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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第十二章:亜種

 雲が突如身をもたげ、長い尾で海水を叩いたかと思うと、直径数十メートルの透明な渦が沸き起こる。巨大な身体が海水を打ち鳴らし、雷鳴のような音を立てた。体長は優に百メートルはあろうかという巨大クジラ……灰白色の雲はその腹の模様だったのだ。こんな大きなクジラがいるなど聞いたことが無い。
「外見から判断するに……遥か昔に絶滅した『ジューグロドン』かもしれない」ソ・シハンが呟いた。


「トリエステ号初回圧力テスト! パイプの圧力300気圧、バルブ解放!」
「初回回路テスト! 全スイッチ全負荷準備、開け!」
「推進力系統試運転、出力80%!」
「記憶金属膜、通電準備!」
ドックの中で岩流研究所がトリエステ号の最終検査を行っている。技術者達が大声で叫ぶ中、数千本のケーブルがトリエステ号に接続され、数十台の機器がその周りで点滅している。須弥座の発電室に隣接したこのドックは、コンクリートの断熱壁でも遮断しきれないボイラー熱でおよそ四十度を超える気温になっている上、ろくな換気もされないまま、圧力テスト中のトリエステ号による巨大ハリケーン級の噴気が超音波ノイズを発生させながらドック全体の熱気を高速でかき乱している。それでも岩流研究所の技術者たちは誰一人不快そうな表情を見せることはない。彼らは目の前の任務に全身全霊を捧げ、無関係な感覚を全て排除しているのだ。
ロ・メイヒはこの場面を見て『サクラ大戦』を思い出した。二十世紀初頭の大正時代、美少女で構成される帝国歌劇団というものがあり、平時はミュージカル劇団としてシェイクスピアを演じたりしているが、ひとたび妖魔が街の中にあらわれれば、劇場の下のドックから蒸気動力の飛空船が飛び出して、魔法の甲冑を着た少女と共に戦場へ飛んで行くとかいう、あのゲームだ。
 ドックの隅で胡坐をかいているロ・メイヒの隣には、同じように胡坐をかいたソ・シハンがいて、ドック中央の光がコンクリート壁に長々と二つの影を伸ばしている。
 彼らは防水作戦服に身を包んでいる。作戦服の表面に張られている極薄極細の金属メッシュは、一種の静電気バリアを形成して胚の精神汚染に抵抗することができるらしい。
 ソ・シハンは手の中の刀を拭き、油で一筋磨き、また拭いて、を繰り返していた。本来なら必要もない手入れだった。元々使っていた刀は壊れており、今使っているのは装備部の金属加工チームによって作られた複製品である。当然、あの装備部が日本刀工のように玉鋼をハンマーで鍛えて手で磨いで……なんて作業をしたものではない。新型の超合金鋳造成型を使い、工作機械で形を整え、ダイヤモンド砥石で磨かれて出来た刀であり、メンテナンスの必要など全くない代物である。超合金自体は玉鋼よりはるかに堅靭で、刃こぼれが起きることもなく、そもそも普通の砥石ではまともに磨ぐこともできない。仮に刀が壊れようとも装備部は一日も経たずに新たな複製品を作る事ができるし、その気になれば大量生産も可能だ。ソ・シハンが『サムライスピリッツ4』の「徳川慶寅」のような七刀流武士であっても、装備部がその刀の品質と数を欠かすことはないだろう。
 だが、彼にとって刀磨きは習慣だった。砥石が刀の上を摩擦する音を聞くと、段々と安らかな気持ちになっていくのだ。ヨーガの実践者が山水の音を聞き、人と天地の合一を感じ取るのと同じように。

 シーザーは二人に交わらず、専ら検査中のトリエステ号の鉄板の上にいた。船の上で着ていた白い船長制服は暑さの中で脱ぎ捨てられ、目を瞠るほど筋肉の割れた肌を露出させている。ライトに照らされた汗が火のように赤くなった金髪から背中に垂れて、筋肉の溝に沿って流れていく。何か大声で技術者たちに命令しているようだが、岩流研究所の技術者にカッセル学院の卒業生は多くなく、ましてや中国語が分かるわけでもない。シーザーが叫んでいるのは主に英語と中国語だが、所々に最近習ったばかりであろう日本語のフレーズが挟まれ、さながら言語の闇鍋である。ロ・メイヒはその内容をまともに聞き取れず、ただシーザーが時折眉を顰めたり親指を立てたり、あるいは笑って手を叩いたり技術者の肩を叩いたりするのを見ているだけだった。
「アイツはああいうのが好きなんだな。団体行動、切磋琢磨、みんなと一緒……」ソ・シハンはシーザーの背中を眺めて言った。「俺達には分からない感覚だ」
「ボスは学生自治会の会長だから……。そういえば先輩も獅子心会の会長だけど、ボスと全然違うよね。グループには絶対に入らない感じ。獅子心会の運営ってどうやってるの?」
「俺は獅子心会の運営はしない。そういう仕事は全部ランスロットにやらせている」ソ・シハンはぶっきらぼうに言った。「ランスロットが口癖みたいに『会の活動に口出ししないでくれ』って言うのも、俺がどうあがいてもシーザーみたいにうまく口が回らないからだ。あいつは聖書の一節とっても熱心に語れる、天性のリーダーだ。ランスロットが言うには『黙って仕事すれば行動派、余計に喋ればシーザーの勝ち』らしい」
「ホントのマシーンになれってこと? っていうかさ、会長がそんな副会長にいろいろ言われて、プライドとかなかったりしないの?」
「プライドも何も、実際シーザーに感服する時が多々あるのは事実だからな。何時何処でも自分の目標を持ち、恐れず、たゆまず、皆の闘志を湧き立たせるパワーがある……」ソ・シハンはロ・メイヒを見つめて言った。「人は自分の生き方を選べる。そしてシーザーは、英雄みたいなすごい男になることを自ら選んだ男だ。ただガットゥーゾ家に生まれただけというわけじゃない。貴公子中の貴公子になったのは、奴自身の意思だ」
「うわーうわー、また先輩のスバらし~いお話だよ! 最近いろんな感動的なお話聞かせてくれるけどさ、僕を励まそうとしてるの? それともボスとお世話ポイント稼ぎ競争してるの? そうだよわかってるよ、運命を切り開くのは性格なんでしょ? 男は強くて当たり前、リーダーシップ発揮で他者を巻き込んで頑張れ~云々でしょ?」ロ・メイヒはいじけて言った。「どうせ僕の事可愛がってくれる先輩女子とかいなくたってさ、あと数年したら僕が先輩になるんだ。そしたら後輩に見栄でも張ってやれるもんね」
「一つ聞きたいんだが、いいか?」
「先輩女子の事? 聞くまでもないでしょ」ロ・メイヒは言った。「どうでもいいんだ。僕はなーんも感じちゃいない。ほーら今だって心ウキウキピョンピョン、ドンヨリモクモクなんてなーんもない」
「そうか」ソ・シハンは顔を下げて刀を拭き続けた。
 ソ・シハンとの会話で気楽な点はこういうところだ。「話したくない」と明確に伝えさえすれば、たちどころに話題を切ってくれる。ただ、次に何を話せばいいのかわからなくなってしまうのだが。
 
 ロ・メイヒとしてはもう少し話を続けたいとも思ったが、ノノの事を口に出したくなかっただけだった。八キロ以上の極淵、世界でも十人にも満たない人間しか到達したこともない場所、しかも龍の胚が眠っているあの場所に飛び込めと言われた時は、心がしぼんで手足も震え、声も掠れてしまうほどだと思えた。しかし今となっては思ったほど怖くも無く、その代わりに少し冷たくしびれるような感覚だけがあった。それはこの旅の中でずっと感じていた感覚だった。まるで魂が肉体から引き剥がされたかのようで、肉体はさっさと前へと進んでいるのに、魂はどこかに置き去りにされているかのようだ。あるいは顔だけが笑っていて、心はただ強張っているだけだとか。恐らく笑いを司る神経が独立宣言に成功して、ドンヨリモクモクも何もない朗らかなロ・メイヒと、生きて呼吸するだけでクールに強張るだけのロ・メイヒに分裂してしまったのだ。それが適応だか成長だか何かなのかもわからないが……。
 この二日間、源稚生がずっと彼らの行為のロジックを全く理解する事叶わなかったように、いつどこでも周りで踊り歌うようなおかしな人達のチームは、これから始まる危険な任務には何のプレッシャーも感じていないように稚生には見えていた。だが稚生の見立ては一つだけ間違っていた。この三人はそれぞれ別のベクトルにおかしい人間であって、今はたまたま似たようなおかしさが出ているだけなのだ。あらゆる不運が遠ざかる「ハッピーウェディング」オーラに包まれていると自負するシーザー。生死の狭間でも冷静に反撃を狙い、眉間に刃を突きつけられようとも己に刮目を強いるような冷徹な自制力を持つ普段通りのソ・シハン。ロ・メイヒに至っては、毎日ウキウキピョンピョンと何でもないことに大騒ぎ、愚痴ばかり垂らしてはミニスカート少女を目で追い、高級ホテルや極道本部に「スゴーイ」と連呼したりする「楽」のロ・メイヒと、世界から切り離されて無目的に彷徨いクールに強張った顔で悲しみも喜びも無く何もかもに無関心、ただ少しくたびれかけているだけのような「哀」のロ・メイヒに分裂してしまった。
 ロ・メイヒはまさに今自分の隣に、クールに強張った顔で膝を抱えて遠くの検査台の光を眺めている別のロ・メイヒを想像した。そのロ・メイヒと話をしたくても、一体何を言えばいいのだろう? 誰がその心を慰められるというのだろう?
 そこで彼はロ・メイタクがくれたiPhoneを思い出し、ショートメッセージの連絡先を眺めてみたのだが、何か送ってもよさそうな人はいなかった。結局、昨夜撮った『生は夏の花の若し』の写真をひとつ微博に投稿することにして、最初は「生若夏花」と四文字だけ書いてみたが、考えた末に削除し、「東京のご当地最高グルメ! 控えめに言って、超ゴージャス気分!」に変えた。
 その瞬間、彼の隣に座るクールで強張ったロ・メイヒから、わずかな笑いが零れたように思えた。

