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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第五章:荊の中の少年

 数十年の時を経て、尊敬を集める領袖へ成長し、あの暗黒の若し過ちなど永遠に葬り去ったと思っていたが、あの男の存在はその記憶を掘り起こす――ヒルベルト・フォン・アンジェ。何年も経った今思い返せば、真の少年時代なるものはアンジェの中に取り残されているのかもしれない……犬山賀には己の奥底にしまいこんでいた記憶が幾つかあって、暴君たるアンジェを倒さなければならぬと感じていたのも、それ故であった。


 柳生十兵衛が跳び上がり、空中で機敏に中刀の防御を行う。覇王丸はそれを直立防御し、着地した柳生十兵衛は即座に「八相発破」を繰り出した。
攻撃態勢は既に空中で取り終えており、着地直後に刀から光が放たれ、攻防一体の濃密な斬撃の壁を前方に形成した。これでは覇王丸が柳生十兵衛の着地の隙をついて攻撃を加えようとしても斬撃の壁に突入してしまい、防御をしたところで「八相発破」で少しずつ血を流すことになってしまう。柳生十兵衛のジャンプにはそれだけの強みがあった。
 だが覇王丸は重刀で斬ることも防御する事もなく、突然その場で回転した。
「天覇封神斬!」覇王丸が沈雄に吼えると、旋回する長刀から弧状の刀光が放たれた。
 秘奥義・天覇封神斬――
 覇王丸が八相発破の刃光の中に入り込む。天覇封神斬の初撃は無敵で、斬撃の壁はその侵入を完全に止めることができない。長刀が柳生十兵衛の下顎から上へと斬りつけられ、覇王丸が独楽のように回転し、鋭い刀の弧が柳生十兵衛を斬り倒した。
覇王丸の怒りが溜まり、刀の一振りごとの衝撃が更に高まり、柳生十兵衛は血を流しながら一歩一歩押し切られていく。縁まで追い詰められる前に彼の血は殆ど消耗され、覇王丸が光を纏った刀を宙に振り上げると、柳生十兵衛の胸が斬り裂かれ、花のような血が飛び散った。

 画面上に巨大な文字が現れた。「一本!」
 覇王丸が柳生十兵衛に勝利し、上杉絵梨衣が源稚生に勝利した。


 源稚生はコントローラーを置き、絵梨衣の頭を撫でた。「絵梨衣、兄さんの動きを予測したのかい? だから天覇封神斬の隙を待っていたんだね? すごいぞ、今回は絵梨衣の完全勝利だ」

『オサムライ・スピリットⅡ』はレトロゲームに入る部類だが、稚生と絵梨衣が最もよく遊ぶゲームの一つだ。古いゲーム故にそこまで華美な演出効果があるものではないが、コンボや攻防などが面白い硬派な格闘ゲームである。絵梨衣が今までこのゲームで稚生を倒すことは一度もなかったが、今日は彼女の「天覇封神斬」が完璧なタイミングで決まり、一発逆転を果たした。彼女の眼力なら、ゲームセンターに赴き一夜にして女王になることすらできるだろう。
 絵梨衣は無表情に画面を見つめながら、コントローラーをガチャガチャ動かしている。彼女の瞳孔が、画面の光を映しながらきらきらと輝く。
「嬉しくないのかい? 今日の兄さんにはハンデもない。絵梨衣が自分の力で勝ったんだぞ」稚生は言った。
 絵梨衣は昔からずっと悲しみも喜びも顔に出さない。稚生とゲームをするのは好きな事の一つだが、その途中でも一糸の笑みも浮かべない。だが長い間一緒にいる稚生は、彼女の目を観察することでその気分の変化を感じ取る事ができた。嬉しいことがあった時の絵梨衣は目が少しだけ生き生きとして、幼馴染の少女のようになる。彼女の目は滑らかな鏡のように、外界の光を反射して変化していく。絵梨衣は多くの人から人形として例えられる。完美無欠だが精気欠乏、中でもその目は最高の瑠璃にも思えるが、その彼女の目を長らく見つめていると、たいていの人は恐怖を覚えてしまう。

[お兄ちゃん、集中して] 絵梨衣が画面上に文字を入力した。
 稚生は唸った。
 絵梨衣が何事にも敏感であるとは知っていた。だからこそゲームその他の小事も含めて、絵梨衣に嘘をついたことは一度も無かった。絵梨衣との対戦でも常に稚生は全力を出し、機嫌を取るために手加減の類をしたことも殆どない。絵梨衣は稚生の戦術もよく知っていて、手を抜けばすぐ見破られるからだ。今夜も手加減などする気は無かったが、心ここにあらずといった感じで注意散漫になり、低レベルなミスを連発してしまった。実際、柳生十兵衛がもう少し後ろに跳んでいれば天覇封神斬を防ぐこともできたし、覇王丸の着地硬直中に重刀一発で気絶させ、「絶水月刀」でゲームセットできたはずだった。順当にいけば、勝つのは稚生だったのだ。
 絵梨衣は稚生の心神不安まで察知して、試すつもりで天覇封神斬を放った。稚生の心神不安に付け込んで得た勝利では、絵梨衣に達成感はなかった。
「ああ。少し心の整理ができていないのかもしれない。でも大丈夫だ。数日もすれば、兄さんも事を片付けて、一緒に全力で遊べるようになるさ」稚生は絵梨衣の頭を撫でると、立ち上がって外に出た。

 良くも悪くも、稚生は自身の事を説明したり正当化したりするのが苦手であり、だからこそ絵梨衣が特別懐いていたりもしているのだ。絵梨衣は生まれつき言葉を発せず、専ら「会話」は筆談に頼っているが、彼女が稚生と出会って三日後に残した文字は「お兄ちゃんはぐーたら」だった。それを見た橘政宗は大笑いして、絵梨衣の最高の褒め言葉だ、お前を相当気に入ったようだぞ、と評価した。稚生はその時眉をひそめて、ぐうたらがそんなに良いのか? と返したのだった。
 
 橘政宗が部屋の外で待っていた。
「当主が全員待っているぞ。お前が来なければ会議も始まらん」政宗が言った。
「何かあったのですか?」
「先ほど確認したことなのだが、ミスター・アンジェがユナイテッド航空UA881便、シカゴから東京行きの飛行機に乗っているらしい。学院の報復があるとは思ったが、まさか校長が来るとは思わなんだ」
 稚生は驚いた。「事実なので?」
「間違いないだろう。半時間前、彼のツゥィッターのアカウントに投稿が確認された。自分で自分の身を明かしたわけだ」
「まさに宣戦布告ということですか」
「ヒルベルト・フォン・アンジェという男は、そういう事をする」
「……折角来たのですから、顔くらいは見せたらどうです?」稚生は言った。「絵梨衣はまだゲームをしていますよ」
「今日見ぬだけで絵梨衣に忘れられるわけでもあるまい。会議の方が重要だ、当主共を長く待たせるでないぞ」政宗は言った。
 稚生が障子戸を軽くたたくと、絵梨衣も内側から障子戸を軽くたたいた。これが二人の「バイバイ」だった。部屋が暗くなり、大音量の音楽が止まり、絵梨衣がゲーム機の電源を切ったことが分かる。しばらくした後、絵梨衣は蝋燭に火をつけたらしい。蝋燭の火は彼女の身体の影を障子の上に映し出し、巫女服を脱ぎ捨てた彼女の曼妙修長な姿が露わになる。稚生も政宗も驚くことはなく、目をやる事もなくその場を後にした。ゲーム以外に絵梨衣が好きなのはお風呂に入ることであり、稚生と一緒にゲームができないとわかるや否や、さっさとお風呂に入ろうとしているのだ。
 稚生は少し足を止めると、障子戸を軽くたたいた。「絵梨衣、この用事が終わったら、兄さんと東京に遊びに行こうな」
 すると、一枚の折りたたまれたメモが戸の隙間から出てきた。メモには太いペンでこう書かれていた。
[大丈夫、お兄ちゃんの言うとおりにするから]……


 稚生と政宗は直通エレベーターで会議場まで運ばれた。机の上には宝刀、甲冑、仏像が陳列され、仏像前の香炉は青い煙で満たされている。風間小太郎、竜馬弦一郎、宮本志雄、桜井七海、犬山賀、五人の当主が机の傍に座り、源稚生が入ってきたのを見ると、全員同時にお辞儀をした。
 源稚生が首座に座り、その隣に橘政宗が座る。彼らの位置は数日前に逆転した。橘政宗が突然大族長の座の辞任を発表し、後継者に源稚生を推したのだ。
 歴史上においても、「辞任」した大族長など殆どいない。オロチ八家の大族長と言えばいわば日本極道の皇帝、そんな立場に就いた者が自ら権力を放棄するようなことはなく、普通は死ぬまでその立場に留まり、世襲される、いわば天皇のようなものである。皇帝が生前にその座を降りるのは「辞任」ではなく「譲位」あるいは「退位」と呼ばれ、普通は権力を握った朝廷の役人によって帝が追放されることで行われる。だが橘政宗は誰に言われることも無く、稚生が一人で酒を飲んでいる間に彼を勝手に次期大族長に推した。秘密の酒蔵にカラスが飛び込んできた時には既に七割以上の人間がその生前退位を支持していたという。桜は無表情に「当然でしょう」と言うだけで「即位の礼」の為に燕尾服まで用意してくるし、夜叉なぞは「俺にもくれ! 俺にも! 偉丈夫な俺が後ろに居れば、迫力ゼッタイ間違いなしだぜ!」などと言う始末。
 午後になってようやく酔いが醒めた稚生は、自分が既に暫定的な大族長になっていることを知り、その後就任式を行って正式な大族長となった。
「アンジェはもう空の上だ。十三時間もあれば東京に着く」犬山賀は自身の携帯電話を稚生に見せた。「ツゥィッターの投稿どころか、私にはディレクトメールまで送ってきたのです」
 稚生は携帯を手に取り、画面を見た。『アガチャン、私は今ユナイテッド航空UA881便で東京に向かっておる。予定到着時間は16時20分だ。オロチ八家の各当主に、私が来ることを伝えたまえ』
「アガチャン? あなたの事ですか? まるで赤ちゃんとでも……」稚生は少し眉をひそめた。
「奴はそういう事をする男です。我々など眼中にないという事ですな」犬山が言った。
「わざわざ便名と到着時刻を我らに知らせて、迎えに来いとでも?」桜井七海が言った。
「例え大々的に見せつけようと、日本は最早奴が跋渉できる所ではない!」風間小太郎が冷ややかに言った。「こんなやり方で我々を脅そうとしているのか? 馬鹿にするにも程がある!」
「単なる示威などしない。奴はそういう男だ」犬山が言った。
「ほう? なら、どういう男なのだ?」風間小太郎は眉を上げた。
「傲慢尊大な男だ。風間氏、失礼ながらあなたはアンジェという男を理解していない。あの傲慢の源を知れば、奴が何故身を隠すことを好まないかも理解できよう。まず、奴は獅子心会の創立者の一人だ。仲間にはマネック・カッセル、ロ・サンゲン、『酋長』ブレンダン、『猛虎』ガマル……奴の師匠は『墓掘り』ジャンベッテ、『銀翼』シャルに『鉄十字』マエク……」犬山は輝かしきシークレット・パーティの歴史に残る名前を列挙した。「カッセル学院が建てられて以来、奴はずっと校長を務めている。教育委員会が奴に代わる者を見つけられていないのだ。シークレット・パーティの時代から学院の時代まで生き続ける最後の一人でもある。今でも輝かしいその栄光の故、奴が身を隠すなどありえんよ」
 その場の全員が唸らざるを得ない、龍殺しの歴史に輝く名前のオンパレードだった。物理学者がアイザック・ニュートン、トーマス・エジソン、アルバート・アインシュタイン、マイケル・ファラデーといった名を並べられているようなものである。
「そうだ。ヒルベルト・フォン・アンジェ、奴は誰が見ても英雄たる人間だ。仮面を被るなどありえぬ」橘政宗はため息をついた。「だが、我らに譲歩の道があると思うか? 我らの背後は即ち崖、退く場など無いのだ。宮本氏、神葬所に関する研究報告を発表したまえ」
 宮本志雄が立ち上がり、頭を下げると、机の上のプロジェクターを立ち上げた。「本来、この研究報告にはもう少し精査が必要なところですが、時間が差し迫っている以上、仕方ないでしょうね」
 彼は当主の中でも比較的若いが、一族が認めた学術エリートである。カッセル学院で学んだ後、諸々の大学院からの招聘を辞退して日本に戻り、日本支部で岩流研究所を預かることになった。彼が口を開けば、皆が口を噤む。
 巨大スクリーンに映し出されたのは、一枚のぼやけた白黒写真だった。海溝の底で潜水艦トリエステ号のカメラが撮影した、沈没船レーニン号が巨大な肉繭へと変貌した姿だ。血交じりの粘液が糸を引きながら下へ向かって流れ、数百万は下らない有肺類が肉繭の襞の中で蠢いている。
「トリエステ号が海溝深部で発見したもの、つまり、レーニン号によって運ばれた龍胚の成れの果てです。この後、高天原と一緒にマグマに沈みましたが……」宮本志雄が言った。「しかし、これは我々が探していた目標ではありません。我々の目標は、一万年前に高天原に埋葬された『神』です。まあ、その実態は神とは程遠く、悪魔と言った方がいいかもしれませんがね。お察しの通り、ここでは血みどろの祭祀が行われていたようです。胚の血が高天原の廃墟に流れ込み、廃墟の下に埋葬されていた尸守の群れを目覚めさせた――当然、神も一緒にね」
「『皇紀聞』の記録によれば、神は未だ不完全であり、不完全な神はその補完として別の高位龍族の遺伝子を必要とするとされています。レーニン号は一匹の生きた胚を神に齎した――ご存じの通り、一般に生物の胚の細胞というのは高速で分裂し、自然界でも最大級の生物的化学反応を起こします。各細胞は旺盛な活力を持ち、胚の体液には様々な激素が含まれています。龍類もまた例外ではありません。龍の胎血は『聖杯』と呼ばれ、古代の錬金術書では黄金の液体、万能薬と称され、死者を復活させることすらできたと言われています」宮本は一枚の古い拓本を見せた。筋肉隆々の男が巨大な龍の死体を頭上に掲げ、その血を浴びている。「これは『ニーベルンゲンの歌』、八世紀ごろにドイツ語で書かれた叙事詩です。無論これは写しですが、神話の英雄ジークフリートが巨龍を屠り、龍の血を浴びて自らを剣も槍も通さない身体へ変えている場面が描かれています。これは歴史的に真実かもしれません。古代の龍殺しの英雄は、しばしば己の肉体を龍の血で強化していましたからね。胎血の活力は龍の血の中でも最強で、人への毒性も最小限となる。歴史上でジークフリートが殺したのは成体の巨龍ではなく、孵化もしていない龍類の胚だったかもしれません。彼は胎血で自らをハイクラスの混血種に進化させたわけです」
「この情報に基づいて、以下の推測ができます。すなわち、シベリア北部の名無しの港から貴重な胚を奪い取った何者かは、何らかの知られざる方法で胚の正常な発育を阻害。胚それ自体は奇形の怪物に成り果てましたが、その肉体には貴重な胎血が流れている。何者かはそれをレーニン号ごと極淵に沈め、広大な血みどろの祭祀を行ったわけです。神々を補完する為にね」
「つまり、その何者かが長い準備を経て、神を目覚めさせることに成功したということか?」桜井七海が言った。
「そうですね、偶然ではないでしょう。神は高天原の目覚めと共に去り、我々が破壊したのはいわばがらんどうの墓地です」宮本志雄は一通のメールを開いた。「今朝早く、内閣官房長官から岩流研究所に送られた、日本地震局との協力検証依頼です。地震局のレポートによれば、日本の地質構造は二十年程前から徐々に変化しているとのことで、眠っていた火山群が活動を始め、地震も頻発しています。大きなものだけでも1995年の阪神大震災、マグニチュード7.2、死者およそ6500人。2011年には東日本大震災、マグニチュード9.0、死者およそ15000人、福島原子力発電所の事故まで発生したのは皆さんの記憶にも新しいでしょう。同じく2011年には新燃岳火山が噴火、2004年にはここ数百年沈黙を保っていた阿蘇火山が噴火。そしてほんの数日前、富士山も噴火活動を始めました。地中五キロの地底までマグマの根が伸びている場所です」
 当主達の顔色がだんだんと悪くなっていく。
「私が言いたいことは皆さんの存じ上げる通りと思います。かつて神官が『皇紀聞』に残したのは、一万年前に神々が目覚め、日本四島が台風と津波に火山や地震に見舞われ、天地をも揺るがされ、高天原が海へと沈んでいったということ。それが神の賜った民への礼物だったのです。神は目覚めの日に必ず民へ礼物を賜る。それが災禍だったのです。馬鹿げた伝説と思いたいところですが、徐々に現実になっているのが事実です。数年前、レーニン号が高天原に沈み、神が目覚めたことで、止まっていた災禍の針が動き始めたのです。目覚めた神は高天原を去った――そこで皆さんにお聞きしたいのですが――目覚めた神は何処へ行くでしょうかね?」宮本志雄は皆を見渡した。
「……故郷へ、帰るのか?」風間小太郎が最初に悟った。
「故郷とは、つまり日本のこと……」桜井七海は顔を青ざめさせた。
「ええ、帰ってくるでしょう、日本の何処かにね。我々のすぐ傍かもしれません」
 その場の全員が寒気だっていく。
「神を目覚めさせたのは、猛鬼衆なのか……?」竜馬弦一郎が聞いた。
「猛鬼衆以外に何者がおろう? それこそ、奴らの望む進化の道よ。純血の龍類に進化する唯一の道は、神の血の助けを借りる事だからな」橘政宗がゆっくりと言った。「神が極淵の奥深くに葬られていることを知る者が何処におろう? シークレット・パーティですらあずかり知らぬことを知っているのは、我らオロチ八家と、猛鬼衆のみ。レーニン号を海溝に沈めた者が我々の中に居ないとなれば、猛鬼衆、奴らしかおらぬだろう」
「狂っている! 神を制御するなんて出来るはずがない……一度目覚めたら、奴は絶対者だ! 神を制圧できる者などこの世にはいない!」竜馬弦一郎が叫んだ。
「もはや残された時間は少ない。猛鬼衆が神を目覚めさせ、神は故郷へ帰ってくる。もっとも、復活はしてもまだ真の覚醒には至っておらぬようだ。竜馬家当主の言う通り、一度真の覚醒を果たせば、人の手に負えるものではなくなってしまう。神を制圧できる唯一の存在は黒王だが、黒王はもはやこの世にはおらぬ」橘政宗はおどろおどろしく言った。「しかも黒王は……神よりも暴虐的な悪魔だともいう。神殺しの為なら、我らは悪魔にも縋るのか?」
「大族長……あ、いえ、橘さん、我らはどうすればよいのでしょうか……」桜井七海はまだ、大族長を辞任した橘政宗への呼び名に慣れていなかった。
「猛鬼衆と戦争をするのだ! 奴らを根絶やしにし、背後の黒幕を引きずり出すのだ! 神が真に覚醒する前に、殺すのだ!」橘政宗の声が銅鑼のように大きくなっていく。「神の時代は終わった。地獄の奥底で眠るべき者の魂を呼び起こしてはならぬ!」
 その時、全員が源稚生に目を向けた。彼が腰に提げた蜘蛛切を軽く携え、古刀を数寸引き出して再度鞘に収めると、会議室に刀の澄んだ音が響き渡った。
「父上、それは多くの人が死に、多くの人が不幸になる道です」稚生は政宗の目をしっかりと見つめた。
「ああ。多くの罪なき人々も我らの戦争に巻き込まれることになる……だが、これが唯一の方法なのだ」橘政宗は腰を少し曲げた。「我らには時間が無いのだ」
 稚生が長らく沈黙すると、会議室は完全な静けさに支配され、仏壇の前に捧げられた線香の煙と、蝋燭の明かりだけが火花を奏でる。一族は神社での投票で既に猛鬼衆との開戦を決めていたが、実際の戦争動員令はこの七人の名に於いて発布されなければならない。道行く道に肉の匂いと血の雨をまき散らすその命令を下すのは、例え極道一族の当主であっても躊躇してしまう。
「では、源家代表として同意しましょう。……源家の者は私一人しかいませんがね」稚生が呟いた。
「我が風間家、この身朽ち果てるまで仕え申す!」風間小太郎が立ち上がり、源稚生に向けて深々と頭を下げた。
「我が竜馬家、この身朽ち果てるまで仕え申す」竜馬源一郎が続いた。
「我が宮本家、この身朽ち果てるまで仕えましょう」
「我が桜井家、この身朽ち果てるまで仕え申す!」
「我が橘家、この身朽ち果てるまで仕え申そう。無論、橘家の者も儂一人だがな」橘政宗も立ち上がった。
 その場の全員が犬山家当主、犬山賀に目を向けた。会議室で座っているのは源稚生の他には彼だけだった。普段は笑顔を絶やさない犬山賀だったが、今はただ無表情で座ったまま、何か沈思しているようだ。
「犬山殿!」風間小太郎が低い声で言った。
 一方、この場に居ない上杉家当主、上杉絵梨衣の意見は問題視されなかった。上杉家の一票は実質的には源稚生に存する。稚生がこうだと言えば絵梨衣は必ず同意するからだ。となると、まだ不確定なのは犬山家のみ。犬山賀が大族長の選択を支持しないとなれば、犬山家はこの極道戦争から身を引き、一族の戦闘力が削がれるだけでなく、他の家の下の若者たちに動揺を起こすことにもなる。
 犬山賀はゆっくりと立ち上がり、源稚生の目の前で深々と頭を下げた。「我が犬山家……大族長に仕え申す」
 当主達の顔に安堵の表情が広がった。
「しかしだ。現時点でシークレット・パーティと決裂するのはいかがなものか? アンジェは確かに傲慢な男だが、奴の龍殺しの能力と決意は疑うべくもない。奴を味方に引き入れられれば、我らの勝機は遥かに高まると思うが、どうか?」犬山賀は言った。「先代の神官ですら詳しく知らぬ、その神なる存在……ただの龍王とは訳の違う、更に高みにある存在となれば、我々はもはや推測するしかできない。もはや我々の能力を超えたターゲットだと思うのだが」
「犬山殿、そなたはアンジェの学生だったと聞くが? 自身の師に刃を向けるのは忍びないか? それともまだ、奴に対して思う所があるのかね?」橘政宗は犬山の目をまっすぐ見た。
「思う所?」犬山は首を横に振った。「オロチ八家の中でも最も侮辱された俺がか? そんなまさか。龍殺しにおいて、我らは刀刃の上を歩いているようなもの。ならば奴との共同も悪くないと思っただけだ……奴は今生きている人類の中で、最強のドラゴンスレイヤーなのだからな」
「アンジェと共同? 無論、出来ないことはない。だが代償は払わねばならぬ。尊厳という代償をな」橘政宗は皆を見渡した。「古くから今に至るまで、日本は我が一族の住まいし地、故郷の地。何者に縛られるべくもない。だがヒルベルト・フォン・アンジェの存在はその全てを破壊する。奴が現れればオロチ八家は消え、カッセル学院日本支部というものだけが残る。確かに奴は最強かもしれぬ。ドラゴンスレイヤーというだけでなく、我らを征服する者としてもな。今日我らはようやく自由を手に入れたというのに、再び奴の犬になれと言うのか?」
 全員黙ったままだった。橘政宗の言葉は正鵠を射ていた。ヒルベルト・フォン・アンジェという男は日本支部でも常に尊重されてきたが、それは彼が敬意に値する男だからではなく、憎まれるに足る男だったからだ。外国人に上から目線で命令されて気持ちの良い者などいない。アンジェの手を借りるためには、一族が数千年もの間守ってきた秘密を明かさなければならない。だが今まさに神は目覚めようとしているし、アンジェの助けを借りられるなら、その危険性は大幅に抑えられる。ジレンマだ。
「諸君にはよく考えてもらいたい。我らに流れる血は古く、尊く、暴力的な血なのだ。神に与えられたこの血が我らを強かにし、数千人ものA級混血種を生み出したと同時に、無数の鬼をも生み出したのだ。そして、この場に『鬼』と呼ばれる者は居ないとはいえ、血統の安定したヨーロッパの混血種に比べれば我らの暴走リスクは遥かに高い。それは皆もはっきりと理解しておろう」橘政宗は立ち上がり、ゆっくりと机の周囲を歩き回り始めた。「我らがアンジェに神の秘密を全て共有すれば、我らへ齎されるのは暗き牢獄かもしれぬ。シークレット・パーティの『アブラハム血統契約』によれば、我ら全員が監視下に置かれる可能性があるのだ。ただ一人、源稚生を除いてな」
「アンジェにとってみれば、我らは皆、鬼ということですな」風間小太郎が呟いた。
「そうだ。シークレット・パーティからすれば、オロチ八家と猛鬼衆は所詮、鬼と鬼殺し。我らもまた鬼、我ら全てが鬼なのだ。我らと猛鬼衆の戦争はただ、鬼同士が互いに殺し合っているだけとも言える」橘政宗は風間小太郎の席の背をトントンと叩いた。「諸君、我らの決意は決まったと思うが、どうだ」
「政宗氏は利害の全てを十分説明してくれたと言えよう。決意は確認するまでもない」風間小太郎は真っ白な眉を犬山賀に向けて挑戦的に上げた。「どうかな、犬山殿」
 犬山はしばらく沈黙した後、源稚生に向かって深々と頭を下げた。「全く了解致し申した! 我が犬山家、大族長に身も心も全て捧げ奉る!」
 橘政宗は軽く手を叩いた。「よいだろう。では犬山、竜馬、宮本の三当主でアンジェを接待してくれたまえ。君達はアンジェの生徒だった。先生を迎えるのは生徒の礼節だろう? アンジェには、ただ一つの事を理解していただこう……日本、それは奴の日本ではない、今までも、これからもだ!」


