『龍族Ⅲ 黒月の刻』「前編 氷海の玉座」第四章:誓約

 黒蛇はぎこちなくゆっくりと体を捻った。インドの蛇使いが操るように。しかしそれは百メートル超の巨体である。ひとたび踊れば建物は揺れ、大きく入った亀裂は広がり、屋根は吹き飛び、金属片とコンクリート片は耕作されるかのように弾け散る。レナータは歓喜の声を上げた。



 鉄扉についた小さな窓の奥から、ヘルツォーク博士とボンダレフ特派員はレナータを見下ろした。白く細い体躯の子供は小さなベッドの上でうずくまり、一枚布の下でわなわな震えていた。彼女の身体に付いた奇妙な模様を描く血の跡はそのままになっている。

「私達が38号を見つけた時は0号室に居て、0号が38号をレイプするところでした。ですが38号は立入禁止領域に自分の意志で入り込んだんです!」看護師長は鼻息を荒くして言った。「博士、だから見た目で判断してはいけないと言ったでしょう!」
「レイプ?」博士は眉をひそめた。「まだ子供じゃないか」
「博士、あなたは子供の成長の早さを知らない。どんなに身体が小さくても女はすぐに大人の真似をするんです!現にコルキナはパジャマを勝手に薄くして、ウエストと尻を男子に見せつけているじゃないですか!」看護師長は叫んだ。「私にはわかるんですよ!こういう奴らの嗜好が!」
 博士は眉をさらにひそめ、看護師長の話題に興味がないのをあからさまにした。「0号はどうだ?」
「鎮静剤を打ったので、今は元気です。手術をしているので拍子木の音が効いたのでしょう。心配する必要はないと思います」
「0号はもう少ししっかり拘束しておくべきでは?」
「拘束着のベルトが少し古いんです。手首のものは特に擦り減っていました。なので代わりに鉄のチェーンで補強しています。ッ!我々は二度とこのような職務怠慢を起こさないことを保証いたします!」看護師長は博士の目の前で背を正し敬礼をした。
「それに、拘束着の手首のベルトが摩耗していると言っても、足首のには損傷はなく、拘束自体はされていたんでしょう」ボンダレフは言った。「その子供が逃げだしたとは思えない」
「絶対にありえません!」

 ボンダレフは博士に向き直った。「0号室の子供は一体どんな子なのです?」
「脳梁離断術を施した最初の子供だよ。当時の我々の手術技術が未熟だったせいか、術後の精神状態が非常に不安定になってしまってね。すぐに暴力的になるようになったから、0号室に一人で、拘束着を着せておいている。幻覚剤の投与実験を何度も行った、我々にとって重要な研究対象でもあるよ」
「幻覚剤を大量投与ですか。精神崩壊は悪化しませんか?」
「元々狂った人間だ。どちらにしても変わりない」
「血統能力は?」
 博士は首を横に振った。「彼には血統が無い」

「なるほど、これで彼ら二人が例の侵入者である可能性は除外できるわけだ。警報を鳴らしたとき、二人の無力な子供が強姦未遂の揉め事を起こしていただけだ」ボンダレフは言った。
「念の為に、38号にも手術をすればいいのでは。そうすればみんな従順になるでしょうに」
 博士は小窓越しにレナータを見つめ、そっと溜息をついた。「レナータはいつもとても素直な子だよ。昼も夜もこんな寒い場所にいるのを疎んで、神をも罵ってやりたいと思っている可愛い子、まるで瑞々しい花のようだ。見ていると安心するんだよ。だが、手術をしてしまえばそれは花の標本になってしまう。標本はもうたくさんあるのだよ」他の部屋、他の扉へと指を向けて博士は言った。「生きた花も残しておかなければね」
「博士、続きはあなたのオフィスで話すことにしましょう」ボンダレフは言った。

 廊下の向こうへ足音が消えていくと、レナータは恐怖の涙を抑えられず、身体の震えも止められなかった。それでも何か音を立てる勇気もなかった。レナータは博士とボンダレフの会話を聞いて、このわずか一分間で自身の運命が決したことに辟易していた。レナータは手術を免れたのだ。


