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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第七章:黄泉の道

「人というものは暴力的なるもの。人の有る処に又暴力も有るのだ。暴力を制さんとするのなら、より大きな暴力を持たねばならぬ」橘政宗はゆっくりと言った。「暴力を終わらせたくば……先ず、最大の暴力を成さねばならぬ」
 源稚生は悚然とし、座り込むことしかできなかった。

「EVAから日本支部の情報を引き出せるだけ引き出したが、悪い情報と良い情報がある。どっちを先に聞きたい?」シーザーはノートブックPCを閉じた。
 ロ・メイヒが少し考えて答える。「先に悪い方で。希望があったほうがいいからね」
「日本支部は本物の極道組織だ。それだけじゃない、日本極道の頂点に君臨し続けてきた、日本最古のヤクザファミリーだ」
「それみろそれみろ! 源稚生なんて極道そのものだったじゃん!」ロ・メイヒの疑念は遂に最悪な形で解決してしまった。「それで、良い情報は?」
「今は俺達も極道の仲間という事だ」
「どこが良い情報だよ! ボスも頭おかしくなったの!?」
「今の俺達は極道とグルだ。少なくとも今の所は指やタマを切り落とされたりしないし、コンクリートの中にぶち込まれたり、男娼館に送られたりもされない」シーザーは肩を竦めた。「奴らの勢力は相当なものだ。そんな組織が俺達のサポートに回るって言うんだから、良い情報に決まってるだろ」
「でも僕の経歴は清廉潔白なのに。同級生を殴ったりもしてないし女の子のお風呂覗いたことだってない。違法行為といえば海賊版MP3をダウンロードしたくらいなのに、なんで極道なんかに……」ロ・メイヒは狂っていた。
「まあ待て。まずは日本法の勉強だ。日本は世界で唯一、合法的に極道組織が存在できる国だ。例えば三合会は日本最大の極道組織と自称してるが、あいつらも合法社団なのさ。日本の法が裁くのは犯罪者だけ、犯罪組織は裁かれない。日本の極道組織はだいぶ活発でな、地震や水害が発生した時に最初に救いの手を伸ばすのも警察や自衛隊じゃなくて極道組織だ。日本では極道組織に入るってのは雇用とそう変わらん。社会保険や失業救済もある」シーザーは言った。「今の俺達は確かに極道の人間だ。だが極道組織と関係があるからと言って、犯罪者だとは限らない。ここ日本ではな」
「それってつまり、日本で言われる極道っていうのは、街中駆け回るネズミとかノラ犬なんかじゃないってこと?」ロ・メイヒは少し理解した気になった。
「完全にそうとは言えないがな。合法的に存在できるとは言うが、一般人は極道を警戒する。日本の極道の歴史はすさまじく長い。最初は職人ギルドとか遊女ギルドとか、多種多様な分野のギルドだった。それぞれ独自のルールに従っていて、法に反することもあるが、暗黙のルールというやつはどんな時でも守られている。警察が直接乗り込みでもしなければ秩序が保たれているのさ。その内に幾つかのギルドが極道結社に変わっていき、極道結社の長い歴史の中で極道貴族なるものが生まれた。極道貴族の事業の殆どは合法で、政治家や大企業にも切れない関係がある。だから日本は法律に従って極道の存在を容認しているし、極道の人間に常に前科があるわけでもない。ある大阪の女が極道会社に電話して夫の片腕を切り落としてほしいと頼んだ時は、極道は何のアクションも起こさず警察に通報したらしい」
「なんか日本の極道って逆にコワいね」ロ・メイヒは言った。
「要するに、日本の極道は大分自己抑制が効いている。必要が無ければ武力に出ることもまず無い。最近はむしろ自分のビジネスを維持する為に年々縮小しているくらいだ。簡単にビジネスのルールを破る事も無い。だが逆に誰かがルールを破れば、その復讐は残酷そのものだ。日本極道全体が本気で復讐と殺戮をしようと思えば、日本全国の警察が出動しても抑えられないといわれている」ソ・シハンが言った。「極道が敵でなく味方だというのは、幸いだったわけだ」
「校長はこんな日本支部を野放しにしてるの?」ロ・メイヒは言った。「校長はヨーロッパの王族とアフタヌーンティーとかしてばっかりの上流貴族だし。極道とはそりが合わないんじゃ」
「俺達が閲覧できるレベルではあまり具体的な情報は分からん。EVAの日本支部の説明もだいぶ曖昧だったしな。とりあえず分かっているのは、日本支部は純粋な学院の派生機関じゃなくて、古来の日本の混血種ファミリーと学院の合同設立だという事だ。『オロチ八家』と呼ばれるこのファミリーは三つの大姓と五つの小姓で構成され、所属する全員が混血種。何千年もの間日本の極道に君臨し続けてきている。縄張りを構えた極道結社のリーダーはオロチ八家の神社で『焼香』をすることになっているらしいが、これはオロチ八家が定める極道の法の遵守を誓う儀式だ。それが結社を存続させる唯一の方法だからな。オロチ八家の強さはヨーロッパの混血種ファミリーすら足踏みするレベルだ。学院も強迫するわけにもできないから、共同作業という形を取った。だから日本支部は本部の派遣人員を虐待するのが好きらしい。学院も目は光らせているらしいがな」
「別に悪いとは思わなかったけど。ステキなオフロード車で迎えに来てくれたし、カワイイ女の子もいるし」ロ・メイヒは源稚生と矢吹桜が相当な美男美女であることを思い出した。
「ああ、だがそれが逆に奇妙に思える」シーザーは言った。「ガーディアン掲示板のログに出張で日本に行った執行部員の書き込みがいくつかあった。考えつきうるあらゆる手段で人間の尊厳を踏みにじる虐待、地獄のような書き込みばかりで……ああっ、そうか! クソッ!」
「ええっ、何なの!?」ロ・メイヒは驚き、シーザーに突然叱られたのかと思った。
「今分かった。学生自治会の奴ら、俺が日本に出向くと聞いた途端に別れのビデオを撮って送ってきたんだ。バシがカメラの前で感情的になって『ボス、帰ってきたら一緒に狩りに行きましょう』なんて言うから、末期の死病患者みたいな気分になったんだが、あれは日本支部に行ったら戻ってこれないと思ってたんだろうな」
「なるほどな……シカゴ行きの列車に乗る前にランスロットが駅に走ってきて、文面に署名してくれと喚いてたな。三週間以上連絡が取れない場合は代理会長の資格を得る、三カ月以上連絡が取れなければ新会長になる、とかみたいな内容だった」ソ・シハンが言った。
「それやっぱりただのお別れじゃないよね!? どう見ても『終活』だよ!?」ロ・メイヒは目を見開いた。「戻ってこない前提で準備してるじゃん!」
「とりあえず俺が知る限りでは、日本は居心地がいい場所ではない」シーザーは考え込んだ。「以前日本に出向いた執行部員は強迫症を患って帰ってきた。誰にでもお辞儀をして回り、批判されるとすぐに『大変申し訳ありませんでした』って叫ぶ、そういう神経症だ。日本の文化は強者の文化だ。強者の中の強者だけが尊重される」
「強者というのは?」ソ・シハンが聞いた。
「日本支部からすれば、本部の強者はただ一人。ヒルベルト・フォン・アンジェ」
「校長が強者? おちゃらけ老人じゃないの?」ロ・メイヒは言った。
「なるほど、そう考えると日本支部の今の俺達への対応は信じられんな」ソ・シハンは言った。
「俺達が泊ってるホテル一つ見てもそうだ。シャンパンもフルーツもホテルマンも……ほら、中国にもこんな感じのコトワザはあるだろ。『やたら親切な奴は大抵ヤバい』」シーザーが氷桶からシャンパンを引き出した。1998年醸造のモエ・エ・シャンドン銘シャンパン……コレクター垂涎モノの一品、トップレベルVIPに手向けられるようなプレゼントだ。ギフトフルーツは台湾産のレンブにタイ産のゴールデンマンゴー、更に中国南部から空輸されたばかりのライチの名種「掛緑」と並び、部屋はサンダルウッドの上品な香りで満たされている。

