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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中編・第三章:ボス

「また会えたね、僕の愛しいペットちゃん」彼はステンレス管を自分の頬に押し付け、温柔な声で言った。「長い時が過ぎてしまったけど、僕たちは誰一人死なずに済んだ。すばらしい!」
 彼の声は孤独で寂莫、まるで千年の時を生きた老人が旧友に出会ったかのようだ。
 ス・オンギは水面に木製トレイを浮かべながら、淡い蒼色の温泉の水に浸かっていた。

 朝八時。木村浩が浴槽に水を入れてス・オンギを朝風呂に誘い、朝食と入浴を同時に提供した。お粥と大根漬け、焼き鮭が一匹。日本の伝統的朝食だ。沿岸警備隊はビーチの残骸を片付けている。建設用フォークリフトが魚の死体と一緒にコンクリートの破片をシャベルで削り、トラックの荷台に捨てていく。完全に爆破された漁港は黄色の立入禁止シートで封鎖され、自衛隊の職員が付近の目撃者から情報を集めている。温泉プールの側の液晶テレビには朝のニュースが放送されており、内閣官房長官が記者の質問に対し、熱海津波の折の「予期せぬ事件」に関して政府はまだ結論に達していないと答弁している。インターネット上には熱海に「エイリアン襲来」などという「デマ」が広がっていた。
 内閣官房長官がエイリアン襲来などという話を信じないのも当然である。この事件の裏には様々な人々が隠れている。カッセル学院、オロチ八家にス・オンギのチームなど、立場は違えどもそれぞれ龍族の秘密を頑なに守っているのだ。
 一方で富士山の噴火に関して官房長官は深刻な懸念を表明し、国立研究所が提出した報告書に基づいて、日本の火山活動の近年における急激な増加は大規模地震を起こしかねない深刻な地殻変動の可能性を示している、と述べた。
 ス・オンギはリモコンを掴んでテレビの電源を切り、首から下までを湯に沈めた。
 黒石屋敷の温泉プールの浴槽は天然のブルーストーン製で、石匠が銅管を使って温泉を引き、翡翠のような温かみのある入浴を演出させている。プールの上に伸びた背の高い大きな古桜は「寒桜」と呼ばれる品種で、とある武将の庭師が修善寺の中庭から移植してきたものだ。寒桜の開花時期は他の桜よりも早く、それが満開する時には日本全国が「桜の波」に覆われていることだろう。
 桜は日本の国花でもある。毎年三月から四月にかけて、温暖な南部から北部に向けて次第に花が開いていく。ピンク色の桜の波は毎日北へ向かって進み、「桜前線」と呼ばれる一条の線を形成する。黒石屋敷のある高台から北側を眺めれば、斜面をすっかりピンク色に変えた富士山も見え、「桜前線」が温暖な山足を寒冷な山頂へと高らかに伸ばしているのが見てとれる。その景観はまさに豪華絢爛といったところで、一泊何十万円もかかるホテルスイートでしか見られないだろう。ましてや自宅の庭から見られるなんて、ぜいたくの限りである。
 そんな温泉に浸かって美しい景色を眺めるような人間は、社会ピラミッドの頂点を自負して傲慢と自惚れを醸しそうなものだが、ス・オンギはまるで無関心で、その手にある恋愛小説以上の価値など無いとでも言うかのようだ。
 まだ短い時間しか付き合いのない執事の木村には分からないが、彼女のオタク精神は心の奥底まで根付いている。オタクにとっては、現実世界最高のダイナミクスでも本の中のダイナミズムに決して叶わない。ス・オンギはまさにそんなわけで、あらゆる物事に対して無関心なのだ。どれだけ現実の権力があっても彼女にとって現実は魅力的なものではなく、楽園はただ恋愛小説の中にだけ存在する。……小家碧玉のヒロインがボーイフレンドに電話する。会社の株がまた下がっちゃって、上司と一日中ケンカしちゃって、クビになっちゃうよ、と言えばボーイフレンドは慰めて、大丈夫だよぼくのカワカワちゃん、下がった株はすぐに戻るし、そうすれば上司の機嫌もよくなるし、君が怒られることもないよ、とか言う。電話を切って自家用機に向かうハンサムなボーイフレンドは、顔をしかめて彼の従者に命令する。カカの会社の株を数億円買って少しでも埋め合わせろ、あのクソデブにカカを叱らせるんじゃない、などとか。従者が黒い顔をして、あのデブにそこまでしてあげる必要はないのでは? 南宮世家の未来の母であると一言伝えれば、もうカカには何の手出しもしなくなるのでは? とか言えば、ハンサムはイヤイヤと手を振って、私はカカにそんな話はまだしていない、彼女は平民的な愛情生活がしたいだろうからね、とか言う。
 でも現実は? 東南アジアの某小国の通貨を爆撃して、数百ドルを動かし、数十億を手に入れ、口座の数字が変わるのを見るだけ。幸福感の欠片も無い。
 ス・オンギはポテトチップスを噛み砕きながら、恋愛小説を読み続けた。

