『龍族Ⅲ 黒月の刻』「前編 氷海の玉座」第七章:新約

「愛が何の役に立つんだ?」零号は遂に痺れを切らし、怒鳴った。「ホントの事を言ってやる。お前が愛されるなんて永遠にないんだよ! お前は混血種だ、その意味が分かるか? 普通の人間じゃないってことだ。力を得たところで他人を遠ざけるだけで、孤独を抱えて生きることしかできない。天才や英雄、狂人のようにな。他人の愛なんて必要ねえよ、自分の力で生きられるんだからな!」

 1992年1月、モスクワ。
 わずか一ヶ月前、ソビエト連邦は崩壊した。かつては世界の東方を統べる巨龍だったが、虚弱な骸と化しているのに人々が気付いたのは、それが倒れてからだった。誇り高きモスクワ市民は突然、誇り高き首都を失ったことを理解した。食糧配給制度は失われ、ルーブルは大幅に下落し、ヴォルガ車を買えるだけの額を用意しても、今やライ麦パンの一切れを手に入れられるほどにしかならない。たった一晩で、彼らは悲惨な極貧状態へと追い込まれた。街路には雪が深々と積もり、歩く人は見えない。車は脇道に集められ、赤錆に覆われている。ソビエトの指導者たちの肖像はまだ壁に残っていたが、ズタズタに引き裂かれていた。
 寂寥なる早朝、細い影が一人、通りを横切った。トレンチコートの長い裾が雪を掃いている。

 退役老兵が一人、凍ったモスクワ川の河面に座り、釣りをしながら安いウォッカを呷った。
「科学アカデミーの図書館に行きたいんだが……」誰かが背後から尋ねた。退役老兵が振り向くと、氷の上に大柄な男の子が立っていた。アジア系だと一目でわかり、おそらく十三か十四歳だろう。黒いチュニックトレンチコートと上品なカシミヤスカーフを見に纏い、ぴかぴかの黒い靴を履いている。こんな高価な服は今時、闇市場でドルを使って買わなければ手に入らない。退役老兵は羨ましげな視線を少年に向けた。
 退役老兵が掌を出す間もなく、少年は良質な熟成酒のボトルをおもむろに手渡した。道を尋ねるだけにしては大げさなプレゼントだが、今のモスクワでは最も頼れる「貨幣」だ。
「俺を訪ねたのは正しかったな。軍を辞めた後、科学アカデミーの警備員だった俺にな。……そこの道を南に行ってペトロフ劇場を過ぎると交差点がある、そこを右折すればすぐだ」退役老兵は待ちきれず、手渡された熟成酒のボトルのコルクを引き抜いた。
「そこにエフゲニー・チチェリン教授はいるか?」少年はまた尋ねた。
「チチェリン? はん! あの愚図が教授なものか、ただの司書だよ! ド素人の研究員さ、教授資格なんてとっくに差し押さえられてる」退役老兵は軽蔑するように言った。「アイツを探してるのか?」
「友人なもので、ちょっと挨拶をね」少年は踵を返し、立ち去った。
「偉大なるソビエト連邦の為に!」退役老兵はボトルを高く掲げ、赤の広場に向かって叫んだ。
「沈まぬ陽などない」少年は風に身を震わせながら襟を上げ、天から降り注ぐ雪の花を眺めた。「いずれ全ての王が死ぬように」

「女! おい、女!」科学アカデミーの図書館で、酔っ払った男が大声で吠えている。「俺の酒をどこにやった!」
 かつてはソビエト最高の頭脳が学を究めていたこの場所は、今や忘れ去られた未亡人のようだ。ネイビーブルーのウールカーペットには汚れた染みがいくつも広がり、本棚は倒れ尽くして貴重な学術書が地面一帯に散らばっている。貴重な研究資料は暖炉で燃えているが、室内の温度は氷点下から上がらない。
「エフゲニー、あんた本当にクズだわ! 口を開けば酒ばっかり! 酔っ払って死んじまえ!」トイレから女性の怒号が聞こえる。「あんたみたいな負け犬と結婚したのが間違いだったわ!」
 トイレのドアが蹴り開けられると、初老の女性が大股で現れ、殺気だった狼のような視線を酔っ払いに向けた。この夫妻のなりはずいぶんと対照的で、男は頭の半分まで禿げており、肥えた腹を抱え、アルコール依存症から鼻を電球のように赤くしている。一方、女は細身の身体にプラチナブロンドの髪を長く伸ばし、どこか挑発的な眉毛が揃えられ、スティレットヒールのダンスシューズとローカットのボールガウンを着て堂々と立っている。
「鏡を見てみな、犬の顔が映るから! 他の家の旦那は外に出て金を稼ぐし、闇市場で食べ物を買ったりしてくれる……少なくとも炭に火を付けるくらいはできるっていうのに、あんたは何なの? 酔っ払ってここで喚くだけじゃない! この状況がわかる? あんたはもう教授じゃないの、ただの司書! ミジンコみたいな毎月のドル給料じゃ、私のストッキングすら買えないじゃないの!」女性は夫の痛いところを容赦なく突きながら椅子に足を掛け、太腿を撫で、高価な輸入ストッキングを見せつけた。
