『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第四章:黒海白月

 空中に揺れる釣り糸が水の中から引き出される……黒い巨龍! 突然現れた巨大な影は月影の中で咆哮し、身を捩り、暴れ回る。
 バカな! 彼は小悪魔の釣りの獲物が本当に龍だとは思っていなかった。まさか黒い巨龍だとは!

 果てしなく続く氷の海。ロ・メイヒは凍った海の上を歩いていた。天の川が頭上に横たわり、クジラの巨大な影が氷の下を横切る。遠い氷海の地平線では巨大な白い月がゆっくりと昇ってきていた。半月が氷の上、半月は海面下。月のクレーターから山脈まで、はっきりと見てとる事ができる。氷面には白い月の影が反射し、空の半円形の白い月と合わせて真円を形作る。そこで少年が一人、月の影に座って釣りをしている。藍色の海水を湛えた氷の穴の上に、長い釣竿が一本垂れている。
「なにやってんの?」ロ・メイヒは少年の後ろで立ち止まって言った。「面白いの?」
 この少年がなぜ釣りをしているのか、ロ・メイヒが考える必要はなかった。こんな風景は自然の景色にはない、抽象派画家の絵にしか現れないようなものだ。そういった絵画を具象化できるのはロ・メイタクだけだ。彼は悪魔で、全能だ。
「出会う度に新しい場面に変わるのって良いと思わない? 『ストリートファイターⅣ』でもバトルフィールドは選べるでしょ?」ロ・メイタクは微笑んだ。彼の服もまるで本当の氷釣りの装備だった。厚いウールコート、エレガントな鹿革ブーツ、耳まで覆う熊革の帽子。
「だったらさぁ、次のシーンはパリのムーランルージュにしてくれよ。ステージで女の子たちがフレンチカンカンを踊ってるやつでさ。一度行ってみたいんだよね」ロ・メイヒは寒さに震えて襟を立てると、ロ・メイタクの近くに座った。「この寒空の下で男と月を見る趣味はないよ。言いたいことがあるならさっさと言ってよ。凍死しちゃうから」
 ロ・メイタクは微笑み、手に持っていたものを渡した。携帯暖房と、暖められたフワフワのカシミヤスカーフだった。ロ・メイヒがカシミヤスカーフを受け取って、暖房に凍りそうな手を押し付けると、すぐに暖かさが身体の中に流れ込み、手足が再び潤滑油を注された古い機械のように緩んでいく。この小悪魔にも思いやりのようなものがあると認めざるを得なかった。今まで小悪魔と会ってきた場所を思い返すと、そのどれもが心安らぐ未知の情景の中、世界の果ての暖かな片隅で二人きりとなる場所だった。体が温まれば、周囲の風景から覚える感覚も変わってくる。巨大な月の輪郭と静寂な海。二人並んで釣りをするというのも情緒的だ。心配といえば携帯暖房の燃料が尽きないかとか、寒さを紛らわす酒を一杯やりたいとか、それぐらいだ。
 ちょうどそんなことを考えていると、ロ・メイタクはまた何かを手渡した。平べったい金属缶だ。
「三十年モノのマッカランウィスキーはね、口の中で燃えるらしいよ」ロ・メイタクは言った。「これを飲めば冬でも氷の中で海水浴ができるんだって」
「僕の考えてることが分かるなんて。君は僕に寄生してるのか?」ロ・メイヒが缶を開けて一口飲むと、ロ・メイタクが言ったとおり、口の中で燃えるような感覚がして胃に流れ込み、全身に熱が通って温かくなった。
「僕は兄さんの弟だから。兄弟の気持ちって通じ合うものだろ? 僕が温かい美味しいものが飲みたいと思えば、兄さんもそう思ってるってことだからね」ロ・メイタクはククッと笑った。「カシミヤスカーフや携帯暖房も僕のおもてなしさ」
「そんなバカ正直に、自分で言ってて恥ずかしいと思わないのか?」ロ・メイヒは唇を尖らせた。
「ロイヤリティーが恥ずかしいわけないよね? 関公の誇りをバカにする気?」
