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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中・第九章:神国絵巻

 壁画や塑像というのは日本でも特段珍しいものでは無いが――ここまで壮大なものは他に例が無い。壁だけでも高さはおよそ4メートル、その上から建物の屋根まで直接繋がっており、金塗りの頂部まで合わせれば延べ10メートルを超えている。巨大な壁画には紅錆色と靛藍色の二色が大胆な作画で色彩され、半人半蛇の巨人たちが抱き合い、長い尾を絡み合わせている。男型の巨人は威風獰猛、女型の巨人は端庄慈柔。日本神話に現れる諸々の妖魔が巨人たちを囲み、無数の腕を背から生やした巨人たちは、それぞれに妖魔と戦う為の武器を携えている。


 エレベーターの扉が閉まった瞬間、突然階層表示のスクリーンが消えた。階層ボタンがすべて消え、扉の上に紅色で「神道」の二文字が現れた。
 ソ・シハンは眉先を震わせた。文書箱を送るべき場所は裏エリアのどこかの倉庫の筈だ。「神道」などという言葉は聞いたことも無いし、そんなものがこのビルの中にあっていいはずがない。
 中国人的な常識として、ふつうに考えれば神道というのはすなわち鬼道、墳墓へ続く道のことだ。中国の古人曰く、「墓前に道を開き、石柱建つを以て標と成す。これ神道と謂う」。一度大幕に続く道に足を踏み入れれば、そこは即ち幽冥の中、神道の両側にいる石造りの人や馬は墓主の従者なのだ。神道の突き当りには往々にして紅色の大門があり、墓主を祭る陰殿に続いている。日本文化を学んでも分かる通り、神道は日本の実質的な国教であり、神社に祀られているのも神と鬼との中間のようなものが多いという。
 エレベーターに何か尋常ではない神秘的な雰囲気が弥漫していく。たまらずソ・シハンは黒いミリタリーハットの鍔をつまみ、両目を覆った。

 エレベーターの扉が開くと、香料が燃えるような匂いが漂った。真っ暗な中にはかすかに光る道しかなく、道の両側では蝋燭の入った盃が紅色の炎を灯している。ソ・シハンは驚いた。まるで仏寺にでも来てしまったかのようだった。目の前の道には3、4メートルの鳥居も掛かっている。朱色の漆がまだらになり、紅い木の原色が露出していて、相当歴史のある遺物であることがわかる。元々は風に吹かれ雨に打たれる屋外に建てられていたものを、インテリアデザイナーがそのまま源氏重工の中に移したのだろう。一片の寂静だけが広がり、人声一つ聞こえない。ソ・シハンはトレンチコートの中で刀柄の位置を調整し、いつでも最速で抜き出せるようにした。彼はすばやく文書箱をエレベーターの外に搬出した後、その内の一つを抱えてゆっくりと歩き始めた。
 暗闇の中に巨大な木製彫刻が立っている。彫刻の前には垂れ幕が下がっており、紙で編まれた白縄を身に纏った金剛や悪鬼の像を覆い隠している。神道においてこのように紙を編んだ縄は「幢幡」と呼ばれ、神聖や封印の意味を表す。日本の神社はこのようにして鬼から神まで千奇百怪な様々なものを奉っており、神官たちが幢幡を諸々の彫刻に纏わせるのは、それが悪さをしないようにするためだという。限られた盃の火の光は彫刻の頭まで届かず、その顔は暗闇の中に隠されており、まるでここに踏み入れた人間を見下すような、赫々たる声威を感じさせる。周囲には様々な祭祀用の器物が置かれ、例えば木製の神輿には名前も知らない古神を奉った仏壇が乗せられており、その腕には粗い紫色の縄が巻かれ、まるで神の王座に纏わりつく龍のようにも見える。
 もしエレベーターの行き先が本当に神道なら、ソ・シハンは祖先を祀る「陰殿」に入ったことになり、目の前には遺体の入った棺が並んでいるはずだ。
 ソ・シハンが一枚、また一枚と垂れ幕を抜けていくと、一筋の光が彼の目を照らした。前方に現れたのは巨大な壁画だった。壁画とは普通、正面玄関の前に通行人の視線を遮るために建てられるもので、堪與学においては住宅の風水を保つ風水壁としても知られている。壁画や彫像というのは日本でも特段珍しいものでは無いが――ここまで壮大なものは他に例が無い。壁だけでも高さはおよそ4メートル、その上から建物の屋根まで直接繋がっており、金塗りの頂部まで合わせれば延べ10メートルを超えている。巨大な壁画には紅錆色と靛藍色の二色が大胆な作画で色彩され、半人半蛇の巨人たちが抱き合い、長い尾を絡み合わせている。男型の巨人は威風獰猛、女型の巨人は端庄慈柔。日本神話に現れる諸々の妖魔が巨人たちを囲み、無数の腕を背から生やした巨人たちは、それぞれに妖魔と戦う為の武器を携えている。
 涙が出る程美しい作品だ。傾世の怒炎、傾世の暴力、傾世の死、傾世の妖絶が画師の一筆に焼き込められ、最後に浮かび上がるは傾世の悲哀。
 壁画の上にはさらに恐ろしいものがある。淋漓たる鮮血だ。粘着質な紅色がゆっくりと這い下っていく様は、紅いペンキをバケツでぶちまけたかのようだ。ソ・シハンは凶暴無惨な堕武者と対峙し、その血みどろの殺戮を見たこともあるが、ここまで血生臭い壁画は見たことが無かった。成人の身体の血液は精々5リットル、それも怪我だけでは出血量も限られる。死後、心肺停止状態になって血液を送り出す事ができなくなれば、血液は血管の中で乾くだけだ。だが壁画の上にはこの壁一面を塗りなおせる程の血が飛び散っている。一体何人死んだんだ? 心臓が止まる前に血液を身体から捻り出し、この壁にぶちまけるなど、一体どれだけ残酷な殺害方法なんだ?
 ソ・シハンはカラーコンタクトを外し、金色の瞳孔を暗闇の中で輝かせた。彼は文書箱を地面に投げ、長刀を引き抜いた。言霊・君焔――領域拡張、長刀が高温へ灼熱へと変わり、赤と黒の境界の光を放つ。
 血はまだ流れている。虐殺が起こってから時間はさほど経っていない。つまり、殺人者がこの空間にまだいる可能性が高いという事だ。今や自分の身分を隠すことは無意味。生き残る事だけが王道だ。
 ここに最後に来たのはシーザーの筈だが、シーザーは少なくとも殺人狂ではない。ソ・シハンはこの血だまりにシーザーの血が混じっていないのを祈るだけだった。
 壁画を通り抜けた後、この階の最深部へと進む。神道、壁画に続いて、棺桶の奉られた陰殿へと足を踏み入れる。刀から放たれる微光はソ・シハンの横顔を照らし、暗闇の中にゴールデンアイが輝く。鼻の中いっぱいに漂う血の臭いが蝋燭の香料の匂いをかき消していく。足元に薄く広がる液体は地面に貼りつくように横に流れ、踏む度に足の裏にベタ付いていく。まだ血は完全に固まっていないようで、もし灯りが十分であれば床一面が真っ赤に見えただろう。床には文書箱に囲まれて人間の死体が散乱しており、その全員が黒いトレンチコートを着ていた。執行部のエリート、トップクラスの精鋭たちは、文書を運んでいる間に襲撃されたのか、いずれも心臓に届く巨大な傷口を胸に開けていた。人体全体の動脈血が集まって送り出される場所、すなわち左肺動脈と右肺動脈が見事に切断され、そこから心臓の最期の一拍によって全ての鮮血が体外に排出されているのだ。
 ソ・シハンは刀を鞘に戻し、一人の死体の横に跪き、殺人犯が使った武器を特定しようとした。だが、分からなかった。その傷は気持ち悪いほどに大きく、何らかの武器が男の肩から下へ切り裂き、心臓を潰したところで止まり、ほとんど肩と腕を切断するところまで行っている。刀剣類で出来るような傷ではない。人類史の中でこれだけの傷を作れる武器は三倍スケールの大型消防斧だろうか、しかしその巨大な消防斧に鋸歯状の刃などついているはずもない……。もしこの種の凶器があり得るとすれば、それは相当奇怪な斧になる。刃渡り3メートル、重量は30キログラム以上、しかし風の如く振り回される斧。根本的に非現実的、『ワールド・オブ・ウオークラフト』のトロール族でもなければあり得ない代物だ。

 いつの間にか、シーザーが死体の反対側にしゃがんでいた。シーザーさえいればソ・シハンは最早不意打ちを警戒する必要はない。彼の言霊・鎌鼬の効果範囲にいれば、シーザーを驚かせる者は存在しない。彼自身がレーダーとなるからだ。
「何だこれは? 貫通傷か、裂傷か、爆発傷か?」シーザーは鼻をつまんだ。「それとも『巨大モンスターに噛まれ』たとでも言うか?」
 シーザーの言う事も尤もだった。別の可能性としては、口幅一メートルを超える巨大生物に噛まれたという事だ。だがその巨大生物の牙もまた、鋸のようにギザギザになっていなければならない。
「俺が着いた時、こいつらはまだ生きた人間並みの体温があった。つまり、殺人者が逃げてから俺が着くまで数分も経ってない」シーザーは言った。「もう数分早く着いていたら、俺も死んでいたかもしれん」
「お前はこの現場をどう考える?」
「事は十秒も無かったはずだ。銃で武装したオロチ八家のエリートが、殺戮が終わるまで一人も銃を取り出せなかったんだからな」シーザーは言った。「だがそんな芸当ができるのは、俺の知る限り校長ぐらいだ」
 ソ・シハンもシーザーと同じ判断を下した。あと数分到着が早ければ二人とも死んでいた。例え「君焔」の力があったとしても、アンジェに匹敵するスピードの前には言霊も放つ間もなく失血死してしまう。シーザーなら攻撃を感知はできるだろうが、凄まじい速さの攻撃を捌き切れず殺されてしまうだろう。多くの武侠小説の示す通り、天下の武功は破れざり、敵うべくは速さのみ。
「オロチ八家の本部で執行局相手に大立ち回りか。とんだ酔狂だな」
「ああ。だいぶ過激な芸術愛好家かもな」シーザーは肩をすくめた。「灯りをくれ」
 シーザーが懐中電灯を点けて高く掲げ、壁際に沿うと、まるで史伝巻物が一編目の前で広げられたかのように、恐ろしくも美しき壁画が照らし出された。これまで見た壁画のように、壁一面に赭紅色や靛青色で、人身蛇尾の古代生物が集団祭祀を行っている古画が描かれている。彼らは松明を高く掲げたり、長い杖を持っていたり。背に双翼を生やした龍も描かれており、祭祀集団は巨大な骨骸が眠る穴の周りを回っている。画師は純金を混ぜた画材で骨を描いたらしく、左目には太陽、右目には月が描かれている。
 ソ・シハンは壁画の下に立って見上げながら、しばらく言葉を失ってしまった。その壁画は息を呑むほどに美しく、面前で何百もの古画が繋がり、想像を絶する世界が描かれている。
「ここにあるのはこれだけだ。このやたらデカい空間は、この壁画を陳列するために作られたらしい。この絵の為だけにこんなに大きな壁を作って、こんなだだっ広い何もない空間を作ったんだ」シーザーが言った。「日本人の趣味は本当に分からん」
 ソ・シハンが壁画を指でこすると、指先に細かい紅色の粉末が付いた。彼はその匂いを嗅いで言った。「酸化鉄の画材か」
 彼はシーザーに懐中電灯を渡すと、ゆっくり歩いていき、終始無言のまま一つずつ壁画を眺めていった。
「何か気になるのか?」シーザーはソ・シハンの後を追いながら、遂に耐え切れなくなって訊いた。
 ガットゥーゾ家の若旦那はこの宿敵に対し、自分が遅れを取っていると認めざるを得なかった。普段ならあり得ないことだが、シーザーは知識量という物差しで言えばソ・シハンの方に分があると認めていたし、何よりこの壁画に興味があった。だからこそ、恥だとも思わなかった。
「仏教でいう、本生図に似ている」ソ・シハンは長らく沈思した。「元々ここにあったものじゃない。どこかの古代寺院の石灰岩の壁に描かれたものを、接着剤と化学薬品で固めて、ここの壁に移したんだろう。『整体掲取』という、中国でも文化遺産保護に使われるかなり精密な移転技術だ」
「本生図というのは?」
「仏教には、本生図という特殊な芸術形式がある。一般的には釈迦の生前の物語を描いた連作だ。例えば有名なのは敦煌の『割肉貿鳩』、『舎身飼虎』、『九色鹿本生』。絵画技法を見ればこの壁画はそれらに似ている。塗料に使われているのも酸化鉄、蒼玉石、雲母粉に石緑……三世紀から四世紀の中国に見られる絵画技法だ。確か三世紀頃の日本列島の国、邪馬台国の女王は漢の国に使節を送っていたというから、その時にこの絵画技法が日本に伝わって壁画が描かれた、というのが妥当な推論だろう」ソ・シハンは言った。「つまり、この壁画には二千年近い歴史があるはずだ」
「芸術的価値とか絵画技法とかに興味はない。俺が知りたいのは、この壁画がどう重要なのか、なぜオロチ八家の奴らはわざわざ金をかけてこんな階を作って展示してるのかってことだ」
「仏教徒からしてみれば、本生図とは仏になる前の釈迦牟尼の転生史だ。つまりこの壁画は、オロチ八家からすれば……真実の歴史を描いている……!」ソ・シハンはハッとして懐中電灯を高く挙げ、壁画全体を照らした。蒼茫たる大海原に龍蛇が身を捩らせ、大地に聳え立つのは巍峨たる城塞、縦横に道が大海を横切り、黒色と白色の龍が宙で肩を並べて浮かんでいる。それぞれが片手を伸ばし、一本の黄金の御杖を握っている。
「黒王……と、白王……!」シーザーは長い沈黙の後、静かにその言葉を吐き出した。気若游絲、まるで何か眠れる鬼神の目覚めを恐れるかのように。
 普通の人間がこの壁画を単に見れば、何かの想像による芸術作品でしかないと考えるだろう。未開時代の人々はしばしば、神々と悪魔が古の世において戦争したと想像し、人類はその戦いの後の廃墟に生まれたのだと考えていた。だがこの壁画を見たシーザーは、ソ・シハンの意見に同意せざるを得なかった。ここに描かれているのは架空の出来事ではない。二千年前の古人、失われた文明を知る古人たちの綴る、歴史なのだ。
 カッセル学院の竜史学者達は竜族史体系を構築しようとしている。神話内の出来事を軸に、可能な限り人類の想像力を排除した「本物の」竜族文明の歴史だ。シークレット・パーティは龍族の歴史には一時期平穏と栄光の時代があったと考えていて、その時こそ黒王が龍族始祖として龍たちの領袖となり、白王が祭司としてそれを補佐していた時代なのだ。二体の龍王の共同統治時代は暴虐な他の龍族すら敢えて戦争を起こすことはなく、遥か北の大地の黒王と白王の玉座から放たれる威厳によって、龍族貴族もその権力の前に平伏す他無かった。
 この壁画が真に表しているものは地図だ。当時の龍族文明の支配地域、輸送の動脈、そしてその時代の統治者たちを描いている。シークレット・パーティが何千年もかけて導き出した結論が、この日本寺院の古代壁画に完全に見出せるとは。
「おい、左上の細い文字が見えるか」ソ・シハンが壁画の上方を指差した。「中国語の篆書体だ。日本語は二千年前には無かったから、この描き手も中国語を使ったんだな。……この壁画の名前は『古ノ堪與』。堪與というのは、原義では地形や地質の意味、後に風水学の事も指すようになったが、『古ノ堪與』とは要するに古代地図という事だ。つまり、これは紀元前の、龍族が世界を統治していた時代の……世界地図だ!」
「なるほど。もしこの壁画がオークションに出されたら、校長と種馬親父が永遠に張り合い続けるだろうな」シーザーとソ・シハンは並んで壁画を見上げながらぶつくさ呟き合った。
 この壁画を見ていると、まるで偉大な龍族文明の花開く時代にタイムスリップしたような気分にもなる。現代の教科書で言う第四氷河期末期、大地は荒廃し、南北極の氷河が内陸まで伸び、幸運にも生き残った生物がわずかに赤道付近の大陸で生き延びていた時代。この壁画はそんな時代の繁栄を描いている。一介の大いなる種族があらゆる大陸に青銅の柱を聳え立たせ、その柱を中心に都市を建て、都市に並べられた塔の上には神殿が置かれ、離れた都市同士を結ぶ広々とした皇道が伸びる……。

