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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第十三章:葬神の地

「街は中央広場を中心として四方に向かって広がっている。東西南北の四方に伸びる大きな道がメインストリートだろう。道路があるということは、この都市が地上に建てられた後で海に沈んだということだ」ソ・シハンが言った。「広大な広場があるのは、そこで龍族が盛大な宗教活動を展開していたことを示す……」
「龍族の宗教ってなに? 神龍教?」ロ・メイヒが素っ頓狂に尋ねた。

 下に広がる岩盤には何千里にも渡って大ナタでも振るわれたかのような亀裂が入り、黄金色の血がとめどなく流れ出している。ロ・メイヒの耳にも鈍い爆発音が響いてきたが、それはマグマ流が水を沸騰爆発させているというよりは、巨大な打ちたての剣を海水に浸して急冷させているかのような音だった。
「雷みたいな音してるよ」ロ・メイヒが言った。
「海水が気化する音だ」ソ・シハンが言った。「超高圧の極淵での海水の沸点は五百度を超えている。マグマが海水に接触すると海水が気化して、聞いた通り雷のような音を出して水蒸気爆発が起こる。だが水蒸気は高圧ですぐ温度が下がって液体になるから、泡がマグマの表面から出てくることはない」
 多少の故障はあれども、それ以外のトリエステ号は十分万全に稼働していた。気流がバルブを通るカラカラという音が鳴り、コンソールで針を揺らしている計器の値は全て正常範囲内。シーザーの操縦するトリエステ号は勢いも猛々しく、ゆっくりとマグマの表面へと近づいていく。酸素が限られているからなのか、シーザーも時間を節約せんと操縦が乱暴になっている。
「ボスもっと慎重にやってよ。手滑らせたらマグマに落ちちゃうよ」ロ・メイヒが心配そうに言った。
「安心しろ、俺の操縦技術は知ってるだろ」
「操縦技術とかの問題じゃないよ! こんなに近いんじゃ、もしまたコントロールが効かなくなったらマグマに真っ逆さまじゃん!」
「そこまで運が悪いことはないだろ。聖闘士は同じ手に二度と乗らないって日本人から教わらなかったのか? トリエステ号だって二度も同じ故障はしないはずさ」シーザーは妙な自信を持っているようだ。
「ボスのその根拠のない自信はどこからくるのぉ!?」
実際としては、シーザーが気抜けているわけではないはずだ。こうでも強がらなければ、こんな不可思議な場所でまともでいられる気がしないというのも分かる。水深計がおよそ8500メートルを示す頃、トリエステ号はリチウム電池駆動の弱動力源に切り替えて、スクリューを弱めて巡航に入った。下には海底の亀裂が燃え盛る深淵のように広がり、その上を通るトリエステ号は火に炙られる羽虫のようにも思える。ロ・メイヒはそこで、北欧神話に出てくる「ギンヌンガ・ガップ」を思い出した。世界が創造される前、天も無ければ大地も無い時、空間にはただ霧だけが広がっていて、そこで火の国と霧の国を隔てていたのが世界の裂け目ギンヌンガ・ガップだ。烈焔と寒気の狭間では霜の巨人の祖先ユミルや巨大な母牛アウズンブラが生まれ、アウズンブラは氷雪と塩を舐めて生き伸び、ユミルはその乳を飲んで育ったという。
ロ・メイヒは溶岩の大河を見つめていた。金色のマグマと黒い海水の境界がはっきりと見えている。溶岩の近くを暗紅色の小エビが泳ぎ、別の暗紫色の生物となにやら共生しているようだった。
「不思議なものだ。かつて人類は、100度以上の温度に耐えられる生物がいるとは考えもしていなかった。体内の水分が蒸発してしまうからな」ソ・シハンが言った。「だがその後、ダイバーによって深海で400度に耐える小さなオキアミが発見された。海底火山の傍に住み、火山のリンを食べる種だった。生命というものは不可思議なもので、人類が了解しているのはほんのごく一部でしかなかったわけだ。十分な水と温度があって、マントルから大量の鉱物を噴出する海底火山こそ、生命が最初に誕生した場所だという人もいる」
「つまり……ギンヌンガ・ガップ?」ロ・メイヒが言った。
 ソ・シハンはコクコクと頷いた。「教授達も北欧神話のギンヌンガ・ガップは海底の地裂を指していると見ている。だがその大きさを感じられるのは、こうやって目の前にした者だけだろうな」
「誰が古代にこんなところ来れるわけ?」
「龍。神話でも最初の生命が誕生したのはここだと言われている。これはつまり、龍族が極淵に似た場所から生まれたという事実を意味している」ソ・シハンは言った。
 既にほぼ全ての観測窓が開けられ、トリエステ号の表面を除けばほとんど360度の視界が確保されている。酒徳麻衣はコックピットの真上に立ち、燃えるように熱い眼下の地裂を俯瞰していた。
