『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第五章:日本支部

「天照命は人々に光を見せるというが、俺たちみたいな暗闇に住む蛾は……」桜井明は狂ったように笑った。「ただその光に焼かれるだけなんだよ!」彼の巨大な爪が振り回され、致命的な冷たい風が吹き荒れる。背水の獣の死力だ。桜井明は全てを忘れ、果てしない暴力の喜びに浸っているのだ。


 小山隆造の後頚部に29センチの大靴が暴力的に叩き込まれた。砂の中に頭を突っ込んだ小山は、頸椎の間の軟骨が断末魔を上げ、硬い骨だけが辛うじて血管や神経管を支えているのを感じた。
「チッ、こんな汚れ仕事になるならフェラガモの革靴にするんじゃなかったぜ。血が靴についちまうだろうが、エッ?」男が辺り一帯に響く大声で不満そうに管を巻いた。「ワニ革はなぁ、高えんだぞ!」
「おい、靴ごときに女々しくしてんじゃねえ、さっさとやれ! 若君の我慢もそろそろ限界だぞ!」別の男が水で満たされたプラスチックバケツを持って現れた。「ほら、頭突っ込んだままな。三分からスタート、その後は一分ずつ延長! お前が吐くまでやるからな!」
「こんなのよりさぁ、お前の得意な水夫結びの縄で吊るそうぜ。息切れして足バタバタさせんの面白れぇから」最初の男が言った。
「いいからさっさとしろ! 時間ねえんだから! 虐待好きのジャンキーじゃあるまいし」二番目の男が小山の後頭部にバケツの水を吹っ掛けた。
 水を含んだ砂が小山の口と鼻を塞ぐ。息が出来ず、気管に沿って甘い匂いが流れる。破裂した肺胞から出血しているのだろう。小山が何か言いたくとも、この二人は言う機会を与えてくれない。頭がおかしくなりそうだった。この二人は本当に自白を強要しているのか? なぶり殺すのを楽しんでいるだけじゃないのか? それとも単に拷問がヘタすぎるのか? 自白を強要するなら、相手は話せる状態にしないと意味がないだろうに!

 小山隆造は不運な外科医だった。名門医科大学を卒業し、かつては大手病院で働いていたが、今では私立の小さな診療所でわずかな患者を見て回るのに忙しい。収入は少なく、ボロアパートに住んでいる。隣人はみんな田舎から上京してきたアルバイトばかりだ。
 出世も乏しい内向的な男で、トラブルに巻き込まれることもなかったのに、今夜は突然おびただしい足音がアパートを揺さぶったかと思うと、ショットガンの破裂音と共に小山の部屋の分厚い防犯ドアが蹴り開けられたのだ。黒いスーツを着た二人の男が入り込んできて、片脚を引きずりながら廊下を通って車に詰め込まれた。小山が助けを呼べなかったのは、家から運び出される際に腹部に強烈な拳を叩きこまれて鳩尾の神経に直撃を食らい、声も出せない程の激痛に悶えていたからだ。その上アパートの他の住人といったら、窓の鍵を閉める人はいても警察に通報する人はいなかった。犯人の黒いスーツが風にさらされ、その裏地にウキヨエめいて絢爛繚乱な青色の夜叉鬼と裸の女鬼が刺繍されているのが見えれば、住人たちはすぐに彼らがヤクザであり、小山先生は高利貸しとトラブルにでもなったのだろうと理解したのだ。

「夜叉、やめなさい。私が見えるように頭を上げて」誰かが言った。
「ハイ!」黒スーツ二人組のうち、ワニ革靴を履いた方が了解の意としておじぎをした後、小山を砂の外に引っ張り出した。
「カラス、顔を洗って」男は再び言った。
 薄縁の眼鏡をかけたもう一人の黒スーツ男が、バケツの水の残りを小山の顔にぶっかけ、手で何回か砂を払った。
 小山はようやく目を開け、自分を取り巻く環境を見ることができた。海沿いの建設現場だ。長いコンクリート製のドックが海に向かって伸びている。夜とばりの下で満潮の海水がうごめき、牙のようにそびえる防波堤に波が打ち付けると、無数の細かい白い飛沫となって消える。その向こう遠くには、明るい灯火で照らされた東京が見える。小山は大まかな自分の現在位置を理解した。東京に程近い辺境の海岸。深夜は人も少なく、大声で助けを呼んでも無駄だろう。
 埠頭の先に黒いハマーのオフロード車が停まっている。黒いロングトレンチコートを来た若い男が一人バンパーに座って海を眺め、その前髪が潮風に揺れている。男が吸っている煙草の火が、彼の細長い目を照らす。夜叉やカラスとは完全に違う雰囲気を持った男だ。どこか柔和さを感じさせる端正な顔つき、白い肌は大理石のような質感を思わせ、眉はまっすぐに伸びている。黒のロングトレンチコートも相当凝ったもので、全体的にはどこかの若手大学教授のような雰囲気を思わせる。拷問には全く関与しない、リーダー的な人物なのだろう。
 男はつま先で煙草の吸殻を砕き、小山の目の前まで埠頭をゆっくり歩いてきた。「小山隆造先生? 我々があなたを伺った理由に心当たりはありますか?」
「あなた……あなたは誰なんです? 何が欲しいんです? 私……私にはお金はありません……ですがローンを借りたこともないんです、誰にも恨まれるようなことなんて! 絶対人違いです! 放してください!」小山は必死に語った。
「小山隆造、早稲田大学医学部を卒業した後、東大医学部の遺伝子科に六年在籍。その後女性患者への痴漢行為と、違法な遺伝子実験のために患者から私的に遺伝子を抽出していたことが発覚し、東大医学部から除名。その後はアンダーグラウンドの小診療所で妊婦の中絶執刀をしているが、金稼ぎのためではなく、陣痛後に麻酔注射をし、昏睡状態の妊婦を強姦するため。まったく悪趣味極まりない。それに自分で薬品を作ってアンダーグラウンドで売りさばき、臓器売買も行って、金を相当ため込んでいる。三菱銀行の口座に九千六百万円あるようだが、そのうちの五千万円は三週間前に入金されている」トレンチコートの男は書類を読み終え、小山の目の前に放り投げた。「我々は協力を要請しています。そうでなければ、あなたのような男にこうした『礼儀正しい』ことをする必要もない」
 小山は聞けば聞くほど心を震え上がらせた。男が銀行口座の残高を読み上げた時、彼らが単に行き当たりばったりで派遣されたチンピラ集団ではないと理解したのだ。
「そんなに俺を知ってるのか? 口座の残高まで探りやがって。欲しいのはカネか? 言うだけくれてやるがな、あんまり多いと俺のダチが黙っちゃいねえ。無理を通したって誰の得にもならねえぞ!」小山は取り繕っていたわびしさを捨て、顔を上げた。「とりあえずさ、取引の前に一本やろうぜ?」
 守るよりも攻めることを取った小山は、完全なハッタリをかました。彼らは自分が何をしたのかを知っている。男は常々他人と衝突するものだが、その解決として金を使うのは悪くない策である。この所属不明の三人はどれだけあれば満足するだろうか? 一千万円あれば十分か? それとも五百万円?