 鈴の音が鳴り、湯気の向こうから木村の声が聞こえた。「オンギ様、お客様です」
 ハイヒールの音が近づいてくる。湯気の中の黒い影が細長いヒールの上に現れ、風に揺れる華奢な新竹を思い起こさせる。

 数分前、木村がメイド達を指揮していたところ、突然山の下からエンジン音が鳴り響き、さらに数分後には黒石屋敷の前にランボルギーニのスポーツカーが停車した。サファイアブルーの車体色はさながら青い太陽のように輝いていた。
 客人はワンピースの黒レオタード、金色のレーススカートを腰に、五インチはあるハイヒールを履き、サングラスで顔を隠していた。車を降りた後、彼女は何も言わずに木村に鍵を投げ、家の中に入っていった。木村は彼女を止める事なく、名前を聞くこともなかった。それがス・オンギの昨夜の指示だった。「明日早朝、見た事も無い美女が一人来るから入れてあげて。そいつ以外には誰にも会わないわ」
「見た事も無い美女?」木村はやや困惑した。殆どの日本の女性スターを直に見てきた彼が見た事も無いというのは、ヨーロッパかアメリカのポルノスターでも会いに来るという事だろうか?
「見ればわかるわ。今まであなたが会ってきた女とその美女は、全く違う世界の生き物だってね」ス・オンギは笑った。
 そしてランボルギーニから降りて来た人物を見た瞬間、木村はス・オンギの言った意味を理解した。他の美女との違いは単なる容姿や身体とかの類ではない。オーラとでも言うべきか、美しさの中に妖のような物々しさがあるのだ。

 客人は金色のスカートとスカーフを脱ぎ棄て、黒レオタードにサングラスをかけて温泉に入った。足首まで伸びる黒髪がゆっくりと湯の中に広がっていく。
「なに? 潜水服で温泉に入るのが新しいフランスのファッションなの?」ス・オン後は本を読み続けながら、水面に浮いているトレイを彼女の方へ押しやった。「久保田の清酒よ。海底からの凱旋を祝って乾杯」
 ス・オンギは顔を見なくてもその人物が酒徳麻衣だと分かった。顔はともかく、その身体付きこそが酒徳麻衣の最大の特徴だからだ。なぜ麻衣が潜水服を脱がないのかはス・オンギには分からなかった。麻衣がスカートの下に着ていたのはシャツやボトムスではなくSPEEDO社の「レーザーレーサー」全身水着であり、麻衣は海底から上がってきた後、水着を着替える暇もなく急いでその上にレーススカートを穿いたのだろう。外見を重視する麻衣にしてはずいぶん珍しい。
 麻衣は何も言わずにダイビングナイフを抜き、ゆっくりと潜水服を首元から下へと切り落とした。ス・オンギは顔色を変えた。切れ目から微細な青い鱗が見えたのだ。麻衣がサングラスを外せば、眼窩の周りにも青い鱗片が見え、耳に向かって伸びていた。
「なんとかしてくれない……?」彼女の声は低く、つぶれた蛇のようにしゃがれていた。
「だから言ったじゃない、血清を打ったら四時間以内に安定剤を注射しなさいって! 古龍の血清で堕武者になっちゃうわよ!!」ス・オンギは怒り叫んだ。「なんで安定剤打たなかったのよ!?」
「なんとかできるなら教えて。出来ないなら急いで……私が自我を失ったら、あんたじゃ私は止められないわよ」麻衣はグロック拳銃を抜き取り、ス・オンギの前で一発の弾丸を込めた。弾頭には研磨された血色の結晶体があり、龍王級の標的にも致命傷を与えられるようになっている。彼女は震える手で銃をス・オンギに渡した。疲れ切っていた彼女はハイヒールを履いて歩くのも大変だったが、それがむしろ彼女を魅惑的に見せている。
「家まで来なさい! 時間の無駄よ!」ス・オンギはグロック拳銃を掴んで投げ捨てた。
 麻衣の体力なら丸一日指二本で垂木から屋根にぶら下がることもできるが、この時の彼女は温泉の縁に上っただけで力尽き、何度も失敗してやっとのことで起き上がっていた。
「もういいわ! そこでやるから!」ス・オンギは麻衣をプールサイドのブルーストーンの上に寝かせ、ダイビングナイフを使って潜水服を切り裂いた。こういった完全密着の潜水服は着脱に他人の助けが要り、今の虚弱な麻衣では全く脱ぐこともできなかった。
 青い鱗にびっしり覆われた麻衣の胴体が、ブルーストーンの上で誘惑する雌蛇のように捩られた。ス・オンギが彼女の脈拍を確かめると、密集した太鼓が打ち鳴らされているような心拍を感じた。重傷を負った彼女は胸口から下腹部に至るまでに大きな傷があり、間違いなく内臓まで損傷している。古龍血清の細胞再生能力は彼女の傷口をつなぎ止め、同時に彼女の身体を浸食している。龍血の二つの側面が彼女の身体に現れていた。それは比類なき薬であると同時に、比類なき毒でもあるのだ。
「しっかりして! 精神集中するのよ!!」ス・オンギは叫んだ。
「アルファベット読めますか……アルファベット読めますか……」麻衣の目がかすれ始めた。
「アルファベット、ノー! スウィッチング・ウィンバックよ! 寝たらダメ! 寝たら二度と起きられないわよ!!」ス・オンギは荒々しく言った。「あんたのカレシのことでも思い出しなさい、そうよ! 一人ずつ名前を言って、いつどこで何したのか思い出しなさい!」
 麻衣が今まで何人ボーイフレンドを作ったのかス・オンギは知らない。もしかしたら『300(スリーハンドレッド)』の親衛隊でも作れるのではないだろうか。ス・オンギが仕事外で麻衣に電話をかけると、十回のうち九回はどこかの有名人をボーイフレンドにしていて、カリブ海のプライベートヨットで日光浴をしていたり、アルプスでスキーをしていたりだった。時折社交場で会う時も麻衣は常に長身ハンサムの男に付き添われていて、貴族の後裔だったり、芸能スターや有名なデザイナーだったりしたこともあった。ス・オンギはいつも恨みを抱えていた。自分も美女だと自負しているが、この酒徳麻衣という女がいる限り男は決して寄り付いてくれない。麻衣の一切衆生を転覆させるような魔性の美しさに比べれば、ス・オンギは単なる「ビジネススクールの美少女」程度である。
「レイモンド・ヴァン・エゾット……アルフォンソ・ペドロ……橋本…友三……アラン・ボードウィン……」麻衣はぶつぶつ呟きながら、瞼を下げていく。
「ああぁ!? それってパリで一緒に会った画家じゃないの!? アイツもあんたに捕まったわけ!?」ス・オンギはあきれ果てた。「くそぅ! 今の名前もまさか皇太子殿下じゃないわよね!?」
「シシャム・ジャマル……イシク・カシャン……バーンズ・ファルコン……」麻衣の口から血があふれ出した。彼女の身体はボロボロなのだ。
「はいはい、もういいわ、分かったわよ……よーく分かったわ。もしこのリストが漏れたら、ミュージシャンやメジャーリーガーのファンの唾であんた溺れ死ぬわよ。ヨーロッパ王室もサウジアラビア首長も、あんたを暗殺リストの一番目にぶち込む……このアバズレ女、皇太子を引っ掛けるにしても一度に何人も引っ掛けたらダメでしょ……いいわ、そのまま続けて。すぐ戻るわ!」ス・オンギは浴衣を着て走り去った。

