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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第七章:桜花と紅蓮

 階段の上から足音が響き、雍容華貴な女性がその目に火の光を爛々と映しながら、一つ一つ段を踏んで降りてくる。古雅名貴な十二単を纏い、白いハイヒールを履き、高い背丈を美しく着飾っている。着物は彼女の全身をキッチリと包み込んでいるが、背中だけが大きく開き、白皙嬌嫩な背を露わにしている。彼女は白木の鞘に収められた刀を持っていたが、殺傷力を持つようには見えず、専らこの服の装飾品のようにも見えた。
 源稚生を目にした彼女は一瞬視線を迷わせ、力なく微笑んだ。「戻ってきたのね……」


 大火が朱塗りの楼閣を燃やす中、桜井小暮は着替えていた。
 彼女は秘蔵の「十二単」を身に着けた。女性用の和服でも最も厳かなものの一つで、12枚の異なる絹の布地で構成され、内から外まで変化する色は彩雲のようである。十二単を着用する資格があるのは極楽館でも「オーナー」として知られる桜井小暮だけであり、それも特定の記念日に限られる。全ての少女たちが和服を着て、小暮を取り囲んでロビーで客を迎えれば、さながら光り輝く満開の八重桜となる。
 桜井小暮は真っ黒な長髪を束ね、山桃の花を簪のように髪に刺し、鏡の中の自分に向けて礼をした。「いらっしゃいませ」
 極楽館を切り盛りする日々の中、彼女は常にロビーに立ち、常連客が来るたびにいらっしゃいませ、と挨拶をした。同じことを何千何百も繰り返すと飽きてしまうものだが、今日この言葉を言った時の小暮の心持ちは悪くなかった。この言葉を言うのも今日が最後かもしれない――とっくに疲れ果ててしまった彼女が、ようやく重荷を下ろす日が来たのだ。


 今日が極楽館の末日となった。
 攻勢は15分前に始まった。オロチ八家はまず12台のタンクローリーを動員し、山の中腹から数十トンのガソリンを流し込んだ。攻撃を主導する男は即座に点火するようなことはせず、山頂に静かに佇んでタバコを吸い、長いトレンチコートを風に吹き晒させていた。賭博客や荷物持ち、警備員に至るまでのあらゆる人員が逃げ出し、極楽館の金城湯池たる防御は一瞬で瓦解した。彼らは皆、山頂でタバコを吸う男がひとたび吸殻を捨てれば、その瞬間極楽館が灼熱の烈火に呑まれることを悟ったのだ。
 だが山頂に佇む男はタバコを吸いながら、近くの渓流へと逃げまどっていく人々を一言も発さず見下ろしていた。無数の高級車が橋に押し寄せ、阿鼻叫喚の様相を呈していく。

 桜井小暮は金庫の鍵を給仕専務に投げた。「金庫に12億の現金があります。良かったら持って行ってくださいな。何年間もよく働いていただいて、ありがとう」
 鍵を受け取って呆然と立ち尽くした専務は、金庫に向かうべきか、人の流れを追うべきか、決めあぐねた。12億円を無視できるような人はそう多くないが、金庫から金を取り出してきたところで自分の命があるかどうかもわからない。いまこのホールにも床一面に万札が散らばっているが、わざわざそれを拾おうとする人はいない。ガソリンが浸透していく中、無数の人が足を滑らせたり起き上がったり、無数の人が小さな出入口に殺到して互いに殴ったり蹴ったり踏み付け合ったりしている。
 桜井小暮はフフッと笑い、優雅な足取りで最上階へ向かった。極楽館が開館した時も彼女は同じように階段を一段一段ゆっくりと――今とは逆向きに――降りて、男たちの色捜しな目線の中でスカートを上げて膝を曲げて、こう挨拶したのだった。「私は桜井小暮。このカジノのマネージャーでございます。遠路はるばるお越しいただき、まことにありがとうございます」そうして大きな拍手が鳴り響き、賭博客たちは大声で女マネージャーの風華絶代なる容姿を、小暮の桃花の如き美しき顔を賞賛したのだ。
 専務は階段の先に消えて行く小暮の背を見届けると、12億円相当の鍵を投げ捨て、一身逃げ出した。

 階段の途中に火が立ち上った。山の上の者達が点けたものではなかった。そして地下室はすでに焼け落ちていた。そこは極楽館が客の夢を実現する場所である。幾つか存在する小部屋にはそれぞれ秘密が隠されており、床に血の跡が点々と残った部屋もある。極楽館は地獄の深淵にあるのだ、と専務も客に冗談交じりに言ったことがあるが、実際彼は「極楽」なるものがこの世に存在するなどとは信じていなかった。永遠なるものはただ死だけであり、いわゆる極楽というのは死を前にした命の享楽にすぎない。
 その時、桜井小暮の最も信頼する手下は地下室の廊下を歩き回り、各小部屋にマッチを投げ込み、小部屋に繋がるパイプをガソリンで満たした。彼の足音と共に、熱風と火焔が全てを消し去っていく。
 桜井小暮は微笑み、突然、山頂に座る男と話してみたい――いや、話さなければいけない、と思った。かつてこのカジノが全盛期の真っただ中にあった時、小暮はこのカジノの最期を想像したことがあった。世間のあらゆる人間の欲望が凝縮され、深く沈み淀んだ地下室――末日が来るとすれば、それは紅蓮の炎に焼かれて然るべきではないか? それこそが「極楽世界」のあるべき終焉だろう。
 結果、その想像通りに焼かれることになった。彼とはどこか通じ合う心があるのかもしれない……。


