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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第一章:嵐と潮の夜

運命というのは、足蹴にされる為に生み出される。
抗う力を持たぬ時は、勇気を携えて時を待つ。
『龍族Ⅲ』とは、そのような物語である。
――江南


  高い崖の上に、これまた高い黒い壁がそびえ立つ。落ち桜が壁を飛び越えて行き、黒い大海へと翻る。
 今夜の相模湾は風も波も静かだった。
 熱海とは伊豆半島の端にある海岸沿いの小さな街の名前であり、著名な温泉街でもある。江戸幕府の建立者・徳川家康が、大きな戦のあとに熱海を訪れて沐浴していたことでも知られている。
 黒い高壁は熱海一番の豪邸の外壁であり、江戸幕府中期に建てられたその名も「黒石屋敷」。かつてとある戦国将軍が船で熱海に向かった時、日の出と共に雲が切れて海が爛々と輝く中、まっすぐに相模湾に落ち込む黒く高い崖が比類なき岩石の太刀のごとく海と空を割っていたのを見た。その孤高凛冽の美を喜んだ将軍は、この崖の上に屋敷を立てる事にした。四面を海に囲まれ、刀のように切り立った絶壁は高壁と一体になり、屋敷は建てられた瞬間から熱海全体の見張り台となった。将軍は山に坐して海を眺め、部下たちは駿馬を駆って山道を行き来し、命令を四方八方へと伝えた。
 明治維新後、黒石屋敷は大商人に売却されて別荘となった。幕府将軍の禁地ではなくなったにしろ、その地形と場所はまさに熱海の持つ温泉別荘の「玉座」である。毎朝最初の太陽光が差し込むのは黒石屋敷の外壁であり、あらゆる岩石が日光を反射する。浮世に揉まれたこの建物はまさに鉄鎧兜の黒武士のごとく、爛々と光波立つ大海の上の頂きに立ち、この小さな町を見守っているのだ。

 小さな火のついた白い提灯を持った老人が壁の傍を歩いている。木村浩……黒岩屋敷の執事は三十年以上この仕事を務め上げ、この地の栄枯盛衰を目の当たりにしてきた。
 前の主人は有名な映画監督だった。毎週末ごとに酒やら花火やらイブニングドレスやらの豪華パーティを開催すれば、ヘリがVIPを直接空港まで迎えに行って崖の上まで送る。だがわずか数年もしないうちに監督の懐は寂しくなってしまい、パーティも続けられなくなってしまった。食うに困るほどではなかったが、黒石屋敷の維持費は顎が外れるような額だった。政府の保護を受けた文化財でもあり、補修に必要な石材は神戸山から、木材は北海道のものでなければならず、彫刻も日本の伝統手工業の匠人を呼んで元味を保たなければならない。十年も維持費を払えば、家自体の価格を超えてしまった。
 監督は断腸の思いで黒石屋敷を売りに出そうとしたが、興味を示した買い手もその凄まじい維持費を聞いた途端手を引き、結局販売代理店の不動産会社まで手を引いてしまった。不動産の担当者の言葉を借りれば、「今時こんな皇宮みたいなクソ高い建物で泡風呂したい奴なんかいるか!?」だった。為す術無くなった監督は、物は試しと黒石屋敷をeBay[1]に出品することにした。当時オンラインオークションはまだ目新しいもので、戦闘機やら戦車やらも含むあらゆるスペシャルグッズがeBay上で取引されていた。監督は海外の大金持ちか誰かでも引き取ってくれないかと期待したが、もはや売れなくても構わなかった。元より期待もしていなかった。

[1]eBayとは米国最大のオンラインオークションプラットフォームであり、中国のタオバオに相当する。タオバオが設立された時も、実際にebayの経験やビジネスモデルが利用された。

 出品から十五分後。監督の口座に7億6000万円の保証金が支払われ、「ENXI」という人物が黒石屋敷を購入した。驚いた監督は「ENXI」の取引記録を検索し、一体どこのビリオネアがeBayにそんな名前で出没しているのか探ろうとした。検索結果は鳥肌ものだった。黒石屋敷を除けば、ENXIがeBayで買っているのは綾波レイの抱き枕やら春麗の可動フィギュアやらなにやら、アニメやゲームのグッズばかりとろくな取引の履歴がなかった。
 言ってみればENXIはただのオタク、意味意図不明のクソオタクだ。
 それから15日後、スイス銀行から約束手形が監督に送られ、ENXIは全額を支払った。約束手形と共に、黒石屋敷を訪問する日付を記した小さな便箋も送られてきた。

