投げ捨て、無表情に座った。「行け」。このような広い戦場で致命的な武器を手にするというのは、プロとしての、戦場支配者としての資質が試されるということでもある。確かに報酬は高くついたが、少年達にはもはや仕事をする気は無かった。
「俺を運転手みたいに使うな!」シーザーはアクセルを一度深く、一度浅く踏み込み、少年達がネオンライト看板の下から出てきて、赤い目をしてそれぞれのスポーツカーに乗り込んでいくのを待った。
 シーザーは一声冷笑すると、ゆっくりとブレーキを緩めてアクセルを踏んだ。フロントランナーのスタートが速すぎてしまうと、後続がテールランプを見失って、レースの意味が無くなってしまう。シーザーは少年達をサイタマ県の山中に十数キロ連れて行く腹積もりだった。バイクで千鶴町に行くまでに体験した、ブレーキを一歩踏み外せばガードレールを突き破って崖から落ちてしまうような、まるで崖に張り付いているかのような危険な道である。一体どれだけの不良少年が自分のテールライトを追いかけられるのか、シーザーには興味があった。


 車のライトが山道に曲りくねった光筋を作る。シーザーはブレーキなどほとんど踏まないまま、ドリフト的動作でバイパーに次々とカーブをクリアさせていく。後ろにはもうほとんど車は残っていない。最初はシーザーの車尻まで追いついてきたGTRやC63AMGもいたが、雨の降る山道に突入した瞬間すぐに消えていった。バイパーもGTRもC63AMGも大馬力の後輪駆動車である。後輪駆動は濡れた路面を走行するとタイヤと路面の摩擦が突然無くなる可能性があるなど非常に危険で、曲りくねった山道であえてそんなリスクを取る者は居なかった。
「た! す! け! ……」あのシックスフラッグ遊園地の名物ジェットコースター「ヨルムンガンド」にも劣らない迫力に、ロ・メイヒは一言ずつ吐き出しながら叫んだ。
 ソ・シハンの顔色もあまり良くなかった。遊園地に行っても「虹色ポニーとオトモダチ」くらいにしか乗らない彼にとって、この狂暴な加速度ゲームはあまり好ましいものではなかった。
 シーザーだけが大笑いしていた。「この平民スポーツカーの操作性も中々悪くないな! フハハハハ!」
「もぅもぅねえもうゆっくりにしようよ? もう追っかけてくる人もいないよ?」ロ・メイヒはもう眩暈がしていた。
「まだ完全に危機を脱したわけじゃないぞ。オロチ八家の奴らが千鶴町に来るんだからな。あいつらが来るまでになるだけ千鶴町から離れるんだ」シーザーはダッシュボードの時間表示を一瞥した。「もうすぐ千鶴町が電源を回復する。電気が戻れば、輝夜姫が俺達の位置を探す方法はいくらでもある」
「この車のGPSは解除したのか?」ソ・シハンが尋ねた。
 シーザーは二本の細いワイヤーが付いた小さな四角い箱をソ・シハンに投げた。「車に乗るときに最初にやった。輝夜姫にむざむざGPS情報を送る愚を、この俺が犯すと思うか?」
 その時、中央コンソール上に青色の小さな表示灯が点き、「ビービー」という音が鳴った。小さな表示灯は携帯電話の形をしていて、誰かがバイパーの車載電話にコールしていることを示している。
「車載電話システムは解除しなかったのか?」ソ・シハンが言った。
「クソが!」シーザーは眉をひそめた。
 車の持ち主の母親が夕食時だ帰ってこい、などと掛けてくるような時間ではない。輝夜姫が通話サービスを使って彼らの居場所を探しているのだ。シーザーのミスだった。車の位置を探すのに役立つのは、GPSだけでなく車載電話も同じだ。シーザーが電話に出るかどうかは関係なく、輝夜姫は通話が接続される電話局を簡単に割り出してしまう。これはつまり、この車を捨てて他の交通手段を考えなければならないということだ。
 シーザーはおもむろに応答ボタンを押した。追跡されているなら輝夜姫と話そうが話さまいがどうでもよかった。海底から逃げおおせるや否やネットカフェでハッピートリガー野郎に囲まれたのだから、文句の一つでも言ってやりたいとも思えた。
 スピーカーから聞こえてきた音は輝夜姫の人工音声ではなく、少しかすれた男の声だった。鋭利軽佻な声だが、毒蛇のような寒気が込められていた。日本語ゆえにシーザーもソ・シハンも単語レベルですら理解できなかったが、ロ・メイヒの顔色は言葉を聞くにつれて変わっていった。
「こいつは何と言っているんだ?」シーザーはロ・メイヒに聞いた。
「真さんが捕まった……って……」ロ・メイヒは少し戸惑った目でシーザーを見ながら言った。
 シーザーが荒々しくブレーキを踏み、バイパーが雨の中に鋭いブレーキ音を響かせながら旋転し、山道脇のガードレールにぶつかって止まった。シーザーが乗り出して正面を見ると、天をひっくり返したような暴雨が降り注いでいる谷があり、その谷の間に千鶴町があった。そこでまばゆいばかりの火光が沸き上がっている。マンボ・ネットカフェの場所だ。
「真の名を言ったのか?」シーザーが無表情で尋ねた。
「麻生真、うん、はっきりそう聞こえたよ」
 シーザーは再びハンドルをしっかりと握り、指関節を小さく鳴らした。「しっかり座ってろ。運転が更に乱暴になる」
 ソ・シハンは自分のシートベルトを確かめた後、ロ・メイヒに腕を回し、もう一方の手で最後の弾倉をベレッタに詰めた。真が実際にシーザー達と一緒にいるのを見た暴走族はただ一人、ストライプシャツを着た下着泥棒。奴なら真がシーザーの共犯者、あるいは店員の裏切り者だと理解してもおかしくはない。シーザー達は暴走族をネットカフェから誘い出したつもりだったが、追撃を振り切ったのではなく、もはや追撃される必要もなかったのだ。暴走族の手中には既に人質がいた。シーザーがマンボ・ネットカフェに戻るのを待って、それからマンボに火をつければ終わりだった。
 冷たい声の男が電話を切り、車は静かになった。
「最後になんて言ったんだ?」シーザーが聞いた。
「車を返しに来い、だって」
「待たせるつもりはないさ」シーザーがアクセルを踏むと、バイパーは雨の中に突入していく。最大速度まで加速した後、明るい炎がノズルから吐き出された。シーザーがNOSシリンダーを開き、亜酸化窒素がバイパーエンジンの潜在能力を完全に引き出すと、車体が激しく揺れ、三人全員が加速度によって座席の背にギチギチに抑えつけられた。


 激しい雨でもマンボ・ネットカフェの火災の勢いは弱まらない。この老朽建築は鉄筋コンクリート造などではなく木造で、壁面も木材が使用されており、一度火が着けば燃え尽きるまで炎は収まらない。消防車を呼んだとしても打つ手はないだろう。通りに散らばる無数の車の残骸が、消防車の通り道を塞いでいるからだ。
 ネットカフェの正面扉前には三台のバンが駐車している。シーザーによってデフォルメされた高級スポーツカーがバンの左右に鶴翼の陣で並び、扉の後ろに隠れた少年達は散弾銃を持ち、銃身を地面に向け、雨粒が弾倉に入り込まないようにしていた。女性店員たちはびくびくしながらスポーツカーのボンネットに横たわらされ、身体を密着させて前を塞いでいる。暴走族はうら若い少女の身体を盾に使っていた。彼らを銃で撃つような輩が居れば、少女に命中する確率も高くなってしまう。
