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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第十四章:王の血祭

 レーニン号から流れ出る龍の血が、この都市を灌漑し、そしてこの都市を揺り動かして目覚める何かを養っている! シーザーチームの真の敵は胚ではなく、遥か昔に朽ちたはずの高天原――神話において神々が住み、昔日の神々が今こそ目覚め来たらんとしている、この場所そのものなのだ。
 古龍の血を捧げる祭祀とは一体何なのか? 龍血を啜って生まれるのは――悪魔なのか?

 進行度バーが眩いばかりに赤く光ると、画面の左側から右側まで急速に進み、胚の孵化率が一瞬で60%を超えたことを示した。EVAが復旧をかけて海底監視ソナーと本部がようやく通信を取り戻したと思えば、データが届いた瞬間孵化率が一気に引き上げられてしまったのだ。
「バカな! グリーンランドよりも孵化が早すぎる! ほとんど十倍……龍はもう出てきてしまったというのか! 安全索回収! 安全索を回収しろ!!」通信が中断されたと知ったシュナイダーは、無意識の内に地球の反対側にいる源稚生へ叫んだ。
 十一年前の恐ろしい記憶が再び彼を包む。それはまさに宿命である。どれだけ十分な注意を払っても、龍の影は常に彼の上に纏わりついていた。孵化率は既に90%を超え、心拍数は毎秒400拍にまで加速し、答える声もないままに、中央管制室は狂ったような心拍音に満たされていた。古龍の胚が今にも束縛を破ろうというのに、輝夜姫システムに接続することも叶わないシュナイダーは、ただ孵化率が跳ね上がっていくのを見ていることしかできなかった。98%……99%……100%……。
「終わった……何もかも終わりだ……孵化してしまった! もう誰にも止められない……!」シュナイダーは呻いた。
 グリーンランド氷海事件の悪夢が今、再び現実となった。扉が開き、胚は孵化し、深海で未知の生物に対峙した人類は、抗う事すら果たせず、ただ捕食されるのを待つばかりなのだ。
「いや、まだだ……!」マンシュタインが言った。
 その言葉通り、大スクリーンに表示されている胚の孵化率は未だに上昇し続けていた。120%……150%……190%……240%……
「どういうことだ!? 胚の孵化率が100%を超えるなど!?」
 シュナイダーの冷汗が潮のように湧き出てくる。「そうか……何かしらの生物が複数いて、その心拍信号が重なると、孵化率の上限はさらに上がる……。この計算方法の瑕疵を考えれば、100体の龍族が目覚めれば、上限は10000%になる。ということはまさか……!!」
 今や、胚の孵化率8400%を突破しようとしていた。

 溶岩の河に幾重もの波が折り重なる。緩慢に流れる粘性の強い溶岩流が、十数メートルの高さの波を作り出しては十秒ほどかけて形を崩し、数百トンの溶岩が河を逆流していく。溶岩の光がさらに広がり、廃墟の隅々までを照らる。廃墟の振動に伴って数百万は下らない有肺類が剥がれ落ちていき、それらが張り付いていた血肉色のベタベタとした表面が見えてくる。露わになった百メートル超のそれは、シーザー達が想像していた巨大砕氷船ではなく、名状しがたい異形の何かだった。半分は海底に沈み、半分は有肺類の群れに覆われ、地上で曝け出されたその表面はスパムのような色をしており、腱や筋肉のような構造体に覆われ、わずかにどくんどくんと蠢いていた。あの有肺類は口吻器でこの巨大な肉に齧りつき、ひたすらに啄みながら、ひたすらに交尾を繰り返し繁殖していたのだ。
「あわ、あわわわわわ……」ロ・メイヒは言葉も出なかった。「何なの……」
