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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第二章:破滅のサイクル

「高天原はそいつの埋葬地さ。でも偉大な龍王は実際には死んでない。眠りに落ちただけだったんだ。一万年後、船倉を新鮮な胎児の血でいっぱいにした砕氷船が天から降ってきて、龍王は胎児の血を吸って復活した。トリエステ号は極淵で世界最大の犠牲祭に立ち会ったけど、何が祀られているのかは見つけられなかった。古龍の胚が生贄になるなんて、祭られているのは一体どれほどの奴なんだろうね……?」

 シュナイダーとマンシュタインは互いに顔を見合わせながら、扉の小さな青銅の鐘を鳴らした。
「入りたまえ」アンジェの声が扉の向こうから聞こえた。
 シュナイダーが扉を開けると、そこには四辺の壁すべてに天井まで伸びる本棚が広がっていた。本棚と古本で構成されたパティオは金色の日光で満たされている。アンジェは最上階の天窓の下で紅茶を飲みながら座っており、棚の上ではリスたちが跳ね回っていた。
「何が言いたいのかは分かっているぞ」アンジェは微笑んだ。「そう変な顔をするな。上って来たまえ」
 シュナイダーとマンシュタインはアンジェの対面に座ったが、しばらく言葉を発せなかった。わずか数時間で多くの事が起こりすぎたのだ。海溝の底に龍族の古都が現れ、日本支部が謀叛し、海底火山は噴火、核動力炉が爆破され、シーザーチームは消息不明、津波と人魚が熱海を襲ったかと思えば、第七艦隊の火器システムが自動で攻撃を開始する……執行部の設立以来、これほど複雑な状況に遭遇したことはなかった。
「最悪の事態は免れた」最終的にアンジェが沈黙を破った。「なんともありがたいトマホークミサイルだった。あれが無ければ、世界中の新聞の一面が『エイリアン襲来』みたいな見出しになっていただろうな」
「誰が第七艦隊の火器管制システムに侵入したのかは分かりません。少なくとも、龍族の秘密を洩らしたくないようですが」シュナイダーが言った。「ペンタゴンも一億米ドル相当の実弾を失ったのですから、もう少し探りを入れてきそうです」
「そちらに関しては心配いらない。第七艦隊の火器管制システムに侵入できたような連中は、雲隠れもお手の物だろう」アンジェは笑った。「どこ誰かは知らないが、優秀な天才ハッカー集団のようだな」
「日本支部から退職届がファックスで届きました」マンシュタインが言った。
「集団謀叛の挑戦状といったところだろう。日本人が長年夢見てきたことをやってみせているわけだ」アンジェは頭を掻いた。「シーザーチームに連絡はつかんのか?」
「消息不明です」マンシュタインは言った。「トリエステ号は深海で崩壊、加えて火山爆発に核爆発、尸守の群れといった要素を加えれば……元々低かった生存率が、更に低くなってしまい……」
「どれくらい低いのかね?」アンジェが聞いた。
 マンシュタインはやや躊躇して答えた。「EVAによれば、1パーセント以下です……」
「なるほどな。目隠ししてバーに入って適当に座って目隠しを外したら、隣にオードリー・ヘプバーン級の美女が座っているくらいの確率ということか」アンジェはため息をついた。「あの学生の保護者が飛んできてもおかしくはないな」
「さらに悪いことに、現在EVAが機能していないのです。オロチ八家の輝夜姫システムの堅固なファイアウォール網のせいで、EVAが日本国内のネットワークシステムにアクセスできていません」シュナイダーが言った。「EVAが無いというのは、目が無いようなもの。シーザーチームが生き残っていても連絡は取れず、オロチ八家の手中に落ちるだけでしょうな」
「EVAができないというなら、『エヴァ』にやらせたまえ」
「『エヴァ』の人格を目覚めさせてしまえば、あなたの権限も超えてしまいますが……」シュナイダーはハッとしたように言った。
「問題ない。エヴァは我々の可愛い娘だ、攻撃命令を下すだけでいい。オロチ八家は我々の勢力を日本国内には入れさせはしない。となれば、潜入するしかないだろう」アンジェはブラックカードを取り出し、テーブルを滑らせてシュナイダーに渡した。「もう一枚はマンシュタインが副校長に頼みたまえ。二枚のブラックカードを使えば、エヴァは目覚めさせられる」
「では校長、他に何かすべきことは?」シュナイダーはカードをしまった。
「待つのだ」
「待つ?」シュナイダーは驚いた。
「私はフロストを待っているのだ。トリエステ号の爆発から六時間が経過した。フロストがローマからここまで飛ぶのにも六時間かかる。私は校長だ。貴重な継承者を失った彼らに面と向かい合い、罪の追及に応えねばならぬ義務があるだろう? フロストとの話が終わるまで、待っていてくれたまえ」
 卓上の電話が鳴った。シュナイダーとマンシュタインは互いに顔を見合わせ、心臓の鼓動が加速するのを感じた。アンジェの予想通り、ガットゥーゾ家の追及は六時間後に起こった。今この瞬間、怒りが有頂天になったフロスト・ガットゥーゾがシカゴ発カッセル学院行きのCC1000急行列車に乗り込んでいるに違いない。アンジェはゆっくりと立ち上がり、マイクを掴んだ。
『ヘイ! アンジェィィィェ! オフィスにィ~いるんだろォう!?』電話の向こう側の声はあまりにも嬉しそうな快活さで、「兄貴、遊びに来たぜ!」とでも言っているかのようである。
「は? なぜ……お前なんだ!?」アンジェは驚き息を呑んだ。
『一言じゃ言えん! 積もるアイサツは会ってからにしようじゃないか!! アンジェ、君の天窓は開いているかね?』
「窓が開いて……どういう意味だ!? 変な事を言うな!!」アンジェは眉をひそめた。
『変じゃないぜ、上を見ようぜ、ハロー・ニーハオ・コンニチワ!! 今、君の大親友ポンペイウス・ガットゥーゾは君からわずか200メートルの距離にいて、毎秒3.5メートルの速度で君に近づいているぞォ!!』
 アンジェが天窓を見上げると、太陽光が遮られ、白いパラシュートが空から落ちてきて、スカイダイバーが手を振っているのが見えた。
「ポンペイウス、馬鹿な事をするな! 私の屋根を台無しにするつもりか!?」アンジェは叫んだ。
「スカイダイビングアキュレシーランディング世界チャンピオンだぞ!! 心配ご無用、心配停止!!」もはや電話は要らなかった。パラシュートが視野全体を覆い尽くすなか、その男はピューピューという風の中でそう叫んだ。「オーイエァー!! ハッハッハ!!」
 シュナイダーとマンシュタインはただただ呆然としていた。この男のあり余った遊び心のせいではない。問題は彼の名前だ――彼はポンペイウス……フルネーム、ポンペイウス・ガットゥーゾ……シーザーの実の父、ガットゥーゾ家現当主だ!