 真ん中のバンの上で、男は風雨の中で足を組んで座り、サングラスとストライプシャツに身を包み、手に持った短銃身ショットガンを弄んでいた。
 全員が一方向を向いていた。街の外へつながる道、サイタマ県の群山へ向かう道だ。
 沈雄な雄叫びが暗闇から轟き、獰猛な邪眼のライトが黒幕を突き破り、バイパーは暴走族からおよそ百メートルほど離れた場所に停車した。バンの上の男が激しく手を叩くと、観客がステージ上の演者を応援するが如く、暴走族たちも手を叩き始めた。
 バイパーは攻撃範囲に入らなかった。バックショット弾を使うショットガンは近距離の目標に対しての威力は絶大だが、有効範囲はわずか二十メートルにも満たない。ベレッタを持った暴走族も、彼らの技術でこの距離の目標に当てるのは難しい。
 シーザーは何度か発砲してフロントガラスに幾つかの弾痕を残すと、運転席の前のガラスを銃の柄で叩き割り、荒れ狂う嵐の中で猿顔の男と目を合わせた。
 あの時、従業員用通路で少年達が何を叫んでいたのか、シーザーは今理解していた。そこで叫ばれていたのは名前ではなく、人の肩書だった。日本語で「キャプテン」、意味は「隊長」。シーザーの知っている数少ない日本語の一つだった。日本へ向かう途中でシーザーも幾つかの日本語単語を頭に入れていた。サヨウナラ、アリガトウ、コンニチワといった日常会話の他、「隊長」を表す言葉も学んだ。シーザーはこの派遣チームの責任者、すなわち「キャプテン」だからだ。そして猿顔の男は向こうのチームの責任者であり、「キャプテン」である。この痩せこけたヘンタイ男が暴力崇拝の少年たちに混じっているのは、彼こそが「アカゾナエ」の大頭目だったからなのだ。だからこそロ・メイヒの尻を触ることもできた。隊長が隊員の手に入れた女の具合を確かめるのは、至極当然のことなのだ。
「あの時、頭をブチ抜いておくべきだったか」シーザーは呟いた。
 猿顔の男はしゃがれた甲高い声で叫び、骨の無い蛇のように上半身を捻じった。
「ガットゥーゾ家の若当主が車を返してくれてありがとう、だって」ロ・メイヒが自然と通訳を務める形になった。
「お前のカンオケは女性用下着で埋め尽くしてやるからありがたく思え、と言え」シーザーが冷たく言った。
「ボス! この状況で刺激しちゃダメだよ! 真さんが向こうにいるんだから!」ロ・メイヒは建物の最上部を見た。
 真が屋上の端にプルプル震えながら立っていた。背後には荒れ狂う炎、狂風がチャイナドレスの裾を捲ると、彼女の手足は赤と青紫の傷だらけになっていた。誰かが彼女の身体を強引に掴んだり殴ったりしたのだろう。炎は徐々に真に近づいていく。暴走族が屋上にガソリンを注ぐと、ガソリンは燃えながら流れていき、屋上の大部分が既に炎に占められていた。屋上の温度は七十度か八十度、製鉄炉の傍に立っているようなもので、目から零れた涙が一瞬で蒸発する。雨が降っていなければ、彼女はすぐにでも干乾びていただろう。
「そのまま訳せ。それくらいはわかっている」シーザーは無表情だった。
 ロ・メイヒはそのまま日本語に訳して言った。
「安心しろガットゥーゾ君、こっちの準備もできているんでな」猿顔の男は手品のようにズボンのポケットからシルクの下着を取り出し、鼻の先でくしゃくしゃにして激しく嗅いだ。「アァーイィィ! 真ちゃんのスメェル、実際濃厚!」
 シーザーの額に蛇のような青筋が飛び出した。ただ侮辱しているのか、あるいは怒らせようとしているのか分からないが、猿男の試みは成功した。シーザーのような人間にとって最も耐えがたい場面で、世代を超えて受け継がれてきたガットゥーゾ家の殺意が緩やかに鎌首をもたげ始めた。彼は暴走族の防衛線を見やったが、確かに突破するのは困難に思えた。女性店員のチャイナドレスはみなバラバラに引き裂かれ、その真っ白な身体は黒夜の中で目を引く。暴走族はシーザーにこう告げているのだ。武力の代償は死人だ、と。
 シーザーは深呼吸し、怒りを強引に抑えた。「お前に指示したのは、誰だ?」
「指示? アカゾナエに指示が必要かよ? ウキャキャキャ、アカゾナエに指示できるなんてショーグン・タケダぐらいだろ?」猿顔の男は笑いながら踵を打った。

アカゾナエ、即ち赤備えとは元々日本の戦国大名・武田信玄旗下にいた赤い鎧の軽騎兵である。その強さからまたの名を「赤鬼」と呼ばれた。この暴走族達は、自らを当時の精鋭騎兵になぞらえている。

「そいつがいくら要求しようと、ガットゥーゾファミリーはその三倍払ってやる」シーザーはゆっくりと言った。「ちゃんと使える金銭でな」
「ウキャキャキャ! あのお方はガットゥーゾファミリーが必ず俺を騙しに来ると教えてくれた! そうでなければ惑わされていたところだ!」猿顔の男は大笑いしたが、突如笑みを引っ込めた。「どうせ俺が金を使う前に、お前のデカいピストルで頭を吹っ飛ばすつもりなんだろう?」
 シーザーは何も言えなかった。確かに猿顔の男の言う通り、ガットゥーゾファミリーから金をだまし取った者は、その金を使う前に命を落とすさだめにある。
「何が望みだ」シーザーは遂に諦めた。
「お前の手に銃があるだろう? それで隣のソ・シハンとかいう仲間の脚と手首を撃て。その後、お前自身の脚と手首を撃つんだ。俺達は知ってるんだよなぁ、ガットゥーゾ君がA級混血種で、ソ君もA級混血種だってこと。こんな英雄がピンピンしてるんじゃおぉ怖い怖い、近づくなんてオソレオーイよなあ」猿顔の男はゆっくりと言った。「なんせ命を取るわけじゃないんだよなあ。俺達の仕事は、お前らをあの方の所へ連れて行くことだからなあ」
あれ、完全に僕のこと忘れてない? 僕はピンピンしてても全然脅威にならないってこと? ロ・メイヒは翻訳しながら心の中で言った。
「ずいぶんと多くの武器を持ち込んで、フォークリフトまで持ち出して来て、捕まえるのが仕事だと? 殺害じゃないのか?」シーザーは動じず言った。「抵抗できなくなった俺達の脳天にショットガンをぶち込む、そういうつもりなんじゃないのか?」
「ガットゥーゾ君、それは俺をどれだけ信じられるかだ。俺は信じられる男だぜ?」猿顔の男は微笑んだ。
「女子更衣室に忍び込んで下着を漁るヘンタイをどう信じろと?」
「エンターテインメントだよ、誰にだって趣味はあるだろう? ぼくはだァいすきなんだよ、女の子の身体からしみ出たばかりのいい香りがするしィんせんなテキスタァイル……ガットゥーゾ君、きみがおタバコだぁいすきなのと同じ道理さ」猿顔の男は下着の匂いを勢いよく嗅いだ。部下の前でも平然とそんなことをやるらしい。
