『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第一章:世紀の婚礼

 シーザーは自身満々に語った。「俺の計画は世界一周セーリングだけじゃ飽き足らない。世界各地の風情ある家を60戸買い上げて、その全ての家のベッドルームに彼女専用のウェディングドレスを並べるんだ。アイツは毎晩違うドレスを着て、馬に乗ったり、ビーチで踊ったりする。アイツの笑顔の中、夕日は海に沈んでいく……」

 ニューヨーク、ロックフェラーセンター。
 この石灰岩の建築物は七十年以上の歴史があり、典型的なコスモポリタンスタイルは派手でエレガント、そして荘厳である。内部には超一流のプライベートクラブや極上クラスのホテル、世界最大の美術品オークションハウスであるクリスティーズやトレース&アソシエイツのオフィスなど、富裕層や権力者向けの専門施設が立ち並ぶ。
 トレース&アソシエイツ? インターネットからその謎の企業の情報を得ることはできない。なぜなら、そのサービスを享受できるのはほんのわずかな人々だけだからである。
 それは、世界最高のウェディングコンサルタンツである。
 世界では毎分数千の結婚式が行われる。誓いを宣し、指輪を交換し、花嫁にキスをして、ケーキを切る……一般的な結婚式では、新婦は白いレースのドレスを誇らしげに着て「私はあなた達みたいな残り物じゃない」と大嫌いな女友達たちに指輪をはめた手を自慢げにかざし、新郎はついぞ手に入れた花嫁をさっさと裸にしてしまいたいと思っている……。
 しかし一部の特権階級にとっては、結婚式は単なる儀式ではなく、一族の富を披露するための見本市であり、豪族同士の記者会見、あるいは互いの国の戦争調停である。こうした特権階級は、結婚式に躊躇なく巨額の資産を投入する。トレース&アソシエイツは、この特権階級の人々に完全なウェディングプランを提供する企業であり、顧客の要求するあらゆる演出を実現することができる。かつてはヨーロッパの王族に数人のシンデレラを嫁がせることに成功したし、逆に王室の姫君を石油王に嫁がせることも果たしている。某国の大統領を呼びつけてスピーチをしてもらうことなどお手の物、BBCを通して結婚式の全日程を全世界に放映することだって可能だ。
 西アフリカの大自然の中、動物達の大移動を横目に現地の少女と恋に落ちたトップ・ロックスターの黒人がいた。アフリカの黒き土地で犀や象に囲まれた結婚式を突如思い立った彼は、信心深いカトリック教徒として、教会と神父を求めた。知らせを受けたトレース&アソシエイツは、560キロ離れた最寄りの都市の教会を解体させ、その資材と作業員をロックスターのすぐ近くへと空輸・投下し、一日も経たないうちに建て直してしまった。扉を開ければ当然のように神父がいて、その背丈・体格もロックスターの望み通り。神父は48つの言語で二人に祝福の言葉を授けた。
 要するに、自分の結婚式をより盛大に執り行いたい富豪にとって、トレース&アソシエイツに依頼するのは最も正しい道なのだ。金に糸目さえつけなければ。

 今日はトレース&アソシエイツにとって特別な日である。あるクライアントが結婚式を予約したのだ。
 原則、トレース&アソシエイツはプライベート・モデルショーなど提供しない。しかしこのクライアントはMintクラブ紹介の超VIPである。トレース&アソシエイツは、Mintクラブにおける「VIP」がどのような存在かを知っている……要するに、「適正価格」を「完璧」以外のなにものにも認めない人たちである。
 ロックフェラーセンター最上階のテラスにある約七千平方メートルの広大な空間では、128人の若いモデルが並び歩き、それぞれ世界中のトップデザイナーが作ったウェディングドレスを着ている。冷たい都市風が吹く中、トップレスもあればバックレスもあり、15cmのハイヒールを履くものもいれば、白色のレーススカートの中にぼんやり浮かび上がる長脚を見せつけるものもいる。
 これこそ、結婚式における第一歩、ウェディングドレス選びの時間である。
 Vera Wang、Alexander McQueen、Monique Lhuillier、Pnina Tornai……モデルたちが身につけるブランドは、世界の99%の人が生涯で知ることすらない、超高級トップブランドばかりである。そもそも、ウェディングドレスのブランドを覚えるファッショニスタもそうそういない。鰐革ハンドバッグや高級腕時計と違って、一生に一度しか着ないウェディングドレスは場と人に合わせてレンタルすればいいのだから。