 イヤホンからザーザーという音が聞こえた。通信チャンネルのテスト開始を示す信号だ。EVAのシステムと日本支部の輝夜姫システムのインターフェイスが繋がり、北米の指揮本部と須弥座、トリエステ号とシーザーチームが別々のチャンネルに割り振られたのだ。任務開始の信号だった。ロ・メイヒとソ・シハンは無意識の内に直立し、検測台の上のシーザーもイヤホンのささった右耳を手で押さえた。
 重苦しい呼吸の後、シュナイダーのかすれた声が聞こえた。「シーザーチーム、ノーチス。シーザーチーム、ノーチス。龍淵計画が始まる時が来た。任務開始前にいくつか注意しておくことがある。現在私は暗号化チャンネルを使用している。私がこれから言う注意事項は、君達三人しか知らない。日本支部には秘密にするように。返答オーバー」
「オーバー!」三人は一斉に言った。
「君達は龍の胚を爆破する為に極淵へ潜航する。任務そのものは簡単な方と言えるだろう。ただ手順通りに潜り、見つけ、硫黄爆弾の発射ボタンを押し、浮上するだけだ。しかし任務中に予想外の事が起きる可能性もある。人類史上、極淵の底まで到達した人間は十人にも満たない……つまり、極淵は人間にとってまだ謎に満ちた領域だということだ。深海では様々な予想外の状況が起こるかもしれない。だが、君達は優秀な学生だ。特にシーザーやソ・シハンは既にベテランの執行員と言える。どんな状況でも自分の判断で処理できると信じている。だが一つだけ例外がある――扉、もしくは扉に似たものを発見したら……近づくな。絶対に入るな。何があっても必ず引き返してこい」確信と意志に満ちたシュナイダーの声には、疑いを挟む余地も無さそうだった。
「扉?」シーザーは言った。「海底に扉だと?」
「質問はするな。覚えていてくれればいい。任務中は『扉』という言葉も絶対に使うな。扉のようなものを見つけたら、何があっても引き返してこい。聞こえたか?」シュナイダーはきっぱりと言った。
「聞こえましたが、よく分かりません」シーザーは言った。
「分からなくて結構。覚えていてくれればいい。潜航中は日本支部執行局局長の源稚生が君達と連絡を取り続ける。彼は本部での研修経験もあり、潜水経験も豊富、優秀な現場指揮官だ。全て彼の判断に従えばいい。唯一の例外は『扉』、扉が見えたなら、即刻調査を終わらせ、戻れ。これだけは鉄の原則だ。健闘を祈る」シュナイダーはいったん通信を止め、再びソ・シハンにだけ繋ぎなおした。「ソ・シハン。潜航する前に母親にメールを書きたまえ。昨日EVAにメールが届いて、数日間メールが無かったから少し心配しているようだ。EVAが実在の女性だと思って化粧品を送ってきて、君の様子を見てくれるよう頼み込んできたりもした」
「母さん、俺の毎日のメール読んでるのか?」ソ・シハンは少し驚いた。「件名だけ眺めているのかと」
「大人が子供の全てを知っているわけではないように、子供も大人の全てを知っているわけではないだろう」シュナイダーは通信を切った。
 シーザーは片手で手摺をひょいと乗り越えて検査台から飛び降り、ソ・シハンとロ・メイヒの前まで走ってきた。「検査は大体終わった。準備はいいか? 作戦服に着替えるのは数分かかるぞ」
「準備の準備は出来たよ」ロ・メイヒが答えた。「けどさっきの教授の警告は何? 僕にはさっぱりだよ。深海に扉だって?」
「扉、もしくは扉に似た何か、だと言っていたな。広義の『門』ということか」シーザーは言った。
「門と言っても曖昧過ぎるな。コックピットハッチに、ベントのバルブ。潜水艇に門と言える部品は少なくとも数千個はある」ソ・シハンが言った。
「え、そういうの全部『門』なら、こうも……エロ画像もダメかな……」ロ・メイヒは唇を丸めた。「スマホの画像フォルダ全部消した方がいい?」
「勝手にしろ……まあいい。ソ・シハンは母親にメール、ロ・メイヒは画像フォルダの整理、俺は作戦服に着替えて、十五分後に潜水艇集合だ」シーザーは船長服を肩に担いだ。「潜る前に一言、俺からも『原則』を言っておく。このチームのリーダーは俺だ。お前たちの仕事は俺のサポートだ。サポートにはサポートの仕事がある。俺達はチームだ。チームにはチームらしい仕事の分担っていうものがある。いいな?」
ソ・シハンはわずかに頷いた。
「ボス安心して! 僕はただの取り巻きじゃなくて、ボスの犬だから! ボスが鞭を叩いたらちゃんと吠えるよ!」ロ・メイヒは言った。「僕一人じゃなんもできないよ、なんたって操作マニュアル全然読んでないし」
 シーザーが満足そうにうなずき、踵を返して去ると、ソ・シハンとロ・メイヒはその背を追いかけた。ロ・メイヒがある程度歩いてはっと振り返ると、クールで強張ったロ・メイヒはまだその場に座ったまま、足を抱きしめ、膝の上に置いた顔をライトに照らされていた。

 波の音をも圧倒する重たい音が鳴り響き、六つの「須弥座」が同時にイエローライトを灯す。イエローライトは周囲の海に弧を描くように一回転し、空のヘリ、海面の巡視船、そして遠方警戒に当たる林組の漁船は、それに呼応するかのように一斉に光を灯した。
「シーザーチーム、トリエステ号に入りました。検査作業は終了。潜水艇は概ね良好、海水も安定。本部からの龍淵計画開始の信号も受信。潜水艇は定位置につき次第、すぐに入水できます」桜が稚生の背後に来て言った。
 須弥座の屋上に立つ源稚生は、トレンチコートを風になびかせながら、海を眺めていた。その視線は近くの巡視船のむこう、遠くに見える漁船に向けられている。光が天と海を分ける水平線上に連なって、きらめくひとつなぎの真珠が海に浮かんでいるかのように見える。
「桜、海女さんという人々を聞いたことはあるか?」稚生が聞いた。
「聞いたことはありますが、よくは知りません。海女、というのは昔の真珠取りの女性たちの事で、素潜りで数百メートルの深さまで潜り、大きなハマグリをナイフでこじ開けて真珠を採っていた、というような……」桜は言った。「女性だけができる仕事だとも聞きました。女性は皮下脂肪が男性よりも多く、つまり男性よりも寒さに強いから、と……。男性が同じことをしても、深海の低温で関節が変形していき、数年も経たずに衰えてしまうとか」
「海女さんは海の中の真珠を採るとき、腰に縄を付けていき、もう一方の端を船の上の仲間に渡すという。海底で危険を感じた時にはその縄を強く引けば、仲間が引き上げて助けてくれるし、あるいは助からなくても死体は引き上げてくれるからだ。だからこそ海女さんは、自分の信じる親族にしかその縄を握らせない。しかし海女さんの夫たちが口々に言うのは、妻に飽きたら遠くの海に行って真珠を集めさせて、その間に海に縄を投げてしまえば簡単に乗り換えられるだとか、そういうことばかり……」稚生は淡々と言った。「信頼というのは、世界で最も信じられないもの。そう思わないか?」
 稚生は桜の手渡したヘッドセットを手に取り、装着した。「現場の指揮は源稚生が執る。シーザーチーム、準備はいいか」
『遅刻だな、源君。人を待たせて時間を無駄にするのはよくないぞ。さっさとこの任務を終わらせて、東京でディナーでもしたいんだ。さあさあさあ』シーザーの声がヘッドセットから聞こえた。
「時刻は午後10時15分、東経122度56分、北緯35度33分。龍淵計画開始。私は現場指揮官の源稚生だ。トリエステ号、投下開始!」稚生は言った。「皆さん、ご武運を」

 須弥座下部の潜水艇ドックが開き、錘を積んだトリエステ号が黒い海に落ちた。須弥座底部からはトリエステ号が噴出したであろう空気が白い泡となって湧き出して見えている。フロッグマンチームが海中に潜り、トリエステ号上部の安全フックに須弥座上の滑車に繋がった安全索を取り付ける。この滑車に巻かれた長さ十二キロメートルの金属製安全索は衝撃や摩耗に強く、トリエステ号規模の船なら五隻同時に引き上げることもできるほどの強度があるほか、装備部特製の回収装置によってニ十分もあれば極淵の底から海面まで潜水艇を引き上げることもできる。
 フロッグマンが須弥座のてっぺんに居る稚生に向けて親指を立て、安全索の取り付け作業が正常に完了したことを示した。回転し始めた滑車は、トリエステ号少しずつ海底へ向かって行っているのを悟らせる。
 桜はその時、稚生が突然海女さんの話をした意味を理解した。

 稚生はヘッドセットを外し、電話を掛けた。「潜水艇が潜りました。絵梨衣に準備をさせてください。潜水艇はおよそ八十分で神葬所に到達します」
「よくやった。輝夜姫はアメリカとロシアの軍事衛星システムのハッキングを完了した。少なくとも今夜中は付近海域を衛星に撮られる心配はない」電話の向こうで喋っているのは橘政宗だ。「腕の見せ所だぞ、稚生。オロチ八家の歴史を変えるのは、儂とお前なのだ」
「絵梨衣の状態はどうですか? 身体は持つでしょうか?」
「体調が良いか悪いかは関係ない。絵梨衣が剣を振れば、すべてが終わる」政宗はそこで少し言葉を止めた。「絵梨衣こそ我らの……月読命なのだからな!」


 小さな黄色のアヒルが泡の中に浮いている。巨大な四角い青銅の浴槽と、古代ローマ皇帝が使っていたような豪華絢爛な浴室。天井から柔らかな光が投げかけられ、美しく澄んだ少女の肌を照らしている。彼女は指で黄色いアヒルを水に沈めて、再び浮かび上がってくるのを見たり、弾いて遠くへ行ったアヒルに泡の中から出した足に引っ掛けたりして遊んでいた。上杉家当主のおよそ一時間の入浴中、殆どがこういった小さな黄色いアヒルとの遊びだった。泡立った身体は既にそれなりに見事に発達しているが、それはすなわち、ゴム製アヒルで遊んでいられるような少女ではないことも意味する。彼女の精神年齢はほとんど幼女で止まっているようだ。
 外から足音が聞こえ、橘政宗が咳をした。「絵梨衣、もう遊びはおやめなさい。早く服を着て出発したまえ」
 返答はなかった。政宗がそこでしばらく待っていると、ようやくガラス扉に文字が浮かんでくるのが見えた。『はい』
 浴室のすりガラスに、上杉家当主が水で透明な字を書いたのだ。絵梨衣が身体を洗いに行ったのか、政宗は透明な字の向こうに想像かき立てられる輪郭を見た。
「上がったらちゃんとバスタオルを巻くんだぞ!」政宗は思わず叫んだ後、溜息をついた。
 上杉家当主に同じような注意をしたのは初めてではない。幼い精神は男女の区別も理解していないようで、異性の前で身体を露出することがどういうことかも分かっていない。一族の集会を温泉で開いたある年、長老たちが座る目の前で突然上杉家当主が襖を開けて飛び出したかと思うと、その場で着物を全て脱ぎ捨て、全裸で外の温泉に飛び込み、長い髪を水の中に沈めたのだった。責任感や警戒心の強い一族の長老たちですら、その明るく自然な美しさに衝撃を受け、一時のあいだ目を逸らすことすら忘れた。橘政宗は一人残らず刀の柄で叩いて注意を引き戻し、すぐさま稚生に着物を拾わせ、絵梨衣を隠すように広げさせたのだった。
「儂が死んだら、お前を守れるのは稚生だけなのだぞ?」政宗は首を振った。
 上杉家当主はイヤホンを外して脇に置き、シャワーの下に行って青銅の蛇口を捻り、稀有な暗紅色の髪の泡を洗い流した。浴室から出ると自分のスーツケースを開け、小さな黄色いアヒルを入れるかわりに、紅白の巫女服を取り出した。肌襦袢と白衣、緋袴で構成され、袖口と襟には赤色の絹縄が織られている伝統服だ。巫女服を着た後、絵梨衣は再びイヤホンを耳に差し込んで、少し考えた後にもう一度小さな黄色いアヒルを取り出し、こっそり裾の中に忍び込ませた。裾にはいくつかポケットが縫い込まれていて、色んな小物が詰め込まれているのだ。

