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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第九章:源氏重工

 ロ・メイヒは震えた。この賑やかな都市のそば、百二十海里ほど離れた海の底で龍がひっそりと孵化しているなど。それが表に現れた暁には、ここで街を歩き列車に乗り込む学生やサラリーマンたちも、みな全てが恐怖に怯えて逃げまどい、やがて全世界がその咆哮に慄き震えることになるのだろう。

「ロ・メイヒ、いつからそんなに勤勉になったんだ?」シーザーが言った。「こんな早朝から読書とは」
 ロ・メイヒは『日本神话与历史100讲』のページをめくっている。確かにロ・メイヒがあまり興味を持つ類の本ではなかったが、ロ・メイタクが役に立つとかなんとか言って無理矢理荷物に突っ込んだブックレットだ。これまでの経験からすれば、ロ・メイタクの「サービス」は必要最小限だけ、逆に言えば役に立たないものなど何一つないはず。いわば、イヌとカンヅメが出てくるクエストのようなものだ。その道中には必ずイヌが現れ、カンヅメを使っておびき寄せなければならない。クエストの途中でカンヅメを無くしてしまったら、犬は手に入らずにゲームオーバー。ゲームから得たこういう知識からすれば、このブックレットの内容も何かしら役に立つはずなのだ。
「日本文化をたくさん学べば、帰った時に自慢できるもんね」それでもロ・メイヒはナンセンスに返した。
 ブックレットの内容は日本神話の大まかなあらすじだったが、ロ・メイヒは既に同じような内容をマンガで知っていた。しかしこうして腰を据えて理解する必要性も十分ある。教授曰く、各民族の神話というのはそれぞれの歴史に基づいて描かれたものも多く、一見突飛に見える神話も実は歴史の中に原型がある、という。
 最も典型的なのは大洪水神話だろう。『聖書』にはノアの家族と方舟に乗せられた動物たちだけが全世界を覆う大洪水を生き延びたという話があるが、二十世紀以前の無信仰の科学者たちは大洪水を完全な虚構だと理解していた。全世界を呑み込む洪水などあるはずがない、もしそんなものがあったなら今頃地球は完全な水の球になっているはずではないのか、と。仮にあったとしても、全世界の海面を駆け巡る数百メートルもの巨大波など空母すら生き残れはしない。ましてやノアの木造船など……。それにこれだけの規模の洪水があるとすれば数億年、あるいは十数億年も前だろうが、それはもはや三葉虫が覇権を握るようなカンブリア時代。人間はもちろん、恐竜すら現れていないような時代だ。
 だがやがて神話学者たちの研究で、大洪水の神話は『聖書』に留まらず、メソポタミア神話から古代中国神話、インド神話まで、ユーラシア大陸の東から西までの全ての民族が大洪水の神話を語っていることが解ってきた。その違いは救世主であり、中国人は大禹という英雄が洪水を治めたと伝えているほか、インドの古典『マヌ法典』には祖先マヌの船が巨大な魚にヒマラヤ山頂まで引っ張られ洪水を生き延びる物語が描かれている。その後、とある学者が地球の第四紀大氷河期の終わりを約一万二千年前と計算した。巨大な氷河が融け、海面が上昇し「大海進」という地質現象を引き起こし、あらゆる低地が海に沈んだという。この世界的な大洪水が古代人の記憶に残り、各部族が世界を破壊する洪水の神話を残したのだ。今や「ノアの箱舟」を追い求めて世界中を回る人もいる。彼らが大船の痕跡を探し求めるのは、黒海沿岸やギリシャ山脈。地球が水没していた時代、黒海沿岸やギリシャの山岳地帯は海の底にあったからだ。
 日本の混血種の歴史は古い。となれば日本の神話にも龍族文明の影があって然るべきなのだが、ロ・メイヒはそれを全く了解できなかった。日本神話は大概せせこましい話でしかなく、壮大な龍族文明とはまったく無縁のように思える。ブックレットでは一対の男女の神、イザナギとイザナミの二人が海底の砂をかきまぜ、その泥から日本国を形成したとされている。その後彼らは他の神を見つけることができず、禁断の関係にもつれ込まざるを得なくなり、兄妹で結婚することになった。兄妹は夫婦の神に昇格し、日本の神々全てを生んだ。火神、雷神、山神、水神……せっせこと神を造り、大便すらも神となった。日本神話はイザナギ・イザナミ夫婦の家族史であり、全ての神は家族の一人、全てのことは家族のことなのだ。

「日本神話と龍族文明の関係でも調べているのか?」ソ・シハンが言った。「多分難しいだろう。かつて教授たちも日本神話を解釈しようとしたが、大きな障害に当たっている。日本神話は既知の龍族の歴史と完全に断絶しているらしい。例えば日本神話の諸神には龍のような宿敵がいない。大家族の繁栄ばかりが語られていて、教授達がどう解釈しようとも紛争や戦争は見い出せない。龍族歴史の主軸は戦争だからな」
「でもこの本は、天皇家が神々の子孫だって言ってるよ」ロ・メイヒはブックレットをめくった。「第一天皇の神武天皇が天照大神の子孫だって。すごっ、神々しすぎない?」
「それも日本神話の特徴だ。イザナギとイザナミの子孫の各世代は『古事記』という書物に全て纏められ、かなり具体的な時間軸がある。神武天皇を始めとして、それ以降の子孫の世代はみな天皇、それ以前の世代はみな神だ。そういう意味では、日本の天皇家は世界で唯一家系図が現存する神々の一族だ」
「歴史家なんてどうせお抱えなんでしょ、勝手にデタラメでもなんでも作っちゃうんだから。僕だってお金持ちになったら自分で家系図作っちゃうもんね。先祖はこんなエライ人だったんだぞ、たとえば誰ソレが誰誰……」ロ・メイヒが言いながら頭を掻きむしり始めた。
「どうせロ・何とかっていう人名を並べるだけだろ?」シーザーが言った。
「ダメだ、ロ・何とかなんていう偉人ひとりも思いつかない!」ロ・メイヒはため息をついた。
「確かに日本天皇の家系には信用できないところもある。最初の十代の天皇は文字の記載があるだけで学術的考証がない。日本人の歴史と神話の区別は大概微妙で、二次大戦までは多くの日本人が天皇は神の子孫だと信じていたくらいだ。つまり、日本の神話と歴史は一体であり、古代から現代まで日本人は神話の中で生きて来たとも言える。その神の末裔は、今でもこの国の名目上の皇帝だしな」ソ・シハンは言った。
「日本の歴史に古龍が復活したとかはないの?」ロ・メイヒが聞いた。
「全くない。俺もEVAに確認したが、日本にはそういう復活事件が一切ないどころか、龍族文明の痕跡すら全くない。日本は世界で最も『きれい』だ。龍族の活動すら見えない。日本支部が扱う案件も些細なものばかりだ。ヨーロッパで出土した龍族文明に関する古物が日本でオークションに出された、とかな」
「日本に龍族文明が無いって? じゃあ、混血種はどこから来たの?」ロ・メイヒは聞いた。
「誰も知らない。日本の混血種は、日本の神話と同じく、今に至るまで謎だ。……奴ら自身も知らないのかもしれないな」ソ・シハンは窓の外に顔を向けた。