 ス・オンギが医療箱を持って温泉プールに戻ると、酒徳麻衣は既に昏睡状態で、唇をパクパクさせながら、名前をぼんやりと呟いていた。
 ス・オンギが医療箱から輪ゴムを取り出して自分の腕に巻き付けると、すぐに動脈が膨らんだ。彼女は輸血管の一方を自分の動脈に突き刺し、もう一方の針で麻衣の首の血管を刺そうとした。針は麻衣の皮膚に当たった瞬間折れた。皮膚が陶器のように異常に硬い。鱗のある部分は言わずもがなだ。龍の鱗が弾丸でも砕けないのは、その手の知識がある者なら誰でも知っている。
「くそぅ!」ス・オンギは今にも飛び上がりそうになった。この時、古龍血清を抑えられるのは彼女の血だけだったが、わずかの一滴も麻衣には送る事ができないでいた。
 彼女は麻衣の唇を開いた。麻衣の歯はがっちりと噛みしめられ、何度試しても歯をこじ開ける事は出来なかった。
「もっと大きな声で! 大声で! 口を開けて言え!」ス・オンギは麻衣の肩を勢いよく揺すった。
 麻衣は力を振り絞って口を開けた。口を開くたびに血があふれ出してくる。その時、ス・オンギはとある名前を漠然と聞き、唖然とした。麻衣の耳に自分の耳を当てると、確かに麻衣はその名前を、たった一つの名前を、何度も何度も唱えていた。
 笑えはしなかったが、ス・オンギはただ可笑しいとだけ思った。その口から千の名前が出てくるのは、たった一つの心の中の名前を隠すためだったのだ。
「ツンデレちゃん、ご苦労様」ス・オンギは麻衣の髪に触れ、そっと溜息をついた。
 彼女は麻衣の口にタオルを入れて歯を食いしばらないようにし、輸血管の針を麻衣の口に入れ、上あごの動脈に血を注入した。
 ス・オンギの顔がだんだんと青ざめる。自分の血を古龍の血清を中和するために使っているのだ。ス・オンギの血が数滴輸血管に沿って麻衣の木津口に滴り落ちると、濃酸と熱湯が混じった時のように、シュワシュワという白煙が出てきた。強烈な血の反応は麻衣の身体にも起こり、その痛みは想像に難くない。麻衣の鱗が開閉し、分娩するかように泣き叫び、無数の男が垂涎する長足は絡み合う二匹のニシキヘビのように痛みに捩じれた。
 麻衣の身体が突然緊張し、その後完全に弛緩した。人類の耐久力を超えた苦痛の中で、完全に失神したのだ。
「足長、足長?」ス・オンギは優しく彼女を揺すった。
 麻衣は答えず、赤金色の目を大きく見開いて空を見つめるだけだった。
 ス・オンギは立ち上がってグロック拳銃を拾い、麻衣の眉間に向けた。麻衣の目は赤金色を呈し、瞳孔は一筋に収縮して、眼球は左右に震え、一瞬困惑したかと思えば、一瞬獰猛になる。後は麻衣の運次第と言ったところか、ス・オンギはただ結果を待つだけだった。目覚めたのが酒徳麻衣であれば固いハグを、堕武者であれば硬い銃弾を。酒徳麻衣は怪物になるくらいなら死を選ぶだろうと、彼女の親友として、ス・オンギの心はすっかり覚悟していた。