「外部水温224度」ソ・シハンが言った。「断熱壁があるとはいえ、マグマ表面に近づいたままだと俺達が持たないぞ」
「今はまだサウナレベルだけど、このままじゃ子豚の丸焼きになっちゃうよ」ロ・メイヒは額いっぱいの汗を拭いた。
 コックピットの中はややカオスだった。シーザーチームは全員ほとんど裸になり、泉の如く湧き出す汗を流しながら、溶けて尻がくっついてしまいそうな座席の上に座っていた。ろくに人間が足を踏み入れるもない極淵の情報は限られており、装備部も極淵は低温環境だと思い込んで作戦服を保温仕様に設計してしまっていた。このまま作戦服のままでいれば熱中症になるのは目に見えていたことだった。ソ・シハンだけは長刀を挿したベルトを腰に巻いたままだったが、シーザーは胸の筋肉の間隙を縫うように肌の上に汗を流し続けていた。
「ねぇ僕もパンツ脱いでいい?」ロ・メイヒが言った。汗でベタベタになったパンツが焼きヒキガエルのように股にへばりつき、この極度の酷熱環境をさらに厳しいものにしていた。
「構わん。どうせ男しか居ないしな」シーザーはタバコを咥えた。「船外温度が15度上がった。酸素残存量は残り28分」
 ロ・メイヒはさっさとパンツを脱いで隅へ投げると、ダウンジャケットを脱いだかのような解放感を覚えた。
「おい! そこに立ってるのは何だ!?」シーザーが叫んだ。
 ロ・メイヒは一瞬疑いつつ、静かに自分の股間を見下ろした……訝し気に頭を上げると、ソ・シハンも同じ場所を訝し気に見ているようだった。
「ボス、もうちょっと冗談のモラルないの!? 確かに筋肉はすごいけど、僕に男の趣味はないよ!」ロ・メイヒは恥ずかし気に言った。
「誰もお前らのモノなぞ見ちゃいない」シーザーが憔悴した様子でゆっくりと顔を向けた。「外を見ろ。9時の方向」
 ロ・メイヒが今まで見たことのないシーザーの表情だった。恐怖、混乱、震撼、戦慄……。幽霊を見たかのような、あるいは目の前に神が降臨でもしてきたかのような表情だった。
 ロ・メイヒが慌てて9時の方向を見ると、その瞬間暑さも完全に忘れ、ブルブルと震えて寒気すら覚え、全身の鳥肌が立っていくのを感じた。そこにあったのは、一本の塔……巨大な塔だった! 地裂のそばのなだらかな斜面の上に建っているそれは、マグマの潮汐からもそう遠くない場所に位置し、その光を反射する黝い塔はまるで今にも融解しそうな鉄骨にも見える。三人は一言も発さず、ただどんな言葉でも言い表せないような震撼と、狂喜と、恐怖を噛みしめていた。潜水チームの三人だけではなく、須弥座の上の源稚生、学院本部のシュナイダーとマンシュタインも、誰もがその塔をただ見つめるばかりだった。まるで何百万年もずっと立っていたかのように、神のように高らかで、神のように孤独なその姿には、崇拝の気持ちすら湧いて来る。
「人類じゃありえない」シーザーがしゃがれ声で呟いた。
「ありえない」ソ・シハンが言った。「8600メートルの深海に人類がこんな巨大な塔を建てるなど、不可能だ」
「龍の都市……?」ロ・メイヒは唇を動かしたが、それが自分の声だとは到底思えなかった。
 トリエステ号が進むにつれ、一面に広がった壮大な都市の威容が露わになっていく。それはまさしく、神の国の姿だった。

 海底山脈の背を越えると、下方の古代都市は絵巻物のように展開していく。あの黝い塔を中心に、マグマの大河に隣接し、何千万年も経た不朽の都市。高層ビルの間を通過する飛行船のように、トリエステ号は古代都市の上を巡航していく。古代都市の半分はマグマの河に沈み、もう片方には崩壊した廃墟だけが残っている。中央の巨大な塔だけが長きにわたって聳え立ち続け、この都市の過去の栄光を示している。あるいはその崩壊した廃墟からも当時の威厳を想像する事ができる。隆起した山なりの屋根の天辺は鉄黒色の瓦に覆われ、瓦には巻雲と龍獣が刻まれている。建物の角から伸びる数百メートルの金属鎖には黒い風鈴が吊るされ、海流ではためく鎖が無数の黒風鈴を揺らし、無声の音楽を奏でている。
 誰もがこの都市の奥ゆかしさと威厳に圧倒されていた。これほど雄大な古代建築様式を備えた文明遺跡など世界のどこにも存在しない。だが今や断絶した古代文明はみな、この建築様式の片鱗を受け継いでいるのである。まるで巨大な斧を持った神が岩から削り出し、黒鉄や青銅、白銀で装飾したような都市。今やシンプルでシャープな輪郭しか残っていないとはいえ、その美しさは時の試練にも耐えて保たれている。
