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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第十五章:潜龍昇空の海

 しなやかな影が氷の十文字槍の先から飛び出した。紅白の巫女服を着た少女が、大袖を海水の中に広げている。髪を束ねていたバンドが切れ、長い髪を深紅の海藻のようにゆらゆらとなびかせている。
 ロ・メイヒは無意識の内にその名前を呼んだ。
 ――ノノ!

『レーニン号残骸の上空に到達。核動力炉の投下準備、中性子密度は安全値の120%、核動力炉は現在から20分後の爆発にセット、爆発力は単純計算でおよそ100万トン』シーザーが大声で言った。
「核動力炉投下、了解」源稚生が言った。「須弥座のトリエステ号回収の準備は既に完了している」
 彼の背後に立っていたカラスと夜叉は互いに顔を見合わせた。トリエステ号が生き延びる確率がどれほどか、彼らは知っていた……稚生が言っているような程度には到底及ばず、生存確率は一パーセントにも満たないと、輝夜姫のシミュレーション結果は示している。改装を受けた核動力炉の爆発力は稚生が説明した百万トンを遥かに超え、その威力はまさに津波を引きおこし、葬神の地を灰燼にかえすことができる。幸運にもシーザーチームが核爆発の衝撃波から逃れられたとしても、同じく幸運に生き残った尸守からは逃れられない。元より核爆発の威力だけでは全ての尸守を何とかすることはできないだろう。
『核動力炉解放! さぁ引き上げてくれ!』シーザーは核動力炉を吊るすフックアームを開いた。
『おい、待て!』ソ・シハンが叫んだ。
 だが手遅れだった。黄色い核動力炉はゆっくりと海底に向かって沈んでいく。一度フックアームを開けてトリエステ号から離れてしまえば、核動力炉は自重で勝手に沈んでいき、トリエステ号から再び引っ掛けることはできない。
『どうした?』シーザーは聞いた。
『核動力炉を解放する前、いきなり中性子密度が低下した。核動力炉の安全保護モードが働いて、カドミウム棒が反応炉内に巻き戻って爆発しなくなっている!』
『うそでしょ?』ロ・メイヒが言った。『装備部の仕事でしょ、いつどこでもなんでも爆発させたがるあいつらが、こんな面倒なプロテクトを爆発にかけるなんて……装備部の奴らめ、裏切ったな!?』
「岩流研究所、今すぐ分析しろ! 核動力炉の故障は何だ!?」稚生も唖然とした。
 オロチ八家による細心の計画に基づいて、あらゆる物事が完璧に進めば、二十分後には神葬所は核爆発の高温と衝撃波で破壊されているはずだった。しかし今、岩流研究所が細心を払って改造した核動力炉が故障してしまった。
『分析結果、出ました。起爆回路が故障しています!』宮本志雄がオロチ八家のシークレットチャンネルを通じて早口で言った。『元々、我々は装備部が設計した電子回路を改造して起爆回路を加えたんです。ですがよくよく起爆回路の電流記録を分析した所、それ自体が破損してしまったようなのです。おそらく潜航中にショートして破損したのでしょう。潜航後にシーザー氏にトリエステ号の自己診断システムを作動させてもらいましたが、起爆回路に関しては流石に伝えられなかったので、プログラムの対象外でした』
「つまり、爆発できないという事か? 神葬所の亡霊達は既に目覚めさせてしまったというのに、核動力炉は爆破できないと?」稚生の顔色が惨白になっていく。
 彼はそんな結果を信じられなかった。ただほんの少しの見落としで、取り返しのつかないような大惨事を招いてしまったという事実を。
『いいえ、起爆はまだ可能です。手動で……パスワードを手動で入力すれば。パスワードを入力し、制御回路を騙せれば、再び過熱状態にすることができるはずです……』
「バカな事を! 彼らがいるのは海底8600メートルの深海だぞ! どうやって手動でパスワードを入力しろというんだ!」稚生は吼えた。
『こんなこともあろうかと、トリエステ号には海底走行用のツェッペリン装備があります。それほど長時間は持ちませんが、パスワードを入力する為に潜るくらいなら足りるでしょう。核動力炉底部の金属板を持ち上げれば、防水の電源モジュールと入力キーボードがあるはずです。高温で溶けてなければいいのですが』宮本志雄は言った。
「こんな状況で自分を犠牲にしてパスワードを入れたい奴がどこにいるんだ? もうこれ以上彼らは騙せない、死ぬと分かって出て行く奴などいない! 元々彼らは本部からの命令を直接受けていたんだ。私の顔を立てるにも限度がある!」稚生は狼狽え、拳を手すりに叩きつけた。
「遺書を書くという事は、彼らもここで死ぬ気は無いという事……しっかり説得すれば、彼らはやってくれると思います」桜が声を低くして言った。「今の私達には打つ手がなく、深海に行ってパスワードを入力したくとも、私にはできません。神葬所を爆破しなければ、災厄が起こってしまう……私達は悪鬼を目覚めさせてしまったんです。取り逃がすくらいなら、封印したままにしておけばよかった……」
 源稚生は深呼吸した。桜が言いたいことは理解できた。潜行チームが犠牲になるかどうかは、もはや問題ではなくなってしまった。神葬所の敵を鎮めなければ、ここにいる全ての人達が犠牲となる。そして稚生に躊躇いは許されなかった。鎮められなかった時のことは想像したくもない。しかしそれでも稚生は、絶境にいる三人に更に仕事をしてもらう為の説得の言葉を思いつけなかった。シーザーチームの精神は緊張の頂点に達している。彼らは核動力炉の投下を完了し、一刻でも早く安全索で水面まで上がりたいと思っているのだ。引き上げられない、深海を歩けなど――稚生は言い訳をつけられなかった。
「皆さん、悪い知らせですが、核動力炉の回路に問題が発生しました。まだ浮上はできません。いったん深海を歩いて、手動でパスワードを入力する必要があります」稚生は通信チャネルに接続した。「これが私達の唯一の機会です」
 もう偽ることはできなかった。稚生に出来る事は、真実を語る事だけ。今、海底を歩いていくためにはシーザーチームが必要なのだ。信じるかどうか、受け入れるかどうかを判断するのは、シーザーチーム次第だ。
『嫌だと言ったら、引き上げないつもりか? 源稚生……』シーザーが呟いた。
「嫌だと言われれば、皆死にます。引き上げようが、引き上げなかろうが、意味も無くなる」稚生は言った。
『要するに、より多くの人を救う為に犠牲になれと?』
「私が潜水艇に乗っていれば、私が行きました」
『クソッ! ピンタゾウガメ野郎、ヌーディストビーチで日焼け止めを売る夢はどうした! それがお前の望みなのか!? 俺の結婚式も永遠に見れなくなるんだぞ!?』シーザーは怒り咆えた。
「私の望みでなくとも、私はやります。あなたが望むかどうかは、あなたの話だ」稚生はゆっくりと言った。
『やはり日本支部は頭おかしいな! お前ら全員本当に犬のクソくらえだ!』


 シーザーは立ち上がってヘッドホンを外し、ソ・シハンに投げた。「もうあの狂人共と話したくない。奴らと話していると酸素が八分も持たん。パスワードを思い出せない以上、一か八かだ。八分経っても俺が戻らなかったら……核動力炉が誰にも起爆できなくなったら、奴に頼んで安全索で潜水艇をで引き上げてもらうんだ」
「ボス、ねねねねぇ……」ロ・メイヒが言った。
「潜る前に行っただろう、俺はリーダーだと。お前ら二人は俺のサポートだ。勝手な行動はするな」シーザーは冷ややかに言った。「俺の言うとおりにしろ。もし俺がいなくなっても、ソ・シハンが俺の代わりになるだろう。やはり遺書を残しておいたのは正解だったな」
「ボス、ああああの……」ロ・メイヒが言った。
 シーザーはロ・メイヒの首をひっつかみ、突き飛ばした。「お前、まだ遺書を記録してないだろう。残り数分のうちに誰に残すか考えておけ」
「俺が行く。君は隊長だろう」ソ・シハンはシートベルトを外そうとした。
 シーザーはソ・シハンの肩を押し、無表情のまま席に戻させた。「俺はお前らの為に自己犠牲しているわけじゃない。俺には婚約者がいる、つまり俺の人生はお前らに比べて価値があると言っていい。俺はただ、お前らの誰かが死んで俺が生き残る、という状況が嫌なだけだ。そうなったら俺は人生のこの局面の事をどう人に語ればいいのか分からなくなる。屈辱……あまりにも屈辱だろう。銃を呑み込んで自殺したっていいくらいだ」
「全く、お前は本当にプライドの為だけに生きているんだな」ソ・シハンが軽い口調で言った。
 下部観察窓にソ・シハンが目を見やると、廃墟の地面から緋色の水煙が湧きだし、廃墟が地底を流れる龍血に満たされたかと思うと、地面の割れ目から細長い生き物が這い出てくる。それらは自分を覆っていた胎衣を引き裂き、金属のような光沢をしみつかせた身体と、獰猛な金色を湛えた瞳孔を露わにした。長らく眠っていたからかうまく起き上がる事ができず、海底を這うように匍匐し、細い下半身を捻っている。しかし龍血によって養われたその身体はすぐさま太古の力を取り戻し、ズルズルと這っていた身体を突然飛び跳ねさせ、長い尾を振りながら素早く浮き上がった。サーチライトを付けたままの金属物体には目もくれず、トリエステ号のすぐそばを通り過ぎて行く。その目線の先には無尽の暗黒だけがあった。百万とも千万とも下らない者達が遂に束縛の封印から解き放たれ、人類の世界へと回帰しようとしている。
「蛇の尾に、人の身……」ソ・シハンが呟いた。「純血の龍族じゃない、こいつらは混血種だ。ここは龍族の都市じゃない、混血種の祖先が建てた都市なんだ!」
「まるで、昇り龍じゃないか……」ロ・メイヒはボソボソと言った。
 視界の上方で、無数の細い影が長い尾を激しく揺らしながら、その身体を溶岩に照らし、金色の螺旋のように集まりつつあった。
「あいつらが海面まで昇ったら厄介だ。一匹でもマスコミか何かに見つかったら、世界中の新聞の一面になる」シーザーが言った。「俺達がやれることはもうない、日本人共に任せればいい。あのサポートチームが活躍する時が来たってわけだ。俺達の任務はあくまで廃墟だ。レーニン号だの、胚だの高天原だの、そういうのが存在すること自体がそもそもおかしいんだ」
「深海歩行用装備はせいぜい五分しか持たない」ソ・シハンが言った。「いったん潜水艇を下げるぞ」
「時間はあるな」シーザーはコクピット横の加圧キャビンに入り、十センチ厚の扉を閉めた。
 外は信じられない程の超高圧環境だ。そんな環境下で使えるツェッペリン装備となれば、通常のダイビングスーツのような人間型ではなく、ほとんど球形の金属製装備となる。装備が球形になるのは、最も圧力に強い形だからだ。しかし航空機用のチタン・マグネシウム合金で厚さ五センチを超える外壁を確保してなお、あまり長持ちはしてくれない。球体の内部は高圧の生理食塩水で満たされ、気体があるのはヘルメットの中だけ。深海を歩く時には自分の四肢ではなく装備の助けを借りた金属肢で歩く。シーザーは頭の中で最後にもう一度操作手順を確認してから、ツェッペリン装備を真下から被った。高圧生理食塩水が注入され、ヘルメット内部の照明が点くと、シーザーは金属肢の操縦桿をしっかりと握り、ヘルメットのマイクに息を吹き込んだ。『ソ・シハン。通信装備のテストだ』
「こちらはよく聞こえる。そっちはどうだ?」ソ・シハンはコクピット内のマイクを叩いた。
「通信はいいようだな」シーザーは一度言葉を止めた。「プライドの為に生きているのは、お前もだろう?」
 ソ・シハンは驚いた。
「ただ、プライドの種類が俺と違うだけだ」シーザーはまた言った。「お前みたいなプライドを催すような奴は気に入らないが、プライドがないような男は俺のライバルになる資格もない。俺の家の老いぼれ共はお前を目の敵にしているが、そんな事情は俺とは関係ない。俺はお前に対してあんな下世話な手段を使いはしない。俺が生きてお前が生きるというなら、お前はただプライドのままに生きればいい……俺はあのクズジジイ共が嫌いだ。負けるんじゃないぞ」
 加圧ノズルがツェッペリン装備に噴き出した瞬間、ソ・シハンは装備の中のシーザーが球形のヘルメットに手を伸ばし、親指を立てるのを見た。それが「勝利」への意思を示すのかどうかは、わからなかった。