 猿顔の男はシーザーが思っていたよりも遥かに恐ろしい奴だったようだ。大抵の人は下着泥棒など臆病な者のヘンタイだと思い、その凶悪さを過小評価してしまう。だが一部の下着泥棒は例外だ。彼らは思春期からフェティシズムを患い、修正も実現も果たせず拗らせ、ある種の病として成人期まで引きずり、遂には精神病と化す。猿顔の男は下着に夢中になっている間は愚鈍に見えたが、ヘンタイとしては獰猛狡猾極まりなかった。シーザーに組み敷かれた時も失神したわけではなく、ただ自分一人だけではシーザーとソ・シハンという二人のA級混血種に勝てないと理解し、白目を剥いて放尿することでシーザーの警戒を解いたのだ。
「まあ、今回に関しては俺の信用は関係ないかなあ」猿顔の男は笑い出し、黄色い歯を露出させた。「さあて、きみのような貴族はどれだけオンナノコを大切にしているのかな。貴族は美しい女性を守るためなら決闘でも死ねるのかな? じゃなかったら貴族と俺達の違いってなんだろうね? 女もいない、下着の匂いを嗅いでエンターテインメントにするマケイヌの俺達との違いは!? ウキャキャキャ!」
「ボス……」ロ・メイヒが囁いた。
「訳し続けろ。ソ・シハンの為にもっと時間を稼ぐんだ」シーザーはまっすぐ前を向いた。

 ソ・シハンが廊下を狂奔する。四方八方に火の手が上がり、エレベーターは既に止まり、いくつかの通路が完全に焼け落ちていた。幸い楼上のトルコ風呂には大量の水があり、まだ焼け落ちていなかった。
 シーザーは交渉だけに希望を託すほど愚かではない。幻覚で脳内がいっぱいの凶悪犯集団と交渉することなど何もない。ネットカフェに到着する前にソ・シハンは降り、助手席にはロ・メイヒしかいなかったが、暴走族がそれだけ離れた距離から見つけることはなかった。
 ソ・シハンは裏通りや路地を迂回し、無防備な裏口からネットカフェに入り、屋上への階段を探した。下水道で完全に濡れていた彼の服が火の中で水分を蒸発し続け、彼の体温はそこまで高くならなかった。彼の混血種の身体であれば真を伴って火の中を逃げる事もできるだろうと、シーザーは可能な限りの時間を稼いでいるのだ。真にとってはあと少しだけの辛抱だった。ソ・シハンは既に三階まで到達、真のいる屋上までは二フロア。
「建物に火をつければ警察が来る。俺達を連れて警察から逃げられるのか?」シーザーが冷たく言った。
「ウキャキャキャ! 警察が来るだって? あのお方の力が全く分かってないな! もはや誰にも止められない、あのお方が殺せと言えば、明日の朝日も見る事はないのさあ!」猿顔の男は大笑いした。
「この天気を考えてみろ。明日の朝はまだ曇りか、雨だろ」
「ガットゥーゾ君、きみはサイコーだなあ! こんな時でも平気で冗談が言えるなんて、そんなにあの女の子を焼死させたいんだねえ!」猿顔の男は薄い衣類を指に挟んだ。「アァーイィィ! サンダルウッド・スメルなオパンチュ! 真ちゃんのカラダもこんなスメルがするのかなあ? 燃えちゃってもサンダルウッド・スメルがするんだろうねえ!」
 男は自分がシーザーの罠にハマっているとも思わず、シーザーの言葉に一語一句反応した。五分が経過し、ソ・シハンは既に目標まで相当近づいている。猿顔の男も裏方の人物の情報をそれとなく明かしてしまっている。高位の「あの方」は日本本土で相当の権力があり、警察を裏から操り、カッセル学院やガットゥーゾ家も良く知っている。カッセル学院本科部三年生以上の学生は全員交渉術を学んでおり、相手の言葉から心理の根底を分析することに長ける。猿顔の男は確かに凶暴だが、舌戦となれば初心者もいいところで、車を盗んだり白い粉を売ったりする以上の能力は無い。彼は自分ができない仕事を引き受けるべきではなかったのだ。
 ソ・シハンは遂に屋上への扉を見つけた。幸運にもその廊下は炎に囲まれておらず、扉のガラス越しに赤いチャイナドレスが炎の中ではためいているのが見えた。真はすぐそこにいる。
「ところで、なぜ君のそばのソ君は何も話さないんだい?」猿顔の男が冷たく尋ねた。
 シーザーの心は震えた。どう答えればいいのか分からなかった。猿顔の男は既に何かに気付いている――。
 ソ・シハンが扉を開けた瞬間、ガソリンが頭に落ちて来た! 彼はバランスを崩して階段を転げ落ち、炎が即座に服と髪を焼いていく!
 暴走族は屋上に通じる扉にトラップを仕掛けていた。ガソリンの入ったブリキバケツを置き、ソ・シハンがエサを取るのを待っていたのだ。用心深さはソ・シハンの取り柄だが、真の方が持たないと分かっていたからこそ、彼の行為にもミスが生まれた。ガソリンが浸透した服はピッタリと身体に張り付いて脱ぐ事もできず、見渡す限り消火器すらもなく、床を転がったが無駄だった。もはや屋上に上ることはできず、階段を転がりながら落ちていくほかなかった。
 風が火を助け、屋上の炎が突如ゴウゴウと燃え上がった! 猿顔の男は尻を叩いて跳び上がり、シーザーを指差して大笑いした。「ウキャキャキャキャ! バカ! バーカ! きみ達のトリックなんて分かっちゃってるんだよな! きみのオトモダチが新しい燃料になっちゃったねえ!」
「降りろ!」シーザーが叫び、ロ・メイヒを車から引っ張り出した。「火力制圧!」
 シーザーにはもう打つ手が無かった。真は燃え盛る炎の中で震え、高温と低酸素で極度の虚弱状態になっている。彼女はこれ以上持たないし、ソ・シハンも生死不明。最悪の状況下では、最強の手段が必要になる。力挽狂瀾、すなわちあらゆる手段を講じるべし!
 NOSシリンダー最後の亜酸化窒素がエンジンに注がれ、アクセル全開! バイパーがまさに生きた蛇が獲物を襲うかのように、狂暴な加速で車体前部を跳ね上げながら、シーザーと共にアカゾナエの陣形へ一直線!
 ロ・メイヒは雨の中で数回転がり、伏せ撃ちの体制を取った。その手には最後の一丁のMP7。サブマシンガンとはいえ素晴らしい射撃制度を誇り、100メートルの距離内であれば狙撃銃としての使用すら可能な代物。彼、リカルド・M・ロの最大の能力は長距離狙撃だ。入学初日の「自由の日」、彼はその能力で本科生の二人のボスを撃ち破り、新人王に輝いたのだ! シーザーは弾幕に向かって車を走らせ、暴走族たちはバイパーにショットガンを向ける。車が射程距離に入った瞬間、およそ百丁以上の短銃身ショットガンが一斉に火を噴く――だが、それはロ・メイヒがいなければの話だ。ロ・メイヒは心の中で恐怖を圧し殺し、骨格をすぐさま所定の位置に移動させると、MP7を操り、連続して引き金を引いた。
 単発銃撃ではあったが銃声は絶え間なく聞こえ、ほとんど弾幕と変わらない。左側の鶴翼の中で銃を持った暴走族の目の前で火花が散り、その手のショットガンは狙いを失った。
 ロ・メイヒのキャリア以来最も完璧なパフォーマンスだ。七、八発の弾丸それぞれが暴走族の手のショットガンに命中した。彼もまたカッセル学院本科生、暴走族などとは比べ物にならないエリート! 猿顔の男、見ているか!
 シーザーは車内に残ったMP7をアクセルに押し付け、短銃身ショットガンでステアリングホイールをロックし、シートベルトを外して前方に転げた。バイパーのボンネットに立ち、目も眩むような金色を双眸に煌かせる!