「残された時間はあまりありません。ブラックスワン港の全てを移さなければ」ボンダレフは赤外線暗視ゴーグルを装着し、周辺の地域を走査していた。

「ここより良い場所を見つけるというのは難しいね。ここは飛行機、砕氷船、犬ぞり以外の手段を拒否する天然の隠れ家だ。諦めるというのは、少し惜しい」博士は言った。
「しかし、あなたの研究はもはや秘密ではありません。侵入者は我々の会話を聞いているはずです。奴が今はブラックスワン港を脱出することが出来ないと言っても、時間の問題です。我々には奴を止められる手立てがありません。完全遺伝子を持つ混血種だというなら跡形もなく逃げ遂せるでしょう。もし龍族の秘密がモスクワの新政府に伝われば、我々の明日はわからなくなる」ボンダレフは言った。「奴をできるだけ長く引き留めさせることはできるはずです。龍骨を見ただけでブラックスワン港の全てを把握したわけではないとなれば、まだ奴がここで偵察を続ける可能性は高い。その隙に重要なものだけ移動させましょう」

「龍骨はどうなる?犬ぞりで運べる代物ではないぞ」
「大きすぎるものは諦めましょう。ラスプーチンがやったように、通路を爆破して永久凍土の底に封印するのです。しかし他に移動できるものは全て移送しましょう。船があります」
「船?どこにだ?」
「私がモスクワからずっとスキーで来たと思いますか?」ボンダレフは言った。


ボンダレフは金属製の円筒を鋳鉄製の桟橋に立てた。
「離れて下さい」ボンダレフは言った。
 その時、耳をつんざくような破裂音とともに、金属製の円筒が燃えるような白いフレア信号弾を噴き出し、極夜の空に壮大な光の帯を爆発させた。光帯の色は美しいオーロラのように赤から紫へとゆらめいている。
「レーニンの停泊地点はブラックスワン港の40キロ沖ですから、すぐに来るでしょう。この新型フレア弾は素晴らしい出来です。アメリカのスパイ衛星からはただのオーロラにしか映らない」ボンダレフは言った。

「君は、レーニンは来ないと言っていなかったか?」
「モスクワのレーニンは来ませんよ。我々のレーニンは来ますがね」
 海面からせり上がる黒い影がひとつ、巨大な蜂のような轟音と共に高速で近づいてくる。雪の塵がヘリコプターのローターで渦を巻いてねじれ、白い雪渦の中で赤い五つ星がきらめいている。ソビエト連邦軍事産業の誇り、鉄の鳥、コードネーム「Halo」と名付けられた「MiG26」重戦闘ヘリコプターが、鋳鉄製の桟橋の上をホバリングし、サーチライトで極夜の煙霧を引き裂きながら、ハッチが開き、5人の将校が列を作ってボンダレフに敬礼した。ヘリコプターの腹部の通信灯が明滅を繰り返し、モールス信号でボンダレフへの挨拶を表現した。
「貴殿の無事を確認し、誠に嬉しく思います、殿下!」博士は挨拶を読み取った。
 彼らは「同志」の代わりに「殿下」とボンダレフを呼んだ。氷海から躍り出たヘリとレーニンはもはやソビエト連邦の忠者ではなく、ロマノフ王朝の従者であることを示していた。ロマノフの名は赤い百年の歴史の中で忘れられた後、復興されるのかもしれない。龍族の力を背景とすれば、地球上の覇権を再構築することすら不可能ではない。

 ボンダレフは博士に手紙を渡した。「これは私が一族へ送った手紙です。読んでみてください」
 博士は一度目を通して、ボンダレフに手紙を返した。
「それが上手くいけば、数週間もせずに移送は完了します」ボンダレフは降下索を伝って降りてきた一人の上級尉官に手紙を渡した。「我々は暖かく心地よいバルト海に新しい研究拠点と別荘を建造します」
 上級尉官が博士の足元に箱を置いた。中には年代物のレッドカード・ウォッカが収められている。
「ちょっとしたプレゼントです。ブラックスワン港を離れる前にアルコールが尽きるのを心配する必要はありません」ボンダレフは言った。
「どうやら、私はいいスポンサーを持ったようだね」博士は微笑んだ。


