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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第十一章:グリーンランドの影

「忍耐、執着、残酷、強靭……どれも人間の美徳というよりは、龍の天賦とでもいうべきものだ。龍とは生まれながらの完全な戦士。しかし人間は本質的に弱く、恐れ、躊躇い、諦めてしまう生物だ。君や校長はそんな人間の欠点を許せず、冷酷非情な龍であらんと己に強いているようだが……人は、力を持てば持つ程孤独になるのだよ。そう、まさしく龍のようにな」

 黒雲がはるか低く圧し掛かり、海面が落ち着きなく波打つ。黒色の船が黒色の海水を切り裂きながら、白色の波痕を残していく。
「まさか漁船に偽装するとはな!」シーザーはガスタービンの音に負けないよう大声で言った。
「違います! 科学調査船です!」源稚生も大声で言った。「我々は珍しい魚の回遊経路を研究する調査船です! ここは公海ですが、日本の排他的経済水域です! 十二時間の航路管制を申請しましたから、当分はこの辺りに船は近寄りませんよ!」
 日本支部はモニアス号を漁船に偽装していた。船首に「マニ丸」の三つの白文字が書かれ、船尾クレーンにはトロール網が吊り下げられている。東京港の四号埠頭から出発して航海する事、はや三時間。夕方の天気予報によればこの夜は二十メートル弱の強風と二メートルの高波があるといい、おおよそ航海には適さない海である。しかし航路管制は今晩の十二時間きっかりだ。海上を一般船舶がウロウロしている下で潜水艦を下ろして龍の胚を探索することはできない。夕陽が西に沈む出港の頃には既に海から強風が吹きつけていて、殆どの漁船は風を避けて港にいそいそ戻り始めていた。流されないよう互いに繋がれた漁船の上で手を振る漁師たちを見た時、ロ・メイヒは「風蕭々として易水寒し、壮士海に出て復還らず」とでも言いたくなるような悲壮感を感じたのだった。シーザーは船長が身に纏う白い制服にいたく興味を示したり、船舷の手すりに寄りかかって遠くを眺めたり、漁師たちに手を振ったりしたかと思えば、向かい側の漁船に飛び乗って新鮮なタラバカニを一匹買ったりなんてしていた。まるでマニ丸を自家用ヨットか何かと思って、ジェノバ湾で日光浴するためにスーパーモデルでも連れ込みすらしそうなフリーダムさだった。
 サーチライトが夜空の中に投げかけられると、かすかな雷鳴を滾らせた黒雲が見え、暴雨だけでなく大雨の夜の到来を告げているのがわかる。ロ・メイヒはジンジンと響くような寒気が襲ってくるのを感じた。モニアス号がどれだけの先端技術を搭載しているとしても、結局はただの中型船に過ぎない。海上での船の安定性を決めるのは重さだ。どれだけすばらしい技術が詰め込まれていようとも、船体が重くなければ意味がない。ロ・メイヒはこの船が暴風雨に耐えられるのかどうかもわからなかった。
「ご安心ください」稚生は一目でロ・メイヒの心配を見抜いた。「日本支部にはあらゆる万全の準備があります。すぐにわかりますよ」
 シーザーが蒸し鍋の蓋をつまみ上げると、全身オレンジ色のタラバガニが顔を出した。愛刀ディクテイターでカニを解体し、雪のように白い身を氷の上に置くと、混合ワサビピューレと海鮮醤油で味付けをする。今夜の夕食にしようと直接港の漁船に乗り込んで買ったカニだ。今まさに任務が始まらんとするこの瞬間でも、彼は人生を楽しむのを忘れていない。タラバガニの他には銀紅色の天然真鯛が一匹仕入れてあって、モニアス号の船首に設置した蒸し鍋にてタケノコと青梅で真鯛の生臭さを取り除き、雪のように白い魚介スープを丸三時間かけて煮込んでいた。こうしてシーザーは船首の風を背に受けながら、魚介スープの蒸し鍋の様子を見つつ、分厚い取扱説明書をパラパラめくっていたのだった。
「根気ありますね、彼」稚生は船舷に寄りかかり、煙草を吹かしながらソ・シハンに言った。
「奴は特定の事に関してはめっぽう根気強い。好きな女性の心が自分に向くまでとか、結婚を認めてくれるまでとかな」ソ・シハンが長刀を拭きながら答えた。「そのくせまた別の特定の事に関しては一分も耐えられなかったりする」
 ロ・メイヒは退屈そうに空を見上げていた。好きな女の子の心が自分に向くまで待っていられるかだって? まったくバカげた話だ。どうせそんなバカなことしている間に、女の子はどこかの月明かりの下で顔も知らない男の腕に抱かれているんだ。それを知らないだけで――。
 そこでふとロ・メイヒの頭に浮かんだのはロ・メイタクだった。あの小悪魔は氷海の上、白月の下で出会う夢を見せてきた。これは何かを暗示しているのかもしれない。確かに結果的に任務で海上に送られることにはなったが、今は船の上、暗雲の下で波に揺られていて、あの寂しくも静かな氷海白月とは全然違う。なにかがおかしいとも思えるが、よくわからない。
「レディース・アンド・ジェントルメン~」シーザーが手を高く挙げて振った。「北海道の香り漂うタラバガニ、熟成海鮮レシピに関しては、日本は世界一だな」
「えっ、ボスにしては謙虚だね……イタリア人にはちょっと及ばない、世界二位だな~とか言うと思ったよ」ロ・メイヒが殻を外したカニ足を口に頬張ると、自然原始の海の味がほんのりとした甘みと共に口いっぱいに広がった。
「イタリアの男は天性のシェフだが、シーフードに関しては日本に及ばないところがある。日本は放牧に適さない島国だ。明治維新の前まではタンパク源は専ら漁業で、牛肉が出るのは大名の宴会くらい、庶民の胃を満たすのはシーフードしかなかったらしい。つまり、日本のあらゆる料理文化はシーフードに凝縮されている。他に料理するものが無かったからな」シーザーは料理に関する自分の知識を誇示できて悦んでいるようだった。
 一方、稚生は無表情のまま聞いていた。シーザーが日本を褒めているのか、あるいは嘲笑っているのか、わざわざ理解しようとすることもしなかった。この歌い踊るおかしな人達を理解しようとする度におかしなことになってしまうのだから、もはやいっそ、理解しようとも思わない方がずっといい。
 シーザーは貴腐ワインを一瓶開け、黄金の蜂蜜のような酒を四つのグラスに注いだ。
「シャトー・ディケムの貴腐ワインは、エビやカニに最高に合うんだ」シーザーはグラスを上げた。「今回のミッションチームは複雑だ。皆それぞれ立場も違うが、任務を終えるまでは抑えてくれることを願いたい。この任務が終われば自由の日がある。そこでならいくらでも好きなだけ互いに殺し合える。この杯を、俺達の共同任務の円満な成功に捧げよう」
 ぎこちない乾杯だったが、悪くない願望だった。ロ・メイヒやソ・シハン、源稚生もグラスを一度ずつチリンと鳴らしていく。

「若君、前方に須弥座が見えました」カラスが稚生の背後に走ってきた。
「では、ドック解放と誘導の光信号を」稚生は言った。
 彼はシーザーグループに目を向けた。「それではみなさんにご紹介しましょう、岩流研究所と丸山建造所の共同プロジェクト――『不沈の須弥座』」
 稚生が指さした方向を見れば、黒雲の中に埋没した海面の一部が燃えるように光っている。天と海の交わる所に一筋の光明がはじけ、あたかも日光が海面に投げかけられているかのよう。その様はまるで海中に浮かぶ宮殿のようで、楼閣の灯火は突き抜けるように明るく、蜃気楼をも霞ませるような煌きを放ち、天と海の間の宮殿のごとき建造物を躍動する白色に照らし上げている。モニアス号が減速し始めると、海底宮殿は迎賓するかのように大門を開いた。
「フローティングプラットフォーム……か?」シーザーは理解した。
「本家旗下のプロジェクトによって建造されたこの海上プラットフォーム『須弥座』は、石油や海底鉱脈の探査等、長期の海上作業に適した設備です。移動能力は乏しいですが重量が大きく、台風級の強風や高波にも耐えられます。仏教における『須弥座』とは仏像や仏塔、宝殿の台座のことで、我々がこの不沈の座になぞらえて須弥座と呼んでいます。現在、本家は全ての『須弥座』型プラットフォームをここに集約させ、深海探査基地として仕立て上げました。ここならば暴風雨を気にする必要もありません。少なくとも、ここに沈んだ『レーニン号』よりは遥かに信頼できるはずです」稚生は言った。
 モニアス号がガスタービンを止めると船体の両側に牽引チェーンが取り付けられ、十分な広さのドックまで牽引されていく。ドックの扉が閉まると内部両側のライトが順番に点灯し、両側に並んで立つ黒服の男達が深々と頭を下げた。「若君の須弥座御視察、歓迎いたします!」揃った声が広大な閉鎖空間で反響し、頭の先まで震えが伝わってくる。