 獅子心会の血統精錬技術、それがブラッドブーストだ。
「飛べ!」彼は屋上の真に向かって叫んだ。「俺が受け止める!」
 炎に照らされた彼は、金髪を風にバサバサとなびかせる。短銃身ショットガンが次々と撃ちかけられるが、その鉛玉は一発も彼には当たらない。今の彼は運命の騎士だ。呪いも剣もその黄金の鎧を貫くことはできず、この世の誰にもその光輝く足取りを止めることはできない。全ては運命だ。この世界は彼らが読むことのできない本に書かれた物語なのだ。たとえ王子が乗ってくるはずの白馬がダッジ・バイパーに、溢れ出す日光が超新星のような爆発の光に替わっているとしても、それは真の夢であり、運命なのだ。
 真の恐怖はその時消えた。彼女はハイヒールを脱ぎ、腕を開き、重力に身を任せて、墜ちた。
 シーザーがボンネットを踏み出して空中に飛ぶ前、バイパーはバンの傍を通り過ぎた。ブラッドブースト後、彼の感覚はさらに研ぎ澄まされている。目の前を落ちる雨すら緩慢に思え、地面に落ちる全ての雨粒の音がはっきり聞こえ、空気を裂く全ての鉛玉の音も全て鋭く聞こえる。赤いチャイナドレスの少女が空から落ち、風がそのドレスを揺らめかせる。速度はシーザーの予測通り、彼の跳躍した位置は真を捕らえる完璧な位置にあった。四階建ての建物は高いとは言えないが、落下エネルギーは相当に大きく、一般人が手を伸ばすだけでは即座に脱臼するだけだ。しかし混血種の身体ならばそれが可能なのだ。鉛玉の弾幕は一つ一つが空気を切り裂いていくが、ロ・メイヒの連続射撃に驚いた少年達は手元を狂わせ、バックショット弾ですら命中することはままならない。
 その時、彼は冰冷な笑い声、毒蛇のような笑いを聞いた。
 数百発のショットガンの中、彼にすぐ近いショットガンが炎を吐き出した。まるで一瞬死神が天から降臨しその大鎌を首に振るったかのように、数十発の鉛玉で構成された弾幕が彼をすっぽりと覆う。シーザーは無意識のうちに身を仰け反らせ、鉛玉が彼の前胸の血肉を削り取った。
 だが、彼は気付いた。それは間違いだった! 致命的な間違い! 彼は必死に手を伸ばし、少女の肌に指で触れる。指の間の風が生命の音を奏でる。
 あまりにも軽すぎる音と共に、真は地面に打ち付けられた。水たまりが四散し、雨水に鮮血が流れ込む。その瞬間、狂奔するバイパーが到着し、赤いチャイナドレスの少女を攫い、燃える建物に突っ込んでいった。
 バイパーの屋根に倒れ込んだシーザーは屋根を破壊して運転席に入り、全力であらゆるブレーキを踏んだが、全て無駄だった。バイパーは真を轢いたまま次々と壁を打ち破り、その度に血の付いたフロントガラスの破片が飛び散った。
「Nо――――」恐怖と絶望の狭間で、シーザーは自分のものではない絶叫を上げた。
 猿顔の男はバンの屋根で跪き、硝煙の残る散弾銃を高々と上げた。手下たちの歓声の波の中、彼は儀式感覚で素晴らしき功績を挙げたショットガンにキスをし、大雨降り注ぐ天に向かって狂い叫んだ。「ハーレルーヤー!!」
 バイパーは止まった。燃える車の中に座ったシーザーには、何も聞こえなかった。一切の音は彼から離れ去っていき、彼はただ漆黒だけの世界の中心にいた。……世界は、あまりにも寒かった。
 彼は廃墟の中に真を見つけ出した。奇跡のようだった。真の目は透き通っていて美しかった。たとえ肋骨が肺に突き刺さり、全身の骨があちこちに千切れ去っていても。
「ありがとう……戻って、きてくれて……」真は一言出す度に血を吐いた。「大丈夫……ですよ? ……でも、病院に、いかなくちゃ。……私を、連れて行って……くれ……ますか……」
「連れて行く……! 今すぐ、必ず連れて行くさ! 病院に……」シーザーは彼女の『頭』をひしと胸に抱いた。
この世にそれを治療できる病院が本当に存在するなら、シーザーは何をどれだけ払ってでも買うだろう。だが病院は病気を治療することしかできない。死は、病気ではない。シーザーは彼女の心臓の鼓動が徐々に止まり、遂に完全に沈黙するのを聞いた。
彼が彼女を愛したことなどなかった。彼女は貴公子の人生の中のほんの通行人の一人にすぎない。彼女は多少の助力を彼に提供し、彼は彼女をイタリアで勉強させるために奨学金を提供するという約束をした、それだけが全てだ。彼女は将来は野田寿という少年のところへ行くだろうし、シーザーは純白のドレスを着たノノと世界を回る事を決めていた。彼女のシーザーへのあこがれと、漠然とした愛着は、彼女自身のファンタジーの産物だ。干潮のビーチに残った白い泡のように、時間と共に消えて行くだけのもの。彼女はシーザーの人生にとって通行人以上のものにはならない。「よき友人」という名の下で二、三年を過ごし、チャリティーレセプションに同行し、オスカーに参加した著名人などいくらでもいる。授賞式やガールフレンドゴシップで新聞に載ったこともある。彼らの手紙は洋々洒々、少女たちの誕生日には限定版のカルティエ・ダイヤモンドジュエリーや、花屋のバラを全部買い占めてプレゼントとする。それが真と会った時、たまたまシーザーが東京街頭で迷子になった流浪人で、真がポルノネットカフェの店員で、世間を何も知らないひな鳥のように緊張し、可笑しく話し合っただけのこと。
そして、彼女は死んだ。消えゆく定めの、間違った、馬鹿馬鹿しい愛、謂れのない何かの為に死んでしまった。「イタリアに勉強しに行く」という対価さえ受け取る事も無く。
彼女を巻き込むべきでなかった。ただの普通の少女を。その光輝く辰星のような男に近づきたいのなら、全力を尽くし、手を限界まで差し伸ばし、頭を抱えて死神の鎌の下を潜り抜けなければならない。
そうだ、君はあまりにも謙虚過ぎた。幻想的な幸福の為に、十倍の代償を払ってしまったんだ。そして、ついには命まで――
痛い。脳神経が鏝で焼かれるかのように痛い……。シーザーは片手で真の『手』を握り、もう片方で痛みに爆発しそうな自分の頭を抱えた。
何年も経って、自分は成長したと思っていた。自分の人生は自分で決め、「無能」「無力」、そんな憤りも怒りも無くなったと思っていた。……だが、また失敗した。彼は今、時間の渦の中に墜落し、あの孤独に憤る小さなトリックスターに変わろうとしていた。
『私のシーザー、とってもいい子。……でも、世界は残酷よ。あなた一人がいい子でも、一体何ができるのかしら……』ママがベッドの横に座り、怜愛を込めて彼の頭を撫でる。
 そうだ。世界は残酷だ。どんなに抵抗しようと、全ては沈黙無声のままに進んでいく。誰が何を考えようとも、何も変わらない。
 シーザー、あなたは大使のサラダに胆汁を入れたわね。苦くて仕方なくて逃げたのは良かったけど、結局あの人が選んだ子牛は殺されて、皮を剥がれてコショウとゲッケイジュのスープになってしまったわ。若い貴族の人たちを怖がらせて逃げ出させたけど、時間が経てば彼らはいずれまたダンスホールに集まって、夜中まで酔っ払って抱き合って大声で笑うわ。種馬パパが連れて来た女性スターを怒らせたこともあったけど、数日後には新しい絵が寝室に掛って、新しい女性がパパの高級車から降りてきて、あなたのおうちにフラフラと入ってきて、フラフラとベッドルームに入っていって、流れる水のように裸の女性がそこで寝ていくのよ。
 どれだけ時が経ってもあなたは弱いまま。世界に反抗しているつもりでも、世界は全く変わらない。残酷な一面を遠ざけているだけなのよ。
 思い出したかしら? 憤りに、怒りに支配されていた幼少時代が、あなたにはあったのよ……。


 暴走族たちがロ・メイヒの胸倉を掴んで引きずって通りを横切り、マンボ・ネットカフェの壁に叩きつけると、窓から炎が外に吹き上がった。ソ・シハンが火の中で焼けてから既に五分以上経っている。ロ・メイヒは、あの禁欲主義的な先輩なら仏舎利にでもなれるんじゃないか、とも思った。
 大火が暴走族の影を壁に投射し、短銃身ショットガンを手の上で回転させる少年達の人垣が迫ってくる。ロ・メイヒはまだMP7を持っていたが、その弾丸は撃ち切ってしまっていた。まるで目に見えない死神を押しのけようとするかのように、彼は目の前で弾切れの銃を撃ち続けた。
 ひどい有様。自分が役立たずというのも分かっている。でもこんな時に跪いて許しを請うなんてことは出来なかった。燃えながら廊下を走り回った先輩、撃ち落とされる鷹のようにショットガンで撃たれたボス、スポーツカーに轢かれて火の中に消えて行った少女……暴走族の目的がもはや無力となった彼らの抹殺だということに、疑いの余地は無かった。バイパーが開けた穴はそう遠くない所にあり、数十丁の短銃身ショットガンがその穴に向けられていたが、穴からは火の舌が外に吐き出されていた。例えショットガン一発で死なず、焼け死んでいないとしても、弾一発も残っていないシーザーが逃げることはできないだろう。ひどい悲劇だ。追い詰められた獅子はネズミの大群に噛まれて死ぬのか。死ってどんな感覚だろう。痛いのかな?