 その日、木村は早起きして黒い着物を着て、屋敷の門の前まで使用人たちを連れて迎えに出た。彼も使用人も新しい主人が訪れるのを楽しみにしていたし、一体どんな人間なのかと想像を重ねていた。多国籍企業の会長? アラブの石油王? それとも……ブルネイの国王?
 車体延長改造されたレクサス車が曲りくねった山道を走り、遂に屋敷の前で止まった。制服と白手袋をはめた運転手が車から降り、後部ドアを丁重に開けると……二匹のシャム猫が飛び降り、使用人たちの間を走っていった。
「買い主はまだ通学中のため引っ越しの時間が取れないそうで、猫だけ家に送ってほしいとのことで……」運転手は木村と握手した。「申し訳ありませんが餌に関しては、トランクの方にキャットフードがあるそうで」
 木村はデブネコの背を眺めると、突然自身の人生の虚しさを感じるのだった。32歳で国際コンシェルジュ・ネットワーク組織の送る「ゴールドキー認定」を受け、世界中の著名人やビジネスマンに政治家に仕え、ハイソサエティの友人も数えきれない。執事中の執事だと自負していたそんな彼がこの日、猫の奴隷と化したのだ……彼の自慢のキャリアは新しい主人にとっては何の価値もなく、ただ猫に餌をやるだけの存在でしかなくなってしまった。
 シャム猫は二匹とも純血ではなさそうだった。純血ならもっと細く痩せて骨っぽいはずだが、この二匹は肉々しいデブデブだった。大概シャムとガーフィールドの交雑で出来たのだろう、ペットショップなら一万円にもならない雑種だ。
 運転手はデブ猫それぞれの習性が書かれた履歴書を持ってきた。飄々とした腹黒な姉とマヌケで弱虫な弟の双子。姉が玄関の前まで着いて優雅にしゃがんで足を舐めると、マヌケ弟はドアノブを掴もうとして飛び跳ね、その頭には「女王姉様への奉仕」の概念が刷り込まれているようだとわかる。玄関が開くと弟は縮こまって脇によけ、新たに征服したこの国へと――黒石屋敷は猫から見れば国のようなものだ――女王姉様の足が踏み入れられることに敬意を示して、その尻に元気に尻尾を振ってついていく。どうやら暖炉の周りが気に入ったらしく、弟は倉庫からティッシュ箱やら綿のマットやらを引っ張り出して巣作りを始めたが、高貴な姉はそんな肉体労働を下賤と蔑むかのように暖炉の上に寝そべって暖まり、せわしなく働く弟を時折ちらりと見やるだけだった。
「もっと素敵なキャットハウスを用意しましょうかね」木村が言った。
「要らないそうで。履歴書に書いてあるんですが、この子たちは自分で寝床を作りたがるそうで、野良猫から拾ってきたときもだいぶタフだったようで」運転手はすぐには立ち去らず、木村の誘いを受けて煎茶を啜っていた。
「キャットハウス自体はもうあということですか。一億ドル相当のキャットハウス、その名も黒石屋敷……」木村は苦笑した。「今度のご主人様はまったく奇想天外なお方のようだ。貴方はもうお会いになったのですか?」
「直接会えればどれだけ良かったことか。私なんて、猫を空港から黒石屋敷まで運ぶよう言われただけで。こんな奇妙な賓客は私も初めてで」運転手は言った。「見かけは野良猫ですが、日本まで自家用機で送られてきているようで、相当主人に愛されてるようで。ご主人が貴方に世話を任せたというのは、信頼されていると思ってもいいのではないでしょうか」
「『貴重品』を託されたという事ですか……」木村はため息をついた。「しかし私はご主人の顔を見たこともありませんし、人格も分かりません。我々のような仕事をする者が主人の事を何も知らないというのは……どうも頭の痛くなる状況です」
「ペットは飼い主に似る、と言いますよね。猫を観察すればご主人の性格も多少判るのでは?」
「……しかし、この二匹の猫は全然性格が違いますよ」木村は苦笑した。「腹黒暴力姉貴と腕白間抜け弟……」
「ご主人は精神分裂症かもしれませんね」運転手は小さな声で言った。「腹黒暴力でも腕白間抜けのどっちかだけでも、まともではない気がしますが」
 木村はどうしようもなく笑った。仮にも主人の事をこうも言うのは失礼極まりないと思えるが、運転手の言葉には心の底から同意したかった。

 それ以来、黒石屋敷には二匹の猫だけが住んでいた。執事が一人と掃除担当の家政婦が数人のほかは、古代建築専門の修復業者が定期的に東京から人を送り、やることと言えば住居の修理や古畳の交換、庭の古桜の刈り込みや猫の毛づくろいなどをするくらいである。運転手も同じように賃金を貰って働いてはいるが、主人の顔は見た事も無い。会社として主人と十年の契約を結んでいる彼には黒石屋敷の住居を受け持ち、主人の帰りまで完璧な状態に保つ責務があった。

 十年月日が過ぎ去って、前の主人がこの世を去っても、新たな主人は音沙汰もない。
 毎日の早朝と夕方、木村は海に面する温泉プールをいっぱいにする。主人は運転手に、常に家の温泉プールに入れるように、と頼んでいるらしいが、その古雅な温泉プールは十年間ずっと空のままだった。
 木村は一年ごとにみるみる老けて、翩々とした美形の壮年から死にかけの老人へと変わっていった。数年もしないうちに引退することも決めていた。元気があった時には、自身のキャリアの最期が毎年毎年空き家を守るだけという、ぼっち墓守のようなナンセンスなザマになるとは思いもしなかった。二匹の猫も多少太った以外は大して変わりない。当然猫も十歳以上年を重ねて、寿命が近づいているはずだったが、どう見てもそうとは思えなかった。毎年毛が生え変わってしばらくは子猫のごとく白くなるが、一か月後には徐々に黒くなって猫っぽくなる。姉は一日中弟を虐め、弟は家じゅうを駆けずり回った。
 十年経っても家は変わらず、猫も変わらない。毎晩、一度も現れたことのない主人を最高の状態で待っている。ただ執事だけが老いていく。木村はやがて、この屋敷はなにか魔法にでもかけられたのではないのかとも思えてきた。十年間ずっと眠り続け、運命の人が起こしてくれるのをただ待っているだけの存在……。


