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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第八章:進撃のネズミ隊

 ちょっとした息苦しさを感じるような、空気いっぱいに不安が弥漫しているような場所だ。シーザーは両手にデザートイーグルを構えて前を進み、何か危険なモノが無いか全神経を尖らせ、ソ・シハンは長刀を構えて殿を務め、ロ・メイヒがその二人の間に入り、三人は白い蛍光灯の傍を一本ずつ通り抜けていく。そこはまるで不思議な秘密研究所か、あるいは無限に続く迷宮のようで……最奥に巨大人型兵器か何かでも隠されていそうな場所だった。

「Go! Go! Go! 少年達よ走れ! 我らの美しきゲスト達は、君達の救いを求めているぞ!」ザトウクジラが化粧室の外で高らかに叫び、化粧を終えたホスト達が出たり入ったりした。
「はいはいぃ!」ロ・メイヒがズボンを引っ掴んでトイレから飛び出した。
「Sakura、トイレでおサボりしてたのかい?」ザトウクジラはロ・メイヒの肩を脱臼しそうなほど激しく叩いた。「人手はいつも足りない。早くゲスト達にお酒をお出しするんだ」
「ハイハイ! 今すぐ行きます!」ロ・メイヒは陸上選手のようなフォームでホールに向かって走りながら、ズボンのベルトを締めた。
「香水に酔い! ゲストを倦まさず! 君の心を見せて! 男の花道を駆けろ、駿馬の如く!」ザトウクジラは腕を振って咆えた。

 夜8時から10時までは高天原の最もハードな時間帯だ。舞台上ではホスト達が演じる『アントニーとクレオパトラ』のような古代ロマン劇やソ・シハンの刀術演舞が行われ、舞台下のゲスト達は酒に完全に酔い潰れながら、懇意にするホスト達を呼んで酒を注がせたりしている。店門の前を水のように流れていく車の列はそれぞれ三人から五人くらいの女性グループを吐き出し、ホスト達は別の場所で夕食をとり終えてから舞踏パーティーに参加しにきたそのゲスト達をそれぞれ出迎えていく。人手不足があらゆる場所に見え、ホストやウェイターはせわしなく走り回り、ザトウクジラがサーカス団長のように化粧室の外でやかましく急き立てている。
 こんな時、ロ・メイヒはいつも自分がザトウクジラ印のサーカス・オランウータンだと思えてならなかった。火の輪を飛び潜るベンガルタイガーや白羽をつけた黒い駿馬たちが準備している間、自分たちのような者が出て一輪車に乗ってみせたりして、観客が待ちくたびれないように間を持たせるのだ。
「右京! 右京!」遠くから女性の声が聞こえた。「早く来てー!! でなきゃここから飛び降りちゃうわ! 天国でしか会えなくても、愛してくれる!?」
(飛ぶとか言ったって、ここは一階だぞ)ロ・メイヒは心の中で愚痴った。

彼が眩い光の中に飛び込むと、息を整える暇もないうちに藤原勘助レベルの太った女が彼に飛びつき、ソファの上に圧し込んだ。「右京、どこいってたん!? あの心の欠片も無いクソ男みたいに自分を無視するとか、ないやろ!?」
「タ……タスケ……」ロ・メイヒはソファの隙間から必死に顔を出した。
 するとソファの傍にもう一つ、山のように屈強な姿が現れ、元大相撲力士の藤原勘助が自分よりも重いその女性を軽々と持ち上げて脇に置いてしまった。ロ・メイヒは圧迫と窒息のダブル攻撃を受けて朦朧とする目を丸くしながらソファに揺られた。デブ女はようやく自分の人違いに気付いたらしく、胸元とスカートを引っ張って、本命以外の男に気取られたくない、なんて様子を見せた。感情を溜めた彼女は、再び叫び始めた。「右京は神様がくれた宝物なんや! 自分はいばらの鳥、心は彼の刃先にあるんや!」
 酒の力を借りて狂人を装う、一番厄介な類のゲストだ。彼女が騒ぎ続ければ他のゲストの邪魔になるが、ソ・シハンは「刺身武士道」の演目を終えたばかりで魚臭い身体を洗わなければならず、それ故ザトウクジラはロ・メイヒをトイレから呼び出したのだ。彼もソ・シハンも同じ黒髪黒目の中国人で、ソ・シハンが間に合わないにしてもロ・メイヒが居れば多少はマシになると思われたのだ。
「彼は新人のSakuraですよ。右京が着替え中なので、ボスが先にSakuraとお酒をと」藤原勘助という先輩ホスト、大いなる友愛を持つ男は、後輩をデブ女から救う為に声を上げた。
「自分らはわざわざお金を払ってここにいるんで? 人が足りないからってウェイターに接待させるなんてどーいうことなんねんな!?」デブ女はロ・メイヒを見やり、再びああだこうだ言い始めた。「それともあんた、関西人だからて見下しとるんか!?」
 ロ・メイヒはソファの端に縮こまって座るだけだった。先輩がこの女を刃先に付けるとして、200キロのいばらの鳥なんて、先輩はともかく刀が耐えられないんじゃないか?
 デブ女はワニ革バーキンバッグを開け、現金の山をどっさりと出してテーブルの上に並べ、脂肪ダルダルの肩を揺らしながらそれを叩いた。「高天原は最高の場所だって聞いたわ! 私には最高の場所と最高の男が相応しいんわ! 金が要るならいくらでもくれたる、早く右京を呼べや! こんなショボくらい男なんて要らんわ!」彼女はうなだれたロ・メイヒを指差していった。
 藤原勘助は眉を上げただけで現金には触らず、ただ恭しい表情を浮かべた。「そうですね、右京を呼んでもらいましょう。さぁさ、座って一杯」
「Sakura、怯えてないで。ゲストにお酒を」彼はロ・メイヒに手を伸ばして立たせ、デブ女の後ろに彼を回し、シャンパンのボトルを渡し、肩を軽く叩いた。
 ロ・メイヒが急いでデブ女の空のグラスをシャンパンで満すと、デブ女は頷いて満足を見せた。「そうそう、ウェイターはウェイターの仕事をしてればええねん。格好だけキレイだろうが、自分と酒を飲む資格なんてないんわ」
 ロ・メイヒは感激を込めた視線で藤原勘助を見つめ、その場を何とかしてくれたことに感謝した。藤原勘助は何も言わず振り返り、自分の常連客の所へ急いで行った。
 
 デブ女とその友人たちは関西弁の語彙とアクセントで話しており、ロ・メイヒの日本語力では3、4割程度しか分からなかったが、大概橘右京は風華絶代の美男子だとか、なんて運命の出会いなの、見つめ合った瞬間恋に落ちた、声もなく心を奪われてしまった、だとか言っているのは分かった。この後彼女の所に右京が来れば取り巻きが二人を祝福することになるが、かといって彼女を羨む必要はない。彼女がソ・シハンに出会ったのはほんの昨日、ソ・シハンは武士風の服を着て、刀を持って彼女に会った。今まで自分にボディプレスでも掛けてくるようなゲストには会ったことも無かった顔面麻痺キラーは圧倒されてしまい、刀を持つ手指をわずかに白ばませたのだが、それがデブ女の理解では出会った瞬間恋の火花を散らしたものだとなってしまったのだ。
 確かに火花は散った。剣聖・宮本武蔵がかつて佐々木小次郎と巌流島で決闘を行ったように、相対する目の間に火花が散り……そして、宮本武蔵は小次郎を斬り捨てた……。