 チェックイン前に判っていたのは、泊まる場所が東京で最も豪華なホテルの一つである「ザ・ペニンシュラ東京」であるということだけだった。しかしVIP用エレベーターが直接最上階に到着するなり、両サイドのホテルマンが同時に深くお辞儀しながら「長旅お疲れさまでした、ザ・ペニンシュラ東京へようこそ」と言い、サンダルウッドの扉が開いていくのを見れば、シーザーですら息を呑んだ……日本支部は国賓レベルのペニンシュラスイートを予約した上に、様々な追加サービスまで付けていたのだ。ゼネラルマネージャーがホテルのロビーで直接出迎え、エグゼクティブシェフが常に待機してあらゆるディナーを提供する。コンシェルジュはいずれも髪を高めに纏めた美女ばかりで、高露出でぴっちり締まったチャイナドレスに身を包み、細い腰をしならせながら荷物を運んで行ったり、玄米茶やベッドメイクを用意したりしてくれる。バスルームには暖まったふかふかのバスローブが用意されている。
「シャワーを用意させていただきました、ごゆっくりどうぞ。何かお困りのことがあれば、いつでもお申し付けください」美女たちは頼まれてもいないのに汚れた服を回収し、洗濯した上でアイロンがけまでしてくれた。
 ロ・メイヒはチャイナドレスの美女たちの腰から尻までの綺麗なラインを見て、下心を抑えられなかった。
「あの子たち絶対僕の事誘惑してるよ!」ロ・メイヒは心を揉まれた気分になった。「そうか、日本支部はこうやって僕に間違いを犯させようとしてるんだな? それでピンホールカメラでポルノ写真でも撮るつもりだな!?」
「それだけならいいがな」シーザーは言った。「お前の誘惑に美女なんかいらんだろう。お前のベッドに裸の女の抱き枕でも置けば十分だ。その抱き枕で色んな変態行為を勝手にやってくれる」
「僕にも自尊心はあるんだけど!?」ロ・メイヒは抗議した。「僕は朝比奈みくるの抱き枕で頭おかしくなるクソオタクじゃなんかじゃ全然ないんだからな!」
「つまりお前の二次元の嫁は決まってるってことだな」
「アサヒナ・ミクルとは彼女の事か?」ソ・シハンがロ・メイヒのベッドルームに入り、大きな抱き枕を抱えて戻ってきた。メイド服を着て胸部を誘惑的に露出した美少女が描かれている。
「それマジ……」ロ・メイヒはどんよりとするほかなかった。
 ソ・シハンはロ・メイヒに抱き枕を投げた。「このスイートには三室ベッドルームがあるが、趣はそれぞれ違う。ベルベットと水晶のシャンデリアが下がっている欧州スタイルの装飾、これはシーザー向けだろう。俺の部屋は原木家具。ロ・メイヒの部屋のテレビには中国語字幕付きの新作アニメが映っていたし、その抱き枕以外に大画面パソコンまであった。明らかに俺達一人一人の趣味嗜好を意識したサービスだ。だが俺達の好みを調べ上げてまで手厚く遇している理由がわからん。校長の差し金でもないとなると、何故奴らはこんな待遇を?」
「ボスがいるからでしょ。ボスの家は代々学院の教育委員会の偉い人だし。日本支部もメンツを立ててるんでしょ?」ロ・メイヒは言った。
 シーザーは首を横に振った。「ガットゥーゾ家の財産は世界中にあるが、日本には中古の家一軒すらないぞ。だから日本の混血種とガットゥーゾ家に親睦はまったくない」
「ますますわからなくなったんだけど……」ロ・メイヒは言った。

 シーザーは自分でシャンパンをグラスに注いだ。「恐れることはない。男が一度グラスを上げたら、酒を飲んで、グラスを置いて、それから決闘の剣を抜くんだ。日本人が誠意を見せてくれたなら、乾杯をしてやらねば。日本人の動向を見て、それからどう崩していくか考えればいい。海溝の難破船だけじゃない、傲慢な日本人共も征服してやればいいのさ」
 シーザーは日本支部の接待に満足の意を表した。自惚れた楽観主義と絶妙な鈍臭さから、日本での初陣で既に勝ったとも思っていた。常に傲慢だった日本支部が頭を下げて敬意を表している、これこそ日本征服の第一歩だ。学院の歴史の中でアンジェだけが日本人に認められている。アンジェには一歩遅れたが、二番目の「強者」となる自信がシーザーにはあった……というより、アンジェが日本支部で名声を得た時、そもそもシーザーは生まれてもいなかったのだ。どんなに頑張ったとて、戦う事すら出来ない。
「シャンパンの夜を楽しもうじゃないか?」シーザーはグラスを上げた。「さあ、日本を征服せよ!」
 悲しいかな、シーザーの野心に応える者は誰一人いなかった。いつの間にかロ・メイヒは朝比奈みくるを抱いて眠っていた。プレジデンシャル級スイートのソファは、ベッドのように快適だったのだ。
 共に杯を上げてくれる者もおらず、「影を対して三人と成す」有明の月もなければ、グラスの酒もどうにも味気なく思えてくる。窓際のあの細ったらしい背中を誘うのも躊躇ったシーザーは、グラスを数秒ほど中空で手向けてみたが……結局その手を下ろし、立ち上がって欧州風の装飾が施されたベッドルームに歩いていき、後ろ手に扉を閉めると、携帯電話でノノに向けてメッセージを送った。ノノからの返事は絶えて久しく、いつの間にか手の届かないところに行ってしまったかのようだ。EVAのシステムを通じれば、ノノが健在しているのは知れるのだが。
 ロ・メイヒがリビングルームで小さくいびきを鳴らす。ソ・シハンは黙々と窓の前に立っていた。外の雨は始まりも終わりもないかのように、ただただザァザァと降りしきっている。


 東京郊外の山中。神社の屋根に大雨が打ちすさび、軒先から流れ落ちる雨が美しい放物線を描けば、庭に植わった樹齢数百年の大樹が哀しい桜吹雪を降り注ぐ。
 黒服を着た男たちが腰に白い鞘の短刀を下げ、焼け焦げた鳥居の下をくぐる。瀟洒な桜花に覆われた石段を歩いてゆくと、本堂前の朱紅色の石壁の下で立ち止まり、三度深くお辞儀してから、二列に別れて道を作った。
 次に神社に入ったのは、紙傘を持った七人。男は黒紋の羽織、女は黒留袖とフォーマルな和服を着ており、白い足袋と木下駄を履いている。しっかりと前を見据え、その歩みは穏やか、かつ重々しい。焼け焦げた鳥居をくぐれば、先行していた男たちが一斉に深々とお辞儀する。一言も発されず、まるで葬式のように厳粛な光景だ。一番前を歩く銀髪の老人が石壁の前で三本の線香に火をつけ、雨の中に煙が散らばっていくのを見ると、静かに溜息をついた。「全く、煩わしい」
 七人が本堂に入ると、大勢の人間が神社の中に流れ込む。黒いスーツを着た男たちは所狭しと肩を寄せ合い、整然と並んで立ったまま。道塞ぐ者も足を滑らす者もおらず、全員が石壁の前で深くお辞儀する。そして本堂の前で傘を受け取っていき、最終的には黒い傘の団塊となる。さながらカラスの群れだ。今、神社周辺では百台近い車両が道路を封鎖し、実弾や長刀を携えた男たちが月影の中に立っており、この朱紅色の建物には何人たりとも半歩も近づけない。
 かなり古い神社だが、細緻に渡って補修が繰り返され、古めかしい感じは全くない。修復されていないのは焼け焦げた鳥居と、元々の外観を維持している朱紅色の石壁のみ。清掃人も雇っていないのか、石壁の上に乾ききった血の跡がしたたり、石にすっかり染み込んでしまっている。
 本堂の内部はタタミで覆われ、神棚や仏像は祀られていない。内壁は四面に浮世絵が描かれ、精心の筆致が極まっている。描かれているのは妖魔神鬼の戦争、火焔の噴気、燭光が瑩然と輝く鬼の眼はリンの画料で塗られているのだろう。黒スーツの凡百の男女がそれぞれの各自の位置に跪く。この巨大組織の中でも、己の位置を見失う者は一人もいない。