 潮風が悠々と高い崖に吹きあがり、庭を落花で一杯にする。波が行き交い、霧が湧き立ち、思い出を回顧するには最適な風情だ。ス・オンギは酒徳麻衣と一緒に働いてきたここ何年かを思い返し、突然自分が口先だけの女のような、麻衣や三無娘に迷惑をかけられて常に文句ばかり言ってきたように思えてきた。あの二人は後先考えず行動してばかりで、火消しは全てス・オンギの役目。だが、ある日突然トラブルメーカーたちがいなくなったらどうなるだろうか。トラブルメーカーがいなければ、火消しや事後処理をする人間は孤独になってしまう。
「死ぬんじゃないわよ、足長。元気になったらビジネスジェットを好きに使わせてあげるから。あんたが経費を使い込んだって文句言わないであげるから」ス・オンギは酒徳麻衣の血まみれの顔に触れた。
 麻衣が突然動き出し、ゆっくりと目を開け、空を見上げた。
「名前! あんたの名前は!」ス・オンギは引き金の指に力を込めた。何故目覚めたのか全く分からず、赤金色の目に肝を冷やすだけだった。
「酒徳麻衣よ」麻衣は静かに言った。
「もっと言え、全部吐け! あんたの元カレの名前は!」ス・オンギはまだ気を抜けなかった。
「え……どこまで言ったっけ?」
「じゃあ別の事を聞くわ。この前ラスベガスに筋肉隆々ストリップショーを見に行った時、私は何を着てた?」
 麻衣は無力に微笑んだ。「あんた、私と一緒に全裸だったじゃない。忘れるわけないわよ。最後に男たちにステージに上がって胸筋触ってみないかって言われた時のことでしょ」
「はあ、毒舌女で間違いないわね」ス・オンギは脱力して仰向けに倒れ、湯船の中に突っ込んだ。

 酒徳麻衣は白く小さい赤子のように、青石の上でうずくまっていた。ス・オンギは木の桶で湯を掬って彼女の身体にかけ、血痕を洗い流してやった。龍化の兆候は数十分後には徐々に消えて行き、ガチガチになった麻衣の皮膚も肉も身体も柔らかくなり、青い鱗もポロポロと剥がれ落ちていき、脊髄に付いた微小な鱗だけが最後に残った。これが完全に消えるまではまだ時間が必要なのだろう。
「私、気を失ってるとき変なこと言わなかった?」麻衣は静かに尋ねた。
「もう十分変な事言いすぎよ。あの名前が全部本当なら、あんたを殺したい世界中の女の子は米軍規模になるわよ」ス・オンギは口を尖らせた。「安定剤打たなかったわけ?」
「怪我をしたのよ」麻衣は治ったばかりの傷口を指差した。「もし古龍の血清で身体が強化されてなかったら間違いなく死んでたわ。安定剤を打っちゃったら血清の効果は切れちゃうし」
「古龍の血清を使ったあんたを傷つけるなんて、何者よ?」
「上杉絵梨衣って子覚えてる? オロチ八家の中で一番目立たない当主。ずっとどういう立ち位置か分からなかったけど、あの子の言霊が『審判』なのよ。領域内の生命体に強制的に死亡命令を下す究極の言霊。オロチ八家は彼女を尸守の群れに対する強力な武器にしてたわ。大気中から巨大な氷山を作り上げて、少なくとも数百体の尸守を一撃で消滅させた時、ちょうど私が彼女の殺傷領域内にいたんでしょうね。強化されたこの体でなら耐えられると思ったけど、傷を負って初めて、あの言霊の攻撃が普通じゃないって分かったの。傷を負っても傷口が塞がらない、古龍の血清で細胞の再生能力を強化しても、再生した所から細胞が死んでいって、また傷が広がっちゃう。生命が吸い取られていくみたいだったわ」
「まさか、オロチ八家がそんな秘密兵器を隠し持ってたなんてね……こんな怪物級までお出ましなんて、日本って本当に『ハード』モードの戦場だわ!」ス・オンギは言った。