 シーザーがゆっくりと海水の中を降りて行くと、身をくねらせた尸守が時折肩の傍を通り過ぎていった。この廃墟はいわば霊魂の囚われた黄泉幽冥のようなものだ。今この瞬間黄泉の扉が開かれ、霊魂たちが必死に逃げ出している。尸守にもはや意思はないが、野獣のような直覚はまだ残っているようで、尸守たちはまるで破壊の到来を予見しているかのように、一切攻撃する素振りも見せずにこの絶境から逃げまどっている。シーザーはなぜ尸守たちが高天原の爆破を予感しているのか分からなかった。まさか尸守が核爆発を予測できるとは思えない。
 遥か昔に死んだはずのこれら混血種には、完全無欠のものもあれば損傷しているものもあった。原理はミイラ作りと同じといえども、より強大な錬金技術によって活力は不朽の身体に封じ込められている。頭の半分が欠けているものもあれば、腹に大きな穴が開いたものもあり、まるで残酷な戦場に残された死体ばかりだ。古代の錬金術師たちは、こうした死体を錬金術の材料にしていたのだ。シーザーは鳥居の上に彫られていた戦場の彫刻を思い出した。もしかしたら歴史の中で本当に戦争が起こり、やがて街をも破壊してしまったのかもしれない。
 トリエステ号は彼のちょうど真上に留まり、腰に巻かれたロープがシーザーとトリエステ号を繋いでいる。トリエステ号もまた安全索で須弥座と繋がれていて、須弥座もまた錨鈎で海底に固定されている。まるで血縁関係のようだ。
 ガスレイとマグマの光の中、核動力炉とレーニン号がはっきりと見える。細長い核動力炉はレーニン号からそれほど遠くない有肺類の山に突っ込んでいて、その周りでは数百万の有肺類が蠢いていた。シーザーも有肺類の山の上に落ちると、レーニン号から剥がれ落ち続ける小さな生物がツェッペリン装備を叩いて鈍い音を放つのを聞いた。シーザーは不器用な機械足を操作して立ち上がり、有肺類の山を踏みしめ、一歩一歩と核動力炉に近づいて言った。海流が強く乱れていて、浮けば前に行けるかどうかも分からないせいで、ツェッペリン装備の錘を上げることもできず、ただ海底に張り付いて這うように進んで行くほかなかった。頭上には無数の尸守が居座り続け、そのうちのいくらかは完全に活力を取り戻しているようだった。その数……千か万か? シーザーは数えられなかった。高天原が最も栄えた時代に地底に埋められた無数の歩く屍、人の身に蛇の尾を持つ混血種は、人類とは似てもつかない龍族の文明を直接受け継いでいる。
 ツェッペリン装備は既に耐えられる負荷を超えていた。圧力オーバーと出力オーバーで、ヘルメット内のライトが点滅し続けている。装備内部の超高圧塩水の保護がなければ、シーザーはすぐにでも血の塊になっていただろうが、その超高圧塩水もまた彼の目を充血させ、呼吸を困難にしていた。彼の目には十メートルにも満たない場所に核動力炉が見えていたが、腰まで埋まる有肺類の山を十メートルも進めるかどうか、進むにつれて疑問にも思えてくる。
 視界がぼやけていく。高圧が最も明確な影響を及ぼすのは視覚だ。視界の中の目標が重なった影のようになり、大脳に激しい痛みが沸き起こる。なんとか金属肢を有肺類の山の中に滑り込ませていくが、いつ土石流のように流されて飲み込まれるかもわからない。
 シーザーは目を閉じ、「鎌鼬」を発動した。彼にとって聴覚は単なる補助感覚ではなく、視覚以上に有効な感覚能力だった。鎌鼬が海水の中を舞い飛んでいくと、シーザーの感覚領域は今までないほどに拡大していった。海水は気体よりも音の伝達に優れており、伝達中の音波の損耗は空中よりも少ない。シーザーは聞いた。尸守の心拍、廃墟の開裂、古びた沈寂な鐘の音……。シーザーは倒壊した古代建築物に何千何万もの黒い鐘がぶら下がっていたのを思い出した。高天原が地上に建っていた時代も、風が吹いた時には、都市全体が鐘の音に沈んでいたのだ。
 だが海水の中では、鐘の音は常人の聴力範囲よりもはるかに低い超低周波となっていて、鎌鼬を発動したシーザーでもなければこんな神奇な音楽は聞こえない。沈重で古奥ゆかしい超低周波音が海流に乗って廃墟を通り抜ける中、シーザーは地上に広がる高天原の姿を想像しながら古代の音楽に浸った。風に吹かれて千万の鐘が次々と翻り、音の波は都市を潮汐のように往来する。彼はそんな広大な都市を今まで「聞いた」ことがなかった。
 小さい頃、シーザーは毎年春になると母親と一緒にアルプスに旅行に出かけ、麓の草原で何時間も立ち尽くして空を見上げていたこともあった。幼い継承者に何か精神の問題でもあるのかとコソコソ話をする執事や召使にとっては、この山は単調なつまらないものに見えていたが、幼いシーザーは万民の歓声を受けたかのような笑顔を見せるのだった。シーザーの世界では、山の草原は音楽に満たされていた。風が蒲公英を散らし、無数の小さな傘が風に乗って渦を巻き、その風の音はパイプオルガンで奏でられる教会音楽のように千百倍にも増幅された。蒲公英の小さな傘が空中を滑る音は聖歌隊の歌う讃美歌であり、山の草原全体が目に見えないパイプオルガンの共鳴腔の役割を果たしていた。世界一体がただ一人の為に演奏してくれるというのは、百万人の歓声を得るよりもすばらしい。そんな時、ただ母親だけが彼の後ろに立って、その髪を優しくなでてくれるのだった。 
 小さい頃から、シーザーは新たな街を訪れる度に高所に登って、その街の音を聞いていた。風の音、人の音、雨の音、砂嵐の音、機械の音、大気イオンの音……声は都市ごとに同じものはなく、様々に融合してまるで違う音楽となる。ある街は老人のように歌い、ある街は乙女のように泣き、ある街は悪魔のような咆哮をひっきりなしに上げるのを、シーザーは聞いてきた。しかし、高天原に似たような音楽を奏でる街はこれまで一つとしてなかった。寂静悠然とした高天原の音楽はまるで、奈良の月光の下で鐘音を響かせる仏塔が大地に長い影を作りながら、俗世から離れた僧侶たちが世界の変遷を慈悲深く見守っているかのようだ。
 体中の奇妙な症状が消えて行き、身体が柔らかく快くなっていく。有肺類の山を泳ぐように義肢を動かしていると、シーザーはまるで古都の長町を歩いているような感覚になって、頭上の月光も千年の岑寂を思い起こさせてくる。
 彼は今、白衣を着た若い僧侶だった。清澈な川の水を一尺掬っていると、小顔の乙女が水影の中を走り来る。美しい楓葉や胡蝶花に染めたドレスを着て、腰に朱木の扇をひとつ差している。彼女の木下駄がピチャピチャ鳴ると、僧侶の手の水もピチャピチャと鳴る。遥か遠くの仏塔で、古き鐘が鳴り響く。僧侶と乙女が同時に顔を上げると、その瞬間二人の視線が交わされて、僧侶の手の水が彼の襟を濡らし、乙女は思わず腰の扇を握りしめる。それは彼女の愛の結納品、いつか夫の手に渡されるべきものだ。
 乙女の長髪は、月光の下で妖しい紅に流れていた。
「ノノ……」シーザーは呟いた。
 その乙女はノノだった。彼は思い出した。ローマ帝国から日本まで何千キロも旅した道中で、彼は突然、運命の少女と出会ったのだ。あふれる喜びに彼は川へと転げ、ノノがその手を取ってぐいと引き上げると、二人は顔を赤らめて見つめ合ったのだった。月光の下、奈良の街の仏塔たちはゆるやかに立ち上がると、金色の火焔を双眸の中で燃やす古代の妖魔たちが巨大な影となって顕現する。月光に向かって声無き咆哮を上げながら、彼らは月の下で舞い踊る。かれやこれやと若き二人に祝福を授けるように。シーザーがノノを抱きしめれば、花のような芳しい香りが漂う。

「シーザー、応答しろ! シーザー応答しろ! 答えろ! 返事をしろ!」ソ・シハンが叫んだ。
 潜水器を放出してから三分経ったとき、シーザーは有肺類の中に倒れ込んでいた。その最後の動作で、彼は有肺類の山をぎゅうっと抱き締めていた。ヘルメット内を映すカメラには、彼の顔に残った心地よさそうな微笑が映っている。
 応答はなかったが、生命監視装置は心拍があることを示している。彼は完全に意識を失ってしまったのだ。
 ソ・シハンはマイクを覆い、イヤホンを外してロ・メイヒに渡すと、ロ・メイヒの目を凝視して言った。「考えろ。核動力炉を分離した瞬間から、須弥座は核動力炉の稼働データを取得できていない。つまり、水中通信はケーブルに頼っているということだ」
「どういうこと? 僕なんも分からないよ!?」ロ・メイヒは茫然と首を振った。
「核動力炉が再点火しているかどうかは、俺達が言わなければ源君は何も分からないという事だ。もし俺がシーザーを連れ戻せなかったら、お前は源君に再点火の成功を伝えろ。俺とシーザーが回収できないとわかったら、すぐに引き上げてもらえ。実際に点火したかどうかは関係なく、源君はお前を回収するほか無いはずだ。もし俺がいたら、一人残ってもう一人外に出ろと言われるだけだろうからな」ソ・シハンはヘッドセットをロ・メイヒに着けた。「……何も言うな、言い争うのは好きじゃない。シーザーが外に出たのは、俺やお前を救おうとした自己犠牲じゃなくて、隊長としてのプライドからだが――」
「俺のプライドからすれば、後輩を外に出すことはできない」ソ・シハンは立ち上がった。「俺達が戻らなかったら、お前が潜水チームの隊長だ」
 ロ・メイヒはアライグマのような無辜な目をして椅子に座り込んだ。だが彼は、そんなアライグマの目が嫌いだった――ちくしょう、チクショウ、畜生! こんな時にこんな無辜で無力な目をしている自分が、そんな風にいられる自分が気持ち悪くて仕方がなかった。
「正直に答えてくれ。お前、ノノを忘れてないよな?」
 ロ・メイヒは俯いた。「うん……でも僕にできる事なんてないから。考えないようにしてる」
「三人の中で最後に一人だけ逃げ出したとしても、お前が罪悪感を負う必要はない。俺やシーザーがこうなったのはお前のせいじゃないんだ。それよりもノノを支えてやってくれ。ノノは本当は気の弱い少女だ。シーザーを失ったら悲しむんじゃないのか?」ソ・シハンは加圧キャビンに向かって行った。「お前にはまだ夢がある。俺とは違う。俺に夢はないからな」
「先輩……もしかしてまだ、『小龍女』のことが……?」ロ・メイヒはどもりながら聞いた。
「お前、あいつのことを『小龍女』って呼んでたのか」ソ・シハンは後ろ手に加圧キャビンの扉を閉めた。