 それでも跪いて許しを請うなんて出来なかった。自分は悲しい独り身、死んだところでチームの恥にはならない。ロ・メイヒが顔を上げると、猿顔の男のヘンタイな笑顔に対面した。
「よぉく見ると、なんてカワイイ少女だな!」猿顔の男がロ・メイヒの尻を乱暴に掴むと、暴走族たちは爆笑した。
「欲しいなら、僕のパンツもあげるよ!」ロ・メイヒはこの悪態を捻り出すのに全身の気力を使い果たす始末だった。
 猿顔の男の表情が突然変わった。一人のヘンタイとして、この挑発は彼の心を揺さぶった。シーザーの慇懃無礼な態度は特になんともなかったが、ロ・メイヒの言葉は心に入り込む毒蛇のように思えた。彼はショットガンをロ・メイヒの顎に当て、顔をゆがめた。
 うまくいった、とロ・メイヒは心の中で思った。人生最高の悪態だ。死ぬ前にこのバカを言葉で一矢報えた。彼が怒りに任せて銃を撃てば、この拷問からも解放だ。
 街が突然明るくなった。雨は降り続いていたが、月光が雨雲を破って千鶴町を照らした。明るい月は暴風雨の中でも大地を照らし、月輪は銀のように燦爛とする。ありえない光景は暴走族をも驚かせた。
 あらゆる種類の携帯電話が一斉に鳴り響き、少年達の携帯電話も全く同じ瞬間に鳴った。彼らはそれぞれ次々と携帯電話を取り出し、まったく同じテキストメッセージを見た。『カッセル学院執行官エヴァより、学院執行部全体を代表して厳正な声明を発表する。現在貴様達を照らしているのはロシアの「旗織六号(ファーグ・シェースチ)」人工月球。雲に隙間を形成しているのは米軍オキナワ海軍基地のB1爆撃機である。日本の領土でなければ、即座に焼夷弾が貴様達の頭上に落ちていたところだ。学院の人員を傷つければ、貴様達は後悔することになる。カッセル学院の恐ろしさを理解できないのなら、我々を怒らせないことだ。五分の猶予をやる。貴様達はその街から消え失せろ』
 地上60キロの軌道上でロシアの「ファーグ・シェースチ」人工月球が東京北部に向け、巨大な反射鏡となって千鶴町の上に巨大な大光班を投射している。カッセル学院は太平洋全体に殺害予告をしたも同然であった。
 エヴァと輝夜姫の死闘はネットワーク上で続いている。エヴァの集中計算能力が日本の移動通信ネットワークへの接続に成功すると、街の全ての監視カメラがマンボ・ネットカフェに向けられた。
 数万キロ離れたカッセル学院中央管制室では、執行部全員が立ち上がって大画面に映った映像を見ていた。ロ・メイヒの顎に銃身が押し付けられ、猿顔の男の手は僅かに震えていた。完全な沈黙、全員が結果を見守っている。
 エヴァの能力でもこれが限界だった。エヴァは躊躇いなくファーグ・シェースチに侵入し、向きを逸らすよう命令し、北シベリアから千鶴町に光線を向け、この光で最後通牒を突き付けたのだ。その上彼女は千鶴町上空を飛ぶB1爆撃機に攻撃命令を下す事もできたが、それは日本領だからではなく、B1爆撃機のどんな武器を使おうとも必然的にロ・メイヒを巻き込んでしまうからだ。猿顔の男が引き金を引けば、B1爆撃機の焼夷弾が空から落ち、街全体が炎の海に変わる。米軍の爆撃機が日本の小さな町に焼夷弾を投下する、当然国際問題を引き起こすだろうが、エヴァに選択肢は無かった。……アンジェですらアクセスできない低層データベース内で、ロ・メイヒの保護レベルは学院のあらゆる人間を超えている。それゆえ人工知能としてエヴァの最大の職責は彼を保護することであり、その為にはどんな代償も厭わない。
 そもそも、彼女はこの者の為に誕生したのだから。
「ぼ……ぼ……ボス! こんなの聞いてない……全て忘れましょうぜ!」一人の暴走族が戦々恐々として言った。「奴ら人工衛星まで使って、アメリカの爆撃機まで出してきて、俺らがまともにやったら命がいくつあっても足りゃしませんぜ!」
 アカゾナエの少年達は、まさか今日自分がこんな凄まじい人間や組織に立ち向かっているとは思いもしていなかった。ここに至るまで、敵の情報は多少のカネと三枚の写真しかなかった。彼らはシーザーやソ・シハンが何者であるかすらも知らないまま、猿顔の男の言われるがままにシゴトをしていたのだ。
 猿顔の男の手も震えていた。カッセル学院が何なのかも分からないが、衛星や爆撃機、携帯電話のネットワークすを制圧し、日本政府に対抗できるレベルの権力まであるらしい。こんな機関を敵に回すのは愚かだと当然理解はしている。だが背後に隠れた「あのお方」の事を考えると、未だに毒蛇が背を這っているかのように思え、銃を手放すことは出来なかった。シーザーとソ・シハンの生死はともかく、あのお方はロ・メイヒの死がお望みだった。ロ・メイヒの命を手に入れられなければ、猿顔の男は罪の許しを請うて自らの命を代償とせねばならない。
 携帯電話が鳴った。今度は猿顔の男の携帯電話だけが鳴り、新しいテキストメッセージが届いた。
 彼は黙ったままテキストメッセージを読み終えると、短銃身ショットガンを放り、一歩後退した。
 まるでテキストメッセージは死神から送られたかのように、彼の顔は青白く、冷たく、汗だくだった。彼は機械的に手を挙げ、中指を……立てた!