 白い遊覧船が満潮の波を渡る。船首には銀の『橘』の紋章があり、橘政宗と風間小太郎はその中で腰を下ろして茶を啜っている。その周りと船首、船尾には黒服のボディガードが配置され、腰には黒い短刀の鞘が刺さっている。
 上杉家当主がシャンプーの匂いを漂わせながら甲板に出ると、風間小太郎は直ぐに立ち上がって頭を下げた。若い女とは言えど、三大姓当主の地位は五小姓当主の地位よりも高い。一族において上杉の姓は、忍者の大御所として知られる風間家よりも高位にあるのだ。
「おいで、絵梨衣。顔をみせておくれ」橘政宗が言った。
 上杉家当主は橘政宗の前の座布団に座ったが、政宗にまともに顔を向けることはなかった。きょろきょろと周りを見回し、まるで親に叱られる子供が座らされたかのようだ。
「よく頑張ったな」政宗が頭を撫でた。「お前の代わりに行けたらいいのだが、儂にそんな力は無いのだ。お前がやるべきことは、全てを切り捨てる事。黄泉の道をも含んだすべてをな。わかったか?」
 上杉家当主は橘政宗の手の平に指を伸ばして円を描き、それを理解したということをだいたい示した後、手を大きな袖に引っ込め、細い指だけを露わにした。下駄を脱いで脇に置き、白い足袋だけを履いたまま、遊覧船に横付けされたボートに飛び乗った。絵梨衣一人だけのボートだった。黒服ボディガードがロープをほどくと、波はボートを遊覧船から引き離すかのように押し出していく。その時突然、橘政宗が立ち上がって船の横まで行き、上杉家当主に向かって手を伸ばした。上杉家当主は頭を下げて無視していたが、橘政宗はケーブルを掴み、ボートが離れるのを防いでいた。しばらくたってようやく、上杉家当主は裾からPSPを取り出して、どこか遠い目をしながら橘政宗に手渡した。
「一族の未来に関わる大事なことなのだ。ゲームはやめなさい」政宗はため息をつきながら注意した。
 やはてボートは一路、白色の水痕を海面に残しつつ、光る方向へ向かって行った。海中宮殿が浮かび上がっているかのように光が透け、作戦中の須弥座はその巨大な威容を露わにしている……。

「深度30メートル。流速安定、トリエステ号、機関正常」シーザーは水面の向こうの指揮官、源稚生に状況を報告しつつ、この骨董級潜水艇の機器を忙しく操作していた。
 ロ・メイヒは上部の観測窓から外を見上げた。最後の光が視界の中央に収束し、青黒い海水に囲まれ、まるで井戸の中に空の光が差し込んでいるかのように見える。潜水艇はその井戸に沈んでいく。そして完全な暗闇に包まれた瞬間、ロ・メイヒはひっそりと寒気を覚えた。
 源稚生が言うに、極淵というのは特別な場所らしい。八キロもの厚さの海水が圧し掛かる、世界から隔絶された場所。海底とマントル層の距離は一キロにも満たず、マントル層の液体岩石は燃えるような溶岩の大河と奔流を作り出し、生命もほとんど存在しない、世界で最も孤独な孵化場。頭では理解していたが、潜水艇が沈降し須弥座の光もどんどん遠くなって、遂に暗闇に全てが呑み込まれてしまい、本当に世界から離れてしまったのだ、という孤独をひしひしと感じたのだった。まだ旅路の三十分の一にも満たないものの、ロ・メイヒははもうすでに帰りたいと思ってしまっていた。寂しさのあまり、何かしら騒いで気分を紛らわしたくもなる。

 周囲が突然明るくなった。ソ・シハンが外部光源を点け、トリエステ号の四方に高光度サーチライトを広げたのだ。「ガスレイ」と呼ばれるライトは目を刺すような白光で潜水艇の左右十メートルの空間を照らしたが、このわずかな距離を越えるとすぐさま光が消え失せ、墨のような暗黒が光を食いつくしているかのようにも見える。そこに名前も知らない銀色の魚が潜水艇のすぐそばを泳ぎ抜けていくのを見て、ロ・メイヒは驚いた。ガスレイがその身体を照らすと、一筋の銀河のように明るくなった。寂静の死の世界と思えたこの場所にも、あふれるばかりの生命があったのだ。
「ある計算では、陸上生物は地球生物の1%にも満たないらしい。残りの99%は海にいるという」ソ・シハンが言った。「海は地球の全生物の故郷だ。地球が冷えて固まってから数億年後、有機物が豊富な暖かい海が出来た。生物学者の言う『原始のスープ』だ。何億年もの間沸騰し続け、海水内の有機分子がぶつかり合って、何億もの何億ものずーーーっと衝突を繰り返し、無数の失敗を経てようやく反応が終わり、微生物が生まれた。それが進化の樹のはじまりだ」
「龍族も海で生まれたってこと?」ロ・メイヒが聞いた。
「だろうな。一説では龍族は元々海洋生物で、後々になって陸地に上がったらしい。古龍が海底を孵化場として選ぶというのは、故郷に戻ったという事なのかもな」
 シーザーが更に多くの圧縮空気を放出し、潜水艇はより深く潜っていく。耳の中が機械的な操作音と気流の音でいっぱいになっても、呼吸と心臓の音だけは嫌にはっきりと聞こえてくる。どんなに「静かな」部屋で生活していても、遠くの大型トラックの走行音やエアコンの音、水道管の音といった普通の人が特段注意を払わない騒音が常に十デシベル程度はあるものである。そういったバックグラウンドの音が基準となってそれ以下の音をかき消すからこそ、今のような特別大きな雑音の中での心臓の音や呼吸の音というのは、むしろはっきりと聞こえてしまうものなのだ。
 シーザーは真剣な様子で色々なバルブやノブをせわしなく切り替えている。日本に来るまではトリエステ号で海に潜るなんて知らされもせず、ろくな訓練も無しにマニュアルだけ渡されただけだというのに、シーザーは一晩で潜水艇の操縦を覚えてしまい、ベテラン船長が慣れ親しんだ木の舵を捻るかのように、潜水艇をいとも巧みに操っている。シーザーは本当に強い人だ、とロ・メイヒは嘆息した。飄々としてはいるが、操縦マニュアルを覚えるために徹夜したのだろう。シーザーとはそういう人なのだ。プライベートでどんなに疲れていても、着飾って人前に出れば貴族だと言わんばかりの光輝く気高さを振りまくような人間だ。
いわゆる貴族の青い血を受け継ぐ者は、生まれながらにして強者でなければならない。青い血の貴族にとって努力は恥であり、努力で手に入れた能力は、ただの成り上がりとしかみなされないのだ。
シーザーは作戦服から一本のアルミチューブ巻きのコイーバ葉巻を取り出した。いつもなら銀のシガーカッターで丁寧に頭を切るところだが、今は単純に噛み千切って火をつけていた。
「コックピットがこんな狭くて、酸素も少ないのに、タバコなんて吸わないでよ」ロ・メイヒはため息をついた。
「トリエステ号には空気清浄器もある。タバコの匂いなんてしないだろう」シーザーは言った。「海中に四時間もいるんだ。ずっと見つめ合ってるわけにもいかないだろ? それに狭いって言うなら、刀を持ちこんでる誰かさんはどうなんだ?」
 言う通り、ソ・シハンが腰に下げた長刀がロ・メイヒの腰に当たっていた。外観は十五メートル程あるトリエステ号だが、コックピットはほとんどエレベーター程度の大きさしかなく、水密キャビン、気密キャビン、エアポンプといった様々なパイプに囲まれた小さな空間に所狭しとバルブやメーターが並んでおり、向きを変えることもままならない。ロ・メイヒとソ・シハンは背中合わせに座っていたが、頭をぶつけないように屈みこまなければならなかった。
「なんかさっきからずっと変な音ばっかり聞こえるんだけど。ボスの家の骨董品、途中でバラバラになったりしないよね?」ロ・メイヒが言った。
「まあ、確かに骨董品だな。七十歳の元世界級登山家がエベレストに再挑戦するみたいなもんだ。至る所の骨にガタが着てるのは仕方ない」シーザーは言った。「とはいえ、装備部の奴らが外装の裏に形状記憶合金層を入れて補強してくれたからな。外装さえ吹っ飛ばなければ、他の機器が多少おかしくても何とかなる」
「そうだね。ボスの使うイタリア語だと、『もの』と『命』は同じ発音だもんね」ロ・メイヒは「ガスレイ」ライトを動かし、厚さ十センチメートルの樹脂ガラスを通して外を見た。

 しばらくして深度300メートルに達すると、生物あふれる浅い層はすっかり抜けてしまい、今や外はまるで宇宙が始まったかのように真っ暗闇しか見えなくなくなった。まるで世界の中心にフワフワと浮かんでいるかのようだ。
「外からの圧力が凄まじいって言ってたけど、だいたいどのくらいなの?」ロ・メイヒが訊いた。
「今だと大体三十気圧くらいだろうな。お前の上に体重二百キロの女の子が立ってるようなもんだ」シーザーが暗算して言った。
「体重二百キロの女の子? まだ養豚場の豚の方が現実味あるよ……」
「極淵の底についたら豚が二十匹に増えるぞ」シーザーは笑った。
 源稚生は通信チャネルで潜行チームの会話を聞きながら、あのアホ達が窮屈なコックピットで歌い踊っているのを想像した。奇妙にも稚生の心にはかつてない重圧があったのだが、このおかしな人達のナンセンスな会話を聞いているうちに、だんだんと気も緩やかになっていくのだった。