 当主達が去った後、広い会議場に残ったのは橘政宗と源稚生だけだった。稚生はウィスキーを一杯注ぎ、酒を飲みながら窓辺を歩いて夜景を見ていた。五光十色のネオンライトが見渡す限りに溢れかえり、高架道路の上の車の列が光となって流れ、高層ビルの灯火は尽きる素振りも見えない。そんな炎と油の花に彩られた大都会の中で、白鳥が一匹空へと舞い上がり、ビルの屋上に止まると、緊張に胸を震わせながら周囲を見渡した。
 カモメだ。恐らく港湾部から飛んできたのだろう。海沿いに位置する都市である東京では、海鳥が都心まで迷い込んでくるのもよくあることだ。
 もし自分があのカモメだったらどうだろう。目まぐるしく光り輝くコンクリートジャングルの中に迷い込み、騒がしい人声とエンジン音に囲まれて、恐怖と不安で一杯になってしまうだろうか。
「父上、私が大族長の座に興味が無いのを知りながら、何故勝手に私を大族長にしたのです? この座を切望する者は組織にも数多いるはず。その中には私よりもリーダーシップがある者も……」稚生はカモメを見つめながら、何の変哲も無いような風で訊いた。
「お前に流れる血が皇の血だからだ、稚生。一族がお前に与えた運命の恩賜。一族を率いり得るのはお前だけなのだ。儂がこれまで大族長を務めたのは、お前より私が適していたからではない。むしろ、お前の為に大族長をしていたのだ。幼いお前には、一族を率いるために助けが必要だった。だがもはや儂は老い、お前は成長し、一族は危機に瀕しておる。お前がいるから、儂らは立ち上がれるのだ」橘政宗は重苦しく言った。
「……ここはもう、嫌なんです」稚生は淡々と言った。「私は、フランスに……」
「フランスは確かに良い場所だ。だが……お前はここでは極道の皇帝、フランスに行けばただの普通の人だぞ」
「私はただの普通の人です。ですから、フランスに行きたいのです。フランスでも極道の皇帝をしろと言うなら、そんなものは願い下げです。スイス、ノルウェー、デンマークでも……ナミビアでも、ホンジュラスでもいい……誰も私を知らない場所、安らかに眠れる場所に行きたいのです。父上、あなたも同意してくれたはずです。猛鬼衆の件を解決し、家族の威厳を取り戻せば、私はフランスに行ってもいいと」
「そうだな、確かに同意した。この件が終われば、お前とオロチ八家にはもはや何の関係もなくなる……はっきりと、覚えているぞ」橘政宗は長々しいため息をついた。
「ですが、私はますます深みに嵌められている気がしてならないのです」
 橘政宗がリモコンで全ての照明を消し、明かりは窓の外の光だけになった。彼は焼酎を自分の酌に一杯注ぎ、稚生とは逆側の窓際に寄りかかって夜景を眺めた。ネオンが放つ光彩が窓ガラスの中で変幻する。
「儂がお前を山から連れ出して間もない頃、東京最高のレストラン『竜吟』に連れて行ったのを覚えておるか?ちょうどこのように照明は暗く、窓の外は明るく、お前は目を輝かせて窓際まで行って眺めを見て、『これがホントの都会なんだね! スゴイキレイ! 僕も“源稚生”の名を上げれば、毎日ここでご飯食べられるかな!?』などと言っていた。今、お前はこの上ないほど名を上げておる。好きなだけ竜吟で食事もできる、この街の命綱すらも引いておるというのに、だんだんと都会が嫌いになって、出て行きたいとすら言う。何故なのだ? 稚生……」
「私は……怖いのです」稚生は呟いた。「この街を理解すればするほど怖くなります。いつか私は食べられてしまうのではないかと」
「オロチ八家の大族長が恐れるものなど無い。お前の言う事がこの街のルール、お前のすること全てが正義なのだ」
「私が十七歳であれば、父上のそんな言葉にワクワクもできたでしょう。ですが私は今年で二十四歳です」稚生がグラスを傾けると、氷がグラスを響かせてカランと音を立てた。「もし十七歳の源稚生が目の前に立っていたら、私は許せないでしょう……正義だと信じていた自分自身が後に執行局長になり、幾多の人を殺す正義の名になるなど……」
「お前が殺したのはみな鬼ぞ! 奴らは人間であるが所以を失っておるのだ! お前が鬼を斬るのは、より多くの人を救うためぞ! 忍ばざる事は誰かがせねばならぬのだ……稚生、お前に過ちは何も無い」
「ええ。忍ばざる事は誰かがしなければなりません。残念ですが、私ではありませんけど」稚生は呟いた。
 政宗は長らく沈黙した後、ぽつりと言った。「何年経っても……稚女の事は忘れられないか」
「忘れられるはずがないでしょう? 私が鬼斬りとしてこの手で初めて斬った鬼、それが実の弟などと……」稚生は震えながら言い始めた。「そして私は、この手でその骸を井戸に投げ捨てたのです。死んだ稚女の目は虚ろでした。稚女は死に至るその瞬間まで、私に心臓を貫かれるなど微塵も思っていなかったんです。でも、私はそうしてしまった。稚女は鬼、私は鬼斬り、それが運命だと思っていたから――」稚生は首を振った。「そう、運命……」
「お前が鬼、稚女が鬼斬りであれば、稚女はお前の心臓を貫いただろう。それが運命……稚生、お前の言う通りだ。これは我ら全員が従わなければならぬ、運命なのだ」
「私はその運命に何年も従ってきました。もう疲れたんです。父上、私を行かせてください。早く私の代わりを立てて、私をフランスに行かせてください……」
 政宗は笑いながらため息をついた。「そうだな。儂もフランスに行ってみたいとは思う。お前の言うモンタリヴェビーチにもな」
 稚生は驚いた。「ヌーディストビーチですよ? 父上、それだけ歳をとっても女性の裸に興味がおありで?」
「住むことは考えていなかったが、お前に会えるならそれもよかろう。フランスでの儂の生活か……そうだな、毎年夏の休暇でモンタリヴェビーチに行き、お前を遠くから眺めよう。ビーチを歩き、美女と絡み、裸の背中に日焼け止めを塗っているお前を……無論、儂はお前に直接会いには行かぬ。誰も連れず、誰にも言わぬ。儂はチャールズ・ド・ゴール空港で飛行機を降り、車を借りて一人でモンタリヴェビーチまで行き、裸体を眺めるヘンタイジジイの振りをしよう。儂の人生はもう血塗れだ。自由は許されず、地獄で悪鬼となる運命にある。儂がお前に会えば迷惑なだけだろう。お前の家族も、悪鬼が訪ねてくるのは嫌がるだろう? 儂が死んだとき、お前は真の自由を得られるだろう。この世の誰も源稚生なる者が生きていることなど知らぬ。そうなれば、もはやお前は誰にも邪魔されることはない」政宗はそこまで言って一息ついた。「お前はまだきれいだ。刺青がないからな」
 源稚生は驚いた。
 彼は極道の者としては珍しく刺青を持っていない。極道の当主は階級や功称に応じてそれぞれ異なる刺青をする。ハイクラスの刺青は神鬼龍虎、少し下がれば鶴や桜花に鮭や武士。ストリートのチンピラが入れる刺青は女性の裸体や天使、髑髏が多いが、そういったモチーフは極道では人気が無い。当主が組織内の地位や規則に合わせた図案を編み出し、それを褒賞として与えられた構成員が刺青師の元へ持っていくのが主流だ。源稚生は源家当主だが、長年にわたって組織の為に仕事を積み上げ、組織の中でも下の下から一歩ずつ成り上がった男である。執行部に着任してから後も、大族長たる橘政宗から刺青の図案を与えられる栄誉を受けることはなかった。むしろ政宗は「今晩の夕食はいかがかな」だとか、「週末は工房で刀を打とう」といった、子供たちを遊園地に連れて行くかのような褒賞ばかりだった。
「刺青は単なる名誉だけではなく、極道の刻印でもある」橘政宗はゆっくりと言った。「刺青のある者は一般人には受け入れられ難い。極道の者は、極道の中で生きる事しか出来ぬ」
「血の哀しみのように?」
「そう、血の哀しみのようなもの、同類同胞のみで集団を成すのだ。当主は構成員に刺青を与えると同時に、鎖をも与える。刺青を入れれば後、極道との関係を壊すことは出来ぬ。極道は入りやすく、抜けにくい組織だ。我らの中に自分の手が血に染まっていないと言える者がどれだけおろうか。例え辞めたところで、怨念の連鎖を断ち切るのは難しい。地の果てまで隠れても敵に追われる可能性がある。それゆえ、極道は後戻りができぬ。一度刀を抜けば、ただ前へ進むのみ、柄を放すこと即ち死なのだ」橘政宗は源稚生をじっと見つめた。「だが、お前はきれいなままで日本を離れる事ができる」
 稚生は呆然とした。
「だから安心しろ。儂はいつまでも日本に居ろと言っているわけではない。この件が終われば儂が再び大族長を継いで、お前はフランスに行けばいい」橘政宗はグラスの中のワインを一気に飲み干した。「稚生、これは一族最後の事業だ。お前は皇。お前の身体には儂らの祖先の血が流れておる。お前の覚悟が、儂らの闘志を呼び覚ますのだ。儂らは長い間沈黙してきた。戦後から、儂らはずっと欧米の混血種に支配され、猛鬼衆に我らの地盤を侵され続け、忍耐と撤退を繰り返し、遂に忍ばざる所まで来てしまった。かつて世界で最も偉大な一族だったオロチ八家は、今や他人に釘づけにされた七寸の蛇だ。シークレット・パーティを退け、裏切り者を浄化し、神を殺す。その為には、大いなる戦争が必要なのだ! 儂の残り少ない命を賭けて、一族を再びこの世に……!」橘政宗は稚生を見つめた。輝かしいその目は、まるで茫々と燃える火花のようだ。
 稚生は挑発的に眉を上げた。「それは……頼みですか?」
「そうだ。この最後の戦いを共に戦い、我らの時代を照らしてほしい。我らの時代が終わればお前はフランスに行き、儂は日本で死ぬ。いつかお前も素晴らしい妻子を設けるだろう。勿論儂も祝福はするが、結婚式には参加できぬ」
「父上。本心でそう仰っているなら、あなたは私を誤解しています」稚生は煙草を取った。「時代を照らすとか、そういうことに私は興味が無いんです。父上が本当に正しいのかも分からない。私は父上に賛成し、父上を助ける、それだけです。例え父上が間違っていても、そうするだけのことです」
 橘政宗は再び長らく沈黙した。「それは、儂が孤独にならないように……なのか? 先生が征く道を示せば、生徒は無条件に従う。それが日本の文化だから、か?」
「いえ。父上は父上、先生ではありません。私の先生と言えばアンジェになるでしょう」
 橘政宗は苦笑した。「そうだな。皆は口をそろえてアンジェは素晴らしいと言うが……いやはや、儂もそう言われると困ってしまう。儂のような凡庸な人間が、歴史的英雄と比べられても仕方ない……」
「まあ、本当の事だ。ハハハ……稚生、儂を気遣う必要はないぞ」橘政宗は頭を掻き、爽快な笑顔を見せた。「アンジェが儂より優れているのは当然だが、儂もお前を優秀なリーダーとしてしっかり育ててきたつもりだ。お前は儂の誇りだ」
「私は……」稚生は唸った。
「今日のやるべきことは終わった。この後もう一度刀工房へ行こうと思う」
「刀を打つのですか?」
「お前に刀を一本送りたい。新たな大族長の就任を祝ってな」


 グラスの中の酒は空になったが、稚生はまだ窓際に立っていた。
 眼下に一台の黒いセダンが停まり、その前には数十人の黒服が並んでいる。橘政宗は車の中に座り、窓越しに一人一人へ何かを言っている。彼は几帳面だった。不在中に部下が混乱しないよう、外出する度に大量の事前連絡を用意する。
一族史上最も不運な大族長トップ10を挙げろ、と言われれば、橘政宗は間違いなくその中に入るし、あるいはトップ3にすら入るかもしれない。大族長とは極道のトップリーダー、新たな大族長が就任すれば、新たな天皇が即位するかのように、全日本の極道組合や集団から人々が拝しに訪れる。大族長のただの一言が極道全てを震撼させ、その眉の機微に注意を払って家臣は寝るも食うもできず、一度怒らせれば頭を地に付けなければならない。だが橘政宗の時代の一族はシークレット・パーティの配下にあり、極道組合の本家に対する尊敬も減弱してしまった。それでも橘政宗は謹小慎微に一族をまとめ、深夜まで残業することも当たり前、組合にも政治家にも財団にも格別の親切を働き、オロチ八家史上最も温和なリーダーとして、その人格的な魅力を持って各方からの支持を取り付け、オロチ八家の極道本家の地位を新たに確立した。だが同時に猛鬼衆なる者も現れ、一族から大部分の地盤を奪い、橘政宗の頭痛の種となった。
 彼の生涯の夢は一族の再興だった。だが彼はパワーリーダーにはなれず、ただただ勤勉に働くことしかできなかった。こんな男が大族長の地位に数十年も留まったのは、奇跡というほか無い。
 竜吟での初めての食事は稚生もはっきりと覚えている。あんな豪華なレストランに行ったのは初めてだったのだから。出てくるあらゆる料理が新奇斬新に見え、だからこそ「東京で名を上げる」なんて大言壮語まで口から出てしまい、言った瞬間後悔したものだ。橘政宗はそんな子供の妄想を嘲笑うこともなく、ただ温和に微笑むだけだった。「それはいい。儂と稚生が力を合わせれば、何でもできそうだ!」
「私が名を上げれば、父上は私よりも更に名を上げますよ」その時の稚生はそう言った。
「いいや、そうとは限らぬ。子供が小さなときは父親が肩に乗せて歩いてやるが、成長すれば父親は車椅子に乗り、子供に頼らなければならぬ。若者は儂ら年寄りに勝たねばならぬ。それが一族を繁栄させるのだ!」記憶の中の橘政宗が大笑いする。
「あなたは先生ではない。当たり前です。私にとって……あなたは、父上です」稚生は空のグラスを掲げ、空を隔てて車の中の橘政宗に敬意を示した。
 カモメが水晶のようなビル群を横切り、ガラスのカーテンウォールにその惶急な姿を映す。都市の下降気流が地に向かって巡る中、羽を激しく叩きながら空高くへと飛んでいった。