 五日前、末日は突如猛鬼衆の頭上に降りかかった。
 五日前まで彼らは大阪の極道18組合の内の11を支配し、オロチ八家傘下の7組合を終始圧倒していた。だが一夜の間に世界は変わった。源氏重工がその大扉を開き、黒いバンが次々と出撃し、オロチ八家の高位幹部までが全員その巣から出動した。彼らが大阪に到着すると同時に、旗下7組合も同時に猛鬼衆旗下の組合へ攻撃を仕掛けた。歴史上未曽有の効率的極道戦争だった。ヒトラーがポーランド侵攻を成し遂げた「電撃戦」の如く、猛鬼衆所属の組合は体制を立て直す前に次々と粉砕された。11組合の内7組合はオロチ八家に忠誠を誓い、3組の「若頭」は野球バットで頭を叩き砕かれ、残る1組は解散を発表した。一夜にして、大阪はオロチ八家の大阪となった。
 大阪だけではない。九州から北海道に至るまで、オロチ八家に忠誠を誓う組合が発起し、猛鬼衆の組合に対して全力全霊で総攻撃を仕掛けた。選択肢は屈服あるいは死のみ、世間を知らない下っ端チンピラたちは怯えるばかりだった。
 長い間、猛鬼衆は完全に増長と勘違いをしていた。オロチ八家とは「均衡」を保っていると、オロチ八家は彼らに対し抵抗するのが精いっぱいだと理解していた。だが一族が金剛怒目と化したその時、彼らは極道の至高者が何であるかを理解した。自分が今まで生き残ってきたのは単なる幸運、一族の懐柔に他ならなかったのだと。結局のところ彼らは同族、八家当主が同じ姓を持つ者を殺めることを忍びなく思っていただけなのだと。
 オロチ八家がこの戦争にどれだけの準備をしてきたのかは誰も知らない。オロチ八家は猛鬼衆旗下の組合の非合法交易、政府官公庁等との接触など、あらゆる猛鬼衆の情報を掌握していた。警視庁には猛鬼衆の犯罪証拠が記された匿名のメールが届き、裁判官がこの証拠を受け入れれば猛鬼衆幹部の半数以上が実刑判決を受けることになる。そして猛鬼衆を庇う公務員は殺人脅迫を受けた。例えば一人の県議会議員の乗った車は、高速道路上で突然ヘリコプターに釣りあげられて上空500メートルを飛行することになり、怯えた県議会議員は空中でオロチ八家内の先輩に電話を掛け、新たな「親切」を表明した。10分後、議員の車は県議会議事場の正面に下ろされ、その瞬間から議員はオロチ八家の一員となった。
 本物の「鬼」に比べれば、猛鬼衆という名ばかりの組合は幸運だった。オロチ八家の血が流れているにも関わらず、鬼たちには降伏する機会すらも与えられなかった。強制血統純化薬を使って逃げようとした鬼もいたが、鬼斬りとして育てられた執行局員の前には、彼らもただの逃げまどう野獣でしかなかった。どれだけ怒り狂い暴れても、最終的には水銀で満たされた爆発性弾丸によって心臓を貫かれた。執行局は僧侶を伴い、鬼の死体をコンクリートの柱の中に閉じ込めて海底に打ち込み、整然とした基礎建築を形成させた。オロチ八家所属の丸山建造所がいずれ埋立地に立てる神社は、この亡者たちを弔うことになるのだろう。
 反抗を諦めた鬼は無期監禁となった。平安時代、オロチ八家の祖先は神戸山の中腹に黒牢を建て、一族に現れた鬼を監禁する為に使っていた。明治維新の後に一族は西洋思想に触れ、黒牢も人道に反すると考えて封鎖したのだが、今再びその錆び切った鉄門が開かれることとなった。
 国会議員ですらこの隠された極道戦争に震撼した。数日の間に数百人が死に、数千人が負傷した。もはや小さな戦争の規模である。戦争が拡大し続ければ必然的に無関係な人々にも影響が起こり、いずれは大きな社会問題となる。国会も様々な手段や方法でオロチ八家に抑制を命じ、政府はこのような犯罪行為を容認しない、自衛隊の介入もやむを得ないと繰り返し述べたが、オロチ八家はあらゆる対話の道を閉じ、独自の道を突き進み続けた。
 桜井小暮はオロチ八家の意図を理解していた。オロチ八家は国会が新たな暴力団対策法改正案を出す前に猛鬼衆を完全に潰すつもりであり、その意味でこその電撃戦なのだ。雷鳴が聞こえたとき、既に戦争は終わっている。
 龍族から受け継いだ闘争本能は、古きから今に至るまで混血種の身体に流れ続けている。人間の起こした最も悲惨な戦争は第一次世界大戦、虐殺された人間は十万人というが、このくらいになってようやく龍族の闘争と肩を並べられる規模となる。


 朱紅色の窓は完全に焔に呑まれ、木材は湾曲変形してギシギシという音を立てる。
「私はここまで。これからも、お元気でね」桜井小暮は窓際のハンガーに掛った血紅色の和服を見た。
 火風の中で和服が舞い、まるで誰かが踊っているかのように、衣服の先が煤け、燃える胡蝶のように和服が宙を舞った。


 山頂に座って燃える朱楼を見下ろしていた源稚生は、突然あの日の夜ヘリコプターから見下ろした光景を――巨大な須弥座がゆっくりと海に沈み、白い波に凋んで行く光景を思い出した。その時稚生が感じたのは、天と地の間に押し寄せる大いなる哀愁――沈みゆく須弥座が野垂れ死ぬ巨鯨のように、空に向かって声無き哀鳴を響かせているかのように思えたのだった。
「極楽館を攻略すれば、猛鬼衆の勢力の根本を断ち、多くの組合を本家に引き戻すことになるでしょう。極楽館は猛鬼衆の最大の資金源であり、極楽館を落とせば後は残党を掃討するのみ……ですよね?」矢吹桜が源稚生の背後に立った。全身黒色のスーツに真っ黒なロングトレンチコート、真っ白なネクタイをつけている。
 今夜も執行局幹部は白いネクタイをつけ、死者に哀悼の意を示す。しかし哀悼の意を示すということは、逆に言えば、彼らの死を必ず見届けるという意味でもある。

 極楽館の陥落はこの極道戦争でも一つの区切りとなるだろう。その道の人間にとって極楽館とは猛鬼衆の象徴であり、人々が微塵の忌憚もなく金銭を欲望に変える中で、猛鬼衆は莫大な金額を稼いできた。オロチ八家もその退廃性には手を焼いていたが、単に厳重に守られているだけでなく、各種の権力者による保護もあり、敢えて手出しする事も無かった。全国に散らばる猛鬼衆の勢力が一張りの蜘蛛の網なら、極楽館は蜘蛛の巣である。蜘蛛の巣を破壊することは、蜘蛛の死を意味する。
 極楽館の攻略は執行局の責任において行われ、各地の同時襲撃作戦である「雷霆作戦」に伴って、一族による懐柔策も行われた。オロチ八家は昨日、「免罪状」を発行して極道組合の間に流し、現在猛鬼衆に与している組合もオロチ八家を本家と奉りさえすれば無罪とするどころか、本家が膨大な経費を投じて設立した年金機構の恩恵を受ける事もできると吹いて回った。剛柔両種の手段が並行して行われ、猛鬼衆の各地の勢力は砂山のように瓦解し、免罪状が届いた場所の小規模組合は即座に一族への忠誠を誓った。これ以降、日本極道の支配者はただ一つ、オロチ八家となり、オロチ八家の暴力が他のあらゆる暴力を凌駕することによって、結果として全ての暴力が終わらせられることになる。
 橘政宗の予言はまさに実現寸前にあり、源稚生の期待をも超える勢いだった。数日前、橘政宗は大族長の地位を退き、「若君」である源稚生がその座を引き継いで、オロチ八家と付属組合の数十万人の頂点になる統率者となった。一族の老人たちの中にはこの決定を早すぎると非難した者も居たが、執行局が北海道から九州、果ては沖縄に至るまでの猛鬼衆の勢力を制圧していくのに従って、源稚生の能力を認めざるを得なくなった。稚生の名声は日に日に高まっていた。橘政宗が十年間兢々業々と積み上げきた地位を、源稚生はわずか数日間で軽く超越してしまった。
 稚生はこれも橘政宗の計画の内だということを理解していた。橘政宗がこの戦争の準備に十年の月日をかけ、十年間ずっと自らの手で宝刀を磨き、そして抜刀抹殺の瞬間にその栄誉を稚生に与えただけのことだ。稚生はただ用意されたものを順序良く行うだけでよかった。それはいわば、年老いて死期が迫った戦国大名が息子を呼び、十年鍛えた軍隊を見せながら、私の死後お前はこの軍を率いて敵を討つのだ、行軍路は我の枕元に書き記してあるぞ、などと語るようなものだ。息子は即位の後に出征し、腐る物を腐らせ焼く物を焼き、数十年来の敵対勢力を一掃して国に戻り、国民たちの歓声を受ける。彼は父よりも英明神武な者と信じられ、国の未来を嘱望される。そこで彼が知将足り得るのは、死の際に国の未来を全て息子に託した父親のおかげなのだ。
 だが、源稚生は一族の未来を望まない。