 全身銀色のスーツを纏ったソ・シハンが遂に舞台裏から疾走してきた。
「シャンパン! シャンパンよ! 右京に乾杯!」デブ女の興奮が爆発した。
 彼女はウェイターのトレイに現金を投げ入れ、シャンパンの栓の音が王室の礼砲の如く鳴り響き、黄金色の酒液がシャンパングラスに注がれ、デブ女とその友人たちは乾杯して歓声を上げた。
「今夜の右京はBasara King以上だぞ! このシャンパンで120本目だ!」ウェイターが酒を届けに来た時、ロ・メイヒの耳元で囁いた。「Basara Kingも随分頑張ってるみたいだけど、右京と張り合ってるのかな?」
 二人が張り合うなんて当然じゃないか? ロ・メイヒは心の中で言った。デザートイーグルやUziサブマシンガンで血みどろの殺し合いまでした二人なら、ホストクラブでのパフォーマンスの張り合いなどちょっとした痴話喧嘩程度だろうと思えた。
 ふと見ると、遠くないデッキの上でBasara Kingがトップレスでゲストとダイスを振っている。賭けに負けた人はグラス一杯の烈酒を飲むか、服を脱ぐかという遊びらしい。シーザーのアルコール耐久力を以ってすれば見敵全殺とでも行けるはずだが、今夜の客はスカートにストッキング、上着を二枚重ねと相当な準備をしてきているようで、シーザーは嵌められたような厳しい状況に陥っていた。
「ボス、それ大丈夫なの!?」ロ・メイヒは中国語でシーザーに向かって叫んだ。
「まだだ!」シーザーは自分の膝の上に倒れ込んでいた中年女を押し退けた。「見ろ、俺の足元に跪いた死屍累々を!」
 一方ソ・シハンは冷静沈着に、酒に溺れることも無かった。デブ女やその友人たちは彼に左右から擦り寄り、遂にソ・シハンが焦りの表情を見せた時、女たちが狂ったように肩を捻った。殴って欲しいとでも言わんばかりだった。

「Sakura! セットチェンジを手伝ってくれ! バックヤードも忙しすぎる!」舞台監督が横から両手を振って叫んだ。
「Sakura! ゲスト用の氷桶を取ってきてくれ!」酒を運ぶウェイターが急き立てるように言った。「こっちは注文で手一杯だ!」
「Sakura! 床の割れたグラスを片付けて……」また誰かが呼んだ。
ロ・メイヒが慌ただしくあっちこっちへと走り回るうちに、舞台上のパフォーマンスが終わってカクテルパーティとディスコの時間となり、スリムなシルエットやセクシーなカーブが光に照らされ、夢幻迷離の世界を映した。ロ・メイヒは人々の中を駆けまわりながら、迷い犬のような気分になった。

高天原に入ってから一週間。彼はホスト見習いからウェイターになった。
 ザトウクジラが彼の面倒を見なかったわけではない。彼はロ・メイヒにどんな才能があるか聞いたのだが、ロ・メイヒは半日ほど口を噤んでから、「スター・クラフト……オンラインゲームの腕なら自信が……」……聞いた瞬間、ザトウクジラは血反吐でも吐きそうになってしまった。才能が無いのならセクシーで売るしかないと考えた彼は、ゴージャスなローマ式ローブを彼のために用意し、シーザー主演の舞台で軽佻な伝令少年を演じさせることにした。この役ならセリフも演技も必要なく、ただ際どいローブを着て舞台上を走り回るだけでいいからだ。だが恥ずかしさを抑えられなかったロ・メイヒは下に青い花柄のボクサーブリーフを穿いたまま走り回ってしまい、ちらちら見える子供下着に舞台は騒然、ゲスト達も笑い転げてしまった。エスコートをさせても大体いつも今夜と変わらなかった。一番まともだったのは弁護士をしているゲストに対応した時で、彼女は彼と楽しんだ後、ザトウクジラに向けて丁寧にこう言ったのだった。「児童労働はダメですよ」
 結局、ロ・メイヒの花チケットは未だにその弁護士がくれた一枚だけで、それも彼の惨めさに同情して買ってくれたものだった。
 だがロ・メイヒは落ち込まなかった。邪険にされることはもはや昔からの習慣だった。800枚の花チケットなんて明らかに無理だ。来週にはここから叩き出されているのだろう。
 彼がなんとかV3デッキのゴミ箱を片付けると、ウェイターが急いで走って来た。「早く早く! 三階の夏月の間だ! 個室のゲストが多すぎて、Basara Kingと右京がいるけど人手が足らない、手伝ってくれ!」
 ロ・メイヒは少し驚いた。そんないい場所で何をするんだ? 三階には豪華な個室があり、プライベートパーティをするゲストが使用している。当然値段も一階の席よりはるかに高くつき、一晩に数百万円使い込めるゲストでなければ三階には行くことすらできない。個室を持つことをホストへの支持とみなすゲストも多い。高額な金が使われればホスト個人の名前にゲストの名前が付き、ホストの店での地位もその名前と数字の量に応じて上がるからだ。例えば相撲界のハンサム美男の藤原勘助は、一週間に一度は個室での接待をすることになっているが、ロ・メイヒのようなランキング最下位の新人は個室の外に立つことすらない。
 やっぱり先輩たちが一番だ! ボスも先輩も自分の花チケットの少なさを哀れんで、少しでも人気を取って残れるようにしてくれている……しかし個室に入っても、どうゲストに対応すればいいのだろう? ロ・メイヒは肝の冷える感じを覚えた。

「こんにちは、Sakuraです。お手伝いに参りました。入ってもいいですか?」ロ・メイヒが慎重にドアをノックすると、中から耳を震わせる大音量音楽が聞こえた。
「クソッ! 早く入って手伝え! 俺はもう疲れたぞ!」シーザーが中で唸った。
 手伝うだって? ボスと一緒に歌って酒を飲んで踊るだけじゃないのか? 疲れただって? 中でそんな人に言えない体力仕事でもしてるのか? ……彼はもろもろの恐怖、もろもろの不安にもろもろの憔悴を覚えたが、まさかここで縮こまるわけにもいかず、なんとか歯を浮つかせた満面の笑みでドアを開け……
「うわぁぁぁ!! さ、殺人現場!? 見なかったことにして出て行ってもいい!?!?」ロ・メイヒは諸手を高く挙げてギャーギャーと叫んだ。
 女性たちが絨毯の上に並んで横たわり、ドレスは散乱してあられもない姿がずらり。シーザーとソ・シハンは全身に大汗をかきながら死体を引きずっていた。特にシーザーは体重200キロも下らない肥満女性を持ち上げており、疲れたなどというのも不思議ではなかった。
「喚いてないで手伝え!」シーザーは直立してゼイゼイ息をした。
「二人とも何したの!? 強姦殺人か!? それとも殺人強姦か!?」ロ・メイヒは比較的軽そうなゲストを拾い上げ、ソファに寝かせた。「それとも死体集めが趣味とか言わないよね!?」
 ゲストは数度げっぷを吐くと、満足したように呻いた。彼女達は完全に気を失っていた。ソ・シハンとシーザーの飲酒能力は同時に十数人のゲストの気を失わせられるとはいえ、酒に何か細工がされたのは間違いなかった。
「強力睡眠薬を烈酒に入れた。明日の朝までは起きないだろう」シーザーは小さな薬瓶を振った。「ちゃんと了承まで取ってるから違法じゃあない」
「今から明日の夜明けまで八時間ある。源氏重工まで往復するのには十分なはずだ」ソ・シハンはゲストの一人のスカートを整えてやった。「俺達が来る前に既に十分なシャンパンが用意してあって、ウェイターは入ってこなかった。彼女達も俺達が来る前に既にだいぶ酔っ払っていた。今夜何が起こったかも覚えていないだろう」
「僕たち……源氏重工で何するの?」ロ・メイヒはそう言いながら頭皮のひりつく感じを覚えた。夜中に極道の東京本部に忍び込む、なんと命知らずな……命短し走れ少年!
「オロチ八家の黒幕が何を隠しているのか暴き、ついでに爆破工作もする」シーザーがシガーに火を付けると、その火は彼の顔の化粧を照らした。
「装備箱に15ポンドのC4爆薬がある。これで十分か?」ソ・シハンは箱から粘土のようなのものの袋を取り出した。
 濃い緑色をしたC4と呼ばれるこのプラスチック爆弾は、自由に任意の形に捏ねることができて持ち運びも使用も簡単な、世界中のテロリストが愛用する爆薬だ。
「ねぇねぇねぇ! そんな爆発物で何しようってのさ! どんどん指名手配書通りの人間になってない!?」ロ・メイヒは衝撃を受けた。
「俺達が警視庁に追われてる罪状は核燃料の密輸、テロ攻撃と幼女強姦だ。最後の件さえ間違わなければ指名手配書通りとは言えんだろ」シーザーは太腿の外側に固定された革製ホルスターにデザートイーグルを納め、フリガ弾満載の八発弾倉を腰から下げた。「そう怖い顔をするな。俺とソ・シハンは輝夜姫のストレージコアを爆破するだけだ。輝夜姫がオロチ八家の最大の防衛線なら、それを爆破すればオロチ八家は目を奪われたも同然。EVAの日本国内ネットワークを回復する算段も立てられるというものだ」
「早く着替えろ。『証拠』を残すぞ」ソ・シハンが言った。
「おっと、忘れていた」シーザーが武器を下ろし、再びパツパツの紫色スーツを着た。「化粧を落とさなくて良かった」
 彼はソファに座り、藤原勘助の女性版を引きずって自分の上に圧し上げ、マイクを一本彼女の手に握らせ、自分もマイクを持ち、歌うふりをした。ソ・シハンが一人のゲストのバッグからスマホを取り出してそれを撮影した。
 それから、ソ・シハンが円錐状の帽子を被ってゲスト達に混じって誕生日の歌を歌ったり、ロ・メイヒがゲストと酒を飲んでギャンブルしたり、ソ・シハンとシーザーが半裸で腕相撲をしたり……ソ・シハンとシーザーは撮影する度にスマホを操作して適当な撮影時間を設定し、ゲスト達が目を覚まして携帯を確認すれば、自分は美少年達と忘れられない夜を過ごしたのだと思い込むようにした。……惜しくも彼女達は飲みすぎて具体的な内容は何ら思い出せず、脳内補完するしかないのだが。
「先輩! あのデブ女絶対先輩を押し倒したって脳内補完するよ!」ロ・メイヒがあたふたした。「こんな写真が漏れたら僕たちの尊厳とか全部パーだよ! 何もしてないのに!」
「何もせずに尊厳がパーになるのは嫌か?」シーザーはC4爆薬の信管を確かめるのに集中していた。「じゃあ俺とソ・シハンだけ外に出て、爆破工作するのをここで待ってるか?」
「絶対ヤダ! 今から戦闘だろうが何だろうがボス達と絶対離れないもんね! 一人にされるなんて嫌だよ!」ロ・メイヒは一歩も退かない姿勢を示した。
 ここに留まるなんて絶対駄目に決まっている。学院に戻ったらシーザーもソ・シハンもこの夜の事を、源氏重工に潜入して輝夜姫を爆破したアクションスリルシーンとして語り継ぐだろう……その時、ロ・メイヒは? 誰も知らないだって? ミニスカートで酔っ払った数十人の女性と同じ個室にいただって?