 成田空港、発着ホール。
 白髪の老人が綾小路薫のカウンターまで歩いていき、パスポートを差し出した。「ハロー」
 薫がパスポートの写真ページをめくると、突然心臓の鼓動が加速し、すぐに頭を上げて老人を見た。今年26歳、入国管理局で6年働いてきた彼女の毎日の仕事は、カウンターに座って外国人観光客の審査をすることだ。ハンサムなフランス人のロマン、イタリア人の情熱、ラテン人の哀愁、世界中のハンサムが何度も彼女の前に現れた結果、今や彼女は男の美醜に完全に鈍感になってしまった。どんな顔であろうが関係ない、ただ写真と同じ顔であればそれでいい。だがこの老人を見た瞬間、彼女は突然青春の心を取り戻してしまった。
 老人は身に着けているのはチェック柄のジャケット、太陽の匂いがする色あせた白シャツ、首元には紫のスカーフ、高い鼻の上にはべっ甲の眼鏡と、淡い微笑み。メリノ羊毛の温軟さにカナダアカマツの高身長、スコッチウイスキーの辛烈さを兼ね備え、まるで名匠の仕立てた古ピアノのように、奇妙な雰囲気を漂わせている。
「……日本は初めてですか?」薫は慌てて尋ねた。
「いや、二回目ですな。前は東京から入国して、鹿児島と箱根に行った」老人は言った。
「パスポートには、日本の出入国の記録がありませんが……」
「うむ。それは1945年、占領軍の代表として、米海軍の巡洋艦で入国したのだ」老人は退役軍属証を見せた。「当時の日本の入国管理局はまだ廃墟だったな」
「あぁ……そういうことですか」薫は軍属証を一目見たが、この全身に倦怠感を漂わせる老人がかつての軍人、しかも米海軍の参謀将官だとは思えなかった。
 その時突然、ブレーキの音と叫び声、荒々しい足音がホールに響いた。薫は監視カメラの画面を見て、はっと息を呑んだ。十二台の黒いメルセデスベンツ車が外の道路を塞ぎ、ナイフなのか銃なのかは分からないが腰を膨らませた黒スーツの男が、各所の入り口から空港の発着ホールに駆け込んできている。彼らは並んで人垣を形成し、全ての出口を塞ぎ、出入りしようとする人々を殺人的な冷たい目線で追い払っている。
 薫は理解した。極道だ! 極道が空港を封鎖している! 彼女はすぐに空港警備室への直接電話に手を伸ばした。
「誰か来て! 人がいっぱい来て、武器を持ってます! 110番を! 早く……」
 突然、受話器から音が聞こえなくなった。薫が戦々恐々としながら頭を上げると、カウンターの前に長身の老人がもう一人立っていた。老人は刀に斬られた電話線をカウンターの上に放り投げた。「その必要はない。すぐ終わる」
 長身の老人の両腕には……コブラ! 五本の指それぞれに五匹の獰猛な蛇頭が纏わりつき、それぞれの頭に炎の冠が被せられている。仏教に言い伝えられる「ナーガ」だ。龍のように巨大な蛇、頭の多さはそのまま権能を意味する。カンボジアにおいては、五頭ナーガは悪魔の象徴とされる。
「ふん、これが面白いか?」長身の老人は手を袖に引っ込めた。
「ここは日本国の入国管理局です……あなた方の……あなた方のような者が来るところではありません!」薫は心を振り絞って相手に警告した。
「すぐ終わると言った。安心して仕事を続けてくれ」長身の老人は振り返り、ビクビク震える警備員たちに深々とお辞儀した。「どうぞご安心を。ここに用があるわけではないのでね」
 彼は税関に入るのを待っている乗客たちを見やった。誰かを探しているようだ。極道にこんな「礼儀」を働かせ、関所を閉鎖させるような者とは一体何者だろうか? 一族の裏切り者? ライバル組合のボス? まさか、その場で処決が下されるのか?
 ホール全体が死んだように静かになり、ただ沈重な呼吸と心拍音だけが響いた。
「彼は、仕事を続けてくれと言ったようだぞ」カウンターの入国老人が薫に軽く言った。「それとも私のパスポートに何か問題でもあるのかね?」
 薫は全く落ち着き払った老人を見て驚いた。状況を理解していないのだろうか? 元米海軍将校とはいえ、こんな武装ヤクザの群れを軽く思えるものなのだろうか?
『入国許可』の判が押され、薫はパスポートを返しながら小さな声で言った。「どうぞ」
 一人の旅客を逃がすことは、一人の命を救うことになる。この老人は軍の中でも文官で、血肉飛び交う戦場を見た事も無く、日本の極道の凶悪さも知らない、だから危険を前にしても不敵な態度を見せているのかもしれない。それは確かに紳士的と言えなくもないが、少し迂闊かもしれない……。
 出会いは一瞬、別れも一瞬。薫は黙ったまま老人の名を思い返した。ヒルベルト・フォン・アンジェ……見た目は英国紳士風だが、名前はまるでフランス・ロマンだ。
「失礼、あなたはアンジェ校長でしょうか」長身の老人がアンジェに背後から近づき、声を震わせた。
「迎えの者かね?」アンジェはパスポートをちらりと見ると、ホルダーの中にしまった。
 長身の老人が一歩踏み出し、アンジェのスーツケースを受け取ってお辞儀をした。「犬山家分家、長谷川義隆です。校長、日本へようこそ! 長旅ご苦労様でした。まったく、校長とは思いませんでしたよ。こんなに若々しく見えるなんて……」
「見える? 私はまだまだ中身も十分若いぞ」アンジェは義隆の手下たちを見た。「ずいぶん連れが多いようだな。物々しすぎるのではないかね?」
「最近、東京の治安が悪いもので。人が多いのは校長の安全を守るためです」義隆は頭を下げた。「お気に障るようでしたら、どうかお許しを」
「私の安全を脅かす程の敵であれば、君の連れて来た者達は足止めにもならないと思うがな」アンジェはスーツケースから折り畳みナイフを取り出し、手首に結び付けた。「ヨシタカ・ハセガワ……聞いたことがある名だ。どの学科コースかね?」
 義隆は顔いっぱいに「実際光栄」な赤みを帯び、背を直立させ、昂った気分のままに答えた。「1955年入学、精密機械科卒です。校長からも直接講義をしていただいたことがあります!」
「ああ、思い出したぞ。昔はもっとフニャフニャの顔だったな」
「ハイ! 歳を取ると顔も変わってしまうものですが、校長は昔から全然変わりませんね」
「そんなに歳を取ってまだ極道にいるのか? 学生としては、不真面目だな」アンジェは眉をひそめて首を振り、学生への失望感を露わにした。
 彼はポケットから目を奪うような真っ赤なバラを取り出し、薫のカウンターの上に置いた。「君の日本語は鹿児島訛りかな? あそこはいい所だ。綺麗で優しい女性がたくさんいる。もしまた日本に来ることがあったら、今日と同じように可愛い女性に出迎えてほしいものだな」
 薫の答えも待たず、彼は踵を返して出口に向かって歩いた。義隆が急いでスーツケースを引いていくと、列を成した黒服の男達が深々と頭を下げた。
 アンジェは目を配る事も無く手を振った。「ドーモ、学生諸君」
「校長、ドーモ!」黒服男たちが一斉に言った。
 数十人の黒服男たちが彼の背を追って黒い翼のように広がり、羽根を広げた黒鶴の中でアンジェは「目」となった。綾小路薫は唖然とするばかり、ホールの人々全員も唖然とするだけだった。


 夜が訪れた。メルセデスベンツの車列が黒水晶のような建物の前に止まり、長谷川義隆が恭しく扉を開けた。
 アンジェは夜空の中に浮かぶ巨大なネオンライト看板を見た。『玉藻前倶楽部』……
「私は神社でも新本部でもなく、クラブに連れてこられたのか?」アンジェは反感を覚えるというよりも、むしろ興味を持ったようだ。
「一族旗下の最も豪華なクラブです。歓迎会をこちらで行わせていただきます」義隆が先導していく。「当主から、校長は若かりし頃からロマンチストだったと聞きました。『玉藻前』こそ男の聖地です! 渋谷の街頭が美女だらけというのは東京の男なら誰でも知ることですが、渋谷の美女全員を集めても、玉藻前の美女一人に叶わないと言います」
「タマモノマエ……とは、何か典拠があるのかね?」
「『玉藻前』というのは、神話に出てくる九尾の妖狐の名です。彼女は混乱の世にインドで生まれ、紂王を誘惑しようと妲己に化けて中国に渡ったものの、姜子牙という男に討ち取られます。その後日本に逃れた彼女は鳥羽天皇の寵愛を受け、名を玉藻前と変えましたが、陰陽師である安倍泰親と安倍晴明によって那須野にて誅殺されてしまいます。玉藻前倶楽部の主役は、そんな美しい女性達なんですよ」義隆は興奮しながら言った。「校長もきっと満足できます」
「アガチャンは私の女性の好みを知っているのかね?」アンジェは笑った。「私のフェティズムは強烈だぞ」
「校長のお好みがどんなタイプでも、犬山家は必ず満足さしあげましょう」義隆は大門を押し開いた。
 そこに広がるは空霊剔透、仏経に語られる琉璃世界の如き場所だった。
 繋ぎ目の無い水晶ガラスが床全体に広がり、五色のライトが足元で変幻する。空中には古雅な木柱と切り立った紅い軒、四方の壁際に巡る朱色の木階段。玉藻前に初めて踏み入れた者は、まるで霞に包まれたかのような夢遊感を味わうことになる。
 踊り台には赤い和服を着た女たちが列を成し、その肌は金の刺繍で彩られているかのように繊細華美。神話に描かれる九尾妖狐の玉藻前も全身金色、皇帝すらも彼女の金色の肉体には抗えなかったとされるが、その玉藻前が舞姫となった姿が金粉で再現されているのだ。彼女たちの金色の身体にはかすかに模様が見えるが、それは日本語の書道で細かく描かれた詩だ。女性それぞれ身体に浮かべる言葉や文章は違い、全てを繋げると『金剛経』になる。
「まるで黄金の碑林だな」アンジェは微笑んだ。確かに碑林だった。女体がすなわち碑文となり、この世で最も妖冶な経典に化している。
 その時、高所に立った青色和服の老人が、手に持った白い紙扇子を手の平に一度、パチンと打った。
 舞曲が奏でられ始めた。金色の舞姫たちが頸歌熱舞、数十組の金色の長足が曼妙な弧を描いて伸びる。アンジェがその間を通り抜けると、翡翠のような脚が彼の近くを上下する度に、金粉の香りが漂った。
 楽団は二階に陣している。伝統和服を着た女たちは胸元を大きく広げ、玉のように白い肌を露出させ、金色の舞姫と合わせてコントラストを演出する。長谷川義隆が玉藻前の女に自信を見せたのも不思議ではない。雲のように広がる美女を一望でき、百は下らない女たちがそれぞれの美しさを見せつけながら、歌と踊りで賓客をもてなす。東京には玉藻前よりも豪華なナイトクラブもあるかもしれないが、玉藻前を超える美女集団を擁する場所など、日本全国の何処にもありえないだろう。
 これが犬山家の強みだ。古今東西、犬山家は常に日本の風俗界の皇帝だった。
 一曲終わると同時に、舞姫と琴姫たちが一斉にお辞儀した。「校長、ドーモ!」
 屋上から下げられていた薬玉が爆発し、無数の花びらが舞い落ち、床や廊下、アンジェの肩へ掛っていった。
 アンジェが三階に上がると、朱色の木製手摺の傍に立っていた青色和服の老人が出迎えた。黒白相容れ込んだ短髪、身体硬朗、剣眉飛揚。若かりし頃は垢抜けたオリエンタル・ハンサムだったのだろうと想像できる。
 犬山家当主、犬山賀――
「足掛け六十二年ぶりですかね、校長」犬山は僅かに腰を屈めた。
「弾の雨で迎えられるかとも思っていたが、まるで肉の雨だな」
「長年かけて集めたコレクションで、おもてなしさせていただいただけのことです」犬山は言った。「エロスこそ、私の最高のコレクションです」
「お前は未だに風俗をやっておるのか。相変わらず、腐った根性だ」アンジェは犬山の肩を一度強く叩いた。二人は笑い出し、両腕を広げて力強いハグをした。
 廊下の先まで歩いていくと、扉がゆっくりと開き、広間一杯の女たちが出迎えた。
「いらっしゃいませ」女たちがいっせいに頭を下げ、長髪が垂れ下がると、その先が鈎のように揺らめいた。
 障子戸に四面を囲われた素浄な和室だった。中央には長卓がひとつ置かれ、澄んだ水に桜の花びらを浮かべた銅盆が乗せられている。部屋は質素にまとめられ、専ら装飾されているのは女たちだ。
「ふむ、やはりアガチャンは私の審美観をよく理解しておる」アンジェは長卓の端に座った。
 長卓の両側にいる女たちは黒い学生制服と白いシャツを着ているが、それぞれ微妙に違った美しさを持っている。まるで男の一生のうちに幾度かある一夜の相手が、たまたま同時にこの和室に現れてしまったかのようだ。これに比べればセクシーダンスの舞姫や琴姫など、庸俗脂粉な下品芸にすぎない。アンジェはヒュミドール(訳注:シガーの湿度を保つ入れ物のこと)を取り出し、一本葉巻を引き抜くと、ヒュミドールを卓の上に投げた。すると彼に一番近い女が立ち上がって半屈みになり、柄の長いマッチでシガーに火をつけた。アンジェは一口青い煙を吹かすと、卓の向こうに座った二人の男を見た。
「竜馬家当主、竜馬弦一郎氏です」犬山が紹介した。
「カッセル学院83年度生、龍族系譜学科卒です。校長の『錬金術入門』講義は非常に為になりました」竜馬弦一郎は座ったまま深々とお辞儀をした。
「そしてこちらが宮本家当主、宮本志雄氏」犬山は若い方の男を指差した。
「カッセル学院95年度生、実用錬金学科卒です。校長から勲章をもらい、奨学金までいただきました」宮本志雄も深くお辞儀をした。
「そういえば数日前まで私の下にいたな? 日本支部所属岩流研究所所長、宮本志雄殿」アンジェは笑った。「自己紹介は必要かな? まるで何年も会っていないような雰囲気だが」
「数日前までのお付き合いは、岩流研究所所長としての私です。今は宮本家当主としてここにおりますので」
「ハハハ!」アンジェは笑った。「そんなにかしこまって、まるで外交ディナーではないか。アガチャン、まずは君のコレクションとやらを見せてくれたまえ」
「ハイハイ、では校長にお見せしましょう。ビジネスの話は、いつでも出来ますからね」犬山が手を振ると、座っていた女たちが一斉に立ち上がり、アンジェの方に歩いていく。それを犬山は一人ずつ紹介していった。
「弥美、19歳、芸能界で最もポテンシャルのある新人で、毎日四つか五つのテレビ局を梯子しております」
「和紗、ティーンエイジャーミュージシャン。エレクトリックバイオリンが得意で、ニューヨークのゴールデン・ホールでも演奏したことがあります」
「琴乃は囲碁棋士、プロ五段! テレビ朝目で囲碁番組を持ち……世津子! ほら、世津子! 来たまえ、ここに立ってキレイな舞をみせたまえ!」
 広未リョーコ似の世津子は容姿清爽、剣道少女のようなハイポニーテール。彼女はハイヒールを脱いで脇に置くと、アンジェに向かって深くお辞儀し、片足で立って白鳥のように優雅に回り始めた。
「ブラーボー!」アンジェは手を叩いた。
「絶対的なバレエの天才です。ロシアに留学させれば、いずれは世界を揺るがすでしょう」犬山は微笑んだ。
 寿司職人が長さ一メートルの白木で作られた船を鮮魚満載で運んできた。まだ美女を全員紹介し終えていないうちに、ワインの匂いが漂ってくる。
「焼キチジか。アガチャン、私の好みを覚えていたようだな?」アンジェは杯を上げた。「さあ、皆さんも酒を」
 竜馬弦一郎と宮本志雄は無言で顔を見合わせつつも、振り返って杯を上げた。
 和室中の気分は一気に盛り上がり、女たちがアンジェの周りに集まると、床に腰を下ろしたり、肩を抱き合わせたり、まるで日本古代貴族の風だ。
「校長、誰が一番お気に召しましたかな? 遠慮はいりませんぞ」犬山は弥美の顔をつねって笑った。
「美しい子をたくさん囲って、色々な職業に就かせたりスターにしたりするか。アガチャン、相変わらず腐った根性だ!」アンジェは大笑いした。
「私も本当は前田慶次のような男になりたいのですがね! しかし宝馬と朱槍で天下統一できる時代は終わってしまって、男のロマンは花と酒にしかないのですよ!」犬山は大声で言った。
 宮本志雄と竜馬弦一郎も時々に杯を上げてはいたが、その目はすっかり粛々としていた。この酒宴は元々の目的から逸れてしまった。二人は完全に蚊帳の外に置かれ、アンジェと犬山だけが陶酔のままに酒を呷っていく。


 源氏重工、醒神寺。源稚生と橘政宗が対に坐して酒を飲み、夜叉がテラスの隅で護衛として立っていた。低い黒雲が東京に押し寄せ、高層ビルのてっぺんはまさに雲に突き刺さらんとしている。下に見える商業区にはまだまだ溢れる光が流れ、首都高の車は尽きることもなく、どことなく魔幻的な雰囲気を醸し出す。
 稚生は頭上に広がる雨雲を仰ぎ見た。「まるで今の日本のような天気ですね。古い漢詩で言えば『黒雲城を圧して城摧(くだ)けんと欲す』……外はあなたの指示を待つ人で一杯だというのに、私を酒に誘うなど、どういう吹き回しです?」
「人の上に立つためには、先ずは心を落ち着け、強くしなければならぬ。目の前で泰山が崩れても顔色を変えず、鹿が突然飛び出してきても瞬きもしないように。中国人の言葉だがな」橘政宗は淡々と言った。「為すべきことが多いからといって、圧倒されてはならぬ。忙しいと感じたのであれば、一度全ての仕事を保留し、心を落ち着け、今のあるがままを見るのが大切なのだ。まあ、老人の道理だ。いずれお前もわかる」
「一生分かりませんよ。日焼け止め売りに行軍打杖の道理なんていりませんし」稚生は肩を竦めた。
「ハハ、すまんすまん、また忘れおったわ」橘政宗は笑った。「一族は今や猛鬼衆との全面開戦となった。各主要都市の組合の七割が我らについておる。状況は有利ぞ。下から何事を言われようと言われまいと、進み続けておるならそれでよい。我らはこの戦いに十年備えたが、猛鬼衆も戦い慣れした奴らだ。リーダーが天手古舞になれば、攻守の陣形は簡単に崩れ、敗局の定めも免れぬ。当然、最後の一突きはお前の役目ぞ。枯木を折り、朽木を挫き、奴らを根ごと引き抜くのだ」
「極楽館のことですか?」
「そうだ」橘政宗は頷いた。「大阪には猛鬼衆の本部がある。地元の組合も半数が猛鬼衆を支持し、会社や産業も集中し、多数の府議会議員も奴らに買収されておる。そして極楽館こそ大阪の最重要拠点なのだ。ただのカジノではない。国内外のマネーロンダリングまで請け負い、毎日数百億のキャッシュが極楽館を流れておる。極楽館を攻め落とすことは、奴らの心臓を刺すことに等しい。極楽館の責任者は『竜馬』の仇名を持つ桜井小暮。絶世美女にして妖艶絶馬、猛鬼衆のリーダーと接触できるのは奴だけだという。必ず奴を生かして捕まえるのだ」
「はい」源稚生は頷いた。「今日アンジェが東京に到着したと聞きましたが、あなたの一番の心配はこちらの方ではないのですか?」
「お前はよく分かっておるな」橘政宗は笑ったが、すぐ堅い表情に変わった。「うむ、当面の問題は猛鬼衆よりもアンジェの方だ。シークレット・パーティの状況攪乱が無ければ、儂は猛鬼衆との戦争に九割の勝算はあると見込んでおる。だが棋盤の上に別の駒が乱入してくるようなら……」
「校長程の客人なら、私達が出て行かないというのは失礼になりませんか?」
「儂らが出て行ってどうする? アンジェの望みはただ一つ、我らを再びシークレット・パーティの管轄下に置き、秘密を洗いざらい曝け出させることだ。そんなことは許されぬ。儂が犬山殿を出向かわせたのは、時間を稼いでもらうためだ。猛鬼衆を解決してから、再び学院にノーと言えばいいのだ」
「父上、本当は犬山氏を信用していないのでは?」稚生が突然聞いた。
「なにゆえそう思うのだ?」
「一族の昔の事は分かりませんが、犬山賀は日本支部成立後の初の支部長です。アンジェが立てた傀儡と言えますし、一族の中で最もシークレット・パーティに近い派閥と言えます」
 橘政宗は頷いた。「そうだ。かつて一族内部で団結といかなかった時代は、八姓家当主の間で殺し合いが行われることも少なくなかった。犬山家は八姓の中でも最も弱小の家姓であった。風俗業で勢力を広げ、女の肉体を売ることで銭を稼いで家を立て、それゆえ他の家からは見下されておった。1945年の日本敗戦で犬山家は甚大な被害を受け、ほとんど壊滅、犬山賀は犬山家最後の男となった。当時米海軍参謀大佐として巡洋艦で日本に来ていたアンジェは、上から目線で一族に接触し、シークレット・パーティへの帰属を要求した。犬山君は時代の変化を見てとり、犬山家再興の好機と捉え、アンジェの肩を持って外国人教師として受け入れた。そしてシークレット・パーティの支援を受けて他家を圧倒し、遂には日本支部長の座も得たのだ。当時の一族の最高権力は大族長ではなく、シークレット・パーティに委任された日本支部長にあったというしな」
「それはつまり、アンジェと親しいという事でしょうか?」
「そうとは言い切れぬ。犬山君がアンジェの肩を持ったことと、アンジェと親しいこととは別の事だ。稚生もカッセル学院に留学した時、アンジェの講義を受けたはずだろう。多少は理解しているのではないかね?」
 稚生はしばらく考えた。「彼は紳士です。教育家を自負していますが、遊びにかまけて、仕事をしないこともある」
「うむ。しかし、それは奴の偽りの仮面だ。浮世離れした外面で己の内心を隠すのは、奴の得意とするところよ。奴の過去を知っている者はほとんどおらぬ。多少の手がかりを得るだけでも、十年の調査が必要になってしまいおった」橘政宗は手を挙げた。「夜叉、資料室からヒルベルト・フォン・アンジェのファイルを持って来てくれぬか」
 待ったとも言わない内に素っ気ない紙袋が橘政宗の前に置かれた。政宗はその中から数枚のファイルを引き出し、稚生の前に並べた。稚生は一目通してみたが、驚きを隠せなかった。