ソ・シハンがトレンチコートからカメラを取り出した。
 シーザーは驚いた。「いつの間に、何処でそんなカメラ買ったんだ」
「アキハバラ・デンキ街だ。カメラケース付きで二割引き、輝夜姫のコアでも撮ろうと思ってな」
「日本語も話せないくせに、一人で買い物に行ったのか?」
「問題ない。日本の電化製品を買いに来る中国人なんて大勢いる。店員も嬉しそうに、東北三省出身ですか、とか聞いてきたしな」
 地図から離れると壁画はだんだん不条理なものになっていき、八つの長い首と八つの頭を持つ恐ろしい獣が描かれていたりする。長首はロープのように互いに巻き付き合わされて地面に横たわり、頭はそれぞれ八つの川の上流で水を飲み、鋭利な長尾は高山を裂いて川を通し、腹からは真っ赤な水が川の中に流れている。絵だけで見れば数百キロを超える巨大な獣のようである。あるいは、全裸の女性が巨大な氷の中に封じ込められ、蛇が一匹氷の隙間から首を出して、氷の上に立つ人と話していたりする。それぞれが異様なシーンを描き、何かを象徴しているのは確かだが、理解は到底及びそうにもない。
 シーザーは同じような絵を見たことがあった。彼の家が大量に蔵する、中世以前の羊皮紙巻だ。魔術師が自分の発見した事柄を手書きの絵や失伝した象形文字で記録したものであり、他人に簡単に自分の秘密を悟られないよう、魔術師たちの絵は須らく晦渋難解、象徴的な意味を持つ絵の寄せ集めのようなものになっている。例えば魔術師が美しい少女が金の杯で水を飲む姿を描いていれば、その真の意味は絵の印象ほど美しいものではなく、金の杯が示すのは「聖杯」、すなわちキリストの血を意味し、その絵の最終的な意味は生贄の儀式――捧げものとなる姫がキリストの血を飲み、魔王を召喚する血祭を完成させたということになる。二千年前の日本で、敦煌壁画の技術で、中世期の黒魔術手巻の内容を描く者がいたというのか。
 黒魔術の根源は、言霊と錬金術の曲解だった。この壁画も同じ、魔術手巻よりもさらに古い「秘密書」、世界の究極の秘密を記録した書、古代龍族文明を示す書なのだ。
「何を意味しているか分かるか?」シーザーは懐中電灯をソ・シハンに向けた。大きすぎる壁画はポータブルカメラのフラッシュ程度では一度に全体を撮ることはできず、少しずつ断片を撮影していくほかなかった。
「多少の部分は解釈できるが、表面的でしかない。この壁画には俺達の理解を遥かに超えた龍族の歴史がある。オロチ八家が学院にこんな壁画を見せたことは無い。つまり、奴らはこの壁画の価値を知っていて、源氏重工に移して他人の目に触れないようにしたんだろう」ソ・シハンは壁画の真っ赤な部分を指で擦った。「この壁画の秘密を暴く必要がある。例えば……この塗料の臭いを嗅いでみろ」
「お前、さっき酸化鉄と言っただろうが」シーザーは訝しげにソ・シハンの指先を嗅いだ。「油の臭い……それに、血の臭い、酸化鉄じゃあ全然ないぞ!」
 床一面の鮮血とは別に、この紅色の塗料からも血の臭いが発していた。二千年ものの歴史を超えてなお、この塗料はペースト状に粘っている。
「俺の勘違いじゃなければ、この塗料には人魚の油と血が混ざっている。人魚の油は数千年乾かず、血もまた新鮮なままを保つという」ソ・シハンはそこで大きく息を吐いた。「俺達が日本海溝で見た尸守は、日本神話では人魚と呼ばれていた奴らだ。この壁画を描いた者達が人魚を捕まえて塗料を作ったなら、高天原と尸守の事も当然知っているはずだ。この画師もオロチ八家の先祖、壁画も家の神社から剥がして持ってきたに違いない」
「この壁画は人魚の血で人間を描いているが、これは特殊な宗教的な意味、『通霊』を意味している。人魚とは古代の混血種の事。人魚の血には龍の血が含まれているから、この血で描かれた人間は魂を得られると考えられていた。だからこういった絵を描く者は絶対に虚構を交えない。一筆、一画で、真の歴史を再現しようとする」ソ・シハンは金色に縁どられた血色の人型を指差した。「特に意味がありそうなのがこいつだ。この壁画の中で唯一金色に縁どられているのは、身分も地位も高いことの表現だろう。それに高い羽冠を被って杖を持っている。古代壁画の杖は大抵武器か笏だが、ここでは笏と理解すべきだろうな。彼こそがリーダーだということだ」
「つまり、大族長というわけか?」シーザーは肩をすくめた。
「いや、人々はこいつを『皇』と呼んでいる……俺達の言葉で言えば――超混血種というべきか」ソ・シハンは一語一句ゆっくりと言った。
「超混血種……!?」シーザーは唖然とした。そんな概念など聞いたことも無かった。
 血統ランクによって混血種を分類するのはカッセル学院が立てられて以降の事だが、後に純血龍に匹敵する能力を示す者が現れ、A級の上にS級が設定されることになった。このランク分けは完全な血統評定ではなく、各人のパフォーマンスも参考にしている。本科生は基本的にB級以下だが、課程卒業後に執行部に加入し優れた能力を発揮すれば、少しずつA級まで上り詰める事ができる。シーザーやソ・シハンのように純粋に血統だけでA級判定を受けるのはその時点で既に異例であり、ましてやロ・メイヒのように血統だけでS級というのは殆ど奇跡のようなものである。勿論、パフォーマンスが貧弱であればフィンゲルのように血統関係なくF級に落ちてしまう。だがS級と言っても依然「混血種」であり、「超混血種」などという分類は血統ランクには存在しない。S級を超える怪物ならSS級とでも言うのだろうか?
「皇……俺達の理解を超えた混血種を指す言葉だ」ソ・シハンの表情は固く重い。「既知の混血種はどれだけ血統が優れていても『血の臨界』を超えられない。それが龍類と人類の境界線だからだ。一度臨界を超えれば、龍血は人間の意識を呑み込んで堕武者になるというのが絶対法則だ。しかしこの壁画によれば、日本には血の臨界を超えられる混血種がいるという。龍王に匹敵する潜在力を持ち、オロチ八家のリーダーになる定めにある……」
「金色のフレームと赤色のシルエットだけで、よくもそんな色んな情報が分かるな」シーザーは顔いっぱいの不信を露わにした。
「確かにシルエットからは分からん。が、篆字の注解は皇への賛美ばかりだ。彼が生まれるのは『降世』、つまり火を盗んだプロメテウスや、自らの血で人類を贖罪したイエス・キリストのように、天から降り来たりし子、宿命の帝……『東皇』、『曜帝』、『震帝』、『太微の主』……人類のあらゆる美徳を一身に受けた、神にも匹敵する力の持ち主……」ソ・シハンはシーザーを見た。「……誰かを思い浮かべないか?」
「こんなキリスト級の存在を俺が知るわけがないだろう」シーザーは見返した。「俺のファミリーは老若男女皆全員カトリックって言ったろうが。もしそんな怪物がいたら、俺達はただ祈って信者になるしかない」
「皇の運命は生まれつきだ。子供にして東方の地を治める定めにある。若くして一族の中で高い地位に就き、年長者すらも従わせる、一族の……若き主」ソ・シハンは最後の言葉を一語一句ゆっくりと言った。
 シーザーの心が激しく動悸し、小さく身震いした。「……ゾウガメ……なのか!? 奴は部下に確か……若君、そう呼ばれていたはずだ!」
「源稚生は26歳だが、既にオロチ八家の若君だ。その理由が執行局の功績だけだと思うか? 八家当主の奴らと会った時のことを思い出せ。大族長の橘政宗が立って、当主達が立っても、源稚生だけが端で不動のままだった。あれは無礼でも失礼でもない、習慣なんだ。奴には橘政宗と同等の権力がある、だから橘政宗が立っても不動でいられたんだ……神の血を受け継ぎし継承者、オロチ八家の将来の統治者……!」ソ・シハンやゆっくりと言った。「将来の統治者が、現在の統治者に屈する必要などない」
 シーザーは驚き、話すこともできなかった。あの怠惰で寡黙な日本人が、あらゆる混血種の上に立つ皇だというのか? あの漠然と張り詰めた仮面の下に、混血種最強の力が隠されていると? それだけの力を持ちながら、フランスのヌーディストビーチで日焼け止めを売りたいだと? 一体何の冗談だ。アレキサンダー大王が自分の人生の夢は世界征服ではない、地中海のカキ漁師になることだとか言っているようなものだ。
「ちょっと待て! いくら何でもデタラメすぎないか!? 超混血種だとか何とか、そんなフザけたものがこの世にあってたまるか! まだスーパーサイヤ人が実在するとか言う方が現実味あるぞ!」シーザーは突然大声で喚き、自分の額を平手打ちした。
 彼の心は複雑だった。まるで自分よりもハンサムでカッコイイ貴公子がこの世にいると言われたかのようだ。彼は自分の優秀さを頑なに信じ、その輝きを遮ることが出来るのは精々ソ・シハン程度だろうと思っていたのに、超混血種などというものが本当に存在するなど! なんだというのか! そのクソ野郎にとってはガットゥーゾファミリーの若君など血の臨界も超えられない庶民でしかないのでは? そして女々しい紙煙草を吸うあの源稚生が混血種の真のプリンスだと? 間違っている! 間違っていなければおかしい! このシーザー・ガットゥーゾが間違うはずがない、間違っているのはこの世界だ!
「血の臨界なんてどうやって超えるんだ。超えられないから臨界なんだろうが。超えた瞬間狂気に呑まれるって話のハズだが、源稚生はどう見ても正常じゃないか? 龍血は人間の欲求をかき立てるはずだろう? だが奴はアイツのだらけ切った表情なんか、まるでホルモン不足の分泌症患者みたいじゃないか!」シーザーは「信じられない」を顔に描いたような表情で、ソ・シハンに反論を繰り返した。これほど学術問題の討論に意欲を示したのは、彼の人生でも指折りだろう。ましてその相手が学院のライバルともなれば。
「『皇』の漢字を分解すると、何だ?」ソ・シハンは彼の目をじっと見つめた。
「白……王……!?」数秒の沈黙の後、シーザーは二つの言葉をゆっくりと、激しく吐き出した。「バカな……奴らが白王の末裔だと! 日本人は、白王の末裔だとでも言うのか!」
「そうだ。シークレット・パーティがとうに絶えたと思っていた白王の血統だ。この壁画の名前は『白帝本生』、白の皇帝とその後裔の歴史を語っている。オロチ八家の祖先が中国から学んだ『皇』の字は、彼らにとっては超混血種の事を指すものになった。皇という漢字には、『楚辞』に出てくる『東皇太一』のように天神の意味が込められているだけでなく、白の王という名も隠されていたんだ。皇とは、白王の血を受け継いだ最も神に近い人類だ。白王は精神元素を掌握する龍王で、人間の精神を制御し、己の意識を永劫に澄み渡らせることができる。皇はこの天賦を受け継いで、例え血の臨界を超えても意識を侵蝕される事無く維持できるということだろう」ソ・シハンは諭すように言った。「異種中の異種と言ってもいい。身体の血は殆ど龍類の血なのに、人間の心が保たれているんだからな」
「怪……物……!」長い沈黙の後、シーザーの口から二つの言葉が飛び出した。

 ちょうど同じ頃。源氏重工の底、鉄穹神殿よりも深い場所、絶対的な暗黒の中で、エレベーターの表示灯に深紅の「ならく」の文字が浮かび上がった。
「ならく」とは仏典の「那落珈」に由来する外来語であり、地獄の最深部、無限堕落の虚空を意味する。那落珈に落ちた悪鬼は永遠に人世に戻ることなく、無止境の堕落の中で永生を過ごすという。
 エレベーターの扉が突然開き、黒影が指先も見えない暗闇の中に入った。換気扇の回るかすかな音以外には、ここには死んだような寂静しかない。
 前方の壁が突然明るくなり、高さ7、8メートルの巨大な壁がかすかな青い光を反射した。よく見ればそれは巨大な貯水タンクであり、壁は貯水タンク側面のガラスの壁だ。ガラス壁は一平方メートルを超える何百層ものガラスで構成され、ガラス同士の間には張り巡らされた金属フレームが嵌められている。貯水タンクの上には水車と直径数メートルのフィルターが設置され、その容積は水族館の巨大水槽に匹敵する。一般の水道管では十分な水源とならない為、下水道から取水しているのだ。下水道の汚水は濾過された後に貯水タンクに流れ、換えられた水は水車によって排出され、ポンプによって鉄穹神殿システムに再び戻される。
 黒影はガラス壁の下の床に座り、幽藍の光が彼の側面を照らす。曲線挺抜、まるでパルテノン神殿の白い大理石に彫られたギリシャ美少年のようで、彼の横姿は陽柔妖媚、しかし別の角度から見ればそれはただの子供、一人でシロイルカを見に水族館に来た子供のようでもある。
 シロイルカを一人で見に来る子供なら決して珍しくはない。一旦座れば何時間でも座り続け、シロイルカはたまにガラス壁に近づいて彼らを観察し、行き来する大人はそんな子供を見て変だ何だと囁く。
 子供は、我々の目にはしばしば奇妙な生物に映るものである。
 少年はチューインガムを膨らませた。この空の貯水タンクを前にしても、彼には何の心も無いようだった。
 貯水タンクの奥からザーザーという水の音が聞こえた。何か大型の水生動物のようなものが高速で泳ぎ来て、長い尾で一串の渦を巻いた。少年はポケットからレーザーポインターを取り出し、電源を入れると、ガラス壁の上に赤いレーザードットが現れた。猫の飼い主は時折これを使って仔猫とじゃれる事がある。ドットが地面を素早く動き回れば、子猫があっちこっちに跳ね回る。少年がゆっくりとレーザーポインターを動かすと、ドットも動き回り、少しずつ水生動物の注意を引いていく。さらに近づいて泳いできたそれは一匹ではなく一群、大魚の大群だった。大魚はガラス壁に頭をつけ、赤い点をじっと見つめている。
 その青白い顔は、まるで何十日も海に浮かんでいる死体――人間の死体のようだった。
 人間の顔をした魚の一群がガラス越しに人類の世界を覗いている。無表情な魚もいれば、口角を上げて微笑んでいるような魚もいた。
 その姿形は一匹ずつ違う。長い尾と鱗は共通しているが、幾つかの人面魚は奇妙な器官を持っていた。巨大で鋭利な爪、刀状の骨びれ、呼吸すれば首の付け根の亀裂が開き、真っ赤な鰓のような構造を露わにする。少年が手首を少し動かすと、人面魚は優雅に身体を捻り、光点を追いかけ、従順なペットの群れのように素早く泳ぎ回った。水槽全体の水がかき混ぜられ、水底の暗金色の骨骸が浮かび上がってくる。骨は人とも魚とも鳥とも思える形をしていたが、生前は明らかに人面魚と同類だったのだろうと分かる。人面魚は飢餓状態においては同類をも喰らうのを躊躇わないようで、暗金色の骨は斧で刻まれたかのような歯跡でいっぱいだった。
 少年がレーザーポインターを消してガラスの壁に近づくと、追いかけていたものを失った人面魚は散らばっていった。水槽の大きさは岩層にある小さな地下湖に相当し、濾過された地下水は澄んではいるが、人面魚が遠くまで行くとはっきりとは見えなくなる。比較的小さな個体はガラス壁の近くを泳ぎ続け、どうやら未だに不思議なあの光点を見つけ出そうとしているかのようだ。少年は手のひらをガラス壁に押し付けた。ガラスの反射から、そのガラス壁の厚さはおよそ0.5メートル、巨大なガラスで出来ていることが分かる。
 人面魚が顔をガラス壁に押し付けて少年の手を観察すると、曖昧だった姿がより鮮明に見えてくる。それはメス、あるいは女性であり、頭からは漆黒の黒髪が伸び、青白いが美しい顔、そして眉間には小さいが整形手術の痕跡がある。こんな不気味な場所でなければ、渋谷の街頭ででも見かければ、ちょっとしたステキな出会いになったかもしれない。
「とてもきれいだ」少年は軽く言った。「生きていればだけどね」
 しかし、美しいのはその顔だけだ。人面魚は首の下から歪み尽くし、下半身は蟒蛇のような尾に融合し、足のようなものがかすかに残るだけだった。
 世界各国の神話には人面蛇が幾度となく出現する。例えば人類始祖にして三皇五帝の太昊帝すなわち伏羲と女媧もそうだし、あるいは『荘子』では斉の桓公が紫の衣と朱の冠を身に付けた「委蛇」を見たとされ、『山海経』では「人面蛇身にして赤く、直目正に乗なり、その瞑るはすなわち晦、その視るはすなわち明」という鍾山の神、燭陰が現れる。他にもサンスクリット文学での「ナーガ」、ギリシャ神話での「メデューサ」、そしてマヤの神殿の名もなき蛇の群れ……これらは神と悪魔の間に存在し、誘惑や究極の神秘を象徴している。神話学者でも何故そういった怪物が様々な神話で一貫して描かれているのかを説明することは難しい。しかしこの「美しい」とも言える怪物を見れば明白である。祖先たちは実際に彼ら自身の目で、この人面魚と同じような存在が這ったり、泳いだり、あるいは飛び掛って来たりしたのを見たのだ。そのあまりの醜悪さはまさか神の被造物とは思えず、悪魔が人間に仕掛けたジョークなのではないかと疑いもできる。そんな印象が祖先たちの心に稲妻のように爆発し、神話として代々受け継がれてきたのだ。
 少年がレーザーポインターを点けると、人面魚の額に光点が、できたばかりの赤アザのように浮かび上がった。人面魚の惨白な顔が突然光に照らされ、酷い下半身さえ見なければ「巧笑倩たり、美目盼たり」とでも言えそうな妖媚さすらある。変形した爪をガラス壁の赤い光に伸ばすが、いくら爪が固くとも超硬ガラスで耳障りな音を立てるだけだった。しばらくそうしていると、人面魚は突然激昂し、少年には聞こえない叫び声をあげ、巨大な口を開き、荊のように密集した鋭利で長い牙を露わにした。今やその恐ろしい口の構造がはっきりと見える。精緻な桜色の唇の両側には見えない亀裂が耳元まで伸び、口を開けばまるで頭蓋骨全体が開いているかのようだ。
「こんなに醜くなるんだものな」少年は言った。
 人面魚の咆哮は数秒続いたが、後方から襲来した巨大な爪がその人面魚を水槽の中央に引き戻した。少年はレーザーポインターを消し、黙々とその殺戮を見届けた。十数体の人面魚が小さな同類を寄って集って殺している。獲物の身体の一部を咬んで離さず、長い尾を狂ったように動かし、強烈な力で身を捻って獲物を引き裂いた。それはホオジロザメの群れがシロナガスクジラの子供を狩るのにも似ている。子クジラは海底に引きずり込まれて引き裂かれ、母クジラが到着する時には既に全身の骨もバラバラになっている。獲物と捕食者は一緒になって一輪の奇怪な多肉花、蛇のような花弁を持つ妖花を作り、その花弁が捩じれる度に、紅い血煙が水面へ上っていく。
「本当に醜いね、この世界は――」少年は淡々と、悲しみも喜びもなく、軽く言った。
 わずかな爆裂音がガラス壁全体に上から下まで浸透し、支えていた金属フレームが一瞬で湾曲、変形した。食事中の人面魚たちもガラス壁の変化に気付き、血の付いた餌を放って泳いできた。まるで囚人たちが監獄の鉄門の音を聞きつけ、一斉にその方向に振り向いたかのようだ。ガラスの壁が揺らぐ。まず一つの巨大ガラスが金属フレームから外れ、そして次々とガラスが外れていく。一つ一つが一平方メートルと半メートルの厚さ、数トンの重さを持つ巨大なそれが外れたところから、数十メートルの距離まで水が噴き出していく。数秒後には透明な壁は完全に崩壊し、数万トンの水がダムを突き破り、無数の人面魚を解き放った。
 致命的な狂潮にして致命的な絶景。幽藍色の光の中にガラスが氷のような光芒を反射し、龍にも蛇にも似た黒影が飛び荒ぶ……まさに、世界の末日の如き美しさ。
 少年は逃げることも無く、幽藍色の狂潮に呑まれる前に、そっと溜息をつくだけだった。


