『龍族Ⅲ 黒月の刻』「前編 氷海の玉座」第三章:零号


 この世界の片隅には、きっとあなたの為に生まれた人がいる。希望を失って崖縁に立っていたとしても、少しの間さえ踏みとどまれば、その人は風や稲妻のように現れるかもしれない。たとえその人が神に千年の間封じられていた悪魔だったとしても、その馬の背に乗れば、あなたはどこにでもゆけるようになる。


 レナータは廊下を歩きながら、あそび唄を歌った。所々剥がれ落ちた壁面の塗装を照らすのは、鬼火のようにジージーという音を立てながら数十メートルごとに点く白熱電球だけ。その光の届く範囲はあまりにも狭く、廊下の向こうまで白と黒の領域が交互に連なっている。

 それでも、レナータには生まれつき慣れっこだったから、怖いという感覚を持つことはなかった。白綿のネグリジェに身を包み、大事な小熊のぬいぐるみを抱いている。小熊は砕氷船の乗務員がモスクワから運んできたものを、誕生日プレゼントとして博士からもらったものだ。砕氷船が一年に一度しか来ないブラックスワン港において、それはとても豪華なプレゼントだった。レナータは小熊をゾロと名付けた。「ゾロ」は、レナータが読んだ本に出てきた仮面の騎士だ。その名を聞けばあらゆる悪党が震えあがるあの騎士。レナータは夜ごとにゾロを抱きしめて、闇に潜んでレナータを襲う化け物から守ってくれると信じていた。

 廊下の右側には厚い壁、左側には小さな部屋が38部屋あり、鉄の扉には1から38までの数字が白いペンキで書かれている。一部屋にひとり、全部で38人の子供がここにいる。レナータは38番、最後の番号だった。

 レナータは鉄の扉についた小さな窓から中を覗いた。小さなベッドで寝ている男の子はヤコフだ。レナータははがれた壁の破片を拾って、窓から投げ入れた。破片がヤコフの顔に当たると、彼はぱっと目を開けた。暗闇の中で金色に光る瞳で部屋をゆっくりと見渡し、危険が無いことを確認したヤコフは再び目を閉じて眠り始めた。まるで、トカゲのような反応だった。トカゲは眠っているときに周りの雰囲気が変わると感じると、すぐには目覚めず、神経系の一部だけを働かせて周辺を確認し、問題が無ければ睡眠を続ける。

 レナータは彼が目を醒まさないだろうことを知っていた。そもそも、それが面白くて破片を投げ入れたのだった。暇でしかたがなかった。看護師たちがレナータのそんな悪戯に気付くことはない。

 「手術」を受けた子供たちは、みんなヤコフのようになる。いったん眠りにつくと、看護師達が拍手を打つまで目を覚ますことがない。

 「手術」を受けた子供は夜中に起きる必要がない。けれどもレナータは手術を受けていなかったので、時々ベッドからトイレに立たなければならなかった。看護師はその度に「紙人形」の扉を開けるのを面倒がり、かといって濡らされたベッドを掃除するのも嫌がったので、レナータの扉には鍵を掛けずに自分で行かせるようにしていた。もちろん、看護師長はレナータがふらふら歩きまわるのを許さず、すぐに戻らない時には厳しく「教育」された。

 レナータは盗賊のように狡猾だった。看護師の行動パターンはすぐさま把握した。真夜中過ぎになれば看護師たちは見回りをやめて、事務室でカードゲームにいそしむようになる。そうなればこの階全体がレナータの庭になった。思うままになんでもした。領地を周遊する小さな女王のように床を踏みしめ、置物の向きを弄ったり、部屋で眠っている子供たちと遊ぶために壁の破片を投げ入れたりした。そして暖房管の放出口の前に座っては、暖かい空気で髪をはためかせたりもするのだ。

 レナータはこの機会に階全体をくまなく探索したものの、あの黒い大蛇の痕跡を見つけることはできなかった。
 黒い大蛇があらわれたあの瞬間は、まだレナータの脳裏にはっきりと刻まれている。今晩、レナータは「おいた」をして隔離室に入れられていた。初めてあの陰鬱な隔離室に閉じ込められたレナータは、冷たい鉄の扉を叩きながら「ママ」と何度も叫んだ。看護師はそれに対して、泣くだけ泣いてさっさと寝ろ、と大声で怒鳴り返したのだった。レナータはわんわん泣き続け、世界のどこかの誰かに助けを求め続けた。夜遅くになってようやく泣き止んだけれども、レナータの元に足を運んだ人間はひとりもいなかった。