 教育委員会のフロスト・ガットゥーゾの席は、本来はポンペイウス・ガットゥーゾのものだ。十年前、その男は「人混みがツラいんだーよ、会議する度に心臓がギューってなるんだーよ」などと言って弟を教育委員会のガットゥーゾ家代表に指名した。もちろん、フロストも確かにやり手の人間ではあった……アンジェとの関係の険悪さはさておき、フロストはそれから十年間ポンペイウスを骨抜きにし、ファミリーの権力をその手に握り、繁栄の日々を歩ませてきた。今やガットゥーゾ家の全員がフロストに従い、ポンペイウスの命令は全く機能しないと言えるが、それでもポンペイウスはポンペイウス、偉大なる「ポンペイウス」の名を持つ男である。
 その名は古代ローマの軍事戦略家ガイウス・ポンペイウスに由来する。ガットゥーゾ家の規則に従うと、家族によって決められた継承者だけが古代ローマ共和国の英雄の名前を使う事ができる。家長継承者だけが英雄の血統を引いているとされ、同じ一族の兄弟はどんなに優秀であろうとただの庶民である。たとえ強大な権力を持つフロストであろうと、食事中にポンペイウスが入ってくればすぐに立ち上がり、長テーブルの端にある主席をこのマヌケ兄に譲らなければならない。

 男は大机の上に着陸した。白いパラシュートは霞のように、あるいは宮廷貴族のロングスカートのように、彼の背後にゆっくりと落ちた。
 男は腰を捻って向き直った。「親愛なる先生みなさま方、拍手! 喝采! どうも毎度お騒がせ!! スカイダイビングアキュレシーランディング世界チャンピオンのポンペイウス・ガットゥーゾとお話できてしまって、光栄に思ってもいいぞ!!」
 金髪の長髪、海藍色の双瞳、高い鼻に男らしいちょび髭、リムレス眼鏡をかけたハンサム男。健康的な小麦色に焼けた肌が、完璧な形の胸筋を露出させる形で大きく開かれている……その美貌に心動かない女性はほとんどいないだろう。副校長ですら呆れるほどに貞操観念がぶっ壊れていても、この美貌のおかげで、大体の著名女性は喜んで彼に付き合ってくれる。
「前に会った時は競馬騎手だったろう?」アンジェは眉を顰めた。「一体いつスカイダイビング選手になったのかね?」
「ぼくと一緒に競馬してたスペイン王女ちゃんが足を骨折しちゃってねぇ。足の折れた女性をサポートしながら乗るのはぼくの趣味じゃないよ。やっぱスカイダイビングだよね、若者のスポーツ! 若い女の子はスカイダイビングアキュレシーランディングする男が大好きさ!」ポンペイウスはパラシュートを背から引きずりながら、椅子を踏んで机を降りた。
「お前、ローマから来たのか?」アンジェは聞いた。
「いやいやぁ、バンコク、ぼくはバンコクからきたんだよ。フロストが電話寄越したときさ、ぼくはタイ王女と象に乗ってたんだよねぇ」ポンペイウスはマンシュタインに手を振った。「おおん? マンシュタイン教授さん? お電話で君のこと知ってるよぉ」
 ガットゥーゾ家の評判は決して良いものではない。中世期からずっと横暴に覇道を往く彼らは、邪魔な人間は誰も彼もなぎ倒して来た。まれに当主がなぎ倒す前に相手にアイサツ一つでもすれば、一家の歴史上でその人物は博愛主義者と描かれるようになる。だがポンペイウスは気性も性格もステキな男だった。ガットゥーゾ家の歴史家が後に描くとすれば、彼に関しては「ベットーリ男」とかにでもなるのだろう……フニャフニャグチャグチャでつかみどころがないのだ。
「きみ! きみがシュナイダー教授だね! メンポがとってもクール! ダースベイダーよりも、スカムだね!」ポンペイウスはシュナイダーと熱心な握手を交わした。
 一通りアイサツを終えた後、彼は振り返ってアンジェコレクション秘蔵の紅茶キャビネットをまさぐり、「正山小種」を取り出した。他人にコレクションを勝手に弄られるなど堪らないはずのアンジェだったが、同時にポンペイウスの鋭い鼻を賞賛せざるを得なかった。紅茶キャビネットには120種類以上の紅茶があるが、生産地域や発酵度が異なるごとに、全てラベルの無いブリキ缶に密封されている。ポンペイウスはそれらの中で最高のものを選んだのだ。この紅茶缶は中国の武夷山を産地として、茶の木はそり立つ崖の上、葉を摘むためにはサルを使い、松葉と一緒に火で炙ったものだ。アンジェは三年か五年も隠しておいて、一度も飲んだことが無かった。
 ガットゥーゾ家の男は常に最高級のものだけを嗜む。シーザーもこの点では父に似ていた。
「先生方、ポンペイウスと私の二人にさせてくれないか」アンジェは言った。
「そう言わないでおくれよ、今ちょうど紅茶淹れてるのに」ポンペイウスが言った。
「いえ、お気遣いなく。我々は失礼しましょう」シュナイダーとマンシュタインは同時に立ち上がった。
「今度一緒に麻雀しような~!」ポンペイウスは階段を降りるシュナイダーとマンシュタインに手を振った。

「……さて。何年振りだろうね、アンジェ」ポンペイウスは淹れたての紅茶をアンジェの目の前に差し出した。
「十年……か? お前は全然年を取ってないようだが?」アンジェが一口飲むと、相当淳厚な味だった。
「ぼくのようなプレイボーイはね、女性と遊んだり、ヨットで遊んだり、パッションウィークに参加したり、スイスでスーパーモデルとスキーしたりするんだ。永遠の青春時代、当然だろ?」ポンペイウスは葉巻を取り出し、煙を捻り出すかのように靴の先で叩いた。「なにしろまともに喫煙しないから。健康なのさ」
「お前は、ガットゥーゾ家の代表として来たのか?」
「そうだね。息子が行方不明になったら父親は心配するもの。僕が直接来るのは当然さ」
「お前が息子を気にかけるのか?」アンジェは嘲笑した。「保護者会にも参加しないお前が? シーザーのお前に対する評価は『種馬親父』だぞ? まったくそのままの意味だと思うが」