 門型クレーンが移動して吊橋を下げると、源稚生はシーザーチームを率いて、カラスと夜叉が先導する上層階へのエレベーターに案内した。ロ・メイヒは耳の中を満たす換気扇のカラカラという音とともに、どこからともなくザワザワと湧き出ててくる海水を送る建物全体に張り巡らされたポンプシステムを理解し、この巨大な浮動建造物全体が海水の匂いで満ちているんだな、と感じた。波に揺られるプラットフォームは鋼板の平坦面を歩いていても柔らかな斜面を歩いているかのように感じる。ロ・メイヒは手すりにつかまり、突然の大波が来ないよう祈りながらゆっくりエレベーターに乗り込んだ。
「安心してください。須弥座は完全にデジタル制御されています。高波が来れば自動的に下方の導水門が開き、波のエネルギーを打ち消すようになっています」稚生は言った。
「ここの海域は水深八キロ以上あるんじゃなかったか? 錨を下ろして届くような深さじゃないぞ。この須弥座はどうやって固定してるんだ?」シーザーが聞いた。
「錨はあります。ですがもちろん八キロ伸ばしているわけではありませんよ。日本海溝は二枚のプレートの衝突によって形成されるもので、凄まじく深いのはプレートの接合部のわずかな海溝部分だけです。他の海底はそこまで深くはありません」稚生は言った。「この須弥座は十六の鉄の錨により海底に固定させています」
 一行は須弥座の頂部に到着した。ここから下を眺めると新宿区を俯瞰する醒神寺の眺望にも似て、重なり連なる波が須弥座の底に打ち付け、白い水沫を天に弾き散らしているのが見える。須弥座一つ一つの間はスチールケーブルで繋がれ、風が吹く度にピアノ線のようにピンと張り、風が収まれば再び垂れ下がる事を繰り返している。それぞれのプラットフォームの天辺に白い作戦服を着た男が立っていて、全天候型ヘリのローターに海風以上の風をまき散らされ、頭皮が見えるほどに髪が吹き晒されている。さながらパレードを待っている軍隊のようだ。
「人多くない?」ロ・メイヒは驚いた。「後方支援チームにこんな数の人員いるの?」
 稚生はカラスから拡声器を受け取り、高所に登った。「諸君、今夜の任務は君達の働きにかかっている。奮闘せよ!」
 声は海面を滑ってはるか遠くまで届き、プラットフォーム上にいた男たち全員が一斉に応えた。「全力を以てファミリーの任務に報います!」何千人もの男たちの声が交響し、潮の音すらも一瞬かき消えた。
「今回の作戦では関西支部が『風組』を構成し、空中から海域全体を目視で監視します。潜水艦の妨害者や無関係の船舶は、この風組によって追い払われることになります」稚生は言った。
 カラスが青色の信号弾を空に向けて発射すると、全天候型ヘリの群れが一斉に飛び立ち、黒色の巨鳥たちはサーチライトをあちこちの海面に向けて照らし始めた。
「関東支部は『火組』を構成し、火力警戒を担当しています。大口径二連装機銃と単式誘導弾、97式魚雷を装備する小型水上警備船を配備し、彼らの守りの前には巡洋艦すらも歯が立たないでしょう」
  赤色の信号弾が空に登ると、各プラットフォームのドックのゲートが一斉に開き、水上警備船が波打つ海へと躍り出で、船首の二連装機関銃が海面をかき分けていく。
「風間家の精鋭が構成するのは『林組』、我々の外周を固める働きとなります。海底監視設備と気候観測装備を有する漁船を用いて付近の海域の状況を監視し、天候が悪化し危険が迫った場合には警報を発します」
 カラスが緑色の信号弾を発射すると、巧妙に隠された指向性ライトが四面八方にちらついた。遠方に配置されていた林組がサーチライトを使って若君の呼びかけに応えたのだ。
「我々が乗るこのプラットフォームは、私自身が責任を負う『山組』。メンバーは全員、岩龍研究所の精鋭です。山組の任務は潜水艦の作業を直接サポートする事。潜行任務中は嵐でも台風でも高潮でも津波でもこの場に留まってあなた方を助け、帰還を待つのが任務です。まさに『動かざること山の如し』というように」稚生は言った。「ファミリーから派遣された数千人の精鋭がついています。皆さんは潜水艦の操縦に集中して、後の仕事は全てお任せください」
「ずいぶん仰々しいな?」シーザーが煙草を吸った。「ただ潜るだけなのに、戦争でもする気なのか?」
「殺人剣の師は、稽古の最初に徒弟にこう問うそうです。柄を握ることがどういうことか考えたことはあるか、と。答えはこうです。一度柄を握ったからには何があろうと放してはならない。柄を手放す時、それは即ち死の時であると」稚生は淡々と言った。「これが日本人のやり方です。如何なることも戦の如く、常に己を崖の縁にまで追い込み、逆に生き残る確率を高める。我々が追い求めるのはサンゴや貝などではない、ましてや古龍級の凶悪な存在かもしれない……それが海面にまで昇ってくる可能性も考えれば、風林火山の四組の全力を以てしても足りないくらいです」
 海水が割れ、クレーンが沈重な佇まいの精製硫黄爆弾を引き上げた。いかにも目立つ黄色に塗られた姿形は一般的な爆弾の概念からも外れ、狭小な尾翼がずんぐりとした本体にいささかアンバランスだ。一本の粗雑な葉巻のようにも見える。
「なんかカワイイ形だね」ロ・メイヒは言った。
「耐圧性を重視した形状です。潜行途中に硫黄爆弾が水圧で爆発したら嫌でしょう?」稚生は言った。「動力系統と制御機能の制約で、水中での射程距離はおよそ一キロ。しかし一キロ程度でも問題はありません。畢竟この爆弾の真価は爆発力ではなく、精製硫黄と水銀の浸食によって龍を殺せるという事なのですからね。ちなみにあれのコード名は『桃太郎』です」
「へぇ~カワイイ名前だね! 一寸法師とかもあるの?」
「ありません」


「……現在、予定時刻三十分前。岩龍研究所が三十分以内に最終検査とトリエステ号の起動をします。……というわけで、皆さんはこれから三十分、自由時間となります。談笑も仮眠もしてもらって構いません。ああ、あと潜水艦にトイレはありませんから、済ませておいてくださいね」
 稚生は携帯電話を取り出し、電話を始めた。「もしもし、シュナイダー教授。日本支部、源稚生から報告致します。潜行チームは指定位置に到着、本部の指令を待機中」
 電話の向こうからは奇妙な呼吸音が聞こえた。ボロボロのふいごを無理矢理吹かしているかのような、骨の底から毛の先まで寒気が逆立つような声だ。この千庖百孔のボロボロの肺の持ち主を、カッセル学院の学生たちは揃って『干からびたミイラが生き返ったようなもの』と表現する。
「では、私が煙草を吸い終えるまで待ってくれたまえ」シュナイダー教授は掠れた声で言った。