「これが胚なのか?」シーザーは唖然とするほかなかった。
 胚の時点で百メートルを超えるとなれば、この古龍が成体に達すれば数キロメートルは下らないのではないか……? 大雨のように落ちてくる有肺類が視界を遮り、ハッキリと見ることはできなかった。
「いや」ソ・シハンが呟いた。「レーニン号だ。海底をよく見ろ、高所から墜落した痕跡がある」
 その何かを中心として、廃墟の建築物が円を描くように反対側に倒壊していた。これはつまり何かが凄まじいスピードと質量を伴って海底に墜落し、衝撃波を引き起こしたという事だ。海底から露出している部分はおよそ八十メートル、幅は約二十五メートル、よく見れば砕氷船の形に見えなくもない。見た目がすっかり変わってしまっていて、一目見ただけでは沈没船などとは思えず、巨大生物か何かと思ってしまう。
「でも動いてるじゃん! 胚と何が違うの!? 砕氷船が孕んでるわけ!?」ロ・メイヒは目の前の一切にただ呆然としていた。
「胚が沈没船を取り込んだんだ。鋼鉄を自身の一部にしてしまったんだ!」ソ・シハンが言った。「よく見ろ。肉に覆われてない部分にも、鋼鉄の中を血管が通ってる跡がある」
「これが古龍の能力ってわけ? 砕氷船を取り込んで、船の怪獣に進化しちゃうの!?」ロ・メイヒが言った。
「違う……多分、胚はもう死んでいる」シーザーが呟いた。
「でもどう見ても動いてるじゃん! 血管なんてほらあんなドクドクって! 幼龍が船のどっかにいるってことじゃないの、ボス!」
「生命力はあるだろうが、孵化するのは無理だ。……誰かが殺して、犠牲に変えたんだ」シーザーは言った。「下を見ろ」
 ロ・メイヒとソ・シハンは下部観察窓に目を向けた。有肺類が無数に積み上がっているところで、レーニン号が海底に極太の血の流れを作っていた。レーニン号から都市全体に流れる血は、死した街を養う泉水のようにも見える。振動が更に激しくなり、海底が割れると、その黒い裂け目の間に黒い血漿が粘着質な糸を引いた。錬金術的には全くの初心者であるシーザーチームの三人の誰がどう見ても、明らかに黒魔術的な血生臭い錬金術の結果だった。レーニン号から流れ出る龍の血が、この都市を灌漑し、そしてこの都市を揺り動かして目覚める何かを養っている! シーザーチームの真の敵は胚ではなく、遥か昔に朽ちたはずの高天原――神話において神々が住み、昔日の神々が今こそ目覚め来たらんとしている、この場所そのものなのだ。
古龍の血を捧げる祭祀とは一体何なのか? 龍血を啜って生まれるのは――悪魔なのか?

「悲しいことね。いかに高位の王といっても、更に強大な王の前ではただの捧げものに過ぎないなんて」酒徳麻衣はトリエステ号の頂部に立ち、声無きため息をついた。
 彼女は言霊『冥照』を解放し、トリエステ号を離れ、レーニン号の残骸に向かって泳いだ。今となっては、肉に覆われた巨大船はもはや朽ち果て、名も知れぬ存在に血を吸い上げられているのみ。都市は目覚めるその瞬間に至るまで、狂ったように最高のジュースを飲み干していく。血管が萎びて、肉が割れ、ネバついた糖蜜のような血が海水に沈むと、緋色の血糸がトリエステ号の外殻にまとわりつく。トリエステ号から二百メートルも離れていないレーニン号の残骸まで、酒徳麻衣はカジキに匹敵する速度で泳いでいく。レーニン号の側面に辿り着くと、船体の全ての舷窓から肉赤色の謎の触手が伸び出ているのが見えた。まるで切られた人間の腕が飛び出ているようなグロさだ。シーザーの推測は正しかった。胎児の段階で脳部を失った龍は、今や龍の血を流すための生贄に過ぎず、しかしその血統のおかげで完全に死ぬこともなく、ただひたすら成長し続け、ひたすらにこの都市に血を送り込み、有肺類はその血を啜って龍族亜種となり、海洋生物もその有肺類を利用して進化したのだ。かつて高位にあった龍王も、今となっては栄養を提供する胎盤にすぎない。