 月明かりが小さな窓から輝いて、薄く白い綿の寝巻を照らす。透き通るように細い脚は、冷たい床の上にうつろな影を作らせた。

 その夜、レナータは真理を知った。存在も知らぬ誰かに助けを求める者、それは世界の全てに見放された者なのだと。

 レナータは、孤独の中で、死というものの影を感じ取った。

 そのときだった。建物全体が激しく揺れ、無数の金属が軋む音と共に、金色の目がともし火のごとく輝かせた、黒い大河のような巨大な影が廊下を滑っていった。黒い大蛇は嵐のようにあらわれ、まとった青紫色の電流がその鉄のような鱗から立ち上り、鉄の扉を打ち続けている。喜ぶかのようにカタカタと鉄鱗を打ち鳴らした大蛇は、隔離室を覗き込んでレナータを一瞥した後、巨大な尾を振るって鉄扉を叩き抜いた。

 扉がひしめきながら開くと、大蛇は去っていった。レナータはその巨大な背を見つめながら駆け出した。

 私を救うために……あれが?

「――この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出ていき、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い……」レナータは聞いた。億万の悪魔が四面八方で唱っているかのような声を。

 廊下の奥に辿り着いたレナータは暗闇のなかでしゃがみ込み、顔を覆って大声で叫んだ。恐怖ではなく、歓喜によって。世界には、私を救ってくれる存在がいる。私の声を聞いてくれる存在がいる。私はこの世界に、一人ではない――。

「この世界の片隅には、きっとあなたの為に生まれた人がいる。希望を失って崖縁に立っていたとしても、少しの間さえ踏みとどまれば、その人は風や稲妻のように現れるかもしれない。たとえその人が神に千年の間封じられていた悪魔だったとしても、その馬の背に乗れば、あなたはどこにでもゆけるようになる……」

 レナータは立ち上がった。そしてさらに進んでいくと、一つの鉄の扉が見えてきた。扉には「0」と大きく、赤く、書かれている。

 0号室……。
 この階には小さな部屋が39室あるが、番号が付けられているのはレナータの38号室までで、0号室はいわば予備室だった。レナータの知っているここの孤児は38人しかいなかった。もし0号室に誰かが住んでいるのなら、彼はレナータと遊んだことも、食堂で一緒に食事をしたことも、日が沈んだ後に革命的映画を一緒に見たこともないということになる。だから0号室は空室のはずだった。中を覗き込んだ好奇心旺盛な子供は、0号室は拷問室のような監禁部屋だと言っていた。0号室から二人の子供が喧嘩する声を聞いたという子供もいる。つまるところ、0号室は謎の部屋ということになっており、看護師たちは子供たちに「0号室には人を食べる怪物がいる」と言って脅かしたものだった。

 中国の風水にしたがえば、廊下奥の端部屋は汚れたものすべてが集まる場所であり、恐ろしいものが生み出される場でもある。レナータにそんな感覚があるはずもなかったが、レナータは0号室をどこか無意識に避けていた。ほかのあらゆる場所は探索し尽くしたにもかかわらず。

 わずかに灯ったガス灯が、鉄扉の前にぶら下がっている。風はないものの、炎は揺れていた。

 突然、奇妙な感覚がレナータの心に浮かび上がってきた。あの黒い大蛇は0号室に隠れていたのだろうか? 今日のレナータの心はどうにも変だった。以前はどうとも思っていなかった0号室が、今は神秘に満ちた魅力的な場所のように思える。レナータは無意識に「進入禁止」の看板を越えていた。ガス灯はレナータの頭上で揺れ、影の向きを変えた。鉄の扉は錆び切っており、大きな南京錠と鉄鎖で閉じられていた。レナータは大きな南京錠にそっと触れた。中を見る心の準備はできていなかった。どうせ開けられないのだから。
 しかしその瞬間、南京錠が「ぱっ」と開き、真っ直ぐに落ちた。重い南京錠が落ちれば、その音を聞きつけた看護師がレナータを捕まえに来るに違いない。レナータは咄嗟に南京錠を捕まえた。

 こうしてレナータは0号室の扉をあけることになった。部屋の中は真っ暗で明かりが無く、何かが腐ったようなにおいだけが漂っている。ゆったりとはためく白いシーツには、所々に黒い染みがついている。外で照っているスポットライトの光が木製の窓枠の隙間から見える。左手には鉄の棚がずらりと並んでいて、ガラス製の薬瓶で満たされている。右手には干からびた黄色の斑点でおおわれた鋳鉄製の外科用ベッド。レナータはシーツの染みが血だと察した。手術室?それなら血が付いているのも当然だとも思えたが、手術室というよりはむしろ食肉工場のように思えて、レナータは肩をわなわな震わせた。
 その時、かすかな呼吸音が聞こえた。光の届かない暗闇の隅にベッドのようなものがあり、その上におぼろげな人影があった。白い寝巻を何十本もの太いベルトが締め付けている。こういった拘束着じみた装いは扱いに困った子供に対して看護師がよくさせるもので、レナータも一度経験したことがある。ベルトを締めれば、繭に包まれた蛹のように横たわること以外なにもできなくなる。首をひねることもできず、死よりむごいとさえ思える。拘束着を着るくらいなら隔離室に閉じ込められる方がまだましだった。