 カッセル学院本部、中央管制室。
 その場はすっかり片付けられ、シュナイダーはホールの中央に一人で座っていた。彼がポケットから小さな金属箱を取り出すと、中には黄金色に輝く刻みタバコが入っていた。シュナイダーにとって、喫煙は毒に等しい。奇怪な病によってシュナイダーの呼吸器は深刻に衰えており、呼吸を維持するためには補助器具に頼らなければならないというのは、学院の誰もが知っているところだ。それゆえ彼はどこに行くにも酸素タンクを背負わなければならない。しかし今、シュナイダーは実際に手巻きタバコを、年配の愛煙家のように軽快で滑らかな動きで巻いている。だが深呼吸をしたとたん、彼は肺全体で咳き込むかのように激しく嗚咽してしまった。
「自殺したいのかね、君は」背後から誰かが言った。
 シュナイダーは驚いた。「今日は君の当番ではなかったはずだが? マンシュタイン教授」
 マンシュタインはテーブルの上にピル箱を置いた。「喫煙したいならこれを飲むんだな。鎮静効果で、少なくとも咳き込まなくはなるだろう。まったく、ろくに呼吸もできない君のそれは気管と言えるのか? まだ壊れた煙突の方がましだな」
「私は気管の三分の二を切除し、軟プラスチックのチューブに換えた」シュナイダーはピルをひとかけら服用し、酸素を数回吸入した。「プラスチックチューブも悪くはない。少なくとも咽頭炎にはならないからな」
「君の身体検査報告を見たぞ。咽頭炎で死ぬことはないだろうが、そろそろ肺不全で死にそうだな」マンシュタインは言った。
 シュナイダーは新たなタバコを吸い始めたが、ピルが効いたのか、反応は遥かに軽かった。彼は少しの間目を閉じて、タバコの匂いを味わった。
「それで、何の用だ? わざわざ薬を持ってきただけではないだろう」シュナイダーは言った。
 マンシュタインはテーブルの上にファックス文書を広げた。「教育委員会からの申し入れだ。龍淵作戦をはやく止めろ、とな」
「執行部が教育委員会のお偉い方にとやかく言われる筋合いはない」シュナイダーは言った。「大事を決める彼らと違って、我々の仕事は小さなことだ。こちらにはこちらの仕事がある」
「だが、潜行チームにはガットゥーゾ家の貴重な相続人がいる。その情報がローマのフロスト・ガットゥーゾに届いた時、怒り狂った彼は学院本部まで殴り込みに来るつもりだったそうだ。興奮しすぎて心臓発作を起こしたのは幸いだったな。彼が声を上げていたら、君の執行部は解体されていたかもしれないぞ」
「潜水艦を寄贈したのは当主のポンペイウス・ガットゥーゾだったはずだが。日出ずる東方の天祐我らに吉せり、だとかで塗装していた……」
「ガットゥーゾ家当主が変人だというのは周知の事実だろう? 奴の個人的な判断は一家の判断と何の関係もない。教育委員会の彼の席はフロスト・ガットゥーゾに代わっている。そしてフロストがノーと言えば、それはガットゥーゾ家全体のノーなのだよ」
「例のチームは校長が決めたものだ。フロストが直談するならば私ではなく校長だろう。このタバコを吸い終えた後、我々は龍淵計画を開始する。フロストの直談は無意味だ。校長が止めなければ、我々も止まらない」
「それはダメだな」マンシュタインはテーブルの上に黒いカードを投げた。「このガットゥーゾ家のブラックカードは、校長と同じ権限を持っている。つまり、私はEVAに龍淵計画の強制停止を命じることができるということだ。EVAなしでこの計画は不可能だろう?」
「……君がガットゥーゾ家の犬になったとは思いたくないな。変態老人の最高の喜びはガットゥーゾ家とやりあうこと、そうではなかったのかね」
「言いなりになっているわけではない。私は風紀委員会の責任者だ。教授を取り調べる権利がある。それにむしろ君こそが、校長に忠実で熱心な犬ではないのかね。ガットゥーゾ家はただ私を、物事を正しく判断する人間と認めたというにすぎない。今回の龍淵計画には謎が多い。『SS』級の任務を君と校長の独断で決定し、早々に三人の優秀な血統を持つ学生を深海に送り込むなど。いつもの君らしくないではないか? 説明してほしいものだ」
「少し違うな。今回の決定に私は関与していない、校長一人の独自判断だ。私はただ、執行部の責任を負っているにすぎない」シュナイダーは言った。「リスクは確かにあるが、リスクを負わない物事など、この世にはない」
 マンシュタインがコンソールのカードスロットにブラックカードを挿入すると、ガットゥーゾ家紋が大画面に表示された。「ようこそマンシュタイン教授。ブラックカードシステム適合。現在のあなたの権限は風紀委員会責任者及びガットゥーゾ家スペシャルゲストです。EVAシステムにログインしました。ご用件は何でしょうか?」EVAの声が中央管制室に響き渡った。
「今すぐ龍淵計画を中止するか、あるいは君を支持するか、私には選ぶ権利がある。とにかく聞かせてもらおうか、君が龍淵計画を急いでいる理由を」
「君は、私の顔を見たことがあるか?」シュナイダーは聞いた。
「顔?」マンシュタインは驚いた。
 シュナイダーは酸素マスクを外し、光の中に顔を晒した。喫煙中すら酸素を吸入しており、マスクを外す時も慎重に影に隠れていた彼の素顔を、マンシュタインはその時初めて見ることになった。それはもはやホラー映画の趣味、悪夢のようにおぞましい有様だった。両目から下の血肉は完全に干乾びて枯れ、ただ一枚の乾いた薄い皮膚が直接骨に貼り付いている。唇と鼻は萎びて縮み、前歯が直接露出している。
「醜いだろう? 実は今年で三十七歳になるのだが、顔は半世紀干乾びたミイラだ。かつて学生に聞いた時には、咳の具合から大体五十台くらいのオジさんだとも推測された。だが実は、君よりも若いのだよ」シュナイダーは自嘲した。
 マンシュタインは寒気を覚えて、震えた。「いったい、どういうことだ?」
「とある任務で負った、決して消えない私への烙印だ」シュナイダーは言った。「十一年前のことだ。我々が初めて深海から心拍音を聞いたのは」
「海中で龍の胚を見つけたのは、これが初めてではなかったのか……?」マンシュタインは絶句した。
「そう。そうなのだ。十一年前、我々はグリーンランドで同じような胚を見つけた」シュナイダーは完璧に整った煙の輪を吹いた。「君も想像は既についているだろう。私が言っているのは他でもない、あのグリーンランド氷海における未解決事件のことだ。当時の潜行チームが全滅し、教育委員会は全ての資料の封印を命じて、調査は強制的に終了された。……詳しい話が聞きたければ、EVAをシャットダウンしたまえ。長話になるだろうからな。ブラックカードを持つ君ならできるだろう」
「なぜEVAを?」
「EVAが知るべきことではないからだ。いわゆるトップシークレットというものは、システムやハードディスクには保存できない。唯一の記録端末は……ここだ」シュナイダーは自分の額をトントンと指で叩いた。「この話の唯一の伝達手段は、口頭だ。メモ一枚すら残してはならない。それが学院の厳格なルールだからな。君はただ、私の言葉をなるべくたくさん覚えることに務めたまえ。忘れた時は、それまでだ」
「十一年前に起こったことを、すべて覚えていると?」
「当然だ」シュナイダーは静かに答えた。「私の人生で唯一にして最後の地獄旅行だ。忘れることなどできはしない」
 シュナイダーの言葉から、骨まで響く氷のような冷たさが滲みだした。そしてマンシュタインは漠然と感じ取った。十一年もの間、この醜くも強き男は、抑えられない怒りの火を心の中で燃やし続けていたのだと。
「EVA、シャットダウンだ。しばらく二人きりにしてくれ」マンシュタインは言った。
「了解しました。現在より十五分以内に、中央管制室はEVAの管理範囲外となります」EVAが言うと、中央管制室の全ての機器が停止し、カメラと記録機器がロックされ、ライトは一つずつ消えて行った。EVAがいなくなって監視が解除されると、この中央管制室はもはやキャンパスから独立した場所となった。高窓の外で樹の影が揺れ、古い教会の奥にいるかのようだ。
「2001年の秋の事だ……」シュナイダーはゆっくりと語り始めた。


「『太子』というIDの者がメッセージを残した。彼のタグボートがグリーンランド海深くで奇妙な青銅の破片を見つけた、というものだった。アップロードされた画像に写っていた破片には複雑な古代文字が書かれ、学院が秘密裏に収集していた『氷海銅柱表』と完全に一致していた」
「氷海銅柱表は、龍族時代から今日まで残る数少ない遺物だ。龍の立てた都市の一部、龍族の慣習として歴史の一部を刻まれ、都市の中央に立てられていた巨大な柱とされている。氷海銅柱表はその柱のただの一部分にすぎず、推測では本来の長さの三分の一といわれているが、それでも人類が今なおアクセスできる最も詳細な龍文の資料だった。しかし龍族の戦争史を記録していると言われていたが、比較する文章がなければ解読もできず、専らただの無意味な模様にしかならない。当時の私は若い助教授だった。時間さえあれば龍文の解読に熱を上げていたが、成果は限られていた。しかしグリーンランド海の深くに別の銅柱があるとなれば、新たな文章として比較し、真の歴史を解釈できるかもしれない。そこで私は『太子』に匿名で接触し、古文字研究所として破片を購入したい、と言った」
「当時は凄まじい高値が付いていたが、太子は商人ではなく研究機関に寄贈したいと言っていたからな。彼は無償で破片を我々に提供し、発見した場所の座標を教えてくれた。我々はすぐさま精鋭チームをその海域に送り、ソナーを使って海底を走査した。しかし海底で見つかったのは巨大な柱などではなく、ただ海底から響く、一つの奇怪な心拍音だけだった」
「グリーンランド氷海は日本海溝ほど深くない。ベルーガやイタチザメといった大型動物も生息している場所ゆえ、最初は龍の胚だとは思わなかった。だが数カ月間観測し続けても、海底のそれは全く位置を変えなかった。我々は柱よりもこの心拍音に注意を向けるようになった。あまりにも奇妙だったのだ。クジラやサメなら、エサを求めて狩りに移動するはずなのだ。新種の巨大ウミガメだとしても、心拍音がこれほど強くはならないはず。そこで誰かが言い出したのだ。これは龍の胚だと。龍の葬られた海底で、かつて死んだ龍が繭化し胚となり、長き時を経て再び孵化しているのだと」
「突飛な発想だったが、あまりにも奇妙な心拍音の説明として、心を動かされない者はいなかった。シークレット・パーティの発足以来、我々はただ一つの龍胚しか手に入れておらず、それも三代種以降の弱小龍族、衰弱しきった血統だった。だがこの強力な胚を手に入れられれば、それを分析してこの古代生物について更に様々なことを知る事ができる」