 酒徳麻衣は舷窓に手を刺し入れ、その皮を突き破った。肉芽を根こそぎ斬り落とすと、舷窓からレーニン号の中に忍び込んだ。

 源稚生は須弥座の頂点に立ち、四方八方から伸びるサーチライトの光に照らされていた。風組のヘリコプター部隊、火組の海上巡視船部隊、林組の漁船部隊が、山組が配置されたプラットフォームを取り囲んでいる。ヘリはハッチを全開にし、全ての船首には黒服の若者が立ち並び、全員の視線が源稚生に投げかけられている。とめどない雨粒が光を乱反射し、黒いトレンチコートが風に舞うと、源稚生はまるで光の雨の中に立っているかのようだった。
「諸君!……」彼は辺りを見回した。声は海面のはるか遠くまで伝わり、六つのプラットフォームが彼の言葉を放送している。
「――頼む!」彼は深々と頭を下げた。
 本当ならもっと心打つ力強い言葉で宣誓でもするべきだったが、彼は突然言葉を失ってしまった。あらゆる重圧が圧し掛かっていたからだ。オロチ八家の歴史、神の埋葬された海底都市、猛鬼衆を滅ぼすという橘政宗の野心、全ての暴力を終わらせるという彼自身の理想……いまやその全てが彼の肩に掛かっていたが、ピンタゾウガメには重すぎた。彼はもう疲れ果てていた。功名心や熱血、あるいは権力の追求の結果とかではなく、ただ力のあるゾウガメだというだけで、彼は重い山を背負って前へと這っていかなければならなかった。ゾウガメはただこうして這う事だけしか知らなかった。身を反して背中の重荷を下ろすような選択肢は、なかった。
 今夜は流血の夜となる定めだ。ここにいる誰もが部外者ではない。今こそ始まるとき。日本海岸に血の海風を吹かす時。
「ハイ!」数千人が一斉に頭を下げた。
 船上の偽装が一斉に取り外され、三連速射砲、大口径対艦機銃や魚雷発射管が露わになった。漁船部隊が水中機雷網を螺旋形に展開し、水深100メートルに浮遊させて完全な防御網を形成する。本来は小型潜水艦を迎撃する為に設計されたものだが、今回の目標はそれよりもさらに危険な存在だ。オロチ八家旗下の重工企業は元より日本自衛隊から最新兵器の設計と建造を請け負っており、法的制裁を恐れることなくこれだけの武装をいつでもどこにでも揃える事ができるのだ。これらの武装の弾丸と砲弾の弾頭は液体水銀を含んだ特殊弾薬であり、目標に着弾した瞬間大量の水銀蒸気が噴き出すようになっている。魚雷弾頭には複雑な模様が描かれた錬金術弾頭が採用され、その爆発力は龍族の身体を砕くにも十分な威力を誇る。そして源稚生自身も重狙撃銃を持ち出していた。ヘリや船上の装備に比べれば狙撃銃の殺傷力は微々たるものだが、ここにいる全員がそれぞれの戦いをしている以上、須弥座の奥でこそこそと隠れていることなどはできなかった。
 桜が稚生の傍まで走ってきた。「極淵でマグニチュード3.2の小規模地震が起きました。神葬所が覚醒しているようです」
「やはり、我々の祖先は完全に死んだわけではなかった……」稚生は軽い口調で言った。「禁断の地から逃れて人の世に再臨しようなどと、今更思い立ったということか……」
「そんなことはさせません」桜が言った。「我が方の準備は万全ですし、絵梨衣さんがいますから」
「神葬所から海面まではまだ時間がある。君は少し休んでいてくれ。私は潜水チームと通信しなければ」
「EVAシステムは未だに輝夜姫システムを呼び出し続けてます。あらゆる手段を使って修復中を偽装してはいますが……シュナイダーもバカではありませんから、必ず何か手を打ってくるはずです」