 黒塗りのレクサスが東京の街を通り抜ける。一夜明けて雨が上がった東京の新鮮な空気にはかすかに海藻のような匂いが漂う。ニュースによれば、太平洋から温暖湿潤気流が日本全体に流れ込んでいてこの先数日は雨の天気が続くという。シーザーチームがこの高級車の後列に座るとき、シーザーとソ・シハンは躊躇なく両端の窓際席を選び、ロ・メイヒにはその間に座る以外の選択肢は残されなかった。昨日の着陸から今朝までシーザーとソ・シハンは一言も交わさず、ロ・メイヒとしか口を利かない。二人ともが何かの問題を議論するにしてもロ・メイヒにしか意見を言わない。まるで冷戦を繰り広げる二人の叔母と、その間を取り持たなきゃいけない主人みたいだ……ロ・メイヒはそう感じた。
 ロ・メイヒ主人の現在の状況はかなり微妙だった。名目上は学生自治会の下っ端だが、獅子心会会長とも運命的な親交があり、さらには密かに未来の兄嫁を慕ってもいる……もしこれがギャング映画だったら真っ先に路上で撃たれて死ぬ役回りだ。たった三人しかいないシーザーチーム、しかしこの三人の複雑な関係は、いつ爆発するかもわからない時限爆弾のようなものなのだ。

 夜の東京は日中の東京とは全く違う。東京の夜景は五光十色、妖冶美絶にきらめく、着物に身を包んだ誘惑的な姐御のよう。対して昼間の東京はスポーティーガールのようで、パステルカラーにシンプル、遠くの建物が空に淡く溶けてゆく。秩序と整序の行き届いた町。地下鉄口を出入りするラッシュアワーの通勤サラリーマンや足早に行き交う人々、彼らはまるで不可視のレールが敷かれているかのように規則正しく、そのレールを踏み外す者もほとんどいない。焦る者も喚く者もなく、信号の前で黙って待っている。信号が緑になれば路上の車らが一秒も経たずに完全に停止し、人の潮が各自のレールに沿って散らばって行き、信号が赤になればすぐさま交通が再開され、新たな人垣が赤信号の下で静かに待つ。
 ソ・シハンは車窓から外を眺めているロ・メイヒを見た。その瞳孔には果てしなく続く車の列が映っている。
「ルールと規則の国。国が一つの複雑な機械、個人はその機械のルールに従って高速で動作する部品のようなものだ。ぞっとしない生活だな」ソ・シハンが呟いた。「そう思わないか?」
「いや……日本の女の子の足は細いなぁって……」
 ソ・シハンは押し黙って顔を背けた。同じような眼差しで同じものを見つめても、観察者が同じ心理を働かせるとは限らないのだ。林黛玉を見た賈宝玉が「この子どこかで見たことあるな」と心躍らせたのに対し、同じく林黛玉を見た薛蟠が感じたのは「声カワイイ・柔らカワイイ・押し倒したい、ロリ最高!」などだった、というように。

 車が止まった。黒いスーツを着た女性が扉を開け、両手をスラックスにピタリと沿わせて深々と頭を下げた。「ようこそ。本部要員の日本支部訪問、歓迎いたします」

 朝食後には既に日本支部の車がホテルの前につけられていて、日本支部の東京拠点へ訪問する手筈になっていた。朝食はダイニングカートでスイートルームに直接運ばれ、シェフ直々に調理した食事と今日の旅程が記載されたファックス文書が届けられた。旅程は十五分刻みでガチガチに詰められており、午前九時から午後六時まで日本支部の東京オフィスを訪問した後、宮内庁の案内で日本皇居を見学、千四百年の歴史を誇る浅草寺の参拝、銀座ショッピング。ランチはミシュラン三ツ星のフレンチレストラン、ディナーはシェフが最高級の日本料理を提供する。ディナーに使われるのは1.86メートルの深海マグロを含む鮮魚、築地の魚市場から今朝六時に出荷されたばかりのものらしい。ソ・シハンですら驚く程に緻密すぎるスケジュールには交通渋滞に備えた予備スケジュールまで組まれており、午前九時から午後六時まで、いわゆる自由時間なるものは全くなかった。こうして彼らも日本という巨大な機械の一部となり、機械の一部として回らざるを得なくなったのである。

「こういう時って、黒スーツ男が列を成して道を作ってくれるもんじゃないのか?」シーザーは車から降り、黒い摩天楼を仰ぎ見た。
 淡雅な灰色のビル群の中、黒鉄色のガラス幕に覆われたその建物一つだけが強烈に突兀している。それは黒い鉄碑のごとく、中に入った機関がどれだけ強力なものであるかを暗に示している。
「一族の神社なら伝統的な歓迎もできますでしょうが、東京では周りの迷惑になりますし、あまり目立つと困りますから。ご容赦ください」車のドアを開けたのは源稚生の側近の矢吹桜だ。昨晩も出会ってはいるが、やはり日本人女性にしては珍しい細身の長身、漆黒の長髪は剣道少女のようなハイポニーテールに梳かされている。
「渋滞で予定より到着が四分ほど遅れましたが大丈夫です。事前に交通状況を予測し、各家当主との会議を十五分遅らせました。オフィスにご案内します、こちらへどうぞ」

「2004年建築のビルです。源氏重工株式会社の本社であり、学院の東京における中心でもあります」桜はシーザー三人組をオープンホールまで連れて行った。
 ホールのいたるところから素早く力強い足音が聞こえ、フォルダーを持った社員が行き交い、空気中に優雅な香水の匂いが漂ったかと思うと、エレベーター到着のベルが次々と鳴り響く。銀座のビジネスセンターとほとんど変わらない光景だ。彼らが扱うビジネスを除けば……。

「課長! 沼鴉会からの連絡です。火堂組との関係が最近急速に悪化、三日間で四度抗争発生し、軽傷者二人と重傷一人が病院送りだそうです。本家の調停が必要かと」厚底メガネを掛けた若者がファックス文書を手に、中年男性の後を追ってエレベーターから駆け出した。
「沼鴉会の地元の影響力はますます落ちている。社団規模は前年比で22%縮小、本家への上納も11.2%減少。これが続けば信用ランクも「C」級から「D」級に落とすことになる。この状況で「B」級の火堂組との間に介入するとなると、本家が沼鴉会に有利な結果を出すとは思えないが?」
「そう、そうです。ですが私、そいつらに住宅ローンを払っている途中で……課長、直接沼鴉会をデリートしてなんとかしませんか?」

「昨晩、トマホークミサイル弾頭を搭載した我々の船が長崎港外で沈没した。事故発生海域は現在海上保安庁が封鎖している。奴らが船を引き上げたら……」黒スーツに身を包み両手を組んで角を歩き回る二人の男、その表情は重い。
「海保の責任者に賄賂は渡せないのか? 引き上げを中止させろ。12億円掛かってる弾頭なんだ、海上保安庁の手に渡ったりすれば当主の前で切腹だぞ」
「向こうはずいぶん剛毅な奴で、賄賂戦術は通じません。ですから妻子を使って脅迫すればいいと言っているじゃないですか! 積極的に事を運ばなければ手遅れになります!」
「新しい家訓で誘拐脅迫はダメになったんだ。積極的に腹を切れ」
「誘拐するとは言ってません。妻のポルノビデオを使うんです」
「関係ない女性にポルノビデオ撮影を強要するのも新版の家訓では駄目だ、第六章第四節第三条に書かれている。しかし新しいこの家訓は厳しすぎるな。俺達は本当に極道組織なのか? CIAですらもうちょっと自由にやってるぞ!」
「強制するとも言ってません。記録によればこの奥さん、結婚前は一族運営のAVスタジオの契約女優だったそうで」
「何だって! 素晴らしい! 今すぐそいつの出演作を掘り出して決断的チェックだ!」