「それで君は潜ることに決めたのか?」マンシュタインは尋ねた。

「いいや、そこまで軽率ではない。まだその時は、全てが単なる憶測だった。明確な結論が出るまでの安全な方法は、当然、水中ロボットを遠隔操作して調査することだ。だが水中ロボットは海底に近づいたところで制御不能となり、回収したロボットは回路が不可解に焼けていた。それで海底のモノが龍の胚であることが決定的になったのだ。伝説によれば、古龍は孵化の過程で身を守るためにある種の領域を展開し、その領域に踏み入った人間に致命的な幻覚を見せるという。生物学的に言えば幻覚というのは大脳皮質が刺激されて起こるもの、つまり電流によって大脳皮質を刺激しているということになる」

「胚の領域が水中ロボットの電気回路を焼いたということか?」マンシュタインが言った。

「我々はそう理解して、人間を直接送ることは躊躇った。実際に水中ロボットの回路を焼いたのが胚の領域だとすれば、それは大脳皮質にも相当な影響を与えることになる。全員が『A』級血統である私の学生でも胚の領域に対抗できるかどうかは分からなかった。龍の作り出した幻覚の中でも、強い混血種能力を持つ者は意思を保つ事ができるが、精神的防御に少しでもヒビを入れられれば幻覚に圧し潰されてしまう。これはシークレット・パーティのアーカイブに記録されていたことだ」シュナイダーは言った。「だがその時介入してきたのが教育委員会だ。胚の孵化を待っているわけにもいかない、リスクは確かにあるが、リスクを負わない物事などこの世にはない、といってな。目標を確認する為、一刻でも早く潜るように命じられた」

「潜行を決めたのは教育委員会だったのか?」

「そうだ。今回の件では龍淵計画をやめるよう君を送り込んできたが、当時はグリーンランド計画の立案者だったのだ」
「そうして我々は圧力の中で潜行調査計画を立てた。まずはドイツから当時の最先端の全金属製の潜水鍾を購入した。金属は優秀な伝導体として静電気バリアを形成し、胚の領域の影響を弱められるとされていたのだ。さらに潜行チームは全員細かい金属メッシュで全身を覆い、神経鎮静剤を経口投与された。当時の最優秀の混血種に完全な装備をすれば、胚の領域の干渉にも抵抗できると考えられていたのだ。そして潜行チームは六人で構成され、一人が影響を受けても五人で強制的に引き戻せるようになっていた。もし胚が危険であれば殺害できるよう、潜水チームには特製の水中ライフルも与えられた。賢者の石を削って作った弾丸は、龍族にとっては致命的な武器となるはずだった」
「危険な任務を行うというのに、学生たちは皆興奮していた。無理もない。恐れを知らない若者であるどころか、龍の胚に間近で触れられる機会となれば、それはもう神の国を訪れるような感慨だったのだからな」
「潜行当日は天気も良く、チームの六人は三つの潜水鍾で降り、私は氷上でサポートをしていた。最初は全て順調だった。海流は平静なり、海洋生物たちも平静で、ベルーガを観察する余裕すらあった。だが深度170メートルに達した時、潜行チームのリーダーが突然大声で通信を叫んだのだ。『扉が見えた! 扉が見える!』と。おかしな話だった。その場所の海底までの深さは約300メートル、深度170メートルとなれば海底からは130メートルも離れている。あるいは門が海の中に浮いているのか? いや、ありえない」
「私は警戒した。既に胚の領域に入っていて、幻覚が現れ始めているのではないのかと考えた。彼らの通信チャンネルはすぐさま『扉』についての興奮に満たされた。だがそれは任務中の通信規則に反するものだ。地上でも通信で無駄口を叩くことは許されない、ましてや水中での通信は誤解を避けるため簡潔明確でなければならない。私は大声で扉に近づかないよう命じた。扉が本当に存在するかどうかも分からないが、私の直感がその扉を開けてはならないと言っていた。だが彼らは私の言葉に応えず、返って来たのは彼らの急速な呼吸音と奇怪な雑音だった。まるで深い井戸の奥で経文を読んでいるような、わずかな呟きとわずかな呼吸のみ。一方のリーダーはさらに声を掠れさせて、『扉が開いた! 扉が開いた!』と喚き散らしたか思うと、突然声を上げて『ダメだ! 行くんじゃない!』そこで大きな銃声が響いた。潜水チームが水中ライフルを発射したのか、水の音と呼吸音が混じり合った。潜水鍾から離れて何かと戦っているようだった。そこでもはや状況はカオスになった。誰かが叫んでいるようだったが、電流干渉で私には何も分からなくなった」
「潜水鍾の静電気バリアは重要な防護要素だ。潜水鍾からは絶対に離れるなと、私は再三指示したはずだった。何故彼らが私の指示に従わなかったのか。納得できる説明は私にはない。五分後に通信は途絶し、氷海深部からの信号も消えて、砕氷船から伸ばした安全索で強制的に潜水鍾を回収することになった。しかし安全索はダイビングナイフで途中から切られていたのだ。断面から見るに、潜行チームに支給したナイフだった。彼らは自分自身で安全策を切ったのだ……」
「そこで私はどうかしてしまった。彼らを助けるため、身一つでダイビングすることに決めたのだ。潜水鍾が無くとも、体力には自信があった。補助具が無くとも三百メートルくらいならなんとかなると考えた。私は一息に深度170メートル、事故が起きた水域に到達したが、扉も死体も見えなかった。水は澄み、血痕もなかったが、私は通信チャンネルではっきりと銃声を聞いた。周辺水温は零度以下に到達し、少し掻くだけで凍る過冷却海水になっていた。……突然何かを感じたのはその時だった。私の後ろを何かが泳いでいる――」
「普通であれば、このような警戒心の高い捕食者に私が気付くことはなかっただろう。だが過冷却海水が私に掻かれてすさまじい速さで結晶化し、数秒もなくして私の目の前に薄い氷の幕が張った時、私のダイビングヘルメットに反射したライトがその暗い影を、古代壁画に描かれたトーテムのように、薄氷の中に映し出したのだ! それはあまりにも優雅だった。細長い尾が海水の中でゆっくりと揺れ、音も立てずに飛ぶ蝶のようだった。低温でライトが故障し、辺りが漆黒に染まって、私はようやく理解した。龍が孵化し、私の学生たちが死んだのだと。元凶は背後のすぐ近くにいたが、どうしようもなかった。だが絶望に満ちた人間というのは格別に大胆になってしまうものだ。その時突然、私はロシア製APS水中アサルトライフルを持ち込んでいたことを思い出したのだ」
「潜水チームには特製水中ライフルが与えられたが、私にはただの通常兵器のAPSしかなく、装填弾も通常弾だった。しかしAPSがある以上、私には何もしないという選択肢はなかった。盲目にも暗闇の中に撃ちかけた時、私は強い血の匂いを嗅いだ。私は奴に一矢報いた!」

「本当にAPSで龍に一矢報いたのか? APSはあくまで対フロッグマン用の装備、サメですら殺せない程度の威力しかない」マンシュタインは言った。「ましてや深度170メートルというのは、APSの適性深度よりも遥かに深いぞ」