「そもそもさ、君はそういうのじゃないだろ。関公は劉備に義理を尽くして曹操に仕えたけどさ、お前はただ魂を売り買いするだけの関係じゃないか? 曲がった奴隷根性を植え付けられたサラリーマンみたいな言い草だ」ロ・メイヒは怠惰に酒缶をチビチビ呷っている。「で、今回はどんなデタラメのつもり? 盗人根性なんだから理由なくこんなことしないだろ? 早く言えよ。まあ僕はまだ魂を売るつもりなんてないけどね。健康だし、なんでも順調に進んでる。選考試験も中間試験も合格、よく食べてよく寝てる、今日なんて二人分食べてお腹いっぱいなんだ。数千ドルのカードローンの支払いは全然先だし、人生万事円満ラララララ~だよーだ」
「人生万事円満ラララララ~なら、シーザーとノノの結婚式が終わるのをただじっと待ってるだけでいいんだ?」
「その話題はやめてよ。さっきまでおんなじことを別の人と話してたんだから。君は二番目」ロ・メイヒは口を曲げた。「別に恋人でもなんでもないんだからどうでもいいんだよ。ノノと一緒になれないなら首吊ったり腹切ったり髪剃って僧侶にでもなるかって? それなら僕は最悪の淫乱ク僧侶になるね。隣の尼さんに痴漢とかしちゃう」
「それは間違いないね。隣の尼さんとイチャイチャするアホ僧侶になっちゃう。だって兄さん、心は悲しみで一杯なのに、パソコンでは某島国のラブアクション映画をダウンロードしっぱなしなんだから。兄さん、簡単に運命を認めちゃうのは凡人だけだよ。誰だって生きる道を見つけられるとは限らない。でも兄さんはゴキブリみたいなもんだ。千フィートから落っこちたって死にやしないんだから……でも死なないことと悲しくならないこととは別だからね。ちなみに副校長は兄さんのダウンロードリストで大変興奮していらっしゃるらしいよ。兄さんがダウンロードしたラブアクション映画のバックアップを全部取ってる」
 ロ・メイヒは目を見張った。「こんなクソみたいな秘密知られたら僕どうしようもないな。お前は悪魔だから知ってても驚かないけどさ、なんで副校長まで知ってるわけ?」
「副校長はキャンパスネットワーク全体の最高権限を持ってる管理者だからね。ラブアクション映画だけじゃないよ。兄さんがガーディアン掲示板にこっそり登録してノノの発言だけをフォローしてるのも知ってる」ロ・メイタクは卑しく笑った。「副校長がトラッキングしてるの、兄さん知らないでしょ」
「あの人、可愛い女の子にしか興味ないと思ってた……」
「誰にだってゴシップは楽しいものさ。負け犬が黙ったまま女神を愛して、黙ったまま失恋で終わらせようとしてる。そんな茶番を美味しい酒と一緒に味わうのが人生で一番感慨深い瞬間なのさ。そうやって今の生活の安らぎと充実感に浸る事ができるんだ。今夜シーザーの結婚式計画のニュースが流れた時、先輩たちはみんな兄さんが結婚式に出るかどうかで話し合ってたんだよ。学院の生徒の少なくとも半分は兄さんがノノに片思いしてるのを知ってるんだ。ひっそり賭けまでしちゃって、兄さんがシーザーを蹴飛ばしてノノを奪う倍率は1対1220。中国がワールドカップで優勝する倍率よりも高いね」ロ・メイタクは言った。「でも唯一負の感情を持ってたソ・シハンは、兄さんを慰めようとしてくれたんだよ。同病相哀れむってやつだね」
「アホか! 僕にハンサムの金持ちに同病相哀れまれる資格なんてないよ。たしかにあの龍族の女は顔面麻痺の先輩に優しかったけど、禁断の異種間恋愛とかなんてとても言えないでしょ」ロ・メイヒは言った。「恋をしているように見える、それだけだったんだから」
「同じようなものだと思うけどね」ロ・メイタクは淡々と言った。「ところで真面目な話さ、ノノを手に入れたいとかなんか願い事してくれない? 数千元貸してあげるからさ、ノノを手に入れた暁には1220倍になって返ってくるの。美女と大金を一夜で手に入れて、これを人生万事円満って言うんじゃないの?」