「十分経ちましたが、トリエステ号はまだ核動力炉に再点火していません」桜が言った。「既に迎撃態勢は整いました。ソナーによれば、尸守の大群は正面の海域に接近しつつあります。二分後には海面に到達、想像以上に速いです」
「弾薬は惜しまなくていい、一匹残らず迎撃しろ」源稚生はゆるやかに言った。「我らの祖先とはいえ、既に人性を失い殺戮の意思でのみ動く怪物だ。この海を血の赤に染めてもいい。一匹たりとも外に逃がすな!」
「了解。ですが核動力炉が爆発しなければ、我々の全力を以っても尸守の殲滅は不可能です。政宗氏は、神葬所には尸守以外にも何か危険なものがあるとか……」
「戦場とはそういうものだ。千軍万馬に対峙すれども、武士は一人、刀を一振り、地に足をつけ、半歩も退くは許されない」源稚生は言った。「もちろん、彼らを信頼しているからこそだが……」
 プラットフォームの警告灯が回転し始め、サーチライトが回り始め、暴風雨が荒立たせる海面に向かって、大海原を沸騰させるかのように照らす。弾帯が銃身に滑り込み、魚雷が預熱され、連装ロケットランチャーが空転を始め、ますます激しくなる警報の音に急かされて、誰もが海面に目を落とした。黒い海面が揺れ動き、プラットフォームも揺れ動き、まるで下に溜まった千か万かのエネルギーが今にも海を引き裂かんとしているかのようだ。夜叉はダブルバレルショットガンを手に赤い散弾を込め、カラスはロングマガジン二本をサブマシンガンの前後にテープで固定した。マグを引いて逆に差し込めば弾の限り撃ち続けられるという、成り上がり極道ゲバの知恵だ。軍隊のようにマガジンを改造できないのを、ガムテープで解決したのだ。一方桜は素手だった。彼女自身が武器だからだ。
「風林火山四組の装備に比べたら随分寂しい武器だな。そんな散弾で何ができる?」源稚生は夜叉とカラスを見て言った。
「知りません! 知りませんけど、ここで何もしなきゃ男が廃るってもんですぜ!」夜叉は手を揉んだ。「俺達ゃ若君の側近です。タダ飯食らいは無しでしょ!」
 稚生はフフッと笑った。こんな時にまで自分についてきてくれるバカがいるというのは、彼にとっては嬉しい事だった。
 稚生はヘッドホンを付け、宮本志雄のカウントダウンを聞いた。須弥座中央管制室ではソナーレーダーの結果が大画面に表示され、海底から高速で浮上する数十万の光点と、水深百メートルの位置に水中爆弾で構成された機雷層が、緻密な光の網状構造を形成していた。
 「始まった……」宮本志雄が呟くと、画面下から浮かび上がった光点が水中爆弾層に正面から激突した。爆弾の開発者でもある宮本志雄には、はっきりとその効果が想像できた。足元百メートル下の海水の中で爆弾は爆発を連鎖させ、ひとつひとつが眩いばかりの火花と数千万の硬化鋼弾を飛び散らす。平面に結合された爆弾は火花と共に完璧な円形の軌道を描いて炸裂し、この巨大な円を通過した生物は全て切り刻まれる。
 水上の人々は、炎が下から上へと燃えていくような、光芒の筋が伸びていく海面を見下ろしていた。
「生存率46%!」宮本志雄が叫んだ。「46%の尸守が生き残ったぞ!」
 白波の中から鋼青色の体躯が海面上に躍り出た。蛇のような長い尾を持った魁梧奇偉な尸守の肉体は五メートルを超え、尾を振ったその姿はまさに身体をくねらせた龍のようだ。海面からの上昇速度は時速六十キロメートル以上に達し、強烈な衝突力によって再び海面に落ちるまでは優に三メートルか五メートルまで跳んでいた。だがその宙に浮かんだ瞬間に、風組の「ワスプテール」機銃が発砲し始め、弾丸の雨が空から海面に降り注ぎ、尸守の堅牢な身体にぶつかっては濃密な火花を散らす。数多の尸守が弾雨を受けて海中に戻ると、巡視船から魚雷が発射される。小さな魚雷だが威力は絶大で、海面に白色の波痕を残していくと、主武装である三連装艦砲が火を噴き、耳を聾さんばかりの轟音を立てる。
 源稚生は高所から水面上に出た尸守を残らず撃ち落としていた。彼の重狙撃銃は艦砲ほどの口径はないとはいえ、直撃すれば必殺の威力だ。
「第二波、来る!」宮本志雄が叫んだ。
 水中爆弾の層を設置する間もなく、尸守の第二波は全くの無傷で現れた。何百もの鋼青色の体躯が水面から躍り出て、そのうちのいくらかは身体を捻って巡視船の上に降り立ち、強力な長い尾を艦砲に叩きつけ、その砲身をねじ曲げた。艦砲の砲塔はすぐさま爆発し、砲手は灰燼と化し、火焔に揉まれた尸守は海へ落ち、すぐさま再び潜っていった。海中に潜んでいた人と蛇の間の暗殺者は、屠殺に会ったと知るやいなや、龍族から受け継いだ殺意をすぐさま蘇らせ、最も攻撃の容易な巡視船へと反抗の牙を剥いたのだ。
 稚生はただ撃ち続けるだけだった。今のところは須弥座の脅威になるほどではないが、また一波、さらに一波と尸守が海面から飛び出し続ければ……全滅もありうることだった。

 有肺類が土石流のようにシーザーとソ・シハンを呑み込んでいくのを見て、ロ・メイヒは手足まで凍り付かせながらコックピットに座っていることしかできなかった。実際、何をしたくても何もできなかった。ツェッペリン装備の使い方も知らないのだから。
 レーニン号の外壁にへばりついていた有肺類は総じればおよそ数百トンの重さがあり、人間に降り注げば圧死することもありうる。ソ・シハンはシーザーへ向かおうとしたものの、今やシーザーよりも核動力炉から遠く離れた場所にいる。彼が有肺類の山に下りる時には、剥がれ落ちてくる有肺類のせいで海流がゆがめられていて、着地点はシーザーよりも遥かに劣悪な場所になってしまったのだ。説明書いわく、本来潜水艇の外殻修理用であるツェッペリン装備の維持時間は五分だ。しかし今やシーザーのツェッペリン装備は七分も経っているし、ソ・シハンも二分が経過している。シーザーは昏睡状態に陥り、ソ・シハンのバイタルサインも次第に悪くなっている。ソ・シハンはブラッドブーストで自己を保っているようだが、こんな極端な環境でブラッドブーストが役に立つかどうかは分からなかった。
 時間が無くなっていく中、ボールのようなソ・シハンが相変わらず有肺類の山の中で腕を必死に漕いでいる。彼が全力で真剣に頑張っていることは分かっていても、ロ・メイヒは笑いを抑えきれなかった。キラーと呼ばれる先輩を理解できる人間はほとんどいないし、彼自身も何も気にしない人間だ。しかし必要とあれば力の限り全力を出し、一筋の希望でも手放さない。ソ・シハンは遂に目の前の有肺類を突破し、シーザーの装備の背にある取手を掴み、球形のシーザーと自分の装備をベルトで結び付けようとした。だが、二体の球が手を繋いでこんな場所に立てるかどうか、それが問題だった。
 ロ・メイヒは観察窓から二人を見て、今までにないほど感情的に、そして本当に自分がマケグミなのだと感じていた。自分のS級はなんでこうも使えない? 命と引き換えの自爆魔法しかないのか? 実際のところはレベル1、生まれた村から出た事も無く、唯一の特技は自爆。というのも、自爆せずとも、他の雑魚モンスターはシーザーやソ・シハンのような護衛の兄弟が助けてくれていたからだ。
 さながら春が訪れて泥土から湧き出てくるミミズのように、更に多くの尸守が地面から這い出て這い回る。巨大な亀裂が一筋現れ、マグマの河を縦に引き裂き、数百トンのマグマがその中に沈んだ。溶岩の中で巨大な何かが身をもたげている。黒い鱗片に、脊髄から鈎のついた骨棘が生え、その肉体に穿たれた黒い金属鈎は、それを廃墟の下にがっちりと縛り付けていた。だが金属鈎はもはや、粗暴に荒れ狂う尾を地に打ち付けるそれを抑えられず、残っていた建築物は悉く崩れていく。金属片が砂利と共に舞い上がり、海水の中に大きな霧の壁を作る。
 だが、最悪の事はそれだけではなかった。ロ・メイヒは恐怖のあまり立ち上がった。その裂け目から、蛍火の大群が飛び出してきたのだ!
 鬼歯龍蛇だ! 初めて見たのは海溝の上に浮かんでいた時だったが、廃墟がこいつらの巣だとは考えもつかなかった。鬼歯龍蛇は海中に銀色の光筋を残しながら、有肺類のような小物や尸守には目もくれず、もがいているシーザーとソ・シハンへ段々と近づいていく。ロ・メイヒの頭は爆発しそうだった。ソ・シハンだかシーザーだかが言っていた事を思い出したのだ。鬼歯龍蛇は強酸性の粘液を分泌しておぞましい歯で金属を咀嚼してしまい、集団では青銅柱すら噛み砕き食べてしまうということを。ツェッペリン装備に使われているチタン・マグネシウム合金は、鬼歯龍蛇の牙に耐えられるのか?
「走って! 早く! 走れ!」ロ・メイヒはマイクに向かって叫んだ。
 だがシーザーとソ・シハンは走れなかった。完全に有肺類の山に埋まってしまったのだ。ソ・シハンの答えは無い。彼はシーザーを放って、前方の有肺類をかき分けて核動力炉までたどり着いた。ロ・メイヒの声を聞いて現在の状況を理解し、龍蛇に食われる前にせめて核動力炉だけでも再点火しようとしているようだが、彼はパスワードをノノの誕生日だという事しか知らなかった。ロ・メイヒはコンソールをダンッと叩いた。もはや何もかも、お手上げだった……。

 その時だった。突然、軽快な両手が彼の肩に乗せられ、凝り固まった肩をマッサージするように動いた。
「あらあらお客様、だいぶ肩が凝っているようですね? デスク作業が大変なのでしょうか、フフフ……それともゲームのしすぎですか? ダメですよ、頸椎にも悪いんですから。ああ、どうぞわが社の理学療法をごひいきに! あなたの健康を保証します! そう、僕たちはいつも一緒だ!」
「何なんだよ!?」ロ・メイヒは叫び、飛び上がって、上のモニターに頭をぶつけた。
「八千メートルの深海にいるのは一体何なのでしょう? 脚に石を括りつけられて沈められた海賊? いやいや、僕だよ。兄さんの愛しい弟君さ。誠実至上のセールスマン、あなたの頼もしい人生のパートナー、そして兄さんの人生でもっとも暖かなウール・ジャケットさ……」マッサージ師は厳粛真剣な声で言った。
 ロ・メイヒは顔を向けた。小悪魔が藍色の和服に木下駄と白袴を履いて、コンソール台の上に両手で頬杖を立て、得意げに微笑んでいた。新鮮な赤リンゴのように顔を赤らめ、教科書的な可愛らしさを演出している。
「お、おおおおま、お前は! 休暇に行ったんじゃ!?」ロ・メイヒはどもりながら言った。
「へぇ、誰がそんなこと言ったの? 列車に乗ろうと思って荷物をまとめて、VIP待合室でミニスカートの女悪魔と話してたらさ、突然兄さんの身に危険が迫ってるって知って、急いでこっちに来てあげたんだよ」ロ・メイタクはため息をついた。「あーあ、女の子はVIP待合室に待ちぼうけ、僕が口説いた時間も無駄になっちゃった。あの子はもう二度と僕と口きいてくれないよ」
「日本は管轄外だとかなんとか……」
「そりゃ、日本は管轄外だよ。でも今、兄さんは日本の領海の外にいるでしょ?」ロ・メイタクは窓の外をちらりと見た。
「今回の厄介事は、ギネス記録級だね。千匹は下らない尸守に、地底にもう一匹錬金術で作られた純血の龍族尸守。あるいは古代種か……」
「尸守はどうでもいいけど、鬼歯龍蛇はどうにかできないの!?」
 ロ・メイタクは笑った。「尸守がどうでもいいわけないよ、兄さんは本当に何も知らないんだから。あいつらの脳は死んでるけど、神経系や心臓、筋肉は無傷で、自分で分泌した胎衣に包まれていたんだ。血に飢えた攻撃性は生前よりももっと旺盛だし、錬金術で処理された身体や骨は更に丈夫になってる。ちょっとバカだけど、完璧な殺人機械さ。本気で攻撃して来たら龍蛇なんかより全然怖いよ。龍蛇は食べるだけだけど、尸守は血に飢えてるんだ。作られた時に錬金術で精神刻印されてるからね。まあ、あいつらはこの古都が終わりかけているのを悟って、必死に逃げようとしているんだろうけど、生きた血肉の匂いを嗅いだらどうしても血に飢えた本能で引っ張られていっちゃうよね」
「じゃあ、シーザーはどうしたの? なんで昏睡してるのさ?」
「幻覚だよ。この都市は地上にあった時から、鐘で作られた錬金領域で都市全体を包む設計になってたんだ。リズムに慣れてない人は幻覚に引かれるようにね。海の底に沈んで鐘の音も聞こえないはずだけど、シーザーの言霊・鎌鼬がまずかったね。まあ、悪くはないんじゃない? だってすごい爽やかな笑顔なんだもの。ウェディングドレスを着たノノを抱えてる夢でも見てるんじゃないかな」
 ロ・メイヒの目尻が無意識の内にヒクヒク震えた。彼はロ・メイタクの視線を避けて、顔を下げた。
 浮かんでいく尸守がトリエステ号に激しくぶつかり、ロ・メイヒは観察窓から中を覗き込んでくる獰猛に歪んだ顔を見た。尸守がついに、この鉄殻の中に生き物がいることに気付いたのだ。
「おい、黙れ! 俺は今クライアントと話してるんだ。お前ら下賤な奴らなどパーティにお呼びじゃない!」ロ・メイタクは眉をしかめた。「脅かして、分からせてやればいいだろ!」
「誰に言ってるんだよ!? 僕か!?」ロ・メイヒは自分の鼻先を指さした。「あいつらから見たら僕なんて燻製ベーコンでしょ!? 燻製ベーコンが食べる人を怖がらせるなんて無理だよ!?」
「兄さんにあんな口きくわけないでしょ? 一緒に来たボディガードの女の子に言ったのさ」ロ・メイタクは微笑んだ。