 0号室に子供が監禁されているなど、聞いたことが無かった。ともすれば、彼は一体どれだけの間拘束着を身につけているのだろう?どんなに不機嫌な子供でも、数時間つけていれば仔羊のように従順になってしまうものなのに。
 レナータは歩み寄った。隅にあるのはベッドではなく、鋳鉄製のリクライニングチェアだった。人がひとり寝るのに最低限の幅を残し、拘束着を留めるための穴が上下に大量に開けられている。レナータはこの子供に少しずつ同情を覚えていた。ベッドの上に放り出されているだけの隔離室と違って、この子供は鎖に繋がれ、冷たい鋳鉄製の椅子の上で身体を捻る事すらできないのだ。
 しかし、その子供は健やかに眠っていた。

 男の子だった。顔を見たことはなかった。鉄線のマスクをされているが、それ以外の特徴から判断するに、アジア系のようだった。レナータは静かに彼を見つめ、呼吸が規則正しいのを見て安堵した。静かに眠っている彼を見ていると、0号室がそれほど惨相ではないようにも思えてくる。薬や血の匂いの感覚は薄れていった。壁に投げかけられたスポットライトの光が満月のように輝いていた。
 「かわいそう」レナータは呟いた。
 彼を解放させられるようなものをレナータは持っていなかった。けれども、その唇がひび割れているのを見て、レナータは水道のところにいって水を手ですくい、少年の口に注いだ。水が少しずつ浸透して、少年の唇がわずかに明るい色を取り戻していくと、レナータはちょっとした幸福感に満たされた。
 ゾロを抱えて部屋から出ようとした時、背後から誰かの声がした。
「レナータ、そう急ぐ必要はないよ」


「普通の子供には見えないな」ボンダレフは言った。
「我々は彼に脳梁離断術を行った」博士は言った。「左脳と右脳をつなぐ神経を切断するこの手術は、てんかん患者の治療に使われているものだ。ふたつの半脳はそれぞれ独自に働いている」
「彼になにか副作用は?例えば、認知症のような」
「認知症ではないが、人格分裂が起こったよ。考えてみたまえ。同じ人間の脳が左右で情報交換することなく別々に働いているとなれば、身体に二つの自我があるように思えて、どちらが本当の自分なのか分からなくなってしまうのだよ。人間の右脳と左脳はそれぞれ別の役割を持っている。左脳は欲求、右脳は理性だ。左脳は全裸の女性を妄想する一方で、右脳は紳士であれと諭す。ふつうの人の両脳の働きは互いに混ざり合って一体となるが、脳梁離断術を受けた患者は、『道徳的自我』と『欲望的自我』に分裂してしまうことがある」
「『良い子』と『悪い子』が別々に現れるとでも?」
「そうだ。我々のこの措置は、主に子供たちの能力を制限する為に使われている」
「能力……いったいどんな?」
「完全遺伝子によってもたらされる超能力だよ。ここの子供たちはみな、龍族の遺伝子の断片を持っている。幻覚剤を投与し、潜在能力をすこし刺激してやった」博士は子供の髪を優しくなでた。狩人が最愛の猟犬を愛撫するかように。「彼らが目覚めるのは単なる力ではない。神の力なのだ」

「さあ、奇跡を見たまえ!」博士はゆっくりと子供から離れていった。「彼から半径5メートル以内に近づいてはいけないよ。君の命が保証できないからね」
 ボンダレフが警戒すると、筋肉が制服の下で硬くなった。厳しい訓練を経た兵士である彼は、狼の首を素手で外すことができた。それほどであれば弱そうに見えるこの子供を恐れる必要はないとも思えるが、今や超自然的なるものに触れてしまったボンダレフにとっては、あらゆることに対して身構えるに越したことはなかった。博士が再び黒い拍子木を叩くと、子供の目に光が宿り、虹彩が黄金に輝き始めた。そして冷血動物が獲物を捉えるかのように、ゆっくりと頭をボンダレフに向けた。
「その目力で私を殺すつもりか?」ボンダレフは言った。

「さあ、彼を少し脅かしてやってみてくれ」博士はマカロフ拳銃をボンダレフに投げ渡した。
 ボンダレフは指を振り、すぐにしゃがみ込み、一般的な射撃体勢をとって銃口を子供に向けた。握った銃は重く、弾が装填されていることがわかる。その時、子供の目の輝きが突然強くなり、ボンダレフはその目から暴力的な殺意を読み取った。子供が奇妙な唸り声を発すると、周囲の空気が波立ったように感じた。ほんの数秒経って、ボンダレフは空気がゲルのように粘度を増しているのを理解した。動きにくいことこの上ないだけでなく、気道にまで流れ込んできたこの空気ゲルは接着剤のよう、あるいは怪物の柔らかく長い舌のようにも思える。肺に降りてくるのも時間の問題だった。人の肺がそんなもので満たされてしまえば、その末路はひとつしかない。