 別の満月の夜。レナータは小さな窓から外を眺めていた。暗い廊下では灯火が風に揺れている。
 以前の事件から子供部屋は例外なく施錠されるようになり、レナータは深夜にこっそり遊びに行くこともできなくなっていた。この満月の夜を待って一ヶ月我慢したけれども、黒い大蛇は来なかった。レナータは悪い予想をしていた。看護師が警報を鳴らしたとき、彼らは黒い大蛇を探していたのかもしれない。それを殺して、鱗を剥いで背骨を抜き、屋根の上で皮を乾燥させているのかもしれない。レナータは震えずにはいられなかった。
 レナータが窓に近づくと、しおれたホッキョクヒナゲシがあった。極寒の地域で育つホッキョクヒナゲシの短い開花期の間に、レナータは中庭から花を根ごと掘り起こして、白いブリキの缶に植えた。枯れてしまった茎も少し暖めれば生き返ると期待して、暖房器具の近くに置いていたが、そううまくいくものではなかった。レナータはゾロを抱きしめ、また少し泣きたくなった。黒い大蛇は来ない。ホッキョクヒナゲシも枯れた。レナータとゾロだけがこの世界に残されている。

 そのとき、廊下でクリスマスソングが響き渡り、それに呼応するかのように無数の鉄のカスタネットが打ち付け合うような音がして、建物全体が小さく揺らぎ始めた。
 レナータが驚いて頭を向けると、小さな窓から蛇の黄金の目がぎらりと輝いていた。
 レナータが鉄扉を押し開こうとすると、すんなりと開いてしまった。黒い大蛇の巨大な体躯を納めきれずに、廊下には大きな穴が開き、長い尾は外側に伸びていた。零号が黒い大蛇に寄りかかって腕を組み、自慢の表情をしていた。都市のハンサムな男子が新車を運転して美女を迎えるような、映画に出てきそうな表情だった。

 零号はレナータを抱きしめた。「ほら、嘘じゃなかっただろう。黒い蛇は俺のペットだって」
 レナータは地面を見下ろして、長い間沈黙してから言葉を出した。「ありがとう」
 零号は絡みつくような笑みを浮かべながら、優しく言った。「なんとかなるんだよ。結婚しろとかでも言わなければ」
 レナータは零号の意図を理解した。「強姦」事件で混乱した看護師は、レナータの監視ではなく零号への集団的「挨拶」をするようになった。しかし毎晩0号室に看護師たちが集まって何をするのかといえば、レナータが知っているのは薬を大量に積んだカートが0号室に向かっていったことくらいだ。

「大丈夫なの?」レナータは尋ねた。
「あれが幻覚剤だって?」零号は無頓着に言った。「睡眠薬みたいなもんだよ。あ、ほら、きれいだろ?見てみなよ」
 零号が天井を指差すと、レナータは顔を上げた。天井には花びらや美鹿の形に切り抜かれた金箔が、クリスマスツリーの飾りのようにきらめいていた。零号がレナータを抱いて持ち上げると、レナータは金箔の美鹿を手に取った。それは安価なメッキ金箔ではなく、本物の純金のように思える美しさを放っていた。
「すごいキレイ……!」レナータは心の奥底から言った。
 風が廊下を吹き抜け、金箔がシャラシャラとぶつかり合い、風鈴のような音が鳴り響いた。
「さあ、踊ろう」零号は黒い大蛇を撫でた。
 黒蛇はぎこちなくゆっくりと体を捻った。インドの蛇使いが操るように。しかしそれは百メートル超の巨体である。ひとたび踊れば建物は揺れ、大きく入った亀裂は広がり、屋根は吹き飛び、金属片とコンクリート片は耕作されるかのように弾け散る。レナータは歓喜の声を上げた。
「寒いかい?」零号はレナータの手を掴み、手のひらに熱息を吹きかけた。
「寒くない!」
「じゃあ、外に行こうか!」零号はレナータの手を掴んで走った。
 零号はレナータよりも上手く、蜘蛛の巣のような道筋の脱出になれているようだった。次々に隠し扉を突破し、警戒が緩い通路を抜けて、錆びた鉄のはしごを登り、港の隅々まで駆け抜けるかのようだった。手を繋いで滅茶苦茶に走りながら、レナータは飛び立つ鳥のように大声で笑った。小さな教会に入ると聖なる十字架を踏みつけ、モザイクガラスの窓枠に登って、レナータは零号の肩に乗って窓を開けた。冷たい風が吹くと泣きそうな衝動に駆られて、世界の果てに入るような寂しさを味わった。険しい氷山は遠くにそびえ、極域から浮かんでくる巨大な氷殻がゆっくりと海を横切る。その中心に巨大な氷の峡谷があらわれたかと思うと、蒼い水路がそこに現れる。太陽は地平線に沈んでいき、空は赤く残光を抱えている。今日は白夜だ。