「ぼくは、ぼくの息子を愛しているよ」ポンペイウスは真剣そうに言った。「シーザーはちょっと反抗期なだけさ。ぼくが素晴らしいパパだってことは、シーザーだって分かってるはずさ!」
「そのシーザーが生死不明なんだが、お前には緊張感が無いな」アンジェは彼の目を覗き込んだ。
「緊張も何も、君に緊張する必要がどこにあるんだい? ぼくたちは兄弟じゃないか! ぼくがここに来たのは、フロストが何もかも台無しにするんじゃないかって恐れたからさ。おバカな弟フロストくん、狂乱偏屈、ほんとにひどい。もし彼が来たら、ためらいなく君の頭に銃をぶっ放すんじゃないかなぁ」ポンペイウスはアンジェの肩を親しげに叩いた。「でも、しょうがないんだ。ぼくたち一家の遺伝子はちょっとおかしくてね、じいちゃんもばあちゃんも躁鬱病だったんだ。たとえばぼくのパパはムッソリーニ政権時の国会議員でね、ムッソリーニ打倒の集会に参加して監獄入りになったんだ。でも銃殺される前にアメリカ人が入ってきてムッソリーニ政権を潰したもんだから、ムッソリーニ打倒を掲げたファシズム反抗の英雄になっちゃって。でもはっきり言ってみんなおかしいのさ。年を取ってくとね、みんなおかしくなってく……」
「お前、本当に息子を気にしてるのか?」
「気にしてなかったら、今でもタイで象に乗ってると思うよ」
「だったら、こんなナンセンスな話をしに何万キロも飛んできたのか?」
「いやいやいやぁ、僕の弟がおかしな感じだから近づきたくないっていう、きわめて常識的な見解を述べたいまでだよ。君が彼とちょっとそりが合わないのも知ってるし、教育委員会で彼が君を弾劾したことも知ってるよ……まったく! ブラザー、ぼくは君を信用してるんだ。君の能力は一流だし、君以外にこの学院を運営できる人間なんていないさ」ポンペイウスは満面の誠実な顔で言った。「でも君は、ぼくが表向きの責任者でしかないことも知ってるでしょ。ぼくの仕事は一族の繁殖くらい、種馬って言われてもしょうがない。繁栄の権力は全部あのフロストに持ってかれちゃってる。だから応援してないわけじゃいなさ。心って言うのは目に見えないものであってだね……」
 アンジェは静かに灰皿を上げた。「下らない事ばかり言っていると、私まで躁鬱病になってしまうぞ。それともそれがお望みか?」
「ああぁ、いやいやいやぁ、そうじゃないそうじゃないって、ブラザー同士に隠し事はないでしょ?」ポンペイウスはすぐに手を差し伸べて灰皿を置かせた。「ぼくがここに来た一番の理由は、ジャップ混血種が何を企んでるのか知るためさ!」

 アンジェは冷ややかに彼を見た後、机の下から箱をひとつ取り出した。数百年は歴史がありそうな箱で、暗緑色のトカゲ革で包まれ、真鍮製の鋲には細かく年季が入っていて、封印にはカッセル学院の校章が刻印されている。
 彼はポンペイウスに向けて箱を押し出した。「これが我々とオロチ八家の盟約の原案だ。見るなら注意しろ。壊さないようにな」
「盟約?」ポンペイウスは箱を開け、中の折りたたまれた黄色く脆い紙を広げた。
「オロチ八家は我々と対等な同盟関係にある。これは全世界の支部で唯一の例だ。19世紀末まで、シークレット・パーティは日本に混血種がいることすら知らなかったのだ。龍族の遺跡はヨーロッパと中国に集中しているから、この二つの地方が混血種の起源だと思われたのも自然なことだ。明治維新前の日本は鎖国していて、ヨーロッパ人は日本に関して殆ど知らなかった。当時のヨーロッパ人の印象では、日本は小さな漁師が点々と住んでいる程度だと思われていたらしい。だが明治維新の後、日本は西洋化を始めた。政府は優秀な若者をドイツに送り、鉄鋼船の作り方を学ばせた。シークレット・パーティが混血種を発見したのもこの時だ。1894年、マエク卿がシークレット・パーティを代表して日本に向かい、半年ほどの航海を経て京都に到着し、そこで彼はオロチ八家の代表に出会った。それが双方の公式な最初の接触だ。ヨーロッパ混血種も日本混血種も、互いの存在に驚きつつ、しかし互いの力も恐れ、座して盟約を署名するに至った。双方共に善意を示したが、大きな文化の違いがあり、互いを信頼するまでには至らなかった。オロチ八家はシークレット・パーティを野心ありとみなし、密かにマエク卿を植民者と呼んだらしい。彼らは極道の名門、日本の暗黒面だ。日本の問題に介入してくるのは望まず、むしろヨーロッパまで勢力を拡大しようとしている。それゆえ第二次世界大戦中にあっても、オロチ八家は断固として主戦派に立ち、アジアや太平洋には優秀な子孫を密かに送り込んでいたという。オロチ八家の参戦が我々に向けられたものだと知った時には、我々もアメリカ政府の側に立った。特に太平洋戦争では双方共に戦っていたから、君も多少は知っているだろう?」
「そうだそうだ、イタリアは日本の同盟国だったが、ガットゥーゾ家はアメリカ人の内部支援だったな!」ポンペイウスは媚び諂うように言った。「ぼくたちの立場はいつも一緒だ! ぼくたちが一緒なら、ジャップなんてイチコロだよ!!」
 アンジェはこの男の媚を無視して、説明を続けた。「第二次世界大戦後、私は東京に行って再びオロチ八家に会い、盟約に基づいて教育協定に証明した。教育協定というのは、正式な協力の為の契約書みたいなものだ。オロチ八家は優秀な跡取りをアメリカに留学させ、日本人学生は国に帰った後、カッセル学院日本支部を形成する。これが日本支部の始まりだ。教育協定の調印はオロチ八家が正式にシークレット・パーティに従属する事を示すが、相当の自治権は認められている」
「悪いことじゃなさそうだけど、どうして教育委員会でこれを公開しなかったんだい? 学院の版図で日本が自治区だなんて誰も知らないでしょ」