 ロ・メイヒはしばらく沈黙した後、首を横に振った。「お前には関係ないだろ。もういいよ。ちょっと動揺してるだけ、しばらくすれば元通りになるさ。むしろ若い頃に何度も片思いしたり負けたりしないほうがおかしいだろ? ボスと先輩が結婚するとき、僕に彼女がいるかもしれないだろ? 花束を受け取って、フラワーガールになるんだ」
「兄さんはさ、今までずっとピエロだったんだ。演じすぎて自分の事まで忘れちゃってるよ」ロ・メイタクはささやいた。
「ピエロ? バカにしてるのか?」
「僕がバカにするはずないじゃないか? 兄さんは僕の顧客なんだから。僕たちサービスマンの倫理的信念は、顧客をバカにしないことさ。どんなにケチ付けられたって僕たちはしっかり仕えなきゃならない。だってお客様は神様だからね!」小悪魔は微笑んだ。「ピエロってこういうことだよ。笑顔を自分で作るもんだから、幸せなのか悲しいのかもわからない人のこと。シーザーが結婚式の準備をして、好きな女の子が白いウェディングドレスを着て歩いていく。目の前で愛を誓いあっているのに、兄さんは世界を救うのに忙しいなんて。シーザーなんて顔も合わせたくない相手なのに、ボス、ボス、ってずっと呼んでる。フラワーガール? 違う違う、今の兄さんはキャディーみたいなものじゃないか。誰かさんの近くでスタンバイして、他人がプレーするのをただ見て、いつどこでもボールをキャッチできるように笑顔を取り繕ってる」
「だからなんだよ? お前に関係ないだろ?」ロ・メイヒはもう我慢できず、イライラしていた。「お前は僕に魂を売らせたいんだろ? わかったわかったわかったよ! ノノが僕の事好きになるようにしてみせろ!」
 ロ・メイタクは頭を掻き、どこか恥ずかしそうにした。「正直に言えば、その願いは僕の能力を超えてるね。僕はノノを奪うのを手伝うと言っただけで、ノノを兄さんとの恋に落とさせるってのはできないんだ。女の子を奪うのと女の子を恋に落とすのは違うよ。数分で兄さんの為のハーレムをこしらえることはできるんだけどね。そうそう、そのハーレムもいくつかグループがあって、ス・シャオシャン率いるクイーンガールズ、リウ・ミャオミャオ率いるプリンセスガールズ、チェン・ウェンウェン率いる文学ガールズ……ス・シャオシャンは宿題を手伝ってくれるし、チェン・ウェンウェンはお弁当を作ってくれる、リウ・ミャオミャオは一緒にピアノを弾いてくれるし、チャオ・ミンファが家政婦リーダーになって靴を磨いてくれるよ。そしてノノは兄さんの正室皇后。ノノは兄さんの望む事を何でもしてくれるさ。セクシーインナーでもシースルーでも制服でも、なんでも言いなりさ! そしてノノはこう呼んでくれるのさ、『皇帝陛下!』」
「最悪だね。要するに暴力的に売春婦をたくさん買ってるだけだろ?」
「いやいや。僕のプランなら兄さんは皇帝なんだから。皇帝の女は売春婦とは言わないよ。三宮六院って言うんだ」ロ・メイタクは訂正した。
「何が違うんだ? とにかくさ、仮に花のように可愛い女の子に囲まれたとしてもだよ、それでみんな僕を愛してるわけでもないし、もしくはただ僕の資産を愛してるんだろ? しかもその資産は僕が魂と引き換えにしたやつだ。これってただのバカだろ?」
「別に変わりゃしないでしょ。仮に愛してないにしても、『メイヒ~メイヒ~ウォ~アイニ~、ねずみが~米を~大好きなように~』って毎朝合唱させるのはできるよ」
「お前、本当に愛のことなんもわかってないな」ロ・メイヒは吐き捨てた。「見た目のクソガキそのまんまだ!」
「そりゃ仕方ないよ。悪魔は愛を理解できないんだ。あるのは欲望だけさ」ロ・メイタクは淡々と話した。「悪魔に愛情を何とかしてほしいっていうのはお門違いさ。回れ右して、天使と契約した方がいいよ」