 ボンダレフは思わず引き金を引いた。銃口から飛び出した弾丸は、肉眼で見える速度でゲル状の空気中を回転している。空気は弾丸の速度を落とし続けたが、その凄まじい運動エネルギーをすべて奪い去ることはできず、頭蓋骨を貫通するに十分な威力を持って子供の眼球へと正確に向かっていった。ボンダレフはKGBで「撃たない」ことと「殺さない」ことの訓練を受けていた。それ以外の結果は存在しないのだ。
 子供の瞳孔が溶鉄のごとき色に変わると、放つ力が増幅され、銃弾は子供の目の前、一インチの所で空気に完全に閉じ込められて、回転がゆっくりと止まった。なんたる不可思議な能力か!ボンダレフの脳裏には絶望の二文字がちらつき、もう一発銃弾を撃つ気力もなく、ただ死を覚悟することしかできなかった。
 

 その時、拘束された少年が目を覚ました。虚ろな目はしかし敏捷に動き、まるで水面が瞳孔の奥深くで波打っているような奇妙な感じを思わせた。少年はレナータをじっと見て、静かに微笑んだ。
「私を知っているの?」レナータはおどろいた。
「知っているさ、いろんなことを。君は有名だからね」少年は舌をべっと出した。

 少年の顔は鉄のマスクで覆われ、表情ははっきりしていなかったけれども、その生気溢れる目はレナータに言葉以上の多くを語った。親密な視線、あるいは何かを訴えかけるような目を。
「あなたの名前は?」レナータは見知らぬ人と話をしたことがなかったので、しどろもどろになりながら聞いた。
「俺?俺にはまだ名前が無いんだ。もし俺を呼びたければ、0号室に住んでる……0号と呼べばいいさ」
 看護師はふつう、子供たちを番号で呼ぶ。例えばレナータは「38号」、アンドンは「16号」。

「こんばんは、0号さん。私はレナータ、38号」レナータは言った。
「何をさがしているんだい?」0号は言った。
レナータはとまどった。「……友達を探しに」
黒い大蛇のことを0号に話すのは気が引けた。そんなバカげた話を信じてくれるとは思えなかったから。
「友達を探しているんだね。……俺じゃだめかな?」0号は目を細めた。「きっと、親友になれると思うんだ」
 0号はレナータの言葉の意味を勘違いしたらしい。あるいはその孤独からか、わざと間違った解釈をしたのかもしれない。
 レナータはしばらく黙っていた後、無邪気にうなずいた。
 実際には、友達として受け入れる気持ちにはなっていなかった。数分前に会ったばかりの少年をそう呼ぶには気が引けた。レナータにとって「友達」とは、長い間付き合いのある、あえて呼び出さなくても常に傍にいてくれる人の事だった。それでも0号の言葉を肯定したのは、拒否するだけの勇気がなかったからだ。0号は狡猾だった。レナータの目をじっと見つめ、哀れみと慈しみを引き出したのだ。

 ある年、赤ちゃんのアザラシが港に迷い込んできたことがあった。お腹を空かせたその赤ちゃんは、レナータの足もとを這いまわって、今の0号と同じような目をして泣きながら見上げてきた。レナータが手を伸ばしてその頭に触れようとした時、主任看護師がシャベルを振り下ろし、赤ちゃんアザラシを逆さ吊りにして持って行ってしまった。その晩の夕食には濃厚なアザラシスープが振る舞われたが、レナータは一滴も飲む気になれなかった。自分の部屋に戻った後、レナータはゾロを抱いて静かに泣いた。
 0号の目は、まさしくその小さなアザラシのようだった。
 拘束着をまとった「小さなアザラシ」は小悪魔のように笑った。「仲の良い親友となるには、なにか特別な儀式があるはずだよね?」

 なんて馴れ馴れしい男子だろう……。レナータは、良い友達は互いにプレゼントを贈るものだということを知っていた。たとえば、モスクワに住む仲の良い二人、ペトロフとパンツェフは、貝殻の鈴をパンツェフが贈ったことで友達になった。けれども、レナータが0号にプレゼントできるものはなにもなかった。この孤児院では、全ての物資は配給で賄われるから、私物といえるものはなにもない。あるとすれば、腕の中のゾロだけ。ゾロがいなくなったら、レナータは夜眠ることができなくなってしまう。だからレナータは無意識にゾロを抱きしめ、「親友」を得るためにゾロを0号に捧げることになるのを恐れた。

「まあ、たぶん、君にプレゼントになるものは何もないだろうね」恐らく、0号はレナータの意図を察したのだろう。「じゃあ、お互いに秘密を一つずつ共有しよう。親友はお互いの秘密を知っているものだよね」
「まずは俺から話そう」0号は言った。「俺は、精神障碍者なんだ」