 男は顔を赤くして怒った。「そんなの誰に貰った? また舞踏会にでも行くのか? 舞踏会になんか行くな! そんなところにいる男はお前を利用しようとするだけだぞ!」
「うるさい! 私の友達はみんな紳士なの! 酒は飲まないし、女性に礼儀正しいし、舞踏会ではちょっとしたプレゼントだってくれるんだから!」女性は冷たく笑った。「酔っ払いエフゲニー、飲んだくれのクズ! もう十分夢は見たでしょ、離婚するからね! あんたが吸ってる煙草は全部あたしの彼氏がくれたの! このクズが!」
 男は怒り狂い、拳を振り上げた。
「エッ、殴るの? エッ? 離婚届を法廷で突き出してもいいの?」女性はあざとく手で顔を覆った。「やってみれば?」
 男は気が抜けたように茫然とし、地面にうずくまった。しばらくして落ち着いてから、彼は困憊したように椅子に座った。「あの時、君は田舎の可愛い女の子だった……私は君をモスクワに連れてきて……上流社会を見せてあげた……」
「どの口でそんなこと言ってるの?」女性は叫んだ。「私の娘を国に売って教授の称号を貰ったくせに!」
「その事は忘れろ!」男は禿頭をもどかしそうに掻きながら言った。「奴らは俺達を騙したんだ! 奴らは俺の教授資格なんて何とも思ってない、ただあの子が欲しかっただけなんだ、レナータを……レナータなら、私達を少しは助けてくれるかもしれない……」
 男はハッと頭を上げた。酔っ払った目には欲望と希望の光が流れていた。男は妻の背中を抱き、成熟した魅惑的な身体を撫でた。「なぁ、もう一人赤ちゃんを産まないか? 君もそろそろ年だし、レナータの代わりになる子が必要だろう?」
 その時、軽くわざとらしい咳が響いた。男は我に返り、ここが寝室ではなく図書館であると悟らされた。
 開いた図書館のドアの前に、一人の少年が立っていた。KGBスタイルの茶色のブリーフケースを手に下げ、長く黒いトレンチコートは雪粒に覆われている。拳を口に当て咳払いをし、目を伏せていたが、それはうっかり夫婦のプライベートな会話を壊してしまった恥ずかしさからだろう。
「エフゲニー・チチェリン同志でしょうか?」彼はテーブルに近づき、ブリーフケースを脇に置いて座り、経験豊富なKGBの将校のように質問した。
「それは私だが、……何か?」男は疑惑の目を向けた。
「若すぎると思いますか?」少年は自分の身分証明書をちらつかせた。「私はKGBから『δ計画』の処理を任された責任者です」
「KGB?」男の表情は不安のそれに変わった。
 男の飲み仲間には何人かKGBの下級将校がいて、証明書の見方も理解していた。少年が示した証明書には、彼が二十歳以上で、KGBの中核管理機関である総務局から来たことが記されている。KGBは非常に複雑な組織であり、部外者が全体像を把握することは難しく、内部にどんな人間がいてもおかしくはない。しかしこの十三あるいは十四歳に見える少年は、KGB将校の特徴的な殺気を漂わせていた。
「北シベリアの研究基地で、私はしばらくレナータ・エフゲニー・チチェリンと過ごしました」少年はブリーフケースから文書を取り出し、男に渡した。「この出生証明書によると、彼女はあなたの娘です」
 男は火のついた炭を捨てるかのように、目を通すこともなく反射的にファイルをテーブルに投げ、緊張した目で少年を見た。「彼女……彼女になにか?」
「いいえ、何もありません。しかし『δ計画』は正式に終了しました。プロジェクト参加者は皆、本国に送還されます。あなたの娘は未成年ですから、両親の下に戻られると思いますので、その手続きを行う為に来ました。レナータちゃんのことが心配ですか?」
「いやいや!」チチェリン元科学アカデミー教授は、妻と一緒に手を振った。「彼女が何か迷惑をかけていないかと!」
「迷惑? そうですね……」少年は眉を挑発的に上げた。
「あの子は普通の女の子じゃない、生まれつき何か問題があるだけ!」チチェリン夫人の目は不思議に泳いでいた。
「はい? そうですね、少しお話も伺いましょうか」少年は手帳を開いた。
 チチェリン氏は言葉をまくし立てた。「レナータは生まれつき何でも真似する子だったな! 二歳の時に私の微積分計算を理解していたし、暗算は私よりも速かった!」
「要するにレナータちゃんは、小さい頃から天才だった、ということですね?」