「お前にそういうことができないのはわかってるよ」ロ・メイヒはぶっきらぼうに言った。「僕がチェン・ウェンウェンのこと気になってた時も、彼女を振り向かせようとはしなかったもんな」
「……実は今回、しばらくお暇を頂かせてもらおうかと思います」しばらくの沈黙の後、ロ・メイタクが言った。「契約時に電話一本で駆けつけると言いましたが、休暇中はサービスがご利用できないということを説明し忘れてました~」
 ロ・メイヒは唖然としてしばらく動きを止めた。心に得体のしれない失望が沸き上がったからだ。自身に残されたわずかな命を考えれば、ロ・メイヒは香でも炊いて神にでも祈ってこの悪魔を祓ってやりたいとも思うが、これから虚空に叫んでもこの小悪魔の反応がないと思うと、少し空疎な感じを覚えずにはいられない。
「天に地に菩薩様ありがとう。最近金剛力士の悪魔祓いを唱えてたんだけど、お前を呪い殺すんじゃなくて休暇に行かせることになったわけ?」それでもロ・メイヒのアヒルばりに突き出た唇からは軽口ばかりが飛び出てくる。「休暇ってどれくらいよ、一万年くらい?」
「あのね」ロ・メイタクは溜息をついた。「兄さん、会社が僕たち下っ端セールスマンにいくら有給休暇をくれると思う? 一ヶ月だよ、一ヶ月。兄さん、同情するなら魂をちょうだいよ。そしたら僕は昇進できて、有給休暇が一週間伸びるかもしれないし」
「悪魔が休暇なんか取って何するんだ? 僕みたいに一日中ゲームしてるわけじゃないんでしょ?」
「ペルーに行きたいんだ。ハラムからビンガムまでウルバンバ川を伝って、マチュピチュまで登る1920年代風のビンテージ列車があるんだ。古代インカ帝国のあった高原を超えていくんだよ」ロ・メイタクは唇を舐めた。「寝台列車で美人の魔女と一緒になってさ、邪悪な恋愛とか展開するかもしれないし。ああ楽しみ楽しみ。でもこの期間、兄さんがどんなに危険にさらされても僕が駆けつけることはできないからね……それに、兄さんが行こうとしてる場所は僕の管轄領域じゃないんだ。僕の権限が無いんだよ」
「どっかに出かける予定はないんだけど」ロ・メイヒは戸惑った。
「もうすぐインターンの通知が来るよ。でも僕が兄さんのために荷物をまとめておいたから、急ぐ必要はないよ」ロ・メイタクは顔いっぱいにサービス精神を表している。
「僕がどこに行くって? お前の領域じゃない? 最高じゃないか、僕の残りの人生全部そこで過ごしてどこにも行かなければ、お前が僕の夢にこうやって入ってくることも永遠にないわけだな?」
「さぁもんだいです。オタクの聖地、ゴシックロリータ美少女、バイオレンスゲーム、ヘンタイオヤジ、公衆前凌辱AVが盛んなお国はな~んだ?」
「マジで! 日本?」
「大当たり~! ビックリした?」
「お前が消えるのが最高の幸福で最大のビックリだよ」
 ロ・メイタクは少し情けなさそうな顔をロ・メイヒに向けたかと思うと、さめざめと泣き始めた。「兄さぁん、それはひどすぎるよ。ホントのこと言うと、この休暇はリラクゼーションだけじゃなくて、会社がくれたラストチャンスでもあるんだよ」
「ラストチャンス? クビにでもされそうなの? それともお前みたいな児童労働が発覚したとか?」
「クビにされるだけじゃないかもしれないよ。もし休暇後にいい報告ができなかったら、別の場所に送られちゃうかもしれない。上司が最近僕のこと、兄さんみたいなVIPクライアントの担当なのに全然魂が買えてないって無能扱いしてくるんだ。歴史上の他の顧客はみーんなさ、数か月の内にポンポンって四つの願いを言って魂を売ってくれたんだよ……ソロモン王の財宝を手に入れたい! 世界の王になりたい! 世界一エロい女と寝たい! アチャー、最強の孤独者になっちゃった。だからもう暖かい心だけが欲しい……こうして四つの願いが叶って、魂は僕の手に、って感じでさ」ロ・メイタクは溜息をついた。「でもまさか兄さんみたいな、富も権力もいらない、女の子にも興味ないっていう変質顧客がいるなんてね……」