……
Name:Hilbert Ron Anjou
Birthday:10/28/1878
City of Birth:Harrogate, Yorkshire, UK
Education:Ph.D., Trinity College, Cambridge
……

 カッセル学院校長、ヒルベルト・フォン・アンジェの個人ファイルだ。数百ページの厚さがあり、彼の誕生から現在までの詳細がぎっしり書かれた文書記録である。混血種の中でも特別長寿なアンジェは今や百三十年近く生きており、彼自身が過去の事を覚えていないにしても、このファイルには問答無用で記録されている。稚生は一族の資料にそんな最高機密があることを知らなかった。カッセル学院内ですらアンジェの過去について知る者はほんの一握りだ。彼の家族はとうに死に絶え、過去と共に墓の中に埋葬されている。
「幾つかの資料を繋ぎ合わせ、我らの独自の調査結果を加えたものだ。正確かどうかは分からぬが、アンジェという男の人生の大枠は理解できるはずだ。それにしても内容が複雑ゆえ、重大な事件だけ共有することにしよう」橘政宗はゆっくりと言った。「想定外かもしれぬが、ヒルベルト・フォン・アンジェは孤児だったそうだ。『アンジェ』という姓もフランス語だが、実際の生まれはイギリスのヨークシャー郡にあるハロゲイトという田舎町。貴族どころか貧民最下層に生まれ、物乞いをして生きていたそうだ。養父母は多くの子供を引き取り、物乞いとして訓練していたそうだが、アンジェの特別さはその時から始まった。混血種の力が発現し、十二歳にして素晴らしい才能を示した。独学でラテン語とギリシャ語を学び、地元の司教の賞嘆を受け、ケンブリッジ大学への進学するためのロンドンでの生活費も貰っていたそうだ。そこでアンジェは人生を全く変えてしまう人間に出会うことになる。マネック・カッセル……カッセル家の長男、シークレット・パーティ『獅子心会』の創設者にして、史上最高のドラゴンスレイヤーだ」
「当時マネックは21歳、アンジェは16歳。孤独な幼少期と少年時代を経て、アンジェは初めて龍の血を持つ者と出会った。マネックの招待を受けてシークレット・パーティに入り、獅子心会最初のメンバーの一人となった。だがマネックですら、アンジェがこれほど優秀な血統を持っているとは思わなかったようだ。ハロゲイトという田舎町から来た少年は、シークレット・パーティのリーダーにして龍の天敵となった。マネックは兄のような存在、獅子心会は皆家族同然。アンジェはそこで遂に孤独から解き放たれたのだ。ケンブリッジに通いながらシークレット・パーティの活動をしていた時期、それがアンジェの一番幸せな時期だったのだろう。余すところなく魅力を発揮し、女学生からは青い視線を集め、男学生との結束は固く、学業も礼節も備えた優良青年だった。今日彼が振る舞っているプレイボーイの仮面も、当時の感覚を下地にしているのだろうな」
「今日の獅子心会はカッセル学院の一サークルに過ぎない。しかし当時はシークレット・パーティの青年組織、世界最強のドラゴンスレイヤーサークルだったのだ。獅子心会はアンジェに友情だけでなく、栄光と夢も与えた。獅子心会こそシークレット・パーティの希望、マネック・カッセルは次期シークレット・パーティのリーダー……そう誰もが信じていた時、『夏の哀慟』という事件が起こった。シークレット・パーティ本部のカッセル荘園が龍族の夜襲を受け、龍王クラスの敵に侵入されたのだ。堕武者の大群に包囲され、獅子心会は窮地に陥った」
「おかしくありませんか」稚生が政宗の叙述に口を挟んだ。「それはつまり、龍族が人間のような行動パターンを示した……『戦略』というものを使い、軍事突撃のような夜襲をかけたということ……龍族の行動パターンとは思えません。龍とは本来傲慢で高貴な種族、目覚れば咆哮を世界に轟かせ、比類なき暴力で一切の敵を灰燼と化させしめる。謀略を使うなど、むしろ軽蔑することでしょう?」
 橘政宗は頷いた。「そうだ。確かに奇妙な事だが、儂らに真相を暴くことは出来ぬ。『夏の哀慟』はシークレット・パーティの最高機密。百年以上も前の事件だが、教育委員会以外の何人にも事件の調査結果は公表されておらぬ。だが重要な事は一つ、あの夜あの時に龍族が攻撃を仕掛けたという事だ。龍族は敵の中核を突き、シークレット・パーティを完膚なきまでに叩きのめした。だが一人だけその場を挽回できる者がいた。絶世の天才マネック・カッセルが突然龍王に匹敵する力を発揮し、龍王と共に力尽きたのだ。歴史上最高のドラゴンスレイヤー一家だったカッセル家はその後没落し、栄光を継承する者は居なくなった。獅子心会も壊滅、ヒルベルト・フォン・アンジェだけが唯一幸運にも生き残ったのだ」
「その時、アンジェはカッセル荘園にいなかったのですか?」稚生が訊いた。
「いや、いた。彼は龍王のすぐ近くにいた。負傷した彼はほとんど瀕死になって地下室に落ちたのだ。翌朝になって回復したアンジェが見たのは、彼の人生で最も悲惨な光景だったに違いない。山のように積もった死体。人類と堕武者は最期の瞬間まで、決して和解することのない相手に牙を立て合っていた。唯一立っていたのはマネック・カッセルだったが、彼は既に死体となり、剣も砕けていた。その時まで、アンジェは人類と龍類の戦争がこれほど壮絶で、残酷で、血を流して河と成すようなものとはまるで思っていなかった。この戦争に生存者はただ一方、例え首だけが残ろうとも這って相手の喉を噛み切らねばならない、そんな戦争なのだと彼は悟った」
「アンジェは彼の友人の亡骸を死体の山から引き出し、燃やして灰にした。彼はその灰を、自らの過去を、自らの手で葬った。シークレット・パーティの応援が到着した時、彼は一人で荒地の中を、魂が抜けたかのように歩いていた。救助された後、彼はただ一言だけ言った。『世界は、本当はこんなに残酷だったんだ』……。担当医師が言うには、まさかこんな重症瀕死の怪我人が素手で死体の山を漁って火葬まで行ったとは思えない、という。要するに、そんな身体中ボロボロの若者を支えていたのは、凄まじいまでの精神力だったのだ。アンジェはその後丸一年眠り、再度覚醒した。医者もまさか再び目覚めるとは思っていなかっただろうな」
「目覚めた彼は意気消沈するどころか、驚くべき活躍を見せるようになった。『夏の哀慟』でシークレット・パーティ精鋭は重大な損失を被ったが、若きヒルベルト・フォン・アンジェには白羽の矢が立ち、シークレット・パーティの上層に組み込まれ権力を得るに至った。ある意味では『夏の哀慟』で恩恵を受けたことになるが、彼に喜びはなかった。かつての才気煥発を自負する優雅なアンジェは姿を消し、孤高の鉄血リーダーだけが残った。プレイボーイオヤジという印象などは仮面に過ぎん。彼の心はただ一つ、常に鋭い鉄刃を手にする孤独な復讐者だ。常に自らの権力を高め、仲間を育て、カッセル学院の全てを支配し、龍殺しの精鋭集団を作り上げた。教育委員会は彼に不満があるようだが、アンジェに代わる者などおらぬ。地獄から舞い戻って来た男は、もはや死など恐れぬ」
「孤独と貧困に苦しんでいた彼は、マネック・カッセルと出会いで人生を一変させた。一夜にして栄誉、夢、友人、家庭まで得たが、一夜にしてそれら全てを失い、再び孤独の深淵に閉じ込められてしまった。一切を奪った龍族に彼は復讐を決意した。医者の言う『凄まじいまでの精神力』とは怨恨のことだ。龍は彼に世界の残酷さを教えた。その時から彼は世界最恐のドラゴンスレイヤーとなったのだ」橘政宗は囁いた。「龍族は、あの男を殺せなかったことを後悔することになる」
 長い沈黙の後、源稚生はそっとため息をついた。「皆が口を揃えて『アンジェを敵に回すな』というのも無理はありませんね。心の中に油田があって、一度火をつけたら死ぬまで消えない。相手を焼き尽くすか、自分が焼け死ぬか」
「怨恨がアンジェの偏狭な人格を作ったともいえる。親族も友人もおらぬ完全に無情な男だ。アンジェは生徒には優しいが、それは学生が彼の役に立つからだ。彼にとってはあらゆる人間がただの道具、龍殺しの為の道具にすぎん。カッセル学院とシークレット・パーティの違いはここにある。学院の本質は見かけほど穏やかではなく、暴力を伴った徒弟会のようなもの、厳格な戒律の下でアンジェを将軍として崇める私兵集団だ。そしてアンジェはオロチ八家をこの手に収めたいと考えた。権力学に精通した彼は自分一人の力ではそれが出来ないことを理解し、日本で己の味方を増やすことにした。そして最弱の犬山家を選び、犬山殿を学生とした。傀儡は弱いほど忠義を貫くという権力学の法則に完全に一致しておるな。その上犬山君の幼少期は臆病な子供。臆病者ほど操りやすい者はおらん」橘政宗は言った。
「犬山氏はアンジェに利用されていることを分かっていたのでしょうか」稚生が訊いた。
「当然だ。犬山殿も愚かではない。だが犬山家の復活の為なら身も捧げ、アンジェの奴隷にでもなる決意だったのだろう。犬山殿はアンジェに相当屈辱的な扱いを受けたらしく、猟犬や戦馬のようにこき使われたそうな。だがアンジェは『犬山家復興』という約束を果たし、犬山殿は一族内部でも出世していったのは確かだ。睦まじい教師と先生というよりは、互いに利用し合う同士という関係だな」橘政宗は言った。「だが今、オロチ八家は団結し始めておる。我らは我らの家族を愛し、互いの手足を引っ張り合う事も無い。犬山家も最早アンジェは必要とせず、一族の下に完全に舞い戻り、犬山殿もアンジェから尊厳を取り返す最後の機会を得た。儂が犬山殿をアンジェの接待に向かわせたのはそういうことだ。屈辱を受けた男の心の中には猛虎が宿る。儂はその猛虎をアンジェに向かって解き放ち、日本はあの男ののさばれる様な場所ではないという事を理解させてやりたいのだ。犬山殿は疑うどころか、むしろ十二分に信頼しているぞ」
「犬山氏の態度が強すぎると、アンジェを刺激しませんか?」
「自制しろとは言っておいたがな。アンジェも犬山殿にわざわざメールを打って日本に来ることを伝えた。これはつまり、当面は対面交渉をするということだ。儂やお前ではなく、日本支部も辞めた犬山殿に送ったというのは、奴が犬山殿を今でも自分の生徒、旧友あるいは部下だと思っていて、犬山殿になら解決の糸口が見つかると思ったからだろう。だが儂はアンジェを退かせたい。今のオロチ八家はいわば鉄壁、何物も我らの内部まで突き通すことは出来ないということを知らしめてやりたい。シーザーチームはまだ生きている、それは良い。我らとシークレット・パーティの間に確執が生まれていないということになる。儂が望むのはただ、独立。当然の要求だと思うがな」
 源稚生はしばらく考えた。「……それが、老人の方々の言う『政治』なのですか? 理解はしますし、分からないでもありませんが……ただ、不安です。私は犬山氏のことをよく知りませんが、頑固らしいことは分かります。校長のこともあまり知らないとはいえ、相手の要求を素直に受け入れる人とは思えません。どちらにしても自分の前線を頑なに守って、一歩も譲歩はしなさそうな気がします。交渉といっても、互いに机の下に刀を隠しているようなものです」
 橘政宗は長らく沈思し、顔色を少し変えた。「稚生の言う事も分からんではない。互いに殺意を抱えた者同士で純粋な『政治』になるはずもない。……儂も今からアンジェに会いに行くとしよう。『事故』が起こる前にな」
「私も同行します」
 橘政宗は立ち上がって稚生の背後に回り、その肩を叩いた。「今のお前は我らの将だ。将は軽率に動いてはならぬ。ここは、儂のような武士に任せるのだ」
 彼は黒い羽織を着ると、エレベーターに早足で向かって行った。先程彼が身を起こした時には既に階下の駐車場からメルセデスベンツの車列が騒がしく発進し、高速で走り回ったりブレーキをかけたりして車列を形成していた。建物から飛び出したボディーガードたちが、道路の真ん中で一糸乱れぬ軍隊のように待ち構えている。


「将はあなたです、父上。私に父上ほどの威厳はないんです……」源稚生は手すりに寄りかかって景色を見下ろしていた。源氏重工ビルから早歩きで出てきた橘政宗が黒いロールスロイスに乗り込むと、車列は音も無く高速で夜光を突っ切り、車の流れに溶け込んでいった。
「自暴自棄はみっともないですよ、若君。威厳なんて後から付くもんです。豊臣秀吉だって元々はただの農民だったんですから」夜叉も手すりにもたれかかって煙を吹かした。「もし若君がフランスに行っちゃったら、俺やカラスとか桜はどうすりゃいいんですか? 俺達は戦うしか能がありませんし、こんななりなんで、ビーチでホットドッグを売ってても強盗扱いされちまいますよ」橘政宗が居た時は沈威を保っていた夜叉だったが、源稚生と一緒の時には真面目さも無くなってしまった。そもそも稚生がプライベートでは大して真面目な人ではない。これがいわゆる『上梁正さずんば下梁も歪む』だ。
「私はフランスに日焼け止めを売りに行きたいだけだ。お前たち三馬鹿を連れて行くなどとは言っていない」稚生は淡々と言った。「日本に留まっていくらでも戦えばいい。その方がお前も幸せだろう」
「あの、まず言っておきますがね。俺とカラスは確かに馬鹿ですけど、桜は違いますよ。あと、家訓にもあるんですが、若君の家臣である俺達三人は若君がいなくなったら用済みっすよ」夜叉は気まずそうに言った。「極道なら俺達三人はキャリアを積むのにちょうどいい年頃なのに、家長が日焼け止め売りになって早期退職、ファミリーの救済金で年金生活って、ひどくないっすか? 桜やカラスはまだマシですよ、可愛い女の子と頭のいい禽獣なんですから。でも俺なんかどうです? せいぜい肉体美がちょっと褒められるだけで、徳を積む機会もないっすよ。……あーあ、俺も若君と一緒にフランスで日焼け止めを売りたいです。もっと筋肉をつけたらウィンドサーフィンのインストラクターもできそうじゃないすか? 雑誌にフランスの女性はマッチョが好きって書いてありましたし」
「そんな事は今までも散々話しただろう」稚生はタバコの煤を落とした。「安心しろ。手配はしてあるし、多少の金はある……」
「大族長になったのに、金は多少しかないんですか?」
「一族の金は一族のもの、私の金は私のものだ。私の金は三菱銀行にあるが、財務管理で相続をお前たち三人にしておいた。私が居なくなればお前たち三人の居場所は無くなり、前大族長の家臣であるお前たちは追放されることになる。頭の良くないお前たちでは、一族の政治を担うことは出来ないだろうしな。だから私は出て行く前にお前たちを一族から解放する。三菱銀行にはお前たち全員が家を買えるだけの金がある。南青山にある小さなテナントも、桜の名義で買っておいた。お前やカラスにやらないわけではない。ギャンブル中毒と女漁りの名義はまずいと思っただけだ。桜が店のオーナーをやれば、毎月の利益の分配もやってくれるはずだ。買ったテナントの中にはラーメン屋もある。いつか突然金が無くなっても、そこに行ってラーメンを食べればいい」稚生は軽妙に言った。
「若君、おめでとうございます」夜叉は長い間沈黙した後、突然言った。
「おめで……?」
「いつもいつもどこかへ行きたいって言ってましたけど、具体的な事はなにもしないばかり、ネットで日焼け止めを買ったり研究研究それくらいだったじゃないっすか。でも今日は準備らしい準備を全部整えて、いつでもどこかへ行けるようにしているみたいで」夜叉は頭を掻いてため息をついた。「若君、桜を日焼け止め売りに連れて行きませんか?」
「桜を?」稚生は眉をひそめた。
「俺もカラスも、桜は可愛いって思ってるんですよ。というか若君、そもそもフランス語話せないですし、フランスで暮らすの難しいんじゃないですか? でも可愛くて有能な女の子を連れて一緒に暮らせば、スゴイ良くないすか?」夜叉は視界の端で稚生の表情を伺った。
「……出て行け。私の事はもういい、校長のファイルを資料室に返してこい」稚生は無表情だった。
「ちょっとこれ吸い終わったら」
「今すぐ出て行け」
「オーケー、オーケー、資料返したら戻ってきたほうがいいですかね?」夜叉は屈んで卓の上のファイルをまとめ始めた。
「いや、カラスと桜を呼んで極楽館の攻撃計画を立てる。こんな諸悪の集まる場所が大阪の山中でこんなに長く経営されていたのは、背後に政治家や警察高官が居たからに違いない。それが誰かを突き止める。極楽館の警備体制、武器の数、金の量、賭博客の数を知りたい。犠牲者は最小限に抑える。執行局全体を前に出すことはしたくない。道路を封鎖し、リストアップされた鬼は一人残らず……殺す」源稚生は石彫刻でタバコを潰した。
「若君……ちょっとこの写真見てください。犬山家当主と校長は……そこまで恨み合ってる感じじゃないと思いますよ」夜叉の声に驚きが透けて見えた。
 稚生は少し驚き、卓の近くまで戻った。夜叉が言った写真は、ファイルに挟まれて軍港の前でポーズを取っている老人と若者が写った白黒写真だった。脹脛ほどまで海水に浸かり、ズボンを捲り上げ、高層ビルのような空母を背に立っている。老人は若者の後ろに立ち、肩に手をかけ、日差しに晒されて目を細めて顔を歪ませていた。下のラベルには、1948年カッセル学院第一期日本支部長、犬山賀とアンジェ校長の写真であることが記されている。稚生は驚き訝しんだ。写真に写った犬山賀は昭和時代の「少年式」髪型で、顔は幼気そのものだ。稚生はふと思い出した。犬山はこの時まだ二十歳にも満たない少年、隣に立っているアンジェとは一世代以上違う。だが今では二人は同い年に見えるどころか、アンジェの方が少し若くすら見える。
「別にこれが二人の仲を示しているわけではないだろう。犬山氏は当時校長の傀儡だった。仲良くして見せているだけだったともいえる」稚生は言った。
「フフ、いやいや、違いますよ。親父がいない若君には分からんでしょうがね」夜叉は得意げに言った。
「……私に父親が居ないことと何の関係がある?」稚生は夜叉に嫌な所を突かれた。
「ほら若君、校長の仕草を見てください。犬山家当主の肩に両手を当ててるでしょう。小さい頃、俺も親父とこんな感じで写真を撮ってたんすよ。親父が体重を掛けてくるのにムカついて、ちゃんと立ってよ、って言ったら、親父は傘で俺の尻を叩いて、息子は父親の松葉杖になるんだ、ちゃんと支えろ、と言ってきたんです。まあ、松葉杖云々はどうでもよくて、とりあえず親父にとって息子はどうしたって息子、永遠に自分より小さな存在で、写真を撮るときは背の低い方が前に立つべき、って発想だと思いますよ」
 稚生は少し心を揺らめかせた。そういえば、橘政宗が出て行くときに取ったあの、後ろから両手を肩に掛ける動作、まるでこの写真の犬山賀とアンジェみたいじゃないか――