 ソ・シハンは紙に都市の地形の絵を速写していた。今でも当時どのような街並みだったのかが大体わかる。縦横に張り巡らされた通りが街を区画ごとに分断し、廃墟の中央にコロッセオのような円形広場があり、そこから東西南北に四つのメインストリートが伸びている。最初に見えた巨塔は広場の中央に聳え立ち、その塔の表面には複雑なレリーフ模様が刻まれている。塔の頂点部からは長さ数十メートルの鋭利な尖塔が伸び、他の建物にも同じような尖塔がついている。視野を広くして下を見れば、密集した尖塔はさながら鉄の荊の茂みだ。
「街は中央広場を中心として四方に向かって広がっている。東西南北の四方に伸びる大きな道がメインストリートだろう。道路があるということは、この都市が地上に建てられた後で海に沈んだということだ」ソ・シハンが言った。「広大な広場があるのは、そこで龍族が盛大な宗教活動を展開していたことを示す」
「龍族の宗教ってなに? 神龍教?」ロ・メイヒが素っ頓狂に尋ねた。
「今は余計な事を考えるな」ソ・シハンはぴしゃりと言った。
 シーザーが操縦するトリエステ号は古代都市上空を巡航していく。「酸素残量はまだある。可能な限り都市の地図を描いて、ロボットアームで建築物のサンプルを取るぞ」
「なんで龍族はこんな高い塔を建てたんだろう……?」天と地をつなぐような塔を仰ぎ見ていたロ・メイヒは、突然恍惚的な感覚に襲われた。
「龍族には、屋外に建てられた柱状の物体に戦争史を記録する文化がある。勝った時には栄光を、負けた時には憎しみを……」ソ・シハンが言った。「あるいは、処刑にも使われる。龍族は罪人を塔に釘付けて風晒しにしていたそうだ。龍族が飢え死ぬまでは数百年かかるから、罪を犯した龍族はその数百年の間ずっと虐げられ続けることになる」
 スケッチを描き続けていたソ・シハンは、ロ・メイヒが完全に沈黙してしまったことには気づいていなかった。ロ・メイヒの頭では、野獣のような何かが桎梏を振り解かんとするイメージがちらついていた。

 柱に釘づけにされた罪人、果てしない凌虐、悲痛な風と斑模様の血。まるで一切を自分自身の目で見たかのよう――いや、見ているのだ。あの時、北京地下鉄のニーベルンゲンで命の四分の一を払ってロ・メイタクを召喚した時、頭の中に無数のイメージが大海潮のように湧き上がってきた。その内の一つで、彼は廃墟の教会に足を踏み入れていった。長い通路を歩いて教堂の奥深くの暗黒へと向かうと、そこには白色の十字架が立っていた。金の装飾が施されたレイピアが、ロ・メイタクを刺し貫いて磔にしている。傷だらけの小悪魔は十字架の下半分を血で赤く染め、黒衣は引き裂かれ、上から下までの全身に屈辱の印が刻まれていた。
「やっと会いに来てくれたんだね、兄さん……」死にかけの小悪魔が頭を上げ、血の涙を流す。「足音しか聞こえないけど、兄さんだってわかるよ。だって、僕に会いに来てくれるのは兄さんだけなんだから――」
「この世の全ての罪と罰……引き受けよう、僕たち二人で」彼は静かに笑みを浮かべた。悲しみに満ちた微笑を。
 ソ・シハンが言った通りだ。柱、釘づけにされた罪人、終わりなき凌虐……それが幾度となく繰り返されている。時を変え、場所を変え、しかしその最初の最初は、天を貫くような巨大な塔の上のような場所だった。雲の中を仰ぎ見れば、悪魔の血が長々と紅色の筋を黒鉄の塔に刻んでいる。

「ロ・メイタク、ロ・メイタク、ロ・メイタク……!」ロ・メイヒは心の中でその名前を繰り返し呼び、小悪魔を召喚しようとした。
 だが、誰も答えなかった。そこでロ・メイヒは小悪魔が休暇を取ったらしいことを思い出した。南アメリカの古代インカ帝国の地を走る列車に乗ったり、同乗している魔女とお喋りしたりしているのだろう。8600メートルの深海にいるロ・メイヒの呼びかけは、小悪魔にも届かない……。

 トリエステ号が塔の側面を通り過ぎる間、ソ・シハンはその表面に彫られたレリーフと奇妙な文字を描き写した。それは蛇のような曲線で構成されており、あたかも象形文字のよう。一体となった文字とレリーフは、四角柱にしがみ付いた獰猛な野獣を思い起こさせる。近くでよく見ると、巨塔はなにやら透明な金属感を露わにしているようだ。鉄錆のような小さな貝が表面の殆どを覆っているが、わずかに残った鏡のように明るい部分が、塔の表面の光を強烈に反射しているのだ。これが道標のような働きをしていなければ、シーザーも海底山脈の向こうに海底都市など見つけることもできなかっただろう。
「金属塔だが、塩分濃度が高すぎて逆に全然錆びなかったのか」シーザーが言った。
「これだけ高い塔なのに接合部分が一切ない一体成型なのか。今の人類の技術でもこんなものは無理だ」ソ・シハンは言った。「ただの龍族の都市じゃない。もしかしたら王城かもしれないな」
「つまり、胚の故郷だったんだろうな。再び孵化するために帰ってきたわけだ」シーザーは言った。「硫黄爆弾の使い時だな。龍族の古都を見つけられた上に、胚が未だに静かなのは幸いだ。さっさと胚を見つけて爆弾をぶち込むぞ」