 潜水艇の外、酒徳麻衣がゆっくりと立ち上がった。身体の青灰色の鱗を開閉させると、金属の叩く音がした。
 彼女は太腿に括りつけられた鋭い刀を引き抜き、両腕を伸ばした。集まってきた尸守の群れは彼女の骨まで砕くような殺意に震撼し、近寄ることもせず、ただトリエステ号の周囲を高速で泳ぐだけだった。ロ・メイタクは正しかった。尸守は殺戮の意思と血に飢えた本能に従っている。一度生命の匂いを嗅ぎつけると、逃げてもその場に留まり、再び狩りの機会を伺うだけだ。
 数匹の尸守がいたる方向から酒徳麻衣に向かって駆けつけてきた。その不朽の体躯は五メートルを超え、その巨大な体格と人間を凌駕する力は狂奔するサイにも匹敵し、鋭い爪や歯がなくとも、瞬く間に人間の全身の骨を粉砕する事ができる。その長い尾は海水をかき乱し、乱流が叩きつける中、酒徳麻衣は細長い身体をまるで暴風雨の中に立つ一本の竹のように立たせていた。彼女の手が虚空を描くと、金色の光焔が刀の上に浮かび、十柄の長刀の幻影が浮かび上がる。左手は天羽々斬、右手には布都御魂。彼女は回転し、日本の神器級武器が海水に透明な渦を掻きたてた。
 ロ・メイヒはただ潜水艇が震えていることしか感じなかったが、まるで墨汁が潜水艇に被せられているかのように、弥漫な黒雲のようなものがトリエステ号を包んでいくのを見た。
 狂ったようにトリエステ号の周りを泳ぎ攻撃の機会を伺っていた尸守たちが、伸びてきた斬撃に切り裂かれ、常人には聞こえない絶叫を上げた。酒徳麻衣は追いかけず、潜水艇の上に軽々しくつま先立ちをして、何度も何度も双刀から黒い血を振り払っては、その度に長髪が雲のように流れ踊る。

「尸守が多いだけならその方がいい。あの大きな奴が目覚めたら面倒だけどね」ロ・メイタクが言った。「爵位持ちの純血龍族、血統も優秀。あいつの骨を錬金術で尸守にして、その骨格の上に都市の基礎が置かれたんだ。まったく大変なところに来ちゃったんだね。人間が来るべきところじゃないよ。昔から今まで何人か盗みに入ろうとした奴はいたけど、人が入っちゃいけない禁忌の地なんだ。誰も足は踏み入れられない。結局、あいつらは大きな罠を仕掛けて君を誘い込んだわけだ。禁忌の門を開けるためには、いつも血が必要だからね」
「誰かが裏で僕たちを嵌めたってこと!?」ロ・メイヒは目を見開いた。アンジェが執行部に手配させた任務だ。あのアンジェが自分を死に送りやるなど、ロ・メイヒは到底思えなかった。彼は老いぼれ狂人だが、倫理は守る狂人のはずだ。
「もしこの情報が知りたかったら、命の四分の一と交換してね」ロ・メイタクは笑った。
「おい!」
「じゃあ真面目な話、取引でもする? 兄さんたちは山窮水尽、ソ・シハンも核動力炉にたどり着けない。でも兄さんが一言『いいよ』と言ってくれれば、僕がここらの尸守も全部殺してあげる! 爵位持ちの奴もね! そして二時間後にはザ・ペニンシュラ東京でミシュラン三ツ星日本料理を食べて最高級の日本酒を飲みながら、舞妓さんの真っ白な太ももで膝枕されてるだろうねぇ!」ロ・メイタクは胸を撫でた。
 ロ・メイヒはロ・メイタクの目を見つめて、思わず後ずさり、ダッシュボードにぶつかった。
 それでも彼は気が進まなかった。彼の心にはつきまとう影があった。ロ・メイタクと取引する度、その影は大きくなって、やがては彼自身を呑み込んでしまいそうだった。心の奥底で誰かが彼に叫んでいるようだった。やめろ! やめろ! やめろ! もう取引なんてするな! これ以上取引したら、命よりも大切な何かすらも失くしてしまう! しかし、何を? カードローンに頼るほど貧乏な彼に命より大切な何かがあるなど、お笑い草だ。彼の気が進まなかったのは、怖かったからだ。尸守や龍蛇などよりもずっと、怖かったのだ。
 ロ・メイヒとロ・メイタクはしばらく視線を挟んで対峙した。凍り付いたような空気が、不安になるほど静かだった。
「なにさぁ、そんなに僕を見ないでよ。これじゃあ僕がまるで悪者みたいじゃないか。恥ずかしいなぁ、もう……」睨めっこに負けたロ・メイタクは、お世辞のように笑った。「僕は悪者じゃない、悪魔だよ。悪魔の仕事は、お客を誘惑して魂を取引させることさ。もし僕が希望工程とかアフリカ難民救済募金の活動なんてしてたら、悪魔とは言わないでしょ? そんなの他の悪魔にどつかれちゃうよ。僕が有能で、対価も適正価格だっていうのは、兄さんもわかってるでしょ。すこーし命令してくれれば、僕は日本中を爆沈させられる。それでも魂は四分の一しかいただかないよ」
「別に日本を爆沈させたいわけじゃないし」ロ・メイヒは疲れ果てて椅子に座った。「僕はただ――」
 ロ・メイヒは言葉を失った。子供の頃から欲しいものがあったかどうかも、彼には分からなかった。そうしているうちに、既に命の半分をロ・メイタクに売ってしまった。国一つ買えるくらいの金銭と交換することもできただろうし、そうでなくともクレジットカードの借金だけでも清算できたはずだが、彼は今日まで無一文のままだった……その命を費やしたのは世界を救う為だったが、問題は彼自身が世界を救いたいとも思っていないことだった。世界を救うことなどヘノカッパなのだ。彼のような人間はごくごく小さい個人的な欲望しか持っていない。例えば伝説の秋葉原を見たいとか、黒シルクミニスカートの美少女を見たいとか、AV店をこっそり巡りめくって胸や腿に目を輝かせたいとか……あるいは、ノノに好意を寄せられたいとか。
「冗談だよ。兄さんは本当にいい人だね、日本を沈めたくないなんて。確かに海底廃墟になった日本なんて全然面白くないね、海に浮かんでる方が全然楽しいや。新宿の夜空の永遠のネオンライト、北海道の温泉のサルと混浴、秋葉原の街にはメイド服と黒シルクミニスカートの女の子がいるもんね。桜花が落ちる頃に新幹線に乗れば、長い山道に花弁が咲き乱れて、列車は花弁の中を突っ切っていく……」ロ・メイタクのキラキラと輝く目は、美しいものへ期待そのものだった。「それが生きた日本だ。兄さんは生き物が好きだから、沈めさせてくれないんだね」
「当たり前だろ。死んだやつの何がいいんだよ?」ロ・メイヒは言った。
「でもさ、肉体の死と本当の死は違うって言うじゃん。ほら、人間は三回死ぬって言うでしょ? 一度目の死は息を引き取った時、つまり生物学的な死。二度目の死は埋葬された時、人が葬式に参加して、人生を終え、社会の中で死に、居場所を失った時。三度目の死は人々がその人を忘れた時、これが真の死だよ」ロ・メイタクは囁いた。
「何が言いたいんだよ?」ロ・メイヒは心を身震いさせた。
「兄さん、ここで死んだら誰が兄さんを覚えてくれていると思う? 三人の葬式が行われたら、ソ・シハンのお母さんは失神するまで泣くだろうし、ガットゥーゾ家はアンジェをぶっ殺しに一家総出で戦争するだろうね。でも兄さんは? あのおじさんとおばさんが泣いてくれると思う? それともあの低身長デブのいとこが? プッ、アハハ……」ロ・メイタクは冷ややかに笑った。「あーあ、あいつが僕と同じ名前だと思うと、この世から消し去りたくてたまらなくなるよ」
 ロ・メイヒは勝ち筋を見た。小悪魔は動揺した時、愛らしくも醜い笑顔でゆっくりと歯を食いしばる。こうなれば、彼は殆ど言いなりになる。
「ああそうか、ノノがいるか。でも彼女は泣いてくれるかな? いや違うね、彼女の涙が落ちるのはシーザーの墓石だろうね。ほら、中学校の教科書の言葉覚えてる? 『生きているけど、死んでいる。死んでいるけど、生きている』……」ロ・メイタクはささやいた。「これが真理だ。シーザーはノノの心でこれからも生き続ける。でも兄さんは? 兄さんなんてすぐに忘れられちゃうよ。結局、兄さんはシークレット・パーティの殉教者の名簿に載る名前の一つになるだけさ。兄さんの喪中にも火照った女子たちは酒を開けてパーティ三昧、イケメンとキスしたりナニしたり。哀悼の日々なんてお呼びじゃないのさ」
 ロ・メイヒの心は静かに傷んだ。
「だから、兄さんみたいな人は生き続けなきゃ。生きてこそ、兄さんを無視する世界に復讐できるじゃない?」ロ・メイタクはロ・メイヒの耳元に口を寄せた。「いつの日か、世界が兄さんを忘れないようにするためにね。何も無いまま忘れられるより、憎しみでも受けて記憶された方がマシ。誰かの名言だったかな」
「僕は復讐なんてしたくない! どっかいけバカ悪魔!」ロ・メイヒは大声で言った。

「あーあ……兄さんが言った通り、僕はシェイクスピア演劇みたいな台詞をたくさん持ってるんだ。お坊さんに説教しろと言われたら、何が何でも出家させようとするよ。でも兄さんにはたくさん本当の気持ちを伝えてるのに、それなのに、兄さんは『どっかいけバカ悪魔』だなんて……」ロ・メイタクはため息をついた。「ムカついちゃったよ。ちょっと深呼吸してくる」
 ロ・メイタクは手を伸ばし、厚さ10センチ以上の気密ハッチを押し開けた! ロ・メイヒは目をこすった。外はまったくの天気晴朗なり、尸守も海水も、海に出た時からつきまとっていた塩の匂いもなく、トリエステ号は石造りのドックの中にゆったりと立っていた。だが古代都市はそのままで、天まで続くあの巨塔もそこにあった。ロ・メイヒは茫然としながらロ・メイタクを追ってコックピットから出て、両側に運河が流れる広い石畳のメインストリートを歩いた。運河の向こうには寺院のような巨大建築があり、隆起した屋上のてっぺんには茨のような棘が立ち並び、何百メートルもの長さの鉄鎖からは数百万は下らない鐘がぶら下がっている。
 涼しげな風が寂静な無人の古都市を吹き抜け、無数の鐘が風の中で雄大かつ深奥な歌を合唱する。ロ・メイタクは両手を頭の後ろにつけて、深呼吸して新鮮な空気を吸いながら前を歩いている。ロ・メイヒは、まるで眠れる森の美女の城に来たような気分になった。
 しかし、ここは明らかに高天原だ。この古都市が地上にあった時は、こんなにも穏やかで平和な場所だったのだろうか……?
「あ!? 核動力炉だよ!!」ロ・メイタクが正面を指差した。
「ねえ、ちょっと都合よすぎない!?」ロ・メイヒは呆然とした。「フィクションとクロスオーバーにしても限度があるでしょ!」
 だが、前方の道路の中央にあるのは確かに核動力炉だった。まるで孫悟空が東海の竜宮に潜入した時に見た海神の銛のように、半分が地面に埋まり、半分が露出している。そして道の脇には無表情な二人、ソ・シハンとシーザーが……手を握り合っていた。
「なんで手つないでんのこの二人!」いささか汚い言葉を使うのに躊躇うような情景だったが、それでもロ・メイヒは目を背けずにはいられなかった。
「僕が好きでやったんじゃないよ」ロ・メイタクは肩をすくめた。
 シーザーとソ・シハンは二人には全く気付いていないようだった。人形ほど硬くないとはいえ、親密と友愛を表すには十分で、現実世界では手錠をかけられたとしてもこんな感じにはならないだろう。
「じゃあ兄さん、取引でもする? この取引の旨味を考えてみてよ、シーザーとソ・シハンをいっぺんに葬れば、兄さんがカッセル学院のナンバーワンさ! それからノノをものにすればいい。結婚式が勝手にキャンセルされて、ノノが悲しみに心を開いてるときに、兄さんが優しく取り入るんだ。ノノを気遣って慰めて、シーザーがいなくたって一人でも孤独でもないってことを気付かせるんだ。時が熟したら、サービスで無色無味の媚薬もつけてあげるよ、ノノのコップにひとつまみ! そうそう、この前兄さんにあげたアルバムは見た? もうこうなったらアルバムを開く必要なんてないんだよ、直接そのまま、ありのまま見ればいい! 昔の風流人たちがみんな証明してるでしょ、『夫婦の一夜は百日恋』ってね。夜の営みが無い関係なんて長続きしないよ!」
「はぁ!? 何が風流人だ! 風流淫賊の間違いだろ!?」
「淫賊も人には変わりないでしょ」ロ・メイタクは手を叩いた。「でも言っていることは本当さ、やらない理由はないでしょ!」
 ロ・メイタクはおもむろにシーザーの腰からデザートイーグルを引き抜き、シーザーの額に向けて言った。「ほら兄さん見て。兄さんが一言いいよと言ってくれれば、こいつの趣味最低な結婚式は即刻キャンセルだ!」
「やめろ! 下ろせ!」ロ・メイヒは驚いて叫んだ。「下ろせよ!」
「やっちゃおうよ! 兄さんの望みはノノを手に入れる事でしょ? 僕にできるのはこうやってシーザーを排除する事だけ、女の子を追っかけるのは保証対象外さ……だからお代は要りません、無料サービスでございますッ!!」ロ・メイタクは引き金を引いた。