「で、校長は日本支部の集団リタイヤの件で来たんですか?」宮本志雄が遂に痺れを切らして訊いた。
「君達の管理は執行部だ。集団リタイヤで困るのはシュナイダー教授だろう? 私は旧友に会いに来たのだ。桜の花盛りで旅行には最高の季節だしな」アンジェは少し酔っているようだった。
「つまり、オロチ八家を敵に回すつもりは無いと?」竜馬弦一郎は驚いた。
 犬山賀は手を振った。「少し言わせてもらうが、君達は校長の話し方に慣れていないようだ。校長が言いたいのはつまり、集団リタイヤなど大したことではない、処理はシュナイダー教授に任せればいい、ということだぞ。校長はもっと大事なことをしに来たんだ」
「アガチャンは私の事をよく分かっているな、ハハハ!」アンジェは笑った。
「校長にわざわざ出向かわせるような件と言えば、高天原ですかな? 数十年間、シークレット・パーティはオロチ八家の秘密を暴こうとしてきた。だからこそお高く潔癖な欧州貴族も、恥を忍んで極道と協力してきたのですからな」犬山の声が一転、冷たくなった。
「いいや、全然違うな」アンジェは笑った。「私は極道だからといって蔑みなどせんよ」
「お世辞や口八丁を使うなんて、校長も変わりましたな」
「私が蔑まぬと言ったら蔑まぬのだ。古ぼけた委員会の奴らと一緒にするんじゃない」アンジェはゆっくりとグラスを持ち上げた。「そうでなければ、お前たちが今の今まで生きていられるはずも無かった」
 その瞬間、まるで不可視の剣が彼の全身から四方に突き出したかのように、女たちが殺気を覚えて跳び退った。
「校長、我々は今まで貴方を友人として扱ってきた。だからこそ、こうして娘たちを貴方に侍らせ、これだけの酒宴をも開いたのです。全て台無しにするおつもりですか?」犬山は眉を震わせ、剣のような鋭い眼光を向けた。
 アンジェはグラスを弄んだ。「1946年、私がカッセル学院代表として日本に着た時、お前はオロチ八家を代表して私と交渉した。ここと同じような和室で、女性たちを侍らせながら酒を飲んで、日本の混血種は外国人には服属しないと張り切っていたな。まるで1946年に戻ったかのような言い方だが、我々はもう数十歳にまで老いているのだぞ」
 犬山が手を振ると、女たちが素早く退き、両壁に背をつけて並んで座った。これが日本の伝統的な外交規範だ。男が真面目な論題を話し合う時、女の居場所はない。
「校長。私や竜馬殿、宮本殿が貴方の出迎えに選ばれたのは他でもない、我々が貴方の元学生だからです。我々は友好的なアプローチを模索しているのです。一族も強引なやり方で問題を解決するつもりはありません」
「君の言う強引な方法とやらを私が恐れると思うのかね? 私は1946年も今日も、同じように一人で来ているのだぞ」
「オロチ八家の相手は自分一人で十分だと?」
「八家全てを相手取るのは中々骨が折れるが……三家か四家程度であれば訳もないわ」アンジェは微笑んだ。「年を取るといかんな」
「ヒルベルト・フォン・アンジェェェェッッッ!!!」その言葉で遂に怒りの火が着き、犬山は机を叩いて立ち上がった。「お前という男の傲慢さはつくづく度し難いぞ!! 今のオロチ八家がまだ、数十年前と同じだと思っているのか!?」
「ふむ。あの売春斡旋屋のお前が今や芸能スターのプロデューサーになっているというのは、違うと言えば違うな」アンジェは気怠そうに言った。「だが売春婦がスターになったところでお前自身が優れた存在になったわけではない。若者の手慰みだな。二流のスターと食事の席を共にしただけで、まるでハリウッドの女王と寝たかのような話し方をする。『前の自分とは違う』と言いふらし、多少権力がある友人と親交があって、社交活動の末端に出席しただけで、世界中の権力をこの手に握ったかのように思い込む。ところでアガチャン、お前は今年で何歳なのかね?」
 犬山の目尻が毒蛇でものたうち回っているかのように震えた。アンジェの言葉が突き刺さったのだ。ファミリーの使者としてアンジェと交渉する為に来た男が、アンジェの言葉によってただのひねくれた子供に代わってしまった。アンジェからすればアメでもムチでも自由自在だ。
「アガチャン、どうやらうっかり心の中を曝け出してしまったようだな。こんな贅沢なシーンを演出して、女性を抱いたり、フーリガンみたいに振る舞ったり、私に友情について語ったかと思えば、急に手のひらを返して敵愾心を剥き出しにしおって。お前は自分の権力の増大を見せたいが為にこんなことをしているのか? 何年経っても、お前は自分の成長を見せつける事ばかりに必死なのだな」アンジェはマグロ刺身を一枚口に運んだ。「今にも死にそうな老人だというのに」
 犬山は黙りこくった。自分が錯誤を犯したこと、焦り過ぎたことを理解したのだ。橘政宗の任を受けた彼は休むことなく宴の準備をし、犬山家の提供しうる最高の宴会場を空け、弥美や和紗や琴乃といった女たちに全ての芸能活動を中断して戻るよう命じた。最高の歓迎と共にアンジェを迎え、今日の犬山家の隆盛を感じてもらい、自分の威勢を持ってアンジェを揺さぶり、その上で条件交渉をしたいと考えていたのだ。
 だがアンジェは老いていた。老いすぎていた。老いてまるで老古狸のようになり、抜け穴を一目で見破ってしまった……。派手な衣装をこさえねば高らかに話せないというのは、その心の底に怯懦があるからだ。
「……校長、我々は既に六十年服従した。六十年……十分だろう?」犬山は沈んだ声で言った。「お前の学生はまだ生きている。我々にシークレット・パーティへの負目は何もない。我々はただ、シークレット・パーティに我々の事件に介入して欲しくないだけだ。それすらもできんのか?」
 アンジェは笑った。「お前たちの事件? その事件というのは何なのだね?」
「言う事は何もない。一族の秘密は部外者が知ることではない!」
「ならば私がお前たちの一族の秘密を教えてやろう。お前よりも知ってるかもしれんな?」アンジェは煙をひと吹かしした。「日本は島国だ。外界との接触も少なく、日本の混血種の起源は常に謎だった。古くから今に至るまで、この島国はヤマト民族に統治され、日本人は常に鎖国されていた。それゆえ、伝統的な混血種の社会に日本は含まれず、明治維新の前まで我々は『オロチ八家』という言葉すら知ることは無かった。閉じた国家の中に強大な混血種ファミリーが存在するのは何故か? この問いに答えたのは遺伝子比較技術だった。我々はお前たちの遺伝子を数十年間研究し、衝撃の結果を得た。お前たちの遺伝子はヨーロッパどころか、中国の混血種とも完全に異なる。お前たちの龍族遺伝子の起源は、未知の龍王なのだ!」
 宮本志雄と竜馬弦一郎の表情が一変し、犬山は手を伸ばして二人の肩に置いた。
「龍族遺伝子は大きく分けで地、水、風、火の四種に分けられ、それぞれの権能を有する四大君主に分類できる。だがお前たちの龍族遺伝子は、未知の第五の種類に属している」アンジェは犬山の目を見つめて言った。「アガチャン、四大君主の他に私が討ち漏らした龍王とは何かね?」
「それを、ずっと前から知っていたのか……」犬山は幽々として言った。
「白王……その末裔。まさか存在しているとは思わなかったな。我々は数千年もの間、お前たちを探していたのだよ」アンジェはゆっくりと言った。
 死んだような沈黙の中で、沈重な呼吸音だけが響く。まるで刀が抜かれたかのように、秘密は明かされてしまった。遥か昔から「白王」という言葉はオロチ八家のタブー用語で、白王を示す言葉はヨーロッパ混血種から秘密を守るために別の言葉に置き換えられていた。別格の黒王を除けば、白王は龍族の王の中でも最高位に位置する。黒王による最大最高の創造とも言われ、黒王が自らに匹敵するものとして作り出した唯一の存在とされる。白王が反乱を起こした時、黒王はほぼ絶滅に近い所まで追いやられたという。最終的には黒王が勝利したとはいえ、白王は黒王に対抗できる唯一の龍王であり、その末裔もまた他の末裔を凌駕する力を持つ。
 オロチ八家が白王の血を継承しているということがどれだけ珍奇なことか。その秘密が世に漏れれば、世界中の混血種の貪欲を呼び起こすことになるだろう。
「お前は我々の何が欲しいのだ?」犬山は呼吸を整えた後、ゆっくりと尋ねた。
「全てだ」
「……全て?」
「龍族の宝庫だった高天原も、白王の血もだ。それをお前たちだけのものにするというのは、いつ暴発するか分からないリボルバー銃を子供に持たせるようなものだ」
「校長ならこの秘密を全て掌握するに相応しいと?」
「お前たちは全てを台無しにした。高天原は破壊されたが、そこに埋葬されていた神は逃げ出してしまった。そうだろう? 大惨事はもう目前だ。全て教えろ、手遅れになる前にな」
「全てを知れば、校長はオロチ八家を助けるのか?」
「いいかアガチャン、お前たちは自分の敵が一体どんな奴なのか全然理解していないのだ。奴の力は想像をはるかに超える。目覚めるだけで大惨事、無論、日本もその災禍を逃れられぬ! 一夜にして国をも滅ぼす怪物だ、お前たちに対処できるものではないのだ!」
「校長、貴方の頑固さは相変わらずだ。オロチ八家はただの極道分子、高貴なるシークレット・パーティとは比較にもならない、そうお考えなのでしょうな。我らが殺せぬ龍王を殺せる、解決できない問題を解決できる、だから貴方がたはいつもいつも我らに上から目線に、頭を下げて聞けとばかり言う……」犬山は無表情だった。「しかし悪いが、お前の要求は通らない。ここは日本、我らの国にして我らの家、ガイジンが口を挟むところではないのだ!」
「ほう、ついに国家民族主義にまで来たか。まるでユキオ・ミシマと対面しているような熱烈さだ」

三島由紀夫は、ノーベル文学賞を受賞した川端康成や大江健三郎と肩を並べる日本の著名作家である。しかし彼らは同時に、軍国主義的特色の思想を持つ日本右翼の過激派分子でもあり、武士道を奉ずる者達でもある。戦後に民間武装組織「盾の会」を結成した彼は、陸上自衛隊の総監を拘束しバルコニーから自衛隊士官たちに向けて演説を行った。日本が軍隊を持つことを禁じた憲法を覆し、天皇と伝統を守るべきだとしたが、受け入れられることは無かった。部屋に戻った彼は「七生報國」と書かれた日の丸の鉢巻を頭に巻き、伝統的な切腹自殺を行った。

「それとも校長、捕らえた魚は網が破れるまで手放さないつもりか?」犬山は言い聞かせるように言った。
 アンジェは首を横に振った。「網の中で生きているとでも感じていたのか? だからそんなに老いてもまだ、必死に抜け出そうと藻掻くのか」
「校長! 我らの我慢にも限界がある!」犬山の顎髭と髪が広がり、怒った目は金剛のようだ。「これ以上どうこうできると思うな! 我らに退路は無いのだ!」
 アンジェは頭を掻いた。「シーザー・ガットゥーゾ……私の学生は知っておるか?」
「ガットゥーゾ家の継承人? 当然知っている」犬山は戸惑った。
「かつて私は、彼が『中二』の病を患っているという学生たちの噂を聞いた。未知の病かと思ってネットで検索してみると、どうやら日本語起源の若者言葉らしく、『中二』は中学二年生の事だと知った。子供は中学二年生になると少なからず性格が変わるらしい。自己中心的になり、自分は成長したとか、昔の自分とは違うとか言うようになり、タバコを吸ったり、ヘビーメタルを好んだり、ラーメンの味を批評したり、社会の大人を超えた真の大人だとか思い込み、世界は汚い物だと考える。自分ならクラスの女子全員と寝れるとか、やれば出来ると思ってバイクを盗んだり、クラスのカワイコを海に連れていくとか考えるが、本当は何もしない……要するに、自分をハーレムアニメの主人公だと思い込んでいる奴のことだ」アンジェは微笑みながら犬山の娘たちを見た。
 犬山は呆然としながらも、眉間の皺で深々とした山模様を作った。
「だが、シーザーは典型的な中二病ではない。彼には正義があるからな」アンジェは続けた。「真の中二病は自分を孤独と考え、『男に後退の二文字は無い』とかバカみたいなことを言うが、いわゆる『後退』がどういうことかは考えた事も無い。父親に久しく尻を叩かれた事も無い。あの男にまた尻と叩かれたら叩き返してやると、心の中では言ってみせるが……」
 犬山はようやく理解した。アンジェが一言放つ度に犬山の顔に怒りの皺が刻まれ、瞳孔に金色が浮かび上がっていく。
「友人に裏切られたことなど一度も無いのに、友人はみんな間違っていると言う。大人の社会の圧力を受けようが、結局視界の端にはいつまでも親がいる。ろくに宗教も理解しないのに、神はニセモノだ、闇こそ永遠の真理だとか言う……」アンジェは滔々と話し続けた。
 アンジェという男は、例え話し途中にナイフを突きつけられても、優雅な一面を崩さない男である。だが今、彼は犬山賀をこっぴどく嘲笑し、言葉をオブラートに包む事も無く、最も鋭い言葉で犬山の心を突き刺し続けていた。
「だからお前はアガチャンなのだ!!」アンジェはグラスを置いた。
 大きなアンジェの声は、まるで小さな和室で獅子が咆哮したかのうように、全員をひりつかせ、完全な沈黙が訪れた。
「1946年、お前は中二病少年だった。65年経ってもまだ、お前は中学二年生なのだな」アンジェがゆっくりと袖を捲り上げると、左手首に猛虎の頭、右手首に夜叉の鬼面が現れた。刺青は青染と朱砂で彫られ、獰猛にして華美。これに比べれば長谷川義隆の刺青など子供の落書きである。ケンブリッジ卒の老紳士が、日本極道の中でも最高等級の虎と夜叉をその身体に持っているなど、誰が思おうか。
「さあ、補習授業をしてやろう」アンジェは冷たく言い放った。


 稚生は分厚く重いファイルをめくりながら、ヒルベルト・フォン・アンジェという男の人生を想像し、惹かれたり戸惑ったりを繰り返した。彼の指の間のタバコはすっかり白くなり、一服することすら忘れているのが分かる。
 その男は他人よりもはるかゆっくりと歳を取る。彼の言霊『ゼロタイム』と同様に、時間の肉体への影響が大幅に減少させられているかのようだ。19世紀後半から20世紀前半までが青年時代、長い20世紀中期には中年時代、1970年以降はほとんど老人に等しい。彼の一番最初の写真は1896年、ハロゲイトからロンドンに旅立った時に撮影されたもので、小さい柔らかなフリンジを被り、屈強な主教に抱えられている様は警戒している子猫のようだ。ケンブリッジ時代の写真に写っている彼は精巧な学士服に身を包み、きらめく黒い革靴と白い靴下が見事なコントラストを醸し出している。「溜息の橋」の前で高いトップハットをかぶり、日よけ帽をかぶった女学生と一緒に写っている。アメリカ海軍時代の彼は白い海軍将校の制服を着た長身ハンサム、白い軍帽と指揮権を象徴する乗馬鞭を腰に提げている。しかし戦後の写真となると彼は突然温厚な老貴族に変わり、オーダーメイドの縞模様スーツを着て白いハンカチや赤いバラをポケットに刺し、様々な社交場に出席し、シャンパングラスを持った政治家や芸術家、慈善活動家に微笑みを見せている。
 彼は時の流れの上を静かに歩み、千差万別の人物を演じ、共に戦い、共に酒を飲んだ人々が物言わなくなって死んでいく様を、孤独の中から見てきたのだ。
 一体何がこの男を幾年にも渡る孤独の中で支えているのだろうか。死は孤独において、もはや恐れるものではない……あの医者の言葉は正しかった。彼を生かしているのはただ一つの信念……復讐なのだ!
 とあるページに差し掛かった時、稚生は固まって手を震わせ、長いタバコの灰が直接、先程夜叉が食道から持ってきた味噌汁の中に落ちてしまった。写真は1948年、東京のとある剣道場でスーツとシャツを着た男が両手に木刀を持ち、甲冑を着て木刀を持った10人の男が前後左右を歩き回る中で、無言で固まっている。その筋肉には満面のパワーが蓄えられ、流水の如く刀身にパワーが流れ込み、写真の中で固まっている男の敏捷さが想像できる。
 一対十の試練だ。この写真は男達が襲い掛かる最後の一瞬に撮られたのだろう。流派によっては弟子の評定の際に一対多数の試練を課すことがあり、無論多を務める者も門中でも優秀な者達が集められる。そして試練に合格すれば剣道の最高称号である「免許皆伝」が与えられる。歴史上でもこの称号を得た男の半数以上は「剣聖」あるいは「剣豪」と呼ばれており、稚生もまた「鏡心明智流」剣道の免許皆伝である。鏡心明智流は日本剣道史上でも赫々たる大流派だが、その試練は最高でも一対七だ。一対十の試練を課す流派とは一体何なのだろうか……?
 写真の下に説明があった。1948年、「二天一流」門下ヒルベルト・フォン・アンジェは「十番試練」を通過、免許皆伝の証書を取得。……
「二天一流」とは、日本の歴史で最も名高い剣聖・宮本武蔵が創立した流派だが、流派としては宮本武蔵本人ほどの権威を立てる事ができず、武蔵の死後急速に衰退し、十分なレベルの師匠を生み出す事ができなかった。武蔵の戦術が問題だったのではない。創立した流派の門下に要求される才能があまりにも高く、一般人ではまともに剣を振ることすらままならなかったからだ。武蔵がそれ以前に作った「円明一流」はより実践的で、努力で身に付く剣術だったが、老齢になってから創立した「二天一流」はいわば「空想の剣」、極端な剣道理論に基づいて作られ、一般人の身体能力の限界を超えた、現実性のないものだとされていた。
 だがファイルの記録によれば、アンジェは二天一流の最高ランク「免許皆伝」を取得したという。これはつまり、このイギリス生まれのフランス系アメリカ人が、日本最強の剣道師範の一人に数えられるかもしれないということだ。
「……なんということだ」稚生は呟いた。
 ファイルの更なる説明によると、アンジェは日本に延べ三年滞在し、その三年の間に執行局を設立、日本支部の組織体制を確立させたという。同時に格闘戦術の研究も好み、二天一流唯一の継承人である剣道師範の丹生岩とも不動の友人関係を結んだ。設立されたばかりの日本支部は人員をオロチ八家から借用していた。秘書に充当されたオロチ八家の神主は、当時東京に滞在していたアンジェの赫々たる威名を古風な文章で克明に記録していた。「校長、日ノ本文化ヲ雅ニ愛セリ。二刀流得手ニシテ、十人ノ手合イヲ数秒ニテ討リ取ル也……日本酒好ク飲ミ、常常酒屋ニ一番強キ焼酎ヲ遣ワセ、支部諸君ニ振舞エバ、鶏鳴時ニ帰リテ来ル也……三年中道ニハ其ノ威感服セリ、号曰ク『十番打』也」……
「あー! なんてこった!」夜叉も大声を上げた。「校長って剣聖なのかよ!」
「それがどうした? 私が言いたいのはそこではない」稚生は眉をしかめた。「校長の刺青を見てみろ。どれだけの地位に就いていたかが判る」
 写真に写っているアンジェはシャツの袖を捲り上げて筋肉質の前腕を見せていた。左腕には斑斕たる猛虎、右腕には青い獠牙を持った夜叉。典型的な浮世絵風だが、その仕上がりは明らかに日本刺繍のプロの手によるものだ。
「親父から聞いたんですが、戦後すぐの頃はみんなで一緒にアメリカ人を接待してたそうっすよ。まあ、占領軍だから仕方なく、ですけど。一族がシークレット・パーティに協力する時、シークレット・パーティのリーダーにしてアメリカ将校だった校長は、みんなで寄ってたかってご機嫌を取りに行ってた相手だったんじゃないすかね。それで一族も最高ランクの刺青を送ったんでしょう。普通だったら校長の背中に彫るようなデザインじゃないっすよね」夜叉は言った。「日本の三年で校長は完全に極道の長の一人になったってことっすよ」
 稚生は頷いた。「校長が剣聖かどうかは関係ない。問題は校長が日本極道の中に居たという事だ。校長にとって我々は自分の学院と同じようなもの。つまり、日本は校長にとって決して外の戦場というわけではないということ。歓迎会を利用して圧をかけることも予想していたし、それでも犬山家の送った車に乗って一人で乗り込んできた……夜叉、お前も極道分子だ、ストリートバトルは十数年やって来ただろう。相手が良く分からない宴会を開いて、それでも一人で出て行くというのは、どういうことだ?」
 夜叉は頭を掻き、すこし恥ずかしげに言った。「若君、俺は確かに昔はストリートギャングでしたけど、若君に拾われてから俺のストリートは即ち若君の歩いた道で、だから今、俺もすごいまともな人間なんです。しかも今の若君は大族長。俺もただの極道分子って言われる立場じゃありませんよ」
 稚生は半ば呆れながら、手刀を作って夜叉の後ろ首を小突いた。「真面目に答えろ! 私はお前を軽蔑したわけじゃない。要するに、ストリートギャングの時のお前が身一つで危険な宴会に飛び込む、それはどういう時なんだと訊いているんだ!」
「そりゃあ、下準備をしっかりやった時でしょうね。コートの裏地に刃を仕込んで、腰と袖の裏にナイフを入れて。相手が罠を仕掛けて来たなら、その隠れ家に乗り込んで、相手のボスを直接ブッ刺してやろう……なんて、そういう時ですよ」夜叉は自信満々に言った。「俺も全盛期の時にやりましたよ。わざわざ手前までやってきてやるっていうのは、準備が完璧だっていうこと、その場が俺の支配下にあるってことですよ!」
「だからか……」稚生は呟いた。「アンジェも十分に準備をしてきたというわけだ。彼は日本を知らないアメリカ・ガイジンではない。帰ってきた極道のベテランだということ……そして、場は既に自分の支配下にあると理解しているのか……」