 錆びた鉄の窓枠から零号が這い出ると、レナータを引き上げるために手を伸ばした。ここはブラックスワン港で最も高い場所。雪の中にコンクリートの十字架が立っていて、ブラックスワン港建設に命を捧げた赤軍の兵士たちの名前が刻まれている。
「向こう側453キロ先が北極」零号は指差す方向を変えて、「あっち3781キロ先がモスクワ」
 強烈な風が足の下を吹き抜け、思わずゾロを抱きしめながら、レナータは北と南をぼんやり見つめていた。今、ブラックスワン港すべてが足元にあり、レナータはその世界を見下ろす征服者のようだった。地球の極点はすぐそこにあるけれども、人間の世界はそれよりも遠い場所にある。レナータはふるえた。
「ちょっと寒いね!でもいいものがあるよ!」零号は誇らしげな顔つきを見せた。

 零号はレナータを連れて十字架に腰を下ろし、雪で覆われた鉄の門を開けた。炭を燃やした独特の熱が伝わってきて、レナータの身と心の寒さをときほぐした。
「ブラックスワン港唯一の煙突。この十字架は煙突なんだ。ここにいれば寒くなんて思わないさ」零号はさも当然のようにレナータの隣に座って、レナータの知らない歌をくちずさんでいた。

「どうしてそんないろんなことを知ってるの?」レナータは尋ねた。
「読書」零号は言った。「図書館で本を読んだからさ」
 たしかに、ブラックスワン港には大きめの図書室がある。しかしそれは研究者だけが使えるもので、看護師すら入る権限がない。レナータは黒い大蛇があらわれた夜に忍び込んだことがある……いや、そうか、あの大蛇を零号が使役しているのなら、図書室に出入りしているのは当たり前の事なのだ。いまや、レナータは零号が何を起こそうとも奇妙には思わなかった。零号はなんでもできるように見える。

「これあげる」レナータはゾロの背中のジッパーを開け、ホッキョクヒナゲシのブリキの箱を取り出した。花は枯れてしまっていたけれども、白いブリキ箱は良さげに思えるもので、レナータが長らく考えてようやく思いついたプレゼントだった。この小さな花をゾロの体に隠すことで、変なものを部屋に持ち込むことを許さない看護師の目を免れることが出来たのだった。

「Papaver radicatum?」零号は言った。
「何?」レナータは理解できなかった。
「これ」零号はホッキョクヒナゲシを指して言った。「Papaver radicatum。そういう名前だって本に書いてあった」

 レナータはそれがホッキョクヒナゲシの学名であるとは知らなかったが、図書室の植物図鑑にはこれはPapaver radicatumであると紹介されている。零号に知識を教えてくれるような人間はいない。自ら図書館で得た知識なのだ。
「萎れてるけど……」レナータは言った。「咲けば本当にきれいな花なの。来年新しいのを植えれば……」
 レナータは萎れた花を抜くのは気が引けた。自分自身で生命の根を断ち切るように思えたから。けれども、いつもおもちゃを壊している男子がそんなことを気にするとは思えなかった。

 零号がブリキの箱をそっと受け取った。「新しく植え替える必要はないよ。Papaver radicatumは死んでいない。また咲くんだ」零号は立ち止まり、奇妙なことを言った。「世界には、蘇るために死にゆく生命というものもある」

「プレゼントありがとう、レナータ・エフゲニー・チチェリン同志」零号は微笑んで言った。「俺に返せるものはないけど、キスぐらいならできるよ」

「レナータ……何て?」レナータは驚いた。自分の名前がレナータだということは知っていたけれども、姓やフルネームを持っているとは思っていなかったのだ。

「君、そう、君はレナータ・エフゲニー・チチェリンだ。君のファイルを見たんだ。アーカイブルームの第二ファイル格納庫の最下段の引き出しにあったやつをね。三重のロックがあったけど、俺にかかれば造作もない」零号は微笑んだ。