「水音だ」シーザーは眉をひそめた。
 鎌鼬を使わずとも一般人より何倍も鋭い聴覚を持つ彼は水音を聞いた。水道管から零れる滴ではない、大海の潮のような音だった。だが源氏重工は新宿区にあり、海岸からは直線距離で4、5キロは離れているはずだ。
「鉄穹神殿がまた放水しているのか? 東京の地下はまるで海だな」ソ・シハンは壁画の写真を撮るのに忙しく、振り返りもしなかった。「天気予報では今日も雨が激しいらしい。これだけ素晴らしい下水道システムが無ければ、東京はいずれ崩壊していただろうな」
 シーザーは辺りを見回し、外で雨が降っているのかどうか確かめようとしたが、壁画ホールには窓の一つも無かった。だがそれも不思議ではない。壁画を酸化や埃から守るため、オロチ八家はこのホールの中央に大掛かりな空気清浄機と除湿器を設置している。換気の為の窓など必要どころか不便ですらある。
「懐中電灯を上げろ。全体像が見たい。何か特別な意味があるはずだ」ソ・シハンが言った。
「今回だけだぞ! そんな監督が照明に命令するような口を二度と利くな!」シーザーは懐中電灯を高く挙げ、壁画全体を照らした。光柱が輝くところで、壁画もキラキラと輝いている。二人が倉庫で見た聖母像のように、この壁画も大量の金を塗料として使っている。聖母像が描かれた当時、ヨーロッパには既に金が豊富にあり、黄金海岸の黒人部族とガラス玉を交換していたくらいだったが、日本では金は産出されず、ましてや二千年前の日本では金は格別に希少な金属であり、中国から小舟で持ち込まれる程度だったはずである。船員は舟山海峡の北風帯を横切るために命を危険に晒し、小舟が風と波で転覆するのも当たり前だっただろう。それほど苦労して手に入れた金は大抵印綬や首飾りに使われるものだが、この壁画に贅沢に使われているというのは、それだけこの壁画が更に高い価値を持つという事になる。
 ソ・シハンは上から下へと少しずつ絵を精査し、写真を撮っていった。だが壁画に使われている塗料や細部は、やはり直接見ないと分からない。
 次の絵はかなり抽象的だ。大きな双翼を有するガイコツが骨の一部を人間に差し出している。驚いたことにガイコツと人は「陰陽図」の構造を成しており、黒い背景の上にガイコツが、白い背景の上に金色の人間が描かれ、骨を握ったガイコツの腕と人間の手が触れ合い、全体的に渦を描くように転動している。形而上学的な事柄に全く理解の無いシーザーですら、ガイコツが死を、人間が生を表わし、この絵全体で生死の流転を象徴しているというのが理解できた。重要なのはガイコツが人間に渡している骨だろうが、それは生死の流転の中で一体どんな神秘を孕んでいるというのだろうか。
「太極図か?」シーザーは言った。
 ソ・シハンは首を横に振った。「いや、太極図の起源は北宋初期の陳摶だ。この壁画の時代はそんなレベルじゃないだろう。それに同じようなモチーフは他の文明の遺跡にも度々見られる。二匹の魚が向かい合って泳ぐとか、二匹の蛇が頭と尾を絡み合わせるとか。それが意味するのは、『交媾』だ」
「交……なんだって?」シーザーは中国語を上手く聞き取れなかった。
「交尾のことだ」ソ・シハンはより通俗的な言い回しに変えた。
「生者と死者が交尾するのか? 一体どういう趣味だ。これが日本人のヘンタイズムの起源なのか?」シーザーは眉をひそめた。
「いや、交尾と言っても宗教的な意味だ。その核心は交配の過程じゃなく、ガイコツが生者に伝えている何か、言うなれば『生命』か何かを象徴するモノのはずだ。画師がこの骨を円の中心に置いているのは、そういうことだろう」ソ・シハンは言った。「だから重要なのは、この骨だ」
「篆書文字の注解はどう言ってるんだ?」
「この文章、やたらと古体字や異体字が多すぎる。俺の篆書文字の知識も限界がある、ほとんど読めもしないが――八文字だけ、この読みで間違いないだろうと思える部分がある」ソ・シハンはそこで息を整えた。「古ノ道ハ黄泉……化ケ神ノ路ナリ」
「分からん。黄泉って、中国語で地獄を意味するんじゃなかったか?」
「『翠玉録』を覚えているか?」
「当然だ。文化的な混血種が『翠玉録』を知っているのは、クリスチャンが『聖書』を知っているのと同じだ」シーザーは肩をすくめた。
「この壁画は、いわば日本版の『翠玉録』だ」ソ・シハンは囁いた。
 シーザーは息を呑んだ。
『翠玉録』とは、とある古くから伝わる奇怪な書物である。しかし本当の意味での書というわけではない。それは計十三条の箴言から成り、名前も記されていない。最初に発見された時にエメラルドの石板に刻まれていたことから“Emerald Tablet”を意味する『翠玉録』と名付けられた。紀元前332年、偉大な征服者アレキサンダー大王がエジプトを征服し、エルメス・ファラオの墓でこの緑石板を発見した。石板の十三文は神のような法老、あるいは神のような父と子によって刻まれ、錬金術の奥義を十三句に凝縮し、人の世に残されたものだ。後年、あらゆるヨーロッパ錬金術師が錬金術の奥義を探求しようと『翠玉録』の解釈に精を出した。この神秘的な緑石板はかつてアレクサンドリア図書館の廊下に展示されていたが、紀元前283年に古代の秘密史を蔵したこの図書館が全焼し、『翠玉録』の写本も失われた。しかし16世紀から18世紀にかけて錬金術が急速に発展した際は、何百もの『翠玉録』の写本が世界中に出回っていたらしい。その文字はモンゴル詩のように単純明快だが、真の解釈を成し遂げた者は未だかつて居ない。
 シークレット・パーティには『翠玉録』に対する一つの解釈があった。そこに記されているのは人類が龍類に進化する方法、錬金術の最終目標は自我を錬り、龍となるための進化の道を開くのだと。ソ・シハンの言う通り、この壁画が日本の『翠玉録』だというなら、ガイコツが人類に受け継いだ骨が示すのは……進化の法則だ!
「黄泉は確かに地獄を意味する。が、地獄の最奥を超えた先には天国が待っている。いわゆる古ノ道ハ黄泉、というのは、悪鬼の蔓延る地獄の古い小道ということだろう。すると『化ケ神ノ路』というのは、神に進化する行程を指すことになる。『翠玉録』にも同じような言い回しがあるだろう。『下も上に如同なれば、上も下に如同なり。此れに依りて、全太一の奇跡は成されり』。上に行こうが下に行こうが、極限さえ突破すれば完璧な『太一』となる」ソ・シハンは巡りめくる錬金術の極意を暗喩するこの円を見上げた。「金色のガイコツは白王の象徴だ。自らの骨と血を人類に賜って、例えば人魚のような、白王の末裔を作り上げたんだろう。だが神は更に貴重な財宝、混血種が龍に進化する方法すら残した。危険極まりないが、完全に不可能ではない」
「そんな方法があるなら、やってみればいいじゃないか」シーザーはソ・シハンと肩を並べ、神秘的な円輪を見上げた。
「……俺は、父さんに失望されるだろうな」ソ・シハンは呟いた。
「俺はやってみたい……が、母さんが失望する……だろうな。今言ったことは忘れろ」シーザーは小さくため息をついた。
「どうやら、これよりも更に価値がある壁画があるようだぞ。来い、このギャラリーのトッププライスを見てやろうじゃないか」シーザーはソ・シハンに顔を向けた。「お前が、俺に、ついて来るんだぞ」

「これがお前の言うトッププライスか?」ソ・シハンは目の前の高壁を見上げた。
「そう思わないか? 少なくともトッププライスだとは思うぞ」シーザーはソ・シハンに肩を並べて立った。
「なぜそう思う?」
「侵入者は執行局のエリートどもを殺しはしたが、本当の目的はこの壁画だったんだろう。つまりそいつはかなりの芸術マニア、そしてこの壁画がここの中でも最高の壁画だったということだ」
 二人の目の前は一面真っ白な壁だった。壁画が既に取り去られているのだ。他の壁画は多かれ少なかれ血で染まっているが、この壁だけは完全に真っ白だ。殺人者はここで執行局のエリートを即座に始末した後、この絵を持ち去ったのだ。虐殺は既にその時には終わっていたから、この壁に血が飛び散ることも無かった。もしオロチ八家が修復の為に壁画を外しているなら、この元地の白い部分が血で汚れているはずだ。
「文書の輸送間隔はほんの10分だ。10分でこれだけの人間を殺して壁画をはぎ取る、一体どういう速さだ? 壁画は元の岩壁から剥がされた後、直接この壁に貼られたんじゃなく、ミョウバンを塗った伝統画布に写されたはずだ。だが画布も接着剤で壁に貼られているから、普通なら壁画を剥がす前に接着剤を落とす必要があるはずだ。こんな短時間でどうやったらそんなことが出来る」ソ・シハンは壁に沿って指を滑らせた。彼はシーザーの手から懐中電灯を抜き取り、壁を細かく検査した。
「名探偵ソ・シハン、犯人がこの壁に指紋を残しているとでも?」シーザーは肩をすくめた。リーダーである彼は、そういった些細で瑣碎細緻な分析の仕事には元より興味が無いのだ。
「いや、壁の接着剤を確かめている。まだ接着剤が残っているようだ」ソ・シハンは懐中電灯を黄色い接着剤に向けた。「つまり、かなりの速度で素早く剥がしたということだ。だが無理矢理剥がせば画布の底をどうしても傷つけてしまうはず。この壁画の貴重さを分かっていながら、どうしてそんな乱暴な扱いをする?」
「一理あるな。アートコレクターにとって絵画を傷つけるのは、絶世の美女を凌辱するのと同じレベルで許せない行為の筈だ」
「それは、お前の父親が言っていたのか?」
「いや? アイツにそんな立派なプライドがあるわけないだろう。アイツは確かに芸術も収集も好きだが、本当に好きなのは作品じゃない、それを集める自分自身だ。有名な絵画に何千万円もかけたと思えば、携帯でその写真を撮って色んな奴らに見せびらかすし、ある朝突然執事にリビングの壁から外させて地下室に放り込むなんて日常茶飯事だ。女性に対するアイツの態度と同じさ。夜には寝巻の女性にシェリーの詩を読んで一緒に寝たくせに、朝起きればいきなり女性の裸を嫌がってシャワーに逃げて、見苦しい肉塊を早く片付けろ、とか喚くんだ」シーザーは冷ややかに笑った。父親について語るシーザーはまるで先鋭的な劇作家である。刀のように鋭い詞、風刺、軽蔑、何でもありだ。「ああいう最悪のナルシストにとっては、世界の全ては遊んで飽きたら捨てるだけのおもちゃみたいなものなのさ」
 ソ・シハンはシーザーを一瞥したが、この件に関して何かコメントする義理も無かった。そしてソ・シハンは突然、シーザーとポンペイウスの関係が悪いのは、単にシーザーが父親の行事作法を気に入らないだけではないのだ、と感じ取った。ある意味で言えば、シーザーはかなり寛容な人間だった。ただ偉そうな態度さえ気にしなければ、偉そうな人物なりの気遣いをしてくれるし、学生自治会全員にお土産を買ってきてくれたりもする……「適度なプレゼントは貴族の嗜み」、シーザーの座右の銘の一つである。シーザーとソ・シハンが最も激しく争っていた時期でも、彼は滅多に悪口を発することはなく、精々ソ・シハンに軽蔑を表わす程度だったが、ポンペイウスに関してはもはや「怨憎」とでも言うべき情緒を露わにする……。
「お前の父親はこの壁画の芸術的価値を気にもしない、それならそうなんだろう。だが、この壁画に重大な手がかりが隠されていたのは事実だ。全ての壁画を解釈する為の鍵となるようなものが……」ソ・シハンは呟いた。「文字が発明される前は、絵が文字の代替になって歴史を記録していた。ここらの壁画にも秘密が隠されているはずだし、盗んだ奴もその秘密を暴こうとしているはずだ」
「完全な進化の方法、か?」
「恐らくな。幸いにも手掛かりは幾つか残されている。盗んだ奴もだいぶ慌てていたらしい」ソ・シハンは跪き、懐中電灯を地面近くの部分に向けた。20cm四方ほどの画布が壁に貼りついている。周辺はビリビリに裂かれているようで、明らかに無理矢理引き裂かれた跡だ。
 ソ・シハンは断片に近づき、写真を撮った。「線が多い。というのは、情報量も多いはずだ。高天原に戻って写真を高解像度に引き伸ばせば、壁画の元の内容も判断できるかもしれない」
「面倒だな」シーザーはディクテイターを腰から引き抜き、画布の裏の隙間に刺し入れ、接着剤を少しずつ斬っていった。「これだけ大きいモノを持って逃げた奴がいるんだ。破片を持っていかない理由も無いだろうが。現物を分析した方がもっと多くの情報が分かるだろう?」
 ソ・シハンは一瞬驚いたが、頷いた。ガットゥーゾ家の人間はあらゆる物事に関して横暴で直接的だが、必ずしも横暴だったり直接的だったりするのが悪いわけではない。
「早く残りの壁画も撮れ。ロ・メイヒが来たらすぐに撤退するぞ。輝夜姫などもうどうでもいい、今夜の俺達の収穫は輝夜姫どころじゃないぞ」シーザーはトレンチコートを開き、その裏地に破片をしっかりと隠した。
 しかし、彼は数秒後、突然沈黙してソ・シハンの肩を叩いた。「おい主演、スポットライトを消せ、急げ。誰か来るぞ」
「何か感じたのか?」ソ・シハンは注意深く辺りを見回した。
「エレベーターの音だ。俺達が乗ってきた貨物用エレベーターじゃない、その隣のVIP用エレベーターだ。この階に止まっていたVIP用エレベーターが降りていったんだ。誰かが下の階でVIP用エレベーターを呼んで、ここまで乗ってくる……もしかしたら人型巨龍かもしれんぞ」シーザーは軽く口笛を吹いた。
「さあな。この階まで来るかどうかも分からんぞ」ソ・シハンは言った。
「それは希望的観測という奴だな。明日警視庁が犯罪証拠の捜査にここに来るから、奴らはこんな夜にあんなに急いでファイルを移しているんだぞ。つまり、ここのファイルはそれだけ重要なんだ。人型巨龍と橘政宗が直に現場を視察しに来てもおかしくはない。下の現場を見たなら上の現場も見に来ると思わないか?」シーザーはエレベーターに駆け寄った。「奴がエレベーターから出てきたらどう思う。床一面に死体だぞ。俺達が盗んだと思われるにきまってる。早く残りの壁画を撮れ! 言い合ってる時間は無い!」
 VIP用エレベーターは彫刻とエッチングの施された青銅の扉だった。シーザーは小型懐中電灯を口に咥え、両手を扉の隙間に差し入れ、怪力で無理矢理青銅の扉をこじ開けた。冷たい風が上下に流れる扉の向こう側には、はるか深いエレベーターシャフトがあった。エレベーターシャフトを見るとこのビルの規模が想像できる。普通の建物のエレベーターシャフトなら、多くてエレベーターは3、4台、面積は20平方メートルも超えないだろう。だが源氏重工ビルのエレベーターシャフトは同時に12台のエレベーターを通して、その面積は100平方メートルを超えている。100平方メートルの中には何百もの高強度鉄骨柱が据えられ、中央には鉄骨の横梁もある。これだけの高層建築が採用するのは当然超高速エレベーターであり、金属製のカゴが毎秒5メートルの高速で上下し、すぐ近くを擦過していくのはまるでSF小説の未来都市である。
 VIP用エレベーターは1階に停まっている。誰かを乗せているに違いない。エレベーターシャフトのエコー効果は良好で、シーザーの聴力を以ってすれば漠然とではあるが源稚生と橘政宗の会話を盗み聞くことすらできた。

 VIP用エレベーターが上がり始め、扉上のスクリーンに「神道」の二文字が表示された。シーザーの推測は正しかった。オロチ八家最高位の二人がこの階に来ようとしている。壁画ホールの場所は恐らく30階から40階辺り、各階の高さが5メートルあると見積もっても猶予は精々30秒か40秒。その時、隣の貨物用エレベーターも同時にゆっくりと上昇し始めた。この最悪なタイミングで、ロ・メイヒも50箱の文書箱を運び終えてこの階に近づいている。貨物用エレベーターの上昇速度はVIP用エレベーターの比ではない。先にここに到着するのは源稚生達だろう。
「Bullshit! どういう偶然だ! 人型巨龍の隣のエレベーターに乗ってるなんて、ロ・メイヒが知ったら漏らすんじゃないだろうな」シーザーは頭を乗り出し、エレベーターシャフトの天井を見た。ビルの最上部に近いここからなら、スチールケーブルを駆動するギアが直接見える。
「やってみるしかない」彼は半身をエレベーターシャフトの中にこじ入れ、両手に銃を握り、ギアを狙って撃った。
 弾丸は当たったが、デザートイーグルの威力を以てしてもギアを破壊するのに十分ではなく、弾丸はエレベーターシャフトの中で跳ね返って輝く火花を立てた。
 シーザーがやろうとしているのは、人型巨龍と橘政宗のエレベーターを墜落させることではない。エレベーターの安全装置を作動させて途中でブレーキを掛けさせようとしたのだ。高層ビルのエレベーターには複数の保安装置があり、システムがエレベーターの運行に異常があると判断すれば、即座に自動ブレーキが作動するようになっている。そうすれば源稚生はエレベーターの中では再起動をかけられず、シーザーと同じようにエレベーターの扉を開けて階段を上るしかなくなる。数十階もあれば、時間稼ぎには十分だ。
 刹那、ブレーキギアが回転し始め、ブレーキディスクの上に煌びやかな火花を立てた。