 この狂妄男はカッセル学院に向かって中指を建てた。中央管制室では、その場の全員がスクリーン上のエヴァの瞳に刀剣のような寒気が流れたのを感じた。空中のB1爆撃機が突然向きを変え、低空飛行でマンボ・ネットカフェに向かった。当機の本来の任務は凝雨剤を巻いてファーグ・シェースチの光線が黒雲を突き破る隙間を作ることだったが、今や攻撃命令が下された。焼夷弾が投下されてもロ・メイヒの生き残る可能性はあるが、暴走族が発砲すれば彼が生き残る可能性は無い。
「こんなコケ脅しが効くと思ってんのかよ! 日本は俺達の国だ! 千鶴町は俺達の町だ! テメエらになんかやらせねえぞ! お前ら、銃を上げろ!」猿顔の男は吼えた。
 暴走族たちは一瞬躊躇したが、次々と銃を上げ続けた。キャプテンが完全に怒ったのを理解したのだ。
 猿顔の男は敢えて自分の手下たちに顔を見せなかった。自分の顔が完全に人の色を失っているからだ。最後のテキストメッセージには発信者番号が無く、内容は簡単な一文だった。『手を挙げて、中指を立てろ』
 これが幕の背後にいる「あの方」の命令だった。最後の退路は消え、彼は前進するしかなくなった。猿顔の男は「あの方」に背いた結果を知っていた。それに比べれば、焼夷弾に焼死させられるのはまだ救いのある死に方と言えた。
 
 猿顔の男は猛然と手を振った。B1が千鶴町上空に着く前に、ロ・メイヒは目を閉じた。銃口から燦爛たる火花が吐き出され、圧倒的な弾幕が彼を包む。
 その時だった。沈雄な咆哮がマンボ・ネットカフェから轟き、ロ・メイヒの背後の壁が突然開裂した。高さ4メートルのフォークリフトが火を割って突出し、巨大な砂利シャベルをロ・メイヒのいる方向に伸ばすと、何百発もの鉛玉がシャベルの表面に火花を散らした。
 フォークリフトの操縦席に座っているのはシーザーだ。右手には操縦桿、左手には血の滴る少女の成れの果てを抱いている。彼はその壁の後ろで待っていた。大雨の音がフォークリフトの接近音を隠していたのだ。暴走族たちが銃に弾を込めたと鎌鼬で知るや否や、シーザーはスロットル全開、壁を破壊した。フォークリフトは黒煙を路上に噴出させ、銃手たちは四散して逃げまどった。更にこの大型工業用フォークリフトの側面には砂利の飛散で運転手がケガをしないよう鉄板が取り付けられており、短銃身ショットガンが当てられても全く効果が無かった。
 カッセル学院中央管制室では、その場の全員が拍手喝采だった。決定的瞬間、エヴァが無策と化しても、戦局を変え得る者がいたのだ! 執行部員の中ではバカにされている、まだ大人になり切れない少年、上の世代に横柄な態度をとるだけの資本も無いのに、名門出身というだけで未来の皇帝のように振る舞う、この自惚れた本科生。だがこの時、執行部員たちは皇帝を迎え入れるような拍手喝采を送った。
 皇帝とは、自ら戦場に赴くことで人を統べる者である。
 フォークリフトは雨の中を驚異的な速度で動き回る。シーザーはハンドルを回して車体後部を暴走族に向け、同時にシャベルを下ろした。「乗れ! 迎えに来た!」
 ロ・メイヒが全力でフォークリフトをよじ登ると、シーザーは彼の手を掴んで操縦席に引き込み、腕の中のものが真であることをロ・メイヒに悟らせた。ロ・メイヒは全身がバラバラになっていく真の感覚を想像して、己にも痛みと嘆きを感じた。
 だが、シーザーは無表情だった。まるで岩からそのまま削り取られたかのようだ。その硬さも一種の表情だと言うなら、ロ・メイヒはシーザーのこんな表情を今まで見たことが無かった。
「ボス、大丈夫?」ロ・メイヒは戦々恐々した。
「もう大丈夫だ。安心しろ」シーザーが再度アクセルを踏むと、シャベルのスパイクが一台のスポーツカーを突き刺し、それと高々と上げ、暴走族に向かって驀進した。
「雷管! 雷管だ!」猿顔の男が吼えた。
 十数人の暴走族が腰から雷管を引き抜き、発火させてフォークリフトの車輪に投げつけた。雷管はフォークリフトの直径2メートルの車輪を破壊し、黒煙を吐き出す巨獣は突然その力を失った。
「撃て! 撃て! 撃て! 雷管を操縦席に投げ入れろ!」猿顔の男は嗄声を捻り出した。
 その時、突如漆黒の雲が破開し、黒い巨鳥が空から降りて来た。B1爆撃機の低空飛行の衝撃波が街全体を震撼させ、三発の照明弾がまさに三つの白い流星のように街の空を横切っていく。
 銀色のスーツケースが投下され、地面に近づくと三つの小さな白いパラシュートを開いた。シーザーはフォークリフトから飛び出し、空中で箱を掴み、『Cassell College 2013』と銘打たれた封を切った。カッセル学院装備箱、バージョン2013。エヴァが最後の瞬間にB1爆撃機の任務を変更し、発射体は焼夷弾から装備箱に変更された。シーザーが箱を開けると、銃、弾薬、照明弾、手榴弾が整頓されて並んでいた。弾頭の赤い弾丸は、相手を昏睡させるフリガ弾。弾頭の黒い弾丸は、龍族を殺すための水銀を核とした純金破甲弾。残りは汎用の黄銅弾頭だ。
「アイツ……アイツ、箱を取ったぞ!」暴走族の一人が恐怖で叫んだ。ここに来る前に猿顔の男から「ターゲットの三人が箱を持っていたら注意しろ」とでも言われていたのだろう。
 シーザーは黄銅弾頭のマグナム弾を選んだ。既に暴走族の射程範囲内だったが、彼は一つずつデザートイーグルに悠々と弾倉を込め、そして弾丸が装填される音が鮮明に響いた。
「ボス! その弾はダメだよ! 死んじゃうよ!」ロ・メイヒが驚いて叫んだ。
「我がファミリーの家長共は詭弁ばかりだが、一つだけ正しい言い草がある。神によって創造された世界は、公平で正しくなければならない。過ちを犯した者は、必ず裁かれなければならない。目には目を、歯には歯を。過ちを犯しても裁かれないのなら、神の栄光など、信じる者も居なくなる……」シーザーは弾倉をそれぞれの銃に込め終えると、手を組み、双銃を両肩に乗せた。
 猿顔の男は手下を後退させていた。シーザーを射程範囲に収めるよりも、デザートイーグルの射程範囲に留まらないことを選んだのだ。沈重な拳銃は戦争を機械的に抑止した。その巨大な銃の柄には、翼を広げた骸骨の天使が刻まれている。
『バーズネスト、バーズネスト。賽は投げられた。スズカは帰るのか。指示を乞う』中央管制室にB1爆撃機パイロットの声が響き渡った。
 アメリカ軍人パイロットはオキナワ駐屯軍本部からの命令を受けていると思っているが、彼のチャンネルへアクセスしているのはアメリカ本国にある一台のスーパーコンピューターだった。
『スズカ、スズカ。バーズネスト了解。帰還を許可する。幸運を祈る』エヴァが男性の人工音声で応えた。
「もう帰らせていいのか?」シュナイダーは心配そうだった。
「アメリカ軍の爆撃コース運用で米国国防部の内部調査が始まりました。我々の存在が暴露される可能性があります。最後の手は打たれました。これ以上は必要ないでしょう。それに、『鎌鼬』と装備箱内の323発の弾丸を考慮すれば、我々はシーザー・ガットゥーゾを戦場の王と呼ぶことができます」エヴァは淡々と言った。