 レナータは0号をぼんやりと見つめた。
「本当だよ。頭の中で二人、善人と悪人が話し合うんだ」0号は声を静め、目を伏せた。「『万物を揺るがす雷鳴よ、肥えし大地を平定せよ!恵みを忘れた愚かな人間の種を一つ残らず地上に残すな!』ってさ。それでもう一人も言うんだ。『慈悲無き心は獣だ!蛮人だ!悪魔だ!』と言えばもう一人が、『あらゆる悪を罰するのは、悪の中の悪のみだ!』って言って、それに対してもう一人が『全ての悪は、ただ赦す心を忘れているだけだ!』って。彼らが一日中頭の中で大騒ぎするせいで、俺は頭がおかしくなった。だから看護師たちは俺をここに繋いでくれた」

「ひどい話」レナータはうつむいた。
 レナータには、0号の頭の中の小人達が何を話しているのかは理解できなかったけれども、毎日のように説教じみた怒鳴り声を耳元に囁かれるのはたまらないだろうと同情した。後にレナータが何冊か本を読んで知ったことだが、この0号の中の小人達は、シェイクスピアの『リア王』や『ヘンリ8世』の台詞を言っていたのだった。0号の頭の中が本当に一日中こんな言葉で騒がしいのだったら、17世紀のグローブ座に一日中いるようなものだろう。
「まあ、ここにいる奴は、みんな頭がおかしいけどな」0号は笑った。
「私は頭おかしくない!」レナータは不機嫌になった。「もうそういう話は聞きたくないわ」
「まあ、ちょっと観察すれば俺がイカレてるなんてわかるから、秘密でもなんでもないな、これは……」しばらく0号は考えた。「……もう一つ。俺の好きな女の子は、コルキナだ」
 レナータはどう反応すればいいのかわからず、凍り付くしかなかった。たしかに、孤児院で一番可愛い女の子は21号、コルキナだ。レナータよりも頭一つ背が高く、薄いブロンドの髪の三つ編みもレナータより長い、一歳年上のちょっとした姉のような存在だった。白いローブの下の起伏を持った身体が印象的で、鎖骨はくっきりと浮かび上がっている。眉毛はちょっとした王女のような風格を漂わせている。

「どうしてコルキナが好きなの?」レナータは尋ねた。
「きれいで長い脚さ。男はみんな、きれいで長い脚が好きなんだ」0号ははきはきと答えた。
「あなたはまだ子供なのに、男だから?」
「俺はこれから男になるんだ!」
レナータはうつむいた。「わかった。あなたの秘密は誰も言わない」
「君はどう?君にはどんな秘密があるんだい?」
「秘密なんて……ない……」レナータは恥ずかしそうに言った。
「ありえない」0号はちょっとした怒気を交えた。「人間だれしも秘密を持ってる。そして、親友なら、秘密を教えてくれるはずだ」

 レナータは長考した。「絶対に誰にも言わないでね……。私、時々……夜にベッドを濡らすの……」
レナータは頭を下げ、顔を赤くした。誰にも身体衛生に関する教育をされてこなかったレナータは、おねしょは一般に避けるべきものではなく、吃音と同じような単なる生理的個性の一つだと思っていた。しかし今日はなぜか言葉が上手く出てこず、顔が火傷しそうなくらいに熱くなっていた。
「子供の頃からずっとそうなのかい?」0号はとても興味を惹かれたようだった。
「まさか!」レナータはすぐに反応した。「最近始まったばっかり!」
「……君は何歳だい?」
「13歳だけど」
「そうか。おめでとう。君にも性徴がきたんだ」0号は微笑んだ。
「性徴?」レナータはこの言葉を聞いたことが無かった。
「子供から大人になることだよ。子供の時には秘められていた性が、十代になると、すこしずつ解放されていくんだ。身体の機能が成熟して、例えば君は胸が大きくなる」0号は微笑んで言った。「あるいは初潮が訪れる」
 0号は至極真剣に、皮肉や嘲笑もなく、長老が幼子に自然の法則を諭すような、ある種の祝福を込めるように言った。

「下半身から血が出るんだ。その後も毎月、数日にわたって血が出る」0号は言った。「性徴が始まって君の精神がすこし不安定になっているから、最近ベッドを濡らすようになっただけだ。初潮が来れば治まるから大丈夫だ。これはいいことなんだよ、そう、いいことなんだ」
 精神病と自認する男子が、他人の精神障碍を説明するというのだろうか?
「あなたは経験したことがあるの?その……」レナータは尋ねた。
「俺は男だから。月経があるのは女だけだ」
「面倒なことにならない?貧血を起こしたりしない?」
「少しは面倒かもしれないけど……」0号は考えるそぶりを見せた。「……でも、もっといいこともある。君はコルキナのように美しくなれるし、ホルモンの影響を受けた男子も君に夢中になって、幸せになれるんだ。そうやって仲を深めた男子と女子がすることも、俺は知ってるよ……」
「男子と女子がすることって?」
 0号は目を丸めた。「その時が来れば分かるさ。女の子は花のようにいつだって咲き誇れるんだから。もしその時、君がきれいなドレスを着てくれていれば、コルキナと同じくらい君を好きになれるかもしれない」
「別に好きになってもらいたいわけでもないし!」レナータは怒った。