「ガットゥーゾ家は覇道を往く。もしフロストが日本に自治権があると知ったら、奴はオロチ八家の完全制圧を私に要求するだろう? 私はオロチ八家と戦争する気はないのだよ」
「何も無ければそれでよかったけど、何かが起こっちゃったからねぇ。今の教育委員会には『重要事項の隠蔽』という君をクビにする口実ができちゃったわけだ。君の事がだぁいすきなおんにゃのこのエリザベスちゅぁんだって守ってくれないぞぉ? もちろんブラザーのぼくも心配してあげるけどね」ポンペイウスは誠実かつ真剣そうに言った。
「種馬め、また下半身を熱くさせおって。下世話な言葉使いはやめろ」アンジェは眉を顰めた。
 エリザベス・ローランは教育委員会でアンジェを最も支持するローラン家の継承者である。フロストがアンジェを解任しようと試みた時も、いち早く反対して失敗させたのがエリザベスだった。
「いやだなぁ、ブラザーとぼくの経験を信じてよ。女の子は、とくにちっちゃな女の子はね、年長のステキな男に屈服するんだよ!」ポンペイウスはグヘヘと笑った。「元気な幼女を心から征服するなんて格別快感フィッーーヒヒヒ、もちろん身体からすればもっともっと……」
 アンジェは黙ってティーカップを振り上げた。
「はいはいまてまてまっちゃっちゃ、おこっちゃダメだよ、おちゃがめちゃめちゃ! ぼくの服はネパールの手作りゼンザイなんだからやめて!」ポンペイウスはアンジェの手のティーカップを下げさせた。

「しかし日本支部が自治権を持ってるにしてもさ、君みたいな狡猾な奴がどうしてこんな好き勝手させてたんだい?」ポンペイウスは言った。
「オロチ八家が契約を不本意として、我々に従うつもりが無いのは私も知っていが、簡単に裏切られるとは思わなかったのだ。オロチ八家はその実、統一された組織ではなく、八つの分家のそれぞれに固有の分野がある。例えば宮本家の勢力は船舶産業、竜馬家の勢力は武器産業、犬山家の勢力は性産業……互いのビジネスに干渉するときは、暴力によって解決する。それだけではない。彼らには『猛鬼衆』という宿敵もいる。これも極道組織だ。オロチ八家の謀反者で構成され、南部に勢力を持っておる」
「つまり、日本の極道には二つ本家があるということだね。オロチ八家と、猛鬼衆」
「そうだ。最近猛鬼衆とオロチ八家は衝突を繰り返しておる。猛鬼衆の勢力はオロチ八家に比べれば小さいが、オロチ八家が完全に根絶しようと思えば、それなりの代償を払わねばなるまい。奴らは今でも膠着状態だ。さながら冷戦のようにな」
「野蛮なジャップは謀反者に親切だねぇ」ポンペイウスが口をとがらせて言った。「ガットゥーゾ家にそんなウザい謀反者がいたら、フロストはあらゆる代償も構わず抹殺すると思うよ」
「まるでフロストがガットゥーゾ家当主のような口ぶりだが、お前はどうなんだ?」
「ぼくはね、何事にも焦らないのさ」ポンペイウスは肩を竦めた。「逆にフロストはせっかちさんだ。昔からそうさ。皇帝急ガズ宦官急グってやつさ」
「面白い説明だな。中国語の発音も中々だ」
「中国のガールフレンドのおかげさ。愛は時に、人に勉強を好きにさせてくれる。古代エジプト人のガールフレンドがいたら、古代エジプト語だってペラペラになれるさ!」
「女王の谷から女ミイラを少し発掘してくればいい。お前のねじ曲がった嗜好なら、女ミイラだって愛するんだろう?」
「そう! 最近女ミイラを何人か頂いたんだ! 素晴らしい精巧品だったよ! 石の外棺の上に金で二人の似顔絵が書かれててさ、死に装束もまったく無傷だったんだ!」ポンペイウスはウキウキと携帯電話を取り出した。「ほらほら見てみてこの写真! 一つ数百万米ドルはしたけど、まさにお値段以上って感じ! なんてったって世界に一つしかない……」
「また話が逸れたぞ! お前はミイラコレクションの自慢の為にタイからここに来たのか!?」アンジェは突然我慢できなくなってしまった。「女性の乾燥死体と同レベルの関心なのか、お前の息子は!」
 十年前からこうだ。明らかに真面目な会話をしていても、ポンペイウスがいるだけでよく分からない方向へ話題を持っていかれてしまい、新型ヨットや宇宙旅行、アルプス山南麗の絶景スキーリゾート等に関して熱心に話し始めてしまう。ポンペイウスは最高級のプレイボーイとして、美食美酒に文物収集、絵画や写真に至るまであらゆる高級品に博学で、こういう事に限ってはまともな知識を披露してくれる。「有限の人生は無限の娯楽に投資する、それがぼくだ」という彼の精神は、同じテーブルにつく人々を知らず知らずのうちに感化し、会話を弾ませてしまう。
「もちろん息子も気になるさ。でも、アートやコレクションの話をしたって息子が死ぬわけじゃないよねぇ」ポンペイウスは遺憾そうに携帯をしまった。「じゃあジャップ共の話に戻るよ。要するに君が言いたいのは、オロチ八家がぼくたちを裏切るためには、団結しないといけないってことでしょ?」
「団結せざる組織は民主国家の議会のようなものだ。戦争の決議を下すのは難しい。タカ派がステージで耳まで真っ赤にしても、ハト派はその下で冷笑するだけだからな。戦争の背後には、必然的に強力なリーダーがいる。ポーランド侵攻にはヒトラーが、フォークランド紛争にはサッチャー夫人がいた」アンジェは冷たく言った。「オロチ八家の断固とした謀反の裏には、彼らの中に強力なリーダーがいるということだ。我が道を往くリーダーがな!」
「つまり日本の問題を解決するなら、舞台裏に隠れたリーダーを見つければいいってことだろう?」ポンペイウスは眼光を放った。「何か策があるんだよね? 君は執念深いやつだ、日本人に手を噛まれて報復しないはずがないよね? おしえろおしえろよ、どうやって日本人どもをこらしめるつもりだい?」