「あのな! 異性に興味がないわけじゃないんだぞ! 単にそういうハーレムがいらないっていうだけなんだからな!」
「兄さん敏感すぎ。夜中にフィンゲルと一緒に裸で酒を飲みながら人生論語ってたのは知ってるけど、それに深い意味があるとは思わないよ……」
「神様! 目の前のこの淫乱悪魔に裁きの雷を!」ロ・メイヒは手を合わせて祈った。
 その瞬間、耳をつんざくような轟音と共に雷光が夜空を横切って一閃した。
「ちょっと!」ロ・メイヒは驚いて震えたが、口は達者だった。「もっと強いのでぶっ飛ばしてくれ、神様!」
「雨が降りそうだね」ロ・メイタクは空を見上げてつぶやいた。「僕が本当に転勤したら、別のセールスマンが兄さんの所に来るよ。次の兄弟は僕より上手くやってくれるでしょ。兄さんが気兼ねなく魂を売れる奴だったらいいね……」
「ほんとはさ……こいつの事別に嫌いではないんだよな……ちょっと怖いだけでさ」ロ・メイヒは心の中でつぶやいたが、行動では喜びに飛び上がって氷の上に尻餅までついた。「だったら僕は神様にお願いちゃうね。お前が二度と僕と会わないこと、お前の後任は腰が細くて足が長い可愛い妹にしてくれ、ってね。別れの言葉は役立たずだ、願わくは、無辺の落木蕭々として下り、西のかた陽関をづれば故人無からん、白骨雨に濡れ草は血に染し、月冷黄砂の鬼は屍を守らん」
「急かさないでよ、兄さん……正義の兄さんは瀕死の僕を助けてくれないの? 魂の四分の一を売ってくれるだけで僕はこれからも生きていけるんだけど!」ロ・メイタクは泣き顔になりながら、ロ・メイヒの服の裾を引っ張って縋る。「北米は有望な地区だけど、サハラに飛ばされたらどうしよう? 三日五日歩いたって人影一つありゃしない、願い事を取り付けるとすればラクダかラクダ草くらいじゃ、僕の人生終わりだよ。兄さんの為に命がけで龍王を二体も殺したし、サービスでノノまでひっかけてやったじゃないか! 一緒に行ったのは軍隊じゃなくて学校だけど、僕たちは兄弟だし、同じ女の子と付き合ったこともあるのに、無慈悲すぎるよ!」
「ふざけんな! だったら今の僕の事一つでもなんとかしてみせろよ!」ロ・メイヒはロ・メイタクの悪魔的諧謔を理解して、そのあどけなくカワイイ顔に靴裏の跡でもねじ込みたくなった。「僕の生活は一切万事円満なんだ、ただ彼女がいないだけ。恨むなら彼女も作れないお前自身を恨め。それともお前が彼女になってみろよ!」
「僕は女として生まれなかったけど、女装して兄さんの夢の幻境で禁断の関係にはなれるよ!」ロ・メイタクは真剣そうに言った。
「ウェッ! ウェェッ! ゴボボボッ!」ロ・メイヒは顔面蒼白になって飛び退った。この小悪魔なら本当になにかやらかしかねない。
「兄さんは本当にノノが好きだね、僕を蒲柳の質みたいに見下して……」
「キモいぞ、お前は蒲柳の質じゃないだろ。蒲柳の質っていうのはカワイイ美少女に言われる言葉であって、クソガキ男のお前には不相応だろ?」
「じゃあ、ノノとシーザーの結婚式を止めない? 結婚さえされなければチャンスはできるでしょ」ロ・メイタクの雰囲気が突然一変し、笑いの中に一筋の冷たさが差し込まれた。「まだ起こってない事なら、変えられることができるよ。結婚式さえ始まらなければいつだってキャンセルできる。婚約なんて破れないものじゃないんだ。本来ありえない感情……世界で最も信頼できないものさ。兄さんさえ望めば、僕は兄さんの運命を書き換えられるんだよ」
 ロ・メイヒは動揺し、酔いが一瞬で覚めていった。彼の目の中のロ・メイタクは、哀れなセールスマンから世界を掌握する悪魔に変わったかのようだった。