 犬山賀は和服を振り開き、腰に提げられた一段深い紅色の木柄を露出させた。名刀「鬼丸国綱」――日本史上最も有名な斬鬼刀。犬山は刀柄を握り、龍のような叫び声を響かせた。
「犬山君!」竜馬弦一郎が叫んだ。
 交渉の場のはずだった。一族が本気でアンジェとの戦争を望んでいるわけではないと理解していた竜馬弦一郎は、アンジェと交わす為の言葉も全て用意してきた。だが怒り狂った犬山賀が突然武器を取り、真剣で殺しあうことになってしまえば、オロチ八家とシークレット・パーティの関係は崩れ去ってしまう。
「ここは犬山家の場所だ。ここの事は俺が決める。竜馬家当主、宮本家当主、退きたまえ」犬山は冷たく言った。「俺と校長の間では特段珍しいことではない。そうだろう?」
「そうだな。私に倒されて息絶え絶えになるのも、珍しいことではなかったな」アンジェは灰皿に葉巻を置き、手首の折り畳みナイフをちらつかせた。「武器が平等でないというのは、面白くないのではないかね?」
 琴乃が黒い鞘の長刀を一本捧げながらアンジェの近くに跪いた。「名刀『一文字則宗』です。校長、ドーゾ」
 和紗が白い鞘の長刀を一本捧げながらアンジェのもう一方に跪いた。「名刀『長曽弥虎徹』です。校長、ドーゾ」
「丹生先生から学んだ刀術、六十二年経った今でも覚えているのか?」犬山の声は平静を保っていた。
「アメリカでは、あまり練習していなかったがな」アンジェは両腕を広げ、鞘を刀から押し放した。
 灯りが突然暗くなり、鬼丸国綱の鞘から一筋、血の虹のような光が迸った。犬山賀が取っている姿勢は「居合」、またの名を抜刀術、日本刀術における神速の斬だ。長刀は鞘を離れた瞬間肉眼では捉えられない高速に達し、相手は斬られるその瞬間まで何が起こったのか分からないこともある。刀術の極致、防御も絡手もなく、全ての力を攻撃に捧げる。犬山とアンジェの間には長さ十メートルの長卓があったが、犬山が抜刀した瞬間、刀の先は既にアンジェの目前にあった。
 徐、破、急! 「横一文字」三連斬! 一糸の風も起こることなく、ただ卓上の甕に植わった桜の花弁が音も無く落ちるのみ。
 刀が鞘から離れた瞬間、犬山賀が卓面に飛び乗ると、刀の痕が迅速に延びていく。卓が、甕が、桜が、刺身の乗った白木の船が、全て一瞬で一刀両断された。犬山賀の斬撃が十メートルほどまで伸びたのだ!
 左右の両刀が同時に鞘から抜かれると、アンジェは長卓を荒々しく蹴り込んだ。アンジェはその反作用で後退し、卓上にいた犬山の足場を崩した。
 犬山は跳び上がり、空中で再び斬撃を放った。刀先は巨大な円弧を描き、垂直に斬り下ろされ、直接アンジェの「水月」を狙う。居合道において、水月とは胸元の事を指す。

 アンジェは双刀を交叉させ、対空防御した。しかし犬山の体重と墜落のパワーを得た鬼丸国綱の前にアンジェは後ずさり、和室の障子戸に打ち付けられた。鬼丸国綱の真っ赤な刀光が、アンジェから半メートルもないところで影のようにゆらめく。一般人の目には、彼らはまるで完全に地球の重力を無視しているような、アンジェなどは実体のない幽霊のようにも見える。後退しながら刀を振ると、その先が鬼丸国綱に当たり、軽快な音を立てた。犬山の攻撃はさながら巨熊で、一歩踏み出すごとに床全体が震動する。和室の外には両側に竹の植えられた松の回廊が続いているが、鬼丸国綱の刀光の中で竹の枝や葉が飛び散り、行く先の道のものすべてが鬼丸国綱に粉砕された。その刀は一度鞘から抜かれれば、まさに檻から解き放たれた狂龍の如し。
 鬼丸国綱が床に沈むと、犬山は半ば膝をつき、竹笹がその肩に舞い落ちた。犬山は雨傘の上の水を払うかのように、刀を握った手を右へ振り払った。居合剣において「血振」と呼ばれる動きであり、人を斬り倒した後刀に残った血を振り落とす動作という意味だ。
 その名の通り、鬼丸国綱の刃から一滴の血が飛び、琴乃の真っ白な肢肌の上で、紙の上の赤豆のように綺麗な血滴を作った。
 一筋の暗紅色の流光を帯びながら、鬼丸国綱がゆっくりと鞘の中に滑り込んだ。この刀と犬山賀と居合道の組み合わせは無数の練習を重ねてきたが、今日のそれは何時にも増して行雲流水……潜在能力の極致というものは、何かの打倒を決意した時に起こりうるものなのである。
 犬山の娘たちが和室から飛び出して犬山賀の背後につき、犬山賀は刀を構えて前へと歩いていく。まさかアンジェに致命傷を与えたなどとは思っていなかった。アンジェは笹の葉で視界を遮り、階下へと逃れる機会を作り出したに違いない。
 だが、みすみす退却させる謂れはない。今日の玉藻前には雲の数ほどの刀が隠されているのだ。
 犬山が見下ろすと、アンジェは踊り台の中央に立っていた。金色の舞姫が彼の近くへゆっくりと動いていくと、スカートの裾に手を伸ばし、その中から短刀を引き抜いた。
「なるほど、女性の刃の隠し場所はそこだろうな」アンジェは舞姫たちの鮮やかな肌を賞賛した。
 琴姫たちは和服の後ろ首部分から模造量産型「菊一文字」を引き抜いた。長刀の柄は彼女達の背骨に沿い、刀柄が腰の下に伸びていた。彼女たちが堂々と垂直に座っていたのはこれがあったからだ。琴姫たちは両側の階段からゆっくりと階下へ歩いていき、包囲網を形成した。
「校長、絆創膏は要りますかな? それとも痛み止めに焼酎でもどうかな? 昔のようにね!」犬山賀は大声で嘲笑した。
 かつてアンジェが犬山に言った言葉だった。アガチャン、膏薬は要るかね? それとも痛み止めに焼酎かね? お前の泣き顔は全く醜い、まるで客に虐められた売春婦のようだ。ああそうか、お前はその斡旋をしていたんだったな。その酷い泣き顔も当然だ……。
 今日ほど幸せな瞬間はかつて犬山には無かったが、それでも彼の顔は怒りに歪み、山のような皺が眉間に重なっていた。
 眉間にわずかな痛みを感じ、血が一滴落ちた。アンジェがさりげなく刀を振ると、長曽弥虎徹がその血滴を刃の先で受け止めた。
 犬山が眉間を抑えると、指先に一抹の血が広がった。眉間に残った細い刀の傷痕が静かに開き、一滴の血が鼻翼に沿ってゆっくりと下へ流れていった。
「遅すぎだな」アンジェは双刀を回した。「カッセル学院を離れてから、お前はますます遅くなったぞ、アガチャン。所詮チンピラはただのチンピラ、というわけだな」
 舞姫たちの短刀を無視しながら、アンジェはゆっくりとスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを解き、シャツを脱いだ。その場の全員が息を呑んだ。アンジェの背中には一幅の完璧な刺青絵が施されていた。手首に広がる虎や夜叉の頭は、そのほんの一部にしかすぎなかったのだ。無数の夜叉と無数の虎が火雲の中で殺し合う、夜叉の国と猛虎の国との戦争が描かれている。アンジェがゆっくりと肩を後ろに動かし、筋肉が伸びると、朱砂紅色の夜叉と靛青色の猛虎が浮かび上がった。互いの喉を絞め、鋭い歯を突き立て合い、雷電稲妻の鉄槌を穿ち、溢れんばかりの殺意が刻み描かれている。まるで地獄の悪魔が自ら描いたような、世界の全ての凶暴性を凝縮したような絵が、この一人の男の背中にある。
「諸道の暴悪」、極道の中でも最高位の刺青。過去、この刺青を入れられた人物は大族長しか存在しない。犬山賀の背に描かれている『能戦閻魔図』など、これに比べれば下も下だ。
「刺青は消さなかったのか?」犬山は訊いた。
「当然だ。何故消す必要がある? これは私の身分の証明なのだ。1948年の夏、私は日本極道の最高の地位に居たのだよ。お前の地位など靴磨きとそう変わらんわ」アンジェは冷笑した。「お前などただの不良学生だ。極道といってもこの程度に過ぎん。アガチャン、お前の教師として私は本当に恥ずかしいぞ!」
「犬山さん! そんな挑発に乗るんじゃない!!」宮本志雄が和室から飛び出して来た。
 だが手遅れだった。既に犬山賀の心は怒りで満たされていた。彼は腰に提げていた白い扇子を引き出し、踊り台の中央に投げ落とした。
 全ての照明が消え、レーザーが交わって網を形成する。まるで溶岩が地面から噴出したかのように、プロジェクションランプが屋根にゴウゴウと燃える炎のような光を投射した。重低音が四方八方からダンスホール中央に向かって鳴り響くと、それに合わせて舞姫たちの両手に握られた無数の短刀が白い光と影を反射し、琴姫たちの長髪は墨汁滴る筆が紙上を滑るが如く乱れ揺れる。日本刀術における九種の斬法が全て繰り出されていく……唐竹、袈裟斬り、逆袈裟、左横斬り、右横斬り、左斬り上げ、右斬り上げ、逆風、刺突……アンジェの全身が刀光で埋め尽くされる。
 レーザービームが飛び交い、雄滓なる背が女たちの目の前で捻られ、夜叉が轟き、猛虎が轟く!
 無数の刃が一瞬にして折られ、女たちは反応する間もなく襟首を掴まれて投げ飛ばされた。踊り台で何が起こっているのかは誰にもはっきりと見えず、ただ黒い影が放られ、踊り台近くに珠のような身体が散らばっていくのだけが分かる。
 世津子が宙に踊り出て、二本の小太刀を交錯させ、飛燕の如く翔び回りながら、二階から踊り台の中央に直接飛び込んでいった。
 バレエ界の若きスターである彼女が剣道少女的なポニーテールをしているのは不思議なことではない。彼女のバレエの才能が「十分」なら、剣道の才能は「十二分」である。両手に小太刀を構えたこの刀術流派は「小太刀二刀流」と呼ばれ、常に先手を取り、当てると同時にもう一方の刀攻撃を加える「不破の防御」を繰り出す。二刀流において最も重要なのは眼力だ。相手の攻撃を予測して先手を取るためには眼力が必須であり、「一に鷹の目、二に刀」とも言われる。
 世津子はアンジェの武器を鷹の目で見据えた。レーザーが照射されたその時、アンジェの手には刀ではなく一本の野球バットが握られていた!
 アンジェが世津子をバットで殴る。小太刀はその重量級武器を抑えられず、バットは世津子の顔面中央を打ち据えた……翔び掛った飛燕は一太刀どころか、バット一振りによって叩き落されてしまった。
 アンジェは墜落した世津子をお姫様抱っこして、自嘲気味に笑った。「これほど老いても、なおこんな『男らしい』ことをする羽目になるとはな。いやまったく、悲しいことだ」
 世津子を放ったアンジェはバットを手に取り、前へと踏み出した。バットがブンブンという風切り音を立てながら、一振りごとに女たちを叩き飛ばしていく。女が刀を振るおうと思っても、その前にバットが振るわれて頭を殴られてしまう。
 彼女達はアンジェを見誤っていた。単なる老人として、若者に足蹴にされる老人として、傲慢ながらに自らの官能を見せつけながら、自らの若さで嘲笑っていた。だがこの瞬間、アンジェは礼儀正しいオールドジェントルマンではなく、ド級の悪、中学生のガキ大将のように振る舞い、女子を捩じ上げようが傲岸になろうが、何の手心も加えることが無かった。もしソ・シハンがこの一幕を見ていれば、可愛らしい妖怪小龍女に心動いてしまうような己の浅薄さを恥じただろう……。そしてカッセル学院で最もホストに相応しい男は、心の猛鬼を復活させたこの校長だと言える。アンジェが今東京で最有力な新興ホストクラブ「高天原」で働き始めようものなら、無下にされたり、言葉攻めされたりするのが好きな女性たちは、イケメン無口の「右京」をも捨てて彼に下ることになるだろう。
「すまんな。私は歳を取りすぎて、セクシーの良さが分からなくなってしまったのだよ」アンジェは両手で琴姫の一人を放り投げると、再び彼女を空中で引っ掴み、床に向けて叩きつけた。「おジイさんはもう少し労わって欲しいものだ」
 弥美は武器ラックから十文字槍を取り出した。古代の武将が馬上で使っていた武器だ。当然玉藻前には馬は居ないため、弥美は二階に飾られていたハーレーダビッドソンオートバイに乗り込んで、直接踊り台に突っ込んでいった。
 バイクを盾にした彼女の突撃は、宝蔵院槍流の真骨頂だ。彼女の劇配役は良家の娘といったものが主だが、もし演出監督がその場にいたなら配役ミスを後悔することになっただろう。彼女のその一直線の突きは、女版の真田幸村すら演じることができる。
 だがその瞬間、十文字槍が彼女の手から奪い取られ、アンジェが跳んで空中でバイクの燃料タンクに蹴りを入れた。バイクは部屋の角に向かって吹き飛び、気絶した弥美が宙に浮いた。
「まったく、お前たち日本人はどれだけ武士道が好きなんだ? 現代になってもやることはタケヤリ突撃か」アンジェは弥美を近くにあった衣裳ハンガーに引っ掛けた。
 琴乃がハイヒールを蹴り、重狙撃銃を組み上げた。彼女は1.5キロメートル先のトビウオを撃ち抜いたこともあるエーススナイパーだ。今日に限ってはその能力も役に立たないが、美女としてこの場に出席している以上、連戦連敗を喫している犬山家の尊厳を挽回しないわけにはいかなかった。しかし素早く動き回るアンジェには狙いをつけることもできない。その時、接待女衆最後の一人である綾音が武器を取り出した……新人アイスバレエダンサーが扱う武器は、APILAS112mm対戦車ロケット・バズーカ! 琴乃は慌ててライフルを放り、綾音の傍に急いだ。玉藻前の中でこんな武器を使うなんて狂気の沙汰だ、アンジェも逃げられないだろうが味方も巻き添えになる。
 綾音は生まれつき双極性障害の性があり、衝動的になりやすかった。国際試合で審判に不満を持った時、その場でスケート靴を脱いで投げつけたこともある。
 琴乃と揉み争ううちに綾音は引き金を引いたが、バズーカは発射されなかった。上から折り畳みナイフが付きたてられ、引き金の伝達装置が破壊されたからだ。
 いつの間にかアンジェは二階に上り、綾音のバズーカ銃身を胸に抱えていた。彼は眉をしかめながら、戦慄する二人の後輩を睨みつけ、綾音の側頭部に拳を一撃した。
「一生見守ってやりたまえ。気難しい子の責任を取るのは愛する者の義務だぞ」アンジェは綾音を止めようとした琴乃に賞賛の意味を込めて指を鳴らし、再び翻って踊り台に飛び降りていった。

 舞曲が終わると同時にアンジェは両手でバットを振るい、六人の女を同時に叩き飛ばした。最後に立った一人となったアンジェは、筋肉伸張、汗気蒸騰、その背の影は若者のように剽悍だった。
 頭上から古鐘のような大きな音が鳴り響いた。アンジェが見上げると、まるで紅い海が天から降り注ぐかのように、屋根から巨大な紅絹織が垂れ下がってきていた。その真ん中には黄金の「卍」字が刺繍されている。
 アンジェは踊り場の中央に突き刺さった一文字則宗を引き抜き、対空一閃。紅い海が割裂する。紅絹織が落ちると、玉藻前の床全体が覆われた。双刀を手にしたアンジェの視線の先にはゆっくりと階段を降りてくる犬山賀がいた。舞姫や琴姫や娘たちが惨いことになっていても、犬山賀はまるで無関係であるかのように三階に座してパイプを吸い、そして音楽と集団戦が同時に終わった時、パイプの灰をしっかり落としてから、紅絹織を繋いでいた綱を斬り捨てたのだ。
 その時初めて真面目な顔になったアンジェは、ゆっくりと両肩を動かして首をひねった。犬山は歩きながら和服を脱ぎ去り、背中の「能戦閻魔図」を露わにし、鬼丸国綱を鞘の中で震わせた。
 夜叉猛虎と能戦閻魔の決戦。どちらの刺青も栩栩として、まるで神話から復活した妖魔のよう。彼らの戦場は、紅絹織に舗装された玉藻前。
「しかし、校長の『ゼロタイム』は相変わらずキレキレですな」犬山は賞賛した。
 初めは今にもアンジェと決闘でもしそうな怒りを表していた犬山だったが、いざ戦うなるとその顔は水の如き平静となった。
「私の言霊を刀のように言うんじゃない」アンジェは笑った。「君の刹那を使ってみろ。あの頃は七階までは行ったが、この歳になってもまだ行けるのか?」
「では、我等が決意をご覧にいれましょう、校長」犬山はゆっくりとしゃがんで刀を押さえ、沈思するかのように鬼丸国綱の柄を見つめた。
 踊り場に一片の沈黙が訪れた。刃光も刀影も消え失せたが、十倍の殺意が弥漫する。女たちは壁を背にして不安げに立ち竦み、アンジェと犬山の為に開けられるだけの空間を空けた。本物の決闘だ。犬山は怒り狂っても理性を失ってはいなかった。アンジェの事をよく理解していた彼は、数の力は言霊「ゼロタイム」に通用しないことを理解していたのだ。女たちの刀がどれだけ鋭くても、どれだけ洗練されていても、どれだけ致命的な一撃であろうとも、その速度が実際の十分の一に見えれば、子供が突撃してくるようなものになってしまう。
 これが「ゼロタイム」、刺客の言霊とも言われる、パラドックスの言霊。この言霊を発現させた者は時間の縫隙を行き来する影のような存在となる。魔改造マセラティを全速運転しても、アンジェはあらゆる瞬間を見逃さず、その操作には十分の一秒の狂いも無い。瞬間を見逃さないというのは、無敵に等しい……「ゼロタイム」をも超える速度で動かれない限りは。
 言霊「刹那」、それはゼロタイムを超える速度を生み出す唯一の言霊である。
 刹那は解放者自身の行動速度を指数関数的に増加させることができる。加速効果は2の倍数で増加し、初階の刹那は速度2倍、二階の刹那は4倍速、三階の刹那は8倍速、四階の刹那は16倍速……七階まで突破された刹那は128倍速となる。
 犬山賀の言霊こそこの「刹那」である。全盛期には128倍速まで到達し、オロチ八家の剣聖と呼ばれていた。これに居合の刀を組み合わせると、相手は刀身を見ることもできず、空気中にかすかな一筋の閃光だけが残される。
刹那をどこまで上げられるのかは誰も知らない。歴史上「刹那」で有名なのはかつてシークレット・パーティ長老会に所属したシャル子爵で、特別に設計された六連リボルバー双銃で十二発の弾丸を同時に発射すると言われていた。ただ一度の銃声で十二条の弾道が現れ、全方位を薙ぎ払ったという。彼の刹那は最大で8階とされている。シャル子爵が「銀翼」の二つ名でヨーロッパ大陸の龍殺しに駆け回っていた時、アンジェはまだケンブリッジの一般学生だった。シャル子爵はアンジェの教師の一人であり、彼の「刹那」を理解することはアンジェの「ゼロタイム」の運用を遥かに改善することになった。アンジェが犬山賀を学生として受け入れたのは、彼の言霊が「刹那」だったからだ。言霊序列において刹那は「ゼロタイム」の唯一の天敵であり、アンジェは犬山の力を借りて自らのゼロタイムを洗練させたのだ!
犬山がアンジェの防御を破ったことはなかった。刀術とは何の関係も無く、ただ、彼の速さが足りなかった。
「刹那」は「ゼロタイム」よりも序列としては低いが、言霊の強弱が即ち序列というわけではない。無限の速さを手に入れられれば、「破れない」防御などこの世にはない。ただスピードさえあれば! 速く! もっと速く!
 三階から見下ろしている宮本志雄と竜馬弦一郎は互いに顔を見合わせた。明らかに不本意な展開ではあったが、状況を何とかできる方策があるとも思えない。犬山賀はもはや固く引き絞られた弓となり、誰も彼を止める事はできず、ただ静かにその矢が放たれるのを待つしかできなかった。
 アンジェは未だにリラックスした姿勢を取っている。犬山の殺意が滾るほど、彼の嘲笑の顔色も滾っていく。
「バカ!」アンジェが突然言った。沈黙を破ったのは日本語だった。単純だが本物の日本語、まさか校長の口から犬山に直接ぶつけられるなど誰が思っただろうか。