「さて、君は秘密を明かしてくれた。さあ、手を握っておくれ。俺たちは友達だ」0号はその無邪気で質素な、アザラシのように取り繕った表情でレナータを見た。こういった表情をするのが、彼にとっての自然体なのだ。
 レナータはそんな目の訴えを斥けられず、鉄椅子につながれた0号の手を握った。

この時はじめてレナータは気付いた。その指は血の付いた傷跡だらけで、手首は枝のように細く、拘束ベルトの深い跡が残っていることに。レナータはその傷を撫でて、何とも言えない物悲しさを覚えた。彼はそうなのだ。彼は毎日毎晩ここで寝たきり、遊ぶ物も人もなく、それどこか全世界の誰も彼の存在を、彼の境遇を知る由が無い。人の人たる名前すらない。存在意義は、採血され、薬物を注射されるだけ。それでも彼は微笑んでいる。

それでもレナータにとって、彼はただの実験体0号ではない。零号。

 零号の手に、静かな涙がひとつ、滴った。

「どうして泣くんだい」零号は濡れた指を曲げて言った。
 レナータは顔を拭った。「……驚かせた?」
「俺にとってはこれが普通なんだ。何を泣くことがあるんだい」零号はどうしても理由を聞きたいらしい。
 レナータは黙りこくった。零号の心情を気にかけたからとか、今まで誰にも必要とされてこなかったからだとか、そういった恥ずかしくなるような同情は言いたくなかった。周りの子供の誰が減ったり増えたりしても、みんなその状況を黙って受け入れ、この平穏な港の日々の中で少しずつ忘れ去っていくのに。

「教えてくれないか」零号は再び訪ねた。
「私、思ったんだ」レナータは穏やかに言った。「悲しいって」
「なるほど!」零号が笑い、仮面の奥で歯が輝いた。
「なんでそんなに私に聞きたいの?」レナータは不満げに言った。
「それも聞いてみたいくらいさ」零号は視線を引いて、天井を見つめた。「俺は泣いている人を見たことがないんだ……小さい頃から、泣いていたのは自分だけだったし、自分が泣いている姿も見たことがない。鏡すらなかったから……。……誰かが泣いてくれるっていうことは、人間だっていう証拠なんだ。そうでなければ、物となんにも変わらない」零号はそっと言った。

 その言葉の節々からも、彼の孤独を感じ取ることがレナータにはできた。この孤独は港を取り囲む永久凍土帯の氷河のように冷たく大きい。吹雪の山は年を経るごとに大きくなり、溶けることもなく、その鋭さを延々と増し続けるだけ……しかし孤独の重さが限界を超えてしまった時、それは崩壊して、破滅的な雪崩となって世界を呑み込んでしまう。
 レナータは手を伸ばして零号の額にそっと触れた。零号は小動物のように静かに目を閉じた。親に抱かれるかのように、暖かな肌の触れ合いだけが必要な時が、人にはある。
「黒い蛇を見たことはない?」レナータはささやいた。「大きなの」
 零号は目を開き、静かに微笑んだ。「もちろん!俺のペットだよ」


 ボンダレフの顔は青紫色に染まり、血管が浮かび上がっていた。重度の低酸素症の症状だった。心臓はまだ健気にも全身に酸素を送ろうと鼓動していたが、すべて無駄だった。どんなに心臓が動いても、肺が糊に満たされていては命をつなぐことはできない。
 そのとき、博士が拍子木を叩くと、子供がてんかん患者のように激しく震えた。その音は何らかの制御装置の役割を果たし、唸り声も止まった。ボンダレフは再び気体の空気を吸えるようになり、その冷気は甘いとすら感じられた。数歩よろめいたあと、激しく咳き込んだ。
「アンドンの能力は、一定の領域内の空気を糊状にすることだ。一体どんな物理的原理かは不明だが、驚くべき力は君が身をもって体験したとおりだ。高速弾の運動エネルギーを空気でまったく奪ってしまうことすらできる」

 いわば、博士による単なるデモンストレーションだったのだろうが、ボンダレフにとっては地獄の巡礼のようにも思えた。まだ完全には気体になっていない空気の中で、ボンダレフは透明な影が領域の横を通り過ぎていくのに気が付いた。ほんの数瞬の出来事だが、KGBで鍛え上げられたボンダレフの視覚はそれが人影だとはっきりと認識した。透明人間!姿自体を捉えることはできなかったが、奴はアンドンが展開した空気ゲル空間に存在した。アンドンの能力によって粘度を増した空気が、その輪郭をとらえていたのだ!