「須弥座応答せよ、須弥座応答せよ」彼は稚生との通信チャンネルを繋いだ。「そちらでも確認しているか? そちらでも確認しているのか?」
『こちらでも確認しています。EVAシステムと輝夜姫システムがそちらから送られた動画と写真を保存および分析中です。皆さんは、カメラを操作してより多くの情報を記録してください。龍族の古都を直接観測したのは初めてです。映像情報は一秒でも貴重ですよ。龍族の歴史と文化を研究する初めての手がかりとなりますからね。この発見の報告書はシュナイダー教授から校長に向けてメールでまとめてもらっています。ところで、酸素残量が恐らくあと三十分ほどしかありません。急いで胚を探してください』源稚生が答えた。
「胚がこの廃墟にあるのはわかるが、こんな広い都市のどこを探せばいいんだ?」
『トリエステ号にはソナーシステムがあります。心拍を計測してみてください』
 シーザーがソナーシステムをオンにすると、トリエステ号が四方八方から音声信号を計測し始めた。音のよく伝わる海水中において、音波は水中探査にもっとも優れたツールである。海面でも胚の心拍を観測できる装備部の技術力を以ってすれば、より胚に近いトリエステ号ではさらに正確な胚の位置を特定できるはずだ。
「変だな。雑な波長がたくさんあるぞ」シーザーは眉をひそめた。「まるでエコーが掛かってるみたいだ。色んな方向から規則的な心拍音が聞こえる」
「それって四方八方が龍の胚だらけってことじゃ……ないよね?」ロ・メイヒは肝が冷える感覚を覚えずにはいられなかった。
「もし本当にこれだけたくさんいるなら、俺達にできることなんて何もないぞ。ただ指を咥えて龍族が世界を支配するのを見ているだけだ」シーザーが言った。「だが本当におかしいな、胚の心拍はまるで廃墟の下から来ているみたいだ。どこか特定の地点から来ているわけじゃない、廃墟の地面全体が揺れている。まるで……廃墟そのものの心拍のようだ」
「じゃあ、ここで硫黄爆弾使う?」ロ・メイヒは言った。「どこ狙ったって当たるでしょ、もうこれ以上ここにいたくないよ」
「ダメだ。胚が都市全体まで大きくなるはずがない。廃墟中から心拍が聞こえるのは、何かが共振しているという事だ」シーザーは言った。「もう少し捜索するぞ」
「おい、あれを見ろ。鳥居に似てないか?」ソ・シハンが前方を指差した。
 潜水艇の真正面に傾斜した建築物があった。確か醒神寺にも同じような小さいものが置かれていたか、日本神社の鳥居によく似ていた。横梁と柄を二本の柱で支えたシンプルな構造で、神社の参拝者はこの鳥居の下を潜ることになっている。神官によれば鳥居は結界の象徴であり、一旦くぐればそこは神々の世界なのだという。一般的な鳥居は石造り、あるいは朱紅色の木製なのだが、ここに建っているものの表面はわずかにどんよりとした青黒色に光っていて、あの巨塔と同じメタリックな印象を受ける。京都伏見区にある最も雄大だと言われる千本鳥居ですら十メートルに満たないというのに、この鳥居らしき建造物は五十メートル近くあり、背の高い巨人がくぐるために造られたのではないかとも思える。
 恐らく海底火山が噴火して高温のマグマが流れ出し、建物の下の道路が黒い火山岩で埋め尽くされた時、建物自体も半分ほど溶け落ちて流れ出し、この大量の鉄の尖塔を形成したのだろう。ソ・シハンが水中望遠鏡の焦点距離を調整すると、建築物の表面に古代模様が現れた。写実的な彫刻だった。貴重な資料が刻まれているに違いないと踏んで、シーザーは写真を撮ろうとしてカメラを回した。
 数秒後、写真は本部の中央管制室に送信され、大画面上に表示された。これまで多くの龍族古物に接触してきたシュナイダーとマンシュタインだったが、これほど細緻な彫刻の前には身を震わせることしかできなかった。絵画、彫刻や文字は古物の中でも最も価値があり、これに基づけば消えた古代文明の生活方式から信仰、あるいは工芸技術から政治制度にいたるまでを推測できる。
 かつてエジプトのファラオ墓にカヌーを漕ぐエジプト人の壁画を見つけた考古学者がいた。だが今日のエジプトは砂漠、ナイル川にもオールを使って往来する水上文明も無いとされていたから、乾燥地域の人々が河流地域に転生することを願って描いたエジプト人の幻想だと考古学者は考えた。だが古代気象学者がその後、古代のエジプトが湿潤多雨で多数の河があったことを突き止め、エジプト人はカヌーをしばしば使わなければならなかったことが分かった。絵画は幻想ではなく、古代エジプト人の現実であり、ファラオが死後冥界に行く際には太陽の船が必要だと考えられていた。その時代において、エジプト南北の唯一の交通手段が船だったのだ。