「これで一段落。青川議員経由でライセンスを取得した。諸君、横浜で精一杯頑張ってくれたまえ。お前たちは私の優秀な徒弟だ、いつか師すらも超えられると信じている。事業が上手くいったら一族に恩返しし、兄弟に手本を見せてやりたまえ!」ラウンジエリアのソファでは、白髪でキマった格好の老人が前のめりに頷く三人の若者たちに向けて、ポジティブワードに溢れたインストラクションを授けている。
「先生無くして、どうしてナイトクラブやカジノが建てられたでしょう。その愛情と頑固さ、我々にとってはまさにゴッドファーザー! 恩返しといえばこの終身名誉ゴールドカードを贈ることくらいです。費用は全額免除、お暇の際には是非友人もお連れになっておいで下されば、最年少のコンパニオンとお出迎えいたします! たしか先生、以前セーラー服がお好きとおっしゃっていましたよね?」若者の内のリーダー格が感激の嗚咽をいっぱいに溜めつつ、一枚の純金のカードを先生の面前に捧げている。
「フォーフォー、生徒からのプレゼントというのは、先生にとって何事にも代えがたいものよ。お前たちは成長した、大物になってくれた! 全く嬉しいのだが、このゴールドカードは受け取れぬ……セーラー服に興味が無くなったわけではないのだが、最近妻がどうも厳しくてな。セーラー服が本当にそんなに好きなら自分が着てやる、とかなんとか言い出し始めおって……」先生の白い眉がヒクヒクした。

「なんかみんな……すごいやる気だね……」ロ・メイヒは目をひきつらせた。「これが新世代の極道なの?」
「言うなれば極道の管理組合です。源氏重工のコンピュータールームには極道メンバー全員の提出したあらゆる日本極道に関する資料が保存されています。この巨大組織の管理者として、一族が十三の課を二千人超の交代で運用、六百人のオペレーターが昼夜問わず全国からの極道メンバーのコールに応答しています」桜が言った。「日本極道のコールセンターと考えて頂ければ」
「一切が影に隠れた社会か」シーザーが言った。「極道の者がトラブルに逢った時、第一に助けを求めるのは警察ではなく君たち、ということだな?」
「はい。オロチ八家を本家と認め定期的に会費を納めるクランはみな、本家からの援助を受ける権利があります。極道クランに加入した若者には契約書と同時に身分証明書が渡され、一族を認めている事、極道内での自らの地位、ないし本家に救援を直接打診する事ができるという事を証明します。併せて、一族の下の全ての者に医療保険と年金保険を提供する財団もあります」
「医保に社保だって?」ロ・メイヒは叫んだ。「待遇はいいの?」
「極道の者となれば一般の保険会社では医療も年金も厳しいですから、本家は千六百億円の資金を調達して世界中に投資、その配当金を構成員の福利厚生に充てています。この基金運用、実はカナダの退職教師基金の運用モデルと同じなんです。構成員が不幸にも亡くなった場合、本家はその妻子の十八歳までの授業料と生活費も負担します」
「すごいじゃん! 僕も入りたい!」ロ・メイヒは言った。
「人事部に言付けはできるかもしれませんが、実際の所……一族が外国人を受け入れることは殆どありませんから」桜はカードをスワイプしてVIP専用ビューイングエレベーターを開いた。「どうぞ」

 ビューイングエレベーターが一路上昇してゆくと、ロ・メイヒは鉄黒ガラスの被膜の向こうに繁る景色を俯瞰する事ができた。新宿区の高層ビル街の間に蛇のように曲りくねった高速道路が巡り、その流れは留まることを知らない。高架のひとつは源氏重工のビルを完全に貫通している。このビルの五階と六階が存在せず、道路のトンネルに置き換えられているのだ。毎日数万台の車両がビルの中を通って行くのだが、他の階に影響はまったくない。
「このビルの完工間際になって、東京都がこの場所を通る高速道路の建設を決めたんです。交渉の結果、都は一族の提示した金額を受け入れず、建物を取り壊す代わりにとある百年契約に署名しました。それでこのビルの五階と六階をリースして高架道路を建設したというわけで、上層階は耐力柱で支える中吊り式になっているんです」桜が言った。
 シーザーは舌を巻いた。凄まじく高価な高速道路を建設する東京都の財力を以てしても、このビルを買い上げることができないとは。驚くべき日本の地価と、日本におけるオロチ八家の地位が垣間見えるようだ。
「六階以上の数万トンの重さを十二本の耐荷重柱で支える、それで安定するのか? 日本は地震やら台風やらが激しい国だと聞くが」ソ・シハンが言った。
「このビルの設計・建設は橘家旗下の丸山建造所が行いました。日本の建設業者で丸山建造所の右に出る会社はありません。なんといっても五百年の歴史がありますから。創業者はかつて豊臣秀吉の為に江戸の天守閣を立てた者です。重要な高速道路を源氏重工内部に通したのも、都が丸山建造所を信頼しているからこそです。事実、建設から十年近く経ちますが、地震や台風でトンネル通過に影響が出たことはありません」
「スゴイ!」ロ・メイヒが称賛した。

「チン」と音が鳴り、エレベーターが二十八階で停まった。エレベーターのドアが開いた瞬間、視界が一気に広がり、フロア全体を使ったオフィスロビーが現れた。数百人もの少女が列を成して座り、パソコンの画面でなにやら検索しながら電話に出ている。と思えば、耳の中が一気に彼女たちの清らかな「ハイハイ」という声で埋め尽くされていく。
「本家のオペレーターたちです。一族のホットラインは年中無休でオープンし、極道構成員の為、数百人のオペレーターが救助の声を待っているんです。このホットライン設置に当たっては一族からの要望として、警察署の緊急電話よりもサービス良く、口調や態度も親しみやすいものと致しました。また地震や津波の際には民間人からの救助要請も受け入れ、一族旗下の五万人超が災害支援に参加しました」桜が言った。
「本家って日本国民のお父さんみたいだねぇ!」ロ・メイヒが言った。
 コールセンターを通り抜け、階段を上って二十九階に上がると、ロ・メイヒの目に最初に飛び込んできたのは壁全体を占める巨大な東京地図だった。本社中央管制室の3Dプロジェクションマッピングとは違い、紙の地図にカラフルなダーツが点々と刺されている。スタッフが電話に出て小さな紙に何やらメモすると、その紙を丸めてカラフルなダーツに刺し、地図に向かって投げた。地図を眺めていた別のグループの男の内、一人がおもむろに立ち上がって地図からダーツを抜くと、戻った彼の机の周りに黒服の部下たちが集まっていく。
「作戦指揮部みたいだね」ロ・メイヒが言った。
「我々は連絡部と呼んでいます。毎時毎分クラン同士の衝突がありますから。小さなことならオペレーターが関連部署にタスクを繋ぐだけですが、上に報告する必要性が感じられた場合、その情況がここ連絡部に伝えられます。連絡部の幹部の皆さんはそれぞれ経験豊富な年配の方ばかりで、警察との関係が深い方もいれば、クランのリーダーと私的な交友がある方、特定事業に目が利く方もいたりして、それぞれ得意分野に応じて仕事が割り振られることになります。年配の方はコンピューターに慣れていませんから、今まで通りのアナログ作業も残すということで本家も同意しました」桜が言った。
「何故ダーツなんだ?」シーザーが聞いた。
「江戸時代には、文字を書いた紙を脇差に刺して投げつけていたそうですよ」