「チップス、チップス、応答せよ」
「足長、足長、ちゃんと聞こえるから静かにして。シーザーが『鎌鼬』を発動したら、すぐに女二人が近くで喋ってるってわかっちゃうんだから」
「一人の美女が喋ってて、もう一人地上にいるおデブオタク女と通信してるって?」
「そうね、私は太ってるからあんな狭いところ入れないの。だからスーパースレンダーちゃんにお願いしたのよ。でも仮に痩せてても深海の高圧には耐えられないし、こんなしょぼい言霊じゃ先鋒にはならないわ。せいぜい保育士くらいよ」
「それはこっちも同じよ」酒徳麻衣はため息をついた。「今の私達、このおこちゃまたちのフルタイム保育士そのものでしょ」
 コックピットの隣、三番と四番の水密キャビンの間の狭いスペースに、酒徳麻衣はセクシーなポーズで収まっていた。鍛え抜かれた忍者である麻衣は、適度に関節を外してこの狭く捩じれた空間に入り込むことができたのだった。麻衣はトリエステ号潜入の為に一日食事を抜いてきていた。二本のパイプが腰の前後に当たり、その一本が下腹部に深く沈みこんでいるのを考えれば、この判断は正しかった。腹の中に何か入っていたら耐えられず嘔吐していたに違いない。麻衣のタイツの表面は魚の鱗のように清らかで、桜の鎧よりも更にきついものらしく、元より細かった腰は更に締め付けられ、まるでコルセットを着たフランス宮廷貴族のように、呼吸すらも危ういほどになっている。彼女の体格だからこそできる芸当であり、チップスと呼ばれた女が同じことをしても、パイプに挟まって動けなくなるだけだろう。
 こんなスペースに生きている人間が入り込むことなど、普通ならありえない。当然、装備部や岩流研究所の担当者がチェックする事もない場所である。
 酒徳麻衣は懐中電灯を付け、頭上の空間を照らした。黒い金属の覆いに核放射線を示す黄色と黒のマークが描かれている。この潜水艇には核燃料槽があるのだ。麻衣は深呼吸をして腰をさらに引っ込めると、パイプラインを這いあがり、核燃料槽を見回した後、核放射線を計測するガイガーカウンターをバックパックから取り出し、核燃料槽の表面に取り付けた。
 酒徳麻衣はガイガーカウンターのメモリを読んだ。「α粒子が基準を大幅に超えてる。核燃料槽じゃない……核爆弾だわ。オロチ八家はこの潜水艇を有人核爆弾にして、何かを吹き飛ばそうとしてる。あの三バカはこの任務でカミカゼさせられてるのも分かってないのね。……さあ、どうすればいい? 核爆弾を解体する? 言っておくけど私は東大文系卒だから爆弾解除はできないわよ。核物理学博士号持ってる元カレはいるけどね」
「難しくはないわ。核燃料槽を改造して核爆弾にしたものだから、大した技術は使われてないはず。起爆装置をつぶせば、核爆弾本体には何もしなくていい。とりあえず解除方法を送るわ」チップス女が言った。「でも起爆装置を解除したら須弥座の奴らに気付かれるわ。電子回路は定期的に自己スキャンしてるから、起爆回路は事故に見せかけて止めなきゃいけないの。やりかたは送ったファイルに書いてあるでしょ?」
「何これ! 潜水艇から出ろってこと!? 今水深500メートルなのよ!?」
「だから薬を持たせたんじゃない。注射すれば水深8000メートルでも余裕よ。でもちゃんと四時間後に安定剤を打たないと血統が不安定になるわ。深海では誰も助けてくれないわよ」チップス女は言った。
「はいはいわかりました。あーもう、うるさいママみたいに言わないでよ」酒徳麻衣は血のように赤い薬剤の入った指程度の太さの注射針を取り出した。手首の静脈に刺すと、圧縮空気が自動的に薬剤を静脈へ送っていく。
 血に混じった薬剤が彼女の身体の隅々まで運ばれ、化学と生理の両方で劇的な変化が起こっていく。力が蔓のように手足の先まで伸びていき、麻衣は顔を上げて、天と地の全てから力を得るかのように深呼吸した。比類なき意思、比類なきパワー、比類なき威厳、今や彼女は女王のようなオーラを十倍百倍にも高め、王が臣下を眺めるかのように、狭い空間を見渡した。
「足長、足長、無事女王様にはなれたかしら?」チップス女が暗号化チャネルを通して小声で聞いた。
 麻衣は長らく女王のような沈黙を保った後、そのいかめしくも華美な顔にわずかな綻びを見せ、大きな溜息をついて言った。「誰が女王に口を聞いていいと言ったのかしら? 黙りなさい、小間使い。この女王が直々に核爆弾を解除してあげるわよ」
 実際、起爆装置を解除することは難しくなかった。もちろん岩流研究所にも様々なプロテクト技術があるのだが、こんなパイプの間の狭いスペースに人間が入り込むなど予想もしていなかった。それは月面着陸船が月面で扉に鍵なんて掛けないのと同じことであり、もし誰かが扉をノックしてきたりすれば恐怖以外のなにものでもない。……酒徳麻衣は起爆装置から金と青の線を引き抜き、外側の絶縁被膜と内側のナノコーティングを剥がすと、露わになった二本の線の間に熱抵抗器を接続した。世界最小の時限装置だ。熱抵抗器に電流が流れると熱が抵抗器を徐々に溶かしていき、やがて曝露された二本の線が接触し、抵抗器の無くなった強い電流が回路を焼く仕組みだ。後には抵抗器も溶け落ちて、証拠は何も残らない。
「抵抗器が全部溶けるまで大体五分あるわ。深海でお散歩しない?」チップス女が言った。
「なら通信は終わり。帰った時に私を洗うのは小間使いの仕事よ」麻衣が言った。
「はいはい、ちゃんと香水もつけてあげるから。……安定剤は忘れないで。薬のブラッドブーストは四分が限界なんだからね」チップス女が突然真剣な声になって言った。「じゃないと、どんなに綺麗に洗っていい匂いさせても誰も寄り付かなくなるわよ」
「ふん! 仮に私が女を好きだったとしても、アンタみたいな胴長デブ女はお断りよ」酒徳麻衣はイヤホンを外した。
 この深度となれば電波も届かず、専ら有線通信ケーブルだけが頼りとなる。それゆえ、トリエステ号と須弥座の間には安全索に沿う形で通信ケーブルが引かれている。深海潜水用具を持ち込んでいない麻衣がトリエステ号から出ようとすれば、この唯一の通信方法は切らなければならなかったのだ。バルブを開けると雷鳴のような音が響き、三十秒も経たずにパイプ空間が海水で満ちる。麻衣は身体をひとひねりすると、排気口から外に泳ぎ出た。「ガスレイ」の光が彼女をピカピカと照らしたが、コックピットから見られることはなかった。ちょうど窓の死角に入っていたからだ。
 金刺繍のローブを羽織ったりはしていないが、彼女はまさに自分の領地を視察するかのように潜水艇の上をゆっくりと歩き、その長髪は海藻のように黒い海の中に静かに浮かんでいる。
 心臓の鼓動が締め付けられるように遅くなり、まるで山が圧し掛かっているかのような、あるいは地球の十倍の重力がある超惑星にいるかのようだった。しかし強化された血統はこの高圧に耐える力を彼女に与え、新たな言霊も解放された。黒いタイツの表面が鱗状の光を放ち、海水の高圧は目に見えないフィールドによって弱められているようだった。彼女はエアバルブを隠していた潜水艇の外殻、堅い耐圧装甲をいともたやすく外すと、バックパックから石英に封されたパーフルオロスルホン酸樹脂を取り出した。濃硫酸の数兆倍の酸性を持つ、人類史上最強の超強酸性固体だ。麻衣はエアバルブの口に樹脂を貼り付けると、潜水艇の上からひょいと飛び出し、窓の隙間を通って外殻に沿って潜水艇の底部まで回り込み、酸素供給口を見つけ、鋼管を使って自分の酸素ボンベに接続した。金属フックと安全縄で自身を固定すると、潜水艇の外殻の上でゆったりと横になり、漆黒の世界を見渡した。ガスレイの光だけがまっすぐな光を行ったり来たりと振っている。
「まさに地獄の黄泉に行くって感じね……」彼女は心の中で呟いた。