 源稚生は突然会話を止め、腰に提げられた蜘蛛切に手を伸ばした。
「どうした?」橘政宗は驚いた。稚生の成長を長らく見守ってきた彼は、稚生の一挙一動から心情を洞察することが出来た。今この瞬間、稚生は冷冽な殺気を露わにしていた。蜘蛛切は鞘に収められたままでも、源稚生の心は既に鞘から抜かれていた。
 源稚生は無表情に上を見上げた。「何か起こっているようです。血の臭い……上から血の臭いがします」
 そう言い終えた瞬間、耳をつんざくような銃声が上方から響いてきた。大口径拳銃が発射された後、密閉空間であるエレベーターシャフトの中で断続的に反射し強められた銃声だった。エレベーターも激しく振動し、いつ落下してもおかしくないが、源稚生にも橘政宗にも不安な表情は一切なかった。
 橘政宗は和服から大口径リボルバー銃を引き抜いた。「この源氏重工にネズミとは、どういう奴らだ。しかも先手を打たれるとは」
「猛鬼衆の組合はいずれも我々に制圧されていますし、取り逃したと言えば王将と竜王ですが……本部に直接乗り込んでくるなど、一体誰が?」源稚生は眉をひそめた。「侵入を許したとなると、相手は相当の準備をしていたはずです」
「安心しろ。設計からしてエレベーターの安全は考慮されておる。銃など論外、手榴弾のようなものであろうともこのVIP用エレベーターは歯車一つ狂わんよ。攻撃を受ければセーフモード運転に切り替わり、一分も経たずに最上階まで到達できる」
 確かにVIP用エレベーターは上昇を続けているが、超高速エレベーターから普通のエレベーターへと変化していた。セーフモード運転になっているのだ。
「エレベーターの事は心配していません。銃を撃った誰かが壁画の間にいるのではないかと」源稚生は冷ややかに言った。
 橘政宗の顔色が突然変わり、慌てて携帯電話を取り出した。「輝夜姫、ビル完全封鎖モードだ。何人たりとも外に出してはならぬ。通風孔も下水道も閉鎖だ、狙撃手を出動させろ!」
『命令者、橘政宗。執行者、輝夜姫。命令は有効、命令了解。源氏重工ビルは30秒以内に完全封鎖モードに切り替わります』輝夜姫は恭しい口調で答えた。
 源氏重工を明るく照らしていたあらゆる灯火が、一秒も経たないうちに橘政宗の命令に従い、非常灯を残して下から上まであまねく消えた。非常口という非常口が次々と施錠され、ビル内は細かい隔離区域に分断された。もしドアや扉を壊して区域を移動しようとする愚かな輩がいれば、それこそ輝夜姫の察知するところである。屋上には狙撃兵が現れ、銃口を下に向けてビルの外壁を封鎖した。もしカーテンか何かをパラシュート代わりにして飛び降りようとする浅ましい輩がいれば、即座に狙撃手の銃弾に貫かれることになる。何度も訓練されてきたセキュリティ措置だ。源氏重工ビルのセキュリティレベルはシーザーの想像を遥かに超えていたが、明日警視庁の捜索が入るということから、これでも今日はこの上なくセキュリティの弱い日だった。
「一度このビルが完全封鎖されれば、ネズミがどこに行こうと逃げられはせんよ」橘政宗は冷ややかに言った。
 源稚生は天井を見やった。壁画の間まではあと十数階あった。

「おい! 早く! 早くしろ! 早く逃げるぞ!」シーザーは弾倉を替えながらソ・シハンに叫んだ。「ここに来るまでもう30秒もないぞ!」
 ソ・シハンは最期の壁画を撮影した後、即座にカメラを片付け、シーザーと合流する為にエレベーターに走った。超混血種たる源稚生、まともな準備もないこの状況で勝算は無い。シーザーの高慢にもソ・シハンの傲慢にも、やってみなけりゃ分からない、などという軽易な気概はなかった。
「ロ・メイヒはどうする」ソ・シハンは貨物用エレベーターの階数表示を一瞥した。VIP用エレベーターがセーフモードで作動しているにしても、先に着いてしまうのは変わらない。
「それはもう、超混血種が奴を正しく評価してくれているのを信じるしかない。ゾウガメもまさかロ・メイヒが執行局のエリートを虐殺したとは思わんだろう。精々捕まえて拷問するぐらいだ。戦友を信じろ。少なくともあいつはタフだ」シーザーは言った。
「本当に、ロ・メイヒが拷問に耐えられると思うか?」ソ・シハンは首を横に振った。
「耐えられるかどうかは関係ない。ロ・メイヒから得られる情報と言えば、俺達が高天原に隠れているとか、その程度だ。俺達が高天原を離れれば何の問題もない。あいつが捕まってもまともな情報は得られんさ」


 ロ・メイヒの頭の中は真っ白だった。
 ようやく貨物用エレベーターに乗り込み、幸運にも狼の巣から逃れられたと喜ぶのも束の間、隣のエレベーターシャフトで銃声が聞こえたのだ。
 まさか、ボスと先輩が執行局と銃撃戦をしている? 一体なんだってんだ!……彼はすぐに手を引っ込めて銃を探した。銃林弾雨など彼の得意ではないが、自分の身くらいは自分で守ってみせなければならない。映画でもよくあるシーンだ。主人公がヒロインの手に小さな拳銃を握らせ、撃ち方は教えただろう、とか柔らかい声で言う。そして決戦の時、その小さな拳銃が悪役のボスにトドメを刺す……ガンショット・アクション映画はいつもそうだ。いつも女の人が小さな銃を持ってる。僕の銃だってそういうのだろ! ……ロ・メイヒは心の中で思った。
 ……クソッ、なんだって自分をか弱い女子だなんて。……ロ・メイヒは銃を握り締めて戦々恐々としながら、文書箱の間に隙間を開けて隠れた。エレベーターの扉が開いた瞬間銃弾の雨に打たれたりなんてしたら、屁をこく暇もなく死んでしまうだろう。
 エレベーターが激しく揺れ、照明が数度点滅して消え、辺りは一面の漆黒に染まった。
「なんじゃとて! ボス何やってんの!? 銃撃戦、それとも砲撃戦!? 揺れで停電しちゃった……」ロ・メイヒは恐怖に震えながら愚痴った。
 しかし、シーザーはロケットランチャーなんて持って来ていないはずだ……仮に持って来ていたとしても、ビル自体を爆破する理由なんてない……それともエレベーターのせいか? 遊園地で海賊船に乗っているような感じ? 確か今夜も高天原で数杯ワインを飲んだはずだ。このまま揺られ続けたら吐かずにはいられないかもしれない。
 一秒後、ロ・メイヒは反応した……なんじゃとて! これは地震じゃないか! 日本が度々地震に見舞われる国だというのはロ・メイヒも知っていた。小さな地震ならともかく、この地震の大きさは……震度7はあるんじゃないか!? 死人が出るレベルの大地震!
 突然無重力感に襲われ、貨物用エレベーターが制御不能となり、ブレーキパッドが軌道を擦る。金属がギリギリと音を立て、火花がエレベーターシャフトを照らす。地震の強さは丸山建造所の設計標準を超え、ブレーキが壊れ、貨物用エレベーターは完全な1Gの速度で地面に向かっていく!
 この瞬間、ロ・メイヒが自分のデタラメな人生への不満を表現する言葉は三つしかなかった。それは「畜生め!」とかいった英雄的な咆哮ではなく……「た! す! け! ……」

 橘政宗がエレベーターの壁に頭をぶつけ、額に血が滴り落ちた。彼の反応速度は常人の比ではないが、地震波が来た時の彼はリボルバー銃を両手でエレベーターの扉に向けて構え、全神経を集中させていたせいで、エレベーターの海賊船のような揺れに全く対応できなかった。「振動」というよりは「揺動」というべきか、振れ幅は一メートルを超え、ビル全体が人と共に左右に揺れていた。
 多くの人の目には、超高層ビルは地上に静かに佇んでいるように見える。だがそれは錯覚だ。超高層ビルは骨組みとして鋼筋を使っており、その物理特性はただ堅固なだけでなく、柔軟性も兼ね備えている。外力を受けると自然に曲がって力を弱めたり、戻ったりしてくれる。源氏重工ビルの高さとなると風の強い天候では最上階が数十センチの振れ幅で揺れるが、数十センチ程度など源氏重工の高さを鑑みれば大したことではない。一般人が光速距離装置のような精密機器を使うならいざ知らず、この程度の揺れなど無視されるも同然が常だ。だがこれだけ強烈な地震となると、地震波が通過した瞬間、新宿区の高層ビル群はまるで狂風の中の雪松林のように激しく揺れた。
 源稚生は蜘蛛切をエレベーターの壁に突き刺し、体勢を安定させ、同時に橘政宗を抱えて助けた。
 エレベーターが止まり、鋼索が巻き上げられたが、軌道のどこかが引っかかって動かないようだった。VIP用エレベーターは貨物用エレベーターの基準を遥かに超えて、設計上ではマグニチュード9レベルの地震にも耐えられるが、地震に耐えられるからと言って正常に動作するとは限らない。地震波でシャフトが曲がってしまえば、どれだけ丸山建造所の設計が優秀でもエレベーターが昇ることはできない。
 携帯電話がトレンチコートの中で振動した。源稚生が取り出して見れば、役所からのエリアメールだった。『地震警報。強い地震に警戒。震源は東京直下、非常に浅い。マグニチュード6.5、揺れはさいたま県やヨコハマ県、大阪まで到達する見込み。住民の皆さんの避難が最重点』
「また地震か!」橘政宗も自分の携帯を見て言った。
 ビルはまだ封鎖状態にある。ネズミがビルから逃げ出すことは無いが、封鎖が解除されない限り建物内の一般人も出ることはできない。命知らずの執行局エリートならこの状況でも冷静になれるが、このビルにはまだ残業中の一般人が多数いるのだ。
 外から騒がしい足音が聞こえた。ビル内の人々が何度も訓練した「地震時の緊急避難計画」に従って避難しているのだ。部長が課長を指揮し、課長が一般従業員を指揮し、全員が段階的に事務所から批難し、別々の安全な出口に向かって行く。その流れに一切の混乱はない。日本は地震の多い国であり、日本人もまた地震に慣れているだけでなく、日本人特有の「従属精神」が尋常ならざる冷静さを作り出しているのだ。だがこの冷静さも長くは続かない。彼らが出口まで到達すれば、あらゆる安全扉がロックされ、あらゆる安全通路が封鎖されており、部長から一般従業員までの誰のカードキーもその扉を開けられないと分かる。仕事中に死を恐れる日本人は居ないが、自分がいつの間にか建物に閉じ込められてしまったと確信してしまえば、その瞬間規律は崩れてしまう。出口を探して押したり引いたり、群がったり踏みつぶしたり、叩いたり殴ったり、いかなる道具を使ってでも逃げ道を確保しようとするだろう……地震での直接の死傷者がいなくとも、恐慌というものは意外な死傷を引き起こすものである。
「ダメです。封鎖は解除しなければ」稚生は言った。
「解除などできぬ! もし部外者が本当に壁画を見て、コピーでもしておれば……その結果死ぬ人間は数人では収まらぬ! 数千、いや数万人死ぬかもしれんのだ! あの秘密は絶対に外に漏らしてはならぬ!」橘政宗が額にハンカチを当てると、血が滲んだ。「事はすぐに解決する! 安全扉を封鎖すれば、侵入者は壁画の間からは逃げられぬ! 消防階段は開けておる、資料室の者達がそこから上る! 5、6分もあればすべて収まるのだぞ!」
「いつ余震が来るかも分かりません。5分は遅すぎます。私なら捕まえるにしても殺すにしても5分も掛かりません。扉を開けて下さい!」
「稚生、お前は大族長なのだ! 一族の希望なのだぞ! 無茶はやめろ!」橘政宗は稚生の腕を掴んだ。
「私はただの代理です。本物の大族長は避難してください。私が全てを解決します」源稚生はエレベーター上の検査口を押し開けた。「私を脅かすような輩なんて、そうそう居ませんから」
 彼は身を翻し、エレベーターのカゴの上に立った。エレベーターが高速で上下するところに、数百メートルの鋼索が屋根から地下まで通じている。シャフト内部は鋭い風音と火花に満ち、風速30メートル秒近い風が吹いている。超光速エレベーターが動く際に、人を吹き飛ばせる程の空気の乱流が発生しているのだ。地震時にエレベーターを避けなければならないのも当然である。地震避難訓練を受けた者なら知っているはずのことだが、この時エレベーターは最高速度で運行していた。安全通路のドアを開けられずパニックに陥った人々が、エレベーターに乗って他の階かどこかに行こうとしているのだろうが、行き得るあらゆる階の扉が施錠されていることにいずれ気付くことになるだろう。
 源稚生は橘政宗を引き上げ、エレベーターシャフトの間の鋼梁の上に導いた。梁の幅は精々30センチメートル、その前後にすぐエレベーターシャフトがあり、目の前や背後すぐを高速エレベーターが通過していきそうだ。二人はエレベーターの通り道に被らないために直立せざるを得なかった。数トンもある高速物体に擦過されれば、混血種でもただでは済まない。
「エレベーターのシャフトがこんな不思議な場所だとは思わなんだ。高速道路の中央分離帯に立っているような気分よの」橘政宗は疲れたのか、鋼柱に寄りかかった。
 彼は二日間寝ていない。警視庁が首相官邸に源氏重工ビルの特別捜査権限を要求したと知ってから、彼はずっと事務仕事の指揮を執り続けていた。彼はそんなバタバタした人なのだ。
 源稚生はトレンチコートを脱ぎ、橘政宗の肩に掛けた。「我慢できますか?」
「デコを擦りむいただけというのに……しかし、儂も年という事か。稚生の重荷になるとはな」橘政宗はそっと溜息をついた。
「言わないでください。父上が元気だった時は、私が重荷だったんですから。五分経ったら封鎖は解除してください。私が戻らなくても」源稚生は跳び上がって鋼索を掴み、刀を抜いて鋼索とエレベーターの接続部分を斬った。
 カゴが軌道上に四つの明るい火花を散らしながら、底の見えない穴へと落ちていった。鋼索を掴んだ源稚生は高速垂直ワイヤー上昇していき、上方の暗闇の中に突入していく。


 君焔の高温気流と衝撃波が鋼鉄の安全扉に激突し、シーザーは反射した気流を確かめながら安全扉に駆け寄った。扉は依然無傷、安全扉は予想よりも遥かに頑丈だった。シーザーはディクテイターを引き抜きながら鍵穴に向かってデザートイーグルを撃ったが、弾丸は反射し、扉の上に浅い弾痕を残すだけだった。ケブラー複合材料で作られた防弾チョッキも貫通する鋼芯破甲弾ですら、この扉の前ではまるで子供のオモチャのBB弾のようだ。
「クソが! 何なんだこのドアは! 金庫か!?」シーザーは荒々しく扉を蹴った。
 ソ・シハンが安全扉をノックしてみると、やたらに鈍い音が響いた。「一体鋳造された鋼の扉、小型金庫級だな。内部に棒鋼で補強までされている」
 シーザーは荒々しく自分の額を叩いた。もっと早く考えておくべきだった。この階には窓が無く、唯一の脱出口は安全扉だけ……まさに金庫だ。中の宝は貴重な芸術品と龍族の秘密だ。二人はオロチ八家の秘密倉庫に閉じ込められてしまったのだ。
「お前の君焔の威力はその程度じゃないはずだ。それともお前の本気はこんな扉以下なのか?」
「密閉空間で君焔を完全開放するのはマズい。これ以上火力を上げると、壁で反射した空気波で俺達もただでは済まなくなる。俺の言霊は爆発を起こすだけだ。物体を静止させたまま超高温にするのは、青銅と炎の王でもなければ無理だ」
 シーザーは青銅と炎の王が目覚めたあの夜を思い出した。奇妙な少年がヴァルハラの中をゆっくり歩いていくと、行く手にある物全てが溶解し、燃える道を作りだしていく。彼こそが至高の炎の掌握者だった。爆発もなければ輝きもなく、荒れ狂う炎の力を精確に制御し、望むままに操り、武者がその宝刀をゆっくりと振り回すが如く、刀の触れた先の物全てを音もなく切り裂いていく……。ソ・シハン自身、「君焔」のようなハイクラスの言霊も欠点があることを認め、少し嬉しそうにすら話している。しかしそんなことでホッとしている場合ではない。千辛万苦を舐めて手に入れた貴重な壁画資料を分析する前に捕まってしまうなど、やりきれない。
 彼は身を翻してエレベーターに向かって走った。この安全扉に比べればエレベーターの扉の方が突破しやすいはずだ。……だが、どうエレベーターの扉をこじ開けようとも、結局扉の隙間が変形しただけで、開いたなどとは決して言えないままだった。これもまた丸山建造所の作品だ。この部屋の設計思想は金庫のような画廊、まさに物理的な固さも金城湯池なのだ。エレベーターの扉も当然補強されており、通常時は素手のシーザーが開けられる程度だが、一旦「ロック」されてしまえば全速力のサイが突っ込んでも破れはしない。
「クソが! まるで監獄じゃないか!」シーザーは拳を一撃、扉に叩きつけた。
 エレベーターの扉が――裂けた! 青銅を鋳造した数百キログラムを誇る頑丈な扉、フォークリフトですら開ける事が困難な扉が! シーザーは驚いて自分の拳を見つめた。青銅の扉は未だ震え続け、ひしめく大きな音が教会の大鐘のように響き続ける。この扉の材質は砲青銅、一種の銅錫合金であり、鉄製重砲が出現する前は重砲の砲身に使われていた金属である。非常に硬いものの剛性に欠け、一度限界を超えた圧力を受けると石のように割れてしまう。今、それが揺れている。
 シーザーはその時何が起こっているのか理解した。彼の拳の一撃が砲青銅の耐久限界を超えたのではない。誰かが向こう側から扉を壊しにかかっている!
 はっとしたシーザーは身を退いたが、手遅れだった。黒スーツの腕が亀裂の中から伸び、シーザーの胸口を正面から打ち据えた! シーザーはディクテイターを抜いて自身の胸元に置き、その拳の一撃に耐えた。まるで前胸に破城槌でも喰らったかのようだ――胸骨から肋骨までが断裂しそうな軋み音を立て、一瞬心臓すら止まりかけた。咄嗟にブラッドブーストを発動していなければ心筋梗塞を引き起こしていたかもしれない! ソ・シハンは急いでシーザーを受け止めようとしたが、二人してその強烈な衝撃に倒れ込むことになってしまった。
「気分はどうだ?」ソ・シハンは囁いた。
「お前の言ったとおりだ! 超混血種とかいうスーパーサイヤ人並の奴が現実にいるなんてな……!」シーザーは荒々しく口元に流れた血を拭いた。
 その腕は再三再四青銅の扉を穿った。どんなに優れた混血種だろうと、筋肉や骨格の堅牢さが龍類に及ぶはずもないが、その者は堅硬な青銅を素手で吹き飛ばそうとしている。
 シーザーとソ・シハンは互いを見やり、同時に懐中電灯を消し、暗闇の中に飛び込んだ。