「自分の子供が天才だと分かれば、本当に嬉しかったさ。でもその才能はただの『天才』では説明できないと分かった。一度、レナータが家のラジオの部品全部を解体してから、それを組み立てなおしているのを見たことがある」チチェリン氏は大声で言った。「ラジオの知識なんて全く知らない三歳の子供だぞ、どうやってそんなことをしたというのだ?」
「ラジオに電子部品はそう多くありません、レナータちゃんは超人的な記憶力を持っていて、無理矢理組立の順番を覚えていただけかもしれない」少年は首を振った。「子供は真似をするのが上手ですから」
「だがな、そのラジオは元々壊れていたんだ! でもレナータが組み立てたら直ったんだ! 組み立てる中で回路を改造したのか、元々178個の部品で出来ていたラジオを、167個しか使わずに正常に直したんだ。残された11個の部品の中には燃え尽きたトランジスタがあったんだ!」チチェリン氏はおどろおどろしい声音に変わって言った。「レナータは、ラジオの裏を開けて中の部品がどう動くか見ただけだと言った。人間業じゃないだろう! この能力は神が人間に与えたレベルを超えている!」
 少年は眉をひそめた。「チチェリン氏、その言い方は科学者というよりも司祭のようだ」
「いやいや、科学者が神の存在を否定する必要などありません。科学を以って神を解釈するのです」チチェリン氏は慌てたように補足した。「これこそ私の研究専攻である、遺伝神学です」
「なるほど、遺伝神学」少年は頷いた。「ではなぜ、あなたの娘が悪魔だと思うのですか? もしかしたら彼女が神なのかも」
「レナータがラジオを組み立てているのを見ていなかったら、おそらく天使だと信じたでしょう。ですが私はこの目で見てしまったのです」チチェリン夫人は自分の豊満な胸を撫でた。「レナータの青い目が奇妙な金色に変わっていたし、表情は楽しんでいるというよりかは不機嫌な感じで……電子部品を見ている様子も、おもちゃに夢中な子供のそれじゃ全然ないんです、なんかこう……感情がなくて、窒息するような冷たさ……本当に怖かったんです!」
「それはすごい、レナータちゃんがそれほど特別な子だとは思いませんでした」少年はペンで遊んでいたが、文字は書かなかった。「それで?」
チチェリン夫妻は互いの顔を見合わせて言った。「科学の進歩の為、私達は彼女を国に寄付したのです」
「ん?」
「レナータは唯一無二の研究対象です! 細胞、DNA、骨格、脳幹組織の全てまで、我々の宝物です! アメリカがレナータのような子を知れば、どれだけ金を払ってでも奪いに来るでしょう!」チチェリン氏は断定的な語気で言った。
「このファイルには、科学アカデミーの教授に『特別貢献』の称号が授与されたとありますが、あなたの娘が科学進歩に貢献したということですか?」
「もちろん、私の遺伝学関連の研究結果も重要ですよ……」チチェリン氏は付け加えた。
「そうでしょうね」少年はファイルを閉じた。「それでは本題です。現状、もしあなた方がレナータちゃんを引き取るつもりならば、国はあなた方の要求に応じてレナータちゃんを引き渡し、家族として再会することができます。ですが、科学研究における彼女の価値は素晴らしい。もしあなた方がレナータちゃんを再び国に寄付する気があるのなら、国はあなた方に特別報酬金を与え、教授の称号も回復いたします。勿論全てはあなた方次第ですが、もし再び寄付されるのであれば、レナータちゃんは遠くの研究機関へ送られ、二度と会う機会はないかもしれません」
「いらんいらん! なんて素晴らしいことだ!」チチェリン氏は激しい大声を立てた。「私たち一家全身全霊で、科学に貢献致しましょう!」
「少し聞きたいことが」チチェリン夫人は自分の熟女的魅力が少年に関わるかどうかも関係なく、興奮した腰を捻り、胸を少年の顔の前に突き出すようにして言った。「報酬というのはどれだけなのでしょう?」
「十万ルーブルではどうでしょう?」少年は微笑んだ。「これだけあれば、闇市場で処女が十人買えます」
 十万ルーブル? チチェリン夫妻にとっては想像を絶する莫大な金額だった。二人は興奮して互いを見つめ、チチェリン夫人は夫の手を豊満な胸に抱きしめ、思いがけないボーナスの喜びに天を仰いだ。金さえあれば、何もかもうまくいく。チチェリン夫人は愛人に付いて舞踏会に行く必要もなくなり、美味しい食べ物や高級ファッションを好きなだけ輸入できる。チチェリン氏は教授の称号を取り戻すだけでなく、家族全体が養える十分な金が入る。金さえあれば、美人な妻との間にもう一人子供を作ることだってできる。もしかしたらレナータよりも可愛い娘ができるかもしれない。