「では、歯の矯正の時間です」男は小山の髪を掴み、頭を上げるように強要した。カラスが鞘付きの長刀を男の手に渡すと、男は刀の柄を小山の口に突っ込み、激しくかき回した。
 小山は口いっぱいの歯が折れる音を聞いた。激しい痛みが頭の中で爆発し、胃が痙攣して大量の胃酸を噴き出している。
 男は小山を地面に叩きつけた。「やはりあなたのような男に礼儀正しくする必要なんてありませんね。妊婦を強姦し、毒薬を作り、臓器売買までしている男が今日まで生きているなど、はたして神は死んでるのか、寝過ごしているのか」
「女とヤったし腎臓も売った、でもお前らに何の関係があるんだよ! サツでもないくせに! 何がしたいのか言えよ! 俺に手を出したら全員死ぬっつったろうが!」小山は痛みで地面を転げまわり、悪鬼のように顔を歪ませた。
「もちろん私は警官ではありません。日本の警官はあなたすら人道的に扱いますが、我々はあなたを人間扱いするつもりはありませんので」トレンチコートの男はポケットから身分証を取り出し、小山の目の前で振った。身分証入れの中には、半分朽ちた世界樹が彫られた丸い金色のバッジが入っている。
「カッセル学院日本支部、源稚生執行官」男は言った。「わかりましたね?」
「お前は……」小山の心で恐怖が爆発した。
 外からの恐怖ではない。彼の心に絡みつき、過去永遠に忘れることもできず、より深く深く根を張っていく古木のような恐怖。何年もの間、あえて高級マンションに住むことを避け、人々の前で目立つことを避け、足跡すら残さないようにして、遂に彼らの監視を撒いたとも思っていた。だが今になって分かったことは、彼らの監視網に隙などなく、必要な時まで網を締めなかったというだけの話だということだ。小山は相手が何を望むのかを理解した。あの禁忌のアイテムだけに、彼らが追い求める価値がある。
「あなたは混血種ですが、血統を占める龍血の割合は非常に少ない。我々のモニタリングテストでは、あなたのカラーコードは最も安全な『白』です。早稲田大学を卒業する前、つまり医学生の頃から龍血の遺伝子実験をしていたことも分かっています。そして少し前、あなたの実験が画期的な結果を得られた。『モロトフカクテル』と言われる遺伝薬。血統を強化する一方、強い副作用があります。あなたはこの薬をとある顧客に販売し、報酬として五千万円を受け取ったうえ、副作用を観察する為の人体実験にまで付き合った」源稚生は小山隆造の目をまっすぐ見つめた。「我々が聞きたいのは名前です。その実験の被験者の、名前」
「お前おかしいぞ! 俺は長年ずっと混血種に会ったこともねぇし、遺伝薬の研究なんて何もしてねぇ! 俺が売ってるのは普通の新薬の特許だけだ!」小山は口から血を吐きながら言った。「お前おかしいだろ!」
「あなたの被験者は暴走し、世界の人々を殺している。我々は奴の無差別殺人を今すぐ止めなければなりません。一秒たりとも無駄にはできない。もちろん、あなたとの下らないおしゃべりで一秒も無駄にするつもりもない」源稚生は誠実そうに言った。
「クソが! 本当に何言ってんだよ、どこの誰が俺がどうやってモロトフカクテルの開発者だって証拠だよ! デタラメ言ってんじゃねぇぞ! 本当に何も知らねえ! 俺はただの薬の特許を売っただけだっつうの!」小山は意識朦朧としながら、折れた歯を一つずつ吐き出した。相手が脅迫や誘惑が通じない相手だと理解した彼の表情はやつれ、その目は可哀そうな小動物のようになっている。
「時間の無駄だったようだな」稚生は身を起こした。「夜叉、片付けを頼む」
 夜叉はパチパチと手を叩いた。「よっしゃ! カラスが手伝ってくれれば三十分でやるぜ!」
 カラスは不本意そうに眉をきつくひそめながらも、小山の片脚を掴んで巨大なセメントミキサーに引きずり込んだ。埠頭工事には毎日大量のセメントが使われ、混合後に使い切らないものは固まらないように一晩中ミキサーに入れておかなければならない。夜叉は小山の腕と足を鉄ワイヤーで縛り、近くの垂直孔の中に投げ込んだ。
「52.5のセメントか。流したらヒビが入らねぇか?」カラスは出口からセメントを少しだけ捻り出し、そのグレードを見積もった。
「埠頭で使うセメント杭は海水に浸かるの前提なんだ。52.5じゃ割れねぇよ」夜叉は慣れた手つきでミキサーを起動し、セメントを流し込み始めた。