 ロ・メイヒは耳を覆い、叫んだ。シーザーの顔が真っ赤に染まり、粘着質な液体が滴り落ちている。ロ・メイタクは微笑んで銃口を口に入れ、舐めた。「う~ん、美味しいケチャップ。兄さん、フライドポテトはある?」
 そこでロ・メイヒは、シーザーの額に銃痕も何もないことに気付いた。ロ・メイタクの手にあるデザートイーグルはただのおもちゃだ。そもそも、本物のデザートイーグルであれば、こんな短距離で発砲すればシーザーの頭全体が吹っ飛んでいるだろう。
 ロ・メイタクはいつの間にかフライドポテトの袋を抱えていた。紙袋にさらに二発撃ち、つまりケチャップを二回ひねり出して、ロ・メイヒに渡した。「冗談を本気にしないでよ。兄さんが少しでもスカッとするかなって、ケチャップをぶっかけてやっただけさ」
 ロ・メイヒはまだ魂が飛び出たような気分を覚えながら、フライドポテトを一本取り出して噛んだ。作りたてらしく、甘みと歯ごたえがある食感だった。彼はため息をついた。「あのさぁ、兄弟をバカにするのも程々に――」
「おいおいおいおいおいおい!!」言い切る前に、ロ・メイヒの全身の毛が逆立った。
 ロ・メイタクがシーザーの首にワイヤーを巻き付け、足を上げてシーザーの後ろ首を踏みつけ、ハアハアと激しく息を漏らしていた。「銃じゃちょっと粗暴すぎるよね。絞殺したほうがエレガントだよッ!」
 ロ・メイヒはロ・メイタクを突き飛ばそうとして飛び出したが、何の手ごたえもなく地面に転げた。ロ・メイヒが飛び出した瞬間、ロ・メイタクの手のワイヤーが切れたのだ。残念そうにワイヤーを捨てたロ・メイタクは振り返り、物思わしげに言った。「道具がもうないや。今日は殺人に向かない日なのかな?」
「またからかったな!」ロ・メイヒは恥ずかしそうに立ち上がった。「わかったわかった、もう十分だよ! シーザーは別に僕の敵じゃない、結婚しようが何だろうが僕には関係ないよ。ただ今の僕がちょっと落ち込んでて、悲しいなーとか思ってるだけ。本当の僕はすごいいい人なんだ、もしかしたら日本で異国恋愛とかしちゃうかもしれないでしょ。いい加減僕の事は放っておいてくれないかな?」
「ふぅん……どうせいつか殺したくなると思うけどね」ロ・メイタクは首を傾げてロ・メイヒを見た。「兄さんもいずれ分かるよ。この世界に自分の所有物なんて何一つないこと……あるいは、力こそが唯一明白な美しいものだってことがね」
 彼はしゃがみ込んでシーザーの目を覗き込んだ。「そしてこいつはまさに今、夢を現実にしようとしているんだよ。どんな夢かって? もちろん、この手でノノのウェディングドレスを一寸一寸開いていくだろ。滑らかな光沢の背中の裸、下着の色はどんな色……」彼は瞑想するかのように目を閉じた。「黒だ。そう、こいつが妄想するのは黒色の下着だ……ジッパーを下ろせば、彼女の美しいウェストが現れて、花嫁は月明かりの下に横たわる。木々の影は彼女の狂おしい背中に蔓の刺繍のように投げかけられて、彼の手はさらに下へと……」
「もういい! もうたくさんだ!」ロ・メイヒは顔を歪ませ、耳を塞いで聞かないようにしていたが、ロ・メイタクの声はあらゆる障壁を通り抜け、心に直接響いて来る。
「じゃあさ、こいつの手を切り落として、自分の手に替えてみない?」ロ・メイタクはシーザーの手を掴み、ロ・メイヒに向けて手を添えた。「お望みの女の子は、自分の手で抱きしめたいでしょ? 所有って、誰にも奪われないように自分の手の中にしっかりと抑えておくってことでしょ?」
「言うな!」ロ・メイヒの声はもはや物乞いのようだった。ロ・メイタクの言葉を聞く度に、言われたシーンが明確に想像できてしまう。いつもは考えることを避けていたことばかりだった。他人の幸福を考えたくなかった。他人が幸せだと、自分が不幸に思えるからだ。だが小悪魔はそういう想像をさせてくる。心の奥底にある最も苦しいものを引き出すため、鮮血淋漓を強いるのだ。
「兄さん、女の人を愛するっていうのはね、後姿をこっそりのぞいたり、一緒にいたいって思ったりする事じゃないんだよ。自分の手でウェディングドレスを着せたり脱がしたりして、その人の手をしっかり握って、自分がそこにいることを、誰も代わりになりはしないってことを証明するんだ! 兄さんに囚われて、兄さんの檻の中に入って、ようやく愛しているって言えるんだよ! 誰かが手を伸ばして、兄さんの大切なその人に触れるなら、すぐさまその手を斬り落とせばいい」ロ・メイタクは小さな顔を歪ませ、何かを隠すように、いびつな笑みを浮かべた。彼の言葉は嵐のように軽快で、ロ・メイヒには息も挟む隙も与えない……これが彼の本当の顔、暴力と欲望の炎を心に燃やす悪魔の顔だ。彼にとっては愛も名も信じるに値しない。信じるものは、火と剣だけだ。

「黙れよ、このバカ!」ロ・メイヒは突然叫んだ。
 ロ・メイタクは唖然とした。少し怯えたかのようにも見えて、目をぱちくりさせながら一歩ずつ後ずさった。ロ・メイヒは数秒ほど呆然と立ち尽くした後、疲れて背を向けた後、地面に座って胡坐をかいた。
「本当に陰湿な奴め、汚い話ばっかりしやがって」ロ・メイヒは呟いた。
「きれいな悪魔なんて、この世界のどこにいるのさ?」ロ・メイタクも呟いた。
「僕は取引なんてしない。勇気が無いんだ。怖いんだよ」ロ・メイヒは言った。
「だろうね」ロ・メイタクは頷いた。
「たまに思うんだよ。お前と取引に比べたら、死なんて全然怖くないって。なんでそう思うのかはわかんないけどさ。でも僕はお前と取引したくないんだ。どっか遠くに逃げたいとすら……」ロ・メイヒは言った。「無料サービスとかしてくれてさ、たまにすごいと思うこともあるよ。でも本当に怖いんだ……お前との取引か、お前自身か、どっちかがさ……」
「要するに、今回はダメってこと?」
「わかったろ、行けよ。源稚生がまだ僕たちを救おうとしてるはずだ。多分、現実に戻ったら安全索の音が聞こえてきて、ババっと海面まで戻っていけるはずだよ」ロ・メイヒは言った。「お前も僕の事、完全には分かってないみたいだしね……僕はノノには幸せになって欲しいし、確かにノノのことが好きだし、シーザーの嫁になったらどうなるかなんて考えただけでゾッとする。でも、シーザーが僕のモノを奪ったとかなんて全然思わないよ。僕のモノじゃないんだから。あの二人が幸せそうにしている時に僕はどこでどうしてるとか、一人で孤独に細々何してるかとか、そんなのは考えない。それに、ノノは誰にも囚われないよ。もし誰かに囚われて生きるなら、そんなのはもうノノじゃない。僕が好きなノノじゃない」
 ロ・メイタクは長らく沈黙して、そっと溜息をついた。「あーあ、本当に取引をプイにしちゃう気?」
「いけよ、早くいけよ。偽善なんていらないよ。悪魔のお前には何にも分からないよ」ロ・メイヒは頭を下げて、手をプラプラと振った。「もう次からは変な演出挟むのやめろよ。やることはさっさとやる、やらないことはやらない、時間は節約しないと」
 その時、一枚の紙がロ・メイヒの目の前に差し出された。
「何だよ、僕は泣いてなんかないぞ。これがティッシュのつもりか?」ロ・メイヒはわめいた。
「核動力炉のパスワードだよ」ロ・メイタクは淡々と言った。「ノノは誕生日が嫌いなんだ。迎える度に一歳大人になっちゃうと思えるからね。だから親友をパーティに招待したりするのは当日を避けて前日、本当の誕生日には何もないように振る舞ってるんだ。シーザーがパスワードに使ったのはノノの本当の誕生日じゃなくて、毎年あいつがノノの為に開く誕生日パーティの日だよ。英国式の順番で、日を最初に月と年の順」
 ロ・メイヒの手に渡されたのはバースデーカードだった。驚いて開いてみると、中には一行手書きのパスワードが書かれ、その下に小さな文字で『少し早いけど誕生日プレゼント。親愛なる兄さん、ロ・メイヒへ』とあった。バースデーカードの表紙には、雨の中、蓮の葉を傘にして走る二人の男の子が描かれていた。ロ・メイヒはロ・メイタクを呆然と見つめた。どうやらこのカードはずっと前から用意されていたらしい。ロ・メイタクは最初から、取引するつもりではなかったのだ。
「誕生日までまだ数か月あるけど……」
「しょうがないよ、正月じゃあるまいし。お客様からお返しを貰うわけにもいかないから、誕生日プレゼントってことにしておいてよ」ロ・メイタクはため息をついた。「兄さんが僕と取引しないってことは分かってるよ。自分自身を守るために僕と取引するなんて、兄さんのキャラに合わないもんね。一回目はノノ、二回目はソ・シハン……自分の命を僕にどうこうさせるつもりはない、強制しても無駄だって、すぐに分かったよ。でももし兄さんが自分の為に僕と取引する時が来たら、それこそ絶望の瞬間だろうね。契約はすぐに有効になって、兄さんの全ては僕のものになる」
「僕が自己犠牲的だって?」ロ・メイヒはわめいた。「だったらもう兄さんだなんて呼ばないで、雷鋒さんって呼んでくれよ」
「雷鋒が何だって? 兄さんなんか、火を盗んだプロメテウスみたいなもんでしょ」ロ・メイタクは言った。「じゃあ、僕は列車に戻るよ。何かあったらショートメールでも送ってきてね」
「あ、おい……幻覚のままパスワード入れても上手くいくの?」ロ・メイヒは恥ずかしそうに尋ねた。小悪魔からこれほど大きなプレゼントを貰っては、バカと呼んでしまったことに罪悪感すら感じてくる。
「どこでもいけるよ。スマホのキーでもね」ロ・メイタクは肩を竦めた。「このパスワードは一種の言霊みたいなものさ。ご随意にね、それじゃあ失礼」
「あ、うん。また」ロ・メイヒは言った。
「またね」ロ・メイタクは言うや否や、突然デザートイーグルを取り出してシーザーとソ・シハンの顔にケチャップを七、八発ずつ撃った後、笑いながら走っていった。