 黒いハマーが山道を一路登ってきて、鋭くブレーキを掛けると、片手にサイレンサー付き拳銃、もう片手に文書ファイルを携えたカラスが飛び降りた。フチなし眼鏡をかけたその顔は冠付き猛禽類のようにも見える。
「事務作業マジでメンドイんっすけど。俺も夜叉みたいに殴る蹴る叩くってやっていいっすかね?」カラスは源稚生の背に侍り、一通り愚痴を零した後、ファイルを開いた。「『駒』の内、今までに捕まったのは17人です。残るは3人……」
 執行局は山の出口にバリケードを設置し、極楽館から逃げ出す全ての車を調査している他、人員に銃を持たせて山道を巡回させている。無関係な人間はさっさと見逃され、執行部は礼儀正しさすらも見せるが、特定のリストに載っている人間は即座に黒いフードをかぶせられてコンテナトラックに詰め込まれる。リストに載っているのは全員が「鬼」、即ち危険な血統を持つ混血種であり、オロチ八家はその種の人物が己の網からすり抜けることを絶対に許さない。
 源稚生はリストを眺め、まだ墨塗りされていない三つの名前を確認した。「王将、不明。竜王、不明。竜馬、桜井小暮……」

 王将、竜王、竜馬というのは、日本式象棋である「将棋」に登場する駒の名前である。王将は象棋(訳注:中国式の原型的将棋)における「将」及び「帥」と同じものであり、竜王は「車」が、竜馬は「馬」が進化した(成った)ものである。

 猛鬼衆でリーダーの役割を果たす存在は皆、将棋の駒をコードネームとしている。橘政宗はその正体を調査するのに十年費やしたが、王将と竜王の名前は未だに謎となっている。猛鬼衆に忠誠を誓う組合程度ではこの高位の二人を見ることもできないとされ、直接謁見可能な最も高位にいる猛鬼衆幹部は「竜馬」である桜井小暮である。彼女は極楽館のただの女マネージャーであり、多くの無知な人間たちが彼女の美貌と色を切望してきたが、彼女は猛鬼衆の中でも相当高い地位に居るのだ。
 王将と竜王は存在すら知る人も少ないが、竜馬がいるとなれば、必然的に更に高い地位に居る人間も想像できるというものだ。
「この三人は……山に逃げたのでしょうか?」桜が言った。「あるいはカジノの地下に通路があるとか……」
 源稚生は首を振り、ファイルをカラスに投げ返した。「……何か聞こえないか? 誰かが歌っているような――」
 カラスと桜は一瞬凍り付き、耳をそばだてた。確かに山風と木材が焼け弾ける音の中に、小さく誰かが歌う声が聞こえる。妖媚極まる女の声、歌舞伎のような調子だが、歌詞は中国語らしい。カラスの中国語レベルは「齧ったこともない」レベルであり、桜はそれなりに勉強している方だが、その歌はやたらと古風盎然としており、相当の中国語の知識がなければ理解もできなかった。

「倦兮倦兮釵為証、天子昔年親贈
 別記風情、聊報他、一時恩遇隆
 還釵心事付臨卭、三千弱水東、云霞又紅
 月影兒早已消融、去路重重
 来路失、回首一場空」……

 稚生は静かにその歌詞を諳んじた。「坂東玉三郎の『楊貴妃』……昔、聞いたことがあるが……。……お前たちはここに残れ。竜馬と話してくる」
「え、えっ、ええぇ!? 若君、いつ崩壊するかも分からないんですよ!?」カラスは顔面蒼白になった。「若君に何かあったら俺と夜叉と桜はどうすればいいんですか!? 切腹モノですよ!?!?」
「破れ屋で一人こんな歌を唄うというのは……想う人が居るのだろう。それを訊きに行く」稚生は蜘蛛切を手に取った。「それに歌が上手い。一度会ってみたいものだ」