二十八階の慌ただしさや二十九階の厳かさから打って変わって、三十階は一気にリラックス環境となった。フロア一面が和風になっており、和服を着た老人たちがタタミマットの上で茶を啜りながらぼそぼそと話し合っている。
「ここは老人クラブなの?」ロ・メイヒが訊いた。
「ここ戦略部と呼ばれています。戦略部に入れるのは本家の中でも有力な地位にある年長者……すなわち極道団の首領を務めてきた、表に出ることの殆どない方々です。平時はただ茶を啜っているだけですが、こういった方々がここに坐しているということ自体が、このビルの日本極道の中での地位を安定させるのです。いわば、彼らの存在自体がこの場所の柱なのです」桜が言った。「もちろん非常事態になればここの方々も腰を上げることになるでしょうが、普通は人前に出ることもありません。なにしろ十年以上も警察から指名手配されている人ばかりですから」
「古代ローマの上議院みたいなものだな」シーザーが言った。「面白い」
「この人たちと面会するの?」ロ・メイヒが尋ねた。
「いいえ。ここの方々も有力な年長者ですが、あなた方のようなVIPと話の場を持てるのは一族の中の最高位、八姓当主のみです」桜が言った。「八姓当主の方々は醒神寺の中でお待ちです。ついてきてください
「八姓当主?」ロ・メイヒは漆黒の和服を着て鼻から陰気を発する八人の痩せ細った老人を想像して、吹き出しそうになった。

 桜が隠し引き戸を開けると日光が差し込んだ。その中に現れたのは、このビルの一角に隠されていた広々としたテラス。地上や上空から見ることの出来ない、この引き戸だけが唯一の入り口となっている空間だった。
 醒神寺と呼ばれたそれは確かに寺院のスタイルだったが、仏教寺院というよりは日本神道のそれだ。小さな朱紅色の「鳥居」があり、花崗岩の壁には神道の諸神や鬼、例えば厳粛な天照、月読、威風堂々たる須佐之男、凶悪な姿の妖鬼までが彫られている。獅子のような顔で牙を剥いている者や、髑髏の山の上に足を組んで座っている者もおり、風と雲が神と魔を取り囲むそれはかの「百鬼夜行」を彷彿とさせる。テラスには一本泉から溢れる清流が流れ、その周りには白石と青草が枯山水を紡ぎ、悠然とした禅を表している。
 桜が水の満ちた銅盆を持ち上げると、ロ・メイヒは直ぐに手を洗って口を漱いだ。ロ・メイタクのオススメ本が早くも役に立った。神社参拝の前にいわゆる「手水儀式」があることを、ロ・メイヒはあの本のおかげで知る事ができていたのだ。

 太極図の円を形作る白黒二色の円卓を取り囲んでいた六人が立ち上がり、頭を下げた。
「既にお見えになっております、源家当主、源稚生……」桜が一人ずつ紹介していく。
シーザーは少し驚いた。昨日飛行機まで迎えに来た青年が、実はオロチ八家の中でも指折りの高位な人物などとは予想もしていなかった。今回のオロチ八家は格別に親切らしい。
「竜馬家当主、竜馬弦一郎先生。弦一郎先生は現日本支部の支部長です」
 竜馬家当主は痩せてもなく陰気でもなく、丁度中年の危機を迎えている頃だろうか、地味なスーツに丁寧に梳かれた髪、しかし精気というものがまったく見られず、「残業まみれ・パワハラ上司・出世無理・不倫妻・男連れの娘・なんで俺は生きてるんだろう――」などと顔中に書かれているかのようだ。
 これが極道最恐の人間なのか? それに現任の日本支部長? ただのマケグミ中年じゃなくて? ロ・メイヒは心の中で呟いた。
「犬山家当主、犬山賀先生。賀先生は初代支部長で、アンジェ校長とも旧友です」
 白髪の犬山家当主は和気藹々と、まるで太陽が照っているかのように微笑んだ。彼は頭を掻いてハハハと笑いながら、「ヤレヤレ、アンジェを殺しきれずにお友達になってしまってな。まことに遺憾だよ!」と言った。
「桜井家当主、桜井七海女史。日本支部の監察員を兼任しておられます」
 桜井家当主はまさかのスタイル抜群の美人だ。素朴な身なりに体のラインが表れ、太い赤フレームメガネが無化粧の中に色気を醸しだしている。
「風間家当主、風間小太郎先生はオロチ八家の『若頭』です。大族長が不在の際、一族の事は風間先生が決断なさります。風間先生は学院の日本支部には所属していませんが、今回の任務では風間家の忍者組をお借りいたしますので出席していただきました」
風間家当主はまさにロ・メイヒが想像していた極道リーダーのイメージそのものといった風貌で、黒い和服を着こなす老人はまるで鍛え打たれた精鉄のよう、その眼光は刀の如く冷たく、目の前に立てば眉間に刀を向けられるかのような感覚になる。ただ、妙なのはその名前だ。風間小太郎? まるで芸名やペンネームみたいだ。それともこの老人は『信長〇野望』シリーズにハマっているのだろうか? あるいは『戦国〇双』シリーズ? まさか本物の風間小太郎なわけもない。あの忍者の王は四百年も前の人物なのだから。
「最後に橘家当主の橘政宗先生、オロチ八家の大族長です」
「まさか我々のような者が極道とは思いませんでしたかな?」白麻の服を着た橘政宗はシーザーチームに微笑み――握手した。「しかし我々にしても、まさか学院本部のエース要員がこんな少年方とは思いませんでしたがね」
 既に白髪となっている老人だが、橘政宗はその笑顔だけで客人達の心に「首領の中の首領」というイメージを確立した。烈しい刀のような風間小太郎ですらこれ程の落ち着きは無かった。その自然体と親切な微笑みの向こうには、万事己の手中、とでも言わんばかりの自信がある。
「宮本家当主は準備作業中ですので、後でお会いすることになりましょう。上杉家当主は本日体調を崩しておりまして、昨晩深夜から顔を出すこともできず、まだ寝室で横になっています。申し訳ありませんがご容赦下さい」橘政宗は言った。
「高位の会議に私めは不相応でしょう。これにて退席させて頂きます」桜が深々と頭を下げた。
「焦るでない。その意であれば儂と犬山、風間先生も同じことよ。儂も風間先生も日本支部の者ではない、ただこの学院の任務を全力でサポートするというだけのこと。犬山君はかつての日本支部長だが、引退しておる今、同じくこういった秘密会議には不相応だろう。儂らは学院の優秀な若者ともう少し顔を合わせてから、戦略部の老いぼれ共と茶をする事にしよう」橘政宗は笑った。