 ホールの中央に座ったシュナイダーの周りには、EVAが前後左右にホログラフィック投影で展開した様々な映像が浮かび、ソナースキャンの結果やトリエステ号の撮影した水中カメラ、日本領海の気象情報などが表示されている。シュナイダーが正面の映像の情報を確認し、画面上の問題を解決する。右にスワイプするとその画面は直ぐに消えたが、また新たな画面が投影されて「処理待ち」に連なる。確かに表面上での現場指揮官は源稚生だが、彼はシュナイダーの代理人にすぎない。シュナイダーは須弥座、モニアス号にトリエステ号の全てを制御し、輝夜姫システムとEVAシステムを直列接続することでまさに現場にもいるも同然の働きを果たしているのだ。これができるのも、マンシュタインが提供したブラックカードによってEVAリソースの100%権限を持ったおかげだ。
 マンシュタインは助けようとすら思えなかった。会議やスピーチに出たり、レポートを書いたりすることしかできない民間人でしかないと自覚していたからだ。しかしその彼も、机の隅で何かを走り書きしている。
「何を書いているんだ?」シュナイダーは顔を向けずに聞いた。
「ちょっと報告書をな。『私は教育委員会の命令に背いたのではなく風紀委員会の立場として行動し、執行部と熟慮を重ねた結果、現時点で龍淵計画を中止することは関連する大学規則と矛盾していると判断した。教育委員会の決定は重要であるが、正式になされた決定ではなく、従って風紀委員会は正式でない決定を執行することは不可能である……』なんてな」マンシュタインも顔を上げずに言った。「今私が言ったことを君が理解しないことは分かっている。理解する必要もない内容、我々一般人の俗事だよ」
「学院に来てから十年も経っていない君が何故風紀委員会という重要な立場を得たのか、今理解したぞ」シュナイダーは揶揄った。
「英雄には、その功績を称える吟遊詩人が必要だ。そして吟遊詩人は一般人だ」マンシュタインは言った。「もし私が裏で教育委員会に報告書を繕っていなければ、君や校長の奔放なやり方と教育委員会の対立が表面化するのは目に見えているからな」
「私にはよく分からないな。ガットゥーゾ家は馬鹿ではない、君が何年間も何をしてきたのか知っているはずだ。君は校長の走狗ではないが、ガットゥーゾ家の使いでもないはずだ。何故ガットゥーゾ家は君にブラックカードや後継者の命を委ねる真似をしたんだ? フロスト・ガットゥーゾの性格を考えれば、前回のように調査隊でも結成して強引に介入してくると思うのだが」
「私はフロストの使いで来たなどとは一言も言っていないぞ、シュナイダー」マンシュタインは頭を上げた。「私を送り込んだのは、ガットゥーゾ家当主のポンペイウス・ガットゥーゾだ」
「ポンペイウス?」シュナイダーは訝しんだ。
「そう、彼だ。校則で教育委員会が執行部を直接動かすのは禁止されているからな。執行部員を派遣するのは執行部の権限であり、シーザー本人もそれに疑問を抱くことはない。唯一この派遣を取りやめられるのはシーザーの父親、つまりポンペイウス本人だけであって、教育委員会で代理に立っているフロストではない。教育委員会は保護者の反対を無視して危険な任務に就かせたという事で執行部に異議を申し立てた。そしてシーザーが東京に飛び立った頃、龍淵計画を中止させたいフロストはチベットの山奥で瞑想しているポンペイウスにパラシュート騎兵隊を送り込んで、わざわざ古寺まで迎えに行かせたそうだ。恐らくポンペイウスの名前で龍淵計画を中止させるよう介入してほしいとか何とか頼みに行ったんだろうな。だがポンペイウスはトリエステ号を君に寄贈した後、私に龍淵計画を止めるように頼んできた。矛盾しているわけだ」
「本当にポンペイウスが龍淵計画を止めろと君に頼んだのか?」
「そうだ。彼は龍淵計画を本当に止めたいというよりは、私を通じて君にブラックカードを渡すつもりだったのだろうな」マンシュタインは言った。「まったく素晴らしい父親だな。実子の生死も全然気にしないとは」
「私のずっと感じていたことなのだが……」長い沈黙の後、シュナイダーが呟いた。「ポンペイウスは知っているのかもしれない。極淵の底に何があるのかを知りながら、我々に日本海溝へ人を送り込ませ、実子すらも危険に曝している」
 マンシュタインは驚いた。「……何故そう感じる?」
「『太子』が再び現れた後、ポンペイウスの秘書が学院に来たことがあった。教育委員会の秘書なら委員会を通じて執行部の機密文書の閲覧権限もあるのは分かるが、今まで何も言ってこなかったのが突然『沈没船レーニン号の事件に関して、必要であればポンペイウスのコレクションである伝説的潜水艇トリエステ号を学院に寄付いたします』などと言ってきたのだ。装備部がまともな潜水艇を新造する気が無いとも知らなかったゆえ、私としてはこの申し出は拒否するつもりだった。必要があれば連絡する、と曖昧に返したのだが、数日後には運送業者の輸送機でシカゴに運び込まれてきてしまった。潜水艇は装備部行きにする前に執行部が検査したが、過去何年間もコレクションとして博物館に置かれたり公共事業や舞台装置にされていたりとは思えない、まるで新品のようなコンディションだった。……要するに、ポンペイウスは凄まじい維持費の潜水艇を引き払いたかったわけだ。私はポンペイウスに感謝のメールを打つ中に、シーザーを潜水チームに編成していいかどうかも聞いた。潜水艇の提供は息子を危険に曝さない為の『貸し』だと当てを付けていたのだが、返答はその逆、むしろ自分のコレクションを息子が操縦するのが嬉しいだとかまで言い、船体の日本国旗塗装まで手配してきた」
「ポンペイウスはこの任務が安全だと思っているのか?」マンシュタインは言った。
「ポンペイウスと同じくらいよく分からないのは日本支部だ。執行部が学院と直接的に提携していない日本支部へ支援を求める事は滅多にない。今回は仕方なく日本支部に支援を取り付けたが、まだよくやってくれている方だ。岩流研究所全体を投入し、上の者が直接現場に出てきたり、極淵に何があるのかと尋常ではない勢いで情報を求めてきたりする。気がかりなのは、彼らがそこにあるものを龍の胚だと頑なに認めず、更なる研究が必要だと岩流研究所があれこれ理由を付けていたことだ。元々我々は装備部の派遣チームを送るつもりだったのだが、装備部が全員日本行きを嫌がったかと思うと、突然日本支部が龍淵計画に全面協力してくれることになって、二日も経たずに海禁令を取り付けて六台の須弥座で海上基地まで作ったりしている。日本支部が海溝の胚に対してやたら入れ込んでいるのは、何か隠しているからではないかと私は思うのだ」
「人は誰でも秘密を抱えているものだ。龍淵計画の責任者である我々に知らないことがあると?」マンシュタインは言った。
「何かあると感じているのは確かだ。シーザーを潜水チームに加えたのも、日本支部の執行局長を現場指揮に指名したのも、そういうリスクを考えての事だ。オロチ八家の中でも高い地位にある彼なら、事故が起こっても責任を取らせる事ができる」
「今の所は全て順調だと思うがな……」マンシュタインは大画面に映った胚の孵化率に目を向けたが、依然として安全な32%を保っている。
「深度2100メートル、トリエステ号動作正常――」
そのシュナイダーの言葉は、耳をつんざくような警報音によってかき消された。大量のホログラフィック投影スクリーンがシュナイダーの周りに重なり合って現れ、密集したデータが彼を囲む。トリエステ号の状態モニター上の1番、2番と3番空気ベントが全て赤く点滅していた。
シュナイダーの顔色が急変した。「空気が漏れている?」
龍の出現を警戒していた彼の心配に反し、最初のイレギュラーは徹底的な検査を経たはずのトリエステ号の機械故障だった。

激しく震えるトリエステ号の中で、シーザーは顔を青ざめさせて叫んだ。「潜水艇故障! 潜水艇故障! 須弥座応答しろ、須弥座応答しろ! 1番、2番、3番水密キャビンの圧力が同時に低下している、浮力を失っている! 繰り返す、浮力が失われている!」
 今まで何の異常も見られなかったというのに、突然潜水艇が傾いたかと思うと、あらゆる計測器の数値が激しく変化した。トリエステ号の四つの空気ベントのうち、三つから同時に圧縮空気が凄まじい勢いで漏れているのだ。一瞬無重力感が起こったかと思うと、水深計の数字が跳ね上がり、猛烈な勢いで深海に落ちていることが分かる。
「2400……2680……3260……潜水が速すぎる……」ソ・シハンが現在深度を読み上げ、わずか一分で半キロも沈んでしまったことを悟る。
 トリエステ号が搭載している水深計は一、十、百と千の四桁の数字盤で表示されるアナログな旧式であり、その内の一と十の桁を示す盤は高速で回転し、ソ・シハンでもその数字盤をはっきり読むことはできなかった。
「減速! 減速してください! 急激な水圧上昇は外殻の負荷になります!」源稚生が叫んだ。
「減速なんて無理! 岩みたいに海底にまっさかさまだ!」ロ・メイヒが震えた声で叫んだ。「岩が減速できるわけないじゃん!」
 ロ・メイヒはまるで自分の魂が身体から飛んでいくかのように感じた。凄まじい揺れと共に高速で沈んでいく潜水艇は、コックピットに乗っている彼からすればまさにジェットコースターのようなものだった。しかし世界中のどこを探してもジェットコースターの搭乗時間は精々三分程度、十分以上も乗っている彼からすれば、このジェットコースターの行先は地獄なのではないかとも思える。
「空気ベントを切り離し、空気室に空気を入れて下さい! 何としても浮力を上げなければ!」稚生が言った。
「それはもうやった、問題はその空気ベントだ! 空気ベントが動かないんだ!」シーザーは空気ベントの操作ノブを無意味に捻り続けていた。
 潜水艇の周りに猛烈な泡が発生し、雷のような音が聞こえた。ロ・メイヒが観測窓から外を見ると、辺りは泡が光を反射した銀色で一杯になっていた。ソ・シハンはすぐさまトリエステ号の設計図を開き、問題となっている潜水艇上部の空気ベントを確認した。1番、2番と3番減圧弁は通常開くことはなく、使われる状況も極めて稀な場合のみ、分厚い耐圧装甲の下に隠され発見する事すら難しいもののはずだった。何千回も開閉することになる一般的なバルブではなく、まさか深く隠された小さなバルブに問題が起きるなどとは思ってもみなかったことだ。
「設計上の欠陥だな。減圧弁から空気が漏れると、他の弁ではどうやっても空気漏れを止めることはできない」ソ・シハンが言った。「精々漏れる速度を遅くするくらいだ」
「三方配管を切り替えれば減圧弁に繋がる配管を塞ぐことはできるが……ダメだ、時間が無い! クソっ! 装備部の奴らは今回の改修は会心の出来だとか言ってなかったか!?」シーザーの額には冷や汗が滲んでいた。
「平衡舵を開いて船体を安定させろ。こうも揺れていては何もできない」ソ・シハンが言った。
「トリエステ号聞こえるか! トリエステ号聞こえるか! 岩龍研究所が緊急プランを出した、トリエステ号の強動力源を入れ、安定翼と平衡舵を展開、水中滑翔状態に入れれば沈下速度を抑えられる! 早くしないと十分も経たずに海溝の海底に激突してバラバラになります!」源稚生の声がヘッドセットから聞こえた。
「強動力源って、装備部が組み込んだ核動力のことか?」シーザーは壁に掛かった革帯を掴んで立ち上がると、肘でコンソールのガラスカバーを砕き、中の黄色いコックレバーを握りしめた。
 ロ・メイヒがそのコックレバーに描かれた核のマークに気付いて言った。「本当にやるの? マジでこれ核動力なの!?」
「元は普通の塩酸電池動力なんだが、それでは今回の任務には足りないとかで装備部が核動力を追加したんだ。つまり、この潜水艇には弱動力であるリチウム電池駆動の他に、強動力である核動力が積まれている」シーザーは言った。「だが……よく考えたら、装備部が作った核動力なんか信頼できるのか?」
「それって、装備部の核技術が……だ……ダメってこと?」ロ・メイヒはどもりながら言った。
「オークリッジから来た専門家が数人いるはずだ。世界初の原子爆弾を作ったチームの奴らがな」
「そんなすごい人が居てなんで信頼できないの?」
「奴らが作ったのが原子爆弾だからだ! 核動力の爆発は1000万トンの核爆弾に相当するんだ、海底地震や津波が起こって、最悪の場合日本が沈むぞ」
「深度6400メートル、極淵の底までまだ2キロある。船体安定、潜水艇は通常位に回復!」ソ・シハンは舵と安定翼の操作稈をしっかりと握った。「動力があるなら、まだいけるはずだ。水中滑空するぞ」
「水中滑空ってなに?」ロ・メイヒは皆が何を話しているのか全く分からなかった。名詞の意味は何一つ分からないが、その意味不明な一つ一つの言葉が自身の命にかかわっていることだけは分かる。
「装備部が潜水艇に追加した飛行機みたいな安定翼だ。強動力を使えば安定翼で揚力を得て12ノットで水中巡航できる。簡単に言えば、海の中を飛ぶ飛行機になるわけだ」
「そんなことできるの? でも助かるなら何でもいいよ! とにかくここまま落ちてたって死ぬだけなんだ、とりあえず装備部を信頼して核動力が爆発しない方に賭けようよ!」
 シーザーは黄色いコックレバーを握ったまま、わずかに戦慄していた。このレバーを引き下げた後には二つの可能性が待っている。トリエステ号が動力を得て小鳥のように深海を飛ぶか、あるいは核爆発で三人とも消え失せ、津波と地震が日本に押し寄せることになるか。レバーがロ・メイヒの手にあれば間違いなくさっさと引き下げていただろう。今はもうこれしかないのだ、日本が沈もうが沈ままいが自分には関係ないことだ、と。ロ・メイヒは不安に心を掻きむしっていたが、そんな良心の欠片もないことにシーザーを説得するのも恥ずかしく、ただ茫然とシーザーを見つめる事しかできなかった。シーザーの目は鋭く、唇を噛みしめていた。何億人もの命がその手に握られていると分かっているからだろう。こんな生死の境目でも自分の信念を貫くシーザーは凄い。顔も知らない無辜の命を尊重し、何億の日本人を巻き込む事を恐れている。ロ・メイヒが心の中で少し自分を恥じるほど、その青い血の貴族の教育は常識を超えたものだった。
 以前、ネット上で「貴族とは何か」という投稿を読んだことがあった。第一次世界大戦中に軍艦の副艦長を務めた一人の若いイギリス公爵の話で、自身の艦がドイツ軍艦の一斉砲撃を受けて沈まんとする時、若公爵は白旗を上げてドイツ軍に海へ落ちた将兵を救助するよう求めたという。同じく貴族であったドイツ軍艦の艦長は友軍艦が砲撃戦を続ける中何も言わずに救命ボートを下ろすよう指示し、イギリス船の水兵を救助させたのだという。イギリス公爵は船員全員を救出したドイツ人艦長に直接感謝を伝えた後、貴族の家訓に従って自身の船と共に沈んだという。イデオロギーに命を燃やすその精神に、ロ・メイヒは考えを及ぼすことも出来なかった。
 ロ・メイヒはもう耐えられなくなった。「もういいよ! ボスが残酷になれないんだったら僕がやる!」
「何が残酷だって?」シーザーは驚いた。
「え……核動力が爆発して海底地震起こしたりするから……」ロ・メイヒは愕然とした。
「いや? 起動パスワードを忘れただけだ」シーザーはキーボードを叩いた。「何も分からん!」