 猿顔の男が突然大声を上げた。彼の手が血まみれになっていた。手下に発砲を命じようとして振った手が、手首の骨を正確に貫通されて吹き飛んだのだ。44マグナム弾なら、それだけの距離があっても人間の手首を容易く破壊するどころか、サイの頭蓋骨すら破砕することができる。暴走族が次々と水たまりの中にうずくまり、足を抱えて泣き喚いたり、ショットガンを水に落としたりした。弾丸が彼らの足を突き破ったのだ。怪我そのものは猿顔の男よりも軽度だったが、腿の腓腹筋を穿たれた結果としてその一生の傷を抱える事となった。彼らはシーザーの改造デザートイーグル二挺を過小評価していた。それは、バレルなしでも有効距離が100メートルを超える代物なのだ。
 獅子は獅子、ただ自らの牙がある限り。
 シーザーが二挺の銃を撃ち尽くし、弾倉を空にすると、銃をロ・メイヒに投げて弾を装填させ、代わりにUziサブマシンガンを装備箱から取り出して射撃を続けた。暴走族たちは完全に戦意を失い、仲間を捨てて喚きながらバンに乗り込もうとする。飛び乗れた者も居れば、バンに辿り着く前に撃たれて雨の中に倒れ込んだ者も居て、弾はそれぞれ正確に脚を貫通していた。Uziに撃たれた者はまだ幸運で、治療すればまたバイクに乗ることができるが、デザートイーグルに筋肉を引き裂かれた者は、一生運転免許を取れなくなるだろう。アカゾナエに入って以来無天無法のギャングだった彼らは、今日初めて「暴力」の恐怖を身をもって思い知ることになった。
 三台のバンが滑りながら雨の中を走り始め、数十台の暴走族を引き連れて街の向こうへ消えて行った。シーザーは弾を打ち尽くしたUziをロ・メイヒに投げ、装填完了したデザートイーグルを受け取った。
「センセイ、俺達……俺達、もうダメです! 火力が違いすぎます!」助手席に座った猿顔の男は、腕を失くした痛みに耐えながら電話を掛けた。
『1575年、バトル・オブ・ナガシノ。オダ家の鉄砲隊に対し、タケダ家の赤備えは突撃した。これぞ日本人の勇気、私も大いに感激したものだ。500年の時を越え、赤備えの精神は、現代の若者たちの心でも燃えているかね?』電話の男は含み笑いを込めて言った。『突撃、果敢に突撃あるのみだ』
 電話が切れ、猿顔の男は呆然と座り込み、携帯電話を取り落とした。彼はもっと前から結末を考えるべきだった。悪魔と取引する者は、いつか必ず、自らの利益に対して対価を支払わねばならない。
 背後から二つ大きな音が響き、バンが突然減速した。バックミラーを見ると、銃を構えたシーザーが暴雨の中、急ぎも緩みもせず歩いて来る。彼は合計六発の弾を撃ち、三台のバンの後輪を全て爆破した。
 運転手はまだアクセルを必死に踏んでいる。パンクしようが数キロでも走れれば、背後の神殺しのような男も居なくなると思っているのだろう。だが猿顔の男は突然車のキーを抜いた。
「考えるのはヤメだ。今日俺達が奴を殺すか、奴が俺達を皆殺しにするか、それだけだ。奴を殺せば何もかも手に入る! 金、女、最高のヤク! お前らも一緒だ! 新宿で毎日違う女を抱けるんだぞ!」猿顔の男は徒弟の襟を掴んだ。その顔は人間の顔をもはや留めない程に歪んでいた。


 バンが開くと同時に無数の光柱が起こり、猛獣の咆哮のような音を立てた。
 アカゾナエが最期の猛攻を掛けている。全員がLSDを過剰摂取し、狂ったように分泌されるアドレナリンが恐怖感を抑え、それぞれが自分の車を踏み鳴らし、最も激しいヘヴィメタルを鳴らしながら、突撃を始めた。
 シーザーが目を閉じ、デザートイーグルが唸る。雷の如く。
 鎌鼬解放、領域拡張、さらに拡張!
 改造デザートイーグルが急速射撃、シーザーは弾の雨を繰り出した。暴走族は鎌鼬の領域へ、即ちシーザーの戦場へ入っていく。車の潮と弾の雨が正面衝突し、弾丸が燃料タンクを突き破り、車軸を破壊し、ホイールハブを引き裂き、火花が四方八方に散る。ヘビーマシンが一台また一台と水たまりの中で爆発四散し、少年達は地面に転がり、鬼のように嘆き、狼のように唸る。シーザーは機械的に、無表情で、喜びもせず、怒りもしなかった。
 アカゾナエは集団突撃でシーザーの陣を崩すつもりだった。傲慢不遜、猪突猛進、これが彼らの本質だ。ヘヴィメタルも高らかに、車の背後に刃を備え、旺盛なホルモンの赴くままに、目の前の一切を轢き潰していく。警察は彼らを撃つのを躊躇い、パトカーのドアに隠れて叫ぶのみ。若すぎるからだ。若さ故に、多少の悪事は社会から許容される。そうしてアカゾナエは狂笑しながらバイクでパトカーの屋根に飛び乗り、身を翻して去っていく。
 だが、今日彼らを迎えるのは絶対的な暴力だった。デザートイーグルは冷漠に銃火を吐き出し続け、アカゾナエはリズムと共に落馬し、シーザーは半歩も退くことはなかった。

 シーザーはロ・メイヒからUziを受け取り、射撃を続けた。鎌鼬はアカゾナエの少年達が恐怖を加速させるのを伝える。ドクンドクンドクンドクンドクン……さらに速くなっていく。車の潮を震撼させるのは弾の雨ではなく、シーザーが彼らに与える恐怖だった。武士道の勇気は、産業機械の冷漠な圧力の前に屈する。背骨を断たれた猛虎のように。
「轢き殺せ! 轢き殺せ! 轢き殺せ!」猿顔の男は狂ったように叫んだ。彼にはもう片手しかないが、ドゥカティの重バイクを運転だけの力はあった。彼以外に前へ出る勇気のある者は無かった。だが生き残るためには、シーザーを車輪の下に収めなければならない。
 少年達は最後の勇気を振り絞り、長刀を頭上で回転させたり、あるいは短銃身ショットガンを乱射する。シーザーは決まったリズムで発砲し、通りのほぼ半分の水たまりがヘビーマシンの残骸で埋まった。そして最後の数台のバイクが一斉突撃をかける。最後のチャンスだ。騎兵隊は一度でも鉄砲隊の防衛線を抜ければ勝ちだ。少年達は吼え、猛禽類のような髪を震わせた。アカゾナエの中核メンバー、本物の悪事を働いた者達だ。他人の命を顧みない男は、大抵の場合、己の命も惜しまない。
 シーザーは一つ、手榴弾を取り出して路面に向けて転がした。……暴走族たちはシーザーのエンドラインを見誤っていた。装備箱にロケットランチャーがあれば、シーザーはそれを使っていただろう。
 爆発の光の中、黒いドゥカティ、デスモセディチRR、サーキットの皇帝が宙を舞った。忠実すぎる部下の背に隠れていた猿顔の男は、既にシーザーの目前まで迫ろうとしていた。ドゥカティがシーザーの頭上に飛び掛かり、高速回転する車輪がシーザーの頭を巻き込み、猿顔の男の手にある鋭いナタがシーザーの心臓を貫く……完璧な作戦! 彼はそれ以外の一切を脳から振り払った。ホルモンが彼の血管に潮の如く湧く。あの外国人をぶっ殺せ! シーザーが死なねば自分が死ぬ!
 シーザーは足を上げ、ドゥカティの燃料タンクを蹴り上げた!