 ソ・シハンは長刀を背負い、その上に黒いトレンチコートを羽織ると、黒い野球帽を被った。シーザーも黒いミリタリーハットに黒いトレンチコートを羽織り、その裏地には絢爛たる浮世絵が描かれている。二人はいつの間にか執行局の制服を手に入れていたのだ。
「いくら何でも危険すぎない? 日本語もろくに話せないのに執行局の人に成りすますなんて。ちょっと複雑な事聞かれたらその瞬間バレちゃうじゃん!」ロ・メイヒは言った。
「もちろん正面突破はしない。源氏重工は自衛隊司令部並に厳重厳格な警備がされている建物だからな。シーザーと俺は数日間源氏重工を調査したが、1階から20階がオフィスビル、21階以上はオロチ八家のオフィスで、出入りにはカードキーと保安局の手荷物検査が必要になる。執行局の服を着ても職務質問されるし、EVAのサポートがない以上カードキーも手に入らない」ソ・シハンは手書きの地図を広げた。「唯一の侵入路は、下水道だ。ここを通ってセキュリティシステムの無い『裏エリア』に入る」
 そういえば、とロ・メイヒは思い出した。初めて源氏重工を訪れた時、エレベーターで地下まで行き、東京の広大な下水道網を見たのだった。直径12メートル近い巨大な空洞には、岩流研究所の潜水艦ドックがあった。
「裏エリアみたいな要所ってむしろ警備が外より厳しいんじゃないの?」ロ・メイヒは完全に不安を感じていた。
「警備体制は分からんが、少なくとも人通りの多い場所は避けられる」ソ・シハンの手書き地図が示しているのは新宿の下水道網だった。彼の指先が蜘蛛の巣のような下水道管に沿って移動していく。「ここだ。ちょうど高天原の真下に下水道がある。俺達はそこから東に向かい、地下鉄シンジュク線の下を通り、幹線道を通じて源氏重工に着く。距離にして二キロだ」
「これっていわゆる『踏み石探って川渡り』ってやつ? 『子馬さんの川渡り』の絵本じゃないんだからさぁ! 川って言っても源氏重工ってほとんどヤルンツァンポ川レベルでしょ? 一歩でも踏み外したら溺れ死んじゃうやつ!」ロ・メイヒは不確定要素の多いこの計画に納得いかず、自分が全身真緑になった気さえした。環境保全意識が高くなったわけではなく、ただ驚きすぎて。
「やってみなければわからんだろう。もし見つかったら永久に口を封じればいい」シーザーは軽薄淡々と言った。
「ねぇ! そりゃ龍の胚も殺せる二人なら混血種なんて訳ないだろうけど! 僕みたいな軟弱文官がいること考慮して言ってる!?」
「ならここで待って女の子たちの世話をするか? 夜中に個室で服ぐちゃぐちゃの昏睡女性達を看守みたいにジロジロ眺めるのは……まあ、『軟弱文官』にはお似合いか」
「ねぇ僕をそんな仁も義もない人みたいに言うのやめてよ! あー! わかったよ! 二人が危険な場所に行くのに黙って待ってられる僕じゃないからね! 何も言わないで武器をちょうだい!」ロ・メイヒは再び一歩も退かない姿勢を示した。
「グッド! 我ら学生自治会の辞書に後退の二文字は無い!」シーザーは一丁の重苦しいベレッタ92FSを取り出してロ・メイヒに投げた。「下準備は済ませてある。十三発入ってる弾丸の内、最初の九発はフリガ麻酔弾、後の四発は龍殺しの為の装備部特製水銀芯徹甲弾だ。水銀は人類には致命的とは行かないが、混血種相手ならある程度の効果があるし、水銀汚染も強力だろう。純金徹甲弾で貫通力も高い」
「源氏重工って、龍族がいるの……?」ロ・メイヒは銃を後ろ腰に挿した。「なるべくなら全弾フリガ弾にしたいんだけど」
「分からん。だが俺が感じるに、この事件の背後に隠されているのは……俺達の想像を遥かに超えるものだろうな」シーザーが呟いた。「氷山のように、俺達に見えるのは海面上に浮かんだほんの十分の一にも満たないかもしれない。巨大な真相は海の中だ。……気を付けろ」


 エレベーターが最下階に降り、ドアが開くと、外は真っ暗だった。
 ソ・シハンが懐中電灯をつけると、光の束が埃まみれの聖母像を照らした。久遠の時を経て顔料は完全に色褪せてしまっているが、聖母像はまだ格調高い赤金色を保っていて、顔料の中に本物の金粉が混じっていたことを示している。
 高天原の地下二階だ。ロ・メイヒはその時初めて、この建物に地下二階があるということと、四つのエレベーターのうち貨物用の一台だけがこの階に到達できるということを知った。
「何この超アンティーク!」ロ・メイヒは驚き称賛した。「日本家屋とは全然思えないんだけど」
「二次大戦前はカトリック教会だったらしい。明治維新の後には日本にも多くのイエズス会士が布教に来て、カトリックの信者も多かったと聞く。東京は日本人カトリック信徒の拠点で、数十人の神父が在住して定期的な礼拝とミサをやったらしい」ソ・シハンが言った。「二次大戦中の東京大空襲でレリーフやアーチが吹き飛んだが、主幹部分はそのまま残っていたんだな。それで店長はここに拘って、賃貸で借りてホストまみれのナイトクラブに改装したわけだ。あのステージも元々はパイプオルガンがあったところで、デッキも聖歌隊の席なんだろう。この階は恐らく懺悔室と図書室で、二次大戦中には防空壕として使ったらしい。今でも一応国家認定されているシェルターだが、店長はここを倉庫としてしか使っていないみたいだな」
 光の束が進んで行くにつれて灰色になっていく。壁がチョーク塗りになり、地面がセメント塗りの真っ平になった。壁には煙と火の痕跡が残り、隅には山積みされたオルガンの部品、エナメル装飾の説教台や、人ほどの高さの十字架などが幾つかあり、十字架の内の一つには年季の入った赤土色の法衣が掛けられていた。かつてのカトリック教会の繁栄――聖職者が往来し、聖書を朗読する声が響くその様子が漠然と想像できる。だがまさか百年後にセクシービューティーなホストクラブに変わり果てるなど、誰が思っただろう。