 稚生は手をハンカチで包み、真っ赤に煮え滾った純ブロンズの扉を押し開いた。所々で炎が広がり、シルクのカーテンは燃え、木彫りの女性も燃え、床中に広がったカードが燃えながら舞い散っている。極楽館の建造に使われた木材に難燃性の化学薬剤処理が施されていなければ、建物はずっと早く焼け落ちていただろう。稚生は一枚の燃えたトランプカードを拾い上げ、タバコに火をつけ、炎の中を歩いていった。広がる火は極度の酸欠状態を作り出し、一般人であれば数秒で失神する程だが、混血種の中でも最高レベルの血統を持つ彼は当然のように耐えていた。
 階段の上から足音が響き、雍容華貴な女性がその目に火の光を爛々と映しながら、一つ一つ段を踏んで降りてくる。古雅名貴な十二単を纏い、白いハイヒールを履き、高い背丈を美しく着飾っている。着物は彼女の全身をキッチリと包み込んでいるが、背中だけが大きく開き、白皙嬌嫩な背を露わにしている。彼女は白木の鞘に収められた刀を持っていたが、殺傷力を持つようには見えず、専らこの服の装飾品のようにも見えた。
 源稚生を目にした彼女は一瞬視線を迷わせ、力なく微笑んだ。「戻ってきたのね……」
 稚生が驚くと、小暮も反応し、取り繕った営業スマイルで言い直した。「いらっしゃいませ」
 素晴らしい笑顔だった。もし別の場所で出会っていれば、その日は素晴らしい一日になっただろう。稚生は無意識に微笑み、足を止めた。
 小暮も立ち止まった。「お間違いでなければ、あなたは現在のオロチ八家大族長、源稚生様でいらっしゃいます? 大きな音が聞こえましたから、執行局の捜索員かと思いましたが、まさか大族長自らいらっしゃるなんて」
「竜馬ですか?」稚生は確かめるために訊いた。派手に着飾った桜井小暮は写真よりもさらに若く、少女のようにも見える。この若さでどうやって猛鬼衆の幹部まで上り詰めたのだろうか。
「ええ。私が桜井小暮よ」
「王将も竜王も居ませんね。ここに残ったのは貴女だけですか?」
「大族長は今こう思っているのでしょう? どうやってこんな若い女が猛鬼衆の高い地位まで上り詰めたのか、誰かの愛人なのか、って」小暮は笑った。「そうでしょう?」
 稚生は数秒ほど沈黙した。「確かに貴女の年齢は地位に不相応と言えますが、美しい女性が皆その美しさを売っている、などと思うつもりもありません」
「でも、極楽館ではどうかしら? ここではあらゆるものがお金に代わるのよ」小暮は微笑んだままだった。「大族長も今夜最もたくさん稼いだお客になれば、私になんでも要求していいんですよ。例えば、あなたの女になるとか」
「我々はあなたに愛人が居るという情報は掴んでいません。つまり、あった筈であろうそのような要求も、貴女は跳ね除けている……」稚生は言った。「それに、貴女の歌には想う誰かがいる。こんな時まで気にかけているというのは、きっと貴女にとっても大切な人なのでしょう?」
「あなたの頭には、王将か竜王しかいないのね……」小暮は首を振った。「ここには王将も竜王もいないわ。最後の鬼、私だけよ」
「猛鬼衆には二十年前に新たなリーダーが就いたという情報があります。そして貴女はここ二十年で急速に地位を上げた。二十年前、貴女は何歳でしたか?」
「確かに昔は王将もいたけど、もう死んだわ」
「つまり、王将が死んだ後は竜馬が猛鬼衆を率いていたと?」稚生はタバコの煙を一口吹かした。「しかし他の鬼たちも言っています。貴女は王将や竜王の代わりに命令しているだけで、そういった高位の存在は竜馬だけに謁見を許し、背後に隠れているのだと」
「だったら、私を引きずり回して拷問でもしますか?」
「拷問の必要はありません。我々は多くの医療機関に出資を行った結果として、最新の自白剤を入手しています。一週間注射されれば貴女も何でも答えるようになる」
「それで、私はおかしくなってしまうのかしら?」
「そうとは限りませんが、神経系にダメージを受けて、残りの半生を後遺症と共に過ごすことになるでしょうね」稚生は言った。「なるべくなら使いたくありませんが、選択の余地はありません。我々が最奥の黒幕を見つけ出さなければ、もっと多くの人々が死んでしまう。貴女は美しく、歌も上手で、心に想う人もいる。もっといい生活もできるはずだ。愛すべき人と共に、他の国へ……太陽と海の溢れる場所へ行けばいい。忠義を尽くす為に死ぬことなどない」
「大族長には、分からないのね……」小暮は更に美しく微笑んだ。「一族が私達を歓迎して開けてくれるのは、監獄の門だけでしょう? あなた達が投資している修道院も、精神病院も、療養所でも、私達を待っているのは一番扉の重い場所。神戸山には秘密の監獄もあるのでしょう? 私は五歳の時から血統が不安定なのよ。いつ暴走して、いつ血肉を喰らう怪物になるのか分からないのに、太陽と海の溢れる場所になんて行けるのかしら?」
「王将と竜王の正体を明かしてくれるのなら、自由は保障します。一族の者達は貴女に見張りを送るでしょうが、貴女の愛する人との逃避行は私が保証します」
「私の同類を監獄に入れておいて、私のようなレッドゾーンの鬼に自由を与えるのかしら?」小暮は首を振った。「大族長、猛鬼衆がどういう組織なのか、本当に知っていて? あなたにとってはただ反抗してくる鬼の集まりなのかもしれないけど、真実はそう単純なことじゃないのよ」
 稚生は少し驚かざるを得なかった。
「フフフ、喋りすぎたわね。ごめんなさい」小暮はまた笑った。「あなたが理解する必要はないわ。あなたは偉大な天照命で、永遠に太陽の光の中にいるんだもの。いくら話しても、夜の寒さは分からないでしょう……」
 彼女は袖の中から小さなエメラルドグリーンのカップと木箱を取り出し、木箱の中の最後の一本、深紫色の薬剤をカップに注いだ。
「やめろ!」稚生は怒鳴った。
「素敵よ、大族長」小暮はカップの中の薬剤を飲み干した。
 蜘蛛切が鞘から抜かれ、源稚生が電光のように桜井小暮に飛び掛かる。しかしそこに燃えて粉々になった朱橡が落ち、彼は刀を振って身を守らざるを得なかった。バチバチと立ち上る火花の向こうに、稚生は小暮を見た。紫黒色の血管が桜井小暮の真っ白な首から顔まで、まるで細蛇の群れのように浮かび上がっっていく。カップが床に落ち、小暮は顔を上げ、歪み曲がった顔に涙を滑らせ、屋根に嵌めこまれた巨大な鏡を見た。そこには彼女自身の醜い姿が写っている。まるで悪霊が彼女の身体で覚醒したかのように、美しかった身体を徐々に侵食していく。
「ほんと、無様な姿……だから最後の一本はダメだったんです。彼が戻ってきたら、私の最高の姿を見せたかったのに……」小暮は呟いた。
 まるで巨大なゾウガメが甲羅の中に手足を引っ込めるように、彼女は両手を縮めて雲霞のような和服の中にしまい込んだ。裾と大袖が垂れ下がり、十二単の下の部分が激しく膨張し始めた。
 雲霞のような色彩豊かな服が爆発四散した。繭を割って出て来たかのように現れた青灰色の悪鬼が、床に落ちていた白鞘の長刀を掴み、眩い刀光と共に源稚生へと飛び掛り、鋭い唸り声を立てた。


「バカバカバカバカバカバカ!! 俺ってバカバカバカ!!」カラスは狂ったように叫びながら丘を降りて行ったが、桜はそれよりも速く降りて行った。
 大族長という身分を尊重しただけではない。「千金の子は堂陲に坐せず」という言葉にあるように、説得できなければちゃんと戻ってくるはずだろうと思っていた。竜馬が焼死していても自業自得だし、仮に突然襲い掛かってくるにしても、あの源稚生に傷一つ付けられるとは思えない。

「千金の子は堂陲に坐せず」とは『史記・袁盎鼂錯列伝』にある言葉であり、富める人は命を惜しみ、瓦が落ちても当たらないよう軒下に座ることはない、という事を意味している。