 猿顔の男は突然腰の下のバイクが無くなったことに気付き、「浮遊」状態になった。時速60キロのドゥカティはシーザーの一蹴りで吹き飛び、路面を擦った。シーザーは左手で猿顔の男の頭を掴み、右手の銃を撃ち鳴らし続けた。十万ドルのオートバイに弾丸が注がれ、4気筒エンジン、車軸、銀メッキのテールパイプとハンドル、本革のサドル、貴重なサイン、アカゾナエの戦旗……全てをうち壊した。猿顔の男が心底愛した二輪、美女のように彼に愛された車輛、彼と共に殺人までやり遂げたそのバイクは、シーザーによって紙コップの如く破壊しつくされてしまった。
 猿顔の男に心を痛める余裕はなかった。堅硬なる顔に対面した彼は、全ての感情を恐怖に塗りつぶされ、本当の失禁まで始めた。
「お前を必ず殺す。だがその前に、背後の黒幕が誰なのか言え」シーザーは一射、猿顔の男の足首を撃ち抜き、彼の片脚が消えた。
「俺は拷問が得意じゃないんでな」シーザーがまた一射、膝を撃ち抜き、男の脹脛は消えた。
「オレハ……オレハ……」猿顔の男は苦しみ悶えながら言った。
 シーザーは相手が日本語しか話せないことを思い出し、言った。「訳してくれ」
 ロ・メイヒの翻訳の後、猿顔の男は幾つかの言葉を呟いた。
「話すには時間がかかる、痛みで気を失ったらいけないから、酒を飲ませてくれ……だって」ロ・メイヒは猿顔の男の言葉を翻訳した。
「酒?」シーザーはこのヘンタイ男に多少の勇気が残っていることに驚いた。
 猿顔の男が袖から試験管を一本取り出した。紫色の液体で満たされたその試験官は雷のような速さで口に放られ、力を込めてガラスを咬み砕くと、中の液体が吸い上げられた。
「毒か!?」シーザーは驚いたが、手遅れだった。試験管の半分は雨の中で粉々になり、猿顔の男の腕はぶらりと垂れ下がった。
 しかし猿顔の男の心拍は止まっていない。むしろ正常な状態に戻っていく。傷を負い薬を飲む前は毎分200拍を超えていたが、今はせいぜい50前後。だがその心臓が通常と異なる頻度で、力強く鼓動しているのを、シーザーははっきりと聞いた。猿顔の男が白目を剥き、身体を痛みに捩らせ、熱を発した。彼はなにやらおかしな状況にある。健康になっていくと同時に死んでいくかのようだ。
 猿顔の男が突然目を開けた。獰猛な金色の瞳孔! シーザーは躱す間もなく指で胸を刺された。猿顔の男の爪はわずか数十秒の間に、剃刀のように鋭い骨のような爪に変わっていた。シーザーが本気で防御していれば隙を見せる事など無かったはずが、猿顔の男が人を超えた力など今まで見せたことも無かった以上、まさか普通の人類ではないと、シーザーに警戒させる方が酷だともいえる。だが今や猿顔の男は野獣と化している。彼の反応速度は殆どシーザーと同レベル、まるで熱情烈火の如く愛人と抱き合っているかのように、彼の爪はまだシーザーの肉体に刺さっていた。鋭利な牙がシーザーの頚部の血管を咬んでいる。シーザーにはディクテイターを抜く時間もなかった……
 その時、黒い長刀が猿顔の男の心臓を突き刺した。長刀はそのまま男を持ち上げ、水たまりに投げ込んだ。全身びしょ濡れになったソ・シハンの服は穴だらけ、灼熱の水蒸気を漂わせている。、
「先輩! 大丈夫なの!?」ロ・メイヒは驚いて言った。
「死にそうになったがな。二階のトルコ風呂に、ついでに入って来た」ソ・シハンはそう言いながら猿顔の男に向かった。「あれは龍血を活性化する薬だ。彼に飲ませるべきじゃなかった」
 猿顔の男は長刀で刺されても死んでおらず、片手と片脚だけで水たまりの中を這い回り、白い下着がポケットから落ちた。小さな下着がシーザーの怒りに再び火をつけ、デザートイーグルが男の後頭部に向けられる。
『必ず殺す』。宣誓尊守は皇帝の美徳だ。言ったからには、必ずやり遂げる。
 ソ・シハンが銃口を押し下げた。「この龍化状態なら回復するかもしれない。少し待て。殺すのは、こいつに黒幕の名前を言わせてからだ」
 その時、水たまりの中に潰れた暴走族のうち一人がゆっくりと立ち上がり、その手に握られた旧式リボルバーを、音も無くシーザーの背中に向けた。最初に気付いたのはロ・メイヒだったが、それをシーザーに口頭で伝えるには遅かった。シーザーの全ての注意力は猿顔の男に向けられていた。時間が無いと悟ったロ・メイヒは思考を捨て、シーザーに向かって飛び込んだ。まるで霊魂が粉砕されたかのように、一瞬の痛みの後、全てが空になった。彼は水たまりの中に倒れ、ドクドクと流れる鮮血が水たまりの中に巨大な血斑を作る。眼前ではソ・シハンが大声で呼びかけているようだったが、声は聞こえなかった。世界は彼から遠ざかっていき、大雨の中に溺れていった。


 マンボ・ネットカフェの廃墟を車が取り囲む。全ての車の上にパトランプが点滅しているが、本物の警察はここにはいない。オロチ八家が警察内部に干渉し、通りを封鎖しているのだ。
 源稚生は土砂降りの大雨の中で、静かにタバコを吸っていた。
「頭に一発です。弾丸は脳内動脈を幾つか貫通していて、医者が居てもダメだったと思います」カラスが一発の黄銅弾頭を手渡した。「7.62ミリ口径、弾丸の変形から判断すると相当の威力がある改造銃、撃ったのは間違いなくプロの殺し屋でしょう」
 稚生は弾頭を捻りながら、担架で運ばれていく少女を見た。その青白い顔は覚えている。おもちゃ屋で一度会った時の印象そのまま、怯えて暮らす小動物のような少女。検視官は黒い死体袋のファスナーを閉め、担架で稚生の前から運び去った。
「殺し屋は?」
「胸を撃たれたようです。44マグナム弾、シーザーのデザートイーグルのもので間違いありません。シーザーの反応速度のおかげで、もう一発撃つ前に撃ち返されたんでしょう」カラスは言った。
「口封じ、ですね」桜が言った。「この殺し屋は必要な時に隊長を抹殺できるよう、アカゾナエに潜入していたんだと思います。誰かがアカゾナエにシーザーチームの抹殺を命じた。誰が指示したのかは隊長だけが知っている。任務が失敗して、隊長も死んだ……」
「散弾銃はアカゾナエの自腹みたいですが、MP7やベレッタはこんな暴走族組合が手に入れられるもんじゃありません。誰か黒幕がこの少年達を武装させたんでしょう」カラスが言った。
「シーザーチームは追えるか?」稚生は尋ねた。
「遠くには行っていないでしょう。本家もこの辺りの組に出動命令を下したので、すぐに消息はつかめると思います」
「殺し屋が隊長を撃った時、ロ・メイヒが撃たれた可能性があります。暴走族のメンバーの話を整理すると、ロ・メイヒは恐らく殺し屋がシーザーを撃つのだと思って、慌ててシーザーを押し退けたと思われます。その銃弾が隊長を殺したのは、ロ・メイヒが撃たれた後です」
「調べてくれ。黒幕を調べ上げ、私の前に引きずり出せ」稚生はそっと言った。「ファミリーの財団に真さんを弔わせるんだ」
「はい!」桜は大声で言った。
「黒幕が抵抗するなら、まず手足を縛りあげ、それから私の前に引きずり出せ。処刑は私自らが行う。必ず――」暴雨が源稚生の顔を覆う。その表情は、シーザーのそれと同じ程に硬かった。

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