「計画はある。だがそれはお前に言う事ではない」アンジェは冷たく拒絶した。
「おいおい、ぼくは教育委員だぞ! ぼくのお家は学院の最大出資者じゃないか! ちょっとくらいは教えてくれてもいいだろ!?」ポンペイウスはきらきらと目を輝かせた。
「お前、自分のガットゥーゾ家の仕事は種馬しかないと言ったばっかりだろう。種馬は草を食べて、身体を鍛えて、雌馬とデートしていればいい。計画について聞きたいならフロストに来てもらうんだな。何故私が種馬ごときに戦略について語らなきゃならんのだ」
「ハッハッハ、君は最高だなぁ!」ポンペイウスは親指を立てた。「君のそういう食えないところが、ぼくは大好きだ! 大きなことを成せるのは君みたいな人だよ! 君は実に正しい! 君は最高だぁ!!」
「気持ち悪いことを言うんじゃない。いくら褒められても何も言わんぞ」
「言わないなら言わないでいいさ。ぼくは別にスパイしにきたわけじゃないんだから。君は分からないかもしれないけど、センチメンタリストなぼくはね、君に会いに行く途中で美容室にも行ったし美肌パックもしてきたんだよ……」ポンペイウスはため息をついた。「ぼくはね、一族のご老人たちに説明する為にね、君の言葉が欲しいだけなんだよ。君もわかってるだろ? ぼくの親戚には年上がたくさんいて、いちいちそれぞれの事を考えなきゃいけない……その上行方不明になってるのはぼくの息子。まさに皇帝急ガズ宦官急グってやつだけどさ、そんな大慌ての宦官ばっかりに囲まれてまともに生活できると思う? ぼく、最近ちょっと歴史を勉強する機会があったんだけど、宦官がいた古代の政権って全部宦官のせいで滅んでるんだよね。ほんと、こんな宦官ばっかりの家の未来、本当に絶望的だよぉ……」
 アンジェは眉間に手を当てて視線を落とした。ガットゥーゾ家が当主の存在をひた隠しにして、公式行事に一切参加させてこなかったのも当然である……こいつこそが正真正銘の空気汚染源である。

「ところで、ぼくの研究成果を聞きたくないかい?」ポンペイウスは突然話題を変えた。
「一体何の研究だというのだ……まったく、天才ポンペイウス・ガットゥーゾ博士の研究課題とは何なのかね? 『デート中の女性ホルモン分泌の変化』か?」アンジェはこの男が博士号を持っていることを今更思い出した。
 ポンペイウス・ガットゥーゾはETHチューリッヒを卒業している。ハーバードやスタンフォードほど世界的に有名なわけではないが、卒業生にはノーベル賞受賞者も多く、在籍者リストにはヴォルフガング・パウリやヴィルヘルム・レントゲン、アルベルト・アインシュタインといった科学史に名を残した輝かしい名前も並ぶ、ヨーロッパではナンバーワンの工科大学である。ポンペイウスのようなプレイボーイがそんな硬派な大学を卒業し、全過程で優秀な成績を収めているとは想像し難いが、ポンペイウスが大学で行った英雄的行為――大学一年生の時点で既に物理学課程の全女子学生とデートしただとか――は、今でもETHチューリッヒで語り継がれているという。ETHチューリッヒの物理課程と言えば全ヨーロッパに名を馳せる名門で、毎年六百人以上の学生がクラスに参加する。女子学生の割合が三割程度だとしても、ポンペイウスが「全クラス女子斬り」などという偉業を成就させるためには一時間に三、四人の女子学生を口説かなければならないが、ポンペイウスがそれをどうやって成し遂げたのかは誰も知らない。
「ぼくは研究してるんだって! 最近は数人の女博士とデートしたんだよ……女博士、サイコー!」ポンペイウスは得意満面に言った。
「お前の輝かしい恋愛戦績は十分わかった。私の鼓膜が擦り減りそうなくらいにな。だから黙って静かにしていてくれないか? 階段を降りて左に曲がって、キッチリ扉を閉めていけ!」アンジェはもはや耐えられず、退去命令を出した。
「痛ぁぃッ! 高天原がどうやって極淵に沈んだか知りたくないのかいぃ!?」ポンペイウスはがっかりしすぎて、痛いとすら言った。「何かわかったときに真っ先に相談する相手、それがぼくと君の関係、トモダチだろう!?」
 アンジェの眼光が突然鋭くなった。「何だと!? 言え!!」
「なんか急に話したくなくなっちゃった。こんな大事な研究はさぁ、よく知ってる人に話すためにとっておいたほうがいい気がするなぁ~」ポンペイウスはどかっと座り込み、ティーカップを手にして目を左右させた。
 アンジェは一言も零さず、テーブルの向こう側のポンペイウスの目を直視し続けた。
 緊張が三十秒ほど続き、最終的にポンペイウスがいたずらっぽく笑った。「アハハ、おかしいなぁまったく。やたらに真面目なのは、相変わらずだね。いつもはぼくみたいなイケメンなのに、龍族が関わってくると野獣のように警戒するんだから」
 彼はスーツの後ろ襟をめくり、チップボックスを取り出し、テーブルの上でアンジェに向けて見せた。「内容が専門過ぎて理解できないかもね。でも大丈夫! このETHチューリッヒ地球物理学専攻主席卒業生ポンペイウス・ガットゥーゾ博士が直々に解説してあげよう!!」
「お前みたいな奴がなぜ地球物理学を選んだのか、私にはまったくもって不思議なのだが。芸術や絵画の方が彼女作りには役立つのではないのかね?」
「地球物理学専攻は我が大学の最難関、すなわち王道だからねぇ。ぼくらガットゥーゾ家の家訓にあるのさ。最速の駿馬を駆り、最高の美女を追い、最凶の巨龍を殺せ……最高こそがわが覇道、全ての事物が一流じゃなきゃね」ポンペイウスはチップをノートブックPCに差し込んだ。

「これは五十万年前の日本列島の地形だ。今の日本地図とはだいぶ違うだろう?」ポンペイウスは一枚の図を開いた。藍色の部分が海で、日本列島は海に囲まれている。西側の中国沿岸から東の太平洋中部にある「天皇海山群」まで、海底の起伏まで図示されている。