 小山は「片付け」の意味を理解していた。源稚生の命令は、夜叉にいつもの方法で小山隆造の死体を処理させる事であり、時間をかけて自白を引き出すことすらしない。極道において、人を殺した後は死体をコンクリートの中にぶち込むのが一般的だ。東京の高層ビル群のコンクリートにも無数の人骨が隠されており、壮大な街を支える為に死後も静かに佇んでいる。この垂直孔はセメントの杭を作るための型で、セメント杭の中に固められた小山隆造はやがて杭打機によって海底に打ち込まれ、永遠にこの世から消えることになるだろう。
 熱く重いセメントが小山の肩の骨を砕くかのように圧し掛かり始める。10秒もしないうちに太腿までがセメントに埋まり、石灰粉が目と喉に詰まっていくと、彼は自分自身から死体の匂いを感じた。死にゆく彼の脳裏は、今まで弄んできた女のことでいっぱいだった。無意識に疲弊する昏睡状態の彼女たち、柔らかく誘惑的なその身体を思い出すと、あの事を自白してでも、再び妊婦を弄びたいという誘惑に駆られていく……
 大学時代、同じクラスの女学生のマミが好きだった。しかしマミはイケメンの電器メーカーの若社長フジマが好きで、彼はただマミとフジマが近づき、両親に隠れて海外旅行へ行くのを間近で見ているだけだった。しかし小山隆造は、フジマのような金持ち若社長はいずれマミと遊ぶのにも飽きると思い、そうなれば失恋したマミを慰めて手に入れようと考えていた。この期待は彼の中だけで長らく秘められていたが、ある日マミはフジマの子供を妊娠し、フジマが認知を拒否した時、彼氏が流産させようとしてくる、と言ってマミが小山に泣きついてきたのだった。待望のチャンスが目の前にやってきたと思ったのもつかの間、小山はマミの大きく隆起した腹をみて突然気分を悪くし、他人の子を腹に抱いたマミは自分のマミではない、と感じた。この女を一瞬で嫌悪した彼は「教訓」を与えるという名目の元、麻酔を打った後にマミを強姦した。その間ずっと自分が金持ちの若旦那フジマであると妄想すれば、気持ちの良いことこの上なかった。それ以来、彼はこの「娯楽」を好むようになった。
 だが、彼はあれの「買い手」の暴虐さを知っていたから、それでも自白することはなかった。情報を漏らしたことを買い手が知れば、彼の死はコンクリートの中に固められるよりも悲惨なものになるだろう。小山は歯を食いしばり、これが自白を強要する心理戦であることを祈った。相手は自分を殺しはしない。溺れそうになった時、セメントは止まる……絶対に止まるはずだ!
「勘弁してくれ、俺は本当に何も知らないんだ! 人違いなんだよ!」小山は大声を上げた。
 返ってきたのは、カラスと夜叉の鼻歌だった。
「夜叉、人間をセメントの杭にする経験が俺よりあるのはわかる。だが硬度は十分なのか? 杭打ちの途中で折れたらヤバいぞ」
「後で石灰をもうちょっと足して混ぜるさ。どうせ百年前の基礎の補強工事なんだから大丈夫だろ」夜叉は深い孔に石灰一袋いっぱいを注ぎ、言った。「ハイヨーハイッ! 今だ、混ぜろ! 兄弟!」
 石灰とセメントが混ざり合い、放出される熱でセメントが沸騰し、カラスは鼻と口を塞ぎながら棒を振るって激しくかき混ぜる。小山は痛覚神経がことごとく火に焼かれているような感覚になった。
「そうそう、俺の故郷の童謡にこういうのがあるんだよ。『おっさん波止場を背負ったれ~、ワイと兄ちゃんならび立つ~』って」カラスは関西訛りの奇妙な童謡を鼻歌に乗せて歌った。
「桜井明! 桜井明だ! 許してくれ! 頼むから許してくれ! 俺は誰も殺してない、ただケモノなだけで……おおおお願いだ……たたた助けてくれぇ!」セメントが小山の頭の頂点にまで達そうとしたとき、遂に最後の心の壁が崩れ去り、彼はセメントが口に入らないように顔を上げて叫んだ。
「こいつホントにバカだぜ。人を殺したかどうかなんて、セメントにぶち込むのとなんも関係ねえのにな?」夜叉は石灰をもう一袋開けながら言った。
「自白したんだからもういいだろ。時間を無駄にすることもない」カラスはかき混ぜるための竹棒を捨てて背を向けた。
「もう少しでキレイなセメントの杭ができるってのに、ここでやめんのかよ?」夜叉は大声で言った。
「わかったわかった、じゃあさっさとやるぞ……」
 孔の底で激しく号哭しながら、小山は絶望した。彼らを完全に誤解していた――彼らはただの凶悪なヤクザではなく、サイコパスや精神病の類だということ、セメントの杭を打つのが楽しいと感じられる人間なのだ。あのヤクザの歌は心の底からの幸福感でいっぱいだった。「おっさん波止場を背負ったれ、ワイと兄ちゃんならび立つ」というのは、つまり幼少期から兄弟と杭を打ちまくっていたということか? 人間の杭を打つのは残酷で病的なことですらなく、子供の頃の懐かしい思い出だと? この狂人どもは、自白などどうでもいいということか!