 彼は暖かいカシミヤスカーフを外し、携帯暖房と一緒に氷の上へ投げ捨てた。「そんな甘言に乗らないからな。僕を誘惑したって無駄だぞ。僕の意志は固いんだ!」
「何が固いって?」ロ・メイタクは微笑んだ。
「お前に頼んで、ノノを奪うのを手伝ってもらうのも考えたさ」ロ・メイヒは立ち上がった。「でも、考えてみて一つだけわかったことがある。ノノは僕が裏切るのを望まない。お前がノノをどうこうするってのは、僕がノノの期待を裏切ることになる。僕はノノが嫌がることはしない」
 ロ・メイヒは踵を返し、白月とは反対の方向に歩いていった。どこへいくのかはわからない。ただ、もうロ・メイタクと話す必要はないと感じただけだった。二人の間にもはや言葉はない……そもそも、相手は悪魔……話したって時間の無駄なのだ。ロ・メイタクが提示した条件に惹かれるものはなかった。ただの歩く屍のノノなんていらない。ノノはシーザーと幸せに結婚した方がいいのだ。たとえノノが性癖のシースルードレスとピュアホワイトのレースストッキングを身に着けて傍に侍って、「メイヒメイヒ、ウォーアイニー、ネズミが米を大好きなように」と歌ったところで……彼の心は揺るがない……揺るがないだろう……彼自身とノノを裏切ってしまったなら……
「あ」という一声と共に水音がはじけ、ロ・メイタクが待っていた魚が食いついた。
 ロ・メイヒがつい振り返ると、白月と月影の間に、ロ・メイタクが高く掲げて空中に揺れる釣り糸が水の中から引き出されるのが見えた。その先には……黒い巨龍! 突然現れた巨大な影は月影の中で咆哮し、身を捩り、暴れ回る。
 バカな! 彼は小悪魔の釣りの獲物が本当に龍だとは思っていなかった。まさか黒い巨龍だとは!
 悲鳴を上げる前にロ・メイタクは手を伸ばして龍の首根っこを掴み、足元の魚籠に詰め込んだ。どうやってそんな巨大な獲物を小さい魚籠に入れたのかは誰もわからないが、彼はそうしたのだ。
「さて、今日はごちそうだね。三枚おろしにして、ひとつは焼いて、もう一つはネギ油で炒めて、最後はローストにしよう」ロ・メイタクは魚籠を肩に担ぎ、立ち上がって歩き始めた。「この海の神を釣れてよかった、もうすぐ潮が満ちるからね……」
 潮の音が押し寄せてくる。ロ・メイヒが震えながら再び振り返ると、白い月の縁に沿って海へと注がれる瀑布が、真っ白な月明かりの中で天をひっくり返すがごとき雨となっているのが見えた。足元の氷面が崩れ、ヒビというヒビから黒い水が空に向かって吹きすさび、月明かりに照らされた白い雨とぶつかり合う。世界が海に覆われ、真っ白な月だけを残して闇に染まる。どこにも逃げる場所などなかった。漆黒の海がロ・メイヒを呑み込む中……彼は無意識のうちに、とある名前を叫び、黒い海へと沈んでいった。

 ロ・メイヒは激しくベッドから起き上がった。全身に冷や汗をかいていた。海へと沈んでいく世界の一幕は未だ目の前にあるかのように思える。夢とは思えない程鮮明に、リアルに、視界にこびりついている。
 寮はひっそりと静まり返っていて、フィンゲルの鼻歌も聞こえない。フィンゲルは校長から卒業インターンシップの特別承認を受けたのだ。インターンシップが終われば、学業を終えた先輩は遂に念願の卒業ができる。この寮はそのままなのだろうか、あるいは新しい人が来るのだろうか。
 ノノは結婚し、フィンゲルは卒業し、小悪魔でさえ転勤しようとしている……結局、彼は孤独になった。
 彼は二度寝しようとも思えず、コップの水を求めて手探った。小悪魔がこの種の「夢枕」的な方法を使って会いに来ることは珍しい。しかし夢の中の全ての出来事は、何かこれから起きる大きな事件の比喩のようにも思える……小悪魔のなんだかんだの喚きの核心はどこにあるのか。まず、小悪魔が一ヶ月休暇を貰って自分に仕えない。そして、自分はインターンに行く……日本へ?