「チャの匂いか」シーザーが口を開いた。
 円卓の上に囲炉裏があり、関西式の鉄瓶が置かれている。鉄瓶は重々しい黒色で、上半分にはドリアンのような無数の鈍い棘、下半分には赤面長鼻の鴉天狗が炎の中をその双翼で飛んでいる姿が彫刻されている。炭火で鍋の底が赤くなると鴉天狗の顔や双翼の縁に火花が付く。水が沸騰しそうらしい。そよ風が吹くと、瓶の中の水がグツグツと鳴る。これだけ高い場所なら、東京湾の海面と日光の下の白帆を眺めながら茶を啜るのも悪くない。
「この茶がガットゥーゾ家の跡取りのお口に合えば幸いです」橘政宗は言った。「おもてなしと言えるほどのモノではありませんが、是非日本茶道を体験していただければ」
「貴方は日本人なのか?」シーザーは見定めるような目で橘政宗を見た。
 橘政宗の鼻梁はまっすぐ、眼晴は深く窪んでおり、顔の輪郭はナイフのように鋭い。確かに普通の日本人の老人とは違っているが、その目には純粋な黒い瞳があり、一挙一動にも日本的な雰囲気が漂っている。
「儂の血の半分は日本人だが、もう半分はロシア人だ」橘政宗が言った。
 シーザーは眉をひそめ、旧ソ連の砕氷船の事を思い出さずにはいられなかった。
「日本で長年暮らしてきたが、儂の血が半分ロシア人だと判った者は少なかった。シーザー殿、いかに看破されたのかな」橘政宗が訊いた。
「アクセントだ。アクセントにスラブ語系の特徴がある。貴方は硬口蓋音と軟口蓋音を区別しているが、これは典型的なロシア語の発音だ」シーザーは言った。「ロシア人の血を持っているだけではなく、ロシアに住んでもいたのだろう?」
 ロ・メイヒにもソ・シハンにも全く分からなかったことだった。中国語を母国語としている二人は、口数の少ないソ・シハンがロ・メイヒよりも多少英語が話せるくらいだ。だが小さい頃から様々な語学教師を持っていたシーザーは、橘政宗の最初の発言から既に見破っていたのだ。シーザーはイタリア語だけでなく、英語、フランス語、スペイン語まで流暢に操り、全ヨーロッパ国家の言語を完全に聞き分けることができる。
 出席していた風間小太郎や源稚生まで驚きの表情を見せている。他の当主もあずかり知らなかったことだったらしい。
「いずれ分かってしまう事だと思っていたがな」橘政宗は笑った。「そうだ、儂はロシアでおよそ三十年暮らした。ソビエトの時代、皆が配給食を食べ、子どもたちが軍服を誇りに思っていた頃だ」
 シーザーは一瞬躊躇し、それ以上尋ねることはなかった。橘政宗がロシアで暮らしていたからといってレーニン号に関係づけるのは早計だ。日本とロシアは中国北東部で交戦しており、戦後も相当な数の日ロ混血人が居たという。それに橘政宗は隠す素振りも見せておらず、秘密でもなんでもないのかもしれない。

 湯が湧いた。橘政宗は鉄瓶を手に取り、沸騰した湯を茶碗に注いだかと思うと、その湯を捨てた。日本茶道の一般的な手順では、最初の湯は茶碗を温めるためだけに使われるのだ。橘政宗は木のティースプーンを取り出し、茶粉を二さじ茶碗に入れ、鉄瓶から大匙一杯のお湯を掬うと、茶筆で軽くかき混ぜながら注いだ。その手つきは小慣れつつも厳粛で、麻布の和服の大袖が微風になびくと、琴師が音を奏でるかの如く、心地よい音が大海原のように広がっていく。
「おい、参考書を読め。どうすればいいんだ?」シーザーがロ・メイヒの耳に顔を寄せ、小さな声を出した。
「えっと、えっと……『日本神话与历史100讲』には茶道エチケットも載ってたはず」ロ・メイヒはテーブルの下で本をめくった。
「あった。茶を立てる人は茶碗の模様のある面を飲む人の方にむけます……それで……フクサを取って、時計回りに二回転させ、茶を入れた人をリスペクト……それで、あー、茶を飲んで、茶わんを反時計回りに二回転、茶碗の花紋に頭を下げてありがとうございます、それを二回やる」ロ・メイヒは囁いた。テーブルが十分に広かったのは幸いだった。対面の者は三人が囁いているのを見たが、その内容までは聞き取れなかったようだ。
 シーザーとソ・シハンは一言も発さず、プロセスを頭に叩き込んでいく。この建物に入った瞬間から日本支部が虎穴もとい龍穴だと理解していた二人は、ロ・メイヒのようにわざわざスゴイ、スゴイと褒めて差し上げることは決してなかった。日本支部が極道組織なら、学生自治会や獅子心会も立派な組織だ。組織のリーダーは相手のペースに簡単に乗せられないよう、一挙一動を用心深くしなければならない。諸国漫遊は後手に非ず、向こうが茶席マナーを繰り出してくるのなら、こちらはその茶席マナーを完全にやってみせねばならない。日本支部のマヌケ共に、本部の名が無意味でも虚構でもないことを分からせてやらねばならないのだ。
 橘政宗は悠然と腰元から金色の古い帛紗を取り出して茶碗にあてがい、ゆっくりと手中で回してシーザーの側に竹雀に花の紋を向けると、腰を屈めて茶を差し出した。既に目の前に金色の古い帛紗が用意されているのに気づいたシーザーは、屈んで茶碗を一波も揺らすことなく手に取り、帛紗に乗せ、手のひらで時計回りに二度回し、竹雀と花の紋を橘政宗に向けた。ロ・メイヒのブックレットに書いてあった、茶を入れた人に対するリスペクト行為だ。シーザーがいつにもなく慎重なのは、日本茶道が鄭重な儀式であることを知っているからだ。わずかでも間違えれば即ち恥なのである。
 橘政宗はソ・シハンとロ・メイヒにも茶を差し出し、二人もいつにもなく慎重な手つきでシーザーの仕草に倣った。
 三人は頭を上げて同時に茶湯を飲み、動きをわずかに止めた後、だんだんと体を戻し、茶碗を反時計回りに二度回し、竹雀と花の紋様を自分に向けて再調整すると、茶碗の花紋を賞して頭を下げた。
「茶を立てるのは数少ない儂の特技でな。いやはや、この度のご来訪、改めて歓迎いたしましょう。これ以上貴重なお時間を頂くのも忍びない。儂と風間先生、犬山君は退席させていただき、学院の事は稚生と桜井女史、竜馬君に任せるとしよう」橘政宗が身を起こして場を辞する。「日本滞在中の幸運と、任務のご武運をお祈りいたします」
 シーザーチームも身を起こして礼をする中、橘政宗は風間小太郎と犬山賀を引き連れてテラスを出て行った。

 背後の引き戸が閉まると、風間小太郎が一歩踏み出して囁いた。「政宗先生、彼らは使えますかね?」
「稚生は頼りがいの無い子供だと言っていたが、彼らは優秀だと思うぞ。シーザーはA級血統の中でも特に優れておる。アンジェが目をかけているのは単にガットゥーゾ家の末裔というだけではないということだ。……ソ・シハンに関しては、言われているほどジャジャ馬ではないように思えるな。相対してもそれほど殺気立っていた感触が無かった、というのは、高い龍血比率を十分抑えられるほどの強さが彼にはある、ということ。素晴らしい素質だ。……唯一儂が見定めかねているのがロ・メイヒだが、あのヒルベルト・フォン・アンジェが信じて送り出した者だ、信じぬというのが無理な話だ」橘政宗は静かに言った。「彼らの来訪は我らにとってまさに千載一遇の機会、逃してはいかん」
「拙者も同じ感触を得もうした。我々が極道と知って尚慄くことなく応対し、茶道の礼節までやってみせる……中々やりおる」風間小太郎は眉を上げた。「しかし、あの沸かしたばかりの茶を一気に飲み干すとは……若者はタフですのぉ」