「もう、どうでもいいことだ。今夜を以って、オロチ八家とシークレット・パーティーの同盟は終わりだ。奴らとトリエステ号の通信は一時間断ちさえすればいい」
「はい」
「……桜、桜井明という男を覚えているか?」稚生は振り返った。
 桜は少し驚いたが、すぐに無表情に戻り、少し頷いた。「ええ」
「もしも……もしもの話だ。私が奴をこの手で殺さずにいて……私があの場で命令したら、君は奴の首を刎ねられたのか?」稚生はマイルドセブンを一本吹かした。「奴は君を信用していた。それでも、君は奴を殺せたのか?」
「もちろん、できます」桜は即答した。
「それは、なぜだ?」
「あなたを信じているからです。武士であろうと忍者であろうと、頼り得る人間や信念がなければ、歩むべき道はなくなってしまう……」桜は言った。「あなたを信じること。それが私の道です」
 稚生は長らく沈黙した後、呟いた。「……ありがとう、桜。君は本当に聡明だ」彼は桜の頭にそっと触れようとして、すぐさま身を反して須弥座頂部の手すりに沿って歩き、波の沸き立つ海面を眺めた。

「もう状況がメチャクチャすぎるよ! 僕らじゃもう無理だよ、執行部からもっとベテランを派遣してもらおうよ!」ロ・メイヒが叫んだ。「廃墟の下に何がどれだけあるのかも分かんないし、武器らしい武器は硫黄爆弾一個だけって! 頭おかしいでしょ! どこに撃てばいいっていうのさ!」
「クソッ! こんな硫黄爆弾じゃ多勢に無勢だぞ!」シーザーはソナースクリーン上にびっしり広がる赤点を見た。
『こうなったら硫黄爆弾は無用です。唯一の解決手段は、核動力炉を爆発させること……』源稚生が言った。『ファミリーが大西洋を越えてシュナイダー教授と連絡を付け、尸守の解決手段を討議した結果、現時点唯一の方法は核爆発でターゲットを消し去ることという結論に――』
「簡単に言ってくれるな! 核爆発だと!? 装備部の任務じゃあるまいが! 核爆発なんか起こしたら俺達はどうなる!」シーザーは驚き唸った。
『退避の時間はあります。時間がありませんから、とりあえず聞いてください。核動力炉は通常の状態では爆発しません。爆発させるには、中性子密度の閾値を超えさせる……つまり、核動力炉を過熱させなければなりません』稚生は言った。『皆さんは核動力炉を起動し過熱させ、即刻浮上してください。こちらから安全索で海面まで引き上げれば、浮上時間は三十分まで短縮できます。核動力炉が爆発する頃には爆心地から四キロ以上離れていますから、生き延びる可能性は高まるはずです』
「核動力炉が爆発したら海底地震とか津波とか起こるんじゃないの?」ロ・メイヒが言った。「爆発はともかく、津波はどうなの? タンカーでも津波に巻き込まれたら沈むのに、潜水艇みたいな小さいのが逃げられるわけないじゃん?」
『少し過大評価しているようですね。そちらのような小型核動力では、海底で爆発しても水面には衝撃波すら届きませんよ』稚生は言った。『急いで! 私の言うとおりにしてください、核動力炉の制御回路は起爆回路としても機能します。それを作動させ、すぐさま上から投下すればいいんです。今しかありません、尸守どもが出て来てからでは遅い! 奴らは潜水艇よりも遥かに速い!』
「尸守? 尸守って何?」ロ・メイヒが言った。
「伝説の生き物だな。龍族の肉体は死後も何年か腐らずに残るから、龍族は錬金術で同類の死骸を使って都市の守護者にしたという。禁忌の技として、古代エジプトでも同じ技術でファラオや貴族の死体を不老不死にしようとしたらしいが、人間の場合死体は保存できても神経や筋肉の活動は保てず、本物のミイラを作るには失敗したそうだ」シーザーが言った。「ここが龍族の都市だというなら、地中には一定間隔で尸守が埋葬されているんだろう。胚の血が奴らを目覚めさせた……そうか、クソッ! 誰かが意図的にやったんだ! レーニン号を胚ごと突っ込んで、この古代都市を目覚めさせようとしたんだ!」