「じゃあ、次は『ヘル』モードだね」怠そうな男の声が桜の木の陰から響いた。
 酒徳麻衣とス・オンギが顔を向けると、桜の木の下に人影はなく、氷水に冷やされたシャンパンワインが入った銀のバケツだけがあった。
 麻衣はシャンパンを手に取り、ス・オンギに渡した。95年醸造、ペリエジュエのベル・エポック、誰かさんのお気に入りのシャンパンだ。確かに彼は来ていたが、すぐにいなくなってしまったようだ。彼が常用しているオー・ド・トワレの匂いが、まだかすかに空気中に漂っている。水辺には木盆も置かれていて、その上には和服が二着、木下駄が二足と、おそろいの小物飾りと一枚の手書きのメモが置かれていた。『覗いてないから大丈夫。家の中で待っているよ。身体を綺麗にしたらおいで』
 声も気配も無くやってきて、しかしそのおもてなしは盛大に、通る所全てに彼の烙印が焼き付けられてゆく。「ボス」という呼称は、こういった人物にこそふさわしい。
「本当に『ハード』モードみたいね。ボスが自ら日本に来るなんて」ス・オンギはシャンパンを開けた。
「日本に仲のいい女がいるのかもね。誰か知ってる?」麻衣は言った。
「いや、あの人が日本女性好きならあんたも好きでしょ。最高の日本人女性って言ったらあんたみたいなのじゃないの?」
「私は日本女性っぽくないのよ。典型的な大和撫子っていうのは、頭が良くて短足なのよ」
 冷えたシャンパンを温泉で飲むのは爽快の一言に尽き、傍にはフルーツや軽食まで並んでいた。ス・オンギのお気に入りの韓国バーベキュー味ポテトチップスまで用意されている。
 普通の会社であれば、上司が突然現れれば女性社員はすぐに化粧を直して駆けつけ、あれこれ世話を焼かねばならないのだろう。だが酒徳麻衣とス・オンギは全く急ぐことなく温泉につかり続け、毛穴から熱が染み込み手足から体までを暖めながら、まったく関係のない話の花を咲かせていた。
 これがボスの習慣だ。彼が助手を召喚する時は皇帝のように急かすことはなく、ただ最高の状態で会う事だけを望む。助手の為に某レストランのトリュフのディナーを振る舞うこともあるが、食事を終えれば助手はウェイターから、会議室がビルの最上階にあるとか、ボスが優雅に待っているなどとかが書かれているメッセージカードを受け取る。ディナーが美味しかった、リフレッシュできた、そういった反応を助手がすればボスは喜び、逆に食事も半ばに大変遅れましたと叫んで上階に押しかけるようなことをしてしまうと、ボスは機嫌を損ねてしまう。
 温泉プールの近くではいつの間にか小さな炭火鍋が灯され、その近くではバスタオルと白ソックスが温められていた。ボスが送った和服を広げると、それは正真正銘の「振袖」だった。少女が嫁に出る前に着る服であり、仕立て屋が着る人に合わせて一糸一針縫ったものだ。ス・オンギの作品は月を背景にした白い「八重桜」、酒徳麻衣の作品は背景の黒い「楓月」だ。
「ピッタリじゃない……なんでボスは私達の寸法知ってるのよ」ス・オンギは麻衣の帯を締めた。「これで覗いてないっていうのは無理があるわ」
「それはそれで別にいいんだけど。ただの好色よりも変態の方が怖いわね」麻衣は言った。
「変態なのは間違いないけど、変態色魔だったらもっと怖いわ」
 二人は互いの髪を梳かし合い、金箔のマホガニー材の串を長い髪に入れ、江戸時代の少女のような恰好をして、下駄を打ち鳴らしながら、桜散る道を歩いて家へと向かった。

 ス・オンギはドアを開け、一目で向こうまで見通せない程の大広間に出た。
 黒石屋敷の客間はこれほどまでに広大だ。かつて将軍が議論の場として用いていたこの場所は、見渡す限りの朱色の柱と、何度も磨かれ鏡のような光沢を放つ黒檀の床で構成される。窓戸となる木格子から光の柱が透けて差し込み、光柱の中を埃が舞う。
 光柱の間に魁梧な影が座っている。それは威厳ある君主のように、漆黒に金の花をあしらった甲冑に身を包み、三日月の兜を頭に戴き、一人の小僧に身を整えさせられている。
「本日のカタナは堀川国広でございます」小僧は君主の腰に剣を差し込んだ。「殿下の武威をお助けいたしましょう」
 彼は立ち上がり、君主の頭を撫でようと手を伸ばした。大いなる僭越だったが、君主はただ静かに座ったままだった。死んでいるのだ。鎧の中にあるのは紅色の骸骨だけだった。巨大な翼の骨が屏風のように背に集められ、燃え盛る火で何度も焼かれた青銅のような質感を醸し出し、死んで骨だけになってもその威厳は枯れることなく、生前に如何に天下に君臨していたかを想像できる。
「悲しいねぇ、ノートン」小僧は骸骨を見つめた。「今の君を見てごらん。たとえ神でも皇帝でも、死んでしまえば玩具も同然だ」
 青銅と炎の王、ノートン。かつてのこの龍王は「燭龍」と呼ばれる究極言霊で世界を灼熱の地獄に変えたものだが、死後、その遺骸は人の遊び道具になってしまった。
 窓の外で一陣の風が吹いたかと思うと、空がすぐさま曇り、小雨が降り始め、落花が雨の中でくるりと舞う。ボスはその目の中に漠然とした悲しみを湛えた。川端康成の小説『伊豆の踊子』は、高歯の下駄を履いた学生が小雨の降る山谷を一人で歩いていると、まだ十四歳なのに古風な化粧と頭髪をした若い流浪の踊子に出会う物語だ。少年少女の間には愛情と悲しみが見え隠れする。別れというのは、出会った瞬間に始まるものだからだ。
「お嬢さんたち、お久しぶり」ボスは振り向いた。「君達は変わらず美しいね」
 ちょっと身を捻るだけで彼は摂氏三十度の笑顔を浮かべ、かなりご機嫌な様子になった。