 源稚生が極楽館に突入してから10分経っても、状況は静かなままで、事故のようなことは起こっていないようだった。カラスも桜も当初は心配していたが、時間が経つにつれて説得にある程度の進展があったのだろうとも推測した。そうでなければあの源稚生の帰りがこれだけ遅くなることもないはずだからだ。二人はただ待つだけだった。だがさらに10分後、鋭い叫び声と金属の打ち合う大きな音が聞こえた。極楽館の中で激しい戦闘が起こっている! カラスは腿を叩き、戦闘だ! と叫び、嘆いた。さっさともう一発焼夷弾をぶち込んで、竜馬をブッダの元へ送るべきだった! ……一方、桜は一言も発さないまま、弾丸のように山を駆け下りていった。
 カラスは拳銃の弾を水銀炸裂弾に替えながら狂奔した。同情心や慈悲など何処かに忘れてきた真のヤクザである彼は、新任大族長に大胆にも楯突いた竜馬などという輩に、全ての銃弾をぶち込んでやろうと覚悟を決めた。
 極楽館は既に崩壊寸前だった。あらゆる窓が外に向かって灼熱の火の舌を伸ばしている様は、まるで百つ頭を蠢かせる硫黄の赤龍のようである。カラスと桜は源稚生が扉を簡単に手で押して入る所を見ていたし、それについて何か考えることも無く、自分たちも当然扉を押せば入れるものと思っていたが、こうして近づいてみると二人と稚生の根本的な血統の差が明らかになってしまった。稚生が当然のようにやっていたことが、二人には全くできなかった。燃える現場周辺の気温は百度を超え、灼熱の空気に数秒間晒されるだけで肺に火傷ができそうになり、空気中の酸素もほぼ枯渇していた。カラスは驚きながら何度も咳をして、少し呼吸するだけで肺に火が付いたような感じを覚えた。彼が吸い込んだのは百度を超える高温の空気だった。
「気をつけろ!」彼は桜の手を掴もうとした。火事の危険も顧みず突撃するのではないかと恐れたからだ。
 しかし桜は彼の手をすり抜け、一人飛び出して純ブロンズの扉にタックルを掛けた。高温が一瞬で彼女の服に火を付けた。純ブロンズの扉は数百度まで達しており、もし桜が素肌で門に触れていたらどうなったか、カラスは想像したくもなかった。だがカラスは同時に、無意識の内に自分の負けも悟った。自分に男子の気概はない。執行局の一員だというのに、源稚生の「家臣」だというのに、女性が命を晒しでても前に出ているというのに、自分は後ろで隠れているだけ……。純ブロンズの扉は未だ開かず、ドアの鍵は溶け落ちている。桜の突撃も力及ばなかったらしい。そもそも彼女の体重は決して重くない。女忍者にとって、体重が50kgを超えるのは自分の首を絞めるも同義なのだ。
 カラスは狼狽しながらも続き、扉を強く蹴り込んだ。扉のシャフトが折れ、扉は崩壊し、カラスは桜を抱きかかえて火のついた服を慌てて引き裂いた。
「大丈夫……」抱えられた桜は肩を竦めた。彼女の制服は完全にダメになってしまったが、彼女はその下に黒いタイツ服を着ていた。特製の甲冑はほぼ完全に身体の表面に張り付き、ほとんど裸体と区別がつかない。
「ああ……大丈夫なら大丈夫か……ハハハ!」カラスは頭を掻きながらお辞儀をして、状況に乗じるつもりはないことを示すと、燃えている桜の長髪を手で払った。
 桜は彼に構うことなく、代わりに火の中で抱き合っている人影を認めた……正確にはそのうちのひとりは人とは言えず、その抱擁も血塗れだった。
 その決着は一瞬で決まったのだろう。……まず、竜馬が跳び斬りを繰り出した。龍化した強烈な身体能力で4、5メートルの高さまでジャンプし、荒々しさで名の轟く薩摩示現流の一刀、刃を上に向けて一筋に斬り上げる奥義を繰り出したのだ。反撃されれば相打ち、防御されれば刀と共に斬り捨てる、捨て身の一刀。続く竜馬の最期の一撃、斬り下ろしは薩摩示現流よりも更に荒々しく、彼女の着地時には花崗岩の床が割れた。だが源稚生は彼女の最強の二段斬撃を即座に見切り、その瞬間数センチ横に避け、刃は彼の肩を掠めて振り下ろされ、桜井小暮は彼の腕の中に落ちた。稚生は彼女の肩に手を回して抵抗を防ぐと、蜘蛛切の刃全体を一気に彼女の心臓へと送り込んだ。
「若君! 大丈夫ですか!?」カラスの声が源稚生の背後に投げかけられた。
 稚生は手を振り、桜井小暮を床に寝かせた。彼は刀を抜かなかった。いったん抜けば桜井小暮はその瞬間死んでしまう。抜く際の刀が彼女の心臓を完全に破壊してしまうからだ。
 カラスはそんな若君の行動を理解できない様子で見ていた。稚生の腕の中にいるのも、彼にはただの青灰色の悪鬼にしか見えない。顔中に骨棘や突起が現れ、身体は青い鱗で覆われている。何故そんな丁寧な扱いを? 竜馬だぞ? もう一度腰を蹴って、心臓を引き裂かれる痛みでも食らわせてやればいいのに!
 桜がカラスの足を強く踏みつけ、彼の思考は黙った。

 稚生は自分の服を脱いで巻き上げ、小暮の枕にした。少し経って小暮は目を覚ました。そこには金色の獰猛な鬼眼が輝いていたが、桜は何故かその目を綺麗だと、まさに絶世の美人だと感じた。
「こんな結果に、必然などなかった……」稚生は言った。
「でも、これが結果です。私達のような暗闇の中に生きる蛾は、遅かれ早かれ炎に焼かれる運命なのよ」小暮は嘲笑するかのように笑った。「どれだけ翅を焼かれても、一生懸命飛び続けようとするの。大族長、あなたのように高みにいる人間には、永遠に分からないでしょうけど」
「以前、同じような事を言う人がいました」稚生は言った。「心臓が破裂したら何も言えなくなります。残された時間もない。何か願いがあれば言ってください。貴女は桜井家の娘だ。私には貴女の願いを聞き届ける義務がある」
「あなたが?」桜井小暮は冷笑した。「その手で何人殺したか考えてみて。殺す度にそんなことを尋ねてきたの? 偽善ね……」
 彼女は目を閉じた。

 稚生は彼女が死んでいるのかどうか分からなかったし、この女が何故死に拘るのかも分からなかった。桜井小暮には最後の願いなどなく、疲れ果てて、ただ死だけを想っていた。……大抵の人は自分の死期が近づいていると分かると、優しくなったり、無関心になったりするものだ。殺人を生業として来た武士たちは死の際に詩歌を詠み、往々にして空山明月あるいは黄花の悠逸なる様を語らったりするものだが、桜井小暮の死はそうではなかった。彼女の最期の一句は、源稚生への嘲笑だった。
 彼は手を伸ばして桜井小暮の頸動脈を確かめようとして、不意に小暮の顔に触れてしまった。小暮は再び目を開け、数秒ほど稚生を見つめた後、突然微笑んだ。妖媚に、幸せそうに、まるで仔猫か子狐か何かのように。彼女は身体を震わせ、頭を稚生に近づけ、その獰猛な顔を彼の膝の上に乗せて、再び目を閉じた。稚生が脈拍を図るまでもなく、彼女は死んだ。龍化現象がゆっくりと消えて行き、鱗が落ち、再び美しい顔が現れた。カラスは驚いて桜井小暮を指差し、桜にアワアワアワと何か言おうとした。熱気を吸い込むことを恐れて口を開けようとはしなかったが、驚きを隠せないようだった。
それから数分後、源稚生は一人の真っ白な美女を抱いていた。彼女の裸体の上には血痕こそいくつも残っていたが、その肌には傷一つなく、生きていた時の万丈容光が垣間見える。
「桜井小暮、24歳、桜井家の桜井孝三郎の娘。5歳の時に危険な血統が確認されています」桜が言った。「14歳で一族から逃走、猛鬼衆において名を上げる。先日抹殺された桜井明は彼女の異母弟のようです」
「そうなのか? 腹違いとはいえ実の姉か……」稚生は呟いた。「遺体を引き取りに来るよう、彼女の家族に知らせてくれ」
「桜井孝三郎は遺体の引き取りを拒否しています。彼が言うには、このような娘を家から出してしまった、一族に向ける顔がない、我々で処刑すべきだった、力及ばなかった、などとか……」
「しかし、彼女も人の娘なのだぞ……」稚生はトレンチコートを脱ぎ、桜井小暮の身体に被せた。