 ソ・シハンはホールの隅に古い鋳鉄製のマンホール蓋を見つけた。錆びた蓋はおそらく数百年モノであり、ドイツの製鉄会社のマークがぐちゃぐちゃになっている。ソ・シハンとシーザーが協力してマンホールの蓋を外すと、暗闇の中にゴウゴウと鳴り響く水の音が聞こえた。
「ホントに下水道の入り口が建物の中にあるなんて!」ロ・メイヒは驚いた。これなら高天原をどう出入りしようと誰にも気づかれない。
「偶然だったんだ」ソ・シハンが言った。「まさか俺も高天原の地下に下水道の入り口があるとは思わなかった。俺がネット上で見つけたシンジュク区の下水道地図でも、シンジュクの広さに比べて下水道の出入り口は精々十数か所、しかもそのほとんどは下水処理施設にある。ここは数少ない例外の一つだ。とっくに封印されていてもいいはずのものだが、シェルターに繋がっているから避難経路の確保として残されたみたいだな。運がいいというべきか、この抜け道を見つける時に源氏重工に裏口があることにも気付いた」
 まるで冷たい蛇が這いあがってくるかのように、ロ・メイヒは驚き呆然とした。そうだ、確かに運がいい……運が良すぎるくらい、まるで暗闇から源氏重工の裏口まで手招きされているかのようだ……。真夜中に源氏重工に潜入するというこの冒険はシーザーとソ・シハンの独断的で衝動的な行為と思えるが、同時に別の誰かに計画されているかのようにも思える。それはいわば小さなネズミが迷路を走らされているようなもので、迷路の入り口に置かれたネズミは何度も頭を回した後、一直線に迷路に入り込み、曲りくねった道を走り回る。ロ・メイヒは寒気に震えた。シーザー達はまさにこのゲームのネズミのように、決して見えない高い場所から彼らを操る巨大な黒影に、その走り回る様を冷ややかに見下ろされているのではないか……。
 彼は頭を振り、変な考えを振り払おうとした。背後で手を引く者がただの人間ならどうということはない。シーザーとソ・シハンが幕の裏からその者を引きずり出し、半殺しあるいは抹殺するだけだ……だが、それが人ではないとしたら? あるいは「運命」としか言いようがないような手の届かないものだとしたら? ロ・メイヒは運命という概念が好きではなかった。「運命」をテーマにした物語では大抵、主人公が悩み迷ったり何かを失ったりしているからだ。
 中学生の時、彼は『ガンダム・シード』を見た。運命を定められた少年キラ・ヤマトがガンダム・ロボットに乗り、ストライク・ガンダム、フリーダム・ガンダムから最強のストライクフリーダム・ガンダムへと乗り換え、最終的にオーブ王国を救い、世界を救い、宇宙最強のヒーローパイロットとなり、名門お金持ちにして宇宙の歌姫、天才的女性政治家という多才な絶世の美女ラクス・クラインと一緒になって英雄的カップルが誕生するという、まさにアニメ、素晴らしいアニメだった。しかしロ・メイヒは、この主人公が本当は話の途中で死んでいるのではないかとも感じていた。ガンダムに乗ってからゆっくりと死んでいき、世界最高の男になっても、彼はかつて大好きだった少女フレイと16歳以前の人生を全て失っている。ガンダムに乗った瞬間から、繊細敏感で嬬弱なキラ・ヤマトはだんだんと死んでいき、ただ、救世主という閃光迸る身体だけが残される……。
 言えば不思議な事だが、ロ・メイヒは手にするモノの少なさ故に「世界征服」などといった未来を期待することもなく、ただ、謙虚にも小さな現在を失う事ばかりを恐れているのだ。

 三人が鉄梯子を下りて下水道に降りると、懐中電灯が苔むしたレンガの壁を照らした。この下水道の構造は大分古いようで、最先端建築技術の「鉄穹神殿」とは全く異なり、半円形の断面の中央に水路と、両側に人が歩ける程度の狭い道がある。百年前の日本の配管工は下水道管清掃の為にここを行き来していたのだろう。天井からは髪のように細い墨緑色の水生植物が垂れ下がり、幽霊の手のような冷たい何かに顔を撫でられ続けているようにも感じる。隅で何か小さな黒い影がゆっくりと這い回り、ソ・シハンが懐中電灯を向けるとその瞬間それは突然加速し、墨緑色の植物の中に消えて行き、犬のようなキャンキャンという声がした。ロ・メイヒが驚いて後ずさると、シーザーがとっさに彼の腕を掴んだ。少しでも遅かったらロ・メイヒは水流の中に落ちていただろう。
「マッドパピー、北米原産のサンショウウオの一種だ」ソ・シハンは露出した長い尾を懐中電灯の光の中に映した。「水生動物の卵を食べるから、下水道での水生動物の過度な繁殖を防ぐことができる。いわば下水道の掃除屋だな」
「早く行こう! おかしくなっちゃいそうだよ! 下水道が動物園じゃあるまいし!」ロ・メイヒは驚きから立ち直れず、傷春悲秋の情も運命論もすっかり脳内から吹き飛んでしまっていた。
「下水道というのは、大抵それぞれの生態系が構築されているものだ。水は多いが基本的に日光はなく、暗闇に適応する種が急速に繁殖し、安定した生物圏を形成する」ソ・シハンは懐中電灯を前に向けて歩いた。「下水道生態圏は都市ごとに違う。降雨量、温度、地下水のpHで変わるからな。ここで注意すべきは血虫のような小さな生物だ。お前の身体に卵を産み付けられるかもしれない。逆に大きいものはさほど危険じゃない。水蛇もだいたい無毒だ」
 ロ・メイヒは無意識の内に首元を引き締めた。ここを歩いているとどうも誰かが首の後ろに息を吹き掛けて来ているような感覚がする……。「鉄穹神殿みたいな高級下水道ならよかったのにな、綺麗だったし。っていうか、本当にこれ鉄穹神殿に続いてるの?」
「全ての下水道が一斉に開通するわけじゃない。俺達の今いる下水道は百年前のシンジュクからあるやつだ。東京はちょうど十年前に下水道システムを大規模改造して、古い下水道システムと統合したんだ。過剰な地下水は鉄穹神殿に流れこんで、浄化されてから海に排出される。このまま進めば必ず幹線水路に辿り着くはずだ」ソ・シハンは手の中の地図を一瞥した。「あと約600メートル進めば地下鉄シンジュク線の下を潜る。そこには巨大な水車があるらしい。その穴を通れば鉄穹神殿に入れる」
「先輩、こんなに下水道に詳しいのって、下水道で育ったから?」
「いや、ネットで検索したからな」
「でも日本語読めないんでしょ?」
「グーグル翻訳を使ったからな。これのおかげで多少の日本語も学んだ」ソ・シハンは突然日本語に切り替えて言った。「ドウモアリガトウ。マタアエルトイイナ。オカワリノムカ? カナシケレバナケ。まあ、こんな感じか」
「はぁまったく、先輩の勤勉懸命さには頭が下がるよ! 好きこそモノの上手なれってこういうことか! 本気でホストの道を極めるつもりなの!?」
 長ったらしい下水道はまるで巨獣の食道のようだ。こんな場所を手探りで前に進んでいても、不平不満を喚き垂れ流していれば自分が元気一杯の有望青年だと思える。黒い水面に長い尾が消え、小さな渦が現れた。

 地下鉄の音が真上から聞こえ、正面に直径三メートル以上の巨大な水車が現れた。下水道は既に地下の川のように広く、静かな水は乱流に変わり、白波が水車のブレードの合間を跳ね周り、雷鳴のような音を立てている。水車が大量の水を鉄穹神殿に送り込んでいるのだ。
「どうやって行くの?」ロ・メイヒは鋭い水車のブレードを見上げた。ブレードの一つ一つの長さは約2メートル、ステンレス鋼製で、水生植物などの浮遊物を簡単に切断できる。この水車も下水浄化プロセスの一部なのだ。
「水車も常に回転しているわけじゃない。停止した時に空いている所を通ればいい。急がないと動き始めて腰から下が消えるぞ」ソ・シハンが言った。
「要するにミンチになるってことだよね」ロ・メイヒが言い換えた。「でも、これっていつ止まるの?」
「もう減速し始めてるみたいだ」
 水車がまさに今減速し始めていた。ゆっくりと数分かけて止まると、ブレードの上から水がザーザーと下に流れた。
「今だ!」シーザーが小さく叫んだ。
 三人は水車横の梯子を上り、ステンレス製のダクトを駆け抜けた。まるでジェット機のエンジンの空気ダクトを通り抜ける子犬になったかのように、鋭いブレードに囲まれた中を走っていく。もしここで100メートル走のタイムが記録されれば自分でもいいタイムがでるんじゃないか、とロ・メイヒは思った。
 