「足長お姉さん、お宝は見つかった?」
「レーニン号の残骸は案の定極淵の底にあったわ。胚はキャビンの中にあったけど、すっかり歪んでしまっていて。一応核は抜き出したけど、新しい胚を作るかどうかは分からないわ」麻衣は黒いスーツケースを手渡した。
 スーツケースを開けると、白い低温蒸気が噴き出してきた。中には零下二百度の液体窒素に浸された円筒形のステンレス鋼の金属管があり、表面には厚い霜が付着していた。ボスはステンレス管を素手で掴んだ。普通の人間が超低温の物体に直接触れればすぐに皮膚が凍って固着してしまうものだが、ボスは大丈夫だった。霜を拭き取ると、ステンレス管の表面には蜘蛛の巣のような赫然たる血管が浮き出ていた。
 麻衣は驚き叫んだ。「入れた時はこんなじゃなかったのに!!」
「王を殺すのはそう簡単な事じゃないのさ」ボスはステンレス管をそっと撫でて言った。「こんなすぐに活力を取り戻して周囲の物を侵食し始めるなんて、第一世代の中でも相当しぶとい奴みたいだね」
「また会えたね、僕の愛しいペットちゃん」彼はステンレス管を自分の頬に押し付け、温柔な声で言った。「長い時が過ぎてしまったけど、僕たちは誰一人死なずに済んだ。すばらしい!」
 彼の声は孤独で寂莫、まるで千年の時を生きた老人が旧友に出会ったかのようだ。
 彼はステンレス管をスーツケースに戻し、麻衣に返した。「こいつは相当凶暴だ。今は封印しておこう。低温で眠らせて、アドレナリン系の物には絶対に触れさせないようにね」
「はい」
 ボスは手を伸ばし、麻衣の頭に触れた。スーパーモデル級の酒徳麻衣はボスより少し背が高く、彼に合わせるため麻衣は頭を下げる形になった。