 鳥居の彫刻が表しているのは、何千何万にも及ぶ悪魔や神々の戦争だった。その悪魔や神々の姿形はどんな文明にも見たことが無い。もしその戦争が虚構でないとすれば、その惨烈さは人類の歴史上のいかなる戦争も及ばない。
「人体に蛇の尾……珍しい形象だ」マンシュタインが言った。
「古代文明で人体に蛇の尾といえばインドのナーガ、中国の女媧、ギリシャのメデゥーサといったところか」シュナイダーが言った。「だが龍族が人体に蛇の尾という形象で現れる文献はないな」
 彫刻には様々な悪魔や神々が人体に蛇の尾という形象で現れている。写実的な描写はその怪物が互いの首を蛇の尾で締め上げたり、有毒の炎を吐き出したり、致命的な剣を振るったりする姿を容易に想像させうる。戦争のシーンはあまりにもリアルに、あまりにもショッキングに彫刻されていて、想像が混じっていると思いたくもなる。
「まさか、本当に龍族の古城なのか?」マンシュタインが言った。「いや、人類文明がこんなものを建てれられはしないというだけで、龍族の古城だと推定したくもなるか」
「驚くべきことが多すぎる。消化しきれんな」シュナイダーは言った。「貴重な機会ではあるが、どうやら嫌な予感がする……。都市の位置を確認できたところで、船は戻すぞ。胚の問題を解決する機会はまだあるはずだ」
 マンシュタインは大画面の写真をじっと見つめ、突然顔色を変えた。「扉……そうか! 鳥居は一種の扉だ! 本当に水中に扉があったのか!」
 大きな恐怖がシュナイダーの心で爆発した。そう、鳥居はまさしく扉の一種といえる。凱旋門と同じような象徴的な門であり、壁と繋がっているわけではないが、内側と外側を区別する明らかな扉なのだ! 驚くべき発見に集中していて扉のことを完全に忘れてしまっていた。排圧バルブの故障を除けば一切が順調だったこともあって、少し警戒を緩めてしまっていた。十一年前の現実がシュナイダーの脳裏に浮かび上がる。飛び込み、扉が現れ、扉に向かって進む……映像はトリエステ号がまさに鳥居に向かって真っすぐ向かっている様子を映していた。シュナイダーの目の前で、得体の知れない建築物は一瞬にして趣を変えた。一切を呑み込む歪んだ口へと。
「近づくな! 近づくな! 戻れ、戻れ!」彼は何もかも忘れて激しく吼えた。十一年前に捺された精神の烙印は、この時になっても彼の我を失わせるには十分だった。
 応答はなかった。通信チャンネルは静寂に包まれ、源稚生の声も聞こえない。トリエステ号は全く動かず、日本支部の輝夜姫システムすら応答しなかった。
「シュナイダー教授に報告。五秒前、輝夜姫システムと私の接続が解除されました。日本支部及びトリエステ号との連絡も全て途絶、現在修復を試みていますが、輝夜姫システムが応答していません」EVAの声が中央管制室に響き渡った。シュナイダーはスクリーンに映った日本海域の光点が消えるのを見て、震える他無かった。


「日本の鬼神図のようだ」シーザーが言った。
「おかしい」ソ・シハンが言った。「龍族の古城に来たはずだが、この辺りの彫刻はどれも和風ときている。建築物もかなり日本的な感じだ」
「中学高校で習った歴史だと、日本の文明化ってかなり遅くなかった? だってそうでなきゃ僕らの唐朝文明を有難がったり、いっぱい遣唐使送って米団子食わせたり修行させたりだってしなかったでしょ?」ロ・メイヒが言った。「日本人にこんな先進的な古代文明があったの?」
 トリエステ号は建造物の前まで行ったが、その下は通らず、シーザーは空気ベントに海水を注入して潜水艇を安定させた。目の前のものを扉と考えたわけではない。ただ鳥居に似た形状の建築物のディテールが多く、ソ・シハンが全てを描き写すまでに時間が必要だっただけである。シーザーも悪くない場所だと思ったのか、歴史的な遺跡と一緒に写る貴重な機会を逃さまいと、自分のスマホを取り出し展望窓のそばで自撮りをしていた。
「あれって文字かな? なんだか呪文みたい……」ロ・メイヒが鳥居の中央にある蛇のような模様を指差して言った。
 模様は図形と文字の中間のようなもので、一見すれば無数の小人が篝火を囲んで舞う盛大な歓喜の場面だ。古城廃墟の中でも初めて見た、塔の文字とはまた異なるものだった。
「文字である可能性はあるが、竜文ではないだろうな」ソ・シハンが言った。「EVAに確認してもらおう」
「EVAは分かるの?」
「EVAなら図書館の資料を使って分析できる。世界中の図書館資料にリンクし、どの文字に近いか確認する事ができる。この古城の廃墟が日本と関係があるかどうかもな」
『本部との通信に問題が発生しました。太陽黒点の発生が通信機器に影響を与えた可能性があります。岩流研究所が緊急処置を対応中です』ヘッドセットから源稚生の声が聞こえた。『こちらの輝夜姫で対応しましょうか? EVAと同様のシステムで、世界各地の図書館資料にアクセスできますよ』