「大族長、参加者全員到着しました。戦略部の石舟斎、丹生巌、佐上峰ら長老と、情報部の責任者と部下の計三十四人、五分家の者が計百三十四人、カッセル学院日本支部管轄の関東支部長及び組長十九人、関西支部長及び組長が十七人、岩流研究所十四人、丸山建造所七人……計四百四十人おります」黒スーツの秘所が銀髪の老人の目前にかざし、「政宗氏、ご覧下さい」
「稚生はどこだ? 奴がいなければ会議の意味もないぞ?」政宗氏はその場で唯一空座の場所を見て言った。「夜叉、カラス、稚生はどこへ行った?」
 後列に跪いていたカラスが列から飛び出して言った。「若君はさっきまでそこにいたんですが、家人の安全を確保すると言って巡回に行ったきりで。全員集まったことに気付いていないのかもしれません、私と夜叉が知らせに行きます!」


 大きな、大きな雨粒がガラスに当たって粉々に弾けた。山の頂上から見下ろすと、東京はまるで蜃気楼の街のようだ。
 本堂裏の奉安殿の明かりは暗く、窓の前に座っていた源稚生は十八年モノの山崎ウィスキーを一人で呷りながら、外の雨をぼんやりと眺めていた。
「若君。大族長及び各家の当主が到着しました」カラスが静かに入り、稚生の耳元で囁く。「皆さん待ってます。若君が行かなければみんな舌を噛むことになりますよ」
「分かった。これを飲み終わってから行く」稚生は眉を寄せた。「お前と夜叉が来たのは、シーザーチーム監視の件か?」
「そっちには桜がいます。若君、飲みすぎですよ。俺と夜叉が信頼できないから、桜に監視させると言ったのは若君じゃないですか」カラスはうがい薬を取り出した。「本堂前で口をすすいだ方がいいです。若君は巡回に行ってることになってんですから、匂いでバレたらまずいですよ!」
 夜叉が入り口を見張っており、誰かが奉安殿に近づいて源稚生のアルコール真実を見つけることはない。カラスも夜叉も、稚生がいないのは酒を飲んでいるからだというのは想像がついていた。稚生はこういった家族集会を嫌っていて、集会が行われる度に毎度様々な言い訳を付けていた。今日の会議がさほど重要なものでもなければ、稚生は学院本部の要員を見張るという口実で出席拒否していただろう。しかしそれも不思議なことではない。一家の若君として忠実で献身的な将兵達と向き合う事は、稚生にとって寒気すら覚える行為なのだ。若君がアメリカに留学し西洋式の生活を楽しんでいた時には既に、性格的に日本には合っていないのではないかという話は一族に広まっていた。幸運なのは、一緒にカッセル学院で学んだ若者達が稚生をサポートしていることだ。それだけが彼にとっての救いだ。
「覚えているさ」稚生は額をトントンと叩いた。「ペニンシュラホテルにお前達を置いていくはずがない。本部要員を東京タワーに裸で吊るすつもりだろう?」
「若君、やっぱり俺と夜叉に偏見持ってますよね……。俺達は確かに変態ですけど、男のヌードには興味ないっすよ。あ、もしかして若君は桜も変態だと思ってます? だったら桜は好きかもしれませんね」カラスは言った。
「桜が男の裸体を好きだとしても変態とは言えない。だが夜叉とお前はどう考えても変態だろう」稚生は少し震えた。
「あーあー……飲みすぎですよ」カラスは急いで支えた。「だったら若君、まだ着替えてるって言っておくんで、もう飲まないでくださいよ! うがい薬も忘れずに!」
 この家族集会に来ているのは誰も彼も、カラスや夜叉より地位が高い人物ばかりだ。カラスでも夜叉でも長らく席を開ければ、罰を受けることになってしまう。

 扉を閉めた後、カラスは再び扉の隙間から中を覗いた。稚生はまだ静かに窓の前に座り込んだまま、その背中はとある誰かというよりも、全世界に対して「退屈だ」と語っているかのようだ。カラスはそっと溜息をついた。
 たまに夜叉と酒を飲みながら話していると、二人で将来を心配してしまうことがある。組織の中でも名のあるエリートだった二人は、血の滲む様な努力を経て若当主の側近にまで上り詰めた。同じくして、位も富も名も刀も無かった源家の若当主は、その能力と性格だけを以て執行部のトップに立ち、わずか三年で日本支部最強の部署に仕立て上げた。今や組織全体が執行部を中心に動いており、次期日本支部長が稚生になることには疑いの余地もない。一族の中でも政宗氏の後継人としての地位を確立し、将来の日本極道の皇帝の座を嘱望されている。
 慣例に則れば、カラスも夜叉もそのまま新大族長の側近となり、新世代の権力者となるだろう。
 だが、源稚生には人並みの欲望というものがない。執行部の最前線で戦っているのは単なる責任感からだ。稚生の責任感は与えられた仕事をこなすには申し分ないが、欲望のない人間がオロチ八家を統べることなどできない。一族は日本中の極道から毎年三百億円の上納を収める他、その名の下の事業は数千億円を稼いでいる。それを仕切り得るのは、サツバツな決断を即座に下せる男、他者に鬼神の如き心証をもたらし、その名を聞くだけで震え上がるような者でなければならない! だが稚生の夢はフランスで日焼け止めを売ること、それ以上でもそれ以下でもない。夜叉もカラスも初めは冗談だと思っていた。稚生がテーブルにモンタリヴェビーチの写真を並べ、UV透過性と費用対効果の日焼け止め研究をしているのを見るまでは……そして理解したのだ、この若当主は本当に心の底から、天高きビーチの太陽の下の人生を望んでいるのだと……東京は、彼にとっては単なる牢獄でしかないのだ。
 慣例に則るなら、若当主に仕える側近は生涯尽くさなければならないから、もし若当主が本当に日焼け止めを売りに行くなら、夜叉やカラスも同行しなければならない。カラスは想像した。黒い服、黒いズボン、黒いサングラスを身に着け、「邪魔者死すべし」とでも言うような表情をして、若当主の背後に侍る自分。目の前ではチェック柄Tシャツの源稚生がビキニの女性たちに日焼け止めを塗っている……。そう考えるとカラスは自分の将来が幻滅し、崩壊していくような気になってくる。