 その瞬間、枕もとの電話が鳴ってテキストメッセージが届いた。ロ・メイヒが電話を手に取って一瞥すると、唖然とした。
「リカルド・M・ロ、このメッセッジーはあなたが執行部からインターンシップを割り当てられたことをお知らせします。今朝七時に空港に向けて出発してください。寮の前でタクシーが待っています。CC1000特別急行列車、シカゴ行きに乗車してください。タスクの詳細についてはタスク担当者にアナウンスンーされてください。出席・費用の心配はありません。執行部が自動的に欠席申請を出します」
 ロ・メイヒは毛布を跳ね飛ばして起き上がった。ロ・メイタクが言ったことそのまんまだ。執行部の任務が彼に割り当てられたのだ。しかもずいぶんと緊急要件らしい。そうでなければこんな早朝に不親切なSMSを送ってくるはずがない。蛍光目覚まし時計は午前四時を指し、準備時間があと三時間しかないことを示している。しかし、日本に何を持っていけばいい? 彼は本棚の奥で眠る『旅行实用日本语100句』の小冊子を思いついた後、頭をはたきながら電子辞書を取りにクローゼットの前まで行き、ウールの靴下を探した。今の時期、日本はあんまり暖かくないと聞く。北海道とかに行かされたらこういう靴下が無ければ困るだろう……しかしウールの靴下は見つからず、しかも中国から持ち込んだ半壊スーツケースも行方不明で、ロ・メイヒは慌てた。
 その時、彼はベッドの上に真新しい銀色のスーツケースが一つ立っているのに気が付いた。アルミ合金製のボディには赤と青のバンドが巻かれている。朧げな知識が正しければ、これはドイツのRimowa製の高級スーツケースだ。当然、フィンゲルの私物であるはずがない。しかしこんな新品の高級スーツケースにボロ雑巾同然の私物を詰め込むというのはいかがなものか……そこで彼は、ロ・メイタクが夢の中で言っていたことを思い出した。そういえば奴は「私はあなたの忠実なセバスチャン[1]でございます」とでも言いたげな顔をしながら、「僕が兄さんのために荷物をまとめておいたから――」なんとか言っていた。

[1]日本の漫画では執事の名前として「セバスチャン」がよく使われるため、アニメ的な文脈でのセバスチャンは一般名詞として気遣いのできる執事全般を指すことがある。

 なんたること! スーツケースの荷造りを頼むどころか、『旅行实用日本语100句』を持っていくことまで知っているとは! というのもスーツケースには黄色の便箋が貼ってあり、そこには可愛らしい手書き文字でノーティスが書いてあったからだ。「『旅行实用日本语100句』は蓋の裏側に入っています。ウールの靴下はパンツと一緒に入ってます。ちなみに兄さんの電子辞書は498元のセール品で日本語に対応してないから、自分のよちよち日本語で頑張ってね。ついでに日本文化のガイドとして『日本神话与历史100讲』、それにとある美女の写真集を入れておいたよ」
 その時、ロ・メイヒはスーツケースの隣にまた新品のバックパックが置かれているのに気が付いた。その中には日本神話の概説の他に、精巧な写真アルバムが入っていた。そしてそのアルバムの表紙を見ただけで、ロ・メイヒは鼻血を拭く為の紙を探したくなった……インドのサリーのような薄着を纏った少女が、日本家屋の和室の中で正座している。暖かな午後の太陽光が彼女の後ろ、ショウジ戸の向こうから差し込んで、その輪郭を漠然にしている。しかしロ・メイヒはサリーの下の少女の裸体を想像した……そして太陽光をいっぱいに浴びたワインレッドの長い髪を見て、一瞬でそれが誰だか分かってしまったのだ。