 三人は滑らかな下水道管の壁を滑り降り、頭上の空間を見上げ、鉄穹神殿はまさに建築学史上の奇跡だと感じ入らざるを得なかった。まさに世界最先端の全自動化下水道システム、幾つもの浄化フィルターで水中の汚物は遮断され、巨大なロボットアームがパイプラインの底に沈殿した堆積物や汚物をすくい上げて高所の浄化槽に送り、自律ロボが壁の溝に沿って横移動して下水道管内の機械を検査して修理する。壁には鉄梯子や歩道もあるが、丸山建造所の設計標準で言えば、鉄穹神殿は二十年間人の手による保守を必要としない作りになっている。

 聞いたことのある電気溶接の音が道管内に響き渡った。
「聞こえたか? 岩流研究所の地下ドックがある。溶接音がするという事は、誰かが何かを修理しているという事だ」シーザーは声を小さくした。「人は少なくとも二十数人、全員が完全武装の男だ。大声を出すんじゃないぞ。声が反響して大きくなって、遠くまで響いてしまうからな」
「そこら辺抑えられなそうで怖いんだよ、僕……」ロ・メイヒが小声で言った。「緊張しちゃうとどうして何か喋りたくなるんだ、喋らないと死んじゃうよ」
「なら、これでも舐めていろ」シーザーはトレンチコートのポケットからロリポップを三つ取り出し、ロ・メイヒとソ・シハンに一つずつ渡した。「口に突っ込んでおけば勝手に何か喋り始めることも無いだろう。一緒に血糖値も賄える」
「ボス、ミント味と交換してくれない?」
「悪いな、もう遅い」シーザーは既に緑色のロリポップを口に入れていた。「……無駄話は終わりだ。誰か来る」
 十数秒後、高所から足音が聞こえた。黒服の警備員が一人、透明なレインコートの下には隆々の腕に携えられた銃が見える。明らかに警察ではない。日本の警察はコルト社製「キングコブラ」マグナム銃など使わない。この大口径リボルバー銃は相当値が張るだけでなく、暴虐残忍とも言える威力を持ち、狩猟につかうにしても過剰すぎる程だ。極道の殺人者の好む銃でもあり、人間が獲物となれば一撃必殺の効果を発揮する。三人は道管の壁の影に隠れながら鉄格子の通路を見上げ、警備員が大股でスエードの靴を鳴らしながら頭上を越えてだんだんと去っていくのを、息をひそめて眺めた。
「あんな警備が二十人いるの? 極道の殺人のプロみたいなのが……」ロ・メイヒはロリポップを舐めながらモゴモゴと言った。
「前来たときはここまで多くなかった。精々今の半分程度だったはずだ。急に警備員の数が増えたのか……」ソ・シハンがシーザーを一瞥すると、シーザーは首を振った。このレベルの警戒を突破するのは難しい、という意味だ。
「強行突破はどうだ? 弾には余裕がある。お前は一度に何人相手できる?」
「三人か五人なら問題ない。六人で限界だ。仮にお前がUziを二挺使ってもこちらは四挺、向こうに二十挺あるんじゃ話にならん。相手に混血種がどれだけ居るのかも分からん」シーザーは言った。「奴らはプロだ。暴走族相手とは訳が違う」
「ぼ、僕もいるよ!」ロ・メイヒは言った。
「お前は数にならん。自分で軟弱文官と言っただろう」
 三人の間に沈黙が訪れた。源氏重工の入り口まで行くと、前方への通路は完全に途切れてしまった。まるでゲームの主人公がおじいちゃんに別れを告げて意気揚々冒険に乗り出した瞬間、ヘルライダーデビルが二十体立ちはだかる道を通らなければならず、進む事すらできなくなってしまったかのようだ……「先攻主人公、短剣攻撃でヘルライダーデビルAに15ダメージ! ヘルライダーデビルAの攻撃! テラーキング・スカルソード! 全体攻撃『赤の竜王・ヘルフレア』! 7623293ダメージ! 燃焼効果! 回復封印! ヘルライダーデビルBの攻撃! ヘルライダーデビルBは攻撃しなかった……既に全滅している……」
 若き主人公はこれが単なるゲームの体験版なのだとは理解できない。体験版では村から出て外の世界を見ることは出来ない……今の彼にできるのは振り返って村に戻り、NPCのおじいちゃんの若い時の英雄譚を何度も何度も聞き続けるか、見た目はともかく彼に隠れて恋をしている隣の家の少女に話しかけるか、それだけだ。
「ダメだったら店に戻ろう? たくさんあったシャンパン、全然飲んでなかったじゃん……とりあえずシャンパン飲みながら夜食食べて、他に何かいい方法を考えようよ」ロ・メイヒは小心者なりの意見を提案した。
「いや、こんなチャンスは二度とないかもしれない。あれを見ろ」ソ・シハンは下水道管の前方を指差した。
 流水が突然中央から裂け、シガーのような形をした何かが水面に浮かび上がった。全長6、7メートル、直径は2メートル以下だろうか、白い泡の線を曳きながら、岩流研究所のドックへ向かって行く。
「オロチ八家の小型潜水艇……!」ロ・メイヒは思い出した。以前源稚生は、オロチ八家が下水道管を違法物品の輸送に使っていると言っていた。貨物船は入港する前に違法物品を無人操縦の小型潜水艇に乗せ、潜水艇は下水道を通って源氏重工の地下に到達するのだ。
「近づくぞ。音を立てるなよ」シーザーは手足を地に付けながら前へ小走りに進んだ。
 ブザー音が下水道管全体を震わせ、警備員たちが笛を吹き、四方八方からドックに向かうよう呼び掛けた。潜水艇がドックに滑り込むと、クレーンがそれを宙に持ち上げ、ロボットアームがキャビンから巨大な金属タンクを取り出した。金属タンクは長さおよそ2メートル、細長い原油バレルのようにも見える。ソ・シハンとシーザーは互いを見やり、首を振った。彼らの経験ではこれがどういう貨物なのか分からなかったが、このゴールデン・ロードを通る貨物がただの石油であるはずがない。
 壁の沈重な気密扉が突然開き、大きな白衣を着た男が出てきた。彼は警備員を通り過ぎて金属タンクの元へ急行し、アルコールスプレーで金属タンクを消毒した。明らかに重要かつ危険なこの貨物、警備員に最初に触れさせるわけにはいかなかったのだろう。彼はあまりにも急ぎすぎていたのか、源氏重工を通り抜ける唯一の道、気密扉を閉めるのを忘れていた。

「チャンス!」シーザーが囁いた。
「警備員は全員ドックにいるし、注意も金属タンクに向いている。あの黄色い螺旋階段を上って気密扉まで行くぞ。急ぐぞ、だが走るなよ。この閉鎖空間では物音は簡単に反響する」ソ・シハンが囁いた。
 ロ・メイヒが自分の意見を表明する前に、ソ・シハンは既に7、8メートル進んでいた。彼は一度決めたら他人の言葉など聞かない、だからこそ執行部での彼の評判は上から下まで揃って『一匹狼』なのだ。シーザーも全く音を出さずに歩いている。彼の筋肉引き締まった肉体は、猫のように軽巧に歩くことも可能にしているのだ。選択の余地も無くなったロ・メイヒは、手足を地面につけてその後ろに続いた。保守点検口は頭上にあったが、彼らは浄化フィルターを固定する鉄枠の上を進むしかなかった。その保守点検口から出ても源氏重工の入り口まで少なくとも数十秒かかる。この数十秒間に一人でも警備員に振り向かれれば……銃撃戦しかなくなってしまう。
 シーザーとソ・シハンは非常に素早く、瞬く間に螺旋階段から保守点検用通路まで進み、気密扉まであと数メートルという場所までたどり着いた。ロ・メイヒも急いで一歩を踏み出したが――その瞬間、金属が弾けるような清らかな音が下水道管中に鳴り響いた。あたかも誰かが小鈴を鳴らしたかのように。
 ソ・シハンの懸念は正しかった。ロ・メイヒは一歩踏み出しただけで問題を起こした。一個のナットが震動で落ち、下方の壁にぶつかったのだ。
 警備員全員が同時に銃を取り出した。その全ての銃に暗視照準装置が取り付けられている。赤いビームが四方八方を精査し、懐中電灯も点けられた。ロ・メイヒはベレッタピストルを汗滲む両手で握り締めた。彼の射撃能力は優秀だが、問題は彼に耐久力が無いという事だ……ソ・シハンであればブラッドブーストの身体強化で数発の銃弾にも耐えられるが、ロ・メイヒがマグナム弾を受ければ一発で葬られてしまうかもしれない。シーザーとソ・シハンは素早く気密扉を抜け、警備員たちは保守点検通路に何もないことを確認すると、懐中電灯を下に向けて照らした。光は徐々にロ・メイヒの隠れ場所まで進んで行く。
「そこだ!」一人の警備員が叫んだ。
 幾つかの光が同時に水面に向かうと、そこには一条の細い黒影が音もなく静かに泳いでいた! 水際を歩いていたロ・メイヒを狙っていたのだろうか、しかし明るい懐中電灯の光に驚き、暗闇の中へと転身、泳いで行った。
 銃声が炸裂した。警備員たちが一斉にマグナムの銃火を噴かしたのだ。源氏重工の警備員は本部の極道の中でも特別凶悪なヤクザなのだろう、容赦も無ければ弾惜しみもなく、目標を破砕するのに何の躊躇も無かった。