 だが、このVIPはすでに18着目を買い上げていた。
 シャンパングラスを片手にヴェールの白い雲の中を歩きながら、ふと目をやったウェディングドレスの番号を記し、追従するウェディングプランナーに手渡す。プランナーは考えていた。最初、このVIPは高級ブライダルショップでも開くためのサンプルでも買い入れているのだと推測していたのだが、その予測は外れつつある。このVIPが目を留めるウェディングドレスはいずれも、バスト、ウエスト、ヒップ全てが同じサイズに揃えられている。……同じ女性の為に18着もウェディングドレスを買っている。そしてその数はまだまだ増え続けそうだった。
 プランナーは顔も知らぬ幸運な女性の輪郭を想像した。経験上、この程度のサイズの女性は……控えめの胸部、足が長くてウエストが細い、腰や臀部は太すぎない……身長はそれほど高くない、ナイス・バディというわけではなく、スーパーモデルのような姿とはかけ離れている。そんな凡庸な見目の女性が、どうやってこの千金一擲なVIP貴公子の心をとらえたのだろう? この貴公子のまばゆい金髪とビーチの太陽のように明るい笑顔は、おそらく20半ばである若さゆえだ。かなり女性の扱いに慣れているらしく、自らウェディングドレスに袖を通せば、礼儀正しくモデルたちとその良さを話し合い、ドレスを持ち上げて必要なヒールの高さを確かめたり、あるドレスの首がきついなどと文句を言ったりしながら、彼女達の信頼を得ていっている。
 この手のレディ・キラーは30歳くらいまで遊ぶものじゃないのか? なぜ20代も半ばで結婚を? いったいどんな木のために森ごと手放そうというのだろうか……?
「ガットゥーゾ氏、これで注文されたウェディングドレスは22枚です」プランナーはVIPに追いつく為に小走りになった。「Ines Di Santoの新作ドレスが4着あります……深いV字サイドスリットがセクシーです。ご覧になりますか?」
 若きガットゥーゾ氏はしばらく考え込んだ。「いや、いい。Ines Di Santoは俺の趣味に合わない……」
 プランナーにとって驚愕ばかりのショッピングが終わるかと思った矢先、VIPは淡々と言い放った。「このブランドのデザインは良いな。全部買うぞ」彼が買ったウェディングドレスの数は一気に26着になった。
「僭越ですが、私の経験では……」プランナーは口を挟まずにはいられなかった。「もうこれ以上目新しいデザインのウェディングドレスは見つからないかと。あとは何を見ても同じような感想になると思います」
 VIPは小さく頷いた。「一理あるな。俺の計画では、これの他に花嫁は中国式、日本式、スーダン式の婚礼服を着ることになっている。『ウェディングドレス』は26着程度で十分だろう」
 プランナーは心の中でこの贅沢な男を呪った。凡庸な身体の女がこの貴族との結婚に漕ぎ着けたのはカネに対する貪欲じゃないのか? 結婚式でドレスに着替えたらカルチャーショックで泡でも吹いてしまえ! それでも、プランナーは愛想笑いを保ち切った。彼が手を振ると白い雲の様なモデル達はテラスから去り、ベテランアシスタントのグループが入れ違いに現れた。女性アシスタント達がT字型に並んで立ち、それぞれトレース&アソシエイツが過去に企画した結婚式の写真やプランナーのデザイン原稿が収まった大きなアルバムをそれぞれ手にしている。
 トレース&アソシエイツが企画した結婚式は一つ一つ違う。大海の中心にひとつ建てられた木製のポンツーンにヘリコプターでカップルを乗せ、水上飛行機に乗ったゲストたちが見守る中、二人だけの海原の果てで愛の誓いを交わさせたこともあれば、北極海の氷山を買い取ってハート型に模り、大型船でハワイまで曳航して結婚式場として使ったりもした。果てには、ロシアの宇宙船をチャーターして新郎新婦とゲストは無重力へ! いかなる障害も無いに等しかったが、ただ一つだけ、無重力では新婦や女性ゲストのスカートが浮いてしまい、その対処が一苦労だった。もちろんパンツくらいはみんな穿くだろうが、ロマンチックな雰囲気は台無しになってしまう。いくらトレース&アソシエイツのウェディングプランナーでもVera Wangのセクシーなウェディングドレスが無重力に対応していないのは流石に想定外だとして、頭を掻き毟ったものだ。
 結婚式に関して、トレース&アソシエイツのプランナーは自分のセンスを信じている。世界で最も目の肥えたクライアントたちを満足させてきたのだから、そう思うだけの実績もある。彼らのプランにかかれば、新郎新婦の元ガールフレンドや元ボーイフレンドでさえ、涙を流して祝福せざるを得ないのだ!