 アンジェは頷いた。「海岸線が違う。九州と四国の面積も今よりずいぶん大きいな」
「大陸移動論、って知ってるかい?」
「多少はな」
「1910年にアルフレート・L・ヴェーゲナーによって提唱された大陸移動論によると、地殻は溶岩状態の玄武岩で満たされたマントル層に浮かぶ六つの大プレートに分割されているという。つまり、地球は卵みたいなもので、六つに砕けた卵の殻が卵白に浮かんでるようなものさ。この数十億トンのプレートがゆっくりと漂流していく。一年にほんの数センチっていう程度だけど、月日が過ぎれば数千キロも動く。数億年前の中生代にはアフリカや南アメリカ、オーストラリアや南極大陸は、南半球で一つの『ゴンドワナ』という大陸を形成していたんだ。それが数千万年の間にそれぞれ別の方向に移動して、最終的に今のインド洋や南大西洋を形成したのさ」ポンペイウスはそこまで説明すると、アンジェをちらっと見た。
「なるほどな」
「文系の君が一発で理解できるなんて、さすがだね」
 アンジェはこれが賞賛なのか皮肉なのか分からず、黙ることにした。
「日本は六大プレートの中でもアジア=ヨーロッパプレートと太平洋プレートの間に位置している。六大プレートの内側では地殻はふつう安定しているけど、プレートの亀裂部は往々にして地震が多発する火山地帯になる。トリエステ号が海底で見たマグマ河がプレートの亀裂で、数千キロの厚さのマントル層が数千億トンのマグマを蓄えている、底らしい底なんてない底なし河だ。こういう特殊な地理的位置なもんで、日本の地盤ってすごい不安定なんだよね。これがダイナミック写真、五十年前から現在までの日本の地形変化が見れるよ」ポンペイウスが再生ボタンをクリックすると、土地の形が変わり始め、地盤が崩れて海水が内陸に入り込んだり、火山がマグマを噴き出したり、マグマが固まって硬く黒い山が海面から突き出た島を形成したりした。何万年もの後に島は陸地となり、滄海変じて桑田となる。
「これは高天原の沈没と関係あるのか?」
「多少はね……」
「その多少に時間を浪費するつもりか?」アンジェはあきれ果てた。
「まあそう急かさないでよ。すぐ関係してくるから、その時疑問が起きないように前提を話しておこうと思ってさ。地球物理学的に言えば、日本という不安定な国土はいずれ沈む運命にある。でもそれはすごいゆっくりしたプロセスで、理論的には何百万年もあとの話だ。だから、高天原の沈没はふつうの地質変化じゃ説明できない。歴史上の大概の古代都市は海面上昇で水没してるけど、それらはせいぜい数十メートルの浅瀬にあって、ダイビング愛好家でも訪れられる。でも高天原は違う。何百万年も経って沈んでいって、日本海溝の奥底にある」
「高天原は最初から海中に建てられたんじゃないのか? 尸守を見ればわかるが、古代の混血種は人の身に蛇の尾だ。海底で生活もできる」
「いや、ぼくは元々陸地にあったんだと思う。大気中の都市と水中都市じゃ形が全然違うからね。大気中だと風や砂の侵蝕、水中では水流の影響があるけど、後者の影響力は前者の数千倍だ。流動力学の観点からすれば、高天原はどう見ても陸上都市の特性に合致してる。高くて厚い壁と平坦で真っ直ぐな街道は陸上都市の特徴だよ。だから、あれは後で海に沈んだに違いないさ」ポンペイウスは言った。「問題はどうやって沈んだかってこと。ぼくの想像力もここにピンときた。君達が海溝に高天原を見つけた後、ぼくはすぐに図書館に駆け込んで、日本の地震資料を全部調べてみたんだ。乱雑な論文の中にぼくは一つだけ、地質学的に興味深いデータを見つけた。今からだいたい一万年前、日本が滅亡の危機に陥ったことがある。マグニチュード10近い超巨大地震が、日本四島を一瞬で崩壊させかけたんだ」
「数十万平方キロ近い国が、地震で崩壊するのか?」
「ありえないとはいえないさ。日本の陸地はすごい脆弱だからね」ポンペイウスは別の写真を開いた。「じゃあ、地殻に入って日本の陸地を見てみようか」
 現れたのは日本の陸地の詳細な構造を示す断面図だ。上層の黒い地殻と下層の赤いマントルの間に地殻層を表す赤いジグザグの線が入り、九州の阿蘇山や本州の富士山には赤く太い線が繋がっているのが分かる。
「これは何だ?」アンジェは赤い線を指差した。
「マグマ溜りだよ。日本の地殻はマグマの河でいっぱいだ。日本が世界で最も不安定な国って言われているのはプレートの亀裂の上にあるからだけじゃなくて、全国に数百の活火山があるからでもあるのさ。富士山も活火山の一つだ。ずっと昔に噴火して、マグマが三千メートル以上の黒い溶岩岩山体を作ったんだ。まったく古代の日本の火山はどれだけ壮観だったんだろうねぇ……無数の黒い煙柱が雲を突き破って、燃えるマグマが何千メートルの空まで噴き上げられるとか……。地震は地殻に大量の亀裂も作って、亀裂の中は海水や地下水で満たされ、固体と液体が相互混合して流動性に変化する。ぼくたちはこういう土壌を『液状化土壌』と呼んでる。簡単に言えば、地殻深くに眠ってるマグマの河が、海水が地殻の表面を溶かしたことで表に出てくるわけだ。これは地質学では『溶解作用』と呼ばれる。そしてもっと酷いのは、マグマは地層中のバクテリアの栄養になって、バクテリアの嫌気性呼吸で大量のメタンガスが発生すること。メタンガスは空気中に排出されず数百年前から地殻の空洞に溜まり続け、その合計は地球上のメタンガスの七割にも及び、地殻変動の潤滑剤になる……」ポンペイウスはソーサーに茶色い角砂糖を幾つも積み上げ、一番下の角砂糖をパッと引き抜いた。「そこに巨大地震がやってくる! 日本の地盤はマグマを、海水を、メタンガスの間を滑って滑って、最終的には……ドボンだ」