「知らなかった」レナータはうつむいた。「小さなころからここにいたの。パパとママがどんな人なのかも覚えてない。ぼんやりとした人影くらいしか……」
「向こうは君の事なんか気にしてないよ。彼らに何をしてほしいんだい?」
「パパが酔っ払っていたのを覚えてるの。髭が刺さって痛かった。ママはきれい。パパとママが私の事なんてもう知らなくても、私が恋しいの。私の親はあの人たちだけなの」
「親友がいればそんなもの忘れられるさ。そいつらよりも君を幸せにできるよ、俺は」
 レナータは否定しようと思って零号を見たが、すぐに顔を伏せ、冷え切った気分に浸った。

「ウォー!ウォッ!」零号が突然吠えた。
 レナータが驚いて顔を上げると、零号が舌を出しているのを見た。零号が自分を笑わせようとしているのはすぐにわかった。自分の子供かペットかをあやすかのようなバカバカしさ――けれどもその粗雑さが可笑しく、レナータは陰鬱な話題を忘れて笑った。

「零号と呼ぶのが嫌なら、ワンコロと呼んだっていいぞ」零号は言った。
 笑った零号は確かに子犬みたい、とレナータは心の中で思った。「そんな呼び方、失礼すぎじゃない」レナータは言った。
「俺が友達になってくれと頼んだ時、君は子犬を見るような目で見てきたじゃないか」零号はにやけて言った。

「ううん、違うよ」
 零号は驚いたようだった。
「赤ちゃんアザラシだよ」レナータはおどけて言いながら、思わず笑ってしまった。何を言っているのかさっぱりな零号にレナータが手を伸ばすと、零号は大人しく触られるがままになった。

「俺のキスがいらないなら、他に何か欲しいものはある?君が望む事なら何でも手伝ってあげるよ」零号は言った。

 レナータは零号の能力を信じていた。黒い大蛇でさえペットにしているのだ。むしろ何が出来ないというのだろう?……長考の末、レナータは首を横に振った。
「願いとか、そういうのでもいいさ」
「私は……家に帰りたい……それか、死にたい」
 零号は頭を掻いた。「なんで死ぬ?君が死んだら、俺の友達は誰もいなくなっちゃうじゃないか」
「でも、ここで暮らす意味だってないじゃない。毎日、意味のない日々ばかり、ゆっくり眠るように、安らかに消えてしまいたい」レナータは穏やかに言った。「私が死んでも、ママやパパは知らない、誰も悲しくない、誰も私のために泣いてくれたりなんてしない……あなたは泣いてくれるの?赤ちゃんアザラシさん」

 零号はこの新しいあだ名になれていないようで、ぎこちなくにこやかに笑った。「どうやって泣くんだか分からないんだ。昔に泣きすぎて、もう泣き方もわすれちゃったよ」
 レナータの方も、零号が自分の為に泣いてほしいと思っているわけではなかったから、零号が何を言っているのかは理解しなかった。結局、レナータは新しい友達の一人でしかなく、零号はいずれ自分と同じくらい有能な別の友達を作るのだろう。

「死なないで、レナータ」零号はレナータの長い髪に軽く触れた。「この世界は美しい。君が今まで見たことも、経験したこともないことでいっぱいだ。だから死ぬな……生きなきゃいけないんだ……邪魔する奴は、みんな殺してしまえ」零号は唇を噛んで血をにじませながら話していたが、声音は優しいままだった。レナータの心は震えた。

「君の誕生日はいつだい」零号は尋ねた。
「クリスマス」
「お、そうなんだ!」零号は喜びながら手を叩いた。「誕生日になったら、とびきりの誕生日プレゼントをあげるよ」
「誕生日プレゼントなんて初めて」レナータはわくわくした。「小さなものでも嬉しい」
「小さくなんてないさ」零号は穏やかに言った。「だから一つ、お願いがある」
「お願い?」レナータは驚いた。
「俺は君に自由をプレゼントする。君はここから離れて、両親に会いに行けるんだ」零号は何かを誓うかのように、レナータの手に自分の手を重ねた。

「本当に?」信じられないレナータ。
「レナータ・エフゲニー・チチェリン。俺と一緒に逃げてくれないか。この道で俺たちは互いに見捨てない、絶対に裏切らない、たとえ死の果てに至ろうとも……」零号はレナータの目を見つめた。