 源稚生がボトルに残った酒を刀に注ぐと、青く冷たい光がその刀身に浮かび上がる。「蜘蛛山中凶払夜伏」と銘されたその刀、名を「蜘蛛切」と云う。何千年もの間受け継がれてきたその刀は、歴史上の数多の剣豪によって数奇な伝説を残しつつ、想像を絶する無数のモノを斬り倒してきた。稚生はこの刀を使って桜井明の心臓を貫いた。今になっても何度も思い返す、あのひとりの堕武者を。
 死に際の桜井明はもはや人間とは言えず、浮世絵に描かれれば「青鬼」のような獰猛な怪物となるようなものだった。古代であれば、一族の神官は源稚生の桜井明討伐譚をひとつの伝記に――主人公源稚生が何千里もの旅を経て女の血と骨を食らう青鬼を退治する、そんな話として語り継ぐことになっただろう。だが、稚生は桜井を鬼だとは思えなかった。刀で心臓を貫かれた時、彼は笑っていた。その笑顔は凶悪で怖ろしいものだったが、どこか哀しい嘲笑があった。
 最後の力を振り絞って執行者を嘲笑う死にかけの堕武者。その時、稚生は刀を握る手を硬直させてしまった。幸運にも桜井は反撃せず、次の瞬間呼吸を止め、心臓から漆黒の血が蜘蛛切の刀身に吐き出された。稚生がその凶悪な顔を確かめた時、既にそこに嘲笑はなく、生きている人間にしか効果の無いモロトフカクテルの薬効が抜け、生えたばかりの鱗が剥がれ落ち、桜井明の幼稚な顔が露わになっていた。窓から差し込む夕陽に照らされたボロボロの座席に倒れ込んだ桜井明は、眠りこける子供のようにも思えた。稚生は光も差さない隅に立ち、刀の血振りも忘れて息を切らしていた。
 暗闇の中で生まれた蛾は、火の中で己を燃やして死んでしまった。灰と化しながら、贖われたかのような顔をする……なんてバカバカしいのだろう。
 稚生は両手で目を覆い、想像した。暗闇の中で生まれた蛾。永遠の暗黒を飛び回り、どこをどう行くのかもわからず、ただただ己の前へと進むのみ、世界の境界に永遠に触れることもなく、他に同じ蛾がいるのかもわからない……冷たい感覚が一筋、身体の中に染みわたり、桜井の言葉が稚生の耳奥で再び響く。「一生の間に光を見たことが無い蛾は、火を見るとすぐに向かっていく。他人を焼いたってかまわない、自分が焼かれるのも惜しくない、全世界を燃やしても何でもない……只々その光だけが欲しい……。これは蛾の、光に対する、飢えだ……」その後稚生は桜井が書いた小説を読んだが、文法構造も語彙も粗雑で幼稚、小説かどうかすらも怪しいものであり、この程度の文章力の人間にあんな語りができるとは考えられなかった。となればあの悲痛な狂気の言葉は、幽冥の魂魄が桜井に憑りついていたかのようにも思える……。
 間違いなく、桜井明自身の言葉ではない。稚生は再びそう確信した。何者が桜井に吹き込み、桜井はその言葉を死ぬ直前まで自ら言い聞かせていた、そうとしか思えない違和感……その何者かにとっては、桜井明の死も計算の内ということなのか。桜井は開発途上の試験品の実験体であると同時にメッセンジャーであり、処刑場たる客車に乗り込み、墓場たる北海道へ赴くまでのすべてが、何者かが立てた舞台でしかないということか。悲劇の終わりで桜井は死に、シナリオに書かれた通りの断末魔を残す……! 稚生の身の毛がよだっていく。
 その何者かとは誰なのか……稚生は漠然と考え、一つの名前を思い出すことを拒否した。遥か昔、記憶の奥深くに埋葬したあの名前――稚生は無意識に刀の柄を握り、突然立ち上がり、狩りに赴く豹のごとく全身の筋肉をこわばらせた。
 敵もなければ異常もない。ただ、窓の外から激しい風と雨の音が聞こえているだけだ。蛇のような電光が暗闇の中を当てもなく奔り、床に稚生の影を映す。
 稚生はしばらく沈黙したのち、剣を鞘に収めると、黒紋付きの羽織に袖を通し、踵を返して奉安殿を後にした。一族全員が彼を待っている。今日の会議は一族の未来を決めるだろう。日本極道は新たな時代を迎える。くだらないことで己の思考を乱していてはならない。
 武士に過ぎたる思考は毒だ。刀を抜くのに躊躇など要らない。武士の使命は唯一つ、「道」に背くものを斬ること、それだけなのだから。


「ショーリューケンッ!ショーリューケンッ!」リュウの放つ二連続昇竜拳を躱し切れなかった春麗がHPゲージを大きく減らした。
 カラスと夜叉が本堂に戻ると、神鬼絵巻の前に一枚の巨大なホワイトスクリーンが垂れ下がっていた。一族全員が静気神色と息を殺して眺めているのは、スクリーンに映った『ストリートファイターⅣ』のオンライン対戦である。
 スクリーンの前には刀が一振りずつ祀られた八つの小机があり、刀の柄には黄金で八つそれぞれ違った家紋が描かれている。橘家の十六辨菊、源家の竜胆、上杉家の竹と雀、犬山家の赤鬼、風魔家の蜘蛛、竜馬家の馬頭、桜井家の鳳凰に宮本家の夜叉。これは八つの家の当主全員がこの会議に出席することを示しているが、源家の小机だけが空席だった。各当主が静かに慎んでいるのは、ここが一族の神社であり、先祖の霊が彷徨っている場所だからだ。大声を出してしまえば、それは先祖に対する不敬となる。
 ただ一人、上杉家当主だけがコントローラーを激しく操作し、『ストリートファイターⅣ』に闘志を燃やしている……リュウの頭めがけて春麗がジャンプ膝蹴りを放つと、転がって躱したリュウがゲージを消費して気功波を放つ。春麗は再びジャンプし、リュウの頭を踏みつけた後に蹴りを放つ……上杉家当主はストリートファイターの達人だった。彼女の春麗はきめ細かく攻防一体に動く――しかしのリュウのプレイヤーも中々手ごわく、特に昇竜拳のタイミングは正確極まりない。空中技が強みとなる春麗はジャンプを重ねるが、昇竜拳がその空中技のカウンターとなる。「ショーリューケンッ」とリュウが叫ぶ度に、春麗のHPゲージが大きく削られていく。
 オンライン対戦であるからして、リュウを使っているプレイヤーが日本のどこにいるのかは知れない。しかしこの戦いが何百人もの極道エリートに見られていると分かれば、恐怖に震えるだけでは済まないかもしれない。
 上杉家当主といっても存外若い少女である。黒いヴェールで顔を覆い、男と同じ黒紋付の羽織を着ているが、その下の幅広の和服は身体のしなやかさを隠しきれていない。玲瓏窈窕な少女らしき身体だ。
 初めは素直に当主らしく堂々……と言うよりは教室で先生を待つ女学生のように座っていたが、源家当主の不在で会議開始が伸びたと知るや否や、雷のような速さで着物の袖からゲームパッドを取り出し、本堂のプロジェクターシステムを起動し、こなれた手つきでゲームを立ち上げてキャラクター選択までした――この間、わずか十秒。他の当主やその数百人の部下が何もかも理解できないうちに、「fight!」の声が本堂に響き渡り、対戦が始まった。
「奔放忌憚」というよりは「傍若無人」とでもいうべきか。しかし彼女にとって「待ち時間」とは「ゲームの時間」のことであり、先祖のことなど問題でも何でもないのだ。

「絵梨衣! 絵梨衣!」政宗氏は離れた場所に座っているが、大族長として一人だけ立ち上がることもできず、小さく声をかけるのが精いっぱいだった。
 彼の声は拳と脚の効果音の嵐にかき消され、上杉家当主はスクリーンをじっと見つめゲームに夢中になっている。
 アベコベ以外のなにものでもない。極道総家による重要な集会のはずなのだ。三大姓と五小姓の当主が全員集結し、先祖の魂が眠る神社で行われ、厳格厳粛な雰囲気を保ち、全員がこの儀式に相応しい作法を実践している。膝を曲げて踵の上に座り、両手を膝につけ、背中を直立させる「正座」の構えだ。今ここで勝手に立ち上がることなど誰ができるだろうか。それに、当の彼女も子供とはいえ一家の長である。大声で子供を叱るようなザマは出来ない。

「若君が巡回を終えて着替え中です。もう少しお待ちを」カラスと夜叉が頭を下げ、風が起こらないように裾を抱えながら小走りに元の位置に戻る。しかし誰一人としてそれに目をかけることなく、戦国時代の大名が武士を召喚して出征計画を話し合うかのように、真っ直ぐな視線を正面に向けている。武士はただ決意を固め、抜刀の令を待つのみ。
 実際のところ、この家族集会の目的を知る者は誰一人居ない。これほど大規模な集会は何十年もなかった。ここにいる人間の多くは、普段は全国に散らばってそれぞれの組のシマを固めている者達だ。毎年恒例の新年式典ですら、出席者は今の半分程度にすぎない。それゆえ、これだけの規模の集会が開かれると分かった時の極道世界には、オロチ八家が日本極道の組織図を完全に作り替えるつもりだとか、特定のクランを抹殺するつもりだとか、そういった憶測が飛び交った。
 しかし、実際に今彼らが目にしているのは『ストリートファイターⅣ』のオンライン対戦である……これはつまり、一族がゲーム業界に参入するという事なのか? あるいは『ストリートファイターⅣ』開発元のCAPC〇Mが一族を怒らせ、そのケジメでもするつもりなのだろうか?