 興奮した二人は、「KGB将校」が「十人の処女」のような奇怪なことを言ったのには、気にも留めなかった。
「さぁ、どうでしょう?」少年は手を差し出した。
「取引成立でしょう!」チチェリン夫人は激しく少年の手を握った。
 少年はブリーフケースからルーブルの束を取り出し、十つ並べ、チチェリン氏の面前に押し出した。「本日をもって、レナータ・エフゲニー・チチェリンは私の管轄下に入ります」
「どうぞどうぞ! ところで、よろしければ……」チチェリン氏は太った手を揉んだ。「ファイル内の名前を変更できますか? 『エフゲニー』を付ける必要はもうないと思います……思うに、彼女はもう国家のものですから……ミドルネームを付ける必要もないでしょう……」
 少年は理解し、意地悪く笑った。「了解しました。今言ったでしょう? 彼女はこれから私の管轄のものになります。彼女に関することでここに来ることは二度とありませんし、『エフゲニー』の名も消去できます。『チチェリン』も……『レナータ』もね」
「それは素晴らしい……」チチェリン氏は目の前の札束に手を伸ばしたが、届くことはなかった。
 黒色の軍用サーベルが心臓を貫いた。少年が柄を握ったサーベルの刃の左右から、鮮血が噴出した。少年がおもむろにブリーフケースからサーベルを取り出したとき、チチェリン夫妻は喜びと幸せに抱き合っていて気づかなかったのだ。チチェリン夫人の叫び声が発される前に、少年は既にチチェリン氏の心臓から鋭い刃を引き抜き、多くの男性を誘惑したチチェリン夫人の胸元に逆手で刃を差し込んでいた。チチェリン氏は悲鳴を上げることもなく後ろ向きによろめき、数列の本棚をひっくり返して倒れた。少年がゆっくりと軍用サーベルをねじると、傷の左右からチチェリン夫人の鮮血が噴出した。
 少年が手首をさらに強くひねると、軍用サーベルが引き抜かれ、チチェリン夫人は白鳥のような優雅な姿勢でテーブルに倒れて死んだ。
「俺はアリの生死などどうでもいいし、手を汚そうとも思わない。だがあのバカ女の家族を見つけるのを手伝うと約束してな……お前らがこんなに無関心だってのにな。この世界はまだ不自由だ……こんな面倒は当分続くかもな」少年はハンカチで軍用サーベルの刃を拭いた。「そうさ、君の両親は死んだんだ。一生帰ってくるのを待っていたよ。石油が足りなくて冬が越せなかったのが、残念でならない」
「だから、地獄へ行け」少年は本棚を引き倒し、チチェリン氏とその妻の遺体に被せた。暖炉から火の付いた灰を掬い、散乱した本の上に振りかけた。その間、少年は清らかな顔の上には何の表情も浮かべず、ただ小さく歌を歌っていた。
 少年は本棚の下から伸びたチチェリン氏の手に札束を蹴り込み、図書室のドアを閉め、鍵穴を壊した。窓の前に立ち、図書室の全てを呑み込む激しい炎を見守ると、身を翻して振り返ることなく吹雪の中へ消えた。


モスクワ駅。
改札口は極東行きのK4急行列車を待って、自分の大きな荷物の上に座る人々でいっぱいになっていた。この国際列車は一週間かけて広大な氷原を駆け抜け、目的地である中国の首都、北京へと到着する。24時間いつでも暖かく、食べ物は美味。今のモスクワ市民にとっては是が非でも行きたい、素晴らしいところだ。だがK4列車のチケットを手に入れるのは難しく、何かしらのツテでもなければ無理だった。
それに、チケットを手に入れたところで時間通りに乗れるわけではない。通り抜ける大地は気候変動が激しく、この時期は数日間遅れることも当たり前だったが、だからといって家に帰る乗客もいない。誰もがチケットを握りしめて、改札に熱心な視線を向け続け、夜は床で寝た。
そんなグループの中に、異質な少女が一人いた。10と3、4歳ほどで、まだ「小さな」少女だったが、氷雪のような肌の小ぶりで細い顔を見れば、それは「驚くべき」もので、成人の男なら無意識に視線を逸らしてしまうような美しさだった。ラクダ色の真新しいカシミヤコートを着て、暖色チェック柄のスカーフを巻き、長く淡いブロンドの髪は滝のように流れて膝まで延びている。列車を待つ乗客たちは大体家族連れなのだが、彼女は一人だった。黒の無骨な旅行鞄を両手で提げ、柱の裏から半身だけを出して、辺りを伺っている。
こんな少女が一人で中国へ行くのだろうか?