「分からない。だが私は確かに、酸素マスク越しに強い血の匂いを感じたのだ。私に傷はなかった。となれば、龍の血に違いないはずだ」
「私ははっきりと感じた。私の目の前に、この暗黒の中に、龍がいるのだと。はるか近く、すぐ近くにいるのに、見ることは叶わなかった」
「その瞬間、私が一息を吐くと、酸素マスクが一瞬にして粉々に砕け、龍血の混じった寒流帯の海水が私の気道へと流れ込んだ。まるで魂の奥底まで侵されていったかのように、私は意識を失った。氷海上の仲間が私の応答がないのに気づき、回収機を使って安全索で私を海中から引き上げてくれた。引き上げられた時、私は数トン規模の海氷の中で氷漬けになっていたらしい。スーパーに並ぶ冷凍鮮魚のような有様だ」
「幸いにも救援ヘリの到着に数分もかからなかった。医者に聞いたことには、私は極度の凍傷を負ったらしい。私は死神と顔を合わせて踊り、その吐き出された冷気を吸ってしまったのだ。氷点下二百度、空気もほとんど液状化する温度だ。顔の半分の細胞が壊死し、脳の温度も氷点下に達し、血液は凍結し、生存確率は千分の一とも言われていたが、ドクターたちの最大限の努力によって命は取り留めた。しかし私の気道はすっかりミイラの皮のように脆くなり、手術中にうっかり触れただけで砕けてしまったという。私はそうして常に酸素マスクを着用し、約三年ごとにプラスチック気管を交換しなければならなくなった。そうでなければ私は呼吸不全で死ぬ」
「私はかつて手巻きタバコが好きだったが、この刻みタバコは十一年前から全く減っていない。私は過去を思い出すときにこれを一本巻いて吸うのだ。気道に入ってくる煙の痛みが、より鮮明に思い出させてくれるからな。だからこそ、私が言うことはすべて真実なのだよ、マンシュタイン。私は決して忘れることなど無い。私の脳の奥底に、苦痛と共に刻まれた記憶なのだからな」
「我々は失敗した。龍を捕らえることも殺すこともできなかった。あの龍は今も生き続け、世界のどこかの深海に隠れ、再び現れる機会を伺っているのだろう。事件の数時間後、学院は潜水ロボットを使って再び当該海域を探索したが、魚一匹すらいないまったく静かな海になっていた。海底の胚や銅柱の痕跡も探したが、欠片の一つも見つからない。まるで全てが悪夢であったかのように、何もかもが消えていたのだ。……やがて数年後に海洋採掘会社がその海底に豊富なマンガンの鉱脈を見つけ、海上に採掘プラットフォームまで建造された。今では数千人の海洋採掘者が働いているという。……一度は全て終わったとも思ったよ。日本海溝の奥底で、あれと全く同じ心拍音を観測するまではな」

「話はこれで終わりだ。ここに一つの資料がある。君が興味を示しそうなものだ」シュナイダーはテーブルの下から埃っぽい文書フォルダを引き出し、マンシュタインに向かって掲げた。「教育委員会が龍淵計画を止めに誰かを送ってくるとは思っていたから、予めこの資料は用意しておいた。それが君だとは思わなかったがな。さあ、読みたまえ。『SS』赤章の封印は破ってくれて構わない。後で複製を印刷しておく」
「これをいったいどこで?」マンシュタインは顔色を変えた。「いくら執行部の責任者とはいえ、こんなものを持ち出せば教育委員会にクビにされるのではないかね?」
 学院の『SS』級秘匿ファイルといえば、EVAにバックアップを持たず全て物理的に保存されているもので、アクセスできるのは基本的に教育委員会のメンバーのみ。ファイルが保存されているのはスヴァルト・アルヴヘイム内の極秘資料庫であり、鍵を持っているのは校長と理事長だけだが、その二人ですら資料に手を伸ばすのは容易ではない。スヴァルト・アルヴヘイムといえば装備部の狂人達の巣窟。たとえ理事であろうとも、部外者に対して門戸は固く閉ざされている。
「当然、私が手に入れたものではない。装備部のうつけ者どもはこんな私なぞ見たくもないだろうからな」シュナイダーは言った。「だが、現に資料はここにある。教育委員会など全く意に介さぬ、あの人の手によって持ち出されたのだ。私が心配することなど何もない」
 シュナイダーは明瞭に暗示した。そう、校長であるアンジェは教育委員会の弾劾などまったく意に介さない。教育委員会がどんなにアンジェを弾劾したくとも、アンジェの代わりになる者は何処にもいないのだ。
 文書フォルダの表紙にはグリーンランド語で「グリーンランド島」を意味する“Kalaallit Nunaat”と記されている。学院のお偉い方にとって十一年前のグリーンランド事件は大きな衝撃だったと聞くが、マンシュタインがカッセル学院に来たのがそれより後だったということもあり、誰の口からも真実を聞いたことがなかった。この資料に全てが記されているという誘惑は、マンシュタインの心を動かすには十分なものだった。
「君が真実を知る事ができるチャンスは、後にも先にも今だけかもしれない。後悔してからでは遅いぞ」シュナイダーの言葉には含み笑いが込められている。「尤もこの資料を読んだとガットゥーゾ家に知られてしまえば、君も晴れて窓際族だ。まさに君の言う、私のような校長の犬としてね」
 マンシュタインはため息をついたが、躊躇いなく指で封を破った。一ページずつ年代順に読み込んでいくと、当事者の名前までが包み隠さずありありと記されている。彼は読めば読むほど恐ろしくなり、抑えきれない眩暈まで覚え、手を震わせた。
「あのロクデナシ共は……なんということを……!」彼の低い怒号が響き渡った。
「理解したか? 教育委員会がグリーンランド事件を絶対に再調査しないのは、そういうわけだ」シュナイダーは言った。「まさに君が読んだ通り、教育委員会は古龍の胚に近づくリスクなどは十分承知していたのだ。龍というものが胚の段階でも強い攻撃性を持っていることは、シークレット・パーティには既知の事実だった。暴力的な血統の混血種ですら母体を引き裂いて生まれてくることがあるとなれば、真の古龍となれば想像は容易だろう。だが奴らはその胚を欲する故、人の命を危険に曝し、その結果として事故が起きたのだ。そして奴らは真実を隠すため、当時の学院の役員を世界各地の支部に送り出し、役員の大半を挿げ替えた。そして校長にも妥協し、より大きな権力を校長に与えることで同意した。以前の校長は今ほど好き勝手な男ではなかったからな」
「すなわち、教育委員会に龍淵計画を止めさせる資格などない。今やろうとしているのは十一年前と全く同じなのだ。にも拘わらず、ただガットゥーゾ家の後継者が潜行チームにいるというだけであれだけ慌てふためいているというのは、他人の命はどうでも良いが身内の命だけは大事にしたい、という心の現れに他ならないだろう。彼らの倫理的感性は装備部の狂人にも劣る」
「十一年前の胚は突然孵化したそうだが、今回も同様となる可能性は……」
「当然、ある。龍の孵化過程に関して我々は何も知らない。いつ孵化するかなど、誰にも分らない」
「シーザーチームはこの事を知っているのか?」
「知ったところで恐怖の種が増えるだけだ。知る必要はない。我々はただ彼らの血統を借りているにすぎない。優秀な血統を持つ者だけが、胚の領域の干渉に抗えるのだからな」
「それでは貴様も教育委員会も何も変わらないではないか! これではシーザーチームは、いわば自分で祭壇に登る仔羊の群れだぞ! そしてこの仔羊たちを祭壇に送る羊飼いは、悪魔だ!」
「悪魔? 私の事を言っているのか?」シュナイダーは頭を上げた。
「他に誰がいるというのだ? ああ、ようやく分かったぞ! 装備部の奴らは確かに狂人だが、執行部の奴らは人間のクズだ! 装備部の奴らは人命の尊さを知らないだけだが、執行部の奴らは人命を自ずから蔑ろにするのだからな!」マンシュタインは吼えた。「それでこの最低最悪の任務を貴様は見ているだけか! こんな無責任な命令で何人の命が失われると思っている!? こんなノスタルジックに煙草を吹かして、わびしく死んだ学生を悼んでいると思えば、新世代の学生を地獄に送るつもりとは! 私が貴様の母親だったらこんなクズを産んだことを後悔するところだ!」
「君は男だ。私の母にはなれない」シュナイダーは冷ややかに言った。「君が実に羨ましいよ、マンシュタイン。君やグデーリアンみたいな者は『きれいな』世界に暮らしている。私や校長のような『罪噬い』と違ってな」
「つみぐい?」
「罪を噬(く)らった者達のことだ。人の世において、道理がおしなべて正義であるとは限らない。正義が常に道理であるとも限らない。そうだな……一つ有名な詭弁を問おうか。……とある線路の分岐点があるとする。片方の本線には立入禁止の表示があるが、もう片方の廃線には何もない。今、汽車が通ろうと分岐点に差し掛かっているが、汽車の通る本線の上には立入禁止を無視して遊ぶ百人の子供がいて、もう片方の廃線にはルールを守って遊ぶ一人の子供がいる。君が分岐器で列車の行先を決められるとすれば、線路を切り替えるか否か? 切り替えなければ百人の子供が犠牲になるが、その子供たちは言う事を聞かない悪い子たちだ。切り替えれば一人の子供の犠牲で済むが、その子供は言う事を聞いた良い子だ」シュナイダーはマンシュタインの目をまっすぐに見つめた。「親愛なるマンシュタイン教授、君なら線路を切り替えるかな?」
 マンシュタインは唖然とした。答えられるような問題などではない、ひどい詭弁だ。従順か、生命か、どちらが大事かだと? もし切り替えなければ百人の子供の父母にどういう顔をすればいい? 悪い子だから死んで当然だとでも? だが切り替えるとしても、たった一人の良い子を見殺しにできるだろうか? 何も悪いことをしていない、ともすれば他の子供達に注意までしていたかもしれない子を……そんな無辜な子を死なせるというのか?
「フッ、判断が遅いな、マンシュタイン。君がそうこう考えているうちに、既に百人の子供は轢死している」シュナイダーは淡々と言った。「君は選ばなかった。ただすべてが起こるのを見ているだけだった」
「……君は選べるとでも?」マンシュタインはおぼろげに聞いた。
「私は線路を切り替える。一人の子供を殺し、百人の子供を救う。罪噬いである私は『正しい』ことをするが、それは悪なのだ。善良無辜の他者を守るため、私は己の悪を食らう」
「それは詭弁だろう!」マンシュタインは言った。
「言われるまでもない。君が友でなければ、こんな話すらしなかった」シュナイダーは首を振った。「私はシーザーチームを危険な任務に送り込んだ。だが、これこそが唯一にして最後の手段なのだ。極淵にある胚を孵化するまで放っておくことなど、我々にはできない。手を打つのは早いほど良い。たとえ彼らに自覚がなかろうともな。待つことはただの躊躇であり、躊躇とはただ相手に時間を与えるだけ、というのは校長の言葉だ。もしシーザーチームが海の藻屑と化すようならば、私は甘んじてこの罪を喰らおう」
「君は……少なくともソ・シハンの事は考えなかったのか? 彼にはだいぶ入れ込んでいたではないか」
「ソ・シハン、ロ・メイヒ、あるいはシーザー・ガットゥーゾ……彼らは執行部として見做す限りでは、ちょうど……異なる武器のようなものだ。我々は常に気にかけて、武器をよい状態にする。しかし剣を抜かないのならば、武器はその価値を失う……。ソ・シハンの大臼歯に埋め込んだ送信機を覚えているか?」シュナイダーが自分の携帯電話をマンシュタインに向けて掲げると、画面には日本地図が表示され、赤い点が一つだけ規則正しく点滅していた。
 マンシュタインは頷いた。
「カッセル学院に入学させたその時から、私は随時彼の行動を監視している。彼が血統のコントロールを失い暴走するようなら、私は躊躇いなく危険リストに加え、執行者の抹殺対象とする。悪魔が動かす執行部、構成員は人間のクズ……なるほど君の言う通りだ。我々は感情ではなく、共通の目標によってのみ手を携える。だがシークレット・パーティというのは、元々そういう組織なのだよ。我々の敵はかくも強大な龍族。脆弱な感情を持っていては死に至る他無い」
「龍殺しの為に誰かを犠牲にするというのなら、何故君は自分自身で潜水艦に乗らないのだ?」
 シュナイダーは頭を上げてマンシュタインを一瞥した。そして傍から白磁器の皿を取り、それを自分とマンシュタインの間に置き、銀のナイフとフォークを添えた。その瞬間、彼は突然ディナーナイフを掴んで逆手に自身の心臓を突き刺した。柄の部分を強く叩き、ナイフ全体を深々と刺していく。