 稚生は最後に一面の炎に包まれた桜井小暮を見やった後、踵を反して極楽館に背を向けた。歩き出して数十歩の後、遂に朱楼が崩れ落ち、無数の火花が天に上った。それはあたかも、火の鳥たちが夜空へ飛び立っていくかのようだった。
「危ねぇ危ねぇ……!」カラスは両手を合わせた。「数分遅かったら、俺達全員竜馬と一緒にオダブツでしたぜ」
 稚生は無表情のまま歩き続けた。
「若君、なんでそんな表情してるんです? 若君を助けようと炎に突っ込んだ人の気持ちも考えて下さいよ……いや、俺の事じゃないですけど……それとも、あんな美人が妖怪に変わっちゃったのが悲しいとか?」カラスは小声でまくし立てた。
 その瞬間、桜がカラスの後ろ膝を蹴った。
 薄情ではあるが、カラスは夜叉ほど粗暴で無鉄砲ではない。桜井小暮の裸体を源稚生が腕に抱いていたのを見た時、彼はたまたま、桜が張り詰めた表情を暗くしているのを見てしまった。彼は正直になれない自分の口を恨んだ。あの時自分は何故扉に突撃したのか。それは忠誠というよりは、愛を競っていたのではないだろうか? 桜にとって自分と若君など比べるべくもない、それどころか、彼女はあらゆる他人よりも若君を気にかけているように見える……もっとも、自分を気にかけてくれる人などいないのだが。

「回れ右だ」源稚生はハマーの近くまで歩くと、突然刀を抜いた。
 桜が反応する前に稚生は彼女の向きを180度変え、肌にぴったり張りついた服だけを斬り、真っ赤に焼けた肩と背中を露わにさせた。彼女がブロンズの扉に触れた時に負った火傷だ。甲冑によって断熱されてはいたが、シルクストッキング並の薄さしかないものでは効果も限られている。稚生は車のトランクから火傷治療用のクリームを取り出し、桜の傷跡に塗り込んでいった。カラスはその様子を見続けるのは不適切だと判断して、背を向けて夜空に口笛を吹いた。半裸の桜の姿を見たくないわけではないが、肩の傷よりも赤くなった桜の表情を見てしまえば、もう一度振り返った瞬間何されるのかも分からなかった。
 クリームを塗った後、稚生はハサミで桜の焦げた髪を切り落とし、自分のスーツの上着を桜の肩の上に掛けて、彼女の顔をペチペチと叩いた。「……ありがとうございます」
 カラスはまだ数歩先で口笛を吹いていたが、突然肩越しに腕が伸びてきて、手の中に一本のタバコが乗せられた。慌てて取って咥えて振り返れば、そこには源稚生がライターに火を付けて立っていた。「ありがとう……ございます」

「俺も若君の為に頑張りますかねぇ……男の趣味はないけど……」カラスが無意識に余計な一句を付け加えると、視界の端で桜が厭らしそうな表情をしているのを見てしまい、即座に口を塞いだ。
 源稚生はタバコを吸いながらハマーに寄りかかり、夜空を見つめながら沈黙していた。「桜井小暮が死んだのはいい……だが彼女の……何だ? まるで私を知っているかのような……もしくは、他の誰かと……?」


 東京、新宿区、歌舞伎町。
 下駄と靴の音がかき鳴らす繁華街の喧騒の中、通行人は次々立ち止まってその若い男を見た。黒地に赤い花柄の和服に下駄を履き、腰には紅鞘の長刀を挿し、胸元は江戸時代の浪人のように開かれ、清秀な肋骨が露わになっている。
「『金魂』の低杉晋助じゃない?」通りがかりの少女が同伴者に囁いた。
「いや、晋助はハチマキを巻いてるでしょ。非村剣心のコスプレだよ! ゼッタイそうだよ、このケンドー・ポニーテール!」
「非村剣心って身長1.6メートルの設定じゃなかった? 『新選組異聞6』の土方歳三じゃないかな!」
「『新選組異聞6』の土方ってこんなシブい色の服着てたっけ?」最初の少女が反論した。
「これは玉木宏演じる源頼朝で決まりだな」コートを着たサラリーマンが携帯灰皿にタバコを叩いた。
「大河ドラマ好きのおっさんが二次元の話に入ってくんじゃねーよ!」少女たちがサラリーマンに冗談を言って、サラリーマンも笑った。

 大河ドラマとは、NHKが毎年歴史を題材としてリリースする、比較的真面目なドラマシリーズのことである。いわゆる「大河」とは、「歴史は滔々と流る大河のように、一度流れれば戻ることはない」という意味で、大河ドラマの主な視聴者は中高年である。玉木宏は2012年の大河ドラマ『平清盛』において源頼朝を演じた。少女たちは漫画の武士のイメージを語っていたが、サラリーマンは大河ドラマ内の人物に例えたため、少女たちに親切にも笑われることになった。

 看板だの出店だの屋台だのが溢れる商店街だが、その和服姿の若者が通り過ぎれば、まるで武士の時代の気息が弥漫していくかのようで、早桜は極致に達し、落ち桜は暴雨のように、若者は若武者の幽霊のようにも思える。
「スイマセン! 一緒に写真、いいですか!?」大胆な少女がカメラを持ってお辞儀をした。
「問題ござらぬ。小生は上野から江戸に世間を見に来た、源家の次男だ。お嬢さんの親切、まことにかたじけない。以後お見知りおきを」若者は一歩下がって刀柄に手を当て、少女にお辞儀を返した。
 見物人は拍手喝采した。若者は相当古風な話し方で、手の込んだコスプレと言える。写真を頼んだ少女はぱぁっと心の花を咲かせ、また恥ずかしくもなった。まるで百年前の未婚少女のように、和服に白袴と木下駄という出で立ちで街頭を歩いていた彼女は、突然心揺るがされる若い武士を見かけて、人生最大の勇気と共に話しかけに行ったのだ。若者は咲き誇る桜の木の下で淡い笑みを浮かべ、少女たちと一緒に写真を撮った。歌舞伎町に夜遊びに来るような少女はもはや生娘とは言えないのだが、この若者の前では皆右手で左手の指先を抑えたりして、伝統的な生娘のふるまいを見せた。若者は何人の要求も拒絶せず、サラリーマンまで写真を撮ろうと寄ってきてもその腰に腕を回してやり、まるで江戸を放蕩する武士のように、意気投合してみせた。