「さて、遊びは終わりにしましょう」源稚生は煙草の吸殻を投げ捨てた。「彼に比べれば、あなた方こそ本当に頭のおかしい人種ですね」
「狂人に対抗できるのは狂人だけですから」カラスは手をはたいて石灰を落としながら、笑って言った。「狂人と狂人が出会えば半分は相互理解、もう半分は相互嫌悪になるんですよ。この狂人は俺の嫌悪を倍点する方です」
「でもさぁ、途中でやめちゃうなんてさぁ。やってらんねぇよ」夜叉は不満げに溜息をついたが、結局カラスに続いてハマーに向かって走っていった。ハマーの扉は開いているが、既に発進し始めている。
「桜、被験者の名前が分かった。アーカイブで『桜井明』の名前を検索してほしい。ターゲットは遺伝薬で血統を強化、進化し、強い攻撃性と殺害衝動を持っている。現在の桜井明のモニタリングカラーは赤、『非常に危険』な目標だ。空港、鉄道網、道路網や水路網、温泉ホテル、居酒屋や病院をチェックし、可能な限り迅速に発見せよ。仮名や偽証を扱う可能性も高いが、殺害衝動は抑えられていない。痕跡は彼の経歴に関係する地区に集中している。犠牲者は死ぬ前に強姦され、遺体が四散している。政宗氏に連絡し、今すぐ桜井明の抹殺を遂行するよう手配せよ!」源稚生は車を走らせながら電話に向かって言った。
「目標の現在の血統はどの程度でしょう?」
「少なくともA級、狂暴化したA級混血種だ!」
「了解。今すぐ網を張ります」
 源稚生は携帯電話をしまった。「カラス! 補給部にヘリのエンジンをかけさせておくよう連絡を。空港到着後に即離陸できるように」
 小山隆造は1.5メートルの深さのセメントに浸かり、夜風の中でゆっくりと自分が固まっていくのを感じた。冷たい夜の空気を吸い、生命の尊さを深く感じ、息が繋がっていることを感謝するこんな瞬間など、彼の人生の中でこれまで一度もなかった。警察が早く来てほしいとすら思っている。逮捕状が出て刑務所に放り込まれたとしても、極道の狂人たちに遊ばれるよりははるかにましだ。
 だが、夜明けまであと六時間ほどもある。夜が明ければ労働者たちが見つけてくれるだろうが、およそ半分まで注がれたこのセメントの塊はその時にはもう……固まってしまっているのでは?


 隆々とした地をガタゴトと北上する列車が、山々の間に白い煙の跡を残していく。
 旧式の蒸気機関車だ。新型の高速鉄道ほど速くはないが、目的地は遠く離れた北海道である。小さな駅ひとつひとつに停車しながら、乗客は十二時間ほどの道中を客車の中で揺られていく。本来ならばもはや使い物にならない列車だが、毎年春になると多くの若者たちが乗ってくる。第二次世界大戦前に敷設された登山鉄道の線路を走る緩行列車はから見える景色は珍しく、美しい。嬉々として乗り込む旅行者の殆どは仕事や学校の合間を縫って観光に来る高校生や若いカップルであり、窓の外で次々と流れていく青々しい山脈を眺めながら、奥ゆかしい客車の中で愛する人と充実した十二時間を過ごせば、どんな女子でも隣の男子の肩に頭を預けたくなってしまう。
 桜井明が乗り込んだ客車の席は半分しか埋まっておらず、少年少女たちは窓の外の景色に興奮しあれやこれやを指差している。桜井は静かに鼻をひくつかせ、車内に漂うあらゆる臭いを嗅ぎ取った。今の彼の嗅覚は獣のそれに匹敵し、客車の向こう側に座るベージュ色のウールスカートをはいた少女が情を起こしている匂いすら嗅ぎ分けることができる。隣にいる少年がこっそり彼女の耳たぶにキスをすると、その体臭は誘惑的なホルモンを急激に増した。彼はあらゆる臭いを感じ取ることでこの客車を支配し、そこから適切な獲物を選び出すのだ。
 彼が逃亡してから十五日。その間に彼は十五人の女性を狩った。
 桜井明は二十三歳、ある教会学校の事務員で、自身もその学校の卒業生である。学校は神戸の山中にあり、四方を堅牢な石壁に覆われ、石壁の上には通電した鉄柵が張られていた。ある一人の肝の据わった子供が絶縁布を使って鉄柵網を超え、壁を越えて学校から逃げ出したこともあったが、その後に山の中で迷子になったらしく、救助隊に発見された時には脱水状態だったという。その学校は「ケアスクール」であり、他の学校から受け入れを拒絶された、桜井明のような「暴力的傾向」があると判断された子供たちを対象とした学校である。毎晩寝る前にシスターたちが子供たちの額にキスをして回るり、武装した警備員が扉にチェーンロックをかけて回る。
 桜井は子供の頃、遊び場の真ん中に座って天を見上げることが多かったが、頭の上に見えるのはいつも四角い空だった。芝生の上から空に浮かぶすべての雲に名前を付けたこともあったが、名前がついた雲は翌日になればみんな消えてしまい、変わらないのは芝生に座っている彼だけだった。高校までの学校教育は終えたが、そんな彼を受け入れる大学もなく、桜井は事務員として内部雇用された。自分の寮部屋を持ってはいるものの、校内から離れることはできず、毎晩寝る前に警備員が部屋の鉄扉を施錠している。医者が言うには、暴力的傾向は治癒されておらず社会に出ても問題が起こるだけ、ということらしい。

 桜井は、自分がケアスクールに送られた本当の理由を知っていた。生まれ持った血統のせいだ。桜井家は古くから龍血を受け継いできた謎の一族だ。五歳の明に長老たちが血統評価を行った時、彼の血統に本質的な欠陥があることが分かり、暴走する可能性が付きまとうことがわかった。彼はすぐに家から放り出され、山の中の教会学校へ送られた。この教校の最大の寄付者こそまぎれもない桜井家だったのだ。彼の両親は二度と顔を見せることなく、黒衣の男性にとって代わられた。