 狂風が空から吹き降り、桜花が四散すると、花壇は一瞬で色づいた雪に覆れたようになった。
 木村が見上げた先には、黒いヘリコプターが屋根の上を飛んでいた。この屋敷に興味津々な沿岸警備隊の若者が、公務でヘリを飛ばす際に低空で黒石屋敷の近くを飛ばすことはよくあることだった。温泉プールに入る女性はいないが、毎度花壇一杯に花を散らしていく。
「ご見物のお客さん!! もっと高く飛んでいただけませんか!? 庭を片付けるのにどれだけ時間がかかると思ってるんですか!!」木村は怒りながら手を振って叫んだ。
 ヘリコプターの風の音が消えて片時の後、花壇の奥からかすかな水の音が聞こえた。
 木村はまず凍り付き、そして頭から血の気が引いた……間違いない、誰かが温泉に浸かっている! 木村の厳格な管理の下で誰か別の使用人が主人用の温泉プールを使うはずもない。泥棒か何かだとしても、貴重品に真っ直ぐ向かわずわざわざ温泉に入ろうと思う奴はいない。あらゆる可能性を排除し、残る真実は一つ……主人が今ここにいる! ついに主人がご登場! 屋根の上を飛んでいるヘリは沿岸警備隊のものではなく、主人の専用機だったのだ! 主人が直接庭に降りて、今既に入浴中!
 木村は手足が震える程興奮した。十年待ちわびた結果が今訪れたのだ!
(落ち着け! 落ち着け! 慌てるな! 執事の品格を失うな!)彼は心の中で叫んだ。
 和服とスーツのどちらで迎えるべきか? 眠っている全使用人を叩き起こすか? ディナーの準備でもして歓迎すべきか? 木村は取り乱していた。もはや主人が実際に来るなど、夢にも思っていなかった事だった。
 しかし考えてみれば、家に帰って最初にすることが温泉に入るというのは、別段派手さを気にする人間ではないように思える。温泉はいわゆるリラクゼーションであり、大人数で付きまとうのは良いサービスとは言えない。だが使用人が誰一人出て行かないというのも不親切だろうと思えて、木村は足を引き締めて花壇へと向かった。
 温泉に続く廊下には先の尖ったハイヒールが一足、スカート、ストッキング、サングラス、レースの下着と続いて散らばっていた……木村は驚き、主人のイメージを180度ひっくり返すことになった。主人の服装趣味が倒錯的でもない限り、その正体は若い女でしかありえない。木村はすぐにその場を分析した。クリスチャン・ディオールのツーピースドレス、クリスチャン・ルブタンのレッドソール黒ハイヒール、ウォルフォードの黒ストッキング、ラ・ペルラの黒下着……相当に若い女性、歳は二十前後だろうか、身長は165から170センチ、体重はおよそ50キロ……それなりの服装ではあるが、木村の想像とは全然違っていた。勿論いずれも世界指折りのトップブランドであり、主人の身分にふさわしいと言えるが、逆に言えばオーソドックスすぎて、まるで若くて有能なウォール街の金融ウーマンといった感じだ。15分で豪邸を買ってそれを10年以上放置するような人間なら、どっかの金持ちのドラ娘か何かではないのか? ヒップホップスターのクソブランドや股下ウエストのパンツとか限定スニーカーや名前も知らないデザイナーズTシャツとか着た独断独行唯我独尊の鳥頭ではないのか? こんなフォーマルな堅いワンピースを着た女が、本当に狂人なのか?
 扉の取手には青銅の鍵が掛けられている。黒石屋敷の鍵はこの世に二本しかなく、そのうち一本は木村の腰にある。疑いえない事実が目の前にあった。十年遅れではあるが、主人が来たのだ。
「黒石屋敷の執事、木村浩です。お帰りなさいませ!」木村は扉の傍に立ち、大声で自己紹介した。
「こんなに遅くまで起きてるのって健気なのねぇ。卵はある? 温泉卵が食べたいわ」温泉の中の女が軽く笑いながら言った。
「今すぐお持ちします、少々お待ちを!」
 温泉卵は日本人の入浴エンターテインメントの一つだ。ネットバッグに入れた殻付きの卵を温泉に入れ、汗をかきながら熱した後、清酒のつまみにすると非常に奥ゆかしいのだ。
「久保田万寿と新鮮な卵をお持ちしました」木村は一分以内にトレイを持って戻ってきた。ゼーハーと息を切らしながらではあったが、口調は落ち着いていた。
「悪いけど、こっちに持ってきてくれない?」桜の木の枝の間から、曼妙修長な身体を伸ばす主人の姿が見えた。
 木村は主人の言葉に何も言わなかった。昔は彼の前で平然と裸で湯船に飛び込む女優もいたものだが、老人となった今では何の感触も覚えなくなってしまった。若い女の身体を見ることになろうと、何の感情も沸き上がらない。
 桜の林を抜けて、彼は遂に夢にまで見た姿を見た……奇妙な説明ではあるが、首は見せても尾は見せない神龍のような主人に、彼はまさに会いたいと思っていたのだった。

 女が一人温泉プールのサイドに座っていた。入浴しているわけではなく、脹脛までを湯に浸し、水を悠々と蹴っているだけだった。天から降りて来た女は美しく、曼妙修長な身体は真っ白なストッキングやバスローブがそのまま皮膚になっているかのようだ。木村は軽率に「セクシー」なんて言葉で表現するのも躊躇った。桜の木の下に座って海を眺めている彼女の長髪は風の中で浮き沈み、威厳をかき立てている。
「私は蘇恩曦……日本語でいうならス・オンギかしら? オンギって呼んでいいわ。私もあなたを木村さんって呼ぶから」女は木村に向かって頷いた。
 木村がヘブライ語やラテン語、フランス語で推測していた「ENXI」とは、中国語の名前のピンインだったのだ。
 主人の笑顔はかなり温和だったが、木村はさらに用心深かった。あまりにも多くの権力者に仕え、いわゆる上流社会を見てきた彼は、成金ブラフと本物の貴族を簡単に見定める事ができる。権力を握ったばかりの人間は常に傲慢であり、自分の権能をこの世に示したいと思うものである。だが経験を積めば感情的になることも減り、言葉少なにはなっても、発するあらゆる言葉が威厳に満ちるようになる。権力ピラミッドの頂上に立つ人々は権力を長く抱え込みすぎ、暴力や自意識、高揚も失ってまったく穏やかになり、怠惰ともいえるようになったりもする。最極端な例では「この世は全く退屈だ、一体自分はいつ死ねるのだ」なんて表情を常に浮かべていたりする。だが彼らを怒らせてはいけない。気分を害させた瞬間、その人間は死ぬ。
 だがス・オンギは相当若く、老いぼれ貴族の怠惰さの欠片も無い。見た目通りの年齢で貴族ファミリーから出てきたとしても、キャリアとしてはまだごくごく初期のはずだ。
「『潮』を見るために香港から来たんだけど、ちょっと予定が押して事前に連絡できなかったのよね」ス・オンギは言った。
「いつもお世話になっております」木村は小さくお辞儀した。「黒石屋敷は潮を見るには最適でしょうが、今夜は特に大潮は無いと思われます。もし潮があれば気象庁が赤い風旗を揚げるはずですから」
「来るわよ。あと五分で津波の先鋒が、この相模湾にね」ス・オンギは海と空の境目を眺めて、自信たっぷりに言った。「十五分前に日本海溝の底で火山が大噴火したの。タスカロラ海淵で海水の流れが起こって、今ちょうど熱海に向かって来ているわ。信じられないなら、水面を見て」
 ス・オンギは水を蹴るのを止めていたが、水面上には新しい波紋が現れ続けていた。温泉プールの傍の石灯に火が付き、光が水に反射して無数に砕ける。やがてプールの中心から水滴がひと泡、またひと泡と沸き上がり、ガラスのような水面に当たって砕け散った。石卓も震え始め、載っていた青磁の酒杯が震えて横滑りする。既に小規模な地震が熱海に発生していることに気付き、木村は顔色を変え、津波の知識を思い出した。津波とは一般的に、地震または海底火山の噴火によって引き起こされた衝撃波が海底に伝播し、大陸棚の端に達した際に形成する巨大な波のことだ。しかし岩石層中の衝撃波は海水中の衝撃波よりも速く伝播していくため、津波の前には小規模な地震が発生することがほとんどである。今、岩石層中の振動が熱海に到達しているのだ。
 警報が突然鳴り響き、防波堤のサーチライトが点滅し、光の柱が海面を滑る。警察が笛を持って浜辺に駆け付け、観光客たちを高い場所へと急き立てる。
 高崖の下の黒い岩礁には小さな朱紅色の鳥居がある。数分前には完全に水から出ていたその鳥居が、今や下半分が海面の下に沈んでいる。海面が急速に上昇し、白波が岩礁にぶつかって砕け散った。
 電話が鳴り響き、木村が数歩下がって電話に出た。
 数分後、彼はス・オンギの所へ戻ってきた。「沿岸警備隊からの連絡でした。津波は三分後に三浦半島の観音崎へ到達、それから数分後には熱海にも到達するそうです。黒石屋敷には影響はありませんので、ご安心ください。ですが黒石屋敷は最も海岸に近い建物ですので、異常があればすぐに知らせてほしいとのことです。オンギ様、今夜は波をご覧においでで?」
「考えるだけで楽しみだわ」ス・オンギは淡々と言った。