「なになになに何なのもう!」ロ・メイヒは目を瞠って呆然とした。「神様だか何だか知らないけどこんなプロット無茶苦茶すぎるよ! アドベンチャー映画だと思ったらいきなりSF映画チックになって、今度はゾンビ映画!? 主演やらされる側の気持ちくらい考えてよ! ゾンビ映画だってわかってたら潜水艇なんか乗らなかったし、EVAがいないにしても魚雷とか機関砲くらいはあってよかったよ!」
「文句を言っている時間はないぞ」ソ・シハンが言った。「源君が言った通り、尸守をどうにかしなければ逃げる機会もなくなる。これだけ目標が多いと硫黄爆弾は役に立たない。核爆発くらいの威力でなければ」
「この状況ならシュナイダー教授も同じ判断をするだろう、選択の余地が無いんだからな」シーザーが言った。「ソ・シハン、お前は核動力炉を起動しろ。俺は潜水艇を動かす。さっさとレーニン号の上に核動力炉を落として、浮上するぞ」
「ねえ僕は? 僕は何すればいいの?」ロ・メイヒは聞いた。
「お前は何もしなくていい。音声でも録音しておけ。俺やソ・シハンがミスったら、源君に遺書として残してもらえ」シーザーは両手を素早く操作パネルの上で跳ねさせている。
 源稚生の計画では、潜水艇は安全索で無理矢理海面まで引っ張り上げられ、八キロ浮上するのに三十分もかからないという。だが通常の浮上プロセスでは一時間半ほどかかることを考えれば、単純に上昇速度は三倍で、圧力も三倍速く変化することになり、潜水艇の外殻や配管バルブにとっては大きな試練となる。シーザーはこの伝説的機器の調整を行って、全てのシステムが最高の状態で動作できることを確認しているのだった。ソ・シハンは既に核動力炉の電気系統にアクセスして、核動力炉に全てのカドミウム棒を引き抜く指示を出していた。中性子を吸収するカドミウム棒が無ければ、反応炉内部の中性子密度は直線的に上昇する。電気系統がすぐさまアラートを発し、核動力炉が正常に動作していないことを示したが、ソ・シハンが求めているのはその過熱なのだ。
「シーザー、パスワードだ! パスワードを教えろ!」ソ・シハンが大声で言った。
「パスワードなんかいらん! 強動力源を起動する時には必要だろうが、核動力炉の安全装置なんかぶっ壊せばいいだろ! わざわざパスワードを使ってぶっ壊す奴なんかいるか?」シーザーは言った。「そもそもさっきパスワード入力を何度も間違えたんだ。今も正しいパスワードは思い出せない」
「自分で決めたパスワードだろ? 何故忘れるんだ?」
「パスワードを決めた時、俺はかなり酔ってたんだ。ノノの誕生日をパスワードに使ったのは覚えてるんだが、どうも違うらしい……年月日の順だったか、日月年の順だったか……」
「そんな分かりやすいパスワードでいいのか?」
「どうせ強動力源のパスワードなんかただの確認だろうが。トリエステ号の強動力源を弄りに忍び込む奴なんかいないだろ? オロチ八家の奴らが朝昼晩まで守ってるんだぞ」
「……よし、できたぞ。パスワード手順はスキップした。核動力炉は過熱を始めた、いつでも投げられる」ソ・シハンはカドミウム棒をロック状態に設定した。
「よしよし、出発準備完了だ!」シーザーが弱動力源の出力を最大にすると、リチウム電池パックが最大電力でスクリューにエネルギーを供給し、全ての気密キャビンが海水を排出した。潜水艇が上昇し始めるも、海底の潜流に引っかかり、シーザーは機器を安定させようとする。パイプ内に気体が高速で流れ、風が噴き出て笛のような音が鳴った。ロ・メイヒとソ・シハンは席に座り、死に装束の一部になるかもしれないシートベルトを取り付けた。