 毎日誕生日に黒衣の男が親としてやってきた。上等な黒いスーツに身を包み、その裏地には獰猛な鬼神が絢爛に描かれている。明はこの男がいわゆる執行者であることを知っていた。この国では、全ての混血種は執行者の監理下におかれ、執行者は影で混血種から社会の秩序を守っているのだ。傲慢に見える執行者にもさまざま居て、明に焼き菓子やこいのぼりを持ってきてくれる人もいれば、威厳を盾に不敵に堂々と見つめるだけの人もいたが、桜井明の目には関係なかった。その顔にあるのが愛想だろうと威圧だろうと、どんな執行者でも、必要とあれば桜井明のような危険な標的は容赦なく制圧するのだから。
 執行者はみな、毎回桜井明に同じ質問を投げかける……突然興奮して自分が抑えられなくなることはないか? 好きな女子はいるか? 自慰はするか? 毎晩、それとも不定期? 周りに厭な人間はいないか? 殺したいと思うか?……
 この一問一答は、まるで桜井明を鋭いメスで薄切りに解剖し、顕微鏡で丁寧に観察するかのようだった。抵抗することは考えなかった。桜井よりも執行者の血統の方が遥かに強く安定していたから、執行者の前の桜井は囚人のようなものだった。桜井明は両親から「クズ血統」だけを受け継ぎ、執行者は「エリート血統」を受け継いでいる。クズ血統は暴走のリスクばかりを高める一方で、エリート血統は混血種に比類無き力を与える。執行者は質問しながらスコアシートをチェックし、スコアシートと身体検査の結果を実家にFAXで送る。桜井明のファイルに緑か黄色のラベルが付いていれば合格。オレンジ色であれば監視対象。赤なら……桜井はその意味を知らないし、知りたくもなかった。毎回の評価で桜井明のカラーコードが緑色だということが、安全であることの唯一の指標であり証拠だ。執行者は四十歳まで緑色が続けば自由になれると慰めてくれた。執行者が強化ガラス越しに話しかけることもないだろう、毎年一回実家に帰る事ができるだろう、と。
 四十歳? 四十歳になってしまって、誰と家族を作れるのだろう? 四十歳の桜井明は専門知識もなく、山にこもりきりで学校を卒業したわけでもない。成長する前にすでに老衰しきっており、親戚のいない未亡人だ。
 執行者が去った後、桜井明はシャワーの中で立ち尽くした。冷たい水で身体を濡らし続けた。

「誰がこんな生き方を望んだんだい?」その夜、見知らぬ誰かが突然彼を訪ねてきた。
 白い麻のスーツを身にまとった男は、いやにのんびりとして椅子に座った。桜井が彼をはっきりと見たいと思った瞬間、ホールの証明が突然消えた。慌てた後ろの警備員は男には全く気付いていないようだった。
 暗闇の中、桜井は遠くから男の声を聞いた。「誰がこんな生き方を望んだんだい?」わずかに女性らしさを纏った男の声は優しげだったが、その威圧感は執行者よりも強烈だった。彼はただそこに座っているだけなのに、まるで王座の上に座っているかのようだ。
「違う……望んでなんかいない!」桜井は無意識のうちに答えた。「何も悪いことなんてしていない!」
 男は桜井明の前に十二本の薬瓶の刺さったケースを差し出した。薬剤は鮮やかな赤からくすんだ紫まで色とりどりに変化し続け、それはまるでレインボーカクテルのようだ。「さあ、己の血を湧き立たせてみようじゃないか」
 それから彼が立ち上がって去ると、電気が再び点き、警備員は桜井を部屋に連れ戻した。全ては夢のようだった。その後、フクロウすらも眠る夜。桜井はけばけばしいその薬剤を一つ、自分の身体に打ってみた。
 この薬剤が体内でどんな作用をしているのか、桜井には分からない。だが血統が目覚め、身体の全細胞が深い眠りから覚め、潮のように血管に力が押し寄せてくるのは分かった。まるで夢から目覚めたかのようだ。鉄格子の外の明るい月を見上げると、自分こそが世界の中心であり、王であると思えた。暗闇の中の男が約束したように、桜井明は夢見ていたものを全て手に入れたのだ……自信、強さ、そして自分自身の人生を。
 その次に手に入れたのは黒い欲望だった。ある夜、桜井は身体が燃え尽きるかのような堪えがたい熱気と渇きを覚えた。目を覚ませば、女教師のナミが裸で寄り添っていた。ナミの背骨は切断され、喉は割れ、口は自らの血で満たされていた。昨夜の出来事が突然頭に浮かんでくる。ナミの部屋の扉をノックし、野獣のようにナミをベッドの上で引き倒し、ナイトドレスを引き裂き……興奮して力加減を失い、ナミは死んだ。
 ナミは享年二十九歳、かつての桜井の先生だった。生徒時代の桜井明はナミに心身入れ込んでいた。見たこともないほどの美女だったが、手の届かないところにいた。だから故意にトラブルを起こし、怒って叱ってくれるように仕向けていた。学校を卒業して事務員になってからの桜井は、ナミを手に入れるどころか近づくことすら考えず、彼女の前ではいつものただの弱い子供になっていた。だが今、彼は変わった。絶対的な自信を持って、まったく新しい世界で生きている。彼の目には、世界の何者も小さい蟻のように見える。彼が望めば女は従い、彼が望めば人が死ぬのだ! 彼は己へのほんのわずかな恐怖と悔恨の後、喜びに狂った。
 逃亡の道中、彼は薬剤の注射を止めなかった。新たな薬剤が血管に打たれる度に、彼の自信は倍増した。ますます激しい欲求と欲望が沸き上がり、女狩りへと駆り立てた。彼の更なる暴力は女の鮮血を啜らせるどころか、捻ったり絞ったり、肉をひっくり返すことまでして満足感を得た。しかしこの比類なき自信があっても、執行者から逃れることができるかどうかは確信が無かった。桜井は自分を追う執行者が何人いるのか、誰が追っているのかを知らない。しかし執行者の処刑術は世界のあらゆる悪の化身であり、残忍で生々しいという。その尋問には石像でさえ口を割るそうだ。裏世界の暗黒の法に違反した人間にできるのは、逃げる事、ただ足を止めずに逃げる事……捕らえられ処刑されるその日まで。