レナータは中国のことは全く知らなかったし、行くことになるとも思っていなかった。ある日、レナータと零号が通り脇のベンチに座ってホットコーヒーを飲んでいた時、中国に関する報道の載った新聞が風に運ばれてきた。写真に写っていたのは、正方形に整列して朝の体操を行う中国人学生のグループだ。
「中国に行くぞ! 今すぐだ! いいな!」零号は食い入るように記事を読んだ後、興奮してそう叫んだ。
「あ、うん」レナータはそう返した。
そうして二人の中国行きが決まったのだった。

「大人になったら絶対美人になりますわ」
「背が低いのだけが残念ですわ」
「でも足は長いし、顔も細いわ。絶対美人になりますわよ」
 退屈していたマダムたちが囁き始める。普通ならば聞こえないような小さな囁き声だったが、レナータは一息も漏らすことなく聞き取っていたし、待合ホールにいる全ての人の声までをはっきりと把握していた。常人の10倍、100倍の超聴覚だった。
 レナータは俯いて目を閉じ、全世界の喧騒に聞き入った。
 これがいわゆる覚醒だった。毎晩、新しく生まれ変わった血が激流のように血管を駆け巡るのを感じ、体全体の細胞に龍血が浸透して、深い眠りから呼び覚まし、大口を開けるように激しく呼吸をする。
 変化は内部に留まらず、外見にも起こった。一ヶ月前のレナータは発育不良の子猫のように、顔にそばかすのできた痩せっぽちだったが、今ではすれ違うあらゆる人々が息を呑む。かつては密かにコルキナを羨んでいたレナータだったが、いまやその美しさでコルキナ以上の人目を惹くことができる。
 レナータの大怪我が治った直後は、それは醜い傷跡で全身が覆われていて、何日も悲しみに暮れていたものだ。しかしある朝目が覚めた時、レナータは「脱皮」していた。死んだ皮膚を全て剥がしてみれば、顔のほんの小さなそばかすに至るまでが消え去った、翡翠のように完璧で新しい皮膚が現れたのだった。
「新しい肌はまだ柔らかいからな。冷たい風に当たると簡単に割れちまうぞ」
 彼はおそらく予想していたのだろう、零号はぶっきらぼうにそう言いながら、赤ちゃん用のスキンケアオイルを手渡してきたのだった。
 その後しばらくの間、零号はレナータの傍を片時も離れることはなかった。ブラックスワン港からモスクワに向かうまで、レナータは目を覚ますたびに、ベッドの傍に座る零号の姿を見ることができた。レナータは毎日進化した。血統が目覚めて、体中の全ての欠陥が消えていく。時々レナータは鏡の中の自分が自分だと思えなくなり、前から横へと体をひねったりするのだが、その完璧なボディラインはますます自分のものだと思えなくなるのだった。
 零号はこの変化に大層満足したようで、レナータの服を買わせに闇市場に連れて行った。沢山の美しい服が一着一着丁寧に並べられているのを見るのは、レナータにとって初めてだった。ブラックスワン港の子供たちはクリスマスごとに一着の新品ドレスしか与えられなかったから。レナータは試着室に陣取って、零号がハンガーから一着一着取り出して投げ入れると、ひとつひとつ纏って零号に見せた。零号はただただ見ているだけで、良いと思えば指を鳴らし、良くないと思えば不満げな鼻息を放った。
 零号が日本製の下着をレナータに見せた。レナータは、これほどまでに軽い生地が世界にあるとは信じられなかった。シルクのショーツは綺麗なレースで縁取られ、ブラジャーには薄い布のクッションが内蔵されている。
「実際、お前の胸は大人になったってでかくなりゃしないよ。日本人並みで十分だろ」
 レナータが何か反応する前に、零号は怪しげに笑いながら逃げた。
 こうして、レナータが高級官僚の一人娘に変装させられるのには一ヶ月もかからなかった。零号とレナータは互いに示し合わせて、モスクワの高級住宅街にまんまと溶け込んだ。
 金銭的問題はまったくなかった。零号はいつも懐からドル札を出して支払いを済ます。レナータは零号がどこでそんな金を調達しているのかわからなかったが、尋ねることもなかった。零号は想像を超える人だった。シベリアからモスクワへの道中も、贅沢の限りを尽くしていた。零号はレナータと共に高級官僚用の療養所の扉を開き、零号が手を振れば、ボーイが慌てて荷物を運び、一日中お湯が出る快適な部屋に案内された。
 0号室から飛び出した零号は、世界に閉じ込められることはもはやない。零号は完全に自由だった。時々子供のように夕焼けをじっと見つめることもあったが、日ごとにその能力は強くなっていった。ある日闇市場での買い物から戻った時、彼はキューバ産の葉巻をひと箱背負っていた。レナータはふと夜遅く目を覚ました時、零号が暖炉の前のソファーに座って、シアン色の煙をゆっくりと、長い時間をかけて吐き出しているのを見た。その時、零号は瞳孔に溶けた金のような暖炉の光を映し、レナータには手の届かないような雰囲気、大山の様な威厳を纏っていた。
「怖がるなよ。確かに俺は何か変わるかもしれないが、お前から離れることはない」零号はレナータに見られていることを分かっていたが、振り返ることはなかった。