 腕が一本上から伸び、ロ・メイヒを引き上げた。シーザーの腕だ。高身長にして肩幅広の彼には、霊長類の真髄とでも言うべき美しさがあった。

 三人の男は喘ぎながら扉の後ろに寄りかかり、ロ・メイヒは雨に打たれたような汗をかいていた。彼が先に警備員に見つかっていたら、シーザーとソ・シハンがどれだけ急いで助けに戻っても射殺されていただろう。ソ・シハンとシーザーは振り返り、少しだけ開いた扉の隙間から外を見た。下水道の水面が真っ赤に染まり、その中心には4、5メートルはあろうホオジロザメが一匹、全身に弾孔を開けて浮かんでいた。二人は顔を見合わせ、首を振った。なんたる不可思議か。ここは鉄穹神殿の幹線道管、水深も5、6メートルあり、海と繋がっている為、サメが居たとしてもおかしくはない。だがこれだけ獰猛な大型肉食動物を大海原から狭苦しい蜘蛛の巣のような下水道へ引き込んだのは、一体何だというのだろうか。
「行くぞ。奴らは俺達には気づいていない」ソ・シハンが言った。
 シーザーはロ・メイヒの肩を軽く叩き、振り返らせなかった。ホオジロザメは空気中でも数時間生存することができ、時には岸辺に忍び寄り、突然飛び出してアザラシの子を狩り、潮が満ちるのと同時に海に戻ることもある。まさに今もホオジロザメはロ・メイヒを狩りの対象にしていたのだが、彼自身に話すべきことではないとシーザーは判断した。もし自分がおいしいアザラシの子と見なされていたと知れば、彼は腰を抜かして身動きもできなくなってしまうかもしれない。

「アハ、アハハ……なんて運がいいんだろうね、僕……禍転じて福と為すってやつ?」工業用エレベーターに乗り込んだ瞬間、ロ・メイヒは胸を撫で下ろして喜んだ。
「お前の運はオリガミ付きだ。頼むぞ、俺達の運命はお前の運にかかってる」シーザーはロ・メイヒの肩をポンポンと叩き、ソ・シハンと目配せし合った。
 工業用エレベーターを降りると、前方に天井が低く狭い通路が伸びた。見る限り窓らしいものもなく、換気扇だけがゆっくりと回転している。壁は沈重な鉄錆色に塗られ、白いペンキで意味不明な経路指示が描かれている。ちょっとした息苦しさを感じるような、空気いっぱいに不安が弥漫しているような場所だった。シーザーは両手にデザートイーグルを構えて前を進み、何か危険なモノが無いか全神経を尖らせ、ソ・シハンは長刀を構えて殿を務め、ロ・メイヒがその二人の間に入り、三人は白い蛍光灯の傍を一本ずつ通り抜けていく。そこはまるで不思議な秘密研究所か、あるいは無限に続く迷宮のようで……最奥に巨大人型兵器か何かでも隠されていそうな場所だった。

 三人は通路を何のアクシデントもなく通り過ぎた。通路の終端にも何も奇妙な事は無く、ごく普通のエレベーターが一つだけあった。内部にはなんの特別な安全措置は取られていないらしい。恐らくオロチ八家も裏エリアに侵入されることは想定せず、セキュリティシステムを設置することもなかったのだろう。
「ねぇボス、どの階に行けばいいの?」ロ・メイヒはびっしりと並んだ階層ボタンを見て言った。
 新たな問題が発生していた。この超高層ビルは全部で50階、車庫階や設備階、中層階など番号のない階まである。この種の現代的高層ビルでは普通、エレベーターが途中で何十回も停止しないようエレベーターごとに止まる階が分けられているものだが、この裏エリアのエレベーターは殆どの階に止まるようになっている。
何という事だろう、ヘルライダーデビル二十体からほんのわずかなラッキーで逃げおおせた主人公は次の瞬間、突然50以上の分かれ道に遭遇し、システムによってどれか一つに飛び降りるよう指示されてしまった……。第一階層から始めるか? 第二階層? 第三階層……それとも直接最上階に突撃して大魔王に挑む? もちろん、どの階層から始めても、経験値を溜めたりレベルアップしたり装備を変えたりすることなどできない。なんだこれ! RPGじゃなくてスーパーマリオかよ! ロ・メイヒは心の中で叫んだ。
「あ? しまった、それは考えていなかったな……」シーザーは眉をひそめた。
 それみろそれみろ、とロ・メイヒは心の中で愚痴った。無計画で優柔不断なリーダーほど頼りにならないものはない!
 シーザーが無計画だったのには理由がある。彼は今夜中に本丸突撃といくつもりはなく、ただ下水道の侵入ルートを確かめようとしただけだったのだ。源氏重工地下部に辿り着いた時、ちょうど無人潜水艦が帰って来ていなければ、彼らは今頃シャンパンを飲みに帰り道についていたはずだったのだ。
「じゃあ先輩、この建物の内部の地図とかは……?」ロ・メイヒはソ・シハンに訊いた。
 ソ・シハンは首を振った。「そんな機密情報がネットにあると思うか? あるにしても公表されている資料に裏エリアの情報など含まれているはずがない」
「そ、そうだよね。こんなクソマズゲーム、やった人がいるにしてもみんな死んでるよ、ネットに攻略法なんてあるはずないよね……」ロ・メイヒは頭を掻いた。
 かつて通ったことのあるはずの裏エリアの道も、今は頭の中からすっかり抜けてしまっていた。前回来たときはVIPとして黒スーツハイヒールの秘書に付き添われ、エレベーターのボタンも即座に押されていたからだ。その時、極道総本部の豪華さや先進さを褒めてばかりだったロ・メイヒは、地形や構造を頭に入れることなどは全く考えていなかったのだ。
「行く道が分からないなら、本丸突撃しかないだろう。一番重要なモノは最上階にあると決まっている。 上へ行くぞ!」こうなると性根一本筋のシーザーはいつも近道をしたがる。
「一番重要な階って警備も固いんじゃないの!? まずは12階に行こうよ! たしか12階はいっぱいオペレーターが居る階だったはず、見つかっても銃で女の子を脅せばいいんだよ! そしたら逃げる時間も稼げるし!」ロ・メイヒは急いで反対した。「先輩、どう思う!?」
 シーザーはリーダーだ。彼を止めるためには多数決で過半数を勝ち取るしかない。いくら非協力的な一匹狼のソ・シハンでも、シーザーのような向こう見ずな判断はしないはずだ……。
「俺の記憶が正しければ、オペレーターの階は14階だったはずだ」ソ・シハンは無表情に言った。「だが、シーザーの意見に賛成だ。どこに行くべきか分からないなら、直接本丸を叩いた方がいい」
 ロ・メイヒは心の中で大きなため息をついた。皆が皆で名誉心を湧き立たせるせいで、彼のような狗熊は殺されてしまうのだ。ソ・シハンが何故シーザーの意見を支持するのか? ソ・シハンはシーザーほど性根一本筋ではないし、最上階が危険だというのも理解している……だが、彼は自分の命など顧みないのだ!
「ねぇねぇねぇ! 聞いて聞いて! 確かに最上階は重要なモノがあるかもしれないけど、オロチ八家がそんなキレイな場所をコンピューター室に使うと思う!? 今日潜入したのって輝夜姫を爆破する為じゃなかったの!?」ロ・メイヒは何とかして言い訳を作った。「順序通りに行こう、ね? 先に輝夜姫を爆破して、その後最上階に行けばいいじゃん!」
 シーザーはロ・メイヒの言うことにも一理あることに気付き、銃身でこめかみを掻いた後、しぶしぶ頷いた。「なら先に14階だ。一番安全な方法は、オペレーターを捕まえてこの建物のどこに行けばいいのか聞くことだ」
 何が安全な方法だって? ロ・メイヒは心の中で言った。そんな方法、まるで抗日ヒーロードラマみたいな……八路軍が手榴弾も持たずに日本鬼子の塹壕に突入して、日本人の持っていた爆薬とマッチで塹壕を爆破して、撤退しながら日本人から奪った煙草を吸って、みたいな……何もかも意味不明な革命的楽観主義じゃないか!
ともかく、方針は決まった。気まぐれな主人は置いておくとして、ロ・メイヒはエレベーターのボタンを押すために振り返った。その瞬間、「チン」という音がしてエレベーターが止まった。
 不法侵入ゲームの初心者的ミス! 三人が七言八句喋っている間に、エレベーターはいつの間にか上がり始めていたのだ!
 シーザーもソ・シハンも顔色を変え、無意識の内に腰の銃柄に手を伸ばした。エレベーターは階上から呼ばれたに違いない。今止まっているのは21階だ。21階に一体何がある? 運悪く執行局の本部だとしたら、装填済みの数十丁の銃口に出迎えられることになってしまう。