「絵梨衣さんが勝つに二十万」カラスが小さく囁いた。
「どうかな、体力半分しかないだろ。向こうの位置取りも良い」夜叉も同様に小声を立てた。二人は唇だけをわずかに動かして喋っている。
「絵梨衣さんのコンボゲージ、満タンだろ。でもリュウは空だ。端に押し込んで立ち強KからのEX百裂脚、鳳扇華のラストアタックで一発KOできる」
「賭ける。絵梨衣さんは端まで押し込めないと見た。弱Kと中Pから千裂脚に繋いだら、リュウは多少削れるがリベンジゲージ溜まってもう一度『滅・波動拳』を使われる。絵梨衣さんは避けられない」
「おいお前ら、若君のお気に入りで良かったな。俺の下だったら指十本ケジメしても許さねえぞ」最前列に座っていた関東支部長の阿智阿須矢が唇をわずかに動かした。
 夜叉とカラスは同時に口を閉じ、カラスは夜叉に向かって中指を立てた。二人の間では「OK」という意味のジェスチャーだ。すなわち、「賭け成立」という意味であり、夜叉も応じて中指を立てた。
 絵梨衣はまさに夜叉の言った戦法を使い、弱キックから中パンチに千裂脚を繰り返した。このコンボの長所は判定が長い割にスキが小さく、上手く使えばカウンターを受けにくいことだ。リュウの戦略も夜叉の予想した通り、端まで下がるよりも多少削られることを選んだ。春麗のHPは残り少ないが、端まで追い詰められれば一気にひっくり返せれるかもしれない。だが春麗が殴るたびにリュウのリベンジゲージが増えていき、このままではあの恐ろしい「滅・波動拳」が使える分まで溜まってしまう。夜叉は得意げにほくそ笑んだ。側近三人組の内でも、カラスが長けているのはあくまで机上の兵を動かす戦略力だ。ストリートファイターの真髄への理解は、リアルの凶悪ストリートファイトを経験してきた夜叉に分がある。
 春麗がジャンプし、再びリュウの頭に中キックを放つ。リュウの昇竜拳を誘う動きだ。その証拠に春麗のジャンプはわずかに遠い場所から繰り出され、繰り出された昇竜拳は春麗を捉えられなかった。春麗はリュウより先にフィールドの端近くへ着地する……カラスの語った戦法を使うなら、これが最後のチャンスだ。しかしリュウは防御を崩さない。春麗がその場でジャンプすると、リュウは今まで避けていたもう一方のフィールド端へ転がった。リベンジゲージが溜まり、「滅・波動拳」の準備が整ったのだ。リュウの最強の一撃が放たれれば、春麗はなすすべなくHPゲージを削り切られてしまう。
 夜叉が紙幣を数える仕草に指をくねらせてカラスを煽ると、カラスは眉を歪めて目を垂らし、今飛び立たんとする二十万円に思いを馳せた。
 だがその時、春麗がフィールド端で跳ね返った! 画面端を足場にしてジャンプの軌道を変える、春麗と忍者だけのユニークスキルだ。迫真のクローズアップと共にリュウが踏み込んで掌を閉じ、「滅・波動拳!」と叫ぶと、海潮のごとき気功波が放たれる。だがその先に敵は居ない。春麗の三角跳びが僅かに着地を遅らせたのだ。わずか半秒の差ではあったが、気功の海潮は春麗の身体スレスレを通り過ぎていく。
 春麗が着地し、リュウのリベンジゲージは空になった……春麗が強キックで迫り、キャンセル、EX気功掌、前進、強パンチで迫り、またキャンセル、EX百裂脚……鳳扇華! 完璧なコンボ! EX気功掌、EX百裂拳に鳳扇華が見事に決まった。春麗の足が致命的な刀となり、リュウを空中へ蹴り上げる。
「一瞬でもうミリかよ!」カラスが同情して心の中で叫んだ。
 素晴らしいタイミングで放たれたコンボは一発で逆転を掴んだかと思えたが、リュウのHPゲージにはだいぶ余裕があった。三つの大技は全てヒットしたものの、強キックや強パンチはコンボの途中でキャンセルされてしまい、リュウのHPゲージがわずかに残っている。
 春麗が着地し、リュウが着地すると、春麗が起き上がり、リュウも起き上がった。春麗もリュウもほんのわずかしかHPが残っておらず、どちらかが一発殴られればそこで対戦が終わる。だがこの状況はリュウの圧倒的有利である。リュウの小昇竜拳に無敵時間があるからだ。夜叉は安堵のため息をついた。仕事が無い時、夜叉とカラスは『ストリートファイターⅣ』で時間を潰している。長らくやってきて腕前にそれなりの自信もある。リュウのプレイヤーは既に小昇竜拳の入力を終えており、リュウは立ち上がった瞬間に小昇竜拳を発動する。空中のリュウはいかなる攻撃も受け付けない一方、春麗はいかに素早く防御しても最後のHPを削り取られてしまう。
 だが小昇竜拳は発動しなかった。リュウの頭上に星とヒヨコが舞っている。気絶しているのだ! 夜叉とカラスは理解した。あのコンボの真の狙いはダメージではなく、気絶値だったのだ!
 春麗はリュウの横まで歩いていき、弱パンチを一度打った。「K.O.」

 その時、源稚生が上杉家当主のゲームパッドを抑えた。「一ラウンド勝ったならもういいでしょう。会議が終わってからやりなさい」
 脇口から入ってきた稚生は、静かに上杉家当主の後ろに座っていた。上杉家当主が負けそうになったその瞬間、稚生がパッドを握り、三角跳びを利用して着地を遅らせた後、狂風驟雨のごとき反撃を繰り出したのだ。わずか五秒、たった五秒で、相手の腕の中にいた勝利の女神を己の胸へと抱き込んだ。彼の上杉家当主に対する声音は恐縮もなければ子供を叱るようでもなく、兄が妹にかけるような、少しばかりのキツさが入っている。
「時間があれば、一緒に遊びましょう」稚生が念を押すように言った。
 上杉家当主が頷き、ゲームパッドをしまう。稚生の前は例外とでも言わんばかりに行儀が良くなった。本堂のアベコベな茶番がようやく終わり、源稚生が立ち上がって頭を下げる。その着物と礼節には狂いの一隙もない。「遅れて申し訳ありません。万全を期すため、神社の周囲を一巡りしていました」
 数秒の沈黙の後、橘政宗が拍手し始め、続いて全員が拍手した。
「流石です若君!」カラスが称賛した。
「流石です若君!」夜叉もまた小声で言った。「政宗氏が拍手まで送るなんて、流石、天照命!」
「いや、酒飲んでも平然と嘘がつけるのが流石って言いたかったんだが」