 アンジェはしばらく黙りこんだ。「……日本のあの摩天楼群は、流砂みたいな地盤の上に建てられているということか?」
「そういうこと! 一万年前に突然、マグニチュード10クラスの超級地震がやってきた。小惑星が地球に衝突するようなレベルのね。元々脆弱だった日本の地質構造が揺さぶられて、百万年かかるはずの沈没プロセスが一日に短縮されてしまった。地震発生時の地球を空から眺めたとすれば、穏やかな太平洋上に突然小さな水しぶきが現れたように見えただろうね。その『小さな』水しぶきの実際の直径は数百キロ、巨大な波が中国や韓国の沿岸を襲い、数時間後にはウラジオストク、一日後には潮の先が北米に達して、カリフォルニアの砂漠を水没させる。百メートル近い高潮はベーリング海峡を突破して北極海に入り込んで、北極海の氷の上で天まで昇る飛沫を上げる。氷殻爆発ドカーン! 数千キロの亀裂が極地を貫く!」
 アンジェは眉を顰めた。そんな終末的なシーンは想像するだけでも恐ろしいが、ポンペイウスのような狂人はそういったものを嬉々として描く。
「マグニチュード10クラスの地震なんてありえるのか?」
「普通はありえないね。人類の観測史上最大の地震はチリ地震のマグニチュード9.5だ。マグニチュード10クラスの地震は理論上の存在さ」ポンペイウスはアンジェの目を見つめて言った。「でも、地震を起こすのが地殻応力だけじゃないというのは、ぼくも君も知っているはずだよ」
「どういう意味だ? ……まさか」
「フェンリルの『シヴァダンス』で北京が滅亡寸前になっただろ?」ポンペイウスは肩を竦めた。「不思議だねぇ、こういう大きな災害が起きる度、ぼくの息子がその災害の中心にいるなんて」
「そのマグニチュード10クラスの地震は……言霊の効果だというのか!?」アンジェは戦慄した。
 歴史には同じような災害が時折みられる。王恭廠の大爆発、インドの古代都市モヘンジョ=ダロの核破壊疑惑、言霊「ライン」によって引き起こされたツングースカ大爆発……だがポンペイウスが描く災害には、それらを遥かに凌ぐ規模と壮絶さがある。
 ポンペイウスは頷いた。「そうでなきゃ一万年前の災害は説明できない。龍王覚醒の瞬間に究極級の言霊が発動して、大地は震え、九州から本州までの全ての休眠火山が一斉にマグマを噴き出して、黒い夜を白い昼に塗り替える。液状化土壌がメタンガスで滑って崩壊し、高さ一キロの超級津波が襲ってきて、富士山の上まで噴き上がった飛沫は世界最凶の雨となって降り注ぐ。地面が割れ、海水がマグマと合わさって、水蒸気爆発が連鎖して、砂上の摩天楼はもろくも崩れる。日本はまさに沈没しかけ……でも幸運なことに、生き残った」
「何故だ?」アンジェは無意識に尋ねた。
「そう! その『何故』が重要なんだ! そう言ってくれると語り手名義に尽きるってものさ!」ポンペイウスは興奮した。「震源は間違いなくあの古代都市だ。激しい振動で古代都市が日本の陸地から引き剥がされ、前代未聞の激流に乗って深海に引きずり込まれ、最終的に日本海溝の底に沈んだんだ。重力の作用でゆっくりと海溝の深いところに沈んで行って、ついに世界で最も深い場所に辿り着いた。一万年ものあいだ海水に隔絶されていたところにトリエステ号が降りてきて、人類が再発見したんだ」
「あの巨龍もその災害で死んだという事か?」
「うん。高天原はそいつの埋葬地さ。でも偉大な龍王は実際には死んでない。眠りに落ちただけだったんだ。一万年後、船倉を新鮮な胎児の血でいっぱいにした砕氷船が天から降ってきて、龍王は胎児の血を吸って復活した。トリエステ号は極淵で世界最大の犠牲祭に立ち会ったけど、何が祀られているのかは見つけられなかった。古龍の胚が生贄になるなんて、祭られているのは一体どれほどの奴なんだろうね……?」
 アンジェは気付かないうちに眉を上げた。
「もはや『王』という言葉では表せないレベルの高位の存在。ぼくたちはそれを……『神』とでも言うべきだ」ポンペイウスはゆっくりと言った。「ブラザー、オロチ八家の謀反を抑えるよりも先に神を殺すべきだと思うよ! 考えてみてよ、奴が目覚めれば即ち世界滅亡なんだ。大地と山脈の王や青銅と炎の王なんかよりはるかに凶悪な奴が、死んでから一万年の間、怨念を浄化する司祭みたいな奴もいない中で、世界に対する憎しみを更に膨れ上がらせているんだよ! 一万年もの間殺され続けた奴が目覚めて最初にやろうとするのは……世界の破壊、それだけだ!」ポンペイウスは激昂した。「ブラザー、時間は無いんだ! 早くしないとぼくたちは桜や日本酒、和牛や刺身……そして従順賢母な大和撫子と永遠にお別れしなくちゃいけなくなる! 日本がこの世界から完全に消え去ってしまうよ!!」
「このレベルになってくると急ごうが急ぐまいが問題では無くなりそうなのだが、何か神を殺す手立てでもあるのかね?」
「龍王は復活してすぐ覚醒するわけじゃない。その時が殺す絶好の機会だ。でなきゃすぐに災害級になっちゃって、アメリカ政府に大陸間弾道ミサイルに核弾頭でも乗っけて日本もろとも消滅させてもらうしかなくなるからね。せっかくだから最後に、その災害級の神が目覚めた時の影響をシミュレーションしてみよう……」ポンペイウスは最後のファイルを開いた。「災害の第一波は熊本の阿蘇山から始まる。大型の活火山から数百平方メートルの地面を覆うマグマが流れ出るんだ。次に噴火するのは日本火山の皇帝、富士山。同時に阪神圏で地震波が発生して、都市は次々と液状化した土壌の中に沈んで、沿岸部の陸地は大規模な地滑りで剥がれ落ちていく。第二波は四国と北海道を貫く十字型の地震波だ。地殻深くにあるマグマ河が沸き上がってくる。第三波では一キロを超える巨大な津波が沿岸部を襲う。これが致命的な一波だ。海水とマグマが混ざり合って、水蒸気爆発が国家を破壊し尽くす。そして……サヨナラ、ジャパン」