 レナータも零号を、この魔少年を見つめた。零号の目の底には、まるで淡い黄金の水面が波打っているよう。その視線は何千年もの時をかけて長く、遠く、悠久へと伸びている。
「わかった」レナータは声を出した。


「データと遺伝子サンプル合わせて128個のスチールキャビネットがヘリでレーニン号に移送済みです。2億米ドルもドイツ銀行の口座に送金してあります。残りの我々の仕事は、最重要にして最後の研究材料の積み込みだけです。あと、ブラックスワン港の爆破に関しては研究も含めて跡形もなく消し去る必要があります」

 博士は机の上に巨大な青写真を広げた。「ブラックスワン港は、建設時から自壊プログラムを仕込んだ設計になっている。厚さ数十メートルの凍土層を完全に崩壊させれば、全ての情報は土の中だ。まさに『白鳥の死』だよ」

 ボンダレフは青写真を一見して理解した。「素晴らしい。あらゆる支柱が綿密に設計されている……爆発すれば余すところなく埋もれ、復元の手がかりも残さない」
「しかし、我々が完全に隠れて逃げることは難しいだろうね。ベルホヤンスクの空軍基地にはSu-27重戦闘機部隊がいるが、彼らの命令はブラックスワン港を必要に応じて抹消することだ。あらゆる生存者を含めてね。私も監視されている身だから、君の助けが無ければ逃げることなどできない」
「戦闘機部隊は厄介ですね。Su-27が中隊規模で来るとなると、レーニンのような一般艦艇では太刀打ちできない」ボンダレフは眉をひそめた。

「それだけではない。『白鳥の死』は、ブラックスワン港に埋められた48個の真空爆弾を爆発させることなのだが、これが一つ一つ、いわば小型核兵器のように強力なのだ。最初の爆発で高性能爆薬の粉塵を空気中にまき散らし、それらが空気と完全に混ざり合ったところで再び爆発するという代物なのだが、この粉塵爆発の衝撃はヘリのローターを折るかもしれないぞ」

「それは大丈夫でしょう。我々が十分に退避してから、その真空爆弾を爆発させればいい」ボンダレフは言った。

「問題は、航空中隊が我々の動きに気付けば、すぐにでもあちらから爆弾を爆発させられるということだ。そうして洋上で止めを刺されては元も子もない」博士は言った。「ブラックスワン港の自爆は、事故として偽装しなければならない。……だから、火事を起こす。ここで火災が起きたことにして、ベルホヤンスクの空軍中隊を出撃させる。状況が手に負えないと分かれば、彼らは真空爆弾を爆発させる。我々は悪天候を味方につけ、犬ぞりを使って地上からここを離れるのだ。こうして世界からブラックスワン港は消える。生存者ゼロでね」

「素晴らしい計画だ。最後の物資の移送はどうしますか?貴方が最後の物資を子供たちと一緒に守ることになると思いますが。信頼を築いたとはいえ、私に全てを任せるというわけでもないでしょう」ボンダレフは微笑んだ。
「私が最後の物資を守る。君も一緒だ」博士は言った。

「犬ぞりですか?」
「そうだ。我々は最後に、隠れて逃げ遂せるのだ。誰かに見つかってしまえば、『生存者ゼロ』で消滅したことにならない」博士は冷たく言った。

「ということは……貴方と私、子供たちを除いて、誰も生き残らないということに?」ボンダレフの顔が引きつった。

「ボンダレフ同志、君にも同情が湧いたかね?」博士が振り向いた。その優雅な優しい眼は、凍て刺すような冷たさを投げかけていた。「我々の秘密を知る者がまだブラックスワン港に隠れている。生きて帰らせるわけにはいかないだろう。研究は終局に近づき、研究者の価値は失われつつある。人間の遺伝子に龍の遺伝子を埋め込んで混血種を作るという最終段階は、私個人で出来ることなのだよ。我々は大いなる力を手に入れようとしている。それを手に入れた者はいわば王だ。王は己の力を他者に分け与えることなどしない」

 ボンダレフは嗅ぎ取った。この後すぐの未来に流れる血の匂いを。
「そうだ!結果は犠牲なしには得られない!」ボンダレフは杯を上げた。「我々の大義の為に!」
「我々の大義の為に!」