「侵入者だ!」ボンダレフは叫んだ。
 ボンダレフはすぐに赤外線暗視ゴーグルを装着したが、工業用エレベーターにぼやけた影が見えるだけだった。一見するだけでは無人のエレベーターが上昇しはじめた。博士も反応し、ボンダレフと共に飛び出して氷の上をエレベーターの所まで滑り、二人揃って発砲した。弾丸はエレベーター下部の金属板に当たり、火花を散らして跳弾した。
「無駄だ。チタンアルミ合金の防弾板だ」博士は言った。
「畜生め、どこから入ったんだ?」
「おそらく、君と一緒に来たんだろう」博士は言った。「君が通ってきたトンネルは廃墟になっていたから、我々が研究するにあたっては、龍の巣と港の地下研究室を繋げる新しい通路を掘った。最先端の赤外線警報システムが導入されている通路をね。先人の通路にはそんなものはない。二つのトラップドアで十分なはずだったのだが、君が解除してしまった」

 ボンダレフは激しく震えた。トンネルの中では赤外線暗視ゴーグルを装着し、追跡がないように辺りを注意しながら進んできたつもりだったが、人など影も形もなかった。本当に一緒に来たというのなら、奴は常にボンダレフの影のように背後にぴったりとくっ付いてきたということになる。何度も振り返り、エレベーターに乗った時にも辺りを警戒したが、赤外線が捉えることはなかった。何たる隠密行動力!奴にその気があったなら、ボンダレフはとっくにエレベーターの中で喉を掻き切られていた……!

 上の方で耳を震わせる爆発が聞こえた。侵入者がレーザー地雷を爆発させたに違いない。
「小さな地雷ですが、装甲車の履帯を破壊するだけの威力があります。閉所ならそれ以上にも」ボンダレフは言った。
 博士は頷いた。KGBのエリートに相応しい、「往く道残さず」という信条に感心したのだ。

 数分後、二人は銃を携えて、煙が充満したトンネルに突入した。全てのレーザー地雷が爆発したようで、十字に巡らされた威力は象をも粉砕するもののはずだが、血も死体も見つからず、赤外線の視野は空のトンネルを映すだけだった。侵入者はレーザー地雷を爆発させたにもかかわらず、そのまま逃げおおせたというのか。
「人間ではなさそうだ」博士は言った。
「港に潜んでいた混血種が、今日という時を見かねて侵入したということでは……!博士、直ちに港を封鎖してください。ここの無線監視は万全でしょうから通信は使えない、港さえ封鎖すれば奴は逃げられない、情報が漏れることもありません!」
 博士は頷き、リモコンを一つ取り出して赤いボタンを押した。けたたましい警報が鳴り始め、警告灯の赤色が氷原を血の色に染めると、サーチライトがまばゆいばかりの白い光線を吐き出し、港全体が巨獣のように目を覚ました。


 警報のベルにレナータが怯えていると、廊下からガラガラという音がした。鉄柵が小部屋の扉と窓に下ろされる音だった。セキュリティシステムがこの階全体をブロックし、出入り口は施錠され、暗号キーを入力しなければ出入りできなくなってしまった。レナータは0号室に閉じ込められたのだ。2階からたくさんの激しい足音が聞こえたのは、看護師たちがワインやカードを放り出してオフィスから駆けだした音だ。彼らは異常を確かめに必ずここにもやってくるから、数分もすればレナータが0号室に忍び込んだこともばれるだろう。その後に待ち受ける様々な出来事を想像して、レナータは涙を抑えるのに必死になった。

「怖がることなんてない。俺が君を助けるよ。俺たちは親友だから」零号は笑った。
「どうしたらいいの?」レナータは尋ねた。
 レナータは何も分からなかった。零号は拘束着を着て、鋳鉄製のリクライニングチェアに縛られているから、指一本動かすのも難しい様に見える。それでも零号の目には説得力があった。冗談ではなく、真剣に笑っていた。この自称精神障碍者の訴えには、真実と信じられるだけの迫力があった。
「ちょっとした対価は必要だけどね」

「そんなの」レナータはすぐに頷いた。自分の部屋にすぐに戻れさえすれば、レナータはどんな対価を払っても構わないと思っていた。
「じゃあ、俺のそばに来て」零号が言うと、レナータはその椅子まで歩いて行った。
「バンドを外しておくれ」零号はまた言った。
 レナータは馬鹿正直ではなかったから、警戒して身を引こうとした。もし零号に危険がないのなら、看護師たちは拘束着を着せたり閉じ込めたりしなかっただろう。このバンドを一つ外せば彼の手首は自由になる。レナータは親友かもしれないこの子供を解放してどうなるかもわからなかった。もしかしたら、このバンドが締め付けているのはとてつもない悪魔かもしれないのだ。