「僕らの財団の首尾はどうだい? お金は稼げているかい?」ボスはス・オンギの方を向いた。
「お金に関して全く心配無いのはご承知の通りよ。詳細な会計を見るまでもないわ。財団を立ててからこっち、私が稼いであなたが使う、ずっとそうだったじゃない」ス・オンギは不満そうに言った。「あの尸守の群れを迎撃するのにいっぺんに一億米ドルも使ったのよ。……はぁ、一億ドル! なんて大金なのかしら!」
「それはアメリカ政府の出費じゃないのかい? 僕たちはトマホークミサイルを第七艦隊から奪って使っただけだろう?」ボスは目を見開いた。「うぅん! まさか僕たちの自腹マネーだったなんてね! オロチ八家の尻拭いが、まさかの自腹マネーとは!」
「ミサイルは確かに盗んだけど、第七艦隊の火器管制システムのクラッキングに一億ドルも使ったのよ。どうせ脆弱性は今回の件ですぐに修正されるでしょうし、また同じことをするならもう一度一億ドルかける必要があるわね」ス・オンギが言った。
「でも、僕たちがここ黒石屋敷を買ったのにも一億ドル使ったじゃないか」ボスは両手をス・オンギの肩に置いた。「もし尸守が上ってきてたら黒石屋敷は台無しだった。莫大な投資損失だよ!」
「黒石屋敷が投資ですって? この十年間でこの建物の修復にいくらかけたと思ってるのよ? 猫二匹しか住んでないのに! いくら牡牛座の私でも心が痛んで血反吐が出るわよ! お金の為に一生懸命働いてきたのに……魚座や蠍座のあなた達には分からないでしょうけどね!」ス・オンギは不平を訴えずにはいられなかった。
 麻衣とボスは同時に手を耳に当てた。
「しゃらくさいわね!!」ス・オンギは首を振った。「はいはい、で、今回はまたどんなデタラメな仕事をさせられるわけ?」
「シーザーチームの保育士を続けておくれ」
 ス・オンギは驚いた。「はぁ? あの子たちを極淵から救い出して、一億ドル使って尸守の群れを殲滅して、グズの後始末までやってあげたのよ? あの子たちも命が助かって万々歳なんだから、とっととアメリカ行きのチケットでも買ってあげればいいんじゃないの」
「アメリカに戻るのは簡単じゃないさ。彼らは神の国から帰ってきたんだ。高天原が海に沈んでから、神の国への道は何年もの間断絶したままだった。トリエステ号が天から降って来るまでね」ボスは言った。「彼らは秘密を知りすぎた。日本から離れるようなことは、オロチ八家が許さないだろうね」
「オロチ八家なんてあの子たちには脅威じゃないでしょう?」酒徳麻衣が言った。「シーザーとソ・シハンが手を組めば、龍王だって殺せるのよ」
「彼らが龍殺しの英雄なのは確かだ。でも考えてみて、彼らが倒した四人の真実を。コンスタンティンはただ兄に甘えるだけの小童。ノートンは弟が死んでから気が狂ってしまったし、フェンリルは……知恵遅れの子供を殺して龍殺しって言えるのかなぁ? イェメンジャドに至っては……いや、彼女は夏弥と言った方がいいかな、屈強で可愛くて優しい子……うん、まさに心ときめく美少女だった!」ボスは肩を竦めた。「真の龍族と向かい合ったら、あの三人に勝ち目なんてあるはずがないよ」
「真の龍族?」ス・オンギは驚いた。
「『神』とすら呼べる偉大な存在のことさ。シークレット・パーティにとってもかつてない最大の試練になるだろうね。今までシーザー達がやってきたのが竹刀で打ち合ってるようなものなら、今回は本物の殺人剣で面と向き合わなきゃいけないわけさ」
 ス・オンギと麻衣は顔を見合わせた。彼女達はソ・シハンとイェメンジャドの決戦の場面を目にしている。弟のフェンリルに劣るとはいえ、イェメンジャドは龍族の中でもスピード、体格、言霊、再生能力全てにおいて最上位に位置する完全生物。この世界に彼女を殺せる武器は存在しなかった。ソ・シハンが唯一のチャンスをつかんだというよりは、二人の過去がイェメンジャドに干渉し、不意に弱点を晒してしまったというべきだろう。
 大地と山脈の王イェメンジャドとの決闘が竹刀の練習だと言うのなら、「神」とは一体、どれだけ強い存在なのだろうか……?
「君の考えも分かるよ」ボスは言った。「神はイェメンジャドを秒殺できる」
「そんなのが敵にいて、保育士なんて言えるの?」ス・オンギはため息をついた。
「保育士だって立派なジョブだよ! ステキな保育士はHP回復も戦闘もこなせるし、隙あらばバフだってできる!」ボスは真剣そうに言った。「ガンバレ、負けるな! どうせ最初に蒸発するのはメインタンクだ! モンスターが襲ってきたらワープスクロールで街に戻ればいいさ!」
「保育士って辞められます?」ス・オンギが手を上げた。
 すかさずボスが彼女の手を握った。「チップス、そんな事を言わないでおくれ……君達の力が必要なんだ……今君が辞めてしまったら僕はどうしたらいい? そうだ、給料を上げるってのはどう?」
 その目はウルウルとして、今にも本物の涙が零れそうな勢いだ。ス・オンギは「その顔はずるい」という言葉を頭に浮かべずにはいられなかった。彼女は顔をしかめ、この剽軽者を見るに堪えられなくなった。彼女はボスの性格をよく理解していた。宝を寄越せ金を寄越せとか言ったり、悪戯好きでバカっぽくも振る舞ったりするが、その心の底には人に手の出せない頑固さがあって、誰にもその目的を変えることはできない。ス・オンギが辞めると言ったのも冗談でしかない。彼女にも、酒徳麻衣にも三無娘にも辞めることはできない。彼女三人とボスの間に「協力」は無い。あるのはただ「契約」だけだ。

「だったら、まずシーザーチームを見つけなきゃいけないわね」麻衣が言った。
「彼らは東京に行った。神も東京にいるよ」ボスが言った。
「なに? 今回の脚本は『巨神兵東京へ現る』なの? それとも『神・ゴジラ』かしら?」ス・オンギは複雑な顔をした。
「大丈夫さ。僕たちにはロ・メイヒがいる」ボスは笑った。「彼が救世主気取りでいる限り、神は無意味だ」
「あの子、制御できるの?」ス・オンギが聞いた。
 ある一人の男が狂って一匹の龍を殺したなら、それは偶然だとも言える。だが二度も狂ってその度に龍を殺しているならば、それは龍殺しの宿命にあると言える。龍王に遇う度に気を違え、気を違えれば龍王は必ず死ぬ。ス・オンギの心配はロ・メイヒが気を違える事ではなく、気を違え「すぎる」ことにあった。青銅と炎の王ノートンを倒した時、彼は七つの大罪の中で一番ショボい「色欲」を引き出すだけで全力だったが、フェンリルに相対した時の彼は、七戒たる屠龍の刀剣の七本全てを引き出してしまった。彼は自然法則を無視して強くなる……つまり、彼の実力はただ相手の実力によってのみ左右され、相手が強ければ強いほど彼も強くなるのだ。
 だが、今回の相手は「神」だ。神とは全知全能の存在の事だ。それに応じてロ・メイヒも全知全能かそれ以上の存在に……そんな存在が制御できるのか? 考えてみれば、彼は全知全能の「神」と同じくらい恐ろしい存在である。