 ロ・メイヒは猛然と立ち上がった。彼はまだコックピットの中に居た。尸守はトリエステ号の周囲を高速で泳ぎ、海中に黒い血を四散させている。ロ・メイヒは小さなバースデーカードを手に持っていた。
 鬼歯龍蛇は既にシーザーとソ・シハンのツェッペリン装備を噛んでいた。幸いにも、チタン・マグネシウム合金の剛性は青銅よりもはるかに高く、小さい牙で咬むには時間がかかりそうだった。ロ・メイヒは脱ぎ捨てた戦闘服の傍に急行し、スマホを取り出し、電話番号画面で直接パスワードを入力した。疲れ果てたソ・シハンは核動力炉から五メートルも離れていない場所にいたが、金属義肢が完全に折れ、重苦しい有肺類の山を進めずにいた。
 ロ・メイヒはパスワードを入力した後、躊躇いなくダイヤルボタンを押した。
 突然、一つの球形の影が立ち上がった。昏睡状態だったシーザーだ! 瞳孔が燃えるように明るく輝き、金属義肢を使って体に纏わりついた龍蛇を砕きながら、削岩機のような勢いで次々と有肺類の山を突き抜け、一歩ずつ進んでいるソ・シハンを通り過ぎて核動力炉までたどり着いた。唖然とするほかなかったロ・メイヒはその時、ロ・メイタクの意思を理解した。ロ・メイタクが渡したのは核動力炉のパスワードではなく、希望を叶えるパスワードだったのだ。パスワードの入力が終わった瞬間、一切の法則を超えた運命が始まる。このパスワードの前ではあらゆる法則が覆され、全ての物と全ての人がロ・メイヒの願望を叶えるために動き始める。シーザーが立ち上がったのは彼自身の意思ではなく、ロ・メイヒの願望の実現の為だ!
 シーザーが鋏状の義肢を使って回路盤の表面装甲を剥がすと、微光を湛える内部の液晶画面が露わになった。海溝付近の二百度の高温にも耐えられる代物だ。これだけ見れば、装備部はいい仕事をしてくれたものだと思える。
 シーザーは躊躇うことなくパスワードを入力し、一発で成功させた。核動力炉が再点火し、カドミウム棒で中性子密度が上昇し、セーフモードになることもなく、本物の核爆弾へと変化した。シーザーは身を翻して有肺類の山の中でもがくソ・シハンを掴み、ツェッペリン装備から鉛錘を外した。軽くなった二人は直ぐに浮き上がったが、鬼歯龍蛇はツェッペリン装備に咬みついて離さない。三十秒後、ロ・メイヒは隣の加圧室に水が溜まり始め、その後排水される音を聞いた。加圧室の気圧がコックピットと同等まで回復した瞬間、待ちきれなかったロ・メイヒは圧力扉を引き開けた。
 ソ・シハンが昏睡状態のシーザーをツェッペリン装備から引きずり出そうとしていた。装備を必死に噛んでいた鬼歯龍蛇は有機物の匂いを嗅ぐや否や、弾けるようにシーザーの肉体に跳ねて行って咬みつき、尻尾を振ってシーザーの胸腔に入り込もうとした。
「このクソ魚なんとかしないと!」ロ・メイヒは頭皮がピリピリするのを感じた。
 ソ・シハンが長刀を抜き、刀の先端を使って鬼歯龍蛇の鋭い歯を刎ねると、脇に捨てて踏み殺した。数が少なければ恐れるに足りないが、全て殺そうと思えば多少の代償が必要だった。数秒咬まれただけで龍蛇は肉を抉り、シーザーの背中には陥没ができてしまっていた。ロ・メイヒがコックピットから消火器を取り出して二つのツェッペリン装備に噴射すると、龍蛇が次々と剥がれ落ちていった。亜種は水を離れても生き続けられるが、酸素が無ければならない。消火器が噴出する泡状の二酸化炭素は致命的な威力だった。
「心拍はまだある。大丈夫だ」ソ・シハンはシーザーに心臓マッサージをかけ、胸に耳をつけた。「体力を消費しすぎたか。死にかけてるぞ」
「須弥座にすぐに知らせろ、回収! すぐに回収だ! 核動力炉の点火に成功したと伝えろ……」いくらか言った後、ソ・シハンも弱弱しく床に横たわった。「悪い、少し休んでからそっちへ行く」

 酒徳麻衣は潜水艇の上で跪いていた。鱗片の中からじわじわと鮮血が滲み出て、天羽々斬と布都御魂はトリエステ号を守る一対の翼のように浮いていた。
 単体ではなんでもない尸守だが、集団となれば空母戦闘群すらも圧倒する事ができる。麻衣を包囲した尸守は逃げ回る馬を取り囲む狼の群れのように獲物の体力を奪い続け、彼女が完全に疲れ果てるのを待って、それから一斉に飛び掛かるのだ。今はまだ麻衣は疲れておらず、その動きは凛冽な殺気を帯びたままで、尸守の群れは徘徊するばかりだった。麻衣が直面している危機は体力ではなく、薬物で活性化された血統が身体を蝕み始めているという事だ。本来であればこの薬は四時間持続し、血統の安定も四時間は持つはずだったが、水深8600メートルの底で力を出し続け、尸守の群れを相手に一人で立ち回ったせいで限界を超え、血統のなかの嗜血性遺伝子が蠢き始めたのだ。
 突然、尸守たちが引き上げ始めた。酒徳麻衣が下から高温の水が湧き上ってくるのを感じたかと思うと、高天原の廃墟が瀕死の呻き声を上げながら開裂した。
 天まで昇るような炎の壁がトリエステ号の横にゆっくりと沸き上がり、海溝の奥深くで雷鳴のような音が響き渡った。溶岩流が噴火したのだ! 何百万トンものマグマが裂け目から噴出してくる! 新たに噴き出してくる金紅色のマグマはだんだんと固まって黒くなっていき、その大半が完全に凝固すると、黒い巨壁が形成された。周辺の海水が瞬時に気化し、百万発の雷のように海底で連鎖的に爆発する。トリエステ号と尸守の群れはマグマの壁からわずか数百メートルの距離にいた。下ではまだ溶岩流が四方八方に噴出し、上の方ではすでに固まったばかりの火山岩が落ち始めていた。だから尸守たちは攻撃を諦めて逃げ出したのだ。尸守ですら、巨大な災厄の前には恐れおののかざるをえない。溶岩壁が崩壊すれば、無傷で済む者などいないだろう。
 初めから、尸守たちは核動力炉を恐れて逃げていたのではなかった。彼らは海底火山の噴火を予見していたのだ。
 酒徳麻衣は潜水艇の表面に自身を縛り付け、船先の丸々とした鉄頭をポンポンと叩いた。「お姉さんに出来るのはこれくらいよ……あとはあなたの運次第ね」彼女は唇だけ動かした。

「須弥座に連絡しても遅すぎる。こちらから加速しなければ」ソ・シハンがふらつきながらコックピットに入った。「核動力炉はもうすぐ爆発する。今すぐ安全距離を保つんだ!」
「でも電力が無いんだよ! 核動力炉を外しちゃったじゃん! リチウム電池だけじゃ全然無理だよ!」ロ・メイヒは狼狽えた。
「できる。俺がいる。俺もエンジンだ」ソ・シハンはシートに座り、しっかりとベルトを着けた。
 彼のゴールデンアイが燃え始め、コックピットの壁が金色に照らされ、燥熱の波動が空気を満たした。「言霊……君焔!」
 君焔爆発! 黒い火焔の渦が潜水艇の下方の海中に現れた。数千度まで達する内部の温度を一片たりとも外に逃がさない、君焔の最も凝縮された状態だ。黒い渦は海中でゆっくりと円を描いて一秒後に崩壊し、熱を放出すると、大量の海水が瞬時に蒸発し、螺旋状の白い水蒸気が海中で唸りを上げ、水蒸気と火焔が絡み合う。ロ・メイヒはソ・シハンが放ったそれがただの君焔ではないことを知っていた。「君焔」と「風王の瞳」が重なり、火炎竜巻を作り上げているのだ。今やソ・シハンは一人で火炎竜巻を放つことができるようだが、それが単なる練習の成果なのかどうかはロ・メイヒには分からなかった。
 君焔が大量の水蒸気を発生させると、蒸気爆発の高圧の下でトリエステ号は激しく上昇し始めた。ロ・メイヒはその加速度に首が折られそうな気分を覚えながらも、懸命に頭を捻ってソ・シハンを見た。ソ・シハンの無表情な顔は、まるで黄金のマスクを被っているかのようだった。
 やはりドラゴンキラー先輩の心の中には、あの小龍女がまだ生きているのだろうか? まるで彼女が常に言葉無く先輩の後ろに立っていて、君焔が放たれた時にだけ呼応するように風王の瞳を放っているようにも思える。先輩が喫茶店で雑誌を読んでいる時にも、向かいの空席には見えない夏弥が座っている。先輩が水族館でシロイルカを見ている時でも、夏弥は水槽の上で仰向けに寝てシロイルカを眺めている。そのうちソ・シハンは次第に水族館に通い詰め、シロイルカ館に何時間も居座ってはチビチビとハンバーガーを啄むようになっていた。ますます僧侶のようになっていき、このままではカッセル学院が彼一人の為に仏教学部でも開設してしまいそうなソ・シハンの精神状態を、ロ・メイヒは案じずにはいられなかった。
 しかしいまロ・メイヒが思うに、このダメ僧侶は本当は十分幸せだとも思えて、少し嫉妬すらも覚えるのだった。夏弥という少女は所詮架空の人物でしかないとはいえ、完全にソ・シハンの一部となっているし、イェメンジャドですら死ぬ間際に嘲笑交じりに「お前の彼女」と言ったのだ。もうソ・シハンは彼女と一緒にいる事はできない。だが、もう彼女を失うこともない。じゃあ、ノノは? ノノは生きている。元気一杯に生きているが、ロ・メイヒのものにはならない。ノノはただの友達だ。大抵のことは友達でも共有できるが、共有できないものもある。朝食のパン、午後の紅茶、夜空の星々、蝉の声、世界の陽光、あるいは下着が共有できても、友達同士では共有できないものが絶対にあるのだ。

 沈重な灼熱の岩壁が崩壊し始め、巨大な火山岩が半キロ上からトリエステ号に降り注ぐ。ふつう火山岩には気泡が多く、世界で唯一水より軽い岩石とされるが、この場所で凝結した火山岩は違う。極限の高圧下の火山岩に気泡はないのだ。ロ・メイヒが上部観測窓を仰ぎ見ると、天安門城楼と同じくらい大きい黒い巨岩がどんどん近づいてきて、視界全体を覆った。
 トリエステ号は巨岩の傍をギリギリで通り抜けて、上昇を続けた。
 ロ・メイヒが見つめる画面には、外部カメラで撮影された高天原が映っていた。傾斜した海底に沿ってゆっくりとマグマ河へと沈んでいく高天原の、粛穆で恢弘とした一幕が広がっている。最後の建物が徐々に傾いて崩壊し、高い塔が折れ、大量の鈴鐘が都市の通りや巷に溢れて転がり、絶望の鳥が歌うような悲痛な歌が演奏される音楽会となっていた。小さな山ひとつがそのまま降ってくるような火山岩が落ちると、噴出したマグマが廃墟全体に飛び散り、まるで都市を炎で洗い流すかのように街道に溢れて小さな河を作った。亀裂の中のマグマが更なる地面を呑み込み、砕かれた地盤はマグマの中へ完全に消し去られる。やがて爆発する核動力炉によって、高天原は永遠にこの世から消え去るだろう。
 レーニン号が傾斜した地面に沿って滑り、巨大な船体を無数の建築物にぶつけながら、マグマの中へと落ちた。胚は抵抗する素振りも見せず、レーニン号はしばらく溶岩の中に浮かび、やがて沈んでいった。引き裂かれた金属塔が転がってその中心に激突し、艦橋を破壊した。レーニン号の外面を覆っていた肉の層が高温に焼かれ、船首の超硬合金で出来た紅五星が露出したのが、レーニン号が沈む最後だった。トリエステ号は海溝から既に遠く離れ、視界を照らしていたマグマ河も徐々に暗くなっていった。
「死んだのかな?」ロ・メイヒは言った。
「骨一つも見つからなかったのは残念だな。第一世代のどれなのかも分からない」ソ・シハンは呟いた。「早く須弥座に連絡しろ。君焔はただの一時的な加速だ、そう長くは持たない。安全索を作動させるように言ってくれ」