 青銅の扉が大きな音と共に崩壊し、源稚生の目の前に蝋燭の光の小道が現れた。彼はゆっくりと手首を回し、全身の関節をパキパキと鳴らした。彼に与えられた時間は五分。そして今既に一分が過ぎている。エレベーターシャフトの高圧線が断裂し、明るい電気の火花が彼の影を壁画の間に投げかける。扉の向こう側にいた相手に一撃は加えたが、致命傷とまでは行かなかったらしく、負傷した際に出るはずの声も聞こえなかった。これはつまり、相手の血統も龍化した桜井明に劣らない程度に優秀だという事だ。
 視界に疑わしいものは見えない。敵は扉を破壊した瞬間に攻撃を仕掛けてこなかった。どうやら自分の第一印象は最悪になってしまったらしい。相手は暗闇の中で待ち伏せし、襲い掛かる策を練っている……。
 稚生は突進する代わりにジャンプし、エレベーターシャフト内の梁の上に着地した。エレベーターシャフト唯一の光源、電気の火花が輝く高圧線が彼の前方に位置している。彼の影は壁画の間から消失し、これで相手は影を通じて敵の動きを探ることが出来なくなった。
 源稚生はスーツの外套を脱いで丸め、猛然と投げた。目つぶしとして目新しい方法ではないが、有効なのは確かだ。待ち伏せをする相手は必死にエレベーターの扉を見つめ、黒影が出現するのを待ち、その思考には数分の一秒しかないはずだ。向こうに銃があるなら、この状況では99%の人が発砲する。極度の緊張状態での射撃に思考の介在する余地は無く、神経反射的に行動するしかないはずである。
 スーツは6、7メートル飛び、黒鷹が着地するかのように飄然と床に落ちた。どうやら暗闇の中に敵は潜んでいないようだった。
 落ち着いている――相手は源稚生の予想をはるかに超えた相手らしい。血統が優秀なだけでなく、相当訓練されてもいる。
 源稚生は腕時計を一瞥した。一分十二秒経過。三分四八秒後には橘政宗がビルの封鎖を解除してしまう。そうなれば侵入者はもはや自由、逃げ出す人の波に混じって悄然とこのビルから去ってしまうだろう。
 これ以上試している猶予はない。彼は蹲り、力を溜めると、梁を蹴って向かい側の壁へと激走した。純粋なスピード競争だ。彼の脚力はスーパーカーにも匹敵する。ここまで足が速いと敵には迎撃する暇もなく、弾幕を張っても彼の背後に光が散るだけだ。
 猛烈な風圧が彼のスーツの表面を流水のように波立たせる。危険な蜘蛛切はスーツの下に隠され、右手もまた服の下に隠されている。
 宝蔵院・袈裟刀。日本戦国時代の僧侶たちが創立した刀術だ。彼らは長々しい袈裟を纏い、その下に武器を覆い、どのように斬るのか、どこから斬るのかなど、自らの刀の動きを相手にを悟られないようにしていた。実際、刀の持ち方を変えて手首や肘の動きを調整すれば、背後の死角も含めて袈裟刀はいかなる任意の方向にでも繰り出せる。これこそ袈裟刀が「僧侶の暗殺刀」と言われる所以である。槍術の名手である胤栄が院主になった際には既に廃れていたが、今でも「卑鄙」と呼ばれるとある剣術流派の中に袈裟刀の技術は使われている。源稚生は剣術流派の名声を気にしない。剣とは血の流れるもの、剣を握った人間は悪魔だと、橘政宗は剣を握ったその日から稚生に言い続けてきた。「卑鄙」なる評判など、人類が自身の発明たる剣術に勝手につけたもの。そんなものを気にして何になる?
 彼は出来るだけ早く戦いを終わらせなければならなかった。壁画の間の秘密を守るため、ビルの人々の逃げる時間を稼ぐため、侵入者は殺す覚悟だった。

 源稚生がバランスを崩し、強烈な慣性と共に床に転げた。中国で言う「犬の泥喰らい」のような、不格好な倒れ方だった。やはり相手は待ち伏せしていたが、その待ち伏せ方が野蛮極まりなかった。一本のロープが床から高さ約30センチの所にぴんと張られていたのだ。スーツの外套には触れることなく、源稚生だけが引き倒された――その瞬間黒影が両側から飛び掛かり、左の影が剣のような武器を振るうと、源稚生は金属が空気を裂く音を聞いた。右の影が急速射撃、弾丸が稚生の周辺に飛び散って火光を散らす。相手をその場に釘付けにするための射撃だ。その場に留まれば無傷だが、動けば弾丸に当たってしまう。蜘蛛切は向かい側の壁に刺さっている。稚生が引き倒された時にスーツ裏から抜け飛んでしまったのだ。
 手元に武器の無い稚生は、投降の意思を示すように両手を高く挙げるしかなかった。ソ・シハンは最後の一瞬で手を止め、長刀を源稚生の後ろ首につけ、シーザーはデザートイーグルの銃口を稚生の額に向けた。二人は既に大きく息を切らしていた。ほんの一瞬の奇襲の為に、持てる全力を尽くしたのだ。
 源稚生を引き倒したのは、神棚に巻かれていた紫色の縄だった。腕と同じくらい太く、インド象すらも引きずることが出来る代物だ。ソ・シハンは源稚生の腰に手を伸ばし、まだ武器が何か隠されていないか確かめようとした。
 その瞬間、源稚生は銃口に頭突きを食らわせた。デザートイーグルの威力は200メートルの距離から鹿の頭部を粉砕でき、一般人ならその異様に大きな銃口を見るだけで竦んでしまうものだが、源稚生はそれに敢えて頭を突き出してみせた……。
 柳生新陰流・無刀取り・竜頭槌。
 日本剣道では珍しい素手の格闘技だ。剣聖、柳生石舟斎宗厳によって完成されたそれは、相手の懐に入り刀を奪う奥義だ。この「無刀取り」の神業があるがゆえに、柳生石舟斎宗厳は刀を身に着ける事が少なかったという。刀が広く普及していた天下では、世の人の腰に提げられた全ての刀が彼の刀だったのだ。シーザーはミスを犯した。彼はあまりにも近づきすぎたのだ。ソ・シハンもミスを犯していた。デザートイーグルごときが皇を抑圧できるなどと思うべきではなかったのだ。
 銃口が逸らされると、源稚生は身を旋転させて長縄から脱し、ソ・シハンの刀に手を――いや、二本の指を伸ばした! 彼は腕を頭上に挙げると、刀を引き込んで自分の肩に乗せ、音もなく壁画へと滑らせた。
 鏡心明智流・娑婆羅舞。その名こそ「舞」だが、その実は刀術における「歩法」のひとつである。鏡心明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館……江戸時代の東京三大剣術道場といえばこの三つだが、風格も伝統もそれぞれ全く異なっている。その中でも鏡心明智流の創始者・桃井春蔵は誰もが知る美男子といわれ、その剣術は走り方にまで拘りが見える。瀟洒な歩法、これこそ彼が「位は桃井」と賛誉される所以である。シーザーは左手のディクテイター、右手のデザートイーグルをそれぞれ構えていたが、源稚生は舞者のように彼の周囲に着かず離れず、風に吹かれて動いているかのように軽く、どうやっても彼の歩みを捉えることが出来なかった。彼の目には源稚生がまるで刃と銃弾の網を潜り抜ける一筋の光のように見える。
 わずか数秒で、学院本科生最強と日本支部最強の差が浮き彫りとなった。シーザーもソ・シハンも、もはや皇に手を触れる事すらできない!
 いつの間にか壁画に刺さっていた蜘蛛切が消えていた。シーザーは探し回ったが、源稚生は既に暗闇の中に隠れてしまっていた。「鎌鼬」も効かなかった。シーザーに聞こえたのは自分とソ・シハンの二つの心拍音だけだった。この壁画の間にはその二人しかいないかのように。
 シーザーは理解していた。源稚生の血統を以ってすれば、心臓の動きを一定時間止める事すら可能なのだろうと。これではまるで、暗闇の中から突然飛び出してくる妖魔ではないか――超混血種の前では、色々なルールが無視されてしまうらしい。
 ソ・シハンが突然動き、シーザーの喉元に向けて刀を振った。シーザーはすぐに伏せた。長年のライバルとして、二人が暗黙の了解を取り付けたのだ。
 源稚生の影が暗闇の中に浮き現われ、蜘蛛切がなんとシーザーの後頭部に突然振り下ろされた。彼の剣法は既に天然理心流の「心意棒」に変わっていた。棒法から変化発展した剣術であり、速度はそこそこだがパワーは絶大である。シーザーは蜘蛛切が裂く空気の音すら聞こえなかった。
 ソ・シハンの長刀が蜘蛛切と切り結び、火花燦爛! 強烈な熱波が源稚生の顔面に向かった。ソ・シハンの刀は予め君焔の領域で熱されていたのだ!
 ソ・シハンは刀を退かなかった。全く同じ姿勢で同じ軌跡の第二刀、まったく同じ場所の蜘蛛切を叩き、再び第三刀、第四刀、第五刀、第六刀……繰り出される一刀ごとに蜘蛛切が激しく震え、源稚生が一歩踏み下がる。発した火花が消えるより先に次の一刀の火花が飛び散り、織られるが如き緻密な火花となる。ソ・シハンの絶え間ない連続斬撃、そのスピードは「九階刹那」を発動した犬山賀には及ばないが、パワーはそれの比にもならず強力で、源稚生ですら防御に徹する他ない。源稚生がエレベーターシャフトから飛び出す前、ソ・シハンは既にブラッドブーストを発動させており、獅子心会の血統精錬技術を基に、彼もまた血の臨界を超えていたのだ。
 超混血種がどれほどのものかは相対しても分からない。だが彼の認識に後退の二文字は無かった。最初の一撃でshow hand、それだけだ!

 show handとは賭博用語であり、自らの手札を他人に開示することを意味する。つまり、持てる全てのかけ金をこの手に賭ける、ということである。

 ソ・シハンが繰り出したのは「十三連閃」、同じ動作を同じ角度で十三度行う連斬である。逼迫した敵と自身の刀を合わせ、どちらかのパワーが削げ落ちるまで斬り続ける。剣術としてはシンプルだが、斬撃の数が多ければそれだけ強くなる。歴史上の剣道大師は十三連斬を繰り出したといわれ、十三度繰り出されるパワーが相手の武器の一点に集中することで、相手の刀を破壊することから、「断刀十三連閃」とも称される。だが混血種ならばその限界は十三連に留まらない。ソ・シハンは最多で234連斬を繰り出すことが出来るが、そこまで行くと数字はもはや意味がなく、ただ刀の光だけとなる。
 シーザーはかつてソ・シハンの十三連閃を「チェーンソー」と言って嘲笑したことがある。確かに単調な反復攻撃に美的な要素は無いが、この時そのチェーンソーは確実に人型巨龍をわずかに退かせ、シーザーもチェーンソーなどと嗤う口を撤回せざるを得なかった。
 心からの賛美が彼の口から出る前に、シーザーはソ・シハンが飛び退くのを見た。正確には、暴力によって強制的に飛び退かされたのだ。彼はバランスを崩してよろめき、長刀も震えて手に収めているのがやっとといったところだった。連斬が真正面から突き返されたのだ。その間隙を縫って迫った源稚生が、ソ・シハンの胸口に強烈なタックルを掛けたのだ。柳生新陰流・無刀取り・弐式――もしソ・シハンが自らの手首を咄嗟に抑えなければ、彼の長刀・模造村雨は一瞬にして源稚生の手に奪われていただろう。だがソ・シハンはブラッドブーストによる強烈な握力で源稚生の手首を逆に握り返し、中国武術・擒拿術の一つ「纏腕」を繰り出していた。普通の纏腕は相手の手首の関節を脱臼させたり骨折させたりするものだが、彼が掴んだのは素手で青銅を破砕するような手だ! その瞬間、源稚生の腕の骨が大きな音を鳴らし、骨の隙間が突然消失し、ソ・シハンは相手の腕を全く動かすことができなかった。
皇の骨、それは人類とはもはや根本的に違う! 源稚生には龍類のごとく何千もの骨があり、必要に応じて緊密に統合、一体化するのだ!
 無刀取りの弐式が半分も出切らない内に、源稚生はソ・シハンの長刀を奪うのを諦め、代わりに腕を引き寄せてソ・シハンの胸口を打った。ブラッドブーストがなければ、ソ・シハンの上半身はその時点でバラバラになっていただろう。先程シーザーが受けた「心臓を破城槌で突かれたような」痛みを今度は彼が味わい、一瞬魂が肉体から抜け飛んだような感じすら覚えた。一筋の楽観的な情緒は消え失せ、二人は背中合わせに防御陣形を取り、汗腺が門を開いたダムの如く全身から汗を噴き出させた。
 皇――シーザーやソ・シハンのようなA級血統ですら、彼と相まみえる時には神経を鋼弦の如く張り巡らさねばならない。如何なる弛みも許されない。その結末は全て同じ――死なのだから。


 源稚生はソフトセブンスターを一本手に取り、火を付け、悠々と青い煙を吐き出した。
 一対二だというのに、シーザーやソ・シハンに比べて遥かに余裕があるようだった。蜘蛛切は立て掛けられ、まるで運動後の小休憩のようである。彼が手首を少し回せば、手首から足の裏までの全身の骨がバチバチと音を立て、龍類にも似た骨格がゆっくりと自ずから調整され、骨格の隙間が消え、人類とは思えない筋肉や腱が肌に現れ、流水のような波動を露わにした。彼はもはや人類とは言えなかった。桜井明や桜井小暮は自らの肉体を傷つけて無理矢理進化し、龍族の比類なき力に少しでも近づこうとしていたが、それだけの代償を払った彼らも源稚生の平常の足元にすら及ばない。これこそ皇の天賦と特権。源稚生は遥かなる高みに生まれついているのだ!
 ソ・シハンは静かに自身のブラッドブーストレベルを調整し、二段から三段、極限へと高めた。彼はかつて一度だけ四段階目のブラッドブーストを試したことがある。龍王フェンリルとの戦いの中で……四段ブラッドブーストの後、彼はモロトフカクテルを注射した桜井明と殆ど変わりない、血に飢えた本性を顕す殺戮の怪物と化してしまった。一方でシーザーのブラッドブーストはわずか一段に過ぎない。
シーザーは目を閉じて耳を澄ませた。ブラッドブーストを発動した彼は、視覚よりも聴覚の方が鋭くなっているのだ。
仏壇前の蝋燭の火がちらつき、三人の顔を照らした。シーザーとソ・シハンの頭部は目出し帽で覆われているせいで愚昧な銀行強盗にも見えるが、謎が解けるまでは正体は隠しておいた方がいい。シーザーはデザートイーグルをわざわざ黒いフィルムで覆い、銃柄の死の天使のエンブレムもマジックテープで覆っている。ソ・シハンの手にある長刀も装備部が製造した模造品、つまり「無銘」の作であり、特徴がないのが特徴、見た目も刀というよりは単なる鉄棒である。
おかしな人達の集う装備部の美学は二極化している。シンプルだがこの上なくデンジャラスな軍用装備か、奇妙なアニメ・コミックスタイルに従うか、である。かつてシーザーが装備部から提案された装備も、赤と青で塗られた一体成型の円形盾など――武器設計者はその性能とデザイン性を備えた完美の極致を自画自大絶賛していたし、実際にシーザーがその盾を持ってデザートイーグルで戦えば敵の弾の76%をガードできるというが……シーザーの反応は当然のものだった。「俺を漫画キャラにするつもりか!? キャプテン・アメリカの真似事など!!」

汗がトレンチコートの裏地に沿って流れ、一滴ずつ地面に落ちていく。源稚生はタバコを吸いながら、それを冷たく見つめていた。
「生きていたんですね。よかったです」源稚生は言った。
 シーザーとソ・シハンは何も言わず、さっと互いを見合わせた。源稚生は既に敵の正体を見破っているのか、あるいはカマを掛けているだけなのか。
「しかし、趣味の悪い変装ですね。変装自体は見事ですが。私があなた達だと分かったのは、最高級コイーバ・カノゼ・シガーの匂いです。コイーバ・シガーの中でも最高級の」源稚生は冷たく言い放った。「また会いましたね。シーザー・ガットゥーゾ」
「なるほどな。日本人が大好きなのは女々しい紙煙草、シガーを吸う真の男は人目を引くわけだ」シーザーは微笑み、被っていた目出し帽を引き裂いた。
 彼はどうしようもなく笑ったが、こんな細かい所でミスをするとは思っていなかった。高天原は毎週営業後にホスト達に配当金を払うが、シーザーはそのお金でウェイターにマッカランウィスキーとコイーバ・シガーを取り寄せさせていた。彼は自身の享楽に関しては決して妥協しないのだ。
「大人しく縄に着くか、私に倒されるのを待つか、二つに一つです」源稚生はゆっくりと足を踏み出した。「もしやるなら、あなた達の命は保証できない」
「ふざけろ。お前が俺達の命を保証したことがあったか? この前なんかようやく日本海溝から泳いできたんだぞ。お前は俺達のサポート役だった、それが海底八千メートルに置き去りか。今もそうだ。この壁画を見た俺達はコンクリートの柱に埋められて、海に沈められるんだろう?」シーザーは二挺目のデザートイーグルを引き抜き、源稚生に向けた。「お前が皇だかなんだか知らないが、過ちを犯したなら対価が必要なんだ! 俺の家の家訓だ。過ちを犯して尚裁かれないというなら、誰が神を信じるというんだ? ハレルヤ!」
「そう、私は多くの過ちを犯してきました。いつか私も過ちに対する報いは受けるでしょう……しかし今は、過ちを繰り返すしかないのです」源稚生は語気に力を込めた。「信念も立場も、人を説得することは出来ません。ならば最後の手段しかない」
 交渉はほんの少しの会話の間に崩壊した。信頼の基盤はもはや失われ、相手を信じる者は誰も居なくなった。
 源稚生が腕を翻し、蜘蛛切の光が不断に変化する。彼はゆっくりと前進しながら、互いの距離を縮めていく。ひとたび安全な距離が無くなれば即座に加速し、勝負は一息の間についてしまうだろう。