「来てくれて良かった、座りたまえ。こんな雨風の中で巡回せねばならぬなど、大変だったろう」政宗氏は言った。
 源稚生が源家の小机の前に腰を下ろすと、本堂はぱたりと静かになり、雨音だけがはっきりと聞こえ、耳の奥を震わせる。全員が政宗氏に視線を注ぐ中、政宗氏は自分の和服を軽く直し、立ち上がって一歩下がり、深くお辞儀をした。
 この所作がその場の全員の肝を抜いた。一族の有力者がすぐに応じて頭を下げ、下の者達もそれに倣った。オロチ八家は厳しい年功序列的な制度をとっており、大族長の地位は絶対的に尊重される。若い世代となれば普段は政宗氏の顔を見る事すらままない。それゆえ「召喚」されるというのは一つの名誉であり、普段は傲慢で威圧的な組長でも、政宗氏の公室に入れば羊のように恭しくなってしまう。政宗氏が何も問わずに鼓舞の言葉をかけてくれる、それだけでもこの上なく光栄なことなのだ。そして今、その政宗氏が頭を下げている。普通ならありえない。
 今日の問題は、極道の組織図をすっかり作り変える以上のことかもしれない――そんな感覚を覚える者もいた。戦国時代の武道家曰く、言論術は弓を引いて矢を射るようなもの、だという。弓を引けば引くほど放たれる矢がより強力になるように、本題に入るまでの所作が丁寧で謙譲的なほどその本題が恐ろしいものになる、ということだ。

「私は大族長を十年務めた。その十年でおぬしらを知り、おぬしたちに認められた。この歴史を共に歩めたことを幸運に思う。ここ数年、わしには何の後悔もない。我が一族の繁栄も、よく仕えてくれておる皆のおかげだ。不甲斐ない儂を助けてくれて本当に感謝しておる」政宗氏が言った。
「政宗氏、おせわになっております!」風間家当主が言った。
「政宗氏、おせわになっております!」その場の全員が斉唱した。
「ここにおる皆が一つの家族ぞ。皆の暮らしを良くしようと、儂も最善を尽くしてきたつもりだ。だがおぬしらの力が無ければ、儂はとっくに死んでおる」政宗氏は手を振り、全員に座るよう示した。
「まっこと寂しい雨よの」政宗氏も自分の席に腰を落ち着けた。「儂が初めて日本に来た時だ。飛行機が着陸し、キャビンの扉が開くと、こんな感じの雨が降っておった。湿った風が骨まで凍るほど寒くてな」
 そこで彼は一瞬沈黙して、続けた。「儂が日本の生まれでないことを知っておる者も、ここには居ろう。そんな儂が大族長に選ばれたのは、思いがけない名誉であった。しかし儂はここ十年まで、なすべきことをなさなかった。おぬし等も知っておろう、ここ十年で儂らは多くの地を失い、多くの同胞を失ってしまった。毎年の葬式に出る度、黒い和服と墨塗りのサングラスで悲しみを抑えてきた。あの大戦後、日本の復興と繁栄と共に我が一族も繁栄したが、敵もまた強大になりおって、儂はその息の根を止められんなんだ」
「政宗氏の責任ではありません。猛鬼衆との戦いに関しては、今でも我々が主導権を握っています。これも氏がいたからこそです」風間家当主が言った。
 政宗氏は手を伸ばし、フォローを抑える仕草を示した。「今日はまず、一つ話をしようと思う。この話の主人公、その名は桜井明」
 源稚生の顔が僅かに上がった。
「桜井家に生まれた、疾病も障害もない健康な子だった。だが五歳の血統テストの結果が『不安定』、言い換えれば『鬼』と出た。その瞬間から彼は儂らの同胞ではなく、監視対象となったのだ。神戸山中の寄宿学校に送られ、二十三歳までその中で過ごした。そんな孤独な子供を訪ねるのは年に一人、父でも母でもない、一族の執行者のみ。女や誕生日ケーキ、遊園地に旅行、こうしたおぬしらが知る小さな幸福すらも、彼には与えられなかったのだ。鬼であるというだけでな」政宗氏の声が古鐘のように低く響く。「だがある日、誰かが彼奴に薬を与えた。血統を浄化し、力と自由を齎す薬だ。こんな誘惑、抑圧されてきた彼奴がどう抗えようか?」
「薬剤を注入した彼奴は全身の龍血を目覚めさせ、力と自由を手に入れた。だがそれも十五日の夢だった。十五日後、彼奴は執行局に討たれた。執行局長、源稚生自らが抹殺を執行した」政宗氏は溜息をついた。「その十五日間で多くの女性が犠牲になった。欲望と飢餓に狂った彼奴に辱められ、殺されたのだ」
「さあ、こうして死んだ若者をおぬしらはどう思う?」政宗氏は四方を見渡した。「忌むか? 憎むか? 嫌うか? それとも憐れむか、悲しむか、恥じるか?」
 応答は無かった。この事件はオロチ八家にとって、あまりにも複雑な問題なのだ。
「儂はただ悲しい」政宗氏の声が小さくなる。「彼奴は儂らの家族だった。しかし道を間違え、処刑されたのだ。だがそれでも儂らの家族なのだ。大族長として、どうして儂が彼奴を憎むことなどできよう? 儂はただ……悲しく思う」
「ですが政宗氏……これはいわば、一族の始原から続く呪いなのですよ」桜井家当主が言った。
「そうだ。儂ら全員は呪われておる。儂らの血統の呪いにな。龍血とは外様には便利な物のように見られるが、同時に悪魔でもあるのだ。他人を生贄にし、儂らを造り上げておる。おぬしらが今ここにおるのは、安定した血統に恵まれて生まれたからだ。桜井明のように生まれていたなら、監視リストに名を連ねて抹殺の日をただ待つだけだったろう。だが、古くからのしきたりを変えることは出来ん。儂ら一族を龍の血筋で汚してはならぬ。『龍の門』を守り、龍族の復活を阻止する。オロチ八家は古来、そのために存在し続けてきているのだからな」
「ハイ!」若頭全員が腰を直角に曲げて敬意を表した。

「ではもう一つ問おう。桜井明に危険な薬物を提供したのは誰だ? 岩龍研究所の分析によれば、薬物には龍血を活性化し、混血種を純粋な龍族へ進化させる効能があったとの事だ。人間であることを疎み、龍への進化を渇望する者、一体どこぞの者か?」
「――猛鬼衆」長い沈黙の後、竜馬家当主が呟いた。
「極道世界で儂らと張り合っているのはどこぞ? 儂らに従うクランを背かせ、幾年懸けて儂らの縄張りを貪ってきたのは、どこぞ?」政宗氏が畳みかけるように訊く。
「――猛鬼衆!」風間家当主が言った。
「そう、猛鬼衆だ。儂らと張り合えるのは、同じく龍血を受け継いだ猛鬼衆のみ。猛鬼衆がおる限り、儂らに安寧の時は一瞬たりとも訪れぬ! 儂らに抗うあらゆる組の背後に猛鬼衆がおる。不安定な血統の子供たちを誘惑し、堕落するよう仕向けているのも猛鬼衆だ。儂らが不安定な血統の子供たちを監視せねばならぬのも、猛鬼衆の存在ゆえ。執行者の刀が血に染まるのも、堕武者を野放しにしてはおれんからだ! 猛鬼衆の好きにさせてはおれぬから!」政宗氏の声が雷のように大きくなっていく。「日本で儂らの敵はただ一つ、猛鬼衆のみ! だが今まで、儂らが猛鬼衆を真に滅さんとすることはなかった。なぜだ?」
 本堂が沈黙に包まれた。