 空と海の境界線に現れた白銀のラインは、海面に薄く銀メッキをかけたかのようだ。空まで届くかのような大潮が、その先にうねる白波を滾らせている。
 激しくこだまする鐘の音は、山奥から熱海に祈りを捧げる仏教寺院の大鐘の音だ。
 潮の先鋒が近づくと、最初は見下ろしていただけの木村の目線も徐々に高くなっていき、海は目の前で巻きうねり、数百万トンの海水が巨大な壁となって押し寄せてきていた。木村の耳にはもう、自分の心臓の鼓動以外には聞こえなかった。
 黒い水壁が黒い岩礁へと激突し、巨大な壁が砕け散り、雷霆のごとき音が爆ぜた。
 鳥居がまるで赤いオリガミ船のように、白波の先端に高々と持ち上げられて破壊された。潮が高い崖にぶつかって空へ飛び散る白い水は、逆流する滝のようにも見え、空模様を一面暴雨へと変える。庭一面に散った桜のむこうで目に見えるのは白い水ばかり、耳に聞こえるのは暴風雨の音ばかり。
 木村は黙々と傘を開いてス・オンギの頭を覆った。黒石屋敷の執事には、目の前で大山が崩れようとも顔色一つ変えないだけの覚悟があった。木村は自分の役目を掃除するだけの召使いではなく、君主に仕える武士のようなものと理解していた。この雨あられが矢の嵐だったとしても、君主が退かぬ限り武士もまた半歩も退くことはない。
 君主は毅然と動かなかった。ス・オンギは傘の下に座って酒を飲みながら、わずかに温泉プールの水を漕ぐだけだった。
 下の街を見下ろせば、建物がマッチ箱のように海潮に浮かんでいる。丘に作られた防波堤に打ち寄せる荒々しい潮が、車やモーターボートや家屋を全てひっくるめて粉砕していく。想像を絶するような海と雨と天と風の前で、人類は自らの小ささを理解する。
「ねえ、よく聞いて。何か鳴き声のようなものが聞こえない?」突然ス・オンギが口を開いた。
 木村が少し意識を凝らすと、突然ひどい頭痛を感じた。潮風が嬰児の泣き声のような音を耳に響かせてきたのだ。何十、何百、何千万もの嬰児が潮の音の中で泣きわめき、鋼鉄の刀で鼓膜が引き裂かれるような、心まで破裂しそうな泣き声を聞いた。
 蛇のような稲妻が海面を打ち、潮の中に無数の群れを成す影を映した。長い尾を絡み合わせ、その体表の鱗はメタリックなブルーライトを輝かせている。潮の流れに合わせてある時は宙に放り出され、ある時は水中に押し込められ、そんな中で全身を捩って全力で潮に抗いつつ泳いでいる。謎の生物たちは絡み合って交尾する蛇の群れのようにも見えたが、嬰児のような鳴き声を発し、地獄の幽霊のエレジーコーラスのような叫び声を荒れ狂う海に響き渡らせている。木村は激しく震え、ほとんど傘の柄も持てなくなってしまった。
 ス・オンギは木村の手首を掴んで震えを止めた。「緊張しなくていいの。あれは幽霊じゃないわ。日本人が人魚って呼んでるものよ」彼女の声は変わらず穏やかだった。
「に……人魚?」木村は唖然とした。
 人魚と呼ばれる存在は、日本人なら誰でも聞いたことがある。日本神話で最も有名なもののけの一つだ。日本の人魚はヨーロッパの人魚とは全く違う。ヨーロッパの船員が語った人魚は美しい人魚であり、人間の上半身と長い尾を持つ下半身を持ち、セクシーな上半身を水面から露出させ、魅惑の歌声で船員を誘惑し、深海に引きずり込んで溺れさせるというものだ。一方で日本の人魚はセクシーな上半身など持ち合わせていない醜い外見で、膨らんだ眼や尖った嘴に鋭い歯、鶏のように赤くマッシブな胸部、蟒蛇のように細長い尾を持っているという。人魚の骨や脂肪は薬として有用で、身体は千年も朽ちず、切り裂いて土に埋めて千年後に掘り出しても新鮮なマグロと同等の鮮度を保つという。人魚の肉を食べた人間は不老不死を手に入れたり、怪物になったりする。
 古の天皇時代の二十九年、漁夫が日野川で人魚を捉えたという。また寛政十二年には大阪西堀近くで人魚の幼体が釣りあげられ、赤ん坊の泣き声に似た声を多くの人が聞いたと記されている。他には考古学者によって平安時代の古墳から人魚の形をしたミイラが、絹織物に包まれて墓の所有者の腕に抱かれた状態で発見されたりもした。種々の証拠は遥か昔の日本近海に人の身体と魚の尾を持つ種族がいた可能性を示しているが、大規模に陸地へ侵入したことはなかった。
 そして今夜、神話世界の生き物が突然人類の領土へと侵攻した。
「eBayの説明だと、黒石屋敷は熱海のランドマークであると同時にトクガワ幕府時代から熱海の平和を守り続けてきたサムライである、らしいけど」ス・オンギは木村に目を向けた。「そうなの? 木村さん」
 木村は一息深呼吸した。「そう言われております。黒石屋敷は一本の釘、陸に上がって暴れ回ろうとする龍を退治する釘。黒石屋敷は熱海の風水を鎮め、黒石屋敷が倒れぬ限り、熱海は吉祥幸運に恵まれるといいます」
「いい話ね。言い伝えはしっかり守らないと。今夜も黒石屋敷は倒れないし、熱海は何も起こらないわ」ス・オンギは微笑んで木村に一つ携帯電話を渡した。「今からこの街の命運は貴方に託されたわ。私が言ったボタンを押すのよ。間違えないでね」
 高い崖の側、風よけとなる場所の漁港に人魚の潮が入り込んだ。防波堤のサーチライトは全て消えて、海面はまったく漆黒になっている。熱海の住人たちは人魚の侵入に気付く事も無く、真実の傍観者はただ二人、崖の上のス・オンギと木村だけだった。
 巨大な波が船舷の上に人魚の群れを重々しく叩きつけると、人魚は鋭い爪を船体に食い込ませ、船舷の上に自身をしっかりと「釘付け」にした。前一波の潮が後退し次の一波が来るまでの間に、長い尾を捻って上へと登る。狂乱する第二波が天から降り注ぐと、船舷にたどり着けなかった新たな人魚は前の人魚の身体に張り付いて上へと登ろうとするが、足蹴にされた人魚は怒り狂って反撃する。暴力的生物は船ひとつ登る際にも互いに殺し合い、裂かれた手足を海に落とし続ける。幸運にも漁師たちはみな陸へと避難しており、漁港には人っ子一人いなかった。
 漁港の中心に「翔鯨丸」という赤いマストの帆船が停泊している。クジラ類の移動経路を探るため、船倉に数匹のシロイルカを飼っている科学調査船だ。シロイルカは自身の運命を予見しているかのように必死に飛び出そうとしているが、くすんだ青味がかった影が声もなく船内へ入り込んだかと思うと、船帆が大波に打たれて脱落し、船体も完全に波に覆われてしまった。激しい波に揉まれる白帆を見た木村は、風の中にかすかに混じるイルカたちの断末魔を聞き、その帆の下で今まさに行われている残酷な虐殺を想像したが、どんなにシロイルカが可愛くとも、あの残酷暴虐な人魚の前では木村はただのおやつの付け合わせにしかならない。白帆が赤く染まり、血が滔々と湧き出してくる。一番美味なシロイルカ狩りに遅れた人魚たちは、代わりに別の漁船の船体に襲い掛かった。漁船の船倉には、港に戻ってきたはいいものの荷揚げの間に合わなかった水産物、二から三メートル級のサメやマグロやカジキが満載されていた。だがこの大型魚類も人魚の群れの前では無力そのもので、人魚は背後から魚を抱きかかえ、鋭い爪を大魚の両側に突き刺し、血塗れの神経線を引き抜いていく。魚は死んではいないものの、ただ人魚にされるがままだった。人魚は三から五匹の群れで魚の後頭部の血管を噛み、新鮮な魚の血を吸っている。
 人魚の群れが生物を手当たり次第に襲う血の饗宴。防波堤を這いあがってくれば、次の宴は人の血で賄われることになる。
「はい、『1』を押して」ス・オンギが言った。
 木村が「1」のキーを押すと、漁港に目を刺すような爆発の火花が散った。十二隻以上の漁船が一斉に火の玉に変わり、蛇の形の影が炸裂する煙の中で爆散、あるいは真っ二つになって吹き飛んだ。漁船の中は爆薬だけでなく大量の硫黄も満載だったようで、硝煙の匂いが高い崖の上までにも流れてくる。打撃を受けた人魚の群れはごちそうを止めて振り返り、金色の瞳孔の中に冷血動物の凶毒を滾らせた。一匹の人魚が高い崖の上に黒石屋敷を見つけ、すぐさま嬰児の泣き声のような叫びを上げると、数百の人魚の頭が一斉に振り向き、その目を赤金色に煌かせた。その高い崖から誰かが見ていて、攻撃を仕掛けたと気づいたのだ。
 ス・オンギが突然温泉の中から身を起こし、崖の端に向かってゆっくりと歩くと、木村はその後ろに傘を持って一歩も離れず追随した。ス・オンギがタープを外すと、崖先にずらりと並べられた高さ半身はある花火が現れた。彼女は銀色のライターを木村に手渡し、無言で微笑んだ。
 木村はその意味を理解した。自分自身に繋がる導火線に火をつけるようなものだと悟りながらも、黒石屋敷の執事として、無条件で主人の命令に従うのが彼の義務だった。ライターに火をつけ、花火の芯に一つ一つ火をつけていく。防風機構を持つライターはこんな水浸しの強風の中でも元気よく藍色の炎柱を噴き出し続けてくれた。やがて火柱が天へと昇り、夜空に鮮やかな花火が咲いた。金色のダリアか、紫の滝か、あるいは明滅する白い光が炸裂してオリオン座やいて座のパターンを作り出したりする。ス・オンギは光の幕の中に艶かしく立ち、漁港に浮かぶ百は下らない赤金色の双眸を睨み返していた。
「これで良く見えるでしょう?」ス・オンギはにやりと笑った。
 人魚たちは鋭く叫び、剃刀のように鋭く密集した牙を剥き出し、水面に飛び込んで尾を伸ばし、埠頭を渡って崖へと這い進んだ。黒石屋敷を標的にしたらしい。
 増え続ける人魚が漁港に集中するのを見て、それらを全て一掃しようと、ス・オンギは自らを餌としたのだ。
 木村はス・オンギの背後に黙って立っていた。地獄のような光景に直面していても、心はなぜか落ち着いていた。もはやス・オンギしか信じられなくなった今、この謎の女は熱海全ての運命を握っている。木村は主人が想像していた通りの頭のおかしな御曹司でないことに感謝した。彼女は「運籌帷幄」という言葉そのもののように、全てを計算し尽くしているはずだ。クリスチャン・ディオールのツーピースを着てクリスチャン・ルブタンのレッドソール黒ハイヒールを履き、波乱万丈に在りて屹立不倒、繊細なる手腕で嵐をも呼び込む女!
「じゃあ、『2』をどうぞ」ス・オンギは淡々と言った。
「はい、オンギ様」木村は携帯の『2』キーを押した。正直なところ、彼はずっと次のキーを押したくて堪らなかった。神秘的なミス・オンギが持つ新たなキラーカードを見てみたくて堪らなかった。
 漁港の最深部で大船の汽笛が鳴った。艦橋のライトがポッポッと点いたが、キャビンの中には誰一人いなかった。設備が勝手に作動したのだ。それは一隻の戦艦――アメリカ海軍のオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート艦だった。船舷にはアメリカ第七艦隊の舷号とその名前「セントルイス」号が書かれている。セントルイスは白い霧を吹きながら錨を外してドックから出港したかと思うと、同時に辺り一面に火を噴き始めた。毎分4,500発の弾丸を発射するファランクス機関砲と76mm口径の速射対空砲が迫りくる人魚の群れに向けて致命的な火炎を噴き出し、崖まで響く轟音を響かせながら、一艘さらに一艘と漁船を纏わりついた人魚もろとも沈めていった。