 一方テラスにて。シーザーチームは黙々とそよ風の中にキッチリと座って、源稚生がノートやチャート、その他さまざまな資料を積み上げていくのをただじっと見ていた。
「メイヒ、何で泣いてるんだ?」シーザーが囁いた。
「いや別に、ジャパニーズオモテナシで感激感動したとかじゃなくて……」ロ・メイヒも囁いた。
「お前のファッキンブックにはお茶を飲む前に冷やせとか書いてなかったのか?」
「書いてない、一文字も書いてなかった……」
「まぁ、とりあえず日本人の作法トラップは凌いでやれたか……」
 ソ・シハンは燃えるようにピリピリする自分の口蓋を舐めた。あの凄まじく熱い茶で火傷したのもしれない。この作法戦争に勝利したとかいうシーザーの主張に同意するつもりは無かったが、ソ・シハンの持ち前の自尊心はシーザーの強がりを否定できなかった。
「EVAに代わって任務説明をしましょう。今回の任務は、1992年に沈没した砕氷船、レーニン号を調査する事です。ではこれから詳細を」源稚生がテーブルの上に海図を広げると、その上に一つ赤い点が目立っていた。「日本海の海図です。レーニン号の最後の救難信号はここ、日本の海岸線から百二十海里離れた位置でした」
「ああ」シーザーは頷いた。
「あまりメジャーな航路ではありませんが、確かに安全な海域です。サンゴ礁、氷山、乱気流もありません。レーニン号レベルのトン数の砕氷船が安全海域で事故を起こすとは考えにくい。なにせ世界で最も危険な海域を征服する鉄の拳、正面に魚雷を受けたって沈まない怪物ですからね。そんな船が一隻、忽然と安全海域で失踪した。日本国海上保安庁のファイルの中でも最大の未解決事案の一つになっています」
「ああ」シーザーは頷いた。
「何故レーニン号が沈んだのか、そもそも何故レーニン号が日本近海を通ったのかもわかりませんが、日本の領海には入っていませんから、これ以上追及されることもありませんでした。ですがこの船は、龍族に関するタブーアイテムを運搬していた可能性があります。ロシアの情報部で働く元ソ連将校からの情報ですが、裏付けは取れていません。レーニン号の沈没は北方艦隊やKGBの内部でもタブー扱いで、誰も話したがらなかったそうです。つまりこの件を完全に理解している者は居ない。呪われた事件か何かのように、巻き込まれれば『不運』が降りかかると言われているそうです。学院も最近捜索を始めたそうですが、世界で最も深い海の一つでもありますから、作業は難航しています」
「ああ」シーザーは頷いた。
「氷、いりますか?」
「わかっちゃった?」ロ・メイヒは少し恥ずかしくなった。熱さと痛みに耐えていると分かられるほど悶えていたつもりはなかったのだが。
「政宗先生の茶道ごっこに真剣に付き合う必要なんてありませんよ。茶道の真が何たるかも理解していないんですから。所詮、彼はハーフです」源稚生は淡々と言い放った。
「くそぉ、ロシア人に茶道で遊ばれたってことか!」ロ・メイヒは遂に我慢できなくなった。「氷ください!」
「打刀、剣道、茶道、弓道に花道、色々やっているのは、本当に日本人になりたいと思っているからなんでしょうけどね……」稚生は振り返って遠い目をした。「流れ者は、やはり『家』と呼べる場所が欲しいのものなのか……」

 桜が氷桶を持って来ると、シーザーとソ・シハンも矜持をかなぐり捨てて氷を掴み、口に放り込んだ。ヒリヒリとした口腔の痛みが段々和らいでいく。
「ただの熱い茶ですから、大事には至らないでしょう。何か質問があれば聞きますよ」稚生はテーブルに向き直って海図上の点を指差した。「レーニン号が消えたのは日本海溝の真上です。その海溝というのが、千島海溝、小笠原海溝、マリアナ海溝と続く総長数千キロの地帯。地質学で言えばアジア・ヨーロッパプレートと太平洋プレートの境界です。太平洋プレートがアジア・ヨーロッパプレートの下に潜り込み、その接合部に深い亀裂ができているわけです。最深の場所はタスカロラ海淵、深度は8513メートル」
「マリアナ海溝のビチャージ海淵が世界最深と分かる前は、タスカロラ海淵が世界で最も深い場所とされていたな」ソ・シハンが口の中で氷をゴロゴロ転がしながら言った。
「その通りです。極淵とも呼ばれる海淵の底、世界で最も神秘的な場所。到達した人はごくわずか、極淵の情報の大体は推測に基づいた了解でしかありません。沈没地点を分析した結果、レーニン号はこのタスカロラ海淵にある可能性があります。極淵探査に最適なのは特定の周波数音波で海淵をスキャンするソナーですが、これで沈没船を探索した所、得られたのは心拍信号でした。タスカロラ海淵の深くに何か巨大な生物がいる。その心拍は激しく、どんどん強くなっている……」
 ソ・シハンの顔色が一変した。「そんな場所で生きられる生物など……」
「つまり、その極淵に龍がいると?」シーザーが言った。
「龍の胚です。心拍数が増加しているのは孵化が近いのでしょう」
「レーニン号の荷物が龍の胚だったということか?」
「そうです。レーニン号は北シベリアの無名港で貴重な龍の胚を奪い、港を焼き払ったそうです。胚がどこに運ばれる予定だったのかは分かりません。日本か、あるいはもっと遠くかもしれませんが、目的地にたどり着けず、龍胚が海溝の深くに落ちたことは確かです。胚が何年に渡って徐々に孵化している中、誰も気づけなかった」
「なるほど、それが龍なら極淵の劣悪環境にも十分耐えられるどころか、むしろ龍にとっては最適な孵化場であり避難場だな」ソ・シハンが言った。「海水が保護膜の役割をしてくれる」
「そうです」源稚生が言った。
 ロ・メイヒは震えた。この賑やかな都市のそば、百二十海里ほど離れた海の底で龍がひっそりと孵化しているなど。それが表に現れた暁には、ここで街を歩き列車に乗り込む学生やサラリーマンたちも、みな全てが恐怖に怯えて逃げまどい、やがて全世界がその咆哮に慄き震えることになるのだろう。