「猛鬼衆というのが……元々は、私達の同胞だったから……」長きにわたった沈黙を破り、桜井家当主が呟き、溜息をついた。
「そう、猛鬼衆は儂らの同胞だった。彼奴等には儂らと同じ血が流れておる。猛鬼衆の一人一人が我が一族の内より生まれる。おぬしらの息子や娘も鬼になるかもしれぬ。純度の高い龍血は更なる能力を齎すが、鬼になる可能性も高くなる。猛鬼衆とはいわばオロチ八家の影なるもの。己の影を殺すことなどできぬ。オロチ八家が代々繁栄すれば、それだけ子孫の内に鬼が増え、鬼が集まりて猛鬼衆となるのだ。千年来、猛鬼衆はオロチ八家の影となっておった。これは儂らの宿命なのだ!」政宗氏は突然そこで言葉を止めた。「宿命は断ち斬らねばならぬ。いずれ誰かがすべきことだ」
 口調が激しく昂っていたそれまでに比べ、最後の一言だけが唐突に淡々と述べられた。だが大族長をよく知っている者なら、それが単に何気なく出てきた言葉ではないというのが分かる。すなわち、これは政宗氏が何度も何度も繰り返し己に問うて生み出した結論なのだ。刀を抜いた武士の如き、抑圧された殺気が込められている。
「つまり政宗氏は……猛鬼衆と戦争をするおつもりで?」犬山家当主が言った。「勝算はともかく、我々の中には猛鬼衆をある種の兄弟と考える者もいます。猛鬼衆全員が堕武者というわけではありません、単に不安定な混血種なる者も相当数居ります……本当によろしいので? 我々にとって、血を分けた同胞ではありませんか!」
「猛鬼衆は確かに儂らと血縁関係におる。だがそれが即ち同胞とはならぬ。彼奴等は龍の道を選んだ。彼奴等にとって龍は完全生物、世界の皇帝。人間はその前に這い蹲り、使役されろと言う。それこそ自然競争の法則、強者こそが王なのだ。だが儂らにって龍とは悪魔。宿敵の死は儂らの血にて贖わねばならぬ! 龍の下僕と人類の守護者、一体何を以て同胞と為す?」政宗氏は天に手を伸ばした。「猛鬼衆こそ一切の悪! 一切の罪! 猛鬼衆が徹底的に抹殺されてこそ、平和と安寧が訪れるであろう!」
 源稚生を含め、各家当主の全員が顔色を変えた。政宗氏の意向は知っていたが、まさかここまで完全な制圧を望んでいたとは思いもよらなかった。オロチ八家に猛鬼衆を完全に抹殺できると考える者などいない。根本的に不可能なのだ。猛鬼衆はオロチ八家の影、オロチ八家ある所に猛鬼衆あり。猛鬼衆を抹殺するという事は、オロチ八家自身をも抹殺することに他ならない。

「徹底的に抹殺?」宮本家当主が不躾にも訊いた。「我々にそんなことができるのでしょうか?」
「確かに容易なことではない。大きな覚悟が必要になる」政宗氏は風間家当主に向かって言った。「風間氏、あなたは『黄泉の道』という言葉を聞いたことがあるはずだ」
 風間家当主は少し考え、頷いた。「あの者が一族の資料を燃やした所為で、以前の資料の多くが玉石問わ失せ果てておる。故に、若い者は耳にしたこともなかろうが……黄泉の道とは、猛鬼衆にとっての救済の道。世界には混血種が純血の龍に進化する方途がある、そう信じているのが猛鬼衆だ」
「純血の龍?」他家の当主が一斉に風間家当主を見た――自分の服をイジっている上杉家当主を除いて。彼女は誰が何を言おうと終始無関心を貫き、「私はここにいるだけ、誰が何を言おうと関係ない」なんて態度を隠しもしない。
「龍血に呑込まれた者は悪鬼になるのみ。混血種が純血龍になるなど、聞いたこともありませんが」桜井家当主が言った。
「所詮、おとぎ話でしかないがな」風間家当主は言った。「神話では、諸神の父イザナギが妻を救うために、黄泉幽冥へと続く不思議な道を通って行ったという。それが黄泉の道と言われている。光なく、山奥深く蜿蜒と続き、羊腸の如く曲りくねる、生きながらにして幽冥に踏み入る道だ。この道を純血龍への進化の方途に例え、猛鬼衆どもは進化の方法を「黄泉の道」と呼んでおる。だがそれは禁忌の道、例え見つけられたとしても、千人入れば九百九十九人は永遠の迷宮に彷徨う事になり、最も強い意志を持つ者だけが千万の道から真の道を見出す事ができる。これまでは如何に希求した者も見出すこと叶わなかった。古代の文献にその名があるのみ」
「だが猛鬼衆は何千年もの間黄泉の道を探し続けてきたのだ。猛鬼衆の信仰として」政宗氏は言った。「そして今、奴らは遂に手掛かりを見つけたのだ」
 風間家当主の目が見開かれた。「黄泉の道が本当に在ると? まさか。歴史上、混血種が龍に進化する前例などない!」
「奴らが得た手掛かりが正しい者かどうかは分からぬ。だが猛鬼衆は神葬所を探し始めておる!」政宗氏は人々を見渡した。「ここ五年、日本にある三つの機関が日本海溝底部の探査機を研究し始めておる! この三つの機関が猛鬼衆から資金援助を受けておるのだ! 黄泉の道の始端は先祖が神々を葬った場所、黄泉の道の終端は『龍の門』、それをくぐれば純血の龍に進化できると信じている! そして、その門を開く鍵こそが、『井戸』の奥深くに眠る『骸』なのだ!」
「神葬所を掘り起こそうと? 有り得ない……出来るはずがない! 天照と月詠に封印された土地なのだぞ!」風間家当主が言った。
「その封印というのが一体どれほどのものか……。神葬所がこの世にある限り、いずれ封印は朽ちて解かれたはず。それが今だということだ」政宗氏の声が小さくなった。「だから我々に選択肢などない。我々の知らぬところで、戦争は一触即発の所まで来ていたのだ」
「では政宗氏、猛鬼衆を永遠に抹殺するというのは?」桜井家当主が言った。
「神葬所を爆破し、神の遺骨もろとも黄泉の道を断ち切り、猛鬼衆の希望を打ち砕くのだ! そして猛鬼衆の勢力を、奴らに加担する者ども、組ども、企業ども、皆すべてを一つ残さず駆逐する! この戦争で全てを終わらせるのだ!」
「戦争が始まれば……夥しい血が流れることになります」風間家当主が言った。
「世には必ず正義の血が流れておるのだ」政宗氏は言った。「だが一族の大族長として、儂の一存でおぬしらを戦場に赴かせる訳にもいかぬ。先の道は険しい、儂はもう身も滅ぼす覚悟をしておるが、おぬしらのどれだけが儂に賛同し、どれだけが儂についてきてくれるかもわからぬ。一族の未来は一族の一人一人が決めるべきだ、だからこそ儂はこうして皆を呼んだ。おぬしらの考えを聞きたい」

 彼が拍手すると側門が開き、白衣を着た僧侶たちが真っ白な屏風を二つ運んできて、政宗氏の後ろに相立たせた。屏風の下には筆架が置かれ、墨汁のついた毛筆が並べられた。政宗氏が立ち上がり、向かって左側の屏風に淋漓とした「戦」の字、右側の屏風に婉約とした「忍」の字を書いた。まるで刀剣が交錯する殺気に満ちた「戦」の字に対し、「忍」の字には一点の尖先もなく、情緒的な書道家が描いたかのようだ。
「猛鬼衆滅ぶべし、とするのであれば、左の屏風に『正』の字を。隠忍続くべき、とするのであれば、右の屏風に『正』の字を」政宗氏は言った。「儂は大族長だ。戦を望む一心ではあるが、皆を追い立てるわけにもいかぬ故、ここに儂の筆は無い。橘家当主・橘政宗の名において、今宵は如何なる言を以ても罰されぬことを誓おう。支持しまいと反対しまいと、儂は心から皆に感謝する」
 彼は腕から白い布を取り出して目隠しをし、二つの屏風の中間に座った。「皆それぞれの判断をするがよい。儂の殺意を諫めるか、或いは戦気を助くか!」
「大族長、こんなやり方は一族でも初めてです。若い者どもにどう判断させろというのでしょう? 大族長が真に猛鬼衆との戦を決意しておるならば……我々は命を以て奉り申す」風間家当主がため息をつく。
「小太郎、お前も儂も既に老いぼれだ。我らの一族はいずれ若者たちのものになる。若者が未来を決められぬ理由がどこにある? この戦いが始まれば、最初に血を流すべきは儂やおぬしだ。儂は年を取りすぎた、もう十分に生きたのだ」政宗氏は微笑んだ。「儂の命で一族の呪いを断ち切れれば、憂いも悔いも無い」
 