 シーザーはわずかな疑念を抱いた。執行員とEVAの間の通信が中断されることなどほとんどなかった。特に今回の龍淵計画では執行部が直接立案し、シュナイダー教授が直接遠隔統制しているのだ。日本支部は単なるファシリテーターにすぎないはずだが、現在本部と通信が繋がらないという。これはつまり、通信が回復するまで本部から直接の命令を受けられないという事だ。現場指揮官にすぎない源稚生の意見がシュナイダー教授の意見を反映している確証はどこにある? シーザーは執行部の分厚いマニュアルを思い出し、この状況で何をすべきか考えた。待機? それは無理だ。酸素残量は残り僅か三十分ほどしかない。
 だが、あのピンタゾウガメが堅実で責任感ある人間であることは確かだ。果たして奴は信頼に値するか否か? そんな一念がシーザーの頭の中を駆け巡り、そして通り過ぎた。シーザーはかつて学生自治会の幹部たちに、初対面の人間は常に信頼する前提でなければならない、と誇らしげに説いたことがあった。リーダーが仲間を信頼しなければ、より多くの人間から信頼を得ることなど不可能なのだ。一度信頼を失えば、再び信頼を取り戻すことは実に難しい。シーザー・ガットゥーゾはあらゆる人間の一度の裏切りを受け入れる心と、裏切りに耐える実力を持っているのだ。
「なら、君達の輝夜姫と話をさせてくれ。EVAと同じくらい役に立つといいんだがな」シーザーは言った。
『こんにちは! 日本支部の秘書長、輝夜姫です! お手伝いできることはありますか?』柔媚な女性の声がチャンネルに割り込んだ。
「なにこのロリ声! まさか林志玲!?」ロ・メイヒが言った。
『日本語版は坂本真綾ですよ』輝夜姫は軽く笑った。
「今からそちらに文字の写真を送る。どういう文字なのか確認してくれ」シーザーは言った。「ちなみに、イタリア語版を作るならモニカ・ベルッチで頼む」
『了解しました、全リソースを使います。一分ほどお待ちください』
 数ミリ秒後、源氏重工の並列スーパーコンピューター『輝夜姫』がフル稼働し、世界中の何億台ものコンピューターからデータを取得し始めた。各地の言語研究所のコンピューターが一斉にロックされ、ウイルスでも入ったかのように、オフのコンピューターも勝手にオンになり、オンになっていたものは全速力で稼働し、あらゆる文字資料が輝夜姫に向かって開かれた。北欧神話のルーン文字、中国夏朝の金文、中世の黒魔術所に使われた秘術文字、エジプト文字、シュメール語、貝葉文……津波のようなデータが輝夜姫のメモリに押し寄せ、毎秒ごとに数千万回もの比較が行われていく。
『通常文字ライブラリ比較完了、一致オブジェクトなし。象形文字ライブラリ比較完了、一致オブジェクトなし。マントラライブラリ比較完了、一致オブジェクトなし……実在言語ライブラリ比較完了、一致オブジェクトなし。パターンを文字として認識できませんでした』
 シーザーはやや狼狽した。「実在言語とは何だ?」
『全ての文字資料は、実在言語ライブラリと疑似言語ライブラリの二種類に分類できます。実在言語ライブラリとは、実際に存在し歴史上で使用されたテキスト、疑似言語ライブラリとは、言語学者によって偽造文字とみなされたテキストのことです』
「疑似言語ライブラリの比較にはどれほどかかるんだ?」
『疑似言語には語法と文法が無く、より多くの論理演算を必要とするため、比較に七分ほど必要とします。EVAがいれば早いのですが、私のリソースだけでは七分かかります』
「こんなことに七分もかけるの!?」ロ・メイヒは言った。「酸素があと三十分しかないっていうのに!」
「疑似言語ライブラリ比較開始だ」シーザーが言った。「輝夜姫が仕事している間、俺達も俺達で胚を探すぞ。確かにこの都市が何なのか解明すれば胚がどういうものかもわかるかもしれないが、俺達のやるべきことは一つ、古龍を殺すことだ。そいつが何という名前なのかとかを理解する必要性はない」
「別に名前とか付けなくていいよね? 死んだ後に記念碑立てられるわけでもないし」ロ・メイヒが言った。
「まあ、古代種を屠ったというなら、将来語り草になった時に名前ぐらいは出るってものだ」シーザーは言った。「何を倒したのかも分からなきゃ酒の席での自慢話にもならん」
「ねえボス、まだ任務が終わったわけじゃないんだから、そういう酒の席での自慢話とか考えてる場合じゃないでしょ……」ロ・メイヒはため息をついた。「結局僕たちがやってることって何? 遺跡は遺跡で確かにすごいけど、胚に関しては何の手がかりも得てないじゃん!」
「……レーニン号」ソ・シハンが言った。
「何だ?」シーザーが聞き返した。