バカ、日本語の漢字表記では「馬鹿」と書かれ、中国でもよく知られる「バカヤロ」の略でもある。ただしその程度は「バカヤロ」よりも軽く、愚かさを罵る文脈で使われる。

 刀の清音が玉藻前に響き渡った。
 目視! 抜刀! 鯉口の切! 抜き付け! 切り下げ! 血振り! 納刀!
 犬山とアンジェが肩を交錯させた。鬼丸国綱はまだ鞘の中にあり、犬山は刀を放つ前の姿勢を保っていた。だが高速度カメラで撮影して低速で再生すれば、犬山が通り過ぎた際に完璧な「居合」の一連動作をこなしていることが分かる。七つの動動作は完全無欠、舞踏の如く美妙、森羅のように秩序立った一刀は、居合道そのものを体現している。
 六階刹那、64倍神速斬!
 六十二年前、犬山賀はこの男に敗れ、自分の才能が完全に劣っていると認めた。だが今日、彼は勝ちを確信していた。この唯一の一刀に六十二年を賭けたのだ。六十二年は凡鉄から傾国の名刀を研ぎ出すのにも十分な時間だ。この一刀が斬り出すのは、雷電の如き光明。
 まだ終わりではなかった。……犬山は振り返り、再度朧げな影となり、再びアンジェを擦過した。
 目視! 抜刀! 鯉口の切! 抜き付け! 切り下げ! 血振り! 納刀! 二度目の居合斬り、七階刹那、128倍神速斬!
 三度……四度……五度……犬山はアンジェの前後で点滅する度、アンジェに刃光の雨が降り注ぎ、刀が空気を斬る音が幾重にも重なり合い、天まで昇る波のように唸っていく。
 赤絹織が粉砕され、夜叉と猛虎が砕片の中から飛び出した。アンジェは動くことなく、振り返ることもなく、同じような速度の刀光を繰り出しながら、嘲笑気味に叫んだ。「遅い! 遅い! 遅いぞ!」
 アンジェの速度は犬山にも劣らず、余力すらも感じさせる。左右それぞれに双刀を持ってはいるが、左手の長曽弥虎徹は肩に乗せられて微動だにせず、右手の一文字則宗だけで攻撃をいなしている。アンジェの繰り出した刀は鬼丸国綱の中段、刀全体の中で最も力の入りにくい「腰」に合わせられ、ほぼ無敵のはずの居合剣が一つ一つ潰されている。
 双方共に猛烈な速度で空気を切り裂き、鋭い音を立てると、女たちは耳を塞いだ。
「遅い! 遅い! 遅すぎる!」アンジェが吼える。「その程度か! その程度なのか!」

 なんという屈辱……犬山賀は自分の神経が疼き痛むのを感じた。……六十年前から今日まで、アンジェは彼に永遠の屈辱を与えてきた。
 頭の中に遥か昔の光景が蘇る。1946年、18歳の犬山賀は実年齢68歳のアンジェと出会った。その時のアンジェの歳を犬山が知ったのはずっと後だ。アンジェは風貌翩々とした優雅な様だったが、不老不死の吸血鬼のようにも思えた。
 犬山は今まで、1946年の事を思い出すことを拒んできた。1946年、広島と長崎に原爆が落とされ、天皇が無条件降伏を発表し、国全体がアメリカ軍に占領された。記憶にあるのは満身創痍の日本、泥だらけの街、路上で物乞いをする負傷兵、アメリカ兵が持ち込んだジープのエンジン音、そしてアメリカ人に車に連れ込まれていく女たち。良いと言えるものは何もない……。犬山は今でもその女の足を覚えている。しわくちゃになった和服の下に伸びた、青白く弛んだ腿。まるでひからびた死肉のようだった。
 春、桜が満開になる頃、犬山は東京港で下駄を打ち鳴らしながら走り回っていた。
 彼は若くして売春斡旋を生業にしていた。アメリカ兵に売春婦を紹介するのだ。その日も彼はアメリカ人の水兵に相手となる売春婦の美しさを有ること無いこと話していたのだが、その時突然汽笛が鳴った。彼が水兵の中に混じってそれなりの日が経ち、ほとんどの汽笛を聞き分けられるほどになっていたが、その汽笛ほど威厳高らかに、耳奥を震わせるような汽笛は聞いたことが無かった。驚いて振り返ると、そこには白い「アイオワ」級戦艦が航行していた。高層ビルのようにそびえ立つ船舷の上で、漆黒の巨砲が東京に向けられていた。その大きさはまさに一つの街とすらいったところで、犬山は突然覚えた眩暈の中に予感を滾らせた。この船は俺の人生を変える契機になる――そして彼はその船にアメリカ軍参謀大佐がいることを、その名をヒルベルト・フォン・アンジェと言う事を知った。
 初めて会った時、アンジェはアメリカ海軍の白い士官服を着ていた。彼は犬山の腕の刺青を一目見て、軽蔑的な声で言った。「犬山家の子供か? 帰って家の大人に言いたまえ。私はアンジェ、ヒルベルト・フォン・アンジェ、アメリカの混血種だ。和平か尊厳か、どちらかを選べ」
 和平とは屈服、尊厳とは死のことだ。初めて会ったその瞬間から、アンジェは自分の行動原則を説明しきっていた。
「その程度か! その程度なのか! 遅い! 遅い! 遅すぎる!」記憶の中のアンジェは常にそう叫んでいる。
 決して癒えない心の傷だった。何度も何度も、アンジェの振るった竹刀で地面に叩きつけられ、その度に犬山は起き上がったが、アンジェの前ではただの牙無き子犬でしかなかった。
 アンジェは彼の先生である。それは犬山賀が絶対に認めたがらなかった事実だ。アンジェの支持が無ければ犬山家の復興は無く、日本支部長に収まることもなかった。アンジェは彼に力を与えると同時に、彼の尊厳を踏みにじりもした。延べ三年に渡る特別訓練の間、アンジェは何かにつけて犬山を嘲笑い、辛辣な言葉ばかりを吐き掛けた。犬山はアンジェのカカシであり、カカシの役割は再三再四地面に倒されることだけ。犬山は抵抗しなかったし、できなかった。アンジェの前ではあまりにも弱すぎただけでなく、彼の持っていたものすべてがアンジェから授けられたものだったからだ。彼はアンジェがオロチ八家を統治する為の傀儡でしかなかった。今日でも密かに彼の事を裏切り者だとか、アンジェの走狗だとか言う人もいるが、犬山は反論しなかった。事実だからだ。
 となれば、そんな苦痛など誰に打ち開けられる? アンジェに頭を踏まれて嘲笑される度、犬山はあの女性の青白い腿を思い出す。横暴なアメリカ兵が彼女の和服を引き裂きに襲い掛かり、彼女は黙々とそれを受け入れて、ひからびた死肉のようになる……。
「私は極道を蔑まぬ。私が蔑むのはクズだ! 尊厳が欲しいか? 良いだろう、私を打ち負かしてみろ!」記憶の中のアンジェが耳元で冷笑する。
 それが先生だと? 打ち負かせば尊厳だと? 分かっているのか、先生……俺が夢見る再興というのは、家族の皆が尊厳を持って生きられるということだ……我らを再興させ、しかし永遠に尊厳を奪う……それが先生だと? 打ち負かせば尊厳だと?
 九階刹那、512倍神速斬!!
 犬山賀の魂の奥底の18歳少年が怒れる獅子の如く咆哮し、鬼丸国綱が鞘から離れ、美少女の眉のように美しい弧線が描かれた。あまりにも速すぎて刀身が湾曲し、斬鬼の刀が自壊寸前にまでなる。
 史上、この刀に迫る速さなし。そこには殺意も意思もなく、ただ時を斬る寂莫だけがある。
 居合の極意だ。
 
 鬼丸国綱がついに音速を超え、ソニックブームが踊り場全体に広がり、空気の高周波震動は刀よりも速く、アンジェの皮膚を切り裂き、血の花を吹き散らした。
 アンジェの目には一閃の安堵があった……そして長曽弥虎徹を握った手を捻り、刀の背を前に向けて振った。それは犬山の鳩尾に直撃し、彼を横手に打ち飛ばした。

「バカ」アンジェは淡々と吐き捨てた。
 日本に三年滞在した彼だが、日本語は精々三か五単語程度しか覚えず、それらも全て罵り言葉だった。だから犬山は、アメリカのカッセル学院本部の校風を知らない。
「50点は……行きましたかな?」犬山はぼんやりと訊いた。アンジェの一撃は相当重く、軽く脳震盪を起こした彼は起き上がることもできなかった。混血種の身体構造がどれだけ屈強であろうと、寄る年波には勝てない。
「知らん。知らんが、私を傷つけたなら、成長したとは言えるな」
「こんなに歳を取った死に損ないを、成長したと言いますかね?」犬山は大きく息を吸って笑い、心配そうに近づいてきた竜馬弦一郎と宮本志雄に手を振った。「なに、気にすることはない。俺の代わりに政宗氏に謝っておいておくれ。これは俺と校長のただの私怨だ」
「椅子を一つ持って来てくれないかね? そうそう、三階に置きっぱなしの私のシガーも持って来てくれ」アンジェは踊り場の近くにいた琴乃に言った。
 琴乃は不服そうにしたが、当主の命はアンジェの手にあった。女たちが豪華な背もたれのソファを持って来て踊り場の中央に置き、琴乃は灰皿を持ってきた。アンジェが先程置いたシガーは、まだ火のついたままだった。
 アンジェはシガーを取って深く一口吸った。「当主をソファに寝かせてやれ。脳震盪を起こしてるかもしれんからな」
 女たちは少し驚いたが、アンジェの言う通りにした。犬山賀はソファに倒れ込み、だらりと垂れた四肢は彼のものではないかのようだ。
「もう一つ椅子を持って来てくれ。やっと思い出話ができそうだからな」アンジェはまた言った。「あと、マティーニをロックで一杯頼む。振るだけでいい、混ぜずに頼むぞ」
 アンジェは犬山の向かいに座り、片手で折り畳みナイフを弄び、もう片手にアイスマティーニを持った。犬山が腫れた目を開けると、そこにはアンジェが居た。肩先に小さな傷を残し、まるでエアロビクスでもしてきたかのように全身に汗をかいている。
「お前が私の学生だと認めたくないのはよく分かっておる」アンジェは言った。
「あなたの犬と言った方が正確でしょう。犬は飼い主に蹴られても殴られても認めたがりませんからね」犬山はいびつに笑った。
「何をいっておる。お前がいつどこで犬になった? おまえはただ、バカなだけだ」
「そんな罵倒、もう私には響きませんよ」
「そう偏屈になるな。まるで私が子供を虐待する継父みたいではないか」アンジェが犬山のソファを蹴ると、犬山は眩暈を覚えた。
「私が日本に送った学生チームは見たか?」アンジェは訊いた。
「あれが貴方のお気に入り学生ですか? 私のようなバカではないのでしょうね」犬山はしゃがれ声で言った。「ええ、見ましたよ。血統は優秀、中々面白そうな子どもたちです」
「本当かね? お前たち日本人はいつもおべっかを使うからな。どんなに馬鹿げていると思っていても、『面白そう』とか曖昧な言葉を使いおる」アンジェは肩をすくめた。「リーダーの名はシーザー、多少反抗気味で、父親を含めた一切の人間を無視しおる、自分が世界一で当然だと思っているほどの自信家だ。いつしか彼も私に立ち向かってくるだろうが、それも時が熟したということだ。私は彼を決して褒めない。だが最重要任務を執行させる。彼は成功するべきだ。成功すればするほど自信を持ち、自信を持てば更に強くなる」
「サブリーダーのソ・シハンは狂人、自らを研ぎ澄まし続ける剣だ。剣にとって、存在意義は斬る事のみ。敵と宿命とを一太刀の下に斬り捨ておる。斬れぬなら、もう一度斬るのみ。ソ・シハンは失敗を恐れてはおらん。彼は失敗するごとに完璧に近づく。だから私は彼に最難度の任務を執行させる。彼を無尽無窮の危機に追い込む為にな」アンジェは流々と言った。
「ロ・メイヒに関しては――」アンジェは笑った。「彼は素晴らしい。私は微笑んでいるだけでいい」
「ハハハ!! 継父が可愛い可愛い実子を愚かで馬鹿な継子に見せびらかすのか! ハハハ! ハハハハ!」犬山は血塗れの歯茎を露わにして笑った。
「アガチャン、私は教育家だ。様々な方法で様々な人を教育する」アンジェは突然笑みを引っ込めた。「お前の為の教育プランがあると、考えたことは無かったか?」
 犬山はそのまま唖然とした。
 アンジェは犬山の目を見据えて言った。「アガチャン、私が初めてお前に会った時、お前の目には『あるもの』があった。何だと思うかね?」
「あるもの……」犬山は無意識に反芻した。
「いい年して、話し方はまるで子供だな。他人の言葉に流されるなと、何度言ったら分かるのだ」
 犬山はただ黙りこくった。さりげなく口から出た言葉までアンジェに貶されれば、娘たちの前で合わせる顔も無くなってしまう。
「少年の悲哀だ」アンジェは言った。「その時私は思ったのだ。極道の家に生まれ、港でアメリカ兵に売春婦を紹介するような18歳の少年が、なぜこれほど純粋な悲しみを持っているのか、と」
 犬山はアンジェの視線を避けて顔を背けた。彼は既に老人だった。過去なるものなどは封印し、二度と思い返さないようにしていた。過去を噛みしめるというのは、若い男だけに許されることだ。
 犬山はほんのわずかな出来事でも、過去のことを他人に詮索されることを嫌った。……だが、アンジェの目は彼の目から心へと浸透し、彼を見下し、嘲り笑う。
「目を背けるな、アガチャン。人はあらゆる悪魔をも打ち倒せるが、人間である限り、一つだけ絶対に打ち倒せないものがある。臆病な自己だ」アンジェの声は太く、低く、重かった。
「私はあらゆる学生の情報を集める。勿論、お前の背景も調査した。戦前、犬山家はオロチ八家の中で最弱の家だった。金儲けを司るが故に、他の家から見下されていたのだ。お前の父親はそれゆえ、かの侵略戦争を支持し、過激派の青年将校の一人に混じった。犬山家がもはや女に依存しない大事を成すことを夢見たが、日本は負け、天皇が降伏を発表した日、セプクした。お前と二人の姉だけが家に残され、ここぞとばかりに他の家が風俗業に手を出し、犬山家から女とビジネスを奪って行った。お前の上の姉、犬山由紀は、わずかな尊厳を守って路上で殴り殺された。そしてその仇は賠償に一人の子供を差し出すことを要求し、そうして引き取られた役立たずの継承人がお前だ」
「……やめろ……やめろ、言うな!」犬山賀は目を真っ赤にして叫んだ。
「お前の二番目の姉は助けを求めた。だが一族の中に手を差し伸べる者はいなかった。オロチ八家は犬山家の滅亡を受け入れ、オロチ七家になることを望んでいた。だがお前の姉は家族を救った。自分の容姿をアメリカ兵に売り、アメリカ軍に没落したお前の家族を保護させる……」
「やめろ……それ以上言うな!!」犬山の顔から血の気が消え、彼はガシャガシャと髪を掻いた。
「臆病者!!」アンジェは犬山の顔に一発平手打ちを食らわせた。「過去に向かわずして、どうやって今を生きるというのだ! それとももう一度負けたいのか!?」
 犬山は鳩が豆鉄砲を食ったように呆然とした。
「当時お前は18歳。破れた和服の大柄な少年が、雨の日も泥の中を走り回って、顔料で描かれた黒白絵を抱えて、売春婦とアメリカ人を仲介していた。一人引っ掛けるごとに数円。犬山家の最後の男は、頑なに風俗業を辞めようとはしなかったようだな。お前の代々受け継いだ家にはアメリカ軍将校が住んでいた。お前の姉の恩人であり、愛人でもあった男は、犬山家への助力の報酬として、毎日タダでお前の姉を弄び倒す。お前は家に帰らず、何も見ようとしなかった。アメリカ軍将校を殺し、オロチ八家に返り咲き、一番上の姉の死の代償を払わせる、それだけを誓っていた」アンジェは犬山賀の髪を掴んだ。「だが、臆病者にはそれはできなかった! お前は心の底で諦めていた!」
「お前は卑しい。自分の身を守ることすらできない。だが女たちには親切だ。利益を守るために客に殴られもする。お前の目には、身体を売る全ての女性が二番目の姉、二度と会いたくないあの女のように見えるのだろうな。そしてそれが、お前が『力及ばなかった』ことに対する贖罪だとでも思っているのだろう」
 犬山家の女たちは跪いて俯いた。彼女たちは犬山家の過去についてほとんど知らない。今日凛々としている当主が凄まじい少年時代を過ごしてきたことなど思いもよらず、そんな悲劇を立って聞いているのは、大変な不敬にあたるとも思えたのだ。
「しかしそれがお前の力なのだ、アガチャン!」アンジェは犬山の青白い顔を平手打ちした。「お前は私の生徒の中でも決して優れているわけではない。だがお前の心には力がある。悲しみや怒りほど強い力はこの世にはない。悲しみや怒りが臆病さを超えられれば、その者は獅子へと変わる。私の為すべきことは、お前の心を呼び覚まし、犬山家最後の少年を正々堂々と地に足のついた男にすることだった。私は絶対にお前を励まさなかった。励ましなどいらぬ、励ましはただお前の痛みを忘れさせ、姑息にさせるだけだ。私は何度もお前を打ち倒し、侮辱し、嘲り、お前の弱さを思い出させ、お前の『力及ばない』ことがこの世に有ることを思い出させ、その悲しみを永遠に心に刻ませたのだ! 先生を人生最大の悪とし、命を賭けて私を殺しに来るようにな。そして私は待っていたのだ。お前の心の獅子が吼えるその瞬間を」
「そして今日、ようやく成果が出たようだな。九階刹那、512倍神速斬。見事だ」アンジェは頷いた。「私は嬉しいぞ」
 彼は立ち上がってソファの後ろまで歩き、犬山賀の肩に手を置いた。手からの熱が犬山の身体に浸透していく。犬山は突然昔の事を思い出した。18歳の時、アンジェと共に港に軍艦を見に行った時の事だ。アンジェは彼の後ろに立ち、たまたま居合わせた米海軍参謀長官カメラを持ってやってきた。「それが君のジャッポン私生児かい?」参謀長官が冗談を言いながらシャッターを押した時、アンジェは両手を彼の肩の上に乗せた。
 アンジェはシガーを押しつぶし、裸の背中にコートを着て、起き上がって踵を返した。「ようやく荊を抜け出したようだな。アガチャン、おめでとう」