 桜井明は獲物に迷っていた。この客車の乗客のほとんどが、長期休暇中の集団旅行に来た若いカップルや中高生だったからだ。誰かが姿を消せば、すぐに同行者に気付かれてしまう。
 しかしたった一人だけ、一人旅の少女がいた。高校の制服を着ている少女は十七か八に見えるが、少なくとも桜井よりも若いのは間違いない。やや小さめの制服を着ているのは、おそらく身長が伸びる一方で新しい制服を作る時間が無かったからだろう。ハローキティのリュックを膝に抱え、素朴な子猫のヘアピンを付けている、そこかしこに青臭さの残る佇まいだった。ふつうなら、桜井はこんな幼げな獲物は選ばなかった。それよりも露出度の高いセクシーな女性が好きだった。以前はテレビの中で女優が首を掻く姿を見るだけで興奮していたが、今なら遊んで殺す事ができる。まさになんでも望みが叶う、すばらしい夢のような感覚だ。
 その一方で、その少女はすらりと伸びた長い綺麗な脚を持ち、寒さに備えて黒いストッキングと白い靴下を履いている。成人女性と少女の間の絶妙な曲線美を描いていて、そことなく誘惑的だった。桜井明の十日以上の狩猟経験から判断すると、メイクを整えセクシーな服を着れば、東京の中心街でも注目を引ける獲物だ。桜井が女子高生の制服や靴下を引き裂きたいと思うと、暴力的な欲望が滾り、その目が赤く染まっていく。彼は相手に気付かれないように顔を伏せた。
 狩りというのは時間との戦いでもある。彼のような朝生暮死の者にとっては、獲物は直ぐにでも獲って食べなければならない。桜井は窓ガラスに映る自分の姿を静かに見ていた。自分の完璧な魅力をもってすれば、獲物を引き込むのはたやすいことだ。モロトフカクテルを注入してから彼の血統は大きく引き上がり、活性化した龍血は彼に不可思議な魅力をもたらした。上位種が下等種より優れるのは当然だ。桜井が今着ている服は安っぽく適当なものだが、ただ女の目を見つめ続けるだけで、女は彼の魅惑的な視線に憑りつかれ、思わずその隣に腰を下ろしてしまう。

 桜井は匂いを嗅いだ。花のようにかぐわしい少女的な匂いだったが、どんな花なのかはわからなかった。こういう匂いが桜井は好きではない。彼が欲するのは、より官能的な女が醸すホルモン一杯の魅惑的な匂いだ。少女の吐息は彼に遊び場の真ん中に座って空を見上げていた頃を思い出させる。山野の草木や花の香りは風と共に流れ、谷間の校内へ流れ込む……確かに綺麗だった。だがそれは、花の香りの充満した単なる牢獄でしかない。
 彼は、少女が座って話をするのをためらっていることに気付いた。その小さな四角いつま先が神経質に地面を叩いているのが、どこかじれったく、後ろめたさすら感じさせてくる。

「マドカさん?」桜井は目を開けて微笑んだ。
「ハイ! マドカです!」少女はクラスの先生に差されたかのように、無意識のうちに自分の名前を大声で言い、飛び上がってまっすぐに立った。
「私は桜井明。魔術師だから、君の名前だってわかる。こうやって出会う運命にあったということもね」桜井明の笑顔は邪悪的な神秘さを持っている。この笑顔の前で自我を保てる女などいない。
「ホントに魔術師! 桜井さんスゴーイ!」マドカは桜井の向かい側の席に頭を下げて腰を下ろした後、手を叩いて叫んだ。
 桜井はふと、自分の振る舞いが少し幼稚すぎたかと感じた。獲物の反応が自分の考えていた台本と全く異なったからだ。以前酒場で同じように声をかけた時は、向かいの女は隣に座って身体を押し付けてきたのだ。「あなたを見ただけで心臓がドキドキしちゃうの。当然よね……」なんとか言いながら。

 「スゴイ」とは何だ? 小学生の時、クリスマスパーティで仮面とナイトガウンを着て「我は光と闇より生まれし者! 世界を救うためにやってきた!」と叫んだ時、女の子たちが拍手喝采、「スゴーイスゴーイ」と言っていたのは覚えている。
 桜井は少女のリュックからその名前を知った。ハローキティのリュックにはハンドメイドであろう布製の猫人形があった。注意深く見れば、その目立たないところに刺繍された「ちび円」という文字が見える。
「桜井さんは一人なんです?」ちびマドカは聞いた。
「ああ、小樽に行くんだ」
「偶然! 私も小樽に行くんです!」
 まるで八十年代の国産テレビドラマのような会話だ。桜井明は気が詰まる思いをした。最近の彼は会話も程々、目線を合わせるだけで次から次へと女を殺していたから、こういった高校生を相手にどういう会話をすればいいのか分からなかった。舌が上手く回らない。偶然、私も小樽に行くんです! だなんて。バカな家出少女みたいに、一緒に遠くまで旅行しよ! だとか言ってくれれば助かるのだが。それとも晩年に小樽の雪が世界一美しいとぐだぐだ文字を並べて喚き始めた小説家みたいな変人なのか。あるいは既にどこかのクソオヤジにオモチャにされていて、一人で出かける時は取って食われないよう悪い男を避けているのか?
 桜井の反応はどれもひどいものだが、それらは全て日本のテレビドラマから連想されている。桜井明の人生に女性との会話はほとんどない。外の世界を知る方法はテレビドラマを見ることだけだった。一人きりの寝室で、長い夜の間、ぼんやりと画面を見つめていたのだ。
「大学生ですか? 私は高校三年生です。先輩って呼んでもいいですか?」マドカは言った。
「ああ」桜井は地につかない声を返した。
 彼は少し苛立たしさすら覚えた。子猫のヘアピンをつけたこの高校生はまるで現代人ではないかのようだ。東京であれば、同じくらいの歳の少女は援助交際でやりまくりだというのに!