「ノノ、これは俺の人生初の遺書だ。三十分後には削除されるだろうが、君がこの録音を聞いているなら、俺に不幸があったという事だ」シーザーが低く沈んだ声で言った。
 ロ・メイヒはぎょっとして、シーザーが通信チャネルを通じて遺書を録音していることに気付いた。
「プロポーズした癖に、家に連れて行って家族に会わせたこともない。それは誠実じゃないと君は言うかもしれない。だが、俺の家族は愚か者の集まりなんだ。出来れば、これからも君に会って欲しくない。君の家族も愚か者だと聞いて、会いたいと思うことは確かになかった。だがもし君が会わせてくれるなら、俺は喜んで懇意にするつもりだ。中国人の婿と同じように、中国文化について話し合うことだってできるし、漢服を着てハムとか卵とか色んな食材の礼物を用意することもできる。それがどんなに馬鹿げているとしてもな」
「実を言えば、マリッジ・ブルーというのが俺にもある。女は結婚すると変わる、結婚式が終われば一夜でロリからババアに変わるとか、同級生もよく言っている。だが俺の心の中では君は生まれながらのお嬢様だ。ロリではないにしても、ババアになることはないと思っている。まあ、怖くないと言えば噓になるがな。さらに言えば、俺が人生で好きになった女の子は君だけじゃない。それこそ嘘なんだ。高校時代、俺は一人の女の子を好きになった。今の英国王室の第三位継承者で、君に比べればなんてことない人だが、それでも俺の不安は彼女に原因があるんだ。彼女と付き合っていた俺はある日、彼女の全てを知っていることに気付いてしまったんだ。食事中に彼女の口元を見つめて、次に何を言うか一言一句当ててしまった時、俺は彼女に飽きてしまったのだと悟った。上流社会で育った彼女がどういう宝石を好むのかもわかる。オックスフォードのレストラン街に行ったってどうせビールとアンガス牛ハンバーガー店を選ぶこともわかっていたし、俺との食事中にトイレに立った彼女は十中八九執事に電話して送金させていて、そうして口座に入る金は根こそぎ使いこまれることもわかっていた」
 トリエステ号が海流にもまれ、スクリューがガタガタと音を立てたが、ロ・メイヒの注意はシーザーの口述遺書に引かれて離れなかった。
「まあ、口座の金を根こそぎ使うのは君も同じなんだが、俺は別にそれを変だと思ったわけじゃない。むしろ俺に金を借りに来たり、アパートの部屋を安く借りたいとか頼んだりしてくるのを期待してもいた。だが君は俺に何も求めなかった。毎月の家族の仕送りが来るまで、喜んで毎日安いカンヅメを食っているのが君だった。君と一緒に街を歩いても、どのレストランを選ぶのか分からない。どれだけ考えても、君は俺の想像の上を行く。俺にしてみれば君の行いには全て意味があり、君を完全に理解できたことは無い。君の一挙一動が全て面白いんだ。そうだ、ノノ、君は俺の生涯におけるもっとも高みの挑戦さ。俺は君の全てを知らない。君は魔女だ。無数の可能性を持ち合わせている。俺の不安はここにある。君は結婚した後、俺に隠し事を何もしなくなってしまうのではないか、俺が君のことを、あの女の子のように全て知ってしまうのではないか、それが心配なんだ」
「この不安を克服したくて色々考えたし、精神科医にも相談した。精神科医が結婚生活の先輩として言うには、夫はいずれ必ず妻に飽きるものだ、離婚の決め手はただ一つ、愛ではなく忍耐なのだ、という。だが俺は君に飽きたくない。出会った時から、君は光のように素晴らしい存在だった。俺が一緒にいてその光が暗くなるというなら、それは光に対する辱めだ。……こんな不安はあるが、俺は君と結婚式がしたい。事前に言えなかったのは、君と連絡がつかなかったからだ。俺の不安や迷いを知ってなお『I do』と言ってくれるのなら、君と一年がかりで世界一周の結婚式をしたい。……君に面と向かってこんなことは言えない。でも君がもしこの録音を聞いているなら、俺はもう死んでいる……ハハ、パラドックスだな、これは……」