「レーニン号が見つからない」ソ・シハンはトリエステ号が撮影した廃墟の写真をスマホ画面に映した。「俺達はレーニン号がロストした地点を潜ったはずだろう? 全長134メートルの砕氷船なら目立って仕方ないはずだが、何の痕跡も無いのはおかしい。情報によれば、レーニン号は北シベリアの港で胚を強奪しているし、ソナースキャンは心拍が廃墟の下から来ていることを示している。間違いなくレーニン号はここで沈没したはずだが、深度が八キロメートルあれば沈む速度もそれなりだったはずだ。バランスを考えれば氷を砕く為に堅く重くなっている船首を下にして海底に沈んでいく。堅い船首が海底に突き刺さって、胚を地中に打ち込むことはあるかもしれないが、それだけ大きい船が完全に海底に埋まるというのはあり得ない。大部分は海底表面に突き出ているはずだ」
「高圧で潰れたわけじゃなくて?」ロ・メイヒは高圧で潰れていった二つのスチール酸素タンクを思い出した。
「いや。酸素タンクは内部にガスがあったから潰れただけだ。沈没したレーニン号は内外が海水だから、圧力の平衡がとれて押し潰されることはないはずだ」ソ・シハンは言った。
「廃墟の中だ!」シーザーが言った。「レーニン号は廃墟の中にあるんだ! 見つけられなかったのは貝に完全に覆われているからだ! 二十年前に沈んだとなれば確かに写真のように残っているわけがない、廃墟の一部分になっているはずだ!」
「え! じゃあその鋼鉄のガラクタと胚が隠されてる廃墟を見つけろ、ってこと? それでポンって硫黄爆弾を発射したらさっさと帰れるんだよね!?」ロ・メイヒは喜んだ。
「全長134メートルの砕氷船を隠せる廃墟なんてどこにあるんだ?」シーザーは急いで写真を確かめていった。
「ねぇ、写真なんか見ても仕方ないよ……写真なんて……」ロ・メイヒは言った。「ちょっと上見て……」
 シーザーはゆっくりと頭を上げ、上部観察窓からロ・メイヒの視線を追った。鳥居の向こう側に、地を割ってせり出した山のような奇妙な形の廃墟建造物があり、今にも崩壊してトリエステ号を覆ってしまうかのようだった。これも他の廃墟と同じように何千万もの名前も知らない黒い貝殻にびっしりと覆われていて、遠くから見れば鉄錆にも見えるが、ソ・シハンがカメラを近づけると小さな錆がそれぞれ蠢いているのがわかる。ロ・メイヒはゾウの死体からウジャウジャと湧いてくる蛆虫を見たかのような、全身の身の毛がよだつ感覚を得た。
「ここには特に貝が密集しているみたいだ。理由は分からないが」ソ・シハンが声を低くして言った。「レーニンが中にあるとすれば、沈没して二十年経った船にこんな大量の貝が集まっているのは何故だ?」
「あんな動き回ってる貝なんて見たことないよ、なんでこんな気持ち悪い動きしてるの?」ロ・メイヒが言った。
「交尾しているんだ。見るからに有肺類だから雌雄同体なんだろうが、こいつらは遺伝子を交換する為に交尾して、受精卵をエラの中に溜めて孵化させているんだ」シーザーが声を低くして言った。「蠢いているわけじゃない、殻を開いて孵化に成功した小さな有肺類を吐き出している。どういうわけかは知らんが、この有肺類どもはひたすら交尾して毎分毎秒凄まじい数の子供を産んでいるようだ。全く凄まじい繁殖力だな!」
「でもそれじゃあ孵化できた有肺類でこの辺り一杯にならない?」ロ・メイヒは言った。
「そうか、あの海洋生物だ」ソ・シハンが言った。「奴らはこの有肺類に引き寄せられて来たんだ。極淵の深くに有肺類の巣穴があって、常に小さな有肺類を産み出している。この小さな有肺類やオキアミが火山から噴き出たリンを食べ、嫌気的化学反応でタンパク質を生産する。このタンパク質が海洋生物の重要な栄養源になって、魚群はタンパク質を食いに集まり、その魚を別の捕食者が食って、その捕食者を龍蛇が食って……。こういうタンパク質の工場があれば、深海にこれほど奇妙な生態環境が形成されてもおかしくはない」
「でもあの海洋生物って龍族亜種なんでしょ?」ロ・メイヒは言った。「これに一体何が入っているのやら……」
「龍の胚は俺達のすぐ目の前にある。海洋生物を変異させたのもそれだ」ソ・シハンは一度深呼吸した。「ついに見つけたんだ」
『検索一致ターゲットを発見。日本の『神代文字』ライブラリにおいて写真上のパターンが一致しました』輝夜姫が通信を入れてきた。『高天原』
「何? もう一回言ってくれ、どういう意味だ?」シーザーの声は少し震えていた。
『検索の結果、日本の神代文字に由来しているらしいとのことです。画像にはこう記されています。“高天原”……』源稚生が通信に割り込んだ。『意味は――神々の集いし場所』
「神代文字って何?」シーザーとソ・シハンがどうにも戦慄した表情をしているのを見て、自分で考えてみても分からず、聞くしかなかった。