「さて、俺は怎君を幇けようか?」零号が微笑んだ。しかし、一言一句、古ゆかしい威厳を纏い始めながら。「女人、汝王座を見て、何ぞ跪拝せずか!」
彼の瞳孔は深く暗い金色に変わり、その光は部屋全体に注がれていた。その息づかいは神が雲の玉座から語るような荒い鼻息を伴っている。レナータは一度見ただけでその目から視線を外すことが出来なくなり、冷たい水の中で溺れつつ洗礼を受けているような気分になった。ただ零号だけが沈まないように支えてくれていて、その威厳は父兄のようだ。レナータは椅子の横で膝をつき、零号の拘束バンドを恙なく外した。

「従順な子は好きだ」零号の声は冷たく、感傷もないようだった。
 零号は硬くなっていた手首を鳴らす様に動かすと、レナータの肩を掴み、その小柄な体を持ち上げ、膝の上に組み敷いて寝巻を引き裂いた。発達途上の子供の小さな身体は羊乳のような白さで、触るのは冒涜的とも思えるものだったが、零号はそれを激しくねじり、締め付け、いたるところに紫色の痣と手形を残した。レナータには、零号が凶変したということ以外は何が起こっているのか全く分からなかった。ほんの数瞬前まで親友とまで思える関係だったのに、今やレナータを喰いちぎろうとするケダモノと化している。あの目は獲物を捕らえる罠だったのだろうか?

 零号がレナータへの攻撃を止めたかと思うと、手首を椅子の側面に強くこすりつけた。繋がったままのバンドが擦り切れ、手首の皮膚も擦り切れた。そしてレナータの身体をキャンバスにしてトーテムを描くかのように、小さな胸に血を擦り付け始めた。警報の赤色灯がレナータの皮膚に投げかけられると、血で覆われた真っ白な体は不気味なまばゆさを漂わせながら危険で魅力的な赤色に染まった。

 これがいわゆる「強姦」?言葉自体は知っていたけれども、レナータの世界からは遠く離れた大人だけが関わる概念だと思っていた。マスクを引き剥がして捨てた零号がレナータの唇を強く噛むと血が流れた。レナータは零号が強姦したいのか捕食したいのか、どちらかもわからなかった。レナータの恐怖は限界を越え、叫び声となって発現した。

「0号を抑えろ!」耳をつんざくばかりの看護師の咆哮が轟いた。
 看護師長が電気棒を0号の口の中に突っ込んだ後、体格の良い看護師がレナータを0号から引き離した。他の何人かの看護師は0号を椅子に押し付けたが、0号は拘束着に赤い血をばらまきながら抵抗し、唸り声をあげた。
「鎮静剤!鎮静剤を大量にぶちこめ!」看護師長は叫んだ。
 一人の看護師が足を上げ、軍用靴で手首を抑え込み、高圧空気針を0号の腕に刺し込んだ。高圧空気が鎮静剤を自動的に押し込んでいくと、その効果はすぐに現れてきた。0号の抵抗はみるみる弱くなっていき、三十分経った後、0号は死体のように落ち着いて、虚ろな目で天井を見ていた。

 看護師長はレナータを殴った。「こうなったのは貴様のせいだ!貴様のような愚図なガキは悪魔にでも喰われてしまえ!」
 レナータは目に光無く呆けたままで、恐怖から立ち直っていなかった。
「こちらにも鎮静剤を打ちましょうか?気狂いにレイプされるのはさぞ怖かったでしょう」一人の看護師が言った。
看護師長はレナータの血にまみれた体を苦い顔をしながら見た。「こいつ、レイプされたかったんじゃないか?ガキもそろそろ女らしくなって、男を貪りたくなる年頃だもんな!やられて当然だ!被害者ぶってるだけのクソガキはほっとけ!」
「博士が来ます!」別の看護師が駆け寄って言った。「他の子供たちはみんな自分の部屋に居ます」
「0号を拘束し、38号を部屋に入れて鍵を掛けろ。全ての部屋に見張りを付けて、動き回らせないように。この階は完全封鎖する」看護師長が白衣を脱ぎ、軍服のスカートをはたいて伸ばした。「私が博士に報告する」四十代の女老兵は腰をくねらせ、ヒールをカツカツと鳴らしながらその場を後にした。
 レナータは、残された看護師が太い鉄の鎖で0号の手足を固定し、ペンチで固く絞めるのをただ見ていた。看護師はレナータをほとんど裸のまま部屋に帰らせた。0号室を出る瞬間、レナータは背中に不意な暖かみを感じ、誰かが見送る視線を向けているような気がした。レナータが無意識のうちに振り返ると、零号がまばたきをしていた。レナータだけがそれを見ていた。零号の目はまだ生気があり、あの狡い目をしていた。

 零号の唇が、「おやすみなさい」とだけ動いた。

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