 横須賀海軍基地では、当直室がめちゃくちゃだった。
「セントルイスに電話して! ヨコスカです! 答えて! 答えて!」当直中佐がマイクに向かって叫んだ。
 米海軍第七艦隊は、熱海からわずか80 km離れた横須賀海軍基地に駐屯しており、窓の外の港には「キティホーク」空母打撃群と強力な誘導ミサイル巡洋艦が係留されている。
「どうした? セントルイスは一体何をしている?」少将が指揮台に駆けつけた。
 哨戒中に突然津波警報を受けた第七艦隊のオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート艦は近くの熱海漁港に避難したのだが、この瞬間、コンピューターは停泊していたはずのオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート艦が出港していることを示していた。
 無線はずっと静かだった。フリゲート艦は漁船とは違い、津波が発生しても乗組員全員が船を離れることはできず、船長または一等航海士が乗船している必要がある。横須賀がセントルイスに無線を繋いでも応答がないとなると、まるで幽霊船にでもなったかのようである。
 中佐がブリッジの監視カメラのスイッチを入れ、横須賀からセントルイスのブリッジの様子を直接見られるようになった。ブリッジには誰もいなかったが、外で爆発があり、空気の波が押し寄せ、ガラスの破片が四方八方に放出されていた。空気の波が滴り落ちる肉と血をブリッジに投げ込み、壁にくっついてゆっくりと滑り落ちた。
「オーマイゴッド、何が起きている?」少将は唖然とした。
「ストック弾薬の読みから、何かと戦っているんでしょう。しかし誰もそれを運転していない……セントルイス、クレイジー!」中佐は言った。
「何か変な音が聞こえるか? 聞こえるだろう?」少将が突然言った。
「潮の音、爆発、そして……泣いている!」中佐は大声で言った、「クライング・ベイビーがいる!」
 彼が音量を上げると、その場にいた全員の耳に、非常に鋭くて薄い泣き声が響き渡った。地獄の幽霊が集まって歌ってもここまで鋭くは泣かないだろう。
「オーマイゴッド……」少将は胸に十字架を描いた。「あれはデーモンなのか?」