 シーザーは唇を震わせた。「伝統的な史学者の見解では、日本は西暦3世紀に輸入した中国語から独自のかな文字を発明するまで、言葉だけの文化で文字はなかったとされている。だが鎌倉時代、神官の卜部兼方が日本には神話時代から伝わる独自の文字、神代文字と呼ばれるものがあるという説を唱えた。その後『出雲石窟文字』のような神代文字のテキストが見つかったりもしたが、古代日本語と全く異なる発音体系から、日本の言語学者にも偽作だと言われている。有力な意見としては、いわゆる神代文字というのは日本人民族の自尊心の為に作られたもので、当時の日本文化の源泉に中国文明があることを認めたくないことから、日本の先史時代にも文明や文字があったという話を捏造したのだというが」
「神代文字は日本語とは根本的に違う、だからこそ日本語の発音体系とは異なるのかもしれない」ソ・シハンが言った。「別の太古の文字……竜文由来の象形文字かもしれない」
「え、まさか日本人の神って――」ロ・メイヒは既に答えを得たようだった。
「龍族……! 日本人が今言う神族というのは、実は龍族なんだ!」ソ・シハンは声を低くした。「日本の神話は……本当はある龍族の歴史のことだ!」
「なんてこった! 天皇家は本物の龍族ってこと!?」ロ・メイヒは言った。「歴史の授業で帝王将相寧んぞ種あらんやってちゃんと習ったのに!」
「いや、天皇家はともかく……オロチ八家は……混血種だ……!」シーザーは言った。
「じゃあなに、日本支部はみんな神の末裔ってこと!?」ロ・メイヒはわけがわからなくなった。
 そうしているうち、ゆっくりと前進していたトリエステ号は巨大鳥居の下を潜り抜け、溶岩の光の届かない黒影の中に滑り込んだ。錯覚なのかもわからないが、潜水艇が鳥居を通過した瞬間、ロ・メイヒは血みどろの霊魂が地獄で喚いているような、無数のかすれた呻き声を聞いた。廃墟が揺れ、水と共に噴き上げられた砂利や有肺類の死骸がトリエステ号の外郭を叩いて鈍い音を立てる。
 シーザーの顔色が変わった。「海底地震か!? 須弥座応答しろ、須弥座応答しろ! 海底地震は検出されているか!」
『トリエステ応答せよ、トリエステ応答せよ。検測では海底に振動はない、地震局も海底地震の速報は出していない』源稚生が言った。
「だが廃墟が揺れている。海底地震でなければ何なんだ?」
 稚生は数秒ほど沈黙した。『胚が危険を察知し、目覚めようとしているのかもしれません。神経干渉はありませんか?』
 シーザーは自分の頬を叩いた。「多分大丈夫だ。顔を叩いてもしっかり痛いし、夢を見てるわけじゃないらしい。我が小隊もキラーはキラー、バカはバカ、全て通常運転だ」
『酸素残量はおよそ15分、二度はない機会です。この目覚めを許してはなりません。即刻抹殺すべきです』源稚生は言った。『先ほどシュナイダー教授と国際電話を繋ぎました。教授の意思は、いかなる手段を用いても胚を抹殺せよとのこと。今覚醒を許せば奴は自由を得て、簡単に始末することも出来なくなります』
「シュナイダーがそう言っているのか? 了解した! 問題ない! 俺の望んだ通りだ!」シーザーは自分を座席の上にしっかりと固定した。「ソ・シハン、硫黄爆弾の準備はどうだ?」
「爆弾作動開始、安全ボルト解除。15秒後に発射可能」
「ロ・メイヒは浮上準備、空気ベントの排水準備、安定翼準備、スクリューシステム準備、爆弾発射と同時に急速浮上するぞ!」
「ボスちょっと待って! 今読んでる!」ロ・メイヒは緊張した手つきで操作マニュアルをめくっている。
 廃墟の揺れがますます激しくなり、建造物表面に付着した有肺類が一つ一つ、脱皮するかのように剥がれ落ちていく。崩壊しつつある廃墟の中で、謎の存在が目覚め始め、その真の色形や姿が眼前で露わになっていく。
「シーザー……ソナー画面を見ろ!」ソ・シハンが変な声を上げた。
 シーザーが急いで目を向けると、ソナー画面に二つ三つと赤い点が現れ、それぞれに動き始めた。赤点はすなわち心拍を示している――ひとつの胚だけではない、数百、いや数千以上の何かが覚醒しようとしているのだ! シーザーが最初に都市をソナー走査した時は、都市の廃墟の下に何か巨大な心拍が一つあるのだと思っていたが、それは誤りだった。廃墟の下の無数の何かは完全に心拍を同期させて、一つの巨大な心拍音に化けていたのだ!
「クソッ! ここは一体何なんだ! 龍の巣か!?」シーザーは唖然とした。
「ねえ、前見て前、あの……グロいの、何……?」
ロ・メイヒがどんなに頭をフル回転させても、「それ」を適切に表現する言葉は思い当たらなかった。

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