 酒徳麻衣は潜水艇の下部表面に固定されたままだった。それゆえ深さが変化したことは中の三人よりもよりはっきりと感じていた。深くなるほど水圧も大きくなり、やがて水圧は何倍もの大きさとなり、全身が潜水艇の金属外殻にわずかにめり込んでいくかのようだった。薬物で血統を強制的に引き上げ新たな言霊能力を手に入れていなければ、高圧の暴力の中でひねりつぶされていただろう。肺の中の空気が圧縮されて肺胞を破裂させ、全身の血液が皮膚から滲み出て、やがて骨と肉と血の混ざった何なのかも分からない有機物の塊となってしまう……。かつてトリエステ号がチャレンジャー・マリアナ海淵に潜った時には、高圧によって船体が5センチほど短くなったという。
 眼前に広がるのは漆黒のみ、無尽の暗闇へと墜ちていく感覚は恐ろしいばかりで、薬物で血統を引き上げていなければ恐怖に泣いていたかもしれない。その感覚は麻衣に初めての忍者訓練を思い出させるものだった。師匠に崖の縁に連れていかれ、「飛び降りなさい、飛び降りたら教えてあげる」と言われたあの時。安全ロープやパラシュートもなく、崖下に立ち込める霧の先には何も見えない。聞き間違いかと思ってぼんやりと師匠を見つめたが、師匠は同じように「飛び降りなさい、飛び降りたら教えてあげる」と繰り返すだけ。「忍者になりたいと本当に思っているなら、それは心に大きな願いがあるからこそ」「命を投げ出す覚悟もないなら、忍者古術を学ぶに相応しい心ではないのだ」、と。
 麻衣はその瞬間飛び降りた。霧の中のセーフティネットに引っかかった彼女は、仰向けに横になって笑った。「どうして笑うの」と師匠が聞く。忍術を学びに来た人間のうち飛び降りるのは十人のうち一人、飛び降りた人も試験に合格したことよりも死から逃れられたことで大泣きするのだという。酒徳麻衣は答えて「何も考えてない、ただここで横になるのが気持ち良くて、空の雲が上から下に流れているのが面白いの」と言った。しばらく沈黙した師匠は返して、「君の心には思ったより大きな願いがあるようだ、優秀な忍者になれるかもしれないね……だがその願いがいつか君を死に至らしめるかもしれない」と語った。
 大きな願いがあればこそ恐怖も無いし、死すらも惜しくなくなる。
 その時、彼女の目の前に突如光が現れた。

 コックピット直上から金属が曲がるような気味の悪い音が聞こえ、突然無重力感が消え失せたかと思うと、すぐさま超重力感が襲ってくる。ロ・メイヒはシートに完全に抑えつけられ、呼吸すらままならなくなった。無重力感と超重力感が交互に押し寄せ、トリエステ号が少しずつブレーキを掛けていることが分かった。
 水深計が7900メートルを指して止まり、トリエステ号はわずかに傾いたままの状態で深海の中に浮かんだ。コンソール上の各種ライトがしばらく狂ったように点滅した後、突然一気に消え、コックピット内が完全な暗闇になる。ロ・メイヒの耳に入ってくるピューピューという汽笛のような音は、恐らくパイプ内を流れる高速の気流や油圧管から出ているのだろう。トリエステ号はもはや老人のようなものだ。密集したパイプラインは彼の血管であり、マラソンを終えた直後で破裂せんばかりの血圧をなんとか抑えているのだ。
 三人とも疲労困憊して身体をシートに預け、なんとかして死を逃れられたことに安堵していた。何が起こっているのかもわからなかったが、早急に対処しなければいけない事態であることは確かだった。
 シーザーは懐中電灯を掴んでコンソールをチェックした。「電気回路やパイプラインは正常だし、4番のタンクは機能している。……原型機通りならな」
「ボスの家の原型機で死にそうになったわけだけど……」ロ・メイヒは息も絶え絶えに言った。「なんで止まったの?」
『安全鈎のおかげですよ』ヘッドセットから源稚生の声が聞こえた。『こちらで安全鈎を使い、安全索で少しずつ減速させて抑えたんです。機器は大丈夫ですか?』
「電子回路やパイプラインは正常だが、電源が切れた」シーザーが言った。
『停電保護ですね。各系統を確認して問題が無ければ、手動で復旧できるはずです』
「別の問題もある。残存酸素量が44%しかない」シーザーは言った。「くそ、なんで空気ベントが壊れただけでこんなに酸素が減るんだ!?」
「ボス、見て! なんか変なものが浮いてる!」ロ・メイヒは上に観測窓を指差した。
 ガスレイに照らされた視界の中、球形の藍色の鋼製タンクがゆっくりと浮かび上がり、段々と小さくなっていくのが見えた。数センチの厚さがある深海酸素タンクすらも高圧に耐えられず、扁平な鋼片と化していき、亀裂から酸素が漏れているのだ。鋼片は十メートルほど浮かんでいくとそこで浮力を失い、海底へ真っ逆さまに墜ちていく。ロ・メイヒは高圧という恐怖を理解した。潜水艇の外殻が崩壊した瞬間、三人は同じ死を辿る。あの二つの酸素タンクのように。
「これで酸素残量の半分が消えたわけだ。恐らくさっきの振動で固定していたボルトが壊れたんだろう」シーザーが忌々し気に呟いた。「残りの活動時間は大体50分といったところか」
『こちらで執行部に問い合わせます。一度帰還して修理し、計画を見直す必要があるでしょう』稚生が言った。『少々お待ちを』
「ダメだ。まだ帰還するつもりはない。今動画を送る、見ればわかる」ヘッドセットにシーザーの奇妙なセリフが響いた。


 シーザーはその時、奇妙な感覚に襲われていた。
 トリエステ号の電源が切れ、コックピットは完全に暗闇になっているはずなのに、懐中電灯なしで互いの顔をはっきりと認識できていた。窓から奇妙に温かな紅い光が差し込んでいるのだ。7600メートルの深海、暗黒でなければおかしいというのに。
 驚くべきことにその海は生命に満ちていた。海水は夕陽のような色に染まり、何千匹もの魚の群れが光の中に映し出されている。あるものは螺旋状に上に向かって弧を描き、あるいは底に向かって渦を巻き、銀色のように真っ白なものもあれば透明に近いものもあり、ほのかな青い光を放っているものまである。巨大なエイが翼のような肉厚のヒレを広げて魚の群れに突っ込み、魚の群れに隙間を空けたかと思うと、すぐに元に戻る。巨大なウミガメがこれまた翼のような足をぎこちなく振って、魚の群れと一緒に泳いでいる。魚とは言うが、今まで見たことのないような魚ばかりで、所々は似ているが全く異なる特徴があった。エイの頭には白黒模様の外骨格が伸び、ウミガメの背の甲羅はほとんど肉で、赤い玄武岩が割れているようにも見える。
 広大で輝かしい、壮大な景色が眼前に広がっていた。夢のような美しさ、想像を超えた情景。窓の外に広がる夕日色の海は夕焼けの空と見間違うかのようで、魚の群れが天空で舞っている。
 ロ・メイヒが頭を上げると、灰白色の雲が潜水艇の上を流れていた。
「こんなの非科学的じゃ……」夢を見ているのではないかと思って、ロ・メイヒは何度も目をこすった。
 雲が突如身をもたげ、長い尾で海水を叩いたかと思うと、直径数十メートルの透明な渦が沸き起こる。巨大な身体が海水を打ち鳴らし、雷鳴のような音を立てた。体長は優に百メートルはあろうかという巨大クジラ……灰白色の雲はその腹の模様だったのだ。こんな大きなクジラがいるなど聞いたことが無い。
「外見から判断するに……遥か昔に絶滅した『ジューグロドン』かもしれない」ソ・シハンが呟いた。
「説明はいいから、さっさと胚を見つけようよ」ロ・メイヒが言った。
「それはそうなんだが、おかしいと思わないのか? 生物がいるはずもないこんな深海にジューグロドンがいるなんて。生態環境が異常すぎる。恐らくこの辺りに何か異常な物があって、それが生態環境を再構築しているんだ」ソ・シハンは言った。「下を見ろ。ちょうど今俺達は極淵の真上にいる」
 ロ・メイヒは観察窓に寄りかかって見下ろし、この海が夕焼けのように明るい理由を理解した。日本海溝の真上に位置する場所、左側には平坦な海底が続き、右側には険しい崖がそびえ立っている。左側のアジア=ヨーロッパプレートと右側の太平洋プレートが衝突し、凄まじく深い海底峡谷を形成しているのだ。峡谷の底には南北に走る金色の亀裂があり、そこで地殻が壊れ、真っ赤な溶岩の層が広がっている。マグマが断続的に噴き出し、海水とマグマが水とミルクのように混ぜ合わされて奇跡的な眺めを映すと同時に、雷鳴のような音が下から響いてくる。
「ダメだ! 僕の語彙じゃ何も言えない! 極淵の底って漆黒寂静の地獄みたいな場所だと思ってた……」ロ・メイヒは感嘆して言った。
「いわば、地球の傷口だ」ソ・シハンが言った。「地殻が割れて、マントル層が直接露出しているんだ。極淵の下には数兆トンのマグマが眠っている。日本が世界で最も地震の多い国なのは、この傷のせいだ。いつかアトランティスみたいに沈むかもしれないな。……そして、龍が孵化場として選ぶならこんなに素晴らしい場所はない」
「ツイいてるぞ。直接古龍の領地に入り込めたなんて、探す手間が省けたというものだ」シーザーが言った。
「ツイてるって本気で言ってる!? 狩りでライオンの領地に入り込んでラッキーって言ってるのと同じで、そのライオンにとっても超ラッキーだからね!? 朝ごはんが勝手にやってきたようなもんだよ!?」ロ・メイヒが言った。「っていうか、この海洋生物たちはなんでここにいるの? 龍のエサになりにきたの?」
「多分、食事をしに来たんだろう」シーザーが言った。「寒冷な海流が大量の微生物を運んでくるノルウェー近海の漁場と同じようなものだ。昔ダイビングしに行った時の光景と似ている。小魚の群れが交尾しながら回遊して、水中の微生物を食べているんだ」
「こんな地獄みたいな場所に微生物がいるの?」
「海水のサンプルを持って帰ればわかるだろうが、何らかの特殊な理由があるのは確かだな」シーザーは言った。「他の可能性として、胚が何かしらのフェロモンを出して魚を引き寄せているのかもしれない。無論、食料としてだ」
「つまり、龍はディナーの準備もしてるってこと? もしかして僕たちもそのディナーの一部だったりしない? それで龍の前まで潜ってって、『ご主人様、今夜はどれから頂きますか? お魚? 潜水艇? それとも……私?』とかなんて!?」ロ・メイヒが言った。
「気持ち悪すぎる。吐き気がして食えたもんじゃない」