 ロ・メイヒがエレベーターの中で揺れていた。
 不幸中の幸いとしか言いようのない体験だった。エレベーターがロ・メイヒを乗せて昇った道をそのまま落ちていく途中、突然ブレーキの故障が回復し、強烈な摩擦音と共にエレベーターが減速したのだった。小鳥のように飛んでいる感覚からいきなり超重力感に襲い掛かられ、文書箱の山に叩きつけられたロ・メイヒはまるでフライパンの上にペラペラに引っ付いたオセンベイのような様相を呈していた。エレベーターが止まった時、ロ・メイヒは創造主だか神だか何かでも賛美して、この決定的瞬間に手を差し伸べてくれたことに感謝でもしたいと思った。彼に宗教的信仰はなかったし、むしろ毎日悪口愚痴ばかりで無数の口業を作り出してもいるのに、まさかこんなクズにまで救いの手が伸びるとは!
 彼は文書箱の山から鉄パイプを引き抜き、エレベーターの扉を少しずつこじ開けた。たまたまエレベーターは14階に止まり、階の床とエレベーターの床が同じ高さで止まっていた。14階と言えば以前参観したコールセンターだ。殺気立った執行局エリートはおらず、若く可愛らしい女性オペレーターばかりの階、美容コンタクトレンズに蝶ネクタイ制服、ハイヒールの楽園! ロ・メイヒが最初にこの階への突撃を提案したのも、オロチ八家に可愛い娘を食われる思いでもさせようと思ったからだった。しかし今やそれらも全て台無しになっている。パニックに陥った女性たちはあちらこちらに走り回り、ハイヒールが吹っ飛んで行ったり、猛々しい女性が消防斧を猛然と消防通路の扉に打ち付けたりしている。なんてこった! 狂った女の地獄絵図じゃないか! 神よ、天国はいずこ!?
 ロ・メイヒはそこで地震がまだ収まっていないことに気が付いた。ビルの出口は封鎖されているらしい。
 その時、黄色い制服を着た男が魔法のようにいきなり彼の前に現れた。「ハロー。リカルド・M・ロ=サン、デスネー?」
 ロ・メイヒは無意識の内に、ハイ、と反応した。そしてハッとした。クソッ! まだ源氏重工の中にいるのに! ここで本名を呼ばれるなんて、正体がバレてるってことじゃないか! 彼は銃を後ろ腰に挿したのを思い出し、急いでトレンチコート裏から銃を抜こうとしたが、銃はベルトに引っかかっており、二度引いても抜けず、逆にベルトが緩んでズボンが脱げそうになってしまった。
「ソクタツ便、でゴザイマスです」相手はロ・メイヒの手に小さな箱を乗せ、ペンを渡した。「ここにサインを、ドーゾ」
 ロ・メイヒはその時ようやく、相手がDHLの制服を着ていることに気付いた。この奇妙な男の正体は……宅配便だ!
 顔中に「そんなバカな」と書いたような表情をしたロ・メイヒは、再三小包の上に記された「Ricardo M. Lu」という名前を凝視し、その届け先住所が確かに源氏重工14階であることも確認した。だが彼はここの職員ではない。ましてや、制御不能のエレベーターでこの階に落ちて来ただけなのに!
「なんで僕がここにいることを?」ロ・メイヒは宅配便の男をじっと見つめた。背中に回された彼の腕が、銃の柄を握った。
「エット、依頼人から電話がありましてデスネー。荷物は14階のエレベーターに届けて欲しいと。冗談だと思いましたけどね。それでこのビルの他の郵便を全部届けてから、このエレベーターで待っていたんです。まるで恋煩いの乙女デスネー」DHLの青年は至極真面目なように見える。
「こんなときでも配達を?」ロ・メイヒは未だに信じられない気分だった。
「もちろん避難はしたいですが、安全通路が開かないようなので。救助を待つ方が実際クレバー、デスネー」青年は命令に従うという日本人の素晴らしき国民性を発揮していた。「アナタも落ち着いて荷物を纏めている。実際立派、デスネー! みんながアナタのようになれば、こんな混乱も起きないデスのに」
 他人から称賛されてしまったロ・メイヒ、もはや自分の嫌な面を見せることは出来ず、穏やかな顔で領収書にサインをするだけだった。
 宅配便の男は手書き文字をチェックした。「はい、確かに。以上でございますデス。それではオキヲツケテ! 毎度ご愛顧ありがとうございます、スピードと信頼のイエロー、DHLエクスプレスでした」
 このヘンテコな男はコマーシャル的フレーズを唱えて深々と頭を下げ、ロ・メイヒもお辞儀を返すと、気が付けばヘンテコ配達員は既に消えていた。代わりにエレベーターに脱出の希望を見出した女たちがフラフラとやってきて、あるいはバタバタと駆け寄ってきて、ロ・メイヒはその豊満だったり細かったりする身体に目と心を奪われてしまった。
「ロ・メイタク、あいつ遊びやがって!」ロ・メイヒはからっぽのコールセンターデスクの席に座り、デスクの上にあった美女が半分齧ったチョコレートバーを手に取った。いやちがう、これじゃない! 彼はペンホルダーからハサミを引き抜き、忌々しげにチョコレートバーを噛み砕きながら小包を開いた。
 学院にも連絡がつかないというのに、誰かがいつの間にか宅配便を送り、信じされない時間の信じられない場所に小包を送る。これがまさか偶然なわけがない。現実にこんなことがあるはずがないが……悪魔ならできるかもしれない。悪魔は神と同じく全知全能なのだから!
 小包の中には、一台の黒いリンゴ・インダストリ社製スマートフォン「アインフォーン5」が入っていた。
 リンゴ・インダストリが新しいスマホをリリースする度、ロ・メイタクはロ・メイヒに最新のリンゴ・スマートフォンが包まれた匿名の郵便小包を送ってくる。ロ・メイタクは初代リンゴ・スマートフォンからずっと、常に最新機器をロ・メイヒの手元に送り込んできていた。ロ・メイヒが不意にスマホを壊したり紛失したりしても、数日もすれば新しいスマホが届く。電話帳からホーム画面の写真まで、紛失したスマホと全く同じ設定のままで。そういえば最後のアインフォーン5はロ・メイヒによって潜水艇トリエステに持ち込まれ、深海に沈んでしまっていたが、ロ・メイタクの修理交換更新完全サポートサービスが日本でも有効だとは思いもしなかった。
 起動画面はおなじみの四つ葉のクローバー、未読のWeChatは一つだけ、送信者番号は不明。WeChatのメッセージは写真だった。海藍色の古い汽車が滔々と流れる大河に沿って進み、白い雲が茫々たる雪山に覆いかぶさっている。ロ・メイヒが一度も行ったことも無い場所だが、この列車がビスタドーム鉄道、河がウルバンバ川、山がアンデス山脈と呼ばれるものであることは知っていた。はるか遠くの南アメリカにある、小さな町クスコからマチュピチュまでを巡る豪華な展望列車――ロ・メイタクの休暇計画だ。写真は明らかに車窓からロ・メイタクが撮影したものであり、車窓の反射で小悪魔の顔と、その隣にいる年齢不相応な大美女が見える。魅惑的な赤髪、海藍色のスカート、黒いストッキングに美しい太腿、スーパーモデルレベルの尤物……正確に言えば、この小悪魔に美女と肩を並べる程の背丈はないから、美女の膝の上に座っているのだろう。
「やぁ、友よ。彼女が君の新しい義母かい?」ロ・メイヒは悪意たっぷりのWeChatを送った。
『なぁに? 嫉妬してるの? 日本にこのレベルの美女がいると思う? あんな島国、足の太ったオバサンしかいないよ。クフフフフ』ロ・メイタクからの返事は即座に来た。
「本当に南アメリカに居るの?」
『もちろんさ! マチュピチュでアルパカに餌やりしてるよ。美味しそうに食べるんだ、やっぱりアルパカは人類の友だね!』
「ンなバカな! 日本の深海で大変だった時に救命術をくれたじゃないか! いや、もうそれはどうでもいい、最初にハッキリさせておくけど、僕はお前と取引しないからな。僕の命の残り半分は僕のものだ。我が祖国の四つの近代化が達成されるまでは生きてやるんだからな!」
『素晴らしいね兄さん! お国の為、国民の為、そんな大きな願いがあるなんて、弟の僕が頑張らないわけにはいかないよね! 僕が全力を出せば明日にでも中華繁栄、四つの近代化なんてすぐ達成させてあげるよ! そしたら兄さんの残りの命は全部僕のものになるんでしょ?』
「待て待て待て! 真面目な話をしろよ!」
『僕はずっと真面目だよ? 例えばそう、こんな美女との恋にもね。まるで僕と繋がっているみたいで、胸もいっぱいでパンパン、まさに僕の運命のソウルメイトだよ。プロポーズでもしてみようと思うんだけど、兄さん、僕の結婚式の為に地獄に来てくれる?』
「ま! じ! め!」
『折角久しぶりなんだからおしゃべりしようよ。真面目な話なんてつまんない……とりあえず、兄さんはけっこう酷い状況みたいだね。壁画の間で秘密の何かを見ちゃって、源氏重工ビル全体が兄さんたちを捕まえるために封鎖されてる。安全通路は全部輝夜姫が管理していて、一般人は開けられないし、暴力でも破れない。じゃあどうする? 電子キーさ! ほら、そのスマホが鍵になってる。カードキーみたいにスワイプすれば、兄さんを阻む扉なんてチョイチョイチョイ!』
「おい、ちょっと都合良すぎないか?」ロ・メイヒは未だに信じられなかった。
『さぁ兄さん、早く! 地震はまだ始まってもいないよ。兄さんが感じてる衝撃波なんてほんの小さな前触れさ。兄さんみたいな思いやりのある人間はぁ、無実の可愛い女の子たちが地震で死ぬなんて耐えられないでしょ?』
 ロ・メイヒは飛び上がり、汗だくの女の子たちを押し退けて安全扉の前まで進んだ。案の定、スマホに「電子キー」なる追加アプリがあった。アプリを開くと、変化し続ける複雑な図形パターンが画面に現れた。ロ・メイヒがスマホを認証機の前で振ると、「ピー」という音と共に赤ランプが緑色に変わり、安全扉が突然開いた。女の子たちは英雄を見るような目でロ・メイヒを見つめた。彼女達の目には実に単純な「真実」が見えていた。ビルのゲートシステムに問題が生じ、上層部がこの若いイケメンな――ここでのイケメンという概念には多少の曖昧さがある――執行局エリートを送り込み、手動で扉を開けてくれたのだ! 彼がこの階のみんなを救ったのだ!
安全通路に入る前、女の子達は一人ずつロ・メイヒの頬にキスをしていった。人生二十年余りにして一度もそんな幸運に巡り合ったことのないロ・メイヒは、百数ものピンク色の唇に囲まれ、一時の幸福に浸った。
 14階はすぐにからっぽになり、ロ・メイヒは女子たちに囲まれて階下へ進んだ。3階まで降りると下からガヤガヤとした声が聞こえた。バルコニーから下階を見下ろすと、ロ・メイヒは顔色を変えた。人の流れが堰き止められている。執行局が正面玄関を塞ぎ、女子たちに止まるよう叫んだり、せわしなく電話をかけて上層部に意見を求めていたりしている。あるいは女子たちのIDカードをチェックし、写真と照合したりしている。正面玄関の鍵が開いても、そこから出るためには本人確認が必要らしい。こうなってしまうとロ・メイヒが「無難な顔」をしていても混じることは出来ない。14階から降りてくるのは女性だけだ。「若いイケメンな」執行局エリートが混じっていれば、本人確認するまでもなく怪しまれてしまう。
「電子キー以外になんかひみつ道具ないの!? ロ・メイタク、銅鑼=衛門みたいに出し惜しみしてるんじゃないだろうな! 通路に執行局の人がいるんだぞ!」ロ・メイヒは再びロ・メイタクにWeChatを送った。
「地図ナビアプリを使って、他の道をお探しくださいませ」
「地図ナビぃ? 車でどっか行くんじゃないんだぞ!」
「でも、悪魔のスペシャルアップデートバージョンだからね。クククッ」
 ロ・メイヒがスマホの地図ナビアプリを起動すると、そのインターフェイスは通常と全然異なり、源氏重工ビルの構造図が画面に表示された。輝夜姫の主機が置かれている22階から壁画の隠された空間まで、建物全体がスケルトンに濃い青と水色の線の輪郭で描かれている。建物内部では各階に数個から数十個の赤い点がちらつき、最も密度の高い場所はロ・メイヒが位置する通路だった。この光点が人を表しているのだと、ロ・メイヒはすぐに理解した。20階以上は関東と関西の二大支部、執行局、岩流研究所や丸山建造所のヤクザたちが堂々と構え、22階の輝夜姫制御室では技術者たちが静かに作業を続けている。20階から下は一般区画、オロチ八家傘下の企業の総合オフィスフロアで、深夜まで残業していた社員たちがアリのように走り回っている。恐怖が紀律を完全に塗りつぶしてしまっているらしい。
 更に、ビルの中央エリアには集中した金色の光点が見える。ロ・メイヒはその光点が何を表しているのか皆目見当もつかなかった。
 赤い点が普通の職員なのか執行局のエリートなのかも分からない為、ロ・メイヒはとりあえず人の少ない道を選ぶしかなかった。もし執行局のエリートに見つかってIDカードを確認されればそこで終わる。だがどの階にも人は居て、この超高層ビルもまるで一つの都市のようだ。ロ・メイヒは焦りつつ画面をスワイプし、逃げ道を探した。執行局の人間が女子たちを突っ切って2階まで上がってきている。ロ・メイヒは遂にビルの中で一人もいない階を見つけた。その階には階数が描かれておらず、その代わりにギリシャ文字の「ξ」があった。
 「クスィー」と発音される文字、数学ではしばしば乱数を――つまり、不確定な何かを表す文字だ。
 一本の細い赤線がビルの構造図の中に現れ、ロ・メイヒの現在地から「ξ」階までの道を示した。ロ・メイタクが改造したこの怪しいアプリは、彼の逃走経路を導いている……。
 執行局の人間は既に近くまで迫り、ロ・メイヒに選択の余地は無かった。彼は人の流れから静かに離れ、脇道にそれ、狂奔を始めた。曲りくねった階段を上り下りしていくと、目の前に一つの安全扉が現れた……なんの標記もない、銀白色の大きな扉。
 彼はスマホを認証機にかざした。「チェックイン。ξ層への進入が許可されました。オツカレサマデス、執行局リカルド・M・ロ執行員」フェミニンな機械音声と共に、銀色の大扉は泰然と開いていった。


 ヒルベルト・フォン・アンジェはヘネシー・リシャール・ブランデーのグラス越しに、窓の外の狂風暴雨を眺めた。稲妻は蛇が墨雲の中でのたうつが如く、天空は裂開していくにも似て、東京はまるで天より来たる巨人を恐れるかのように震え、その揺れは留まるところを知らない。
 テーブルの向かいに座っているのは三丼不動産のマネージャーだ。彼の顔はすでに不安で一杯だった。このレベルの地震では三丼不動産の頑丈なオフィスビルはびくともしないが、せめて避難経路の確保ぐらいはしたいと思っていた。だがアンジェはこの嵐と地震の夜でものんびりと振る舞っており、マネージャーも客の前で下手に出る事はできなかった。実際、この目の前の英国紳士は数百万もの金額を提示して依頼してきた大口のクライアントであり、今夜あと数分我慢し、一度手を交わせば、200万円の利益を出すことが出来るのだ。
「この程度の地震は、東京では珍しくないのかね?」アンジェは淡々と聞いた。
「ええ、よくあることです。怖がる人も多いですが、東京の建物の耐震基準は世界でもトップレベルです。問題があるとすれば、老朽化した古物件だけかと」マネージャーは微笑んだ。
 三丼不動産に来るというのは、東京の不動産に興味があるということだ。世界中のどんな都市を探しても、津波や台風は日常茶飯事だとか、地震も三度や五度じゃないとか、ここに住みたいなら生命保険に入るのが良いとか、遺体提供も考慮に入れようだとか言う不動産マネージャーなどいない……しかし、そうはいってもここ2年で東京の地震がやたらに頻繁になったのは事実だ。このマネージャーも地方に移るかどうか検討し始めているほどである。
「この土地には古民家があるそうだな」
「ええ、ええ。二次大戦前の遺物で、ほとんど空き家です。私に言わせれば、土地の無駄遣いですよ。一坪で何十万円もする学院区画なんですから。もしこの土地をお買い上げになるなら、大々的な開発が必要になるでしょう。勿論古家は取り壊されますが、所有権もはっきりしているので、区役所から補助金が降りると思いますよ」マネージャーは更にその土地の良い点について付け加えた。「商業施設ばかりの繁華街にこのような土地があるとは、お客様のご指摘が無ければ見つからなかったでしょう」
「どんな都市にも秘密の埋もれた場所というのはあるものだ。墓のようにな。そういうものは、簡単に解体することもできんのだよ」アンジェは封筒に入った200万円の現金をバッグから取り出した。「では、土地権利書を見せてくれるかね?」
 マネージャーは現金を受け取ると、恭しくクラフト紙の封筒をアンジェの面前に置いた。「お待たせして大変申し訳ございません。なにしろミシビツ銀行の金庫に保管してある、とても貴重なものでございますので、我々三丼不動産の者でも入手は困難を極めました。ですが実際の所、この土地の所有者はどうも売却には後ろ向きのようです。どうしてもとおっしゃるのであれば私共の方で説得いたしますが、土地代の12億円に手数料3%、最低でもこれだけの金額はかかると思われます」
 アンジェは薄い土地権利書に目を通した。桑の皮で出来た厚紙はすでに黄ばんでボロボロだが、筆字で土地の範囲と土地権利者の名前が書かれている。作成年月日は昭和十四年……およそ70年前も昔である。
「当時、土地の範囲は測量ではなく、指標となる構造物で決定されていました。いまはもうありませんが、写真が残っています。東京大学の裏門、細長い通りにあります」マネージャーは東京の地図をスケッチした。「ここには昔、黒天神社という神社があったのですが、今は教会になっています。午後に現地も見てきましたが、比較的小さく荒れた印象のコミュニティ教会だったので、解体に影響はないでしょう」
 アンジェは土地権利書を封筒に戻し、マネージャーに返した。「どうもありがとう。12億円の土地権利書は私が持つには少し忍びない、ミシビツ銀行の金庫に戻しておいておくれ。我々の取引はここで終わりだ」
「え……何か、この土地にお気に召さない事でも?」マネージャーは唖然とした。彼に言われてわざわざ土地を探したのだから、間違いなく買うだろうと思っていたのだ。そうなれば莫大な手数料が彼の売上になる。
「そうではない。言っただろう? どんな街にも墓のような、隠された秘密の場所があると。私は墓を手に入れたいのではなく、場所を知りたいだけなのだ。墓の持ち主、つまりその土地の持ち主は、私の旧友だ。彼の生死を確かめねばならん」アンジェはブランデーのグラスを飲み干し、テーブルの上に戻した。「狂風暴雨に地震の夜、生憎の天気ではあるが、旧友を訪ねるにはちょうどいいと思わんかね?」
「お、お客様……地震の時はご安全に! それに、飲酒を……お酒をお召しになっているじゃありませんか!」マネージャーは顔色を失った。
「こんな夜に飲酒運転を取り締まる警察もおるまいよ」ビルが再び揺れ、アンジェは雨の街に目を向けた。「それに、私には時間が無いのだ」