「中国人に『冥婚』っていう習俗があるのは知っているが、君にはそんなつまらないことをしてほしくない。もちろん、君はそんなことしないだろうけどな。だからこそ俺の好きな女性なんだ。でも、俺はもう君とのウェディングドレスも買ってしまったし、他にも色々お金を使ってしまった。だから、俺の代わりに世界を楽しんでくれ。気が向いたなら、赤い漢服でも出して、フィジーの小島で夕日を見る時にでも洗濯ロープで風に舞わせて、俺と君で一緒に見る夕日でも想像してくれればいい。もしこの世界に魂があるなら、それだけで俺は恐怖も何も乗り越えて喜びに満ちていられる。俺の一番素晴らしい時を、君の記憶に残しておくよ。君を疎ましく思うことなど、永遠に無いだろう……。君を心から愛しているよ。日本の深海から。シーザー・ガットゥーゾ」
 トリエステ号がついに潜流を脱して上昇水流に乗り、歓声を上げる鳥のように舞い上がった。
「そういえばお前、前に個人的に本を書いたと聞いたが、宣言通り『ニューヨークタイムス』のベストセラーリストには載ったのか?」
「『コード:ドラゴンブラッド』はまだリスト三位だが。この任務が終わったらシリーズの三本目を出すつもりだ。生き残ればの話だがな……」シーザーは言った。「人の遺書を盗み聞きして勝手に退屈するなんていい趣味じゃないな」
「悪い趣味だというのは分かっている。ただお前の中国語文法が随分上手だと思っただけだ。所々の語彙は変だが」
「中国人の女の子に恋をして、中国語を学ばない男がどこにいる? ……ところでソ・シハン、お前は録音しないのか? それとも中国では遺書を残したら不幸になるとか言われているのか?」
「俺はもう録音した。公開チャネルでやらなかったから、お前には聞こえなかっただろうが」ソ・シハンは言った。「短いからな。聞きたければ聞け」
 彼は再生ボタンを押した。『父さん、この録音を聞いている時には、俺はもうこの世にはいないだろう。俺の死因は追求しないでくれ。結果があったかどうかは問題じゃない。誰に言われたことでもなく、俺自身の選択の結果なんだ。悲しませないように……母さんを頼む。母さんと父さんが、俺のために二人目を作らないと決めているのは知っている。だが父さんの年ならまだ子供は育てられるはずだ。一人でも子供が生きていれば、母さんも幸せだろう。今まで育ててくれてありがとう。父さんが俺のことを誇りに思ってくれていることも……』
「お前の遺書、母親じゃなくて継父宛てなのか?」シーザーが言った。
「母さんに言いたいことは特にない。血統が無いから、俺が何をしているのかも知らないだろう。余計な事を言っても悲しみをぶり返させるだけだ」ソ・シハンは言った。「俺の継父は理性的な人だから、なんとかして母さんともう一人子供を育ててくれるだろう。そうすれば誰も寂しくない」
「誰かが自分の代わりになって幸せな三人家族をやってるなんて、想像して悲しくならないの?」ロ・メイヒは心にじわりと広がる酸っぱさを感じた。
「人は誰の代わりにもならない。悲しい事なんて無い」ソ・シハンは淡々と言った。「ロ・メイヒ、お前は録音しないのか?」
「残そうとは思ったけど……誰に残そうとかは考えてなかった……」ロ・メイヒは頭をポリポリと掻いた。

 源稚生はタバコを咥えながら手すりにもたれかかり、ただ黙々と、海底深くの会話を聞いていた。

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