 扉が開いた瞬間、白いシャツにA字スカートという秘書のような出で立ちの女性が突入し、シーザーに向かって豊満な胸を突き出した。双方に激震が走り、女性秘書はゆっくりと頭を上げ、呆然としたシーザーを冷ややかに見つめた。
 その時、シーザーは気付いた。それはうら若い少女ではなく、爆胸にして華奢な身体と、一張精心を絵に描いたような冷絶な顔を持つ、三十歳近い熟女だった。
 何という運の悪さ! そこに現れたのは見たことのある顔、桜井家当主、桜井七海! この魅惑的な身体に秘められた桜井家当主の力量は推し測るべくもない。カッセル学院に籍を入れたことのない彼女の血統ランクを知る術はないが、少なくともA級は下らないだろう。
 そして最悪なのは、この桜井七海と真正面から向き合ってしまったことだ! 彼女は一瞬でシーザーを上から下までしっかり凝視し、その刀の如き眼光がまるでシーザーを1センチずつスライスしていくかのようだ。
 ソ・シハンは刀を引き抜きかけたが、彼は自身の殺意を無理矢理抑え、事態の変化を待った。シーザーの黒々しい化粧のおかげで、桜井七海はまだシーザーを認識できていないらしい。考えてみれば、こんな浅黒いイタリア人などいない。シーザーは元々イタリア人の中でもかなり肌の色の薄い方で、顔だけで外国人だと分かり、高天原ではあまりにも目を引いてしまう。そこで彼は日焼けクリームで自分の肌色を重苦しい古銅色に変え、リップグロスも白色を使い、本来の外見とはかけ離れたビーチのヒップスターのような姿になっていたのだ。この種のメイクは高天原で大いに人気を獲得し、最近は他のホストも真似するようになっている。今夜もシーザーは同じような化粧を施したままで、低く被った黒いミリタリーハットと相まって、桜井七海もそれが誰か分からないでいてくれるかもしれない。
 ソ・シハンは賭けた。桜井七海は執行局の人間ではなく、執行部人員の全員の顔を覚えているはずがない、と。日本支部の人員構成表から見れば、桜井七海はトレーニングオフィサー的な役割だったはずだ……。
 否、賭けずにはいられなかった。今やり合っても勝算は無い。桜井七海の実力は言うまでもないし、その背後にいる無数の黒服たちは更に説得力を持つ。21階はオープンロビーで、ロビーには図書館のように無数の本棚が並べられ、本棚の間の通路では黒いトレンチコートと黒いサングラスをかけた男たちが働いている。ここが執行局の本部かどうかは分からないが、執行局の人員の殆どがここに集中しているらしい。彼らが総出でかかれば機械化師団すらも相手にならない……
 終わった、終わった、もうダメだ……ロ・メイヒは心の中で叫んだ。桜井七海がシーザーの姿を思い出せなくとも、シーザーのようなウルトラ筋肉ムキムキマンが日本人らしいはずもない。まるでクジラがアザラシの群れに混じっているようなものだ。いくらアザラシと言い張っても、いくらボールを鼻で遊んで見せても説得力がない!
シーザーはどうしたらいいのか全く分からず、顔を崩さないことだけには努めたが、目の隅の震えは明らかだった。
 桜井七海の目に突然殺気が湧いた!

「バカ者!!」シーザーの顔に強烈な平手打ちが飛んだ。
 ジンジンと痛む顔に、シーザーは唖然とした。人生で平手打ちされたのは初めてではない。彼を愛慕したものの相応の愛を得られなかった少女が彼を平手打ちして泣きながら去ったのも一度では無い。そんな少女たちは普通、平手打ちする前に泣きはらしていて、そんな弱々しい力で打たれても痛いとは思えず、ピンク色の痕も男にとっては名誉と思えたから、シーザーも当然のように甘んじてその手を受け入れてきた。だが桜井七海の平手打ちはそれとは全く異なり、鋭い刀の強かさを持つ、日本刀術にある「右薙ぎ」の動作そのものだった。シーザーは回避する機会も与えられず、はっきりとした紅い手の痕が彼の顔に現れた。
「バカ者! 何故遅れた!」
「ハイ! ドーモ!」シーザーは何も理解できず、混乱の中でひたすら頭を下げる事しかできなかった。
「謝っても無駄だ。戦場で言う詫びなど、遺言にしかならん! 今すぐ箱を運べ! そこの人手が足りんのだ! 私に言う通りにやれ! 駆け足!」桜井七海は扉の外を指差した。
 数人の執行局幹部がエレベーターの扉の外で小走りし、それぞれが文書箱を抱えている。シーザーはそこでやっとこの階を注意深く見る機会を得た。屋根まで届く大きな本棚の列がこの階の空間を区切り、棚の上の書類は全て綴じられて真っ白なカバーで覆われている。白い制服を着た桜井七海を除き、この階の全ての人間が黒いトレンチコートを着て、全員が職務を遂行している。棚の書類を梱包する人もいれば、統計を作成する人や、梱包された文書箱を貨物エレベーターまで運ぶ人もいる。この緊密かつ整然としたライン作業に加わっていないのはほんの数人、銃柄を握って巡回している者達のみ。この文書の価値が尋常ではないのは明らかだ。
 シーザーはカッセル学院にある百年の歴史を誇る図書館を思い出した。そこでは牛革のカバーで手厚く装丁された、歴代研究者の手書き原稿が展示されている。この階はまさにオロチ八家の図書館、あるいは資料室なのだ。
 桜井七海は満面の仏頂面で下りエレベーターに乗って行った。彼女は結局最後までシーザーを認識しなかった。だが、彼女がシーザーを一瞬で認識できなかったのも不思議ではない。以前顔を合わせた時のシーザーはといえば、白いスーツを着たエレガントなブロンドヘアーのハンサム貴公子。あのガットゥーゾ家の若旦那がこれほどまで淫蕩な様相になっているなど誰が思うだろう。
 本棚の脇には何十箱もの文書箱が積まれ、搬送チームが人手不足なのは見て取れた。ロ・メイヒ、シーザーとソ・シハンは小走りで一箱ずつ取りに行き、他のメンバーに続いて貨物エレベーターに向かった。一言も発するものはおらず、梱包する人は梱包だけ、搬送する人だけは搬送するだけ。まさに日本人らしい効率化といったところで、これほど緊急の仕事でも役割分担は明確で、全員が自身の明確な役割を持ち、現場でのスケジューリングなど全く必要としない。人員管理の責任者であろう桜井七海は応援を待っていて、ロ・メイヒたちを助太刀に来た人員だと勘違いしてしまったのだろう。
 シーザーが前の人を真似てエレベーターの前に文書箱を置くと、誰かが箱の上の番号を記録して確認した。その後文書箱は黒い包みに覆われ、エレベーターに送られた。
 記録を取る担当者が手に持った鉛筆を振ると、後ろで文書を搬送していた者が立ち止まり、エレベーター内に残っていた執行局幹部が「ハイ」と頷くと、エレベーターは文書箱を満載にして上の階へと昇っていく。
 シーザーは辺りを見回したが、全ての出入口は執行局幹部に守られていた。文書の量を鑑みるに、この奇妙な運搬作業は明日の朝まで終わらないだろう。ここで時間を消耗するわけにはいかない。そうでなくとも、早くなんとかしなければ遅かれ早かれ正体がバレてしまう。
「流れは何となく分かった。エレベーターに載る文書箱は一度に50箱、最後の箱を持ってきた人が同乗して文書を上に送る。つまり、50箱運べばここから出られる」ソ・シハンが囁いた。
 シーザーは突然悟った。まさに日本人の組織化傾向は刻印レベルといったところか。一度にエレベーターで運ばれる文書箱は50箱と決められ、50人目の搬送員が当然のように護衛を務める、まるで自動機械の一部のように精密な分業。自分の口座の金額すら数えるのを嫌がるシーザーには分からなかったことだが、ソ・シハンの精密さも日本人に劣らないようだ。作業速度をうまくコントロールして50人目になれれば、三人がこの資料室から出るのに三度のエレベーターで足りる。一度のエレベーターを埋めるのに十分程かかるから、三十分もあればここから出られることになる。
 三人は互いに目配せし合った。「俺が最初、ソ・シハンは二番目。ロ・メイヒは最後だ」シーザーは囁いた。
「撤退する時は病・弱・老・障が最初でしょ!?」ロ・メイヒは小さな声で抗議した。
「だが一番目立たない顔をしてるのはお前だろ? 折角の才能なんだから存分に生かせ、Sakura!」シーザーは汗を拭った。自分が最初に撤退するのを決めたのは臆病からではない。日焼けクリームを塗った男は会社員のような黒服たちと比べてしまえばやはり人目を引く方で、さながら乱入してきた109ガールのように異質に見えてしまうからだ。
 