「これは俺たちの新しい約束だ。生きたいなら、感情を捨てて、俺の役に立ちつづけろ」長い間が空いた後、零号は言った。

 青銅の鐘が鳴り、待ち合わせている人々が集合令を聞いた兵士のように立ち上がった。
 K4列車の搭乗時間が始まるのだろう。人々は必死になって改札に押し寄せている。列車にこれだけの人が座れる席があるかどうかもわからない。モスクワを確実に離れたいのなら、一刻でも早く乗らなければならない。せせこまった人々の流れはレナータのそばまで押し寄せていて、レナータは無意識にポケットの中身を握りしめた。チャイナ・オリエント急行のチケット二枚と、中国のビザが押されたパスポート二枚。二人分の入国書類は全てここにあった。零号が、ちょっと少し仕事をしてくる、列車が発つまでには戻る、と言ってレナータに託したものだった。
「それまでに戻って来なかったら、捕まったってことだ」零号はそう言っていた。「そうなったら、お前ひとりで中国に行け。向こうで会おう」
 レナータは零号が誰かに捕まるなどとは毛頭思っていなかった。死すべき者が悪魔を捕まえることができないように。しかしその確信があっても、レナータの心臓は激しく鼓動し始め、首をかしげ、待合場の入り口を見つめ、零号がぬっと顔を出すのを期待していた。改札は数分もすれば閉まってしまう。それまでに零号が戻らなければ、一人で中国へ行くことになってしまう。しかしレナータは中国の事を全く知らない。中国行きを決めたのは零号なのだから。
 そんな遠い異国で再会なんてできるのだろうか? 零号は中国で会おうとも言ってはいたが、場所も時間も示していない。もしかしたら中国行きだなんて嘘で、「少しの仕事」だなんて別れの言い訳にすぎないのかもしれない。レナータはそう思うと、涙がじんわりと湧いてくるのだった。

「ホットコーヒーはいかが?」背後から誰かが声をかけた。
 零号が二杯のホットコーヒーを手にレナータの後ろに立っていたかと思うと、その内の一杯が喉音を立てて飲み干された。黒のトレンチコートには雪片がそこここに引っかかっている。
「戻ってきたの?」レナータは驚くよりも、呆けた目を零号に向けた。
「ああ、今戻ってきた。ホットコーヒー、意外と売ってないもんだな。外は寒いし、やんなっちゃうよ」零号は口のつけられていないカップを、何の説明もなくレナータに押し付けた。
 レナータは熱いコーヒーを両手で握ると、目から涙がこぼれた。
「お前が役に立つ限り、置き去りにしないと言ったろう」零号はレナータの感情を一目で見抜いて、にやにや笑いながらそう言うと、手袋を外して手を擦り合わせて温めた後、レナータの頭に触れた。
 その顔は「言いたくはないが……」とでも言いたそうな表情を浮かべていた。「君の両親の消息を聞いてきた。残念だが、悪い知らせになる。そうさ、君の両親はもう死んでいる。一生帰ってくるのを待っていたみたいだったよ。石油が足りなくて冬が越せなかったのが、残念でならない」零号はゆっくりと言うと、何かを問うような表情でレナータを見た。「泣きたければ抱き締めてやるくらいはできるぞ」
 零号の心配とは裏腹に、レナータはただ頷いただけだった。驚きも、悲しみもせず。
「わかってる」レナータは穏やかに言った。「列車、行っちゃうよ」
「どうかな、どうやら改札が詰まってるみたいだ」零号は言った。「持ち上げてやるから、何が起こってるのか見てくれよ」
 零号はレナータを持ち上げて肩車した。レナータは痩せていたから、零号の力でも簡単に背負うことができた。レナータは閉じた改札口の向こうで、改札係が青銅の鐘を鳴らしながら、小さな黒板に何か書いているのを見た。『管理部門からのお知らせ。レールがメンテナンス重点のため、K4列車は運休です』
 燃え上がっていた希望の火は突然萎びて消え、誰もが信じられない知らせに唖然としていたようだった。
「K4列車が運休だって」レナータは言った。
 零号はレナータを肩から下ろして、小さな声でつぶやいた。「ブラックスワン港の再調査結果がモスクワに来たのか。思ったより早かったな」
 レナータは警戒するように四方を見回した。
「間違いない。ブラックスワン港に脱出者がいることに気付いたな。なるほど、移動手段を制限するのは賢いやり方だ。同じ立場なら俺だってそうする」零号はレナータの手を引いて外へ走った。「駅を最初に封鎖して、道路や空港の出入国審査を強化するつもりか」
「どうすればいいの?」レナータは尋ねた。
「中国に行くぞ」零号は駅からレナータを引っ張り出すと、雪雲に覆われた天を見上げた。「俺達は中国に行く」
「そんな中国に行きたいの?」
「なんで俺が中国に行きたいのか分かるか?」零号は尋ねた。
 レナータは首を横に振った。考えてもみなかったことだった。咄嗟に思ったのは、零号の顔つきがアジア系だから、中国人に紛れれば隠れやすいということだった。