「おかしい、魚群が消えたぞ」ソ・シハンが言った。
 周囲の海域が突然からっぽになっていた。さっきまで楽しそうに泳いでいた魚群は跡も形も無くなり、夕日色の海水だけが見える。
「おい、何か来るぞ」シーザーが言った。
「何かって……何?」ロ・メイヒはぴりぴりとした緊張感を覚えた。
「見なきゃわからんが、小物じゃないのは確かだ」シーザーは確信を持っているようだった。
「あれのことか?」ソ・シハンが右側の観測窓を指差した。
 夕日色の海を細い影が泳いでいた。長い尾を緩慢に揺らめかせて、悠々たる様を見せつけている。しかしその姿は誰が見ても、目にも止まらぬ速さで魚雷のように目標へ突っ込んでいきそうなもの……巨大なシュモクザメだ。扁平なシャベルのような形をした頭部の両側に目があり、二つの目の間の距離は二メートルほどある。
「この海域で最凶の捕食者だろうな」シーザーが言った。「現れた瞬間、他の生物が本能的に逃げていく。漁場でもよく見る動きだ。魚群の動きが変化するということは、捕食者か何かがやってきたということだ」
 ロ・メイヒの心臓はバクバクと鳴っている。「びっくりした……龍かと思ったけど、ただのサメか……」
 シュモクザメが突然加速し、尾をひらひらと振りながら潜水艇の近くまでやってきた。見慣れない客人に興味を持っているらしく、片目を観察窓の真ん中に持ってきて中を覗き込んでいる。
「ぎえええ! な、何するつもり!? 僕たち人間はコレステロールも脂肪も多くて健康にも悪いし味も悪いよ! ジャンクフードだよ! 食べるもんじゃないよ!!」シュモクザメの目から感情を読めたわけではないが、ロ・メイヒにはどう考えてもこのシュモクザメがディナーの前で舌なめずりしているようにしか見えなかった。
「安心しろ、海に人間を食うような生物はほとんどいない。今お前が言った通り、人間の栄養成分はシュモクザメにとっても良いものじゃない。アイツが好きなのはダイオウイカみたいに大きくて新鮮で健康な、サシミみたいな食べ物だ」シーザーが言った。
「ダイオウイカって何?」ロ・メイヒが訊いた。
「ダイオウイカとは、地球上で最大の無脊椎動物だ。歴史上で人間が捕獲した最大のダイオウイカはおよそ15メートル。天敵はマッコウクジラで、この二種は深海で互いに食い合う関係にある。マッコウクジラがダイオウイカを深海から浅い海に引っ張り上げればマッコウクジラの勝ち、マッコウクジラを深海に引きずり込めばダイオウイカの勝ちだ。マッコウクジラの胃の中に巨大なダイオウイカの口吻部が見つかったこともあって、深海には体長100メートルを超える超級ダイオウイカもいると推測されている」ソ・シハンが言った。
「イカって、あの触手がいっぱいあって、その触手に吸盤がいっぱいあるやつ、だよね?」
「十本ある触腕はそれぞれアナコンダと同等の力がある。捕獲されたマッコウクジラに直径40センチの吸盤の跡が見つかったこともあり、その傷をつけたダイオウイカの触腕は推定60メートルだ」
「なあ、そのダイオウイカの話いつまで続くんだ?」シーザーが言った。
「いや、食べられない海洋生物の話には興味ないけど、人間を食べる海洋生物は気になるじゃん。ほらこっちにもなんかいるよ、あれ……が……ダイオウイカ……かな?」ロ・メイヒの顔色が蒼白になっていく。
 シーザーとソ・シハンが凍り付き、ゆっくりと同時に顔を向けた。窓の外には巨大な、青色のバレーボールのような目が光り、その近くの海水の中では直径半メートルの吸盤の並んだバケツのような太さの腕足が軽やかに舞っている。
「ダイオウイカだな」シーザーは唇の動きだけでロ・メイヒに言った。
「60メートルはあるな」ソ・シハンも同じように唇だけ動かした。
「なんでそんな小声で話すの? 外の二匹に中国語分からないでしょ」ロ・メイヒはそう言いながらも、声を潜めずにはいられなかった。
「ダイオウイカは音波振動を感覚できる。生物的ソナーがあるんだ」シーザーが手を動かして電源を切り、全てのバルブを閉じた。
「何してんの? エネルギー節約して死ぬ前に社会貢献してるの?」ロ・メイヒは唇だけ動かして言った。「別に音波なんか頼らなくてもこっち見てるじゃん!」
「奴ら二匹は俺達を見てるんじゃない。潜水艇を挟んで対峙してるんだ。潜水艇には温度も味も無い、俺達が何なのかも分からないから、狩りの標的にはなっていないはずだ」シーザーが言った。「つまり今俺達がやるべきことは静かに、動かないこと。安全索で吊り下げられているなら、動けば潜水艇が揺れる。仮にぶつかって俺達が食い物だと思われたら厄介なことになる。シベリアの狩人は、ヒグマに遭遇したら絶対に動くなと教えられる。ショットガンでも殺せない、逃げようとしても逃げられない、生き延びたいなら横になって絶対に動かないこと、それだけだ」
「いつまで対峙してるの? どうにかして抑えられないのかな」
「捕食者同士の対峙は、互いの強さの測り合いだ。短ければ数分、長くて数日くらいか」
「なら俺は問題ない。中学校の時に座禅をしていたからな」ソ・シハンが言った。「先生が言うには、生命の根本に辿り着いた高僧は三年とか五年とかは坐禅できるらしい。一日くらいは訳もない」
 シーザーは絶妙な平衡感覚で立っていた。「俺はピラティスができるから三小時間くらいは問題ない。ロ・メイヒはどうだ?」
「僕……僕は禅とかピラティスとかは分からないけど……死んだように寝ることならできるよ」ロ・メイヒはコックピットの床に静かに横になった。