 本堂全体が寂静とし、風音だけが幽霊のようにささやく。窓の外の桜が粉のように散り落ち、命の無常を人に語る。各家の当主も躊躇しているのか、立ち上がる者は誰もいない。どちらの屏風に筆をつけようとも、その筆先から滴るのは若者達の血なのだ。

 完全な沈黙が五分続いた所で、犬山家当主が突然身を起こし、右側の屏風に筆を一画描いた。筆を筆架の上に放り投げて振り返り、傘を差しだそうと駆け寄った従者を押しのけ、風雨の中へと去っていった。
 幾ばくかの者達の眼光が幾ばくか和らぐ。平和が保てるのであれば平和なままで良い、猛鬼衆も結局は一族の同胞なのだ。家族を裏切ったといえども、オロチ八家の血が流れているのだから。こうした犬山家当主と同じ態度をする人たちも、決して少なくない。
 更に多くの人々が立ち上がって屏風に書き入れ、ある者は「戦」の字の下に、ある者は「忍」の字の下に、さらに多くの者達が「忍」の字を選んでいく。書き終えた者達は目隠ししたままの政宗氏の前で深々と頭を下げてから、本堂を出て行った。
 犬山家当主を除いた他家の当主たちは何の意見も表さない。現時点で発言すれば家の若者たちに影響を及ぼすと分かっているからだ。西洋の民主主義は匿名で投票できるが、日本では、己の決断は他人に諭しうるものでなければならない。

 源稚生は屏風の間に立っている橘政宗を見て、ふと西郷隆盛という男を思い出した。下級武士の食い扶持と武士道精神の為に死んだ、頑固で孤独な男。彼が故郷の武士たちを率いて戦旗を振るった時、日本はもはや武士の国家ではなかった。時代に興った新たな階級――商人や政治家が国家の未来を主導し、人々が当然の如くその勇気を賛じる。武士のような時代遅れの者達は、ただ落ち桜のように散る他ない。
「稚生、すまない」橘政宗は笑顔で言った。
 稚生は水をかけられたような思いをした。「なぜあなたが謝るのです?」
「儂はかつて、全霊を賭けて暴力を無くすと約束した。だが今、より良い未来の為に暴力を使おうとしている。おかしいと思うか? 将来の血を流さぬため、今日の多くの血を流そうとしている。だがな、儂らのような極道一族にとって、暴力を手放すというのはかくも難しき事なのだ。それはいわば、一生不敗の剣聖のごときもの。多くの徒弟を従えた剣聖の道場、その門には敵も敢えて近寄らぬ。だが剣を封印して殺生を止むるとすれば、徒弟達は離れてゆき道場は寂れ、幾年も現るることの無かった敵だけが二度三度と来たるのみとなってしまう。故に武士が刀に於いて最初に学ぶ心は、刀の柄を手放した瞬間、それは死の瞬間だという事なのだ」橘政宗は囁いた。
「私も父上の努力は知っています」源稚生はプライベートな呼び名を使った。「簡単に諦めるような人ではないというのも」
「人というものは暴力的なるもの。人の有る処に又暴力も有るのだ。暴力を制さんとするのなら、より大きな暴力を持たねばならぬ」橘政宗はゆっくりと言った。「暴力を終わらせたくば……先ず、最大の暴力を成さねばならぬ」
 源稚生は悚然とし、座り込むことしかできなかった。

 稚生が酒を飲んでいたのは、この会議に心底参加したくなかったからだ。橘政宗はこの家族会議が一族の新時代を開くと語っていたが、それは稚生にとっては耐えがたい重圧でしかなかった。執行局は今や日本支部で最も畏敬される機関であり、殺人機関とすら呼ばれている。下の者の前では執行局長の源稚生として、決断力ある一種の鉄人として振る舞わなければならない。だが実際の稚生にそんな決断力はない。
 新時代の到来には、必ず罪なき者の流血が付きまとう。数十年前、倒幕派の者達は江戸の月夜に弥漫した血の匂いを嗅ぎ、「新時代に必要な血だ、これぞ新時代の風なのだ」などと言っていたという。だが血だまりに落ちた者に、己の血と骨で鋳られる新時代を見る事は叶わない。かつて橘政宗は大久保利通の伝記を贈り、稚生を権力を握り得る男に仕立てようともしたが、稚生は本を一読するだけで返した。そんな男にはなれない、という意味だった。彼の刀を握る手は鉄のように固いが、その握る力は決して強くない。たとえあの激動の江戸時代に身を置いていたとしても、武士道にその身を捧げた西郷隆盛[1]にも、この上なく忍耐強かった木戸孝允[2]にもなれず、大久保利通[3]のように血の雨風の中で柄を握ることもなく、日焼け止めを売りにフランスへ逃げるのだろう。

原注[1][2][3]西郷隆盛、桂小五郎とも呼ばれる木戸孝允と大久保利通は「維新の三傑」と呼ばれ、江戸における倒幕運動を率いたことで『銀魂』や『るろうに剣心』のような漫画作品によく出演する。明治維新が幕府の統治を終わらせ、新政権の重役に就いた三人だったが、後の廃藩置県運動においては別々の立場を取ることになる。幕府統治の転覆には諸侯武士も貢献していたが、欧米式政治を学んだ大久保利通を中心とした政治家たちは、諸侯制の藩政制度を排除しようとし、下級武士の権益を損なうことになった。西郷隆盛は武士の道を貫こうと西南戦争を始めたが敗北し、武士の時代は薄桜の如く散ったと嘆きながら、「介錯」されて死んだ。最終的には日本の鉄血宰相・大久保利通がその鉄腕で反対者を鎮圧しつつ、日本政治の現代化を推し進めた。

 だが今は、何もせずこの神社を去ることなどできない。稚生は橘政宗のしわがれた顔と真っ直ぐな腰を見ながら、何年か前に刀の打ち方を教わった時のことを思い出していた。幼い稚生が「おじさん、どうすれば良い刀が打てるの」と聞けば、橘政宗はにっこりと笑ってこう答えたのだ。「刀を打つ度に鍛えられるのは、実は己そのものなのだ。わが身を宝刀の如く研ぎ澄ませておけば、その一振りは世を斬り、妖魔をも退けられるのだ!」
 つまり、橘政宗は鞘から抜かれることを期待しているのだろうか? 二十年ほど鍛え打たれ続けた刀、源稚生を――だが鞘から抜かれた時、彼は孤独ではいられない。いかなる名刀も、交わる刀が無ければ轟き得ない。

 源稚生は霍かに立ち上がり、橘政宗の傍を通り過ぎ、墨汁滴る筆を手に取って、左の屏風に荒々しい一筆を書いた! 筆を投げ捨てた彼は振り返ることなく、漠然と息を呑む衆生を背に去っていった。上杉家当主も慌てて立ち上がり、左の屏風に一筆乱雑に書くと、木下駄を踏んだり蹴ったりしながら源稚生の後を追った。立ち上がった彼女は身体の細い成人女性といったところだが、源稚生の袖を掴んで振っている姿は、まるであどけない少女が兄と遊びたがっているかのようだ。
 当主達が躊躇している中、三大姓の源家と上杉家の当主が橘家の支持を表明した。戦と忍のバランスが逆転するのは間違いなかった。

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