「新聞に中国の事が載ってたのを見て、ピンと来たんだよな」零号はレナータの顔に触れた。「中国はソビエトの南、暖かい場所にある。春夏秋冬、四季があって、その内の三つの季節の間、ずっと花が咲いている。Papaver radicatumだけじゃない。何千種類の花があるんだ! 春になれば、山も谷も色とりどりの花でいっぱいになる」零号は得意げな笑みを隠さなかった。「お前がどんな反応をするのか見てみたいのさ!」
 花でいっぱいの山谷が目の前にあるかのように思い浮かべる零号の目は、子供の様な興奮で満ちていた。
「そっか、だから中国なんだ」レナータは頷いた。「南は暖かいから」


「これ、本当に中国に向かってるの?」レナータは尋ねた。
「K4列車が動いていれば、特等席を用意してやれたんだがな」零号は溜息をついた。「でも今はこの道しかないんだよ。文句言うなよ。俺はちゃんとお前の背中を守ってるんだからさ……」
 見渡す限りの雪原の上、平行に伸びる線路は黒い蛇のようで、雪の下に埋まっていることもあれば、時折顔を出して遠くへと伸びていたりもする。何十キロも無人の平野が続いていて、茅葺の家も見えず、雪原に立っているのは枯れたアカマツだけ。二人は膝まで埋まる雪の中を、深くも浅くも足跡を残しながら、鉄道の線路に沿って進み歩いていた。
「道に迷うことは絶対にないと思う。この線路はK4列車の路線だから、辿っていけばいずれは中国につく」零号はそう言っていた。
 零号の最終目的地は北京だ。地図で見る限り、線路の総長は7,000キロメートル。普通の人間ならそんな大胆な旅行計画など立てないが、自称精神障碍者の零号は、まるで当然できるかのような口ぶりだった。確かに、覚醒したレナータの体力は普通の人間よりも遥かに優れているが、それでも枕木の上を120キロメートルも歩けば、息も絶え絶えになり、足が自分のものとは思えなくなってくる。
「女性にはやさしく。嫌とは言わせない。お前を背負ってやる」零号はレナータのブーツを脱がし、水膨れのできた足をガーゼで包むと、背中に乗せて運んだ。
 疲れからか、レナータは零号の背中で猛烈な睡魔に襲われた。零号の身体が冷たい風を遮り、その背中は暖かかった……。
「北京までずっとこうしてるつもりはないぞ」零号は言った。「次の駅に着けば、貨物列車くらいはあるだろ。封鎖されてるのはモスクワだけなんだからな。よしよし、俺の計算によれは、俺達は今……えっと……800キロか……」
「いいね……」レナータはふわふわした声音で言った。
「おい! 寝るな! こんな天気で寝たら風邪ひくぞ!」零号はレナータを激しく揺さぶった。「この氷天雪地の世界でお前を暖められるのは俺だけだし、裸になって抱きしめられても構わないがな……俺がお前よりもピンピンしてるの、変だと思わないのか? フフフフ、俺も成長が始まってるんだよ」
「うん」レナータは疲れすぎて、目を開けることもできなかった。
「何だよ、まったく。お前の両親の事を話してやろうと思ったのに。聞きたければ、寝るなよ」零号は言った。
「わかった」レナータは目を開けた。
 零号は吹雪でひびわれた唇を舐めた。「お前の父親は科学アカデミー所属で、遺伝子生物学の教授だ。ちょっとハゲてるが……写真から見る限り……まあ、顔はいい。だが肝心の研究結果が大したことなくてな、数年前教授の称号を外されて、その後は図書館勤めだ。お前の才能に最初に気付いたのはあいつだ。その点では敏感な科学者だったのかもな。そうそう、酒がとにかく好きで、頭おかしくなるくらい飲んでたらしい」
「へぇ~」レナータは素っ頓狂な声を出した。
「お前の母親は、そうだな、美人だ! お前の顔の遺伝子は母譲りなんだろうな。今は40歳過ぎてるけど……死ぬ前の話なんだが……美しく若い女だった。入れ込む貴族の男なんて、モスクワにはごまんといたらしいぞ。お前の両親の結婚なんて、それはすごい大ニュースだったってわけさ。そうそう、お前の母親は踊るのが好きだったらしい。毎週末、ボリショイ劇場の裏手のダンスホールに踊りに行ってたって。中国に行けばダンスも習える。お前もダンスホールの注目の的になれるぞ」零号は褒めたたえるように言った。
「へぇ~」レナータはまた言った。
「残念だが、二人とも死んじまった」零号は溜息をついた。「中国にこんなコトワザがある。『善人は長生きしない』」
「なんで死んだの?」レナータは尋ねた。
「冬が寒すぎて、風邪をひいて、インフルエンザに罹ったらしい。父親が先に倒れて、母親が面倒を見ているうちに、悲しいことに二人とも感染しちまったんだな。治療の甲斐もなく肺炎になって、同じくらいに亡くなった」零号は手で額の汗を拭いた。寒さを凌ぐため、レナータの背中には上質なロングツイードのトレンチコートがかけられている。ウールのジャケットはしわしわになって、前は雪まみれ、革靴は泥まみれになっていた。
「あなたが殺したんだね」レナータは言った。
 まるで、まったく無関係な事実を述べるかのような、冷淡で穏やかな声音だった。
 零号は身を震わせた。足が止まり、緩慢に立ち尽くした。少し間があって、零号はレナータを振り返った。
 傲慢さか、怠惰さがあれば、図星を突かれたところで否定もしないだろう。零号はレナータを慰めるために嘘をついていたが、バレた以上、これ以上の嘘を突き通す気もなかった。