 人魚が翔鯨丸のマストの頂点まで這い上がり、セントルイスの甲板めがけて跳んだ。ファランクスシステムがすぐさま銃口を上げ、タングステン徹甲弾の金属滝で包み込み、人魚を空中に咲く一輪の血の花に変えた。次の瞬間、翔鯨丸もまた76mm速射砲によって砕け散った。
 何千もの死体が漁港で波打ち、荒れ狂う波がそれらを海へと連れ戻していく。いくつかの死体は潮の流れで崖の下へと押し込まれ、黒い岩礁の隙間に突き刺さり、暗い雲の間隙からこぼれる月光の中で、死んだ人魚たちの歪んだ背中に屹立する背骨がかすかにきらめいていた。
 幻想ではない。この世界に存在する、真の悪魔だ。木村は片手に木彫りのボサツ像を、もう片手にス・オンギの携帯を握りしめた。両手にあるのは生と死の力。この携帯さえあれば、熱海を救えるかもしれない。
 風はス・オンギの方に吹いていたが、その顔に喜びの色はなかった、海と雨と風に向かいながら、天と海の交わる場所をじっと見つめていた。
 潮の先に巨大な何かが浮かび上がった。深海採掘用のプラットフォームだろうか、外面に辛うじて見える赤い大文字で「須弥座」と三文字。水面下で揺れていたこの巨大人工物が、岸辺の大潮を被って遂に水の上に出てきたのだ。ぎっしりと詰まった青灰色の背中、鋼鉄の骨格その全てが人魚であり、百か千か、千か万かの群れを成して覆っている! 人類を乗せて津波を生き延びる方舟のようにプラットフォームに守られ、航海の終点が間近に迫っている。
 無数の蛇が巣から出て行くかのように、人魚たちが長い尾を引き抜き海へ入る。天地は嬰児の泣き声に満ち、悪鬼たちが牙を磨ぐ。
 ファランクスが砲撃を止め、対空砲が砲撃を止め、代わりに赤熱した銃身や砲身が海水に落ち、シューシューと言う音を立てる。武器が使用限界を超えて爆発したのだ。だがセントルイスは諦めることなくガスタービンを最大出力で稼働し、渦巻く白い煙を吐き出しながら、巨波に向かって寛大な突撃を始めた。「スタンダード」ミサイル、ジャミングロケット、Mk50魚雷、対艦武器「ハープーン」ミサイル、全ての武器が発射された……人魚を殺すには適さない武器ばかりだが、いわゆる決死の突撃というのは、手に石一つでもある限りは投げつけてやってみせることなのだ!
 セントルイスの船首が天へと続くかのような潮に差し掛かると、巨大な波の前にひっくり返ってしまい、人魚の群れが両舷から高速で泳いで来る。
「もう少しお金をかけなきゃ解決できないみたいね。『3』を押してちょうだい?」ス・オンギは木村に微笑んだ。
「はい、オンギ様!」木村は力強く『3』を押した。
 彼の想像力では、この人魚の群れを止める他の方法など思いつかなかった。人類史上最大の上陸戦と言えば恐らく第二次世界大戦の重要な戦役であるノルマンディー上陸作戦だろう。双方の投入した兵力は百万近いが、それぞれの海灘には大体一、二万人程度しか割り当てられなかったと言われており、連合軍兵二万五千人がドイツ軍重砲と機関銃の激しい掃射を受けながらも上陸したゴールド・ビーチですら、死傷者はわずか四百人にすぎない。だが今二人が直面しているのは数千に及ぶ人魚の群れ。サメを軽々殺害し、人間が十人がかりでも足りないような生物だ。その上熱海はまったく無防備な観光地でしかない。重砲や機関銃どころか、警察拳銃ですら百丁にも満たないだろう。これだけ考えれば希望は無いに等しい。更に十隻ほどオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート艦を追加しても、上陸は止められないだろう。
 それでもス・オンギは崖の上に優雅に立ち、木村に向かって可憐に微笑んだ……木村はその目に確信を見た。