 だからこそ、今回もまたアルバムが開かれるまで、プランナーは絶対的な自信を持っていた。

「つまらん、次」VIPは一目見ただけでアルバムを閉じた。美しい写真ではあったが、彼は残念そうに首を振っている。
 ウェディングプランナーの心が研がれ、目が澄まされ、高揚感が身を引き締める。「真剣勝負」の瞬間が来たのだ。
 彼は若いVIPを見くびっていたことを自覚した。相手のセンスは想像以上だ! 最初のプランはただただ単純に贅沢さを追究したもので、本物のウェディングプランナーの目には単なる子供だましにしか見えなかった。VIPがそれを見るなり完璧だなんだと賛美して喜んで手数料小切手にサインしていたら、トレース&アソシエイツのベテランたちは彼をアラブの下級石油富豪、成金酔狂と同等にしか思わなかっただろう。
 プランナーとハイタッチしつつ第一陣のアシスタントチームが退散すると、第二のアシスタントチームが現れ、同じようにアルバムを見せる。
 次に提示されたのは貴族的なプランだ。トレース&アソシエイツが所有する郊外の古城で、ヨーロッパ貴族が中世期に好んだ古典的な婚礼式を再現するものだ。王子の乗った黒い駿馬が青々とした草地を駆け、新婦は白いハンティングドレスを着飾り、王子の母は四輪馬車に乗って現れる。結婚指輪は14世紀にインドで産出された赤いダイヤモンド「インペリアル・ヒル」。
「思ってたのと違うな。次」VIPはまだ首を横に振る。
 プランナーは静かに歯を食いしばった。第三案は今インテリ層に実際人気な環境保全的結婚プランである。花嫁が白いイルカに乗って現れ、破壊的トロール船漁法によるシロイルカチャン混獲に対する懸念と地球温暖化による特定海洋生物の絶滅危機に対する深遠な問題意識をアッピールーすることができる。
「ホオジロサメに乗れるならアイツも多少気になったかもしれないがな」VIPは苦笑しながら遠回しに没をつけた。
 第四案は芸術的なプランだった。
「ダメだ。アイツのハイパー先鋭芸術的センスを刺激するだけだ」
 第五案は、結婚式自体を映画にしてしまう素敵プランだ。新郎は007を演じ、花嫁は「ローマの休日」の姫を演じる。
「『キングコング』にしてくれないか? ゴリラの役、一度やってみたかったんだ」VIPはフッと笑った。
 第六案……第七案……プランナーは閉口し、そのシャツに冷や汗が染み始めていた。一体どういうことだ? この全能ともいえるトレース&アソシエイツが、このVIPの要求に応えられないというのか? そんなことになってしまえば自分だけではなく会社自体が業界の笑いの種になってしまう。
「ガットゥーゾ氏、ご希望のプランはございますか?」プランナーは反撃するしかなかった。
 シーザー・ガットゥーゾ氏は答える代わりに携帯電話を手渡した。ディスプレイには数羽のチゴハヤブサが止まった三本マストのヨットが映っている。
「サン・セバスチャン号、俺の15歳の誕生日プレゼントだ。アイツと一緒にこの無動力ヨットで世界一周するのが、俺の結婚式だ」
プランナーは目を大きく見開いた。「ガットゥーゾ氏、流石に危険すぎます! だいたい、ヨットで世界一周なんて一年以上かかりますよ」
「時間なぞどうでもいい。危険を顧みる必要もない。俺もアイツもセーリングは大の得意なんだ。俺達の母校の伝統科目だからな」シーザーは自身満々に語った。「俺の計画は世界一周セーリングだけじゃ飽き足らない。世界各地の風情ある家を60戸買い上げて、その全ての家のベッドルームに彼女専用のウェディングドレスを並べるんだ。アイツは毎晩違うドレスを着て、馬に乗ったり、ビーチで踊ったりする。アイツの笑顔の中、夕日は海に沈んでいく……」
「そそ……それはつまり、世界中で60回結婚式を挙げるということですか!」
 彼はシーザーを完全に誤解していた……シーザーは決して細部に拘っているわけではなかった、ただ、「すごさ」というパラメータだけを欲していたのだ。これまでのプランがどれも彼の虚栄心を満たせるほどに「すごく」なかった、切り捨てる理由はただそれだけだった。
 この男はその女との結婚をどれだけ世界中に自慢したいのだろうか? プランナーは考え込まざるを得なかった。
「そうさ! 60回だ! 60回分、全部完全に違う様式で、最高の結婚式プランを計画してくれ!」シーザーはプランナーの肩を叩いて親指を立てた。意味としては「お前ならできる」だとか「信じてるぜ、兄弟」みたいな感じだ。