 シュナイダーは一言も発さず、ただマンシュタインの目を見つめながら、静かにタバコを吸った。まるで胸の貫通傷など存在しないかのような振る舞いに、マンシュタインは唖然とするほかなかった。一分後にシュナイダーが傷口からナイフを引き抜くとき、既に傷口は直り始め、ナイフは筋肉にギチギチと嵌まり込んでいた。痛みは全く感じていないようだった。
「君はもう……汚されているのか……!」マンシュタインは呟いた。
 シュナイダーは恐ろしい血の色に染まったナイフを皿の上に置いた。「そうだ。私は既に、古龍の血に汚されている」傷から出る血は直ぐに止まり、皮も肉も見る間に治っていった。
「十万分の一の確率で、古龍の血に触れても安全に進化を遂げることができるという。私はそんな幸運な人間だった。私があの海底から生き延びたのは、龍血を吸い込んだ瞬間に能力が覚醒してくれたからに他ならない。だが、私の身は龍血を受けるに値するものではなかった。私の身体はボロボロになった。十一年間、私は己の中で繰り返される破壊と強化のこの苦痛に耐えてきた。学院中で堕武者に成り下がる可能性が最も高いのはソ・シハンではなく、私なのだ。潜るのが怖いわけではない、私の身体が持たないのだ。君の目の前に座っているのはただの危篤の病人……いや、私は既に死んでいるのだ。龍血の侵蝕を受けた時に、既にな」
「校長は知っているのか?」
「知っている。学院は私の為に様々な医療案を出してくれる。毎年ごっそり血を替えてくれるが、龍血を完全に清める事はできないようだ。私に残された時間があとどれ程かも分からない」シュナイダーは自分の心臓にあたる胸を撫でた。「私の心臓血管の傍にはペースメーカーサイズの小型爆弾が埋め込まれ、血統のコントロールを失った瞬間に爆発するようになっている。まあ、起こるのはほんの小さな爆発だ。人の手を煩わせることもない」
「自分に対しても残酷なのだな、君は」マンシュタインは唸った。
「他人に残酷になるためには、先ず己に残酷であることを学ばなければならない。さもなければただの臆病者だ」シュナイダーはゆっくりと語った。「人は言う。グリーンランド事件で六人の学生を失って後、私は幽霊のようになってしまったと。二度と執行部の任務に就くことなく、細々と研究をしているのだと。地獄から助かった命なのだから大切にすべきだと彼らは言う。しかし私は今でも執行部部長だ。なぜか? 私はグリーンランドチームの最後の一人だ。若者が花盛りの命を散らしたというのに、私だけが生き残っているのだ。臆病者のままでは、彼らに笑われてしまう」
「シーザーチームがグリーンランドチームの二の舞になるとは思わないのか? 君は一体何人学生を目の前で死なせられるというのだ!?」マンシュタインは聞いた。
「これは人類と龍類の戦場なのだ。戦場において、無駄な慈悲は人を殺すだけだ。眼前で戦友が倒れようと、狼狽え悲しむ暇などない。ましてや武器を捨てて身を竦めるなどもっての外。できることはただ叫び、更に前へ前へと進むだけだ。その足元の一歩一歩が目の前に倒れた戦友の命の成果なのだ。足を止めることは、彼らの命を無駄にすることだ。二人目が倒れようと、叫び歩み……三人倒れようと叫び歩み……歩み始めればもはや退路はない。全滅か、殲滅か、それだけだ。だが臆病者には、全滅の未来しかないのだ」
 マンシュタインはシュナイダーの猛々しく輝く目を見つめ、長らく沈黙した。「友よ、君はますます校長に似てきているな。まるで校長が目の前で吼えているみたいだ。『私は獅子心会最後の一人だ、私が戦う限り、獅子心会は終わらない!』などとな」
「校長はそう言ったのか?」シュナイダーは眉をひそめた。
「いや、そう聞いたわけではない。ただ私が似たものを感じただけだ。ハンブルク港の事故の後、第一世代の獅子心会は全滅し、校長だけが生き残ったからな。校長の心を今まで支えてきたのは怨恨なのだろう? 今でこそお騒がせ老人だが、その心はいついかなる時でも牙を磨いでいる、いわば手負いの虎。龍族を滅する為なら手段を選ばず、枷になるのなら教育委員会だろうと足蹴にするのは想像がつく。まったく、ますます人間味を失ってしまって、君達はまるで龍だな」
「どういう意味だ?」シュナイダーは冷たく尋ねた。
「忍耐、執着、残酷、強靭……どれも人間の美徳というよりは、龍の天賦とでもいうべきものだ。龍とは生まれながらの完全な戦士。しかし人間は本質的に弱く、恐れ、躊躇い、諦めてしまう生物だ。君や校長はそんな人間の欠点を許せず、冷酷非情な龍であらんと己に強いているようだが……人は、力を持てば持つ程孤独になるのだよ。そう、まさしく龍のようにな」
「悪魔と戦うためには、先ず己が悪魔にならなければ」
「だがそれで勝ってどうなる? それは君の勝利ではない、悪魔の勝利だ」マンシュタインは言った。