 シミュレーション中の一秒は実際の一時間に相当する。数十秒後、画面上から本州と九州の大部分が消失し、中央の山地と比較的安定した北海道だけが海面に残っていた。超級の津波は中国の黄海にまで届いている。
「一日たって、日本沈没」ポンペイウスは棺を覆い、事を定めた。
「なぜ私に言うんだ? フロストに言えばいいじゃないか」アンジェはポンペイウスの目を見つめて言った。
「こんな大事なことに関して、あのおかしな弟を信用しろって? ぼくはちゃんと専門家を選んだつもりだよ。君こそが龍殺しのプロフェッショナルだ。日本沈没はともかく、ぼくの大事な大事な子供がまだ日本にいるんだからね」
「それに関しては悪い知らせがある。EVAの計算だと、彼らが海底から生還している確率は非常に低い……私が言いたくないくらい、お前も聞きたくないくらいにな」
「知っているさ。生還率は1パーセント未満だろう? 1パーセント? ブー! このポンペイウスの一人息子が、そんな簡単にくたばるとおもう!?」ポンペイウスは一語一句力を込めて言った。
 突然元気を沸き上がらせた男を見て、アンジェはポンペイウスを本当に理解していなかったことに気付き、ショックを受けた。ポンペイウスを心底見下していたアンジェだったが、復讐鬼がプレイボーイを軽蔑できる謂れなどなかったのだ。二人の関係が今まで維持されてきたのは、全てポンペイウスの賎しさと、お人好しと、恥知らずの結果だった。だが今この瞬間向かい側に座っている男はいつものゴミではなく、ただひたすらに賢明勇猛。アンジェは最初からポンペイウスの意図を見誤っていた。彼はアンジェに情報を求めに来たのではない。この情報をアンジェに知らせるために来たのだ。過去十年間、学院やガットゥーゾ家が意見を求めても遠くに逃げてばかりだった彼が、今回だけは直に登場せざるを得なかった……あの愛嬌の無い息子をそれだけ気にしているという事だろうか?
「シーザーの人生はパパと同じであるべきだよ。七大陸と四大海に足跡を残し、七大陸と四大海にガールフレンドを作るべきだ! その高き目標を成し遂げるまで! わがガットゥーゾ家の男は絶対に死ぬことはない!」ポンペイウスの横眉怒目はいたって真面目だった。
 上がったばかりのアンジェの彼に対する評価が、その瞬間残酷にも地のどん底へと崩れ落ちた。ポンペイウスとはそういう奴だった。真面目が十分も続いたことはない。ガットゥーゾ家が並んで白バラを棺に投げていても、棺に横たわっているのがポンペイウスだったら厳粛な雰囲気にはならないだろう。どうせ突然棺の蓋を開けて起き上がり、自分を弔ってくれた全ての女性に挨拶して回る、それがポンペイウス・ガットゥーゾ流だ。
「とにかく! ぼくの息子をしっかり救って欲しいんだよね! 家の事はこっちで僕がやるからさぁ!」軽快に階段を下っていくポンペイウスは、まさに小さな種馬のようだ……数歩走ったところで彼は自分がまだパラシュートを引きずっていることに気付いたが、時すでに遅し、彼はパラシュートロープに躓いて、呻き声を上げながら階下へ転がっていった……。


 アンジェは再び天窓の下に座り、ポンペイウスが去る前に淹れてくれた最後の一杯の紅茶を飲んだ。夕日が山の向こうに沈みかけ、パティオはまだらな影を湛える。アンジェの表情には明暗が交錯していた。リスが度々本棚から彼の様子を伺ったが、敢えて近づくこともなかった。この場の主人が突然、本の匂いを漂わせる温厚な老人から、威厳凝重な戦士へと変わってしまったことに気付いているのだ。

 だらけ切った足音が階段を上がってきた。
「あの淫乱が姿を現すなんて、本当にビッグイベントみたいだね」副校長が悠々と上って来た。半瓶だけ入ったブランデーボトルを提げ、ノースリーブデニムシャツを着ている。
「奴に顔くらい合わせればよかったろうに」アンジェは言った。「ポンペイウスが来ている事くらい分かっていたのだろう?」
「中国人にはこんなコトワザがある、『二匹の種馬、一厩にいらず』。俺はアイツが好きじゃナッシングなーの」
「中国人のコトワザは『二頭の虎、一山にいられず』だろうが」アンジェは言った。「私は日本に行かなければならないのだ。龍王を一匹殺すためにな」
「オロチ八家はあんたを好きじゃないんでしょ? 前はあんたが首根っこ掴んだから頭を下げたけど、今の日本はマジでムホンだ。あそこはもうあんたにとっちゃアウェーだよ。キャプテンとして自分のヘッドでもプレゼントするつもりかい?」副校長は言った。
「私の事が好きじゃなくても、オロチ八家はまだ、私に武力を使う勇気はないのだよ」
「ん? 君一人で行くのか?」
「団体で行っても意味はない。それに、日本にも私の友人や部下がいる」
「部下? 日本支部はオロチ八家のファミリーで、全員リタイヤしたんだろ? 部下なんているのか?」
「以前に私が日本に送り出した実習生に加え、シーザーチームもいる。私は彼らが死んでいないと信じているのでな」
「あの三馬鹿と数人のインターンで正体不明の巨龍をやるつもりなのか!? なんてヘビーな!! ブッダがサンゾー・ボンズにゴクー縛りのオークとカッパオンリーで、バイブル求めて西までクエストさせるようなもんだ!!」
「私が日本に送った若者はただの猪や河童などではない。そして私も、念仏を唱えるだけの唐僧ではないつもりだ」アンジェは机の引き出しから折り畳みナイフを取り出し、袖口の革鞘に入れた。


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