 シーザーが引き金を引き続け、6発の弾丸が0.2秒間隔で銃口から躍り出る。弾道は二つの扇面を形成し、相互に交錯する。6つの銃口の炎が空気中に留まり、まるでシーザーが突然目の前に二枚の燃え盛る扇子を開いたかのようだ。
 源稚生の輪郭が予兆なく「崩壊」した! 彼の姿が照り盛る「扇子」の下に閃く!蜘蛛切の清き光が下から上へ閃現し、シーザーの下顎を狙うが、ソ・シハンの刀が横から突き入れられてそれを止め、シーザーは双銃を捨ててディクテイターを抜いた。
 シーザーの放つコンバット・キャバルリー・スラッシュ。
 ソ・シハンの繰り出す十三連閃。
 源稚生が魅せるは鏡心明智流・逆巻刃流。
 普通の人間が瞬き一つするわずかな瞬間に、三つの武器が何度もぶつかり合い、刀の光と剣の影の間に次々と火花を炸裂させる。三人は立ち位置を素早く何度も変え、振るわれた刀は速すぎて一筋の幻影のようにも見える。
 シーザーはアサシンの刺客が使う暗殺術を騎兵刀術に織り交ぜた。アサシン暗殺術の歴史的な起源は古代クシャーナ朝の残した戦闘技術である。1フィートにも満たない短剣で槍や大剣を持った騎兵を相手に戦うこの技術の極意は、敵の突撃を横に避けた瞬間、軍馬の首筋の血管を切り落とすことだ。刺客はこの精巧な手刀を頼りに騎兵大隊に突入し、驚異的な速さで一匹また一匹と軍馬の頸動脈を斬り、全身を鋭い矢のようにして騎兵の波を突破し、最終的には敵の大将の首まで斬り落とす。歴史に数多い暗殺者の中でも、最も豪烈な英雄譚の一つだ。
 ソ・シハンも源稚生も、己の持ち得る最高の刀術を使った。源稚生は鏡心明智流で「免許皆伝」を得ており、美を強調する流派とはいえ、もちろん単に美しいだけではない。「人斬り」の仇名を持つ岡田以蔵も鏡心明智流の出であり、彼の生きた時代、以蔵の二文字は恐怖の代名詞だったのだ。
蜘蛛斬は斬撃と同時に刃を反転させ、他の刀術には見られない奇妙な弧を描く。「逆巻刃流」の奥義は「巻」にある。源稚生の絶妙な手首の動きに合わせて、蜘蛛切が絹でも巻かれているかのように舞うのだ。かの大名鼎鼎なる「巻刃流」は、絹が締まるように加速していく刀流だが、逆巻刃流はその逆、速度が遅くなるにつれてパワーが倍増する。
切り結びは十秒も続かず、始まりも終わりも突然に、動の極みから静の極みへ、その中間らしき瞬間は一切無い。三人は交錯閃開、防御を緩めず、彫刻のように佇んだ。もし傍観者がいれば、彼らは終始全く動いていないかのような錯覚に陥っただろう。
 蜘蛛切の妖冶な刀身から一滴の血が滴り、床に落ちた。シーザーが自分の胸元を見下ろせば、一筋の赤い痕が真っ白なシャツの上に緩慢に伸びていた。
 シーザーとソ・シハンの挟撃の前には、源稚生でさえ手を抜く余地は無かった。二人の側にも当然手加減はなく、源稚生の袖口がゆっくりと裂けていった。シーザーの一刀が彼の手首の動脈スレスレを斬っていたのだ。
「お前もアイツも日本刀使いなのに、なんでこうもスキルが違うんだ」シーザーが囁いた。「アイツの攻撃を予測するくらいできないのか?」
「奴の刀術は江戸剣術三大流派の鏡心明智流だ」ソ・シハンは深呼吸した。「オロチ八家が育てた皇だ。剣道の大師範に純粋な古流剣術を習っているんだろう。俺はそんなハイレベルな先生には教わってない」
「じゃあ、お前は何流派なんだ?」
「流派なんてものはない。少年宮で剣道の先生に習ったくらいだ。学費3600元、36時間の短期講座にだけ出た。後は全部我流だ」ソ・シハンは刀を振り上げ、日本剣術で標準的な「正眼」の姿勢をとった。
「クソッ! ずっとお前の日本刀術は本物だと思ってたぞ! 徹底的に研究してやれば日本刀も分かると思っていたのに!」シーザーはショックを受けた。
「誤解させたならすまないが、俺は一度も日本刀術を学んだとは言っていない。獲物が日本刀なだけだ」
「謝るのが遅すぎるぞ」シーザーは泣くも笑うもできず、死んだような目を蜘蛛切の切っ先に向けるしかなかった。「日本刀術はよく知ってるつもりだったが、まさか俺のライバルの日本刀が中華コピーだったとはな。本物の日本刀の達人と戦うまで気付かなかった」
 源稚生は静かに仏壇の前に立ち、淀んだ青光を湛えた蜘蛛切を胸の前で横に流し、指先でその刀身をゆっくりと撫で、刀の先を軽く叩いた。何らの刀術流派の構えとも思えず、全身隙だらけとも見えるが、ソ・シハンもシーザーも攻撃を仕掛ける事は無かった。
 まるで祭典の準備をする祭司のような動きだ。黙々と長刀を拭き、敬虔な心で捧げものの首に刀を添わせる動き。シーザーとソ・シハンは祭壇に乗せられた捧げものだ。骨を刺すような殺気が壁画の間じゅうに弥漫し、捧げものが死に至るまで、もはや時間は多くない。
 一方、源稚生の心にも動揺があった。誰か他人を致命的な脅威だと感じたのは、これが初めてだった。彼は皇であり、皇とはあらゆる生物を凌駕する存在として生まれ、桜井明や桜井小暮のような龍化した鬼ですら「危険な獲物」でしかない。だがシーザー・ガットゥーゾとソ・シハンは獲物ではなく、源稚生と同じ領域に立つ、ハンターだと思えた。三人で一度刀と刃の舞を踏んで分かったのは、源稚生の優勢に変わりはないが、即ち必勝とは行かないだろうということだ。獅子心会の血統精錬技術も高貴なる皇の血には届かず、源稚生の刀の防御は、シーザーとソ・シハンにはどんな攻撃を加えても同じだけの攻撃が返ってくる、まるで壁と戦っているかのような感じすら覚えさせた。だが源稚生もまた「逆巻刃流」が封じられていると感じていた。ソ・シハンとシーザーの暴風驟雨の如き同時攻撃、この嵐の前には源稚生も防御に回らざるを得なかった。
 シーザーとソ・シハンの連携を断つには、刀術でも危険な「禁じ手」を使わなければならない。即ち、一人の首を即座に討ち取ること。それを試したのがシーザーの胸に傷穴を開けた一刀「天平一文字」だった。
 源稚生にはもとより、五分しか時間が無いのだ。

「あなた方が生きていたのが嬉しい、これは私の本心です。一族もあなた方には感謝しています。こんな状況で出会わなければ、友にもなれたかもしれません。例え友でなくても、敵であるよりはずっと好いでしょう」源稚生は冷ややかに言った。「ごめんなさい――」
「お前たち日本人の『ゴメンナサイ』はなんでそういつも遅いんだ! 今更言って何になる……」シーザーの声も厳めしく冷漠に変わった。「真さん……俺達がおもちゃ屋で会ったあの子、彼女は死んだ、お前の一族が殺した! お前たちが起こした戦争が、真さんのように無関係なたくさんの人を殺すんだ! 皇だの何だの、高みにいるお前は彼女達の悲鳴も聞きやしない……クソが! この世にこんなクズ家族はガットゥーゾ一家だけだと思っていたが、日本にはそれが八家もあるなんてな!」
 源稚生はわずかに動揺し、凍り付いた表情にヒビが入った。「ええ……詫びが遅すぎるというなら、その通りです。ならば二度言う必要もないでしょうね」
 彼はゆっくりと刀を振り上げ、同時に馬歩の姿勢をとった。初めて闘志らしい闘志を見せた源稚生、漸く本気になったのだろう。
 シーザーとソ・シハンは素早く目を交わしたが、ソ・シハンは首を少し横に振るだけだった。シーザーを揶揄ったわけではない。彼の日本刀術は少年宮の剣道講座で学んだもので、その卒業時のプレゼントも「スターウオーズ」のライトセイバー、単三電池二本を柄に入れると光って唸ってスターウオーズの主題歌が流れるおもちゃだった。それゆえ彼は日本刀術の「奥義」を習った事がなく、源稚生がどういった意図でそう構えているのかも全く分からない。しかし仮に本物の剣道館に通っていてもその知識は役に立たないだろう。皇が受けた教育は最も厳格な伝統的日本教育であり、源稚生は古流の殺人剣術も含めた日本に現存するあらゆる刀術を学んでおり、剣道館で教えを受けた学生ですらその全てを理解することは出来ない。
 明治維新後、刀術と茶道は日本の伝統文化の一部分となった。剣道館の学生たちが打ち合う為に精巧な竹刀が発明され、剣道館の学生たちが真刀を手にできるのは卒業写真を撮るときだけになってしまった。しかし明治維新前の刀と言えば武士の生命。武士の一生は血塗れだった。公卿の家に仕える武士は、常に戦場に足を踏み入れ主の為に己の命を犠牲にする覚悟が出来ていた。館を設立し人を教学する武士たちは常に挑戦者を待ち続け、浪人は狼のような目で街頭を歩き、いざとなれば人を殺す。殺人者の時代だったのだ。武士の生命は桜のように脆く、しかしそれは人命が紙のように軽いという事ではなく、ただ、武士には刀で人を殺す権限があり、それが法で裁かれないというだけだった。それゆえ、当時の日本では陰湿、凄惨、冷酷な刀術が研磨され続け、優雅で体面的な現代の日本刀術とは全く異なった、人殺しの為の刀術が洗練された。どれだけ体面がまともでも、そんな世界で生き残っているというのは、人を狼か鼠か、あるいは悪霊かのように殺せるような者だけだったのだ。これが古流殺人剣の真髄である。
 源稚生は身を屈めながら、シーザーとソ・シハンに一定の距離を保ちながら横移動した。蜘蛛切の切っ先がわずかに揺れ、深呼吸する細々とした風音だけが聞こえる……まるで人を喰らわんとする悪鬼のように。
 ソ・シハンもシーザーも、まるで殺気の氷に封じられたかのような錯覚に陥った。源稚生の刀は未だこちらに向けられてもいないが、その刃の上の寒気は既に心を穿ち始めている。
「退け!」ソ・シハンが突然咆えた。
 源稚生の殺気が更に強まっていく。無声無息のうちにソ・シハンの闘志は完全に折られてしまった。彼は源稚生の目論見に見当もつかなかったが、日本刀を長年使っていた経験から、漠然とだがあらゆる所作の中に血の臭いを嗅ぎ取ることができた。
 壁画の間の血の臭いが家畜の屠殺場のようなものなら、源稚生の刀は森羅の地獄そのものだ!
 その咆哮が源稚生の攻撃を誘発した。ソ・シハンの叫びは己の闘志の崩壊を示した、源稚生にとっては絶好の機会!
 心形刀流・四番八相!
息をいっぱいに吐いた源稚生が猛然と踏み込み、人の形をした虚影となり、蜘蛛切が胸の前に収まる。この予備動作には四種の攻撃が含まれている。いわゆる八相というのは、赤炎、修羅、羅刹、幽冥など八種の恐るべき光景のことであり、生徒がこの禁じ手を学ぼうとする時には、この八種の恐るべき光景を想像しなければならない。例えば師匠の手助けの元で赤炎を想像すれば、本当に焼け付いた鉄尺が背骨の近くに迫り、烈火に焼かれているかのような幻覚を引き起こさせる。生徒はこの八種の想像テストに合格しなければならない。そうして身に着けたこの凶悪な一刀を放てば、斬り出された殺気は刀先に凝集し、たとえ火の中に突入しようとも動じることなく、鉄釘を踏もうとも恐れることなく進めるようになるという。
 古流殺人剣を扱う者は、あらゆる覚悟を決めなければならない。シーザーに一太刀浴びせた源稚生もまた、接近戦に強いソ・シハンをここで討ち取る覚悟を決めた。この一刀を止めることは稚生自身にはできない。ソ・シハンは死ぬか重症を負うかも分からないが、殺人剣とはかくの如きもの、刀を握る事は即ち地獄に落ちる者となることなのだ!
 シーザーとソ・シハンは同時に特攻をかけた。今攻撃をかけるというのは相手の刃に飛び込む様なものだが、既に二人は避けられない距離にいた。虐殺されるのを待つか、足掻くか、それ以外に道はなかった。
 その時、世界が傾いた。源稚生は着地足を踏み外して完全にバランスを失い、シーザーの腕にぶつかった。四番八相が完全に潰されたのを見たシーザーは、今が機とばかりに膝蹴りを源稚生の胸元に打ち込んだ。
 蜘蛛切を奪おうと狙ったその瞬間――巨大な黒い影が天から降りてきた。