109ガールとは、渋谷109ビルの近くで活動する中高生のトレンディガールたちのことである。安室奈美恵が日焼けクリームを使って健康的なイメージを見せた時は、日本人女子たちは皆自分を黒く見せることでセクシーになろうとしたという。

「警視庁が捜索令状を出したのは今回が初めてではないでしょう? 何を探してるんです?」突然シーザーの後方から聞き慣れた声が聞こえた。
 シーザーの身体がわずかに震えた。執行局局長、源稚生がすぐ背後にいる!
 ソ・シハンは鋭敏に殺気を感じ取った。源稚生ではない、シーザーのものだ。シーザーの顔の筋肉が無意識の内に引き締まり、鋭い皺が刻まれた。
 そこにあるのは恐れではない……憤りだ!
 シーザーはここ数日、何度も同じ夢を見た。ゴウゴウと燃える世界、紅い身体が屋根から落ち、彼は彼女を受け止めようと飛び出すが、受け止めたその瞬間彼女は赤い砂へと変わり、腕の中は空のまま。目覚めた時はいつも汗だくで、しかし心は凍り付いたように冷たかった。何度同じ夢を見ても真は受け止められない。そこに生と死の隔たりがあるからだ。そしてシーザーは何度も思い出す。数年前までの弱小なシーザー、他人の操り人形だった子供時代、「空を抱く」無力感、自分の誇りである哀れな母親……
 あの悪夢を終わらせる為、死ぬ時に後悔を残さない為、今ここで全てを解決する!
 ――もし彼が自分自身を抑えられなければ、彼はすぐさま源稚生の喉元に飛び掛かり、この陽柔秀気な女々しい日本人を壁に打ち付け、全てを説明させただろう。源稚生が何も言わなければ、シーザーはその喉の骨でも砕いてやるつもりだった。
 ソ・シハンはシーザーを牽制する為に小さく咳をした。無数の戦場を経験し、殺気には野獣のように敏感な人間、それが源稚生だ。今に至るまでソ・シハンはこの「日本支部最強」の強さを推し測りかねている。源稚生という男はまるで井戸だ。水面は平静にして波一つ立たず、しかし底が決して見えない。三人が寄って集って敵うかどうか分からない源稚生、しかもその隣にはまた更に誰かが居る。オロチ八家の前任大族長、橘政宗。オロチ八家の精神的指導者。彼もまた、底の見えない井戸だ。
「国会の暴力団対策委員会が指示したのだ。名目上は銃刀法違反の疑いだが、実際はただの敲山震虎、我らに最早目は瞑らんという意思の表明でしかあるまい。だが我らは今や猛鬼衆との戦争で一都一道二府四十三県を取り戻した。国会など何の脅威になろう? もっとも、暴力団対策法の改正を止めるには遅すぎる故、捜査令状で少し騒ぎを起こす必要はあるがな」橘政宗は笑った。「なに、この程度の些事、稚生の心配することではない。公安は何も見つけられんよ。まあ、武器は簡単に移送できるが、ここらのファイルはちと面倒よの。数も多ければ、動かさねば動かぬ」
「これを全て裏エリアに?」
「ああ。丸山建造所の設計水準を以ってすれば、警視庁がこの建物に隠された区域があるとは思いもせんだろう。岩流研究所のドックも安全だ。儂が警視庁の老人共をちゃんとお迎えすれば全て収まる。どちらにせよこの戦争はもうすぐ終わる、残っているのは王将と竜王だけだ。極楽館は落ち、最後の巣穴も失えば、外を彷徨う蜘蛛は長くは持たん」橘政宗の声はだんだん小さくなっていく。「唯一の不安は……神だ。鬼どもにいくら詰問しようと、神の消息については一向に掴めん」
「私は王将と竜王の捜索を続けます。神の消息も、この二人だけが知っているのでしょう」源稚生はそこで話を一度止めた。「……シーザーチームの消息はどうですか?」
「全く無い、不思議なことにな。日本語も分からず、寝泊りの場もない彼らが、東京と埼玉の境付近で忽然と消息を絶ったのだ。我らだけでなく、カッセル学院も彼らを見つけられておらんようだ。第三者が彼らを保護しているとしても、この日本で我らに歯向かうリスクを冒してまで保護する第三者とは一体誰ぞ?」橘政宗は首を振った。
「犬山家の葬式はどうするつもりですか?」
「新しい当主が選ばれるのを待つしかあるまい。犬山家の者達は皆悲嘆の中におる。立ち直るにはまだ時間が必要であろう」
「では、ここ数日の校長の行方は?」
「奴はこの街で完全に消息を絶ちおった。まあ、奴にとって難しいことではないだろう。奴は日本をよく知っているし、旧友も数多い。我らも敢えて人を送ることはせん。言霊『ゼロタイム』を持つS級混血種、奴が消えようと思うなら、誰にも追うことは出来んよ」
 源稚生と橘政宗が話しながら歩き、ロ・メイヒのすぐ傍を通り抜けていった。すっかり汗を吸ったトレンチコートが身体に張り付く。彼は耳を傾けて盗み聞こうとしたが、橘政宗も源稚生も声が小さすぎた。しかもロ・メイヒの日本語能力は主にアニメで培われ、特に美少女の嬌声と萌え声に特化したものであって、神、王将、竜王とかいった意味不明な語彙の混ざり合った二人の会話は半分も理解できなかった。一番の情報は、アンジェ校長が東京に来ているという事だ。
 アンジェはシークレット・パーティの歴史上でも伝説の人物である。彼を伝説たらしめているのは血や能力ではなく、彼の神秘的な運命だ。過去百年間、どんな危機が訪れようとも、アンジェが現れれば流れが変わる。ロ・メイヒはあのコンスタンティンとの戦いを今でも鮮明に覚えている。校庭のど真ん中で目覚めた竜王コンスタンティン……ロ・メイヒの必死の狙撃が外れても、アンジェは絶対的な冷静さでコンスタンティンを圧倒した。竜王に向かって跳躍する彼の姿は、生徒全員の記憶に深く刻み込まれ、刻み込まれた全員が龍殺しの剣となった。まだ校長と接触はできていないが、ロ・メイヒは背筋がひとりでにシャキッとなるのを感じた。
 ソ・シハンが貨物用エレベーターで二度指示を出すと、エレベーターの扉がゆっくりと閉まっていく。撤退計画は順調だった。シーザーとソ・シハンが次々と文書箱と共に上層階に昇っていくのを見て、ロ・メイヒはさらに力強く箱を運んでいくのだった。

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