 横須賀海軍基地の当直室の人々が窓の前に集まった。窓の外の軍の港で、艦隊が目覚めていた。
「タイコンデロガ」級の誘導ミサイル巡洋艦から「アーレイバーク」級の駆逐艦、さらには第七艦隊の旗艦である「ブルーリッジ」まで、すべての軍艦が沈黙状態から目覚め、艦橋が明るく照らされた。ガスタービンから兵器システムまで、プロジェクトごとにセルフチェックが行われ、兵器ロックが自動的に解除された。米海軍第七艦隊は常に戦闘準備状態だったが、誰も命令を出してなどいない。だが現に今、艦隊から噴き出した白い煙は軍港の空を覆い隠し、甲高いサイレンが次々と鳴った。
 第七艦隊が出港し、艦隊が港の外に並び、南東を向くようにその位置を調整し、何百ものトマホークミサイルが発射レールに滑り込んだ。
「トマホークミサイルズ、アンロックド。カウントダウンスタート」射撃統制システムがバーチャル女性音声で言った。
「少将、我々には何もできません。第七艦隊のコントロールはロストです。トマホークミサイルがオールでアタミをアタックしようとしています」中佐はコンソールを離れ、少将の後ろまで走ってきた。
電話が鳴り、二人の連絡将校がそれぞれ電話を持って少将の後ろに立った。
「ペンタゴンと日本首相からのお呼び出しかな?」少将は空を見上げてそっとため息をついた。「花火を見終わるまで待っておくれ。分かり切った他人の暴言を急いで聞く必要なんてないだろ? 私たちが何を言おうと、何をしようと、我々に結果は変えられないさ……オーマイゴッド、アメリカに栄光あれ……」
横須賀港の海が揺れ、真っ暗な空の下で炎が上がった。ミサイルの群れはホタルの洪水のように海面に群がって飛び、海はミサイルの尾の炎の燃えるような赤い色を反射していた。

 何百もの火の光が海に落ち、夜空に残された燃えるような赤い弧が美しい同心円を描いた。
 海が燃え上がり、相模湾の空が日光のように明るくなり、プラットフォームがゆっくりと燃える海に沈み、何千匹もの人魚を道連れにした。人魚の泣き声が空と海に響き渡ったが、それは悲しみではなく、血肉を食い尽くすまでに一歩及ばないところで地獄に送り返された不本意からだ。ス・オンギは木村からお茶を受け取り、一口飲んで、戦場を見下ろした。嵐の中、絹の浴衣は彼女の身体にピッタリと張り付いた。繊細優美、ただし動かざること山の如し。
「ゲームセットね」ス・オンギが呟いた。
 木村は恭しく頭を下げ、携帯電話をトレイに置いた。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢の如し、
 猛きも遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」
 ス・オンギは悠々と『平家物語』の冒頭詩を口ずさんだ。「かつて玉座に君臨した生物も、今となっては崖っぷちの狼ね」
「この世界の真実を知ってしまったあなたはもう、私達のチームの一人。あなたの輝かしいキャリアに懸けて、世界最高の執事の一人として、秘密を漏らすなんてありえないわよね?」ス・オンギは海を眺めている。
「当然です。清掃スタッフは全員私と一緒に屋内に留まっており、何も知りません」木村は頭を下げた。
「明日、BBQ味のポテトチップスを買ってきて頂戴ね」ス・オンギは振り返って軽快に微笑んだ。先の壮大な狩りなど、まるで関係ないかのように。
「かしこまりました。BBQ味でございますね」木村は恭しく言った。