「先輩の邪魔でしたかね……ごめんなさい。私の席に戻りますね」マドカは立ち上がり、ぎこちなくお辞儀をした。
「い、いや……君は関係ない、大丈夫だ」桜井はまたどうしようもない声を出した。
 狩りの間で問題に直面したのは初めてだった。獲物が彼の罠の前まで来ているのは明らかなのだが、何かおかしいと勘づかれたのか、逃げられそうになっている。
「どうして小樽に行くんだい?」桜井はその質問でマドカを引き留めようとした。
「ニャオニャンを埋めるんです」
「ニャオニャン?」
「ニャオニャンは私のネコです」マドカはリュックから精巧な陶器製の壺を取り出した。手工芸品らしく、外側にはマドカらしき女の子と小さな黒猫がマンガチックに描かれている。
 桜井は安心した。少なくともマドカが執行者ではないことを確信できた。女子高生執行者がいたとしても、あるいはどうやって変装しようとも、猫の遺灰を持ち歩きいて「北海道に猫を埋める」などという茶番など上げないだろう。
「ニャオニャンの話、聞かせてほしいな」桜井は言った。
「私とニャオニャンは、」マドカはしばらく真剣に考えた。「子供の頃から一緒で……私、昔、自閉症だったです。これは秘密。誰にも言わないで」
 桜井明は問題を理解した。マドカの言葉がたどたどしいのは、自閉症の後遺症なのだろう。自閉症の子供は一人の空間に閉じ込められているイメージを持ち、その認識によって他者との交流が難しく、精神年齢が幼いままにとどまってしまう。自閉症の子供たちはテレビを見て会話を学ぶため、二流ライターが書く脚本のような硬い話し方しかできない。向かいに座った少女は花盛りの十八歳ほどに見えるが、その実精神年齢は中学生程度なのかもしれない。
 そう考えると、二人は少し似ているかもしれない……桜井が列車に乗り込んだ時、窓の外を見つめているこの少女の姿に気が付いた。列車が走り始める前、マドカはホームを行き来する人々を黙って眺めていた。桜井はその時のマドカの気分を理解した。孤独な世界に住む人は、世界をじっと見つめ続けることで人の流れを認め、己を暖めるのだ。孤独な世界に住み、世界で最も寒い瞬間を理解している。花も恥じらうこの少女が雪のような感じを思わせるのもうなずける。どんな苛烈な太陽光の中でも、わずかな凛々しさを持っているのだ。
「物心ついたころから自閉症で、人と話すのが怖くて、パパやママともあんまり話さないんです。何かを見て誰かの話を聞くのが怖くて、小さく丸まって耳を塞がなければ怖くて。五歳になるまでしゃべれなかった……」
「ご両親は医者に行かせてくれなかったのかい?」桜井はやっとマドカとの会話ができるようになった。
「お医者さんでも無理です」マドカは首を横に振った。「しかも私の治療にお金を使い果たしてしまって、ママもパパもめちゃくちゃ、一日中ケンカして、『お前の遺伝だ』『アンタの遺伝だ』って言い合って……」
「やりすぎだね」桜井は言った。
 実際、彼はマドカの自閉症など関心が無かった。この少女が健康に成長している、問題はそれだけだった。桜井の関心は制服の下のなめらかな身体だけである。だが、桜井は獲物の信頼を得て、客車の後部分にあるトイレに誘惑する為、会話を続けなければならない……
「毎日ずっと喧嘩して、声がかすれるまで喧嘩して。もう普通に生きられなんかしない……私は怖いだけ。耳を塞いでもなんにもならない。声が大きすぎるから。怖いから、洗面所に走って、流しに水いっぱいにして頭をつっこむしかできなかった」マドカは鼻をつまんで窒息するジェスチャーをした。「そうすれば喧嘩の音がモゴモゴの曖昧な音になって、雷みたいになります。何も聞こえなくなるから怖くなくなる」
「小さい子供がいると、親はドタバタするものさ。ドタバタが終わっても、ベッドでまたドタバタするするんだけどね」この言葉が慰めかどうかは、桜井自身にとっても微妙だった。「ベッドでドタバタ」というのは、中年オヤジがテレビの中で言っていたことだ。
 彼は両親の喧嘩を聞いたことが無かった。五歳になるまでの両親は互いを尊敬しあい、家は笑い声で一杯だった。母はピアノを弾くのが上手く、父は料理が上手だった。母がピアノを弾く間、父は台所で包丁を振るい、桜井明は玩具の山の中を這いまわっていた。だがそんな恵まれた環境も、血統検査の日から奪われてしまった。桜井明に遺伝子を受け継いだ両親が、マドカの両親のように責め合ったかどうかはわからない。まだピアノを弾いたり料理を作ったりしているのだろうか。あるいはベッドの上でドタバタ? だとしたら、恐らく新しい健康な子供を生んでいるのだろう。桜井は突然、妙な焦燥が湧いてくるのを感じた。
「そんなある日、家が突然静かになりました。パパとママは離婚し、パパが私を引き取りました。それからママに会うことは二度とありませんでした……」マドカは視線を下げた。「私のパパは大工。工場で人向けの家具を作っていて、私はいつもおうちで一人でした。ある日、パパが突然友達を連れてくると言ったから、私は怖くてテーブルの下に隠れました。パパが他の人と、新しいママと結婚したんだと思いました。でもパパが背中から取り出したのはネコちゃんだった。あとでニャオニャンって名付けました。ニャオニャンが来たのは雪の日でした。寒さで震えながら、鳴き声を上げながら私に引っ付いて寝て、私のパジャマは毛だらけになりました」マドカの目の中は思い出で一杯だ。
 一方、桜井明の視線はマドカの服を穴だらけにしていた。首元を見つめ、胸のふくらみから獲物の成長度を推測している。よく見れば、同年代と比べてマドカの胸は少し大きいかもしれない。その膨らんだ胸部から細い腰までのライン、長い脚の隅々まで、桜井の目線は上下した。マドカの制服がだんだん透けていき、太陽光の下で身体が露わに開かれ、その肌に水滴が滑り降りて美しい曲線を描くのを、桜井は想像した。