「こんにちは! こんにちは!」一人の男が名刺を持って現れた。「私はスカウト事務所の昭倉です! 我が事務所は多くのコスプレイヤーと契約を結び、大規模なイベント出演やドラマ出演をお手伝いしています! もしよろしければお話だけでも!」
「僕はコスプレイヤーじゃないよ」若者は微笑みながら名刺を返した。「ただ散歩をしに来た普通の人さ。桜の季節になると、東京に見に来るんだ」彼は頭を上げ、夜闇の中でも光の絶えない遠くの黒いビルを見つめた。「ついでに、雲の上の存在になった兄にも会いにね」
 黒いマイバッハ車が彼の近くに滑り込むと、運転手が車から降りて後部座席のドアを開けた。
「迎えが来たみたいだ。じゃあ、また」若者は皆に向けてお辞儀をして、車に乗り込んだ。黒い制服を着た運転手が見物人に頭を下げて乗り込むと、車はすぐに去っていった。
 数十万ドル相当の高級車が夜の色に溶けていくのを見て、少女たちは心惑わせた。それだけの貴族が錦を着て夜行くなどとは誰も思わず、ただの目立ちたがり屋だと思っていたのだ。

「君は何処へ行っても、女の心を惹き付けるな」後部座席には既に先客が一人いて、彼はタバコを吸いながら淡々とそう言った。
 彼の顔は人間とは思えないほど真っ白だったが、よく見ればそれは能面と呼ばれる、能楽で使われるマスクである。能面には公卿の笑顔が描かれ、真っ白な顔に鮮紅の唇、粗黒いアイラインが描かれ、その歯は真っ黒だった。

 古代日本の公家たちは鉄粉を含んだ水で歯を黒く塗っていた。日本の伝統文化において、黒い歯は貴族の象徴である。

「オロチ八家が僕たちを探している。こんな時に連絡を寄越すなんて、何だい?」若者は冷ややかに訊いた。
「つい先ほど、君の兄が極楽館を焼き払った。大阪府警は事故として処理するらしい」能面の男は言った。「誰が見ても、猛鬼衆はこの戦争に負けたと思うだろう。敗北者に生き残る権利はない。オロチ八家は我々を皆殺しにしようとしているのだからな」
「十年も心血を注いで広げた地盤を数日でオロチ八家に奪われて、協力を取り付けた組合にまで謀反されて。なのに随分余裕そうだな、王将」若者は言った。
「それがどうした。オロチ八家は極道の皇帝、俺達はただの反乱分子に過ぎない。俺達の側についていた組合に忠誠などなく、いわばある種の不良資産でしかない。だが奴らは我らに十分な利益を齎し、極楽館も千億以上の現金を調達した。奴らはいわば我らの食物だ。俺と君さえ無事なら、猛鬼衆の存在意義は達成されたと言える」
「食物だと? この戦争で死んだたくさんの人間の、その死体一つ一つがお前の食物なのか? お前の食事の趣味は最悪だな、王将」
「ああ、全てが食物だ。世界とは残酷なものだ。人が人を喰ったり喰われたり、いわば俺達一人一人がグールなのだ。オロチ八家も例外ではない。奴らは極道組合から献金を得て生き永らえている。その極道組合の金は何処から来る? 盗みや略奪、あるいは売春婦が身を削って得た金や保護費だ。オロチ八家は麻薬には関わっていないと自称しているが、陰で麻薬を売っている組合から粛々と金を渡されて、拒絶した事など一度でもあったか?」王将はフハハと笑った。「奴らの影は弱者たちに広がっている。売春婦、薬物中毒、個人経営の店主……そのような弱者から音もなく血を吸い上げるのが奴らだ。これが世界のシステムなのだ。強者が弱者を喰らい、姑息な者は権力に血肉を捧げる。他者に喰らわれるのが嫌なら……先ず他者を喰ってしまえばいい」
「嫌な言い方をする。それもお前の趣味か?」
「嫌だと思うなら、別の話題をしよう。ヒルベルト・フォン・アンジェが日本に到着した。学院とオロチ八家の間の緊張状態は、遅かれ早かれ事が起こるだろう」
「アンジェが一番優先しているのはシーザーチームの捜索だろ? 一番高天原の情報を持っているのはシーザーチームだから……」若者は言った。「それで、シーザーチームの行方は分からないのか?」
「努力はしている。奴らの存在は私を不安にさせてくれる……」
「不安? 彼らは戦場に迷い込んだ虫みたいなものだろ? 砲火飛び交う空を無力に飛び回るしかできないような……」
「虫? 虫如きが、一切衆生を葬る神葬所からこの世に戻って来れると思うか? 水深8000メートル以上、潜水艇も甚大なダメージを受け、シミュレーション計算では生存可能性は1%も超えない状況で、三人全員が無事だったのだ。もしこれが幸運の結果なら、その運気は俺を不安させるに足るレベルだ。その上この三人組はこれまでに三体の龍王を殺し、何度も世界を破滅の危機から救っている。奴らの往く処は王も帝も神も仏も殺され、運命の神でも背後についているようだ……。俺達がこの世で恐れるものは無い。だが奴らを守っているのが運命の神だと思うと、俺は不安にもなる」王将は呟いた。
「僕たちは神にも抗うと決めたはずだ。運命の神だろうがなんだろうが、首を刎ねてしまえばいい」若者は冷たく言った。「小暮に東京に来るよう言ってくれ」
 王将はしばらく黙りこくってしまった。「……マッサージが欲しいなら、他の誰かを探してやる」
「どういう意味だ?」若者は眉をひそめた。
「消防隊が極楽館の焼け跡から竜馬の遺体を見つけた。極楽館が落ちた時、竜馬は源稚生と戦っていたらしい。尤も、彼女の血統ではモロトフカクテルがあったところでどうにもならないさ。相手はあの天照命なんだからな」
 若者は数十秒ほど押し黙ってしまった。悲しみも喜びもなく、ただ無言で窓の外を、龍にも馬にも見える車の列を見つめていた。
「なぜ彼女は逃げなかったんだ?」彼は独り言のように言った。
「既にオロチ八家に正体がバレているのだ、逃げる場所など無いだろう。オロチ八家の輝夜姫はあらゆる場所に目を持っている。飛行場、道路、港、海陸空のあらゆる交通手段を掌握している。奴らは桜井小暮が竜馬だと知っている。ならば彼女を捕まえて、俺達の情報を抉り出そうとする。竜馬の背後に王将と竜王が居ると推測しない筈がない。だが今、竜馬は死んだ。奴らの手がかりもここで途絶えたわけだ」王将は淡々と言った。「オロチ八家の攻勢もここで一段落するだろう。今度は俺達が動く番だ」
「お前のやる事には興味がない。僕が知りたいのは、彼女が何故逃げなかったのかだ」
「君の事が好きだったからだ。知らなかったのか? 稚女」
「……それがどう関係あるんだ?」
「女は愚かな生き物だ。望みの無い愛を抱いている時、彼女達は自分を燃やすことを選ぶ。その時になって初めて、君は全ての眼差しを彼女に注ぐ」王将はそっと言った。「君が一番よく知っている道理だろう? 稚女」
「……お前は彼女が極楽館で死を選ぶと分かっていて……だから彼女を置き去りにしたのか?」
 王将は頷いた。「女は感情で推し測れば、大体的外れにはならない」
 妖しい紅光が車の中の暗闇を裂いた。王将が背筋を伸ばすと、緋色の刀身が彼の能面のすぐ下に突き付けられた。若者が抜き身の刀を震える手で握っていた。一尺でも刃が突き出れば、王将の喉元は切り裂かれてしまうだろう。
 電光石火の一瞬の出来事だったが、若者の目はまだ窓の外に向けられていた。「彼女があそこで死ぬと分かっていたから、お前は彼女だけをあそこに残した。彼女が死んで手がかりが途絶えれば、誰も僕とお前の正体を探る事はできなくなる……お前が彼女を育てて高々に喧伝したのも、外界が素晴らしい竜馬一人を知れば、竜馬の背後にいるだろう王将や竜王が本当に存在するかどうか怪しくなるから……そして必要があれば、将棋の駒のように使い捨てる……。やはりお前はグールだ。身近な者達を次から次へと貪るように喰っていき、最後に残るのは、丸々太ったお前だけか」
 王将は両手を上げ、動こうともしなかった。彼はこの若者の狂気をよく知っていた。街頭で親切にも通りすがりの人と写真を撮ったりするのも、一瞬の怒りで仲間の首に斬りかかるのも、全てはその時の彼の気分次第。桜井小暮は、自分がこの青年に大切にされている理由が単なるマッサージの腕以上の所にあることを知らなかった。彼が坂東玉三郎の『楊貴妃』を全て覚えてしまったのは、いつか美しい女性の前で演じる為であり、その時彼が好意を向けていたのは桜井小暮だったのだ。彼が階段を降り、桜井小暮の手を引いて登って行ったとき、桜井小暮と「竜王」の間には何かあるのだろう、とその場の誰もが思ったものだ。だが王将は彼女を単に静かな夜に観客に選ばれた幸運な女でしかないと理解して、桜井小暮の犠牲をそこまで重要視していなかった。
 この時、王将ははっきりとこの若者の怒りを感じ取った。初めは適当に選んだだけで、その後も大切に扱ったことなど無かったのに、死んだ瞬間当然のように怒ってみせるというのか……。
 刀が更に押し込まれていく。数十秒以内に完璧な言い訳を思いつけなければ、この刀は懸念も未練もなく自分の首を刎ねる――王将はそう悟った。
「最後に残るのは俺ではない。君だけだ。世界の王座に着く資格があるのは君だけだ。血統がそうさせているのだ。俺は彼女を食物にしたつもりはない。むしろ食物にしたのは君だろう? 薬を与えたのは君だろう? もしや、モロトフカクテルを化粧品か何かと勘違いしたまま、好きな女にあげてしまったのか?」王将は大声で笑った。「彼女は美しかったが、味も美味だったのか?」
「……挑発のつもりか?」刀は既に王将の皮膚まで食い込んでいた。
「君が俺を殺す。それはつまり、俺の利用価値が失せ、君が俺を食ったということだ」王将は笑った。「口に合えばいいのだがな。よく噛んで味わうといい」
 数秒ほどの沈黙が続き、紅光が再び一閃した。若者は鞘に収められた刀を腰に戻した。「……いい加減にしろ」