「今、極淵の底で龍が孵化しようとしている――となれば」シーザーが言った。「やることは一つ、核爆弾で極淵を吹き飛ばすべきだ」
 装備部の狂人達がこの会議に出ていたら大いに賛美しそうな意見だ。思考回路がまったく同じである。
「そんな無暗に核爆弾を使えば、大陸棚の地滑りが起こって津波や核汚染で日本が滅茶苦茶になります。ですのでピンポイントで胚を排除するしかないのですが、ソナーだけでは胚の正確な位置の特定までには至っていません。そこで今回の任務では海淵底部の調査に有人潜水艦を送り、胚を発見次第、爆弾をプレゼントするという形になります。ミッションコードは『龍淵』。我々は龍の深淵へ往くのです」
「くっそ、こんな任務本当にやるつもりなの? そこっていわゆる『生命禁区』なんじゃないの!?」ロ・メイヒは愕然として息を呑んだ。
「確かに『生命禁区』でしょうね。そうでなければ『SS』級ミッションとは言われない」稚生は言った。
「ミッションランクはどうでもいいって! 問題は僕たち三人がどうやって潜るんだってことだよ! 五キロ走るのに三回も休憩しなきゃいけない僕が八キロも潜れると思う? 半分でもしんどいよ!」
「それはともかく、問題なのは深海の高圧だろう」ソ・シハンが言った。「ここまで深いと潜水服では無理だ、潜水艦しかない。ただ俺の知る限り、深度六千メートル以上まで到達できる潜水艦となると世界中でも一握りだ。極淵ともなればその圧力は地上の数百倍、下手な潜水艦じゃあ一瞬で扁平な鉄板になる」
「それはそうです。極淵はある意味宇宙よりも過酷な環境ですから、最先端の装備が必須です。だからこそ、装備部はあんな人類史上最高のドッキリメカを用意したんでしょうね。……現在、日本支部所属の岩流研究所が最終検査を行っているはずです。ついてきてください」

稚生が立ち上がって掌を壁に押し付けると、天照と月読が彫刻された花崗岩のブロックが音を立てて二つに割れ、暗黒の通路が現れた。
 通路の中に立っていた武装黒服男達が深く頭を下げた。「若君、ドーゾ」
 稚生は礼を返すこともなく、竜馬弦一郎とシーザーチームを通路に案内した。緊密に張り巡らされた赤外線レーザーで封鎖された通路だ。誰かが忍び込もうとすれば警報が鳴り、後は武装黒服男たちが言わずもがな、ということだろう。ソ・シハンが警戒の色を強めると同時に、シーザーが言霊『鎌鼬』を発動すると、彼の耳に無数の機械の駆動音と心臓の音が響く。鎌鼬はコウモリの超音波のように前方へ浸透し、分かれ道という分かれ道で分裂し、さらにさらにと遠くへ飛んで行く。通路の行き止まりで翅の震えるような音となって響くまで、シーザーの頭の中の通路図をさらにさらにと広げていく。
「この通路はビルの全階に繋がっている」竜馬弦一郎が解説した。「早くも戦国時代には確立していた建築技法だ。忍者の暗殺や部下の反乱に備えて、戦国大名は天守閣に秘密の通路を作っていたのだ」
 稚生がパスワードを打ち込むと、壁に隠された小型エレベーターが開いた。「どうぞ」

 エレベーターが急降下していく中、シーザーは突然水の音を聞いた。パイプの中をゴウゴウと巡っているのではない、潮のような音……波が波へと重なっていく音だ。
「岩流研究所へようこそ」エレベーターが開くと、そこには白い実験服を着た男が頭を下げていた。「私は所長の宮本志雄だ。宮本家当主でもあるが」
 耳を満している潮のような音は、まさに本物の白色の波浪の音だった。源氏重工の地下なのだろうが、ただの地下室ではない。直径十二メートルはあろうか、半分が水に浸かった巨大なトンネルの内部だ。荒れ狂う波が金属壁を叩き、上部にはキセノンライトが一本長々と完全な暗闇の遠くへと繋がっている。巨大な建設機械のようなものが壁から沿って伸びているのは、水位や流速を自動で検査しているのだろう。
「おーい!!」ロ・メイヒが叫ぶと、その声が広大な空間内を響き渡る。どうやら英仏トンネルに匹敵するレベルに大きいトンネルらしい。列車を余裕で通せるどころか、高速道路を敷けば最低でも六車線は作れる。だが今この足元を流れているのは滔々と流れる一本の大河だ。
「驚いたかい? 東京の地下排水システムさ」宮本志雄が解説した。「東京にはよく台風が来るからね。台風の降水量といったらそりゃもう極大、周りの山からも水が流れてくるから、東京都もこんな大型の治水設備を作らなきゃいけない。パイプライン網に巨大な地下貯水池、タービン機……これらを使って大雨でも貯水槽に水を溜め、タービンとパイプラインで海に排出する。防食仕様の特殊鋼材で造られたこの地下空間、我々は『鉄弩神殿』と呼んでいるんだが、一族の下の丸山建造所が引き受けたプロジェクトでね。おかげで竣工以来、東京に水災害は一度もない。岩流研究所の秘密工廠はここにある。港ドックもあるから、小型潜水艇なら水路から直接源氏重工まで行けるのさ」
「つまり、密輸にも便利というわけだな?」シーザーが言った。
「それも理由の一つですね。丸山建造所が政府のプロジェクトを請け負ったのは」稚生が言った。

 その時トンネル内部に警報が響き渡り、ゴロゴロと雷鳴のような音が聞こえてきた。
「次の満潮の時間が近い、高いところへ行こうか。服を濡らしたくないんでね」宮本志雄が言った。
 宮本家当主は恐らく三十にも満たないが、その外見は清秀端正、古めかしいべっ甲メガネをかけており、髪は綺麗に揃えられている。一見して極道の者とは全く思えず、どこかの大学の若教授のようだ。
 一同が高所へ登った瞬間、ゴウゴウと轟く白色の潮が到達し、トンネルを震わせて水しぶきを激しく飛ばす。まるでトンネルに閉じ込められた白い竜が悶えつつ咆哮しているかのようだ。潮騒が通り過ぎている間は互いの声も全く聞こえず、ただ口の動きしか見えない。
「昨夜は大雨だったから今日はこんな感じの満ち引きが続くと思う。でも雨が降らない時は川みたいに静かでね、水辺に座ってお茶を入れたりするんだ。ゼンだろ? 桜が落ちる季節なら花弁が水面に浮かんでて、我々は『桜流海』と呼んでいるんだが……まあ、君達がずっと日本にいるならいつかは見れるはずさ」宮本志雄は言った。「装備部が一人も派遣員を寄越してくれなかったせいで、送ってきた機材のテストはすこぶる面倒だったよ。まあ多少時間はかかったがもうすぐ終わる、ミッションに遅れることはないさ」
 一同は鉄骨に吊り下げられた梯子に沿って歩き、突然向きが変わったかと思うと、ロ・メイヒの視界を光が照らした。夜空に一閃弾ける花火のように、雨のごとき火花が降り注ぎ、トンネル天辺の巨大な黒い影を映した。何十人ものエンジニアがスリングで宙に浮かび、黒い影を囲んでいる。火花は彼らの手元の溶接トーチから降り注いでいるらしい。
「これが君達の使う潜水艦、トリエステ号。1960年にマリアナ海溝、深度一万メートル以上の海溝底部に到達した、潜水史上でも歴史的な代物……そのプロトタイプだ。レプリカじゃないのかって? 深海潜水艦となれば要求される技術水準もハードだ。針孔程度の穴もあれば高圧で潜水艦全体がバラバラになる。いくら本部の装備部でも、即興でトリエステ級を新造なんてさせては安全の保障はできないだろう? 一番信頼できるのは何度も実験と経験を重ねたプロトタイプということさ」宮本志雄は言った。「1960年に世界記録を打ち立てて以降半世紀も、人類は同等の潜水艦を作れちゃあいない」
「そんな伝説級のモノなら相当の値が張るんじゃ……」ロ・メイヒが感心した。
「なんか見覚えがあるぞ……?」シーザーは困惑した。
「そう言えばガットゥーゾ家の所蔵品だったな。当主のポンペーイウスが学院に寄贈して、装備部が改造したというわけだ」宮本志雄が言った。
「ボス、こんなお宝まで持ってたの?」ロ・メイヒの『金持ち』という理解が更新された。世界中を探しても唯一無二と言えるレベルの代物、ブランド品のスポーツカーやヨットなど比べ物にもならない。博物館に置いてもすばらしいお宝となりうるものを、まさか自分の愛玩の為に買う人間がいるとは。
「アポロ月着陸船と一緒に買ったそうだ」シーザーは肩を竦めた。「あのプレイボーイ親父は奇妙なガラクタを集めるのが好きでな」
「プレイボーイって時計とか車とか女の子を集めるんじゃないの? こんなの買うの科学マニアでしょ」
「プレイボーイがいろいろ集めるのは全部最終的には女の為だ。高級時計や高級外車が好きな女もいれば科学好きの女もいるから、テックオタクの振りをするときもある。アイツがこれを買った時には国連宇宙機関の女博士を狙ってたのさ。家でのディナーに誘う口実作りに面白いモノを買おうとして……」
「で、成功したの?」ロ・メイヒが好奇心から聞いた。
「多分な。とりあえずトリエステ号からでかい音は出てた。俺が外からハッチをぶっ壊して、消防隊に救助されるまで48時間をプレゼントしてやったんだ。親父の恋愛に息子が出来るのはそのくらいさ。それだけの時間があって何もなければ、ガットゥーゾ家の第一種馬と呼ばれんだろ」
「東京に運ばれた時に最初に検査したが、特に何も痕跡はなかったぞ」宮本志雄が言った。
「何か見つかっても大丈夫でしょ。仮にあったとしても隠しておこうよ、そんなのコレクションの一部でもなんでもないんだから……」ロ・メイヒが言った。
「そういう系のブツならアイツはもっと色んなものを持ってるぞ、例えば……」
「ストップ! ストップ! ボス! 僕たち緊張感持たなきゃ、緊張感! 男盛りのお父さんがいるのは悪い事じゃないけど、誇る事でも威張ることでもないでしょ!」ロ・メイヒはどんどん脱線していきそうな会話を慌てて遮った。「潜水艦の話を続けようよ、もう……」