 千切れそうなほど痛む身体を辛うじて支えながら、犬山賀は頭をもたげ、老人の背中を見た。
 その一目の間に、六十数年の時が流れ過ぎて行った。
  数十年の時を経て、尊敬を集める領袖へ成長し、あの暗黒の若し過ちなど永遠に葬り去ったと思っていたが、あの男の存在はその記憶を掘り起こす――ヒルベルト・フォン・アンジェ。何年も経った今思い返せば、真の少年時代なるものはアンジェの中に取り残されているのかもしれない……犬山賀には己の奥底にしまいこんでいた記憶が幾つかあって、暴君たるアンジェを倒さなければならぬと感じていたのも、それ故であった。
 女たちの半裸の身体に桜の花が散ったあの年、犬山賀は壊れた教室の床を転げまわり、顔中鼻血だらけになりながら、英語の罵声に囲まれていた……アンジェと本当に出会ったのは、その時だったのだ……。
「アイオワ」号が東京港に入港した日、犬山は二人の売春婦をアメリカ水兵に紹介した。アメリカ兵のジープに乗り、廃校となった小学校へ案内した。貧しい売春婦たちが影の取引をできるよう、教室の窓は木板で覆われていた。
「小僧、これがお前の言っていたメスジャップか? まるでゴーストじゃねえか」水兵は不満げに愚痴った。
「もう一人なんかまだメスですらねえぞ!」
 そこにいたのは、プルプル震えながら隅で縮こまる十五歳の売春婦。水兵は腰からベルトを抜き、手を振って犬山を追い出そうとした。
 この水兵は金を払う気なんてない――犬山は突然理解した。彼を追い出せば、水兵たちは部屋の中で二人の女を欲望のままにできる。こんな隔絶された場所で売春婦が助けを求めても誰にも届かない。十六歳の犬山賀、彼だけが唯一彼女達を救える男だった。彼はコートを脱ぎ、傲慢な刺青を露わにし、丸太を持って突っ込んでいった。彼は水兵のベルトに何度も叩きのめされ、鉄製留め具が顔に傷を刻んでいった。
「俺は犬山家の男! 犬山の賀だぞ! そこの女も犬山家の! 犬山家の女なんだ! 鬼畜米帝、消えろ! 鬼畜米帝!!」彼は脈略の無い言葉を狂ったように叫び続けた。
 昨日まで彼はこの二人の売春婦を知らなかった。彼がそう叫んだ時、その頭の中はぐちゃぐちゃのイメージで一杯だった。裸のアメリカ軍将校が姉の身体に圧し掛かり、夕焼けの残り陽が父親の死体を照らし、街頭で死んだ姉は胸元をはだけさせ、花と鶴の刺青を見せつけている……。食いしばった歯の間から鮮血が流れた。
 一人の水兵が彼の頭を踏み、もう一人の水兵が彼の股間を蹴った。罵倒の雨を浴びながら、彼は花びらいっぱいの泥の中に沈んだ。麗しき春の日、しかしそれは受難の日。痛みに蹲って背を丸めながら、なんてひどい笑い話だ、と感じた。こうして蹴られて殴られ続けるのが、本物の男になるということなのか? おかしな話だ。日本の風俗業を一手に掌握してきた犬山家最後の男が、こうして終わるのか。
 その時、水兵たちが吹っ飛び、ツバメのように空中を舞った。犬山が呆然と見上げると、落ち桜の空の下に伸びる背の高い影があった。
「ジェントルメン、我々の太平洋戦争の勝利は日本男子を打ち負かしたことにある。女子供ではない。いいね?」白い軍服を着たアメリカ軍将官は水兵たちが落としたベルトを拾い上げ、軽くそれを振った。ベルトはカウボーイの鞭のようにしなり、一撃ごとに水兵の身体に血痕を残していく。船員たちは憤慨して叫ぶが、立ち上がるたびに将官は正確無比に彼らの膝をベルトで叩き、泥の中へ跪かせていく。二人のバッファローのような男が頭を抱えて屈服するまで、彼は水兵たちの周りを歩き回り、無数の鞭を叩き込んでいった。
「ジェントルメンが弱者に暴力はいけない」将官は水兵たちの前にベルトを投げた。「それは君たちを更に弱くするだけだ」
 霧雨が降り始め、白服の将官は英国風の黒傘を広げた。旅行鞄を提げ、脇下に軍帽を挟み、ちょうど街に着いたばかりのように見える。彼は上半身裸で泣いている二人の少女には目もくれず、全身精根疲れ果てた犬山賀に蹴りを入れた。「まるで荊の中の小鬼だな。だがその荊から出られれば、お前はいい男になれるぞ」
 犬山はその冷漠で高慢な口調に不満を抱き、身体の泥を振り払って刺青を見せようとした。
「犬山家の子供か? 帰って家の大人に言いたまえ。私はアンジェ、ヒルベルト・フォン・アンジェ、アメリカの混血種だ。和平か尊厳か、どちらかを選べ」将官は淡々と言い放ち、ハンカチを取り出して少女のはだけた胸元に投げた。
 その時、小学校の屋根の隙間から桜が落ちた。ヒルベルト・フォン・アンジェは水に洗われた天空を見上げ、火のついていないタバコをくわえた。

「センセイ――」犬山賀は気力の許す限りの声で叫んだ。
「感謝など要らぬぞ。私はお前を利用して日本支部を支配したのだ。ここに何の貸し借りも無い」アンジェは足を止めた。「私とお前たちの間に交渉の余地はない。そう、私は復讐者だ。全ての龍王を絞首台に送りたいと思っておる。私は龍族復活に関係する全ての事に対して、背を向けるつもりは一切無い。お前たちの秘密を暴き、私の手でお前たちの神を殺す、この件に関して私は一歩も譲る気は無い。当然、お前たちが秘密を私に簡単に教えないことも織り込み済みだ」
「なら、あなたは何故今日ここに……」犬山は咳き込んだ。
「お前を見に来たのだ、アガチャン、久しぶりにな……次に会った時は敵同士だぞ」アンジェは軽妙に言った。
「先生! 一族には事情があるだけです、先生を敵にするつもりではないのです!」犬山は椅子の背もたれを握って手を震わせたが、立ち上がることはできなかった。
「それでも、だ」アンジェは肩を竦めた。
「先生の言った通り……これからは、全員が敵になります」犬山賀は深くお辞儀をした。

 アンジェがスーツケースを手にその場を離れようとした、その時だった。頭上から金属のぶつかるかすかな音が聞こえ――殺意の暴雨が天から降り注いだ! 全員が一斉に顔を上げたが、その殺意の源が何であるかは分からなかった。
 アンジェの両肩が激しく震え、その震えと共に彼は猛虎と化した。森を闊歩していた虎は突然全身の筋肉を膨れ上げさせ、渾身のパワーを身体の上に流した。古刀が轟き、犬山賀がアンジェの背後に向かって飛び掛り、彼の手の鬼丸国綱が冷たい光を一閃させる。「刹那」の九階が直接解き放たれ、512倍速! アンジェが振り返ると、犬山は彼の胸に真っ直ぐ抱き込まれた。
 耳をつんざく銃声が響く。弾幕が斜めに撃ち下ろされ、踊り台が割裂した。玉藻前の屋根の赤く尖った軒先に固定された銃は大口径高射砲、自動発射装置の制御で音速の二倍の速さの弾丸を発射する代物だ。二連装の機銃が二台、計四門の砲口が唸り、数十平方メートルの範囲を弾幕で覆った。逃げ場はなく、アンジェも身構えられず、空中に突き出された折り畳みナイフが暗金色の模様を描く。その弾丸は大きな衝撃となり、抱き合ったアンジェと犬山賀を地面に圧し潰し、踊り台の水晶ガラスを無薄の結晶の破片に変え、二人の身体を呑み込んでいった。
 宮本志雄と竜馬弦一郎は驚き呆然とした。二人は誠意を見せる為に武器を持ち合わせておらず、即座に高所にある重火器に対処する方法はなかった。女たちもなにもできず、ただ壁に背を合わせ、鼓膜を破られないように耳を塞ぐのが精いっぱいだった。
 およそ三十秒続く制圧射撃、数千に上る弾丸が鋼鉄の滝となって天から降り注ぐ。
 一筋の火が屋上に向かい、大爆発を引き起こし、紅い軒先が真っ二つに折れてようやく射撃が止まった。綾音が発射したロケット弾だ。最初はすっかり怯えてしまった彼女だったが、少し経ったところで即座に自分のバズーカ砲に駆け寄ったのだ。彼女のバズーカが無ければ制圧射撃があと三十秒は続いただろう。粉々になって崩れ落ちる紅い軒先は玉藻前の屋上にぽっかりと穴を開け、そこから霧雨が入り込み、まだらになった紅色の上に落ちる。灰燼の中でアンジェが膝をついて座り、犬山賀の頭を自分の膝の上に乗せていた。四方八方に残った弾痕は、アンジェが弾き飛ばした弾丸が作り出したものだ。その時のアンジェを高感度カメラで撮影したなら、折り畳みナイフが機銃の弾を次々と真っ二つにしていき、一条の弾道がアンジェの面前で突然二条になっていくのが見えるだろう。
「速すぎですよ」犬山賀が呟いた。「何も見えませんでした。星のようなもの以外は……」
 一発の散弾が眉間を掠めた以外、アンジェは無傷で、負傷したのは全て犬山賀だった。犬山の左胸前に当てられた鬼丸国綱が銃弾を防いだおかげで心臓はやられなかったが、全身の他の部位は弾痕だらけになっていた。混血種の骨は機銃の弾すら貫通しない堅さだが、犬山はその骨を全身使って弾丸を止めた。彼が刀を抜いたのは攻撃する為ではなく、心臓を保護する為、即死しないようにする為だった。彼は生きようとした。生きなければ弾避けになれないからだ。
 犬山もアンジェも分かっていた。あの金属音は、撃鉄が弾丸の底を打つ音だったのだ。
「バカ」アンジェは囁いた。
「一体何回言うんですか。言われなくても、私はバカですよ」犬山は顔の無傷な部分にかすかな笑みを浮かべた。「あんな銃、私は知りませんでした……」
「言わんでいい。それくらいは私も分かっておる。……お前の仇は必ず取る。娘たちも面倒も任せろ」アンジェは何の表情も見せなかった。
「先生、少し……」
「分かった」アンジェは身を乗り出し、賀を胸いっぱいに抱きしめた。
「……また、戦争が始まろうとしています。あなたを信頼する人は居ません」犬山はアンジェの耳元で、弱々しい声で言った。「日本には、あなたの味方は居ません。ですが……あの男は……彼は生きています。彼が全てを知っています……」
「ああ」アンジェは犬山の頭を撫でた。
「先生の言葉、今、やっと分かりましたよ……」それが、犬山賀という男の最期の言葉になった。

 少年が先生に教えられた言葉を理解するまでには、どれだけの時が必要なのだろうか。それは教室での一瞬か、あるいは、人生の一生だ。
 アンジェはその時理解した。彼が犬山と交渉する為に来たわけではないのと同じように、犬山も彼と交渉するつもりはなかったのだ。暴君のような先生を恨んでいてはいても、始めから最後まで、犬山にとって先生は先生だった。犬山は彼に警告しようとしたのだ。何か大変なことが起ころうとしている、危険が間近に迫っている、犬山賀の立場でも全てを見通すことのできない何かが……。壁に耳あり障子に目あり、オロチ八家の中に信頼できる者は一人として居ない。
 カッセル学院前日本支部長、犬山賀。彼は死ぬまでの間に、出来る限りの事を尽くした。
「一族に忠を、先生に義を……。これが、日本人の『忠義』というものなのか……?」アンジェは犬山の眉間に指を添えた。死ぬまで緩まなかった眉間の皺を均すかのように。「本当に、バカだ……」


 飛ぶように走るロールスロイスが玉藻前の正面で急停車し、眩いばかりのヘッドライトが銅の大門を照らした。後方に追随してきたメルセデスベンツ編隊がその周囲に停車し、黒服の集団を吐き出すと、黒服はロールスロイスの前に壁を作り、一斉に襟元に手を突っ込んだ。
 凄まじい銃声が聞こえた玉藻前の近くには人だかりができていて、駆け付けた警察も路上で待機していた。
 門が内側から押し開かれ、誰かが重いスーツケースを持って走り出てきて、ヘッドライトによって白色に眩く照らされた。男はロールスロイスに向かって一歩ずつ進んでいき、ボディーガードは全員腰の武器を握り、一触即発の緊張が漂った。
 だが近づいてみると、その男は危険人物ではないようだった。スリーピースのストライプスーツにべっ甲メガネを掛けたその男は、見る限りでは年配の紳士のようだ。だが紳士はどうやら疲労困憊、若干の狼狽も見せ、髪はぐしゃぐしゃ、服は埃まみれだった。紳士が手を振ってボディーガードたちに道を開けてくれるよう促し、ボディーガードたちもそうしようとしたところ、車の中から低い声が響いた。「開けてやりたまえ。校長の道は何人たりとも邪魔できんぞ」
 ボディーガードたちがすぐに道を譲ると、アンジェはロールスロイスに寄りかかってゆっくりと息を吐き、東京の夜を眺めた。「ミスター・タチバナ……タチバナ・マサムネ……か?」
 車の窓ガラスがゆっくりと下がり、黒い和服に身を包んだ橘政宗がわずかに身を屈めた。「お初にお目にかかる。以後、お見知りおきを」
「学院の情報では、お前がオロチ八家の大族長を務め始めたのは十年前……まだ死んでいなかったのか?」アンジェは橘政宗を見ようともしなかった。
「儂が橘政宗、かつてオロチ八家の大族長を務めておりました。この通り、生きておりますぞ」橘政宗は怒りも無く、敬語で応え、付き人が英語に翻訳した。
「私の学生の犬山賀を使って接待させ、圧力もかけさせたというのに、お前自身は車の中でネズミのようにコソコソと結果を待つだけか?」
「そこに他意はありませぬ。ただ、儂に貴殿との交流が無かっただけの事です。貴殿は世界最恐のドラゴンスレイヤー、そしてあまり気のいい方でないということも、我々は存じておりました。となれば儂が直接出たところで、良い結果にはならぬと思い申した故」橘政宗は言った。「しかし、まさかこのような状況になるとは。なるべく急いだつもりでしたが、一歩遅かったようですな」
「何が起こったのか、お前は分かっておるのか?」アンジェは冷たい目線を彼に向けた。「誰かが私を殺すために四基の重機関銃を用意したのだ。お前は前から知っておったのか? それともお前が用意したのか?」
「宮本家当主と竜馬家当主から連絡を頂いた故」橘政宗は言った。
 アンジェはシガーを一本口に運び、手を伸ばしてくるりと回した。橘政宗が手を振ると、すぐに部下の一人がライターに火をつけ、アンジェの前に差し出した。
 アンジェは青い煙を悠々と空に向かって吐き出した。「お前は何者だ?」
「校長は、儂の過去を疑っておいでですか?」橘政宗は間髪入れず返した。
「お前は不可思議なのだ。二十年前は橘政宗なる男の名など誰も知らなかった。まるで天から降りて来たかのように、何処で生まれ、何をして育ったのか全く分からぬ。今にも死にそうなほど老いた男が、ここ二十年に突然頭角を顕し、このわずか二十年の人生しか見えない老人が日本にこれだけの風波を起こしている。私から見れば、お前は巨大な『何か』だ」アンジェは頭を掻いた。「この一世紀、日本の諸々の極道勢力をまとめ上げた男は二人だけだ。一人はカッセル学院日本支部を建てた私、もう一人はお前だ。お前は私の建てた秩序を破壊し、新たにオロチ八家の旗を掲げた。お前は私の敵だ」
 あまりにも傲慢な挑発だった。ボディーガードたちが殺気立っていき、刀に手をかける者も居た。人壁はどんどん密になっていくが、アンジェはもう一口煙を吐いた。
「下がれ」橘政宗は言った。
 ボディーガードたちは即座に下がり、忍耐と恭順の礼を示した。
「失礼ながら、校長のそういった言い方は、教育家としてどうかと考え申す。学生たちがそのような口を知れば、驚かれるのではないでしょうかね」橘政宗は再び言った。
「学生の前ではこんな口は利かん。今私はお前と話しているのだ。お前は極道の年寄りヤクザ、私もかつての極道の年寄りヤクザ。対等に話すのが筋だと思うが?」
「今日の事の事実関係は、こちらで調べて校長にもご報告いたしましょう。しかし、一族との交渉は既に犬山家当主によって説明された通りです。変更は無しにて候」
アンジェは頷いた。「ふん。今夜はお祭り騒ぎか? お前たちの嫌いな奴が死におったからな」
「犬山氏のことでしょうか?」
「そうだ。常々私の犬だと罵っておったではないか。オロチ八家の裏切り者、八姓当主の中で最もカッセル学院に近い男。それとも、祝うにも値しない死なのかね?」
「少なくとも儂は彼を疑ったことはございませぬ。我らは彼の仇を討ちます。彼はオロチ八家の犬山家当主、我らの同胞ですからな」
 泣き声が二人の会話を中断させ、玉藻前から長蛇の列が出てきた。長谷川義隆が最前列を歩き、犬山家の娘たちが犬山賀の骨を持って歩いて出てきた。弥美、琴乃、和沙……全日本の三分の一の美少女アイドルがそこに集まっていた。明日テレビの前の視聴者は知ることになるのだが、多数の少女アイドルが一斉に活動休止を発表し、多数のナイトクラブが同時に閉鎖され、男たちの娯楽が一気に消えることになる。そして今夜、日本の風俗業界全体が活動を停止する。当主への哀悼だ。
「校長への接待の不届き、大変申し訳ありませんでした」アンジェの傍を通りがかった義隆が言った。
「泣きたければ泣け。アヒルみたいに我慢しおって……」アンジェは眉を顰めた。
「泣きません。ただ、悲しいだけです。御当主と校長の再会は、遅すぎたんです……」義隆は長いため息をついた。
 アンジェは呆然とし、義隆よりも長いため息をついた。「教育家なのだ、私は……なのに学生たちばかりが先に死んでいき、私は生き延びて……全く、……全く!」
 アンジェはどこからともなく野球バットを取り出し、ロールスロイスのボンネットに、降りしきる雨のように何度も何度も叩きつけた。その場の全員が唖然とした。温和で優雅そうなこの紳士が何故突然こんな暴力的になったのか、誰にも理解できなかった。
 ロールスロイスは手工製のオーダーメイドで知られる。車体は職人が一つずつハンマーで叩いて作り上げ、傷がついただけで数十万円の修理代がかかる。だがアンジェのバットはバックミラーを叩き落とし、フロントガラスを叩き割り、ドアを叩き凹ませ、トランクの蓋を叩き飛ばした……何度も叩いては何度も蹴り、ストリートアートのような靴の痕を、鏡面のような車体に残していく。
「動くでない。校長をスッキリさせてやれ」橘政宗は言った。
 アンジェは一度叩くごとに車輛修理代に膨大な数字を追加した。運転手は後で請求書を突き付けるべく計算しようとしていたが、結局諦めてしまった。ここまでいくと新車を注文した方が経済的だ。橘政宗は四方吹きさらしとなったこの車に乗ったまま、仏像のように微動だにせず、車の揺れに身を任せ、精々たまにガラスの破片を払い落すくらいだった。ボディーガードの中にはかつて保護費徴収をしていた者も居て、金を払わない店主を脅すために、深夜に車を壊しにいくこともあった。アンジェの破壊方法もそれを更に極めたもので、六十年以上前の東京で「十番打」と呼ばれていたのは伊達ではないという事がわかる。
 最後の一撃でフロントバンパーを叩き潰したアンジェはバット投げ捨て、スーツケースを手に取って背を向けた。
「お見送りは必要ですかな?」橘政宗が訊いた。
「私の事は忘れろ。その車もな」アンジェは冷たく言った。
「さようなら、アンジェ校長」アンジェの背中を見つめながら、橘政宗は車の中で小さくお辞儀をした。彼の言葉は最後まで敬語のままだった。

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