「血の匂いがする」レナータは言った。「あなたの目を見れば、嘘なんてすぐに分かるよ」
 零号が袖口の内側を一瞥すると、そこにはほんのわずかに血痕が残っていた。チチェリン夫人の胸を刺したときに不意に付いたものだろう。警察犬でも嗅ぎ付けられない、小さすぎる血痕だった。
 零号は溜息をついた。「お前の言霊、『鏡瞳』の力だよ。お前の能力は分析とコピーなんだ。俺に近づくほど、その力は強くなる。俺の嘘を見抜けたのもその力のおかげだ。お前の父親は、お前が悪魔の子だと思っていたようだけど、実際にはラジオの構造を分析しただけなんだよな。バカな父親だよな」
「そうなの?」レナータは尋ねた。
 零号は肩を竦めた。「わかったわかった、俺は嘘つきだよ。お前の父親は学問的にはゴミだ。無能な酔っ払いさ。国に身を売って科学アカデミーの教授になったまではいいが、学会で無能がすぐにばれて、称号も剥奪された。お前の母親が美しいのは本当だが、好き勝手する奴だった。いや、あえて言ってやろう、尻軽だったのさ。確かに踊りは上手いから、ダンスホールに入り浸るのも分かる。男と一緒に踊って体に触らせてやれば、プレゼントもくれるしな。いわゆる『愛人』もいて、お前の父親とは離婚したがってた。とにかく、お前の家族は最悪だった。戻るべきじゃなかった。ブラックスワン港よりもひどい。そのまま戻ってたら、次は売春させられてたぞ」
「ほんとにそんな人が……私の親なの?」レナータはうつむいていて、零号が表情をみることはできなかった。
「それに、あいつらはお前の事なんかまったく気にもかけてなかった。お前の代わりに別の子をもうけるつもりですらいたんだ。お前を帰してやってもいいと言ったが、気持ち悪い子供は全然要らないって喚きやがる! 10万ルーブルで買ってやると念を押したら、土下座して俺の靴を舐めてご主人様って呼んでくるし、しまいには名前を変えてくれだなんてほざきやがる。悪魔の子がチチェリンの苗字なんてごめんだってな」零号は憤慨しながら叫んだ。「それでも帰りたかったか? 何度でも言ってやる、お前の家族はクズそのものだ。……あぁクソが! めんどくさくなるから言いたくなかったんだよ!」
 レナータは頷いただけで、何も言わなかった。
「ああそうだ、俺が言ったことは全て事実だ。何が悪い? 悪くないだろ! 俺は歩くぞ! 姫みたいに運ばれやがって。靴がびしょぬれになっちまったよ!」
「なんも悪くないよ」レナータは静かに言った。
 そうして、聞こえるのは吹雪の音だけになった。しばらくして、零号は首元に何か温かい水滴が滴るのを感じた。
「なんなんだよ?」零号は溜息をついた。
「パパもママも……私の事、愛してくれなかったんだ」レナータの絞り出したような声は、押し殺した嗚咽でしわがれていた。血統が覚醒してから、血管に流れる古龍の血は骨と筋肉を強化してくれたけれども、心の柔さは変わらなかった。
「愛が何の役に立つんだ?」零号は遂に痺れを切らし、怒鳴った。「ホントの事を言ってやる。お前が愛されるなんて永遠にないんだよ! お前は混血種だ、その意味が分かるか? 普通の人間じゃないってことだ。力を得たところで他人を遠ざけるだけで、孤独を抱えて生きることしかできない。天才や英雄、狂人のようにな。他人の愛なんて必要ねえよ、自分の力で生きられるんだからな!」
「そうだね」レナータは言った。
 しかし、温かい水滴は零号の首元に垂れ続け、風に吹かれて凍ると、零号はその冷たさから身震いした。
「まだ泣いてるのか? いい加減ウゼェぞ! わかってんのか?」ついに零号の堪忍袋の緒が切れ、叫び声が雪原の遠くへと広がっていった。「お前の泣き顔は不細工だ! 俺はな不細工な手下が一番嫌いなんだよ!」
 レナータは涙を拭ったが、目はまだ赤く腫れていた。零号が怒ったところで、嫌いになるわけではなかったが、自分のせいで怒らせたくはなかった。子供の癇癪のようだから。
「よく聞け! 覚えてろ! 俺は10万ルーブルでお前の親からお前を買ったんだ! お前はもう、俺の所有物なんだよ!」零号は凶悪な顔つきになって言った。「これからお前はチチェリンでもないし、レナータでもない、お前の名前は……」零号はしばらく考え込んだ。「……お前は『零』だ。お前は俺の所有物だから、俺の名前の一部を使え! お前が誰かを愛さなきゃ死んじまうなら、俺を愛せばいい。少なくとも俺はお前のクソ親みたいにしょうもない利益の為にお前を売ったりはしない! 俺はお前を売るにしても、相当な価値と引き換えにしてやるからな!」零号はダメ押しするように叫んだ。「チクショウが!」
「うん……」レナータの答えは吹雪にかき消された。
 零号は何も答えなかった。こんな会話に飽きていたのかもしれないし、レナータの返事など必要としていなかったのかもしれない。零号は力強くレナータを背負い、凍った枕木を一歩一歩渡っていった。


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