宮本志雄が力強く手を叩くと、光のビームが空間を奔り、巨大な黒い影を照らす。半世紀もの間忘れ去られていた潜水史上の伝説が、輝かしく塗装され再び世に現れた。異形の潜水艦は一面真っ白に塗られ、中心らしき場所には噴き上がるような巨大な赤い円が描かれている。
「なんかすごい馴染みある塗装だね……」ロ・メイヒが言った。
 馴染みがあるのも無理はない、トリエステ号全体に膏薬を塗ったくったような旗(訳注:日章旗のこと)がペイントされているのだ。
「ああ、最低のセンスだ」シーザーはどこか不意を突かれたようだった。
「君の父上のリクエストなんだがねぇ。この深海潜水艦をアカデミーにタダで提供するから、全体に日本国旗を書いてほしいってさ。東方の日の出は縁起がいいから、息子の日本出征の順調円満を願って! なんてね」宮本志雄は言った。
「あの時閉じ込めた事への仕返しがまさかこんな形で来るとは」シーザーは言った。
「マジモンの骨董品に見えるんだけど、こんなので極淵に行って本当にダイジョウブなの?」
「世界中探し回ってもこれを使うしかないだろう」シーザーは言った。「女博士の誘惑の為に買ったとはいっても、人類科学技術史上の奇跡であることは確かだ」
「でもこの船、僕の父さんよりも年上だよ。当時は確かに伝説だったかもしれないけど。若い時に岩を軽々持ち上げられるヒーローだって、年を取ったらヘルニアになるだろ! 今までずっと手入れされてきたわけでもないんでしょ?」ロ・メイヒは不安げだ。
「俺の家が出資してる潜水博物館に置かれていたんだ。毎年の専属メンテナンス技師付でな」シーザーは言った。「ついでに毎年の専属塗装技師もいた」
「塗装?」ロ・メイヒは驚いた。
「中国とイタリアが外交関係を樹立した年は五星紅旗。ピカソが亡くなった年にはあの傑作『アヴィニョンの娘たち』を外装にコピーしていた。マドンナが世界公演した2006年には全体金色で世界中に運ばれて、金粉で覆われたマドンナがオープニングトラック中にそこから出てくる演出だったらしい」シーザーは何か思い出したかのように言った。「マイケル・ジャクソンの演出でも使われていたらしい、よくは知らんがな」
「つまりこの半世紀は完全に小道具になってたってこと? それってボスの一家が芸術品とか骨董品とかみたいに使ってたってことでしょ? 塗ったり貼ったりで世界中引き回してばかりで全然水に沈めてないんじゃん!」
「しかし装備部が改造したんだろう?」宮本志雄が言った。「説明書を読んだが、彼ら今回は結構頑張ったみたいだぞ。新システムを搭載してるし、外装内部が形状記憶合金で補強されてる。アーカドゥラ所長も再三『品質保証が重点』って言ってたしな」
「でもそいつら爆弾バカじゃん! 本当に爆発しないって保証できるの!? ……先輩はどう思う?」ロ・メイヒはソ・シハンに助けを求めた。彼ならこの二人のサイコ狂人を冷静にさせる言葉を持っているはずだ。博物館から引っ張り出されたばかりの骨董船でチャレンジャー海淵にチャレンジ? しかも装備部が改造したやつ? こんなの自殺でなくて何なんだ!
「いい船だ」ソ・シハンが少し頷いた。
「は? どういう……」ロ・メイヒは目をぱちくりさせた。
「シーザーに因縁がある面白い船、という意味だ」ソ・シハンは言った。
「先輩マジでこんな茶番に命賭ける気なの!?」

「で、いつ潜るんだ?」シーザーが訊いた。
「明日の夜です。科学的調査の名目で海事局に海禁令を打診しておきました。明夜は一切の民間船が当該海域付近の通行を禁止されます。海禁令は午後六時から午前六時までの十二時間。つまり、稼働時間も最大十二時間という事です」源稚生が言った。
「ずいぶん急ぐな? そんな時間じゃかなりキツイぞ」シーザーが言った。
「潜水艦の操作は決して複雑ではありません、一日もあればマスターできるでしょう。これが潜水艦の操作説明書です」稚生は分厚い操作説明書をシーザーに手渡した。「ほかの事項は全て我々が片付けます。時間があるとは確かに言いにくいですが、準備は十分なはずです」
「僕、一度でいいから秋葉原に行きたかったなぁ」ロ・メイヒが言った。
「あれだけ怖気づいてなお秋葉原に行きたいのか?」ソ・シハンが聞いた。
「秋葉原に行かなきゃオタクじゃないだろ。こんな明日生きるか死ぬかもわからないんじゃ今すぐにでも行きたいよ。もし死んだら僕のお墓は秋葉原の大通りに置いてよね。行き来する女の子に写真でも撮ってもらえるから」
 源稚生は沈黙のまま、巨大排水管を滔々と流れる白波を見つめていた。このアホ達がまた周りで歌い踊り始めた……。こんなアホと一緒にミッションを行うなど、吼えるロバに跨って戦場へ向かうようなものだ。剣を掲げて国の為に死ぬ志があろうとも、もはや敵陣まで突入できるとは限らない……そのロバは四肢を広げて空へ飛んで行ってしまうからだ。

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