 海が燃えていた。オロチ八家が一万トン級の船を潰して海上に厚い油の層を作り、火をつけたのだ。尸守の群れが火のついた海の中に飛び込む度、火焔がその身体を照らす。尸守にとって火は致命的でないとはいえ、動きに制限をかけるには十分だった。尸守が最初に攻撃を仕掛けた巡視船の火組は完全に壊滅していた。火組の船員は風組が下ろした救命索を捕まえる以外に逃げる算段もなく、救命ボートは尸守によって噛み砕かれ、嗜血性の生物は消化能力を持たないにもかかわらずその血肉を呑み込む。風組が下ろした救命索も尸守の絶好の攻撃機会となり、尸守が救命索に登ったせいで既に四機のヘリコプターが墜落していた。
 残りのヘリコプターは攻撃能力を失い、戦場から撤退し始めていた。ヘリコプターが持てる弾薬には限りがあるのだ。
 林組は尸守が山組の須弥座に群がるのを防ぐラインを張っていた。六つのプラットフォームのうち三つは既に沈没し、残りの二つは尸守に占領され、唯一残るは源稚生と岩流研究所が立てこもる一座だけ。ドックから須弥座に侵入する尸守に対し、稚生は自ら指揮を執っていた。さっきは役に立たないと思えたショットガンとサブマシンガンがこの状況になって優れた効果を発揮し、カラスと夜叉は源稚生の背を守っていた。まず夜叉がサブマシンガンで接近する尸守を牽制し、カラスがショットガンで尸守を確実に仕留める。源稚生は既に狙撃銃を捨て、通路の戦闘ではより分がある蜘蛛切に武器を変えていた。尸守のパワーやスピードは強制進化した桜井明よりも強力だったが、状況への対応力が無く、凄まじい速度で稚生の刀を叩くだけだった。
「第七波が来るぞ!」宮本志雄が通信チャネルで叫んだ。
 いったい何波まで来るんだ? 源稚生は分からないまま、ただ岩流研究所の入り口を守るだけだった。戦場の指揮中枢が破壊されることは、その戦争に負けたことと同義なのだ。
 突然、通路の天井から一匹の尸守が落ちてきて、一瞬のうちに一人の頭顎骨を切り裂いた。夜叉は叫びながら前進し、ショットガンを尸守の眼窩に突き刺して発砲、脳漿を四散させた。
「カーモン! ベイベ! カーモン! ベイベ! ユーアー・ビューティフル! ユーアー・ラブリー!」夜叉は弾丸をリロードし尸守の頭部を吹き飛ばしながら、一帯に響き渡る大声で歌った。
 やはりこの男は変態なのだと稚生は思った。だがこんな血みどろの戦場に立っていられるのは、特別な変態だけなのだ。
 ここで死ねば日焼け止めは売れない。だが一族への責任は果たしたことになる……そうだろうか? 確かに、犠牲になった極道ヤクザたちやその家族に顔向けできないことなんてことはなくなる。野田寿や麻生真が心を通わせられる、そんな世界が守られるなら、それでいい――
『須弥座聞こえるか! 須弥座、応答を! 核動力炉に点火! 今すぐ引き上げて! 引き上げてくれよ!』イヤホンから突然ロ・メイヒの必死な声が聞こえた。
「何ですって? もう一度言ってください!」海底からの声が全く聞こえなくなってしばらくたっていたものだから、稚生はトリエステ号が既に終わったものと理解していた。
『だから、言われた通りちゃんとやったんだよ! だから早く……た! す! け! て!』ロ・メイヒは叫んだ。
「チッ……ああ、クソッ! あのサイコ共は終わったんじゃないのか!」稚生が叫んだ。
 桜は思わず驚いて彼を見た。源稚生がそんな汚い言葉を漏らすのは、今まで見たことが無かった。
「ええい……ウィンチ! ウィンチを回せ! 宮本志雄! トリエステ号を引き上げろ!」稚生は大声で叫びながら刀を前に向けた。
『若君! ウィンチが尸守に破壊されました、トリエステ号を引き上げられません!』宮本志雄が言った。
「破壊? 破壊されただと? 直せ! さっさと直せ!」稚生は呆れながら言った。
『モーターの動輪が破壊されて動かせません。修理はしようとはしたんですが、須弥座の上は尸守だらけ、人を送っても死ぬだけです……』
「どうすればいいか言え! 私が行く!」稚生は最上階に続く工事用エレベーターに乗り込んだ。
『若君、無茶です!』志雄が驚きながら叫んだ。『上は尸守だらけですよ!?』
「だからこそ、私しか行けません――」稚生が話し終える前に、夜叉とカラスが飛び込んできた。「お前ら、何のつもりだ!」
「俺達と若君は一心同体、若君が居るところに俺達あり、でしょう?」カラスは頭の汗を拭った。「尸守だらけの場所に一人は無理ですよ」
「アイムカミーング、オゥ、アイムカミーング、ベーベイ、ベイベー、ゴー!」夜叉は奇怪な英語の歌を日本語アクセント丸出しで口ずさんでいる。
「私が生き残れたら、絶対にお前を英語教室に登録してやる。そうしたらその英語の歌も少しはマシになる……」稚生はため息をついた。
『ウィンチを回転させて一定の初速度まで到達させるんです。モーター自体は無事で始動輪だけ壊れてますから、一定の初速度まで行ければモーターが正常なトルク出力になって、トリエステ号も引き上げられるはずです』志雄は言った。『ですが一定の初速度まで動かすには、手動でウィンチを回さなければいけません。必要な人手は六人ほど。既に六人、こちらから人を送っておきました』
 海底地震の振動波が陸まで達し、日本列島が震える。海の巨波は壁のようになって、須弥座を小舟のように揺り動かす。エレベーターを降りた瞬間、暴風雨が須弥座頂部のプラットフォームに打ち付け、夜叉とカラスは銃を乱射し始めた。どこに目を向けても尸守ばかり。鋼青色の身体のそれは炎光に醜く照らされ、中には人間の死体を喰っているものや、高所に蛇のように纏わりついているものもいる。稚生は一歩進む度に血だまりを踏んだ。
『地震局がついさっき地震アラートと津波警報を出しました。七分後に津波が来ます』志雄がイヤホンの向こうで言った。『須弥座も持って十五分です。岩流研究所は撤退準備しています。若君、急いで!』
「君の六人組というのはどこにいる? 見つからないぞ!」
「あれか? なるほど美味しいエサってわけだな」夜叉は前方のウィンチの傍にある白い防護服を着た六人の死体を指差した。鋼青色の身体がその周りに陣取っている。
「クソが! 人手が足りなくてどうやって回すんだ!」カラスは直径二メートル超のロールに手首程の太さの金属ケーブルが巻きつけられた巨大なウィンチを見上げた。静止状態ならこの金属安全索で五艘のトリエステ号を引き上げられるといわれている。
「夜叉のパワーは二人分じゃなかったか? 私も二人分くらいはある。カラスはどうだ?」稚生は手動輪を握った。
 直径一メートルの鉄製の手動転輪は冷たく濡れて、表面には太い粗雑な麻縄が巻かれている。
「やってみましょう。でも……三人全員が転輪を回したら、誰がケツを守るんですか?」
「俺は片手で二人分のパワーだ。もう片方の手で撃つさ」夜叉はシャツを引き裂いた。
「稚生はネクタイを解いて掌に巻き付け、転輪を握った。「一二の三で動かすぞ」
 転輪が固定され、トリエステ号頂部の安全鈎が自動で起き上がる。稚生たちが全力で手動輪を回すと、巨大なウィンチがゆっくりと回り始め、数メートル先で鮮やかな火花が散る。金属製のケーブルがピアノの弦のように張り詰め、歯ぎしりするような音を立てる。須弥座とトリエステ号は母親と胎児のようだ。金属ケーブルは二人を繋ぐへその緒であり、緒が切れれば胎児は死んでしまう。源稚生が両腕に力を込め、全身の筋肉がしめ縄のように収縮する。少しずつ確実に摩擦をかけていくと、シルクのネクタイを通した摩擦熱は、真っ赤な溶鉄のように熱く感じられた。狂風と暴雨が降り注ぐと、熱くなった身体で雨水が蒸発していく。カラスと夜叉が左右に発砲し、近づく尸守を撃退した。

「若君!」桜が稚生の背後で声を低くして言った。
「まさか! 桜も来てくれたのか!」源稚生は驚きながらも喜んだ。
「若君、もうダメです。時間切れです」
「何だと? 津波まではあと七分あるはずだ」稚生は驚き呻いた。
「先ほど情報が入りました。火組が全滅した後、尸守は林組の防衛線で止まっていましたが、ソナーでトリエステ号に続いて尸守の第八波が来ているそうです。第八波は今までの七波を全て合わせた数と同じです……」桜は言った。「もう普通の武力では解決できません。尸守の第八波が海上に出てきたら、もう戦うというレベルではなくなります。唯一の方法は、絵梨衣さんの力で尸守を海面に出る前に一掃すること……トリエステ号も犠牲になりますが……」
 稚生は呆然とするほかなかった。
「政宗氏からの電話です」桜は稚生に携帯電話を渡した。
「稚生よ、これが難しい決定だとは分かっている」橘政宗の声は低く沈んでいた。「しかし男の道というのは、永遠に難しいものだ……。無論、儂もあの三人を犠牲にするのは忍びない。何とか絶境から逃れられたのだからな。だが、お前も覚悟を決めろ。尸守が日本に入れば、東京で人を殺すことになる。我々は接近に成功した。今必要なのは、ただ少しの残忍さだ。忘れるな、お前はリーダーなのだ。絵梨衣も来ている。お前の迎えにヘリも寄越した」

 稚生は頭を上げて海面を見た。サーチライトに照らされた海の上、ボートが波に揺られながらひとつ、絵梨衣はその先に立ち、暗紅色の長髪を海風に吹き晒させていた。海面の波は湧き立ち激しいが、ボートの周りだけは静かだった。付近の尸守がボートに向かっていくと、絵梨衣は手に握った桜紅色の長刀を無造作に振る。すると尸守は突然真ん中から引き裂かれた。まるで古代の剣豪のような風格だったが、長刀を振るう様はひどく幼稚で、ほとんど鉛筆を振る小学生のようだ。だがこの無造作な振りにも、絶対的な斬撃の意思が込められており、彼女は刀を使って尸守を斬るというよりは、斬るという命令そのものを下しているのだ。
 言霊・審判。歴史上でも誰も見たことがなく、ただ伝説だけが残っている言霊。ボートの周りの尸守は更に密集していき、絵梨衣の斬撃も速くなっていく。絵梨衣の手にする刀は重力も物理法則もないかのように、ただ死ね、死ね、そして死ねと命令を下し続け、やがて尸守も死神のような気息を感じ始めて、近づかないようになっていった。絵梨衣も追うことはなく、まるで格闘ゲームでもやっているかのように冷静だが、それにしてはこのゲームは血腥すぎる。絵梨衣は海水で長刀の血を洗い、袖を捲り上げて玲瓏な腕を露わにし、不機嫌な猫を撫でるかのように海に向かって手を伸ばした。その瞬間、海が凪いだ。全てが平静となり、絵梨衣から巨大な領域が広がり、領域内の一切が強制的に制圧された。
 絵梨衣が手のひらを叩くと、天空の黒雲の一角が崩壊し、清寂な月光が海面にこぼれた。波は光を細かく砕き、海面は表面に細密な紋様を持った銀錠と化す。海面温度はさらに低下し、跳蕩する銀色の波光もだんだんと凝固する。数分後、ボートを中心として、氷層が四方八方へと広がっていた。稚生の目の前で、尸守は海水の中で凍り封じ込められた。驚異的な力の前には戦うこともできず、絵梨衣の前には、尸守はただの玩具のようなものだった。
 アンジェであろうとも震撼せざるを得ない風景だ。シークレット・パーティは神秘の世界を知っているが、絵梨衣がまさにやってみせたことは錬金術や言霊の領域すら超えた全くの新たな領域――神の領域だった。
 俯いて歌を口ずさんだ絵梨衣の視線は、黒い大海を穿ち透す。俯視するその姿は、さながら天空の御座より人類を見下ろす神だ。
 稚生は無力にウィンチに寄りかかった。自分にはもうどうしようもないことを知っているからだ。絵梨衣がこうなったらもう誰にも止められない。近づくこともできない。絵梨衣に近づく一切は死ぬことになる。今や彼女は妹のような可愛い少女ではなく、死神そのものだ。桜はそんな稚生を見て、一分前の彼の闘志を思い出し、突然その心を理解した……源稚生という男は心の底で……それほどまでにあの三人のおかしな人たちを救いたかったのだ。