 そういえば、ノノとス・シーがセクシーな写真を撮りに行っていたことがあった。撮影者はフィンランドの女性写真家。若々しく美しい少女たちを無料で撮影し、撮影後はフィルムを丈夫な金属製の箱に封印した後、幼少期の貴重な写真と共に蝸牛の形をした容器で地中に埋めるのだ。三十年後に蝸牛の封印は解かれ、写真が持ち主の手に戻る。全盛期の自分の写真で当時の自分のセクシーさを見返して、ある人は間抜けに笑ったり、ある人は泣いたりする。

「見せて見せて、ちょっとでいいから!」ロ・メイヒはノノがセクシー写真を撮りに行ったと聞いた時、ツバを垂らしながらそんなことを言った。
「バカ! シーザーにも見せてないのよ。自分のデカ頭でも見てなさい!」ノノは指で目を突くジェスチャーをして言った。「それとも節穴になった目で見てみる?」
「誰にも見せない写真なんかとってどうするのさ?」ロ・メイヒは言った。
「三十年後に見れるわ。その時に好きな人が見るのは構わないの」ノノは歯を見せて笑った。「五十歳の時にエッチな写真を見せてね、若いころの私はこうだったのよ、今はもうこんなだけどね、手でもつなぐ? もう皺ばっかりだけど、とか言ってみせたいの」
ロ・メイヒはしばらく沈黙した。そうか、三十年後に写真の封が解かれた時に見ているのは「少年」ではない。写っているのも、「好きだった人のかつて」なのだ。彼女が人生で一番美しい時期、彼女のセクシーには妄想して鼻血を出すことしかできず、写真が見れるようになった時……既にしわがれた彼女の手に触れて、思い出を掘り起こすことしかできない。この写真家のコンセプトは「美の保存」なのか? あるいは「三十年間美をオアズケできる草食系男子がステキ」か?
 このアルバムを見て笑える人間は、彼女と結婚した人しかいない。彼女の美しさ、若さ、そして老いを見てきた人物なら、何の後悔も起きないだろうから。

 ロ・メイタクがどういう方法でフィルムを盗んで綺麗なアルバムに現像したのかは誰も知らないだろう。一ページめくれば、ノノが澄んだ泉に身を浸して、その波紋が身体を歪めている写真が現れる。あるいはシカゴ旧市街の街角、細かい霧雨に射す街灯の中で、濡れた赤いドレスを着たノノが歩いている。下水道の熱風がスカートを捲り上げ、濡れた生地の下にランジェリーのストラップの感応的なラインを見せる……。写真家の作品の他には、ノノ自身が保存していたカッセル学院入学式初日の貴重な制服姿があった。バレエコンクールで優勝した時の写真では、黒鳥に扮した黒いヴェールスカートを穿いている。他では彼女の愛馬「サーシャ」を抱いていたり、高校卒業後に誰もいない運動場で一人座っていたり。初めての舞踏会ではボールガウンとハイヒールを身に着けている。15歳の誕生日、彼女はヴェネツィアのサン・マルコ広場の真ん中で、白いドレスを着て裸足で立っている……。写真が古くなるほどノノは小さく、丸くなっていき、最後には保育園で大泣きしている大きな丸い顔の赤ちゃんになった。
 このアルバムをめくっていると、時間軸が見えざる手によって逆向きに引っ張られているかのようにも思えてくる。なるほど、時間的なお遊戯だな……ロ・メイヒは最後に、まるで小さな赤ちゃんが生まれた時の親のように、写真の中の小さな赤ちゃんのぽっちゃりとした顔をそっと指で触ってみた。
 ロ・メイタクの声が突然耳の中でこだました。「兄さん、諦める前によく考えてね。兄さんが諦めようとしてるのは結婚式や約束だけじゃない、彼女の『ありえた』人生の全てなんだからね」
 ロ・メイヒはアルバムを閉じ、本棚にしまって鍵をかけた。そこでふと彼は思い出した。そういえば、あのアルバムの中のノノはみんな一人だった。シーザーも、クラスメイトも、両親も、通行人一人すらいなかった。これはつまり、彼女が思う人生の貴重な瞬間というのは、須らく一人の時間だということなのか……?

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