「そうなると、複数のチームで結婚式の手配をしなければならなくなります。式場や披露宴などの細かい用意はヨットが到着する前に飛行機で送ることになるでしょうね。しかし費用は高くつくでしょうし、私が仕切らなければ何が起こるかわかりません……」プランナーは言葉の裏に、シーザーの心変わりを期待する色を込めた。
 シーザーはしばらく考えた後、拍手しながら大声を上げた。「そうだ! 君が家族や信頼できるアシスタントを率いて一緒に付いてくればいい。俺達と一緒に海を渡って港を巡って、そこで結婚式をすればいいじゃないか!」
 プランナーの目の前が少し暗くなった。「私のセーリングは趣味でしかやってないんです……あなた達と一緒に世界一周というにはちょっと……」
「俺は君やアシスタント達の分までヨットを用意できるぞ?」シーザーは目を輝かせながら微笑んだ。「想像してみろ、すごいぞ……? 俺達はイスタンブールから西へ漕ぎ出でる……ボスポラス海峡を通り、紅海を渡って、アフリカ大陸の東海岸に躍り出る……」
「ソマリアに出る必要性は……?」
「あるんだよ」シーザーは肩を竦めた。「マゼランが旅した道だからな」
「でもソマリアには……海賊がいるんですよ! あなた方の安全を守るためには……!」プランナーの内心は、自分の妻子やクライアントをわざわざ危険にさらす意味が無い! と嘆いた。
「じゃあ、ソマリア海域での護衛としてアメリカ海軍の潜水艦を雇えばいい」シーザーは飄々として言った。
「わが社は……アメリカ海軍との繋がりはありません。無理です」プランナーは弱々しく言った。
「傭兵が雇えないなら、代替案もある」シーザーは同乗して頷いた。
「代替案?」プランナーは突然、この若者にも救いがあるかと感じた。
「武器を用意してくれ」
「武器?」
「バレット・スナイパーライフル、耐海水仕様のグロック拳銃に、ヴァイパー四連装ロケットランチャー……あとイギリス製の『スターライト』単発ミサイルもあればいいが……これだけあれば俺とアイツだけで海賊団くらい相手にできる」
「あなたと……新婦さん……で?」プランナーは自分の耳を疑い、次いで自分の理解力を、最後に相手の正気を疑った。いったいどういうファンタジーだ? 彼は本当に結婚式を計画する気でここに来たのだろうか? もしかしたら遊んでいるだけなのでは……?
「信じられないだろうが、君もアイツを見ればわかるだろう。アイツは最高の女だよ!」シーザーは満悦だ。
「そうですね! あなたの見込んだ女性だ、さぞかし素晴らしい女性なんでしょうね!」プランナーは心底泣きたい気分になって叫んだ。
 こんな狂人と一緒になるなんて、なんてイカれた女だ! 体形なんてもう問題じゃない!

「三週間以内には最初の企画書をお送りいたします」プランナーはシーザーを屋上ヘリポートに送り、握手で別れを告げた。「特殊なご要望になるので、少し時間を頂けると」
 三時間の精神的虐待を通じて、彼はクライアントの要求になんとか妥協点を見つけ出した。一度受け入れてしまえば不思議なことに、一年中船で海に揺られながら世界中の結婚式を巡るステキな旅が心のビジョンに浮かんできて、なんだかキュートな気分すら昂ってくる。
「結婚式場の一つは東京のメイジ・シュラインにする。これだけは譲れない」シーザーは言いつけた。
「新婦は日本人なのです?」
「いや、中国人だ」
「ではあなたが日本を気に入っていると」
「いや、俺は日本に行ったことないんだ」シーザーはニューヨークの東に広がる大海原の向こうを眺めながら、一瞬の沈黙の後、呟いた。「だが、俺の一生で一度は絶対に行かなきゃいけない所だ……」
「最後に一つだけ確認します、日程はいつになさいますか?」
「まずは予定を擦り合わせなきゃいけないからな。アイツには何も伝えてないからまだわからん」シーザーは頭を掻いた。「結婚式みたいな人生のビッグ・イベントは完璧にしなければならない。少し先を見越した計画を立ててくれ」
 クライアントのご要望の洗礼を三時間受けていたプランナーだったが、その言葉を聞いた瞬間、血を吐きたくなる思いがした。
「悪く思わないでくれ。俺もできるだけ早く済ませたいんだが、どうすればいいんだろうな? ノノ、最近失踪したんだよな」シーザーは洒然とヘリコプターに乗り込んだ。

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