 ス・オンギが崖の階段を降りようとしたとき、突然背後から鋭い叫び声が聞こえ、青灰色の爪が崖下から躍り出て彼女の足首を掴んだ。ス・オンギは顔色を一変させ、片手で手すりをつかみ、もう片方の手で太腿のホルスターから小ぶりの拳銃を抜いた。青灰色の影は巨大な蟒蛇の如く空中で踊る。その上半身の筋肉は引き締まり、まさに猛虎の如し! 攻撃の網をすり抜けてきた人魚だ。ス・オンギが須弥座に集中している間に、すり抜けてきた人魚が密かに崖を登ってきていたのだ。
 人魚がス・オンギに襲い掛かる。長い尾を彼女の柔い腰に巻き付け、その鋭い爪で喉を掴む。ス・オンギが引き金を引き、拳銃の七発の弾丸全てを人魚の顔に叩き込み、後方に仰け反らせた。だが七つの弾痕を残した顔はすぐにス・オンギの目の前へと戻った。弾痕から出血してはいるが、まったく効果が無いようだった。一見柔弱無骨な身体がス・オンギの目の前で揺れ、長い尾がゆっくりと締め上げられていくと、ス・オンギの骨は粉々になりそうな音を立てた。木村はそこで人魚の素顔を間近で見ることになった。ミイラのように乾き切った青白い肌は岩石のように硬く、屹立した骨格に包まれている。顔のパーツはどれも人間の倍以上の大きさで、赤金色の眼球はグロテスクに突き出し、大きく裂けた口は顎の端まで伸び、魚の腱のような糸でぎっちりと縫い合わされている。その瞬間、枯れた白い髪を揺らしながらゆっくりと口を開くと、魚の腱の糸が一本ずつ切れ、細長い歯が一本ずつ口から突出し、最終的には口全体が完全に開き、子牛程度なら飲み込めほどの大きさとなった! 人類には到底持ち得ないほど裂けた口だ。木村が知る限り、こんな芸当ができるのはヘビ類だけだ。ヘビ類の下顎の骨と頭蓋骨の間は靭帯だけで繋がっており、頭の数倍の大きさまで口を開くことができ、自分の体格を超える獲物まで飲み込めるという。
 ほんのすぐ目の前まで来るとその恐ろしさを実感できる。木村は魂が抜けたようになり、ただ震える事しかできなかった。崖下を見ればセントルイスの砲撃で黒い血と肉片と化した人魚の群れが見える。どうということはなさそうにも見えるが、近くまで寄ればその身長が五メートルに達する大物もあり、体重は成年男子の数倍、長い尾は力任せに叩きつけるだけでも鉄パイプを粉々に砕くことができる。数百キロ級のマグロが易々と鋭い爪に切り裂かれても無理はない。彼らの手にかかれば犀であろうとも簡単に虐殺されてしまうのだから!
 今この瞬間、ス・オンギは単身でそんなバケモノに対峙している。ス・オンギの装備は薄い浴衣と撃ち尽くした拳銃だけ。人魚がス・オンギを丸呑みにしようとしても、誰にも止められない。
「木村さん、『0』を押して頂戴」ス・オンギは人魚が開いた食道を眺めながら平然と言った。
 執事中の執事として、主人への忠誠が彼の恐怖を打ち破った。木村は飛び出してトレイを掴み、携帯電話を取り、『0』キーを強く押した。
 強い光が崖全体を下から上へと照らし、光の柱がス・オンギと人魚の両方を包み込んだ。崖の下方から鈍い銃声が響くと、人魚の頭部が突然爆裂し、黒い血漿がス・オンギの全身に飛び散った。
 断頭された蛇がそのまま人を絞め殺すように、人魚の筋肉は死の瞬間に全力で収縮し、長い尾がス・オンギの細い身体を完全に締め上げた。このままでは一瞬でス・オンギの脊髄は折られてしまうかもしれない。だが崖下から更に銃声が響き、人魚の脊柱にさらに多くの釘が穿たれる。音速の二倍はある速度の「釘」! 人魚の骨は異常に硬く、ス・オンギの拳銃ではびくともしなかったが、大口径狙撃銃の前ではセラミックのように割れてしまった。
 ス・オンギは無表情で自分の身体に纏わりついた死体を見ていた。弱々しく痙攣してビクビクと揺れ、遂には力が抜けて脱落し、百メートルの崖から落ちていった。
 人魚は黒い岩礁に落ち、さらに転がりながらも痙攣していた。黒い防水服を着た人々がどこからともなく現れて、現場を掃除していく。潮は大多数の死体を運んで行ったが、サンゴ礁の上で死んだ人魚はわずかに残り、頭の無い人魚もいた。黒服の人々が鋭い銛を使って死体を刺し、プラスチックのバケツに投げ入れた後、内容不明の化学薬品でその中を満たすと、すぐに濃い白い煙が湧きだした。しばらくすると人魚の死体は粘性の液体と化し、プラスチックバケツの中身は海に注がれた。
 ス・オンギはゆっくりと階段を降りながら、ティーカップをトレイに乗せた。木村は死神に出会ったかのように怖気づいた。ス・オンギが終始ティーカップを放していなかったことに気付いたのだ。
 彼女は黒石屋敷に到着する前に全てを準備していた。人魚が崖まで登ってくるのも計画に入れていたから、まったく恐れていなかったのだ。誤射など決してあり得ないと、部下の腕に絶対的な信頼も置いていた。木村は彼女について間違っていなかった。彼女は老練な権力者であると同時に、チェスプレイヤーのように洗練された手腕を持っていた。彼女が局面を作り出せば、もはや相手はその手の内にある。彼女の敵となった瞬間、人魚たちは既に死神の鎌に捉えられていた。
「沿岸警備隊が来る前に現場を片付けましょうか。目玉も尻尾もひとつ残らずね」ス・オンギは一言だけ電話を掛けた後、温泉プールまで行って血塗れになった身体を洗い流した。
 
 津波は終わった。白波は海へと退いていき、黒い岩礁の隙間は細かな白い飛沫に満ちていく。山頂の仏教寺院が再び鐘を鳴らし、災害を乗り越えた熱海にエールを送る。実際、津波自体の規模や破壊力はそれほど大きくなく、強固な防波堤もあって、死傷者は一人も出なかった。街中に避難した観光客は酒を飲みながらスリリングな邂逅を興奮気味に語るだろうが、この熱海で地獄の門が開きかけていたことには誰一人気付いていない。
 桜の花に覆われた砂利の小道に猫のニャーニャーと言う声が聞こえた。暖炉で寝ていたデブ猫たちが驚き興奮し、家の外に出てきたのだ。捕食性動物の猫は血の匂いに敏感なはずだが、二匹の猫は空気中に血の匂いを全く感じ取らず、代わりにス・オンギの傍まで来てクンクンと鼻を鳴らした。
「久々でしょうが、覚えていたみたいですね」木村が言った。
「私を覚えているの? 変な話だわ」ス・オンギは首を傾げて猫を見た。
 デブ猫も首を傾げてス・オンギを見て、「バカなのか?」といった顔をした。木村は状況がまったくわからず、ただ猫を送った運転手の言っていたことは正しかったのだと納得した。猫がおかしな猫なら、主人もおかしな主人だ。
「イエヤス?」ス・オンギは姉猫を指差し、また弟猫を指差して、「ノブナガ?」
「イエヤスでもノブナガでもないと思いますが」木村は怪訝そうに言った。「もしかして、名前を忘れました?」
 ス・オンギはキャットハウスとして黒石屋敷を買った。それだけでデブ猫への愛の程度は分かるというものだが、十年の間に名前も忘れてしまうなど、運籌帷幄、滴水不漏な策略家とは思えない。
「忘れたというか、そもそも覚えたこともないわよ」ス・オンギは笑った。「このおばかちゃん達は私のじゃなくて、ボスのなんだもの。黒石屋敷だって私が買おうとしたんじゃなくて、あのおかしな人がeBayで勝手にポチっただけなのよ」

 地面が再び震え、ス・オンギと木村の二人ともが驚いた。津波は去っていったが、地震がまだ続いていた。第二波だろうか? ス・オンギは相模湾に目を向けたが、海は穏やかなままだった。だが熱海の北西の真っ黒な夜空に、突如閃光のような塵柱が立ち上り、黒い塵柱の縁には鱗片のような炎がちらついていた。
「富士山の方です。地震のせいでしょうか、富士山が噴火したようです」木村が説明した。「あれは確かに火山ですが、三百年は噴火なんてしていなかったのに……」
「海溝の底の火山が噴火、陸上の火山も噴火……この国って煙突の上にでも立ってるのかしらね?」ス・オンギは夜空を見上げた。
 塵柱に閃光が纏わりつき、天空へ昇る火の流れが散逸していく。漆黒の雲の縁は燃えるように赤く、まるで天空に燃え盛る炭が敷き詰められたかのようで、今にも大地へ落ちてきそうだ。
「確かに日本の地盤は世界でも稀に見る不安定さで、いずれ太平洋に沈むと言われていますが……」木村は言った。
「せめて私の次のフライトまでは持ちこたえてほしいものね」ス・オンギは笑った。

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