 銀色の金属扉が背後で静かに閉まると、ロ・メイヒは驚愕する他なかった。
 彼のスマホの「電子キー」アプリはこのビルの幾つものドアを開いてきたが、それらはロ・メイヒを確認してもただ「ガチャ」と一音だけ発するだけだった。しかしこのドアを開いた時、彼は「オカエリナサイマセ」という音声を聞き、リカルド・M・ロと呼ばれる執行局人員が「ξ」層に迎え入れられたことを知ったのだった。
「ξ」が表すのは不確定要素である。つまり、彼は不確定な場所に帰ってきたということだ。未知の恐怖が彼の頭の中で炸裂した。不確定な場所……運命の紡績機の二股の糸のように、一本の不可解な糸が彼の人生に入り込み始めたかのように思える。
 こんな「不確定な場所」にこれ以上一秒たりとも居たくない、そう考えた彼は振り向き、しっかりと閉まってしまった扉に立ち向かった。もう一度電子キーを使おうとしてスマホをかざしたものの、「ビービー」というエラー音が響くだけだった。ロ・メイタクが提供したこの電子キーは、どうやらこの扉には一方通行にしか使えないらしい。
 向かい側に続く廊下には一人もおらず、遠くからかすかにホルマリンのような臭いが漂う。まるで病院のような、眠れる美女でも暮らしている病院のような、時間の流れがいびつで、何らかの邪悪な力が封印でもされていそうな雰囲気だ。ロ・メイヒは廊下の両側に時々あるドアを開けようとしてみたが、全く開く気配がなく、スマホの電子キーもどうやらこの階では万能とはいかないらしい。部屋の窓からは淡い白光が廊下に注いでいるが、人の声は聞こえない。地震の衝撃は既に何度か連続して襲い掛かってきており、他の階の壁にはひび割れも見えたが、この階には小さな亀裂の一つも見えず、特別堅牢な壁になっていることがわかる。外に通じる窓はなく、ドアは全て硬く黒い金属で鋳造されており、壁には「危険区域」だの「立入禁止」だの物々しい標識ばかりが貼られている。
 歩けば歩く程怖くなっていく。遂に衝動が抑えられなくなり、ロ・メイヒはがらんどうの廊下を全力で駆け抜けた。だが走れば走るほど道が分からなくなり、やがて入り口がどこだったかも分からなくなってしまった。この階の廊下はまるで蜘蛛の巣のように綿密、終わりのない迷宮のようだ。
 怖くなればなるほど足も速くなっていく。自分を追いかける自分の足音が廊下で反射し、まるで幽霊の群れが背後から追ってきているかのように錯覚する。だが立ち止まっても音が消える事は無かった。耳元に響くのは、薄く長い漠然とした何者かの呼吸音。これが自分のものなのかも分からない。
 彼は大声でゼイゼイしながら薬品棚の後ろに隠れ、戦々恐々しながらロ・メイタクにメッセージを送った。「お前のクソアプリ一体何なんだ! お化け屋敷みたいなところで動かなくなったぞ!」
『お化け屋敷だからって悪い所とは限らないよ? [チャイニーズ・ゴースト・ストーリー]の蘭若寺だって、ニン・ツォイサンがシッ・シウシンに出会ったステキなお化け屋敷じゃないか』ロ・メイタクの返信はほどなく届いた。
「ふざけんな! それはイン・ツェッハー道士がいたからだろ! じゃなかったら幽霊に食べられちゃうじゃんか!」
『陛下! わたくしめこそあなたのイン道士でございます! ご安心! 大丈夫! 源氏重工にはいろんなヒミツ区画があるからね、ヒミツ区画には相応のヒミツな電子キーが必要なんだ。今アップデートするね! ククッ』
 ロ・メイヒがスマホのホーム画面に戻ると、「電子キー」アプリのアイコンが青色に変わり、名前も変わっていた。新しい名前は……「蘭若寺の匙」!?
 地図ナビアプリを開くと、画面には例の幽藍色の矢印が現れた。しかし彼が歩く度にその矢印はかすかに揺れ、まるで方向を探しているようにも見える。もしやこのアプリは……地図ナビアプリなどという大層なものではなく、風水師が吉方位を探すために使う風水盤のようなもので、これを辿って行ったら墓場かどこかにでも着くんじゃないのか? だが、今信じられるのはロ・メイタクしかいない。よく人をからかいはするが、大きな間違いを犯すことは絶対にないし、少なくともメイヒを死に追いやったことはない。
 前方の道はますます複雑になっている。どうやらこの階の核心区域に入ったらしく、途中で幾つかの安全扉も通過した。「蘭若寺の匙」が開いてくれたのだ。奥に行けば行くほど通路は広くなっていき、ついには7、8メートルの幅にまでなった。全面がステンレス鋼で補強され、前方に明媚な白光が広がっている。ここに到着した瞬間地図ナビアプリの矢印が消えた。3G通信が切れたのだろう。ロ・メイヒが鋼鉄に覆われた地面を慎重に歩くと、背後の足音は完全に消失していた。ここの通路が広すぎるからだろうが、もしや隠れていた追跡者も……ここから先は足を踏み入れたくない、ということなのかもしれない。
 通路の終わりには白い金属製の扉、角の丸い気密扉があり、明媚な白光はこの扉のガラス窓から漏れていた。窓の位置は高すぎて、ロ・メイヒには中の部屋の上半分しか見えない。中は四面真っ白の壁、パイプラインやら大型機械やらが見える。彼が意を決して扉を開けると、紅い水が足元から下にダクダクと流れ出て、彼の靴を濡らした。同時に顔を襲った血の臭いが猛烈な吐き気を催し、彼は膝を折って床に蹲った。
 部屋の地面は真っ赤、天井は真っ白、壁は赤と白だった。この部屋には医者や看護師二十人余りがいたようだが、今やその全てが死人と化している。彼らの血は床に深さ数センチの血だまりを作っていたが、気密扉のせいで流れ出なかったのだろう。この血みどろの状況を作り出したのは――部屋の壁にぐったりとうなだれている、この堕武者だということは疑いなかった。龍化した身体はラグビー選手のように大きく、蟒蛇のような長い尾が血の海に垂れ下がっている。ロ・メイヒも授業で堕武者の写真を見たことはあったが、こんな半人半蛇のような形態の堕武者は見たことが無かった。海底の高天原で同じような形をした古代混血種を見たことはあるが、それらは死してなお動くミイラであり、死んでから長い年月が経っているものだ。だが目の前にいる堕武者は今さっきまでピンピンしていたかのようで、その鱗には光が滑り、筋肉はパンパンに膨らみ、萎びて腐りかけていた高天原の尸守とは大違いだった。
 ロ・メイヒは脳内で状況をシミュレートした。堕武者はその鋭い爪で医者や看護師の動脈を引き裂き、密室故に誰も逃げることは出来なかった。その後、堕武者も円形の金属壁から突き抜けて来た、一本の長刀に突き刺されて殺された。その金属壁にはハンドルとコードロックがあり、銀行の金庫扉のようにも見える。虐殺を終えた堕武者はこの扉を覗き込もうとして、向こう側の誰かにわずか一刀で殺されたのだ。
 完全金属の金庫扉の向こう側から、長刀一本で堕武者を一撃? 本当に? 一体どんな奴なんだ!?
 おかしい! おかしすぎる! こんなおかしな殺人現場に来てしまったのも、ロ・メイタクが入れたおかしなアプリのせいだ! あの扉の向こう側にどんな残虐な生物がいるかも分からない! ……ロ・メイヒはよろめきながら立ち上がり、なんとかしてこの場から逃げようとした。
 その時、通路の向こうの安全扉が大きな音を立てた。ロ・メイヒの心は一瞬にして沈んだ。閉まったのは上下開閉のシャッターだった。シャッターが下りる音だ! 哀れなロ・メイヒ、この通路に閉じ込められてしまった! 高出力の排気ファンが独りでに動き出し、通路に轟音が響き渡る。この機構はいけない! 10分もかからず空気圧が減って窒息死してしまう! ロ・メイヒがわずかに聞いていた呼吸音は、この通路で断続的に作動している排気ファンの音だったのだ! 通路が金属で補強されているのも不思議ではない、この金庫扉の向こう側にいる化け物が逃げるのを防ぐためだ。金庫扉から出られても、この通路に閉じ込めて、空気圧を低下させて昏睡状態にできる仕組みなのだ。なんと厳密な囚禁措置なのだろうか……まさか、オロチ八家は既に神を捕らえていて、ここに閉じ込めているんじゃないだろうな?
 スマホの画面が突然点き、最後の電子キーが画面に表示された。華やかな模様が不断に変幻する。ロ・メイタクからのメッセージも届いた。『やっと着いたんだね。さぁ、蘭若寺へいらっしゃいませ』
 ロ・メイヒは理解した。蘭若寺の匙は彼を脱出させるものではなく、この「病院」の核心に導くものだったのだ。これこそシーザーとソ・シハンが探していたオロチ八家の最高機密に違いない。彼ら二人は見つけられなかったが、ロ・メイヒが見つけてしまった。こんな大それた名誉は二人の先輩が受けるべきだと思いもするが、状況はそれを許さない。あの扉を開けなければ数分もしないうちに意識を失い、やがて死んでしまうかもしれない。ロ・メイタクの悪趣味は本当に質が悪い。
 彼は重苦しく硬い両足を血だらけの床に歩かせ、同じく重苦しく硬い両手で金属扉の横にある読み取り機にスマホをかざした。金庫扉は自動的にスマホに接続し、膨大なデコード作業を始めた。ロ・メイヒが辺りを見回せば、その部屋にはありとあらゆる救命設備が詰め込まれていた。もっとも単純な酸素ボンベから心電計、血液濾過器、AED、高圧血栓ポンプ、心臓マッサージ機に至るまで……さらにはMRI、X線撮影システム、直線加速器などの数百万ドル相当の大型医療機器に至るまで、集中治療室に必要な機器もすべてそろっている。
 どういうことだ? 金庫室に別の重症患者がいるのか? 金庫扉を刀一本で貫いて堕武者を殺す重症患者? 笑える冗談にも程がある。
 解析が完了し、金庫扉がバルブ内の高圧窒素を放出し始めた。ロ・メイヒは数歩下がり、その瞬間、手足から力が抜け、目の光が呆然と滞った。扉の上のライトが赤から緑に変わり、十二本の安全ボルトが「カチッ」という軽い音を立て、厚さ20cmの超硬合金の扉がゆっくりと開いていく。
 ロ・メイヒが感じたのは、新鮮なサンダルウッドの香り、そして見たのは、赤い裸体の少女……扉の向こうで、大きなバスタオルでビチャビチャの長い髪を拭きながら、ロ・メイヒを見つめている。その髪色は暗紅色――ロ・メイヒがこの世でただ一つ、骨と心に刻んだ世界の色。
 一切の恐怖とパニックは消え去った。ロ・メイヒは酸素とサンダルウッドの香りたっぷりの風に当たり、暗紅色の髪と暗紅色の目だけを見つめた。
「ひ……久しぶり」目の前に立つのが別人であるとは思いながらも、彼はそんな言葉を言わざるを得なかった。しかしその目の表情は、澄んだ青空に飛び立つ紅い鳥のような目は、あまりにも似すぎていた。


 鳥居が地面に倒れて粉砕され、樹齢千年の桜の欠片が四方八方に飛び散った。鮮血は薄く紅い潮水のように、傾斜した床を流れていく。
 ひっくり返された燭台が垂れ幕に火を付け、仏壇の「金剛」や「仏像」の影を粉々にしていく。前方に下がっていた垂れ幕が焼け落ちると、その真の姿が暴かれた。顔は人間によく似ているが、その巨大な身体は古蛇のようだ。オロチ八家は古代から今に至るまで、人間が捕らえた全ての「人魚」の標本をこの隠された倉庫に保管しているのだ。燃えた垂れ幕が焼け落ち、尸守の標本に火を付けると、刹那の間に眩いばかりの光で輝き始めた。遥か古代、人魚の脂肪は蝋燭の最高の素材だった。人魚の油で作られた古いランプは皇帝陵の中でゆっくりと燃え続け、何千年もの間消える事が無いという。
 蜘蛛切がソ・シハンに突き刺さろうとした瞬間、再び強烈な震動が襲来し、源氏重工が激しく揺れた。鉄筋コンクリート構造物にヒビが広がり、棒鋼が引き裂かれ、水道管が破裂し、水霧と冷風が広がったが、尸守を燃やす烈火は消えなかった。
 シーザー、ソ・シハンと源稚生は戦い続けていた。この状況下ではもはや戦闘技術と言える戦闘技術は役に立たない。互いに掴み合って転がり、全身全力で顔を殴ったり、肘で喉元を突きこんだり、膝を鳩尾に食い込ませたりするだけだ。片や龍殺しの精鋭中の精鋭、片や皇にして一族の継承者。だが今や双方共に美しいアッパーカットすら放つことが出来ず、武器となるのは冷酷さと己の苦痛への忍耐力のみ。源稚生の肘がシーザーの片目を突き、シーザーの爪が源稚生の喉元に傷をつけ、ソ・シハンが源稚生の肋骨に何度も蹴りを入れる。原始的な乱闘だ。野獣の噛みつき合いと何ら変わりなく、突然歯を立て合い始めてもおかしくない。
 その血の中の闘志を燃やしているのは憤怒だ。手に武器を持つ者はいないが、心の激しさは武器を持っていた時よりも一層激しくなっていた。友情と思えたものは幻想でしかなく、二人と稚生は最初から敵だったのだ。出会った瞬間からそれぞれの立場を定め、たとえ雨の中同じ傘の下で肩を並べても、敵には常に剣を抜かねばならない! 人魚標本の油が融けて床を流れ、シーザーの身に迫っていくが、彼に避けるという選択肢はなかった。源稚生の背に乗り、両手と両足で彼を抑え込んでいたからだ。アメリカのレスリングで時折みられる「テキサス・クローバー」、全身を束縛して相手を制圧する技だ。
「躱す!」シーザーは吼えた。
 ソ・シハンが源稚生から手を放して転がっていった後、シーザーは腰を猛然と反らせ、源稚生を掴んだまま壁の方へと転がっていった。源稚生にアメリカン・レスリングの経験はなく、そのまま壁に叩きつけられてしまった。彼の骨格と筋肉の能力では眩暈も一瞬だったが、シーザーは既に彼の喉を掴んでいた。暴風驟雨の如き重いパンチが源稚生の顔を打ち、シーザーに燃え移った火が源稚生をも燃やす。執行局のトレンチコートは耐火性の布でできているが、火の勢いはその程度では収まらない。
「そうだ、謝罪に何の意味がある! 謝罪は事が起きてからするものだが、事が起きてからじゃ遅すぎるんだ!」シーザーはひたすらに叫んだ。「男は過ちを犯したっていい、結果さえ出せばいい、そんなわけがないだろうが! 目には目を、歯には歯を! 過ちを犯して尚裁かれないというなら、主の栄光など誰が賛じるんだ! ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!!」
 一度の「ハレルヤ」に一撃の拳が伴われ、源稚生もまたシーザーの拳を受け止めていると、シーザーは源稚生に強烈なヘッドバッドを叩きこんだ。頭を狙った攻防が双方に脳震盪を起こさせ、激しい痛みと眩暈を生み、二人の視界がぼやけ、傾斜した床の上でバランスを失い、酔っ払いのように互いの喉に腕を回す。ソ・シハンは隅に置かれていた消防箱から消火器を取り出し、シーザーと源稚生に向けて噴射した。全身が白い泡まみれになってもシーザーと源稚生は互いに手を放さず、ゴールデンアイを憤怒に燃やし、食いしばった歯から血が流れる。ソ・シハンはあの夜のシーザーの憤怒を思い出した。ガットゥーゾ家の憤怒はまさに伝説の如し、天罰とも思える恐ろしさだ。一度ガットゥーゾ家の憤怒に火が付けば、敵の全てが火刑に処されるまで止まる事はない。
 ソ・シハンは急いで神輿に巻かれていた紫縄を源稚生に巻き、シーザーの手首を掴んだ。「もうやめろ! 個人の感情を発散している場合じゃない!」
「うるさい! 邪魔だ!」シーザーは猛然と腕を振り、ソ・シハンを押し退けた。
 縛られた源稚生は腰の力だけでバウンドし、ソ・シハンの後頭部に飛び蹴りを食らわせた。ソ・シハンはまたも皇の力を見誤った。眩暈から回復するのにはほんの一瞬、源稚生は即座に戦闘能力を取り戻してしまった。
 シーザーが弓のように拳を引き絞り、全力の重撃を源稚生の小腹に打ち込んだ。彼はデザートイーグルを握り、源稚生に銃を向けたまま距離を取った。
 源稚生は壁画の上に打ち付けられ、壁に残っていた血を浴びた。シーザーはパンチの動作と共に銃を撃ち込み、七発の弾丸全てを源稚生の小腹に食らわせた。源稚生とシーザーは互いに見つめ、ゆっくりと頭を下げ、力なく血だまりの中に倒れた。
「シーザー!」ソ・シハンは驚愕した。
「叫ぶな、バカが。ちゃんとフリガ弾を使ったぞ」シーザーは足を引きずりながら後退した。弾倉が銃柄から落ちると、銃口からは白い煙がモクモクと上がった。
 ソ・シハンは急いで源稚生の傷口を確かめたが、確かに皮膚の表面を銃口炎で焼かれた火傷痕だけがあり、腹部には小さな傷しかなかった。フリガ麻酔弾が作った傷口に間違いない。
 その時、源稚生が突然目を開けた! ソ・シハンは驚き、源稚生の喉元に刀を突き付けたが、源稚生に攻撃する素振りはなかった。小さなパキパキという骨の音が聞こえ、ソ・シハンが源稚生の手首の骨を確かめてみると、骨格が緩んでいくのが分かった。一発でインド象をも昏倒させるフリガ麻酔弾を七連発しても皇は気を失わなかったが、彼の強悍な「龍骨状態」は解除された。
「俺が人を殺すと思ったのか?」シーザーは燃え盛る垂れ幕でシガーに火を付けた。シガーを吸っている場合でないのは山々だが、世界最強の混血種を遂に打ち破ったとなれば、祝わずにはいられなかった。
「真さんの事で自分を責めすぎだと思っただけだ」ソ・シハンは源稚生の瞳孔を確認し、彼の状態を判断しようとした。源稚生は冷ややかに彼を見つめ続け、命には全く別条がなさそうだ。
「こいつが本当に裏で手を引いていたと分かれば、俺は次こそ実弾を使うぞ」シーザーは冷ややかに言った。
 彼は源稚生の面前にしゃがみ込み、その目をまっすぐに見た。「こんな結果になるとは思わなかっただろう? 分かったか、血統は全てじゃない。蜘蛛の上の存在である皇が、人間に玉座から引き下ろされたんだ。なぁ、超混血種のミナモト・チセイ=サン?」
「お前、以前は生まれが人間の多少を決める、とか言っていただろう。その者が誰であるかはその者の身体に流れる血で決まる、だとか……」ソ・シハンが言った。
「中国には豚みたいな戦友がいるとか言っていた奴がいたが、まさか今実感するとはな……」シーザーは苦笑しながら壁画の下に座り込み、大口を開けて激しく呼吸した。
 源稚生の注意はシーザーには向いていなかった。地面がさらに傾き、執行局エリートの死体が壁画の後ろから転がっていく。源稚生は黙々とその青白い顔を見て、その目に一筋の哀しみを漂わせた。
 シーザーはシガーをたっぷりと吸った。彼の注意は源稚生の表情にあった。源稚生の、取り繕いの無い純粋な表情……龍血の流れる怪物に対して一切の信頼を置かなかったシーザーが、源稚生のこの表情を見て、怒りを和らげてしまった。
「こいつらの死は俺達とは何の関係もない。俺達が来たとき、既に床は血だらけだったんだ」シーザーは炎の中で巻き上がっていく壁画を見つめた。
「もうこの火は消すとかいうレベルじゃない。ここを離れるのが先だ」ソ・シハンが言った。「余震がいつまで続くかも分からない」
「封鎖を解け。後の話は、このクソ忌々しい場所から出てからだ」シーザーは源稚生の額に銃を向けた。
「封鎖を解く権限は私にはありません。システムの制御は政宗氏の手にあります。封鎖を解除するには彼の携帯電話を使うか、輝夜姫のサーバセンターに行かなければ」
 シーザーの目が輝いた。「輝夜姫のサーバセンター!? どこだ!!」
「そこには行けません。サーバセンターは24時間封鎖されており、内部の人は出られず、外部の人は入れない仕組みです。鍵とパスワードは政宗氏が持っています」
「お前、本当にオロチ八家の大族長なのか?」シーザーの怒りが再び燃え上がったが、その怒りは前のものとは少し異なり、壁を叩きたくなるようなもどかしい怒りのようだった。「ショーユでも日焼け止めでも売りに来たつもりなのか、お前は!?」
「そう言えるなら、そうなんでしょう」源稚生が答えた。
「ふざけているのか!?」シーザーは源稚生のネクタイを握り締めながら叫んだ。
「ここにいても焼け死ぬだけです。あなたの遊びも、私の遊びも、同じことでしょう。私は大族長に就任したばかりですから、あまり権限は多くありません。輝夜姫のサーバセンターにも行ったことが無いんです」
「じゃあここから出る方法は無いのか!? 早く言え! ここはもう長く持たないぞ! 百年一遇の超混血種が俺やソ・シハンなんかと一緒に死ぬのか!? お前に『イカンノイ』とやらはないのか!?」
 自分より遥かに優秀な血統を持つ人間がいると分かってしまったシーザーは、話し方もまるで違う、自暴自棄のチンピラのようだ……ソ・シハンはそう思わずにはいられなかった。
「エレベーターです」源稚生はそれだけ言った。
 シーザーとソ・シハンは互いに顔を見合わせ、源稚生をエレベーターシャフトまで引きずっていった。なるほど、源稚生が来た道が同時に逃げ道にもなる。普通の人間に高層ビルのエレベーターシャフトを上り下りすることなど出来ないが、彼らならば不可能ではない。
 ソ・シハンが中を覗いてみてみると、鋼鉄の骨組みが上下に貫通し、深々と幽々しい空間はまるで北京のニーベルゲンにも似て、底が見えない。
 源稚生の身体を掴んでいたシーザーは、手足を緩めた。「自分で行け。もし何か怪しいことをしたら……」シーザーは源稚生の目の前で弾倉を実弾に変えた。青銅色の金属弾頭の上には十字模様が刻まれている。
 水銀コアの純金破甲弾。カッセル学院装備部が龍族に対抗する為開発した特別弾頭であり、三世代目以下の龍類相手には致命的な武器となり得る。龍の鱗をも貫通し、龍骨に当たると十字模様に沿って分裂し、内部に龍類に対する毒となると言われる水銀を浸透させる。シーザーは既に源稚生の能力をある程度理解した。スピードもパワーも一級品、言霊だけは不明だが、その肉体強度は決して人類からかけ離れているわけではない。特に骨と骨の隙間を収縮させた「龍骨状態」が解除されさえすれば、源稚生の身体はシーザーやソ・シハンとあまり変わらず、水銀コアの純金破甲弾も一発で致命傷になりうるだろう。
 源稚生は時計を一瞥した。約束の時間から既に二分が過ぎていた。執行局の人間が壁画の間に突入することも無く、封鎖も解除されていない。橘政宗は時間に厳しい人間のはずだが、何かイレギュラーでも起こったのだろうか?
 彼はエレベーターシャフトの中を見下ろした。橘政宗は下のどこかの横梁の上で待っているはず。断裂した高圧線はまともな光にならず、エレベーターシャフトは漆黒一辺倒――しかしその時、古銅色の手が静かに暗闇から躍り出て、床に沿って手探りし、ソ・シハンの足首に伸びた。

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