「もう一ついいでしょうか。犬ぞりに全ての子供を乗せるつもりですか?」ボンダレフは尋ねた。
「我々は価値のある子供だけを連れていくことになる。ほとんどの子供はもう用済みだ」博士は軽薄に言った。「孤児院を別に立てなくとも、完全遺伝子を持った子供を見つけられないわけではない。研究も十分進んでいる」
 ボンダレフは冷たい空気を一身に吸い、深呼吸した。「まったく思い切りのいい人だ。王というか、専制君主のようだ」
「残酷さが利益を生むのなら、誰でも残酷になるさ」博士の声は冷淡だった。「臆病者の優しさとは、たんなる怯懦の発散に過ぎない。そうでないからこそ、私はこうして協力し合っているのさ」

「0号ですか?連れていくのは」
「いや、奴は幻覚剤を打ちすぎて精神崩壊寸前だ。使用済、廃棄予定のサンプルだよ」
「レナータはどうでしょう?」
 博士はグラスに注いだウォッカを一息に飲んだ。「レナータは可愛い。瑞々しい花のような子だ。彼女の笑顔を見れば、私の心は温かくなる。だが……」博士はボンダレフの肩を叩いて言った。「……この忌々しい場所を離れて、我々はバルト海へ行くのだ。温暖で湿潤、あらゆる野に美しい花が咲く場所へとね。……花畑に一輪の花瓶を持っていく必要がどこにあるのかね?」
「なるほど北極圏で咲く花は貴重ですが、他の花に比べてしまえば、特別な価値があるわけではありませんね」ボンダレフは溜息をついた。
「だからこそ、最期まで北極圏で咲かせてあげようじゃないか」博士は言った。
「最終段階の実行はいつにしますか?」
「クリスマスだ。天気予報によれば、絶好の曇り日和になるそうだよ」


 零号は指でレナータの手のひらを撫でた。「723499611211。この数字の文字列を覚えておくんだ。君の部屋のコードロックはこれで開く。逃げるためにはいろんな準備が必要だ。怖がらずに、俺が言ったようにしてくれ。君が間違えなければ危険はない。俺たちの誓いには力がある。俺たちは一緒に逃げる亡命の徒だ」
 レナータは力強くうなずいた。

 零号はレナータの髪を撫でた。「いい子だ。俺が君を選んだのは正しかった」
 零号が手を叩くと、黒い大蛇が教会の外壁に沿って現れた。金色の蝋燭のような目がレナータと零号を見下ろし、体の鉄鱗はまだクリスマスソングを奏でていた。この時こそ今夜で最も美しい瞬間、そして終わる瞬間だった。

 レナータはネグリジェのスカートを上げ、黒蛇に膝を向けた。「ありがとう」本で見た礼儀作法、バレリーナの謝辞のジェスチャーだった。

「送ってくれ」零号はペットと話しているようだった。
「そういえば、誰かがここで詩をうたうのを聞いたこと、ある?」
「――この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出ていき、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い……」零号は諳んじた。「詩じゃないよ。悪魔が出所したとき、世界が悪魔のカーニバルになるって言っている『聖書』の一節だ。君も悪魔が怖いのかい?」
 レナータは首を横に振った。「悪魔」というのが何なのかを知らなければ、恐れる謂れも必要もなかった。
「それはいい。君は悪魔と結婚するべきさ。女王になるために」零号は微笑んで、レナータの手を黒蛇の頭に載せた。黒蛇は雪の上まで二人を乗せていき、丁寧に頭を雪の上に置くと、首の鱗を踏み台のように立てた。

「おやすみ」零号は言った。
「おやすみなさい」レナータも言った。

「おやすみと言ったら、ちゃんと休まなきゃいけないんだぞ」零号は拘束着のベルトを親指でつまんだ。「もうすぐここから出られる。信じてな」
「うん!」レナータは力強くうなずいた。「取引成立!」

 氷と雪の上、子供達の住む建物へ向かって走るレナータの背中を、零号は黙って見ていた。その目の底で咲き乱れる金色の花は万華鏡のように変化し続けている。やがて獰猛で冷たい目は、小さなアザラシのような可愛らしい目に変わっていった。
「俺は裏切らない、諦めることもない、レナータ。だがこの契約は死ぬまで続くものじゃない。お前が俺の役に立たなくなるまでだ……」零号はやわらかに言った。「世界はな、お前のようなか弱い女が一人で生きていられるところじゃないんだよ。俺も永遠に世話は焼けないんだ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?