「君は君の話を聞かせてくれたが、私の話を聞いてはくれないかね?」
「シーザーチームが私の指示を待っているのだが」
「すぐに終わる。何も難しい謎や陰謀の話ではない、私のステキな父親の話だ」
「……副校長が君の父親などとは、君に言われなければ思いもしなかったな」
「うむ。親子として全く共通点が無いからな。今でも一緒に写真を撮るのは気が乗らない。私は既に老い始めているというのに、奴は花柄のハンカチをカウボーイのように首に巻いたりしている……」マンシュタインはため息交じりに話し始めた。「実を言えば、私と奴に通じる心などなければ、親子としての絆らしい絆もない。幼い頃に私と母を捨てた奴は、ずっとカウボーイのまま……どちらかといえば奴の方が雄牛だが。どこに行っても未経産牛を抱きたいと思っているからな。奴が一体何人の女性に手を付けているのかは知らないが、私の母は間違いなく奴の最愛の人ではなかった。私が生まれたのも単に避妊に失敗した結果でしかない。奴に直接会ったのもこの学院に来てから……いや、会ったとは言えないかもしれないな。父を名乗って一杯酒をやろうと言ってきた男に酒瓶を投げつけただけだ」
「彼は父親の責任を果たしていないと?」シュナイダーは尋ねた。
「実際に親子だと分かったのは、これだ」マンシュタインは襟元から使い古した金色の十字架を引っ張り出した。「母の形見だ。片時も外したことはない……。学院の教授赴任の歓迎会の席のことだ。突然あの男が私の肩に手を置き、十字架を見て言ったのだ。『あレ、これはあのデカオッパイのマーサのアークセサッリーかいィ?』と。私の母の名を何故知っているのかと聞けば、『お前のオフクロ? コリャコリャなんという偶然! 私とマーサがフレンズだった時に他にボーイフレンドがいなけりゃ、君は私の息子ということか! いやぁ、こんな形で会えるなんてな! さあ飲め飲め! ファーザーに会えて嬉しいだろ、ン?』……」
「……よくその面にグラスを投げつけなかったものだな」シュナイダーは言った。
「そうだな。それで私は子供時代を思い出したのだ。母の運転する1963年式の中古ステーションワゴンに乗り、定住する場も無くあちこち回っていた頃だ。私を養う為、母は男に虐げられながら銭を稼いでいた。決まった家の無い私は友人もおらず、地元の不良に虐められてばかり、路地裏で小便を掛けられたりもされた。父さんに叱って欲しい、とは何度も思ったが、いつも疲れて帰ってきて眠るだけの母には言えなかった。にもかかわらず、そんな時副校長はどこかの雌牛の床で別の汁をまき散らす側だったなどと……。私は三十年も……三十年も待っていたんだ、初めて会った父親がなんて声を掛けてくれるのかと、ずっと……だがあのアホが言ったのは何だ? こんなシチュエーションで飲めだ飲めだなどと……!」マンシュタインは言った。「それでも酒を吹っ掛けただけに留めたが、結局校長に引き離されて、歓迎会の笑いの種となってしまったな」
「就任当日に副校長に酒を吹っ掛けてしまって、これ以上ここにはいられないと思った。仮に恨まれていないとしても、奴と向き合うのは私が嫌だった。だが次の日、校長に辞表を出そうと思っていたら、玄関先に謎のダンボールが一つ置かれていたのだ。中身は各種ゲーム機にゲームディスク、ラジコンやら小型自転車やら、『スキャリーおじさん』の絵本シリーズ一式まであり、手紙まで添えられていた。『親愛なる息子よ、父親の愛情を注げなくて申し訳なかった、全て私のせいだ。謝罪として、今まで送るべきだった全ての誕生日プレゼントを今すべて送ろう。お幸せに、親愛なる父より』。裏には小さな文字で『今度はカワイイ娘を連れてお祝いに上がろう』などと添えられていた。そこで私も理解したのだ。あの男はわざわざ私の為に、シカゴのトイザらスまでおもちゃ箱を買いに行ったのだとな」
「それは……意外だ」シュナイダーは呟いた。
 マンシュタインが突然こんなことを言い始めた理由は分からなかったが、淫乱副校長の私事には興味があった。副校長はある意味で一番謎な男だ。カッセル学院の者で彼の事をまともに知っているのは、恐らく校長のアンジェだけだろう。
「校長が辞表を戻して再考を求めてきた後、誰かが私の部屋の扉を叩いた。出てみればあの男が両手にウィスキーのボトルを持って、今年の新入生の美しい女学生に腕を回し、高らかに私の胸を叩いて『我が愛する息子だ! ほら、よく似ているだろう!』だとか言いながら、バースデーハットのつもりか知らないが黄色い紙コップを頭に乗せてきて、女学生と私とで写真を撮らされた。『さあ、今夜こそ真の十八歳の誕生日だ! 成人式と言えば!? 太ももがエッチな女の子だ! さあもう一度“愛の一発”でカンペキだ!』……。私は奴の手から酒瓶を奪い、中身をその頭にぶちまけた」
「ああ……」シュナイダーは唸った。凄まじいばかりの痴態に、シュナイダーは感情を表す言葉を見つけられなかった。
「それでも奴は諦めなかった。女を食うこと以外に時間を使いたくないと言って憚らない奴も、私に関しては多少制御心があったようだ。時々朝の食堂に両面オムレツが余っているのをシェフに聞くと、副校長が厨房を視察した時に私の為に焼いたのだとか聞く。教育委員会に『若手教員のマンシュタインは実に優秀だ、今すぐ助教授から准教授にランクアップだ』などとメールを送ったりまでして……しかも教育委員会は私が奴の息子だと知って、むしろその意見を承認したのだ。あの変態は教育委員会には手に余る存在だが、錬金術名人としては有用だからな。息子を昇進させて収まりがつくのなら容易い事と踏んだのだろう。匿名の誰かが寮の費用を払ってくれていると知った時も、財務部に電話して聞けば、副校長が勝手に払ったうえで私には口止めさせていたことが分かった」
「口止めされているのに財務部から聞いたのか?」
「変態オヤジの実際の依頼はこんなことだろう。『親愛なる我が息子に聞かれたら言っておくれ。副校長が全部払っておいてあげたとな。モチロン表向きにはナイショだ』」
「なるほどな」
「またある時は、私を水泳部の顧問に誘ってきたこともあった。ビキニを着た女学生たちがステキだとか言ってな。だが想像してほしい。加齢臭くさい父親が後ろに座って、興奮しながら女学生を指してこんなことを言ってくるのを。『見ろォ! あの豊満な胸と尻のボイン! わが息子よ、どうせ追うならいい女を追え! いい女というのは、あんな感じの女のことだ!』」
「私の父が教えてくれた良い女性というのは、温順善良な人のことだったが……」シュナイダーは言った。
「変態オヤジの頭の中では、千万の愛より四ポンドの胸の方が価値があるらしい」マンシュタインは言った。「こんな恩着せがましい態度で私の受けてきた苦しみを埋め合わせられるなど、奴は本気で思っていたのだろうか? 私は奇行であの精神病院に……グデーリアンと出会ったあの場所に押し込められたのだ。その時母は重病を患っていて、会いに来る人など誰もいなかった。見舞い人がいないと分かれば、看護師は私やグデーリアンを虐待してきた。少し食事を多めによそっただけで殴ったり蹴ったり、それが毎日だ。私は奴を恨んだ。絶対に許さないと誓った。もし私と母を捨てたあの男に会ったのなら、ムエタイキックを股間に叩き込んでやると決心した」
「ンン……」シュナイダーは唸った。
「だがある日、あの変態オヤジは私に長文の手紙を寄越してきた」マンシュタインは言った。「『我が息子よ、こんなことでお前の過去は取り戻せないことは分かっている。だが一つだけ聞いてほしい。何故私がお前やお前の母を捨てたのか。それは、私がお前の母を全く愛していなかったからだ。かつての私は女遊びばかりの日々だった。お前の母が孕んだのは、私の望んだことではなかった……』」
「それで……君は怒ったのか?」シュナイダーは唖然とした。
「奴は全てを語った。かつてどこにいて、どんなケダモノだったのか。引っ掛けた女性達すべてと、彼女達にしたありとあらゆる無義無情の所業、そして好意を寄せてきたとある女性が飛び降りて、血まみれに四散してもいささかも心が動かなかったこと……。奴はこう言っていた。『私は常に恐れていた。自分は人間ではないのではないか……』」マンシュタインは言った。「『人混みを歩くと羊の群れの中を歩く狼の気分になる。この血統はあらゆる人間を征服できる。ルールなど守らなくていい。この星に居るのは仔羊だけ、私こそ唯一の狼なのだ、いくら羊を食い漁っても構わない、いくら好き勝手をしても咎められない。……だからこそ、私は女を愛せない。どれだけキレイでエッチな女だとしても、私が食うのはただの羊にすぎない……』」
「だが奴は自分の息子がいると分かって、何かが変わったようだった。私の喜怒を察し、気にかけてきて、何かしら尽くそうとしてくる。おそらく奴が理解したのは、父親にとって強さが全てではないこと、息子の為なら這いつくばってお馬さんごっこでもするべきなのだ、ということ……。手紙の最後はこうだ。『私は生まれて初めて、何かに縛られた気になったよ。ルールではない。息子に縛られているんだ。ハゲ頭の息子たった一人だが、私も普通の人間のように家族を持っていると分かった瞬間、長年の恐怖が一瞬で消え失せ、喜びすらあふれてきた』……」
「……縛られて、満足なのか?」長らく沈黙した後、シュナイダーは言った。