 マイバッハ車は夜の中を駆け抜けた。道行く人も次第にまばらになり、冷たい風が吹き込み始める。若者が長刀を携えて街頭に降り立つと、風が霧雨を攫いながら街の中を吹き抜けていき、遠くの街灯に昏い黄色の光輪を掛けた。彼が袖から小さな桜の木の箱を取り出して開けると、そこには虹色に輝くモロトフカクテルがあった。彼はその試験管を一つずつ砕き、中の液体を口の中に注いだ。アルコールで薄められたモロトフカクテルは、実際のカクテルのように飲むことも出来ないことはない。だがこんなカクテルを造ろうとするのは悪魔くらいである……孤独と、憎しみと、絶望を血に浸して発酵させて作った、人を堕落に誘う烈酒……。
 若者は一本飲み干す度にまたもう一本試験管を割り、きらめくガラスの破片がその足取りの周りに四散していく。
 何故モロトフカクテルの箱を小暮に預けたのか? 小暮は知らないし、自分でもよく分からない。だがあの時心の何かが動いたのは確かだ。畳の上に跪き、澄んだ水面のような光を目に湛え、あなたの為なら何でもする、全てを捧げると言われて、心に何か動じるものがあって、それで悪魔のプレゼントを置いてきてしまったのだ。その時動いた心が何だったのか。それをようやく理解したのは、あの女が死んでからだった。地獄に落ちても誰かに抱きしめられているような、言葉に出来ない温かさ。あのモロトフカクテルは約束だったのだ。小暮にはあの危険な薬を使って欲しくなかった。あの薬は、ただ一つの意思を確認する為のもの……望めば一緒に死んでくれるのか、それを確かめるためのものだったのだ。
 彼は最後の一本、深紫色の薬剤を高く挙げた。まるで目の前に十二単の女がまだ座っていて、春ネギにも似た指で水晶のグラスを共に挙げているかのように。
 最後にして最も危険な進化薬。それでも彼は飲み干すことを躊躇しなかった。多少罪悪感も覚える酒だったが、飲んでしまえばモロトフカクテルは香りも良く、歌舞いてみせたい気分にもなってくる。彼は顔を上げ、清らかに歌った。

「浮華夢、三生渺渺、因縁無踪、
 雖堪恋、何必重逢。
 息壌生生、誰当逝水、
 東流無終――」

 坂東玉三郎の『楊貴妃』のまた別の節。長い時間をかけて練習したところ。彼はかつて、桜井小暮の手を取って階段を上りながらこれを歌った。いつか美しく綺麗な女性を見つけて、この言葉を歌ってみせたいと思っていたからだ。その時の小暮は猛鬼衆に加わったばかりの少女だった。突然わが身に降りかかった幸運か、幸福かに圧倒されて狼狽しながらも、彼女は他の女たちの羨望と嫉妬の眼差しの中でスカートをたくし上げ、王室の舞踏会に招かれた少女のように膝を曲げてお辞儀をした。「私……私の名前は桜井小暮……」
「僕は源家の次男。演劇が好きだったんだ」彼はこの少女の可愛らしさに驚きつつ、微笑みながら答えた。
 
 歌声は虚空へ消え、寂寥だけが残った。雨が降り始めても、寂寥だけがあった。何も起こらなかった。危険極まりない薬を身体に染み込ませても、彼にとってはアルコールと殆ど変わらなかった。薬もまた虚空へと消えていってしまったかのように。
 彼は突然泣き出した。


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