「確かに心配だね。僕たちの素晴らしい名俳優ロ・メイヒは、龍殺しの英雄を一生懸命演じてきた。でもいつか、世界を救う為に自分を犠牲にするなんて、できなくなる日が来るはずだ。彼の目覚めはその日に起こる。臆病者の身体を脱ぎ捨て、一切を無塵と化す狂徒となり、反抗する世界を片端から燃やしていく……」ボスは囁いた。「もっとも、まだ準備は出来てないみたいだけどね」
「狂徒って?」麻衣は静かに言った。
「誰もが心に悪魔を持つ。幸福はその牢だ。全ての幸福が失せた時、悪魔はその牢から解放され、血塗れの讃美歌を唄って出て行く。絶望した人間は、無敵になる……」ボスは窓の外を眺めた。
 窓の外にはシトシトと小雨が降り、ボスは静かに雨を見つめていた。その視線は透明感と虚無感がないまぜになり、まるで悲劇の結末を予見しているかのようだ。
 ス・オンギは突然、ボスに誘われて『ロミオとジュリエット』の演劇を見に行った時の事を思い出した。素晴らしいばかりの演出に、観客全員が華やかな歌声に魅了され、ス・オンギも例外ではなかった。特にジュリエットを演じた女優が素晴らしかった。二人の出会う場面では彼女の頬は桃花のように美しく染まっていたし、彼女とハンサムで瀟洒なロメオが踊り、心のこもったラブソングを歌った時、観客達はその美しい光景に拍手を送り、ブラボー! と高らかに叫ぶ者まで居たものだった。だがその時もボスは無表情で、虚ろな視線を泳がせて、まるでステージ上で踊っている人間をただの歩く死体として見ているかのようだった。その時、ス・オンギは小さな声で彼に聞いた。こういう物語は好きじゃないのか、と。ボスが言うには、面白いからこそ君を誘ったんだ、しかし何度も同じようなものを読んでいるし、何なら物語の結末まで知っている、どうせ美しい少女が恋人の胸から剣を抜いて自分も刺し、悲しいアリアを歌いながら血だまりの中に倒れるんだ、と。さらに彼はこうも語った。僕が考えるに、美しい最初の出会いこそが悲劇の始まりなんだ、もし結末が分かっていたなら、二人は互いに約束を誓うダンスを踊るだろうか、と。……

 ボスは時々奇妙だ。まるで一切を洞察する哲人のようになってしまう。ス・オンギはそれなりに長い間彼といるが、彼の過去についてはあまり知らない。だが喜怒哀楽を心の中に隠すような人は大概、傷だらけの人生を歩んできているものだ。

「だから、いい保育士をやっておくれ。僕たちのロ・メイヒを幸せにして、彼に小さな幸せと温かみを掴ませてあげるんだ。そうすれば彼はお利口になる。毎日の小さな幸せでぐっすり眠れる」
「ノノの代わりの女でも見つけさせる?」ス・オンギが言った。「それとも、どこかの女にあの子を押し倒させる?」
「この世界に誰かの代わりになる人なんていない。代わりがあるというのは、ただ前の人が忘れ去られたということでしかないよ」ボスは笑った。
 彼はドアを押し開け、雨に濡れた枝の上の桜の花を見た。「桜がよく咲いているね。開花時期はだいぶ短いと聞く……」
 彼は突然溜息をついた。「チップスにも言える事だけど、人生の春夏秋冬って何度まであるんだろうね? どうしてノノみたいな性根も身体もひん曲がった木偶人形に拘る必要があるんだろうね? そうさ! ちょうどいい女がいるなら、ロ・メイヒに送ってやればいい!」
 彼のコロコロ変わる性格にも慣れていたス・オンギは、すんなりと彼の言葉に従った。「じゃあ、上杉絵梨衣ちゃんはどう? 彼女が怪物ならロ・メイヒも怪物。怪物対怪物で一目惚れするんじゃない?」
「あぁ、怪物と怪物の感情か。期待できそうだね」ボスは紙傘を開いた。
 小道からニャーニャーと言う声が聞こえたかと思うと、小太りの猫たちがやってきて、バカ弟が尻尾を跳ねさせながらボスの周囲を回り、腹黒姉は軽くボスの肩に飛び乗って傘の下に収まり、頬を舐めた。十年間この猫たちを飼育してきたのは執事の木村だが、彼がこれほどまで親しく構われたことはなかった。キャットフードを与えた後も猫たちは顔を背け、人の認識を拒否すらしていた。だが十年も会わなかったボスの声を聞いたか、あるいは匂いを嗅いだかしただけで、いそいそと駆け寄ってきたのだった。研究によれば猫の記憶は精々十五日間しか持続せず、十五日経てば最初の本能以外はすべて忘れてしまうという。このシャム猫の記憶力は、科学では説明がつかない。
 ボスは猫たちの頭にキスをした。「凸守! 小鳥遊! お前らどんだけ太ったんだよ! 高貴なるシャム猫はダークエルフのように清らかで神秘的であるべきだ! デブでブヨブヨな君達は、ああ、なんと悲しい……ネコチャン!」
「ふーん、デコモリにタカナシって名前だったのね」ス・オンギが言った。「ボスは名前を覚えてたか」
「彼、あの猫が相当好きなのね」麻衣がボソボソと言った。
「ボスの猫だからね」ス・オンギは肩を竦めた。「ボスは記憶力が悪いんじゃなくて、記憶する物事を選んでるのよ。一度自分の所有物だと思ったら、絶対に忘れないの」

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