「グリーンランド事件の後、君は何年も学生を取らなかった。だが最近になってソ・シハンを取ったのは……」マンシュタインは聞いた。「彼の血統が優れているからか?」
「違う。彼が頑固すぎたのだ」シュナイダーはソ・シハンの、雨の中で輝く孤独なゴールデンアイを思い出した。「私は拒めなかった」
「頑固? どういう意味だ?」
「彼は学院がオファーしたのではなく、自分から学院に辿り着いた珍しい混血種だ。私が彼に出会ったのはシカゴだったが、まだ諸々の疑念を掃えなかった私は、とある人気のない鉄道橋の下でインタビューをすることにした。疑わしい行動には即座に対応できるよう、コートにベレッタ拳銃を隠してな。あの日は大雨だったか、あの少年は鉄道信号の下、ハンドバッグ一つを抱えて現れた。彼も私に気付いたようだったが、近づく様子もなく、そのまま通りを隔ててしばらく見つめ合った。一匹狼同士の出会いのようなものだ。不用意に近づいて匂いを嗅ぎ合うのではなく、安全な距離から互いを見計らっていた。鉄道信号が三度変わっても、互いに言葉はなかった。彼の目は頑固で、孤独だった。そして彼が私を求めていることも分かった。何年も探し求めて遂に会えたというのに、私が手を差し出さなければ一歩も踏み出せない、そんな少年だった」シュナイダーは小さな溜息をついた。「結局、私は彼に手を伸ばした。彼の目に背を向けることなど、私にはできなかった。殺すか、招くか、それしかないと思った」
「それで、その時君は何を学院に引き入れたのかね? 一本の剣か? それとも一人の少年か?」
 シュナイダーは長らく沈黙した。「……何を聞くのだ、君は? 徹底して人間を完全な武器と見做すことなどそうそうできはしないだろう? 彼らに普通の人生を歩んでほしいと思うことは、無論、私にもある。しかし……我々は戦場で出会ったのだ。私が教えられるのは、武器の使い方だけだ」

「ふん、君は自分で言うほど冷酷非情な人間ではないさ。中央管制室でこうやってタバコを吹かしているのは、不安だからなのだろう?」マンシュタインは言った。「君は躊躇っている。彼らの安全をずっと気にかけている。なのに何故こうも事を急ぐのかね? シュナイダー、本当のことを話せ。私は教育委員会よりも君を信じたいのだ。君は人間のクズだが、教育委員会のふんぞり返ったデブネコ共よりはよっぽどまともだ」
「太子……『太子』だ」長い沈黙ののち、シュナイダーが言った。
「太子?」
「グリーンランド事件の後、『太子』というIDの者はインターネットから完全に姿を消した。優秀なハンターと知られていたが、誰もその後は知らなかった。彼の送ってきたあの青銅片と座標は、実は我々をグリーンランド氷海におびき寄せて胚を見つけさせるための餌だったのではないかと学院は見ているのだが……少し前、その『太子』のIDが復活し、ネット上に『レーニン号』という船に関連するKGBの秘密文書の一部を公開したのだ。KGBはかつてシベリア北部に未知の生物や超自然的な力の研究所を建てたが、その研究所はソ連崩壊前夜に突然爆破されたという。そして爆破される直前に付近海域で科学調査任務を行っていたレーニン号は、研究所から何か重要なものを持ち去った可能性がある。その後、この船は北方艦隊の監視から逃れるようにして日本へと向かった」シュナイダーは言った。「学院がレーニン号を探していたのは、この情報のせいだ」
「餌と分かっていて、それでも食いつきに行くのか?」
「それが龍の胚である限り、孵化することを許してはならない。我々に躊躇する時間などないのだ。時間が立てば孵化する確率も高くなる。奴に自我が芽生えてからでは、潜行チームはグリーンランドチームの二の舞になってしまう。グリーンランドでは捕獲は出来なかったが、孵化を邪魔することは出来た。恐らく今も成体になってはいない。今の世界のどこかで人知れず繭を張っているはずだ。太子がやろうとしているのは恐らく、古龍の胚の孵化場を見つけた上で、我々を誘き寄せて胚を掃除させることなのだろう。我々が払う代償は高い。命を危険に曝すことにもなるが、これもシークレット・パーティの使命なのだ。太子の投げた餌と分かっていても、我々は食いつかなければならない。十一年前は遅すぎたのだろう。観測を続けていた数か月の間に、胚は自我を持ち、殻を破り幼龍となるだけの時間を与えてしまった。早く、もっと早く決断していれば、グリーンランドチームも間に合ったかもしれなかった」
「太子に何か利益があるのか?」
「恐らく、彼に利益は無い。矢面に出ることはないが、ある程度の意味で彼は隠れた味方と言っていいだろう」シュナイダーは言った。「だからこそ我々に待つことは許されない。最善の手として、校長は自ら装備部に最高レベルの技術支援を命じ、装備部に劣らない技術力を持つ岩流研究所にも現場支援をさせている。装備部が言うには、胚は孵化すれば海底から離れる可能性が高いという。そこで私が用意したのがこの早期警戒システムだ」
 シュナイダーが大スクリーンの電源を入れると、画面の中央に印象的な進行度バーが表示され、複雑な計算式が下から上に流れていった。「グリーンランドの胚の心拍信号を分析したものだ。孵化が進めば、胚の心拍強度と頻度は明らかに変わってくる。この結果に基づき、私は心拍信号を監視し胚の孵化率を計算するプログラムを開発した。現在の孵化率は32%、グリーンレベル……安全段階だ。だが胚が警戒すれば、強制的に孵化が加速する可能性もある。もし孵化率が大幅に上昇するようなことがあれば、モニアス号に安全鈎でトリエステ号を海から引き上げさせる」
「君が作ったのか?」
「装備部の狂人共には任せられないからな」シュナイダーは言った。「奴らは自分の技術を証明できるような仕事しかしない」

 マンシュタインはカードスロットからブラックカードを引き出し、シュナイダーの目の前に差し出した。「胚を攻撃する前に、シーザーチームの安全を最大限に確保するように。それだけ約束してくれれば……龍淵計画を見逃し、その上ブラックカードでEVAの権限を100%使えるようにしてやろう」
「君がここに来たのは、教育委員会の指示だろう。龍淵計画が止まらなければ、君も同罪だぞ?」シュナイダーは言った。
「私も罪を呑み込もう。君が私をただの一般人としか見ていないことは分かった。確かに私は弱い。財務会計や学生紀律のような些事しか処理できない。血統も言霊も平凡で、あの変態オヤジとは比べ物にもならない。だが……君が罪を噬うというのなら、私はその罪を呑み込む」マンシュタインは手を差し出した。
「フッ……最初から君は、ここに私の裏話を聞きに来たのだろうな」シュナイダーはマンシュタインの目をじっと見つめた。「理由を聞きに来ただけで、合理的な説明がされれば教育委員会の命令になど従う気も無かったか」
「私が知りたかったのは、君が若者の命をどう思っているかだ。君の決断は無謀でも無責任でもなく、最善を尽くした結果だと理解できた――」マンシュタインはため息をついた。「他に道が無いというのなら、私のような一般人も代償を払わないわけにはいくまい……」
「取引成立だな」

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