 世界の終わりのような轟音の中、衝撃波がやってきた。核動力炉が爆発した衝撃波だ。ロ・メイヒの思考は一刀両断され、今まで経験したこともない狂暴な加速度が圧し掛かってきた。これに比べればアンジェの改造マセラティなど可愛いものだ。目の前が一片の漆黒に潰され、鼓膜が裂そうな程に痛む。だがそれは事を成したことも意味する。核動力炉が爆発すれば都市はマグマ河に呑み込まれ、地獄のような廃墟も消え失せ、死神のような尸守も葬られる。
「僕たち、生き残ったんだね」ロ・メイヒは息を呑んだ。「ハイクでも詠もうかと何度思ったことか。日本の部将は死ぬ時に辞世の句を詠むって本で読んだんだよね。『極楽も地獄もともに有明の 月ぞ心にかかる月かな。四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒』とか、『順逆二門無く、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚来たりて一元に帰す』とか、すごいエモいよね」
「別に死ぬ直前に詠んだわけじゃないだろう」ソ・シハンは言った。「実際、だいたいの日本武将の文化水準は平均レベルだ。詩の上手い人を別に見つけて、死ぬ前に作ってもらっただけだ」
「でもさ、僕の最期の言葉が『ヒーロー助けて!』とかだったら、詩にも何にもならないんじゃないかな」
「何か他にも生き残ってるみたいだぞ」ソ・シハンが突然言った。
 ロ・メイヒが画面を見ると、無数の黒い影が海底から高速で上ってきて、黒い渦のように集まっていくのが見えた。尸守の群れだ。最後に高天原から逃げ延びた尸守は格別に多く、核爆発の影響もそこそこだったようだ。尸守の群れが作る巨大な黒い渦の中に一つ巨大な姿が現れ、長い尾で海水を掃く度、無数の潜流と渦が作り出された。それが泳ぐたびに周囲に上向きの高速水流が形成され、尸守たちがそれに乗っているのは、魚群が巨大クジラの周りで一緒に移動するのと同じだ。先頭の尸守は既にトリエステ号もの傍まで近づき、「ガスレイ」の照射の下で、氷晶のような長牙が目を刺すような光を反射している。
「で、お前は詩を詠みたいのか?」ソ・シハンが聞いた。
「ヒーロー助けて!!」ロ・メイヒは泣いた。
 水深はおよそ3000メートル、核爆発衝撃波の慣性がなくなれば、もはや加速することはできない。ソ・シハンが再度君焔を放つことはできるかもしれないが、潜水艇がもたないだろう。外殻は恐ろしい金切り音を立てているし、樹脂の舷窓は肉眼でわかる速度で変形している。君焔と核爆発の衝撃波は潜水艇の外殻に回復不可能な損傷を与えていた。海面に浮かぶだけでもできれば上出来だろう。最後の希望はあの安全索だ。源稚生が安全索を引いてくれるのを待つしかない。
「なんか卵を叩くような音が聞こえるんだけど」ロ・メイヒが小声で言った。
「俺達の殻が割れる音だな」ソ・シハンが言った。
 卵殻が割れるような音が聞こえ、その表面のヒビがゆっくりと広がっていく……だが彼らがいるのは巨大な卵の中だ。金属が断裂し湾曲する耳障りな音に続いて「バクッ」という音がしたかと思うと、液体が沸き上がるような音が続いた。
「なんか漏れてる!」ロ・メイヒは顔面蒼白になった。
「漏れてるが、コックピットに水が入ったわけじゃない」ソ・シハンは言った。「トリエステ号には二重の金属外殻があって、その間にはケロシンが入っている。外殻に穴が開いて、ケロシンが漏れてるんだ……」
「須弥座! 須弥座応答を! 早く! 安全索で助けてくれ!!」ソ・シハンが大声で叫んだ。


 ソ・シハンもロ・メイヒも、その声が空の須弥座に響き渡っているとは思わなかった。この巨大なプラットフォームは既にゆっくりと海の底へと沈んでいき、須弥座を占領した尸守も逃げる事はできなかった。一度海に入れば、氷によって封じられてしまうからだ。
 ヘリは海の上に浮かび、サーチライトでボートとその上の絵梨衣を照らしていた。巨大なローターが風を巻き起こしているはずだが、その下の海は全くの平静だった。壁のような狂波もこの海域に入ることはできない。絵梨衣がそっと歌を口ずさむと、直径一キロの範囲の海は彼女とボートを中心に完全に凍り付いてしまった。数十メートルの高さの津波が押し寄せれば、領域の縁で砕け散った。四方八方は完全な漆黒に染まり、一縷の月光だけが水晶の海面に輝いている。
 ヘリが絵梨衣を待っているというよりも、絵梨衣がヘリを守っているという方が正しかった。ヘリが絵梨衣の領域を離れてしまえば、狂風の中でローターが折れてしまうだろう。
 源稚生は絵梨衣を見下ろし、数多の人間が葬られた戦場を見やると、初めて会った時にシーザーが寄越してくれた葉巻を無言で吸った。突然、あの歌い踊るおかしな人達と過ごした数日間を思い出し、懐かしい気分が湧いてきた。
 絵梨衣が身を起こすと、海面が高く昇った。下に行くにつれて細かくなり、頂上は鏡のように滑らかな、巨大な氷山だ。氷山の表面にこびりついた藍色の微光は、氷に封じられた尸守の群れだ。その下方に伸びる牙のように鋭利な氷稜は急速に成長し続けている。絵梨衣は空中に立っていた。周囲に氷の峭壁を纏わせ、その下には氷の剣があった。
「すんげぇ!」カラスと夜叉が叫んだ。
「これが……月読命……」桜が呟いた。
 突然、氷山帯が絵梨衣と共に沈んでいき、数十メートルの巨大な波が天を滔かした。この氷山はいわば巨大な氷十字槍だ。至為鋭烈な「切斬」の意思を帯びて、海水を海底まで真っ直ぐに切り裂いていく。


 トリエステ号の上昇は止まり、尸守の群れに囲まれていた。
 巨大な何かが観察窓の中に浮かんでいる。黒い龍が、海中で長い尾を振っていた。あの海底の亀裂の中で悶えていた何かだ。ロ・メイタクが言っていた純血龍族を基にした尸守が、最後の瞬間に遂に海底を突き抜けて逃げ延びたのだ。巨大な蝋燭のように灯る金色の瞳と、古い甲冑を着たような朽ち果てた身体。甲冑は幾重もの青銅の鎖の層で繋がれているだけで、唯一残った肋骨の腹腔の中には――蜂群のような鬼歯龍蛇の群れが蠢いている! この純血龍尸守の身体は鬼歯龍蛇の巣穴なのだ! 千百ものライトが一斉に点いたかと思うと、それは鬼歯龍蛇の目であり、眠っていた小魚が皆一斉に覚醒した。無窮無尽の龍がコックピットを威圧すれば、一般人は精神を破壊されてしまう。尸守の王は無声の咆哮を響かせ、水晶のように透き通った長い牙を露わにした。
 もはや逃げ場はない。須弥座が二度と呼びかけに応える事も無かった。
 龍がゆっくりと肋骨を開き、鬼歯龍蛇が巣穴から飛び出し、トリエステ号へと襲い掛かる。千か万かの蚕が桑の葉を噛む様な音が……狂暴な咬音が響く。舷窓の外には鬼歯龍蛇の金色の目がひしめき合い、樹脂ガラスの上の歯跡と交錯する。四方八方から恐ろしい音が響き、鬼歯龍蛇が樹脂ガラスを咬み、金属隔壁に穴を開ける。今や外殻と内殻の間にも大量の鬼歯龍蛇が泳ぎ、光ファイバーケーブルや緩衝材といったあらゆるものを食い物にしている。外殻はともかく、ほとんどの電気回路を失った被害は甚大で、コンソール台のライトがすべて消え、気圧計、水圧計、電流計の表示はゼロになってしまった。鬼歯龍蛇に全て食べられてしまったのだ。
 トリエステ号は食い尽くされ、二人を守る最後の砦は金属内殻のみとなった。

「お前に会えてよかった」ソ・シハンは言った。
「僕もよかったよ」ロ・メイヒもグスグス言いながら言った。「先輩が僕の先輩でよかった」
 シーザーはまだ気を失ったままだった。
 舷窓が崩壊し、海水が巨大な圧力と共にコックピットを満たした。ロ・メイヒは肋骨が一気に全部折られ、胚の中の空気が逃げ場を求めて暴れる感じを覚えた――数千ともつかない鬼歯龍蛇が襲い掛かってくると同時に、海水が不意に灼熱に変わった。ソ・シハンが君焔を放ったのだ。だがそれは自分や誰かを救う為でもはなく、鬼歯龍蛇を焼き尽くしながら自分自身も灰燼と化すためのものだ。ソ・シハンが最強と言われるのは、いつでもこうして、敵を道連れに死ぬことができるからだ。
 その時だった。天から酷烈な寒気が降り注ぎ、一瞬にして君焔の領域を強制的に圧縮してしまった。爆発し始めた爆弾が無理矢理抑えつけられているかのように、君焔が解放できなくなってしまった。ロ・メイヒが見上げると、きらめく藍色の氷十字槍が狂流と共に墜ちてきていた!
 海中はその槍のオーラに満ちていた。骨まで凍り付かせるような冷たいオーラで、寒さの中の一切を切り開き覇道を往く。龍もまた仰ぎ見て無声の咆哮を上げ、巨大な金色の瞳孔に氷十字槍の影を映した。この半死の生物も破滅の瞬間が眼前に迫っている事に気付いたものの、それを躱すこともできず、ただ委縮し、戦慄するほかなかった。鬼歯龍蛇も全ての攻撃を止め、恐れ慄いて我先にと龍の巨大な身体へと逃げ戻っていく。
 低酸素と高圧で、もういつ死ぬかも分からない。それでもロ・メイヒには最後の一縷の光が残っていた。天から降り来る息づかい――遥か昔から知っているような息づかいが。

 氷十字槍が龍の背骨を突き刺した。巨大な尸守の王は全てにおいて完全に無力だった。氷十字槍は龍を刺したまま海淵へと沈んでいき、龍は長い尾を無力に揺らしながら海中へと消えて行った。他の尸守もまた一瞬のうちにその身を裂かれた。ロ・メイヒがこういった絶対的な殺戮の意思を見たのは、龍王フェンリルの「シヴァダンス」に続いて二度目だった。人世に対する神の審判、全ての罪人を十字架に釘付け、抗うも許さず、辯るも許さず……。その時、しなやかな影が氷の十文字槍の先から飛び出した。紅白の巫女服を着た少女が、大袖を海水の中に広げている。髪を束ねていたバンドが切れ、長い髪を深紅の海藻のようにゆらゆらとなびかせている。
ロ・メイヒは無意識の内にその名前を呼んだ。
――ノノ!

 目が濁ろうと、視界が融けようと、彼はあの瞬間を決して忘れていない。海藻のような深紅の長髪は、彼の人生の中の忘れられない瞬間を思い出させた。三峡ダムの底で、ノノは自分の潜水服を彼に着せ、誘惑的な美しさのビキニ姿で、暗紅色の長髪を水中に漂わせていた。他人を指と顎だけで使うようなノノがその時だけは優しく、目を細めて眉を上げて、「生きるのよ」と鼓舞してくれた。ザコは生き残るだけに必死になればいい、余計なことはしなくていい。ノノが潜水服を脱いで渡してきたときは、どうせそんな意図だろうと思っていた。だが彼女もまた怖かったのだ。それでも無理をして、ロ・メイヒに一番優しくて可愛らしい表情を見せようとしたのだ。

「ノノ! ノノ!!」ロ・メイヒは全身全力で夢中で泳いだ。意思も意識もほぼ尽きかける中、暗紅色の長髪だけが頭の中にあった。
 両手を広げてその人を抱きしめようとした。それが死神のように残酷無情な目をしていることには気づかずに。

「ノノ! ノノ!!」彼は叫んだ。口を開けた瞬間肺まで水に満たされても。
 少女は桜紅色の長刀を振るってロ・メイヒに向けた。尸守をも容易く切り裂く刀の切っ先が、ロ・メイヒの眉間を差す。

「ノノ! ノノ!!」ロ・メイヒは刀に気付くこともなかった。ただ、死ぬ前にあの影のそばまで泳ぎたかっただけだった。

 絵梨衣の目の死神のような冷酷さが突然崩壊し、幼い少女のようなあどけなさがその目に戻った。少女は好奇の目でロ・メイヒを見た。知人に会った時の喜びとかではなく、街中で突然歓声を上げて駆け寄ってくるバカを思わず見てしまうような好奇心だ。ロ・メイヒは必死に水を掻いているつもりだったが、それはアヒルの子が足で水をすくうような不器用な動きだった。絵梨衣は人魚のようにロ・メイヒの周りを泳ぎ、なぜ少年が突然泣きそうな表情を見せたのかを不思議に思った。
 ロ・メイヒは曖昧になった影に触れられなかった。目の前は完全に真っ暗になり、自分の死を悟った。肺に残った最後の息が口からあふれ出し、弱々しく沈んでいったとき、彼は優しく抱きしめられた。
 潜水用ヘルメットが頭に被せられ、酸素が肺に入っていき、ロ・メイヒの意識がわずかに回復した。ヘルメット内部のライトがロ・メイヒの目を照らすと、自分を抱いたのが誰かを見ようとしたが、視界はぼやけたままだった。この少女がノノなのかは分からない。ノノには言霊がないが、この少女の力はロ・メイヒが見てきたあらゆる混血種を超えている。ノノの凛然さが一輪のバラなら、この少女には桜花の柔軟さがある。少女は上を指差したが、ロ・メイヒは弱々しく頭を振り、泳げないことを示した。まだ数百メートルの海水が頭上にある。体力が持つとは思えなかった。

「死なないで」脳内に少女の声が浮かんだ。
「ノノ、ノノ――」ロ・メイヒにはもうその名前しかなかった。
「死なないで」少女の声が再び浮かんだ。

 少女はロ・メイヒを放して上へと向かった。紅白の巫女服が視界の上端に消えて行くのを、ロ・メイヒは仰ぎ見ているだけだった。彼が手の中を見ると、黄色いゴム製のアヒルがあった。

「僕は死なないよ……」ロ・メイヒは心の底で呟いた。「だって、君がまだ……諦めてないんだから……」

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