 潜水艇が揺れ、安全索が歯ぎしりするような音を立てた。二体の巨大生物が動き出したことで、沸き立つような水流が潜水艇の外殻を打ったのだ。ロ・メイヒがはっと目を見開くと、千軍万馬が轟くような原始的で血生臭い暴力の美が広がっていた。夕日色の大海の向こうで、二体の巨大な捕食者同士が絡み合い、狂ったように捩じれている。ダイオウイカは十本の巨大な蛇のような腕足でシュモクザメの身体にまとわりつき、シュモクザメは鋭い歯をダイオウイカの頭部に突き立て、シュモクザメの赤い血とダイオウイカの青い血が混ざりあって広がっていく。ダイオウイカの腕足の吸盤がシュモクザメの皮を引き裂き、シュモクザメはダイオウイカの片目と一本の腕足を含む頭部小半分を噛み千切った。
「サメが勝ちそう」ロ・メイヒが言った。
「そうとは限らんぞ。あのダイオウイカの頭の傷は致命傷に見えるが、イカの脳は小さくて、精々野球ボール程度しかない。サメはイカの神経中枢をやりそこなったわけだ」シーザーが言った。「むしろサメの方の分が悪そうだ、窒息しそうだぞ」
「イカが首を絞めてるから?」ロ・メイヒが言った。「でもあのサメの首結構太いよ、イカじゃ力不足じゃない?」
「首は問題じゃない。よく見ろ、イカの腕足がサメのエラに刺さってる。エラがやられたらサメは終わりだ」
 そう話し終わる前に、ダイオウイカの腕足がシュモクザメの頭の下から引き抜かれ、二つの鮮血の道を作った。サメのエラが全て引き抜かれたのだ! 狂ったように暴れていたシュモクザメはやがて力を失い、30秒ほどビクビクと身を跳ねさせた後、ひっくり返って腹を上にして海中に浮いた。ダイオウイカは未だに警戒を緩めず、絶えず皮膚を引き裂きながら、吸盤を筋肉組織に食い込ませ続けていた。勝利が確定すると漸くダイオウイカは腕足を放し、瀕死のシュモクザメの周りを一回りした後、黒い墨を一気に吐きかけて視界から消え去った。
 長らく落ち着かなかったロ・メイヒの心にようやく平静が戻った。単純な重量比で言えば金属製のトリエステ号はシュモクザメやダイオウイカにも劣らないが、あの巨大海洋生物が外殻に亀裂の一つでも入れれば、潜水艇は一瞬で圧壊してしまう。
「本部応答せよ、本部応答せよ、我々は胚があると思われる位置に接近している。酸素残存量が急激に減ってはいるが、活動可能時間は残り50分程度ある。周辺海域の生態は奇妙だが、他の条件は全て正常である。貴重な機会だ、観測継続を要請する。繰り返す、我々は観測継続を要請する」
 少しの沈黙の後、シュナイダーの声が聞こえた。『驚くべき発見があったというわけだ。観測を続けたまえ。ただし機器の状況には入念な注意を払うように。要請に応じて安全を最優先とする』
「うちの家老たちが執行部に何か圧力でも掛けましたかね?」シーザーは笑った。
『君の叔父が飛行機をチャーターしてこっちに飛んでくるそうだ。ダブルバレルショットガンを持ち込んで、片方で私の頭を、もう片方でマンシュタイン教授の頭を吹っ飛ばすそうだぞ』
「教授、心配はいりません。私はあいつらの指図は聞きませんが、ガットゥーゾ家はしっかり継ぐつもりですからね!」シーザーは通信を終えた。
「見て! 見て! 何あれ! すっごい綺麗!」ロ・メイヒが突然大声を上げた。
 シーザーとソ・シハンも窓の外を見下ろした。一見すれば海溝の奥から沸き上がってくる蛍の群れのようだ。何千もの数のゆらめく青色の光を湛えた何かが、瀕死で浮かんでいるシュモクザメの周りを回り、星の光のような渦を描く。まるで夜空の下の戦場で武士の死体を蛍が囲みその英魂を祭っているかのような、久石譲の音楽が流れでもしそうな情景だった。段々と近づけばそれが何かともはっきりと見えた。全身にキレイなシルバーブルーの鱗を備えた痩せ身の細長い小魚で、光は登頂にから伸びる一本の触手から発されていた。
「あれはなんていう魚なの?」ロ・メイヒが訊いた。
 ソ・シハンが苦い顔をして言った。「ワニトカゲギス目ホウライエソ科……ホウライエソ、ヴァイパーフィッシュ……『深海ヤクザ』だ!」
 こんなキレイな小魚には似つかわしくない、随分と刺々しい二つ名だとロ・メイヒは感じたが、たまたま一匹のホウライエソが窓のすぐ傍を通り抜けたのを見た時、ロ・メイヒは完全に度肝を抜かれて狼狽えてしまった。その小さな生き物は魚というよりはむしろ蛇だった。細長い身体に小さな尾ビレと胸ヒレ、しかし口だけが凶悪に大きく裂け、透明な牙が短剣のように口から外に突き出ている姿は、今にも怒り狂って毒液を吐きだしそうなキングコブラのようにも見える。
「どういう魚なの……!?」ロ・メイヒは嫌悪感に身を捩った。樹脂ガラスでしっかり隔たれていると分かっていても、ロ・メイヒはいつ噛まれるか分からない毒蛇のような恐怖を覚えずにはいられなかった。
 まるで鐘が鳴ってパーティーが始まったかのごとく、満点の星空のようなホウライエソの大群が一斉にシュモクザメに向かう。短剣のような歯をシュモクザメに突き立て、強力な顎で噛み砕いていく。瀕死のシュモクザメは身体をぴんと真っ直ぐに張り、最後の活力で痛みに身を捩る。かつての捕食者は必死に身体を暴れさせるが、蛇のように食らいついて来る小魚を振り払うこともできない。やがて身体の中にも入り込んだホウライエソが胸腔から腹腔までありとあらゆる皮と肉を噛み千切り、苦しみながら穴だらけになっていくシュモクザメの無残な白い骨を露わにさせ、ついには脂肪が豊富な肝臓も貪り始める。
 数分後、白い骨だけがゆっくりと沈んでいった。ホウライエソの群れはユラユラと去っていく。遠くから見れば銀河のように優雅な群れだが、餌を喰らう時は野獣にも劣らない残忍さを発揮するのだ。
 そこで三人は理解した。あのダイオウイカはシュモクザメを殺してさっさと去ったのではなく、恐怖に慄いて逃げ出したのだと。二体の流した血の匂いは海溝に住むホウライエソ……あらゆる生物を集団で喰らい尽くす、この海域の真の支配者を呼び起こしてしまったのだ。シュモクザメとダイオウイカの決闘が必死になるのも無理はない。戦いが長引けば血の匂いに引かれたホウライエソが現れ、決闘者の両方がホウライエソのエサと化してしまうだろうからだ。
「アマゾンのピラニアより性質が悪いよ!」ロ・メイヒは何度も何度も冷や汗を拭いた。「僕たちは鉄の殻に籠っててよかったね!」
「いや、奴らは普通のホウライエソじゃない。もしかしたら鋼鉄も噛み千切れるかもしれない」ソ・シハンとシーザーは互いに一瞥した。二人の先輩が何かを悟っていることは明白だった。
「絶滅したかと思っていた」シーザーが言った。
「『鬼歯龍蛇』の最後の記録はシュメール文明の粘土板だろう?」ソ・シハンが言った。
「ああ、シュメール人が鉄鉱石の製錬に使ってたやつだ」シーザーが言った。「生物製錬は高温製錬よりも千年以上早く生まれていたからな」
「思い違いでなければ、あのサメとダイオウイカも亜種だろ?」
「亜種だろうな。こんな極端な環境に適応できているのは」
「ねぇ、どういう話してるの? 一言も意味が分からないんだけど」ロ・メイヒが言った。
 ソ・シハンはロ・メイヒに顔を向けた。キラーと呼ばれる彼が恐怖や不安の表情を見せることなど滅多にないが、しかしその時のソ・シハンは瞳孔を見開き、顔は青白く、まるで幽霊でも見たかのような表情だった。
「奴らはホウライエソじゃない、『鬼歯龍蛇』と呼ばれる伝説上の生き物だ。龍族はそれを拷問道具として使っていたという話だ。大罪を犯した貴族は青銅の柱に縛られて深海に沈められ、大群の龍蛇に青銅柱ごと喰われる、という感じにな。龍族の歴史は全て文献からの推測だから、鬼歯龍蛇みたいな存在も疑問視されていたんだが、鉄器の発展史は鬼歯龍蛇の存在を暗示しているといわれている。大抵の歴史学者はヒッタイト人が紀元前15世紀ごろに鉄の製錬を発明したと言っているが、学院はヒッタイトよりもさらに古いシュメール人製の鉄器を手に入れたんだ。勿論、シュメール人の時代の人類が高温の炎で鉄鉱石を製錬するような技術を持っているはずもない。それでシュメール人が使っていた製錬方法というのが生物製錬……つまり鬼歯龍蛇に鉄鉱石を食わせて体内で凝縮させて、その後龍蛇を低音の炎で焼いて良質な鉄を手に入れていた、と考えられたんだ。証拠としてシュメール人の鉄器には透明な結晶体の物質、すなわち龍蛇の牙が混じっている」ソ・シハンが言った。
「そんなまさか! 鉄鉱石を食う生き物なんてファンタジーだよ」
「龍族遺伝子を持っている生物だからな」シーザーが言った。「恐らくここにいる生物すべてが龍の遺伝子を持っているはずだ。見てみろ、ダイオウイカが帰って来たぞ」
 シュモクザメの白骨の傍にダイオウイカが浮いていた。残った9本の腕足が翻ると吸盤が現れたり隠れたりして、腕足中央の口が血に染まった海水を吸い込んでいる。
「鬼歯龍蛇がシュモクザメを噛み砕いた後、断片化した筋組織が海水に残る。あのダイオウイカは海水を吸い込んで挽肉を摂取しているようだな」ソ・シハンが言った。「ほら、あの腕足を見ろ」
 ダイオウイカによって海水が濾過されていくと、ロ・メイヒの目にもその腕足の姿がはっきりを露わになる。直径半メートルはある太い腕足の表面は鱗のようなもので覆われ、9匹の狂ったヘビのように海中を舞っている。鱗に覆われたダイオウイカなど聞いたことがない。
 残滓を食べ尽くした後、ダイオウイカは腕足を振るって優雅に離れていき、魚群が海域に戻ってきて平和な雰囲気が再び訪れた。巨大なイソギンチャクを背負ったウミガメが悠々と水を掻き、飛びすさぶエイの雄姿が視界を埋め尽くす。一見すれば水族館のような心温まる光景だが、ロ・メイヒはもはや同じ感触を得る事が出来なかった。こんな平和の中にも究極の競争原理が隠されていて、あらゆる時と場所に殺戮の種があり、弱者は生き延びるその時間を喜び、強者はその弱者を食い尽くす瞬間を喜ぶ……。この海域は、そういった龍族の血腥い暴力的な原理に支配されている。そして自分たちも含めたすべての生物が、龍の半身を持っているのだ。
「恐らく胚はこの下、極淵の底にあるはずだ。かなり強大な古代種に違いない。孵化過程で遺伝情報を大量に含んだ分泌物を放出して色々な海洋生物を引き寄せ、遺伝情報を書き換えて龍血亜種に進化させたんだろう」ソ・シハンが言った。「俺達はとっくに古龍の領地に踏み込んでいるわけだ」
「よく分からないな」シーザーが言った。「俺達が知る限り、龍が孵化場に選ぶのは人や生物の寄り付かない場所だろう? 魚群を食料として引き付ける必要も無ければ遺伝子が混じった分泌物というのも聞いたことが無い。歴史上でもせいぜい古龍の血を浴びて進化したりするくらいだ。胚の分泌物が龍族亜種を大量に発生させるなんて、理解できん」
「理解する前に、目の前の現実を受け入れろ」ソ・シハンが言った。


「彼らが神葬所に近づいたようです。映像資料を送ってきました」源稚生が言った。
「見たぞ。まさに世界の奇跡だな」橘政宗は感慨にふけっている。「どれだけ我々が資料を引っ張り出しても、古書の中にしか見いだせなかった神葬所。神の埋葬地と言われている以外は儂も何も知らなかった。そうだな、何がしかがその海域に栄養を与えているのは確かだろう。それは恐らく古龍の胚ではない、神の遺骸だ……。成功は近い。神葬所をこの世界から抹消せねば。オロチ八家はもはや神の遺骸を守る必要などない。いや、神の遺骸などではない。それはもはや悪魔だ!」
「父上……最近、私は考えるんです。我々が最大の暴力を握っているのは、平穏な生活の為……ですよね?」源稚生は数秒沈黙した後、まったく無関係な質問を呟いた。
「疑うか?」政宗が聞いた。
「疑うというわけではありません。ただ、確信が持てないだけです。神葬所を爆破し、猛鬼衆を終わらせる。それでどれだけの血が流れるのか……その血を流すだけの価値があるのか、私にはわからないのです。暴力と引き換えに和平を取ったつもりでも、我々が最大の暴力を持っている以上、それは抹殺と違わないのではないか、と……」稚生は呟いた。「父上、本当にこれでいいのでしょうか?」
「もちろんだ」政宗はゆっくりと答えた。「もちろん、そうだ。もし儂の決断が間違っていたのなら、責任を取るのは儂一人だ。稚生よ、そう深く考える必要はないのだ。例えそれが罪であろうとも、その罪は儂の罪なのだ。……お前は本当に優しい子だな。儂の孤独を慮ってくれるとは」
「まさか。オロチ八家の大族長が孤独なわけがないでしょう? 父上の言葉をありがたく受け取ってくれる色んな人に囲まれて……」
「武士の騎馬に猟犬が群がっていれば、確かに孤独とは言えないだろうな。だが武士を本当の意味で孤独から救うのは、同じ武士に他ならないのだよ」
「そうなれば、私は父上にとっては猟犬の一匹にすぎないでしょうね。主を離れてどこか遠くへ行きたいだけの、ただの犬……」稚生は電話を切り、再びヘッドセットを付けた。

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