「自閉症だから、パパもママも病院以外のどこにも連れてってくれませんでした。だから本物のネコを見たのは初めてでした。パジャマの袖に突っ込んできたのを覚えてます。暖かくてやわらかくて、小声で鳴いてました。山里の精霊かもしれないと思いました」マドカは言った。「ネコはニャーニャー鳴くだけ、毎回違う鳴き声を出しますけど、何言っているのかは分からなりません。でも私は頑張って話し方を覚えました」
「ネコと話せるって?」桜井は完全にバカげていると思った。
「はい!」マドカは激しくうなずいた。「ニャオニャンと話せるようになったんです。ずっと怒鳴ったり喧嘩したり、低い声しか出さなかったパパやママとは違いました。山の妖精のこと、ネコの妖精のこと、タヌキの妖精のこと、キツネの妖精のこと、教えてくれました」
 桜井は考えた。山の妖精は猫、狸、狐しかいないということは、狸の妖精は猫の妖精と狐の妖精から生まれたのか? ……彼はこの少女がどこか痴呆染みていると思った。彼の視線は少女の美しい身体の上に粘着して離れないが、彼女は気付きもしないのか自分の猫の事ばかり話し続けている。彼は横に小さな鏡の付いた黒いトラベルバッグを足元に置き、任意に動かした。鏡に映る制服スカートの下の光景を期待してのことだったが、何も見えなかった。それでも腿までを覆うストッキングを履いた足に手をかけたことで、彼は少し高まった。
「その後、ニャオニャンと私の秘密はパパに見つかりました。パパが仕事から戻ったある日、私はニャオニャンの足をつまんでニャーニャー鳴いていました。ニャオニャンはまだニャーニャー鳴いていたけど、日本語で名前を言えるようになっていました」マドカは言った。「そのニャオニャンという名前こそ、最初に覚えた日本語です。私も猫の妖精から話し方を教わりました。だから私が話している間にニャーニャー言ってしまったら、ごめんなさい」
 桜井はこれを中二病の一種だと思った。今時の子には誰だって「ダークフレイムマスター」とか「邪王真眼」にあこがれる中二病患者の時期がある。マドカが患っているのは数十年前流行った古風な中二病で、彼女は山奥で猫の精霊に育てられたお姫様という設定らしい。宮崎駿に毒されたタイプの患者だ。
「それで、その猫はどうして死んだんだい?」桜井は少しでもマドカとの会話を引き延ばそうと、かなり雑な質問をした。
「この世界では、愛し合う二人にはいつか別れが来ます」マドカは真剣に言った。
 桜井明は一瞬凍り付き、ナミの事を考えた……愛し合う二人? 自分の人生に愛し合う人などいただろうか? ナミを含めて十六人の女を狩ってきたが、そのどれも一夜限りの狂気の邂逅であって、互いの名前すら知らないまま殺した者もいた。となれば、彼の人生には決定的に欠けているものがある。多くの容姿の良い女性を囲ってはきたが、彼は愛情なるものを一度も受けたことが無かった。相手の名前すら知らない出会いを愛と呼べるだろうか? 理解もなく、欲望と衝動をぶつけたにすぎない。唯一の例外はナミだ。長年愛情を妄想してきた女教師。ナミは確かにいい先生だった。時には頑固な桜井を叱ることもあったが、叱った後はいつも教室に連れていって、夕日の光の中で優しく元気づけの言葉をかけながら、頭を撫でてくれる人だった。桜井が卒業して学校事務員になった後、最初に挨拶をしたのもナミだった。出勤初日にはお祝いとして、茶わん蒸しと梅ご飯のお弁当を作ってくれた。
 だが彼はナミを殺し、桜の木の下に埋めてしまった。

「猫は十五年ほどしか生きられませんが、猫の妖精はもっと長く生きられます。でも山を離れたら、普通の猫の寿命しかありません。ニャオニャンは私を救うために山から下りて来たんです。三歳の時に出会って、十八歳の時に死にました」マドカは悲しみを目に浮かべた。「寒い冬の日でした。朝起きたら、コタツの下で横たわって動かなくなっていました。寒すぎて出てこないのだと思って頭を撫でてみましたが、私の手の中に頭を入れてニャーと鳴くだけ。さよならと言っているのがわかりました。その日の午後、亡くなりました。開いた猫缶を目の前に置いても、匂いも嗅がず見向きもせず、ゆっくりと、ゆっくりと、冷たくなっていきました」マドカは両手を膝に当ててうつむいた。桜井から顔は見えなかったが、涙は見えた。一滴落ちて、スカートに染みた。
 わずかに震える彼女の肩は繊細で哀らしいが、桜井の心は自分の腕の中で震える全裸の獲物の姿を妄想することで一杯だった。興奮のあまり目から血が出て、喉から出る唸り声を抑えている。
「先輩、また泣いちゃった。ごめんなさい」マドカは急いで涙を拭き取り、明るい笑顔を作って顔を上げた。「ニャオニャンは山に戻って猫の精霊になっただけなんだから、泣く必要なんてないですよね?」
 桜井はその笑顔を好きになれなかった。バカみたいに明るすぎて、見ていて悲しくなる笑顔だった。彼が見たいのはもっと艶めかしい微笑み、身体をくねらせながら見せる顔だ。
「だからニャオニャンの遺骨を埋める為に、小樽に行きます。そうすればニャオニャンの壺を見るたびに泣かなくて済みます。ニャオニャンは、他人を無視してただただ泣くだけの私なんて望んでないと思います」マドカは言った。「人と話すことを教えてくれたんですから。以前の私と同じになってほしいとは思いませんよね?」
「じゃあ、これからも会いに行くのかい?」桜井は心を動かした。
「ハイ! 毎年!」マドカは激しくうなずいた。
 桜井はまた動揺した。その言葉で突然、自分がマドカの物語に聞き入っていたことに気付いたのだ。マドカの身体に対する強い衝動に駆られながらも、彼の眼前にはマドカとニャオニャンの情景が段々と浮かび上がってきていた。朝の光の中で、ニャオニャンは玄関でマドカの靴を咥えて鳴いている。夕日の中、屋上に座っているマドカの背の上でニャオニャンがニャーニャー鳴いている。人の静まった深夜、ニャオニャンはマドカの腹の上で丸まって眠り、夢に向かってニャーニャー鳴く……それは意味不明な文学映画のようなものだ。
 しかし、彼はなぜそんな無意味なことを? 自閉症を患い、今でも後遺症が残っているただの少女ではないか。彼女が語ったことは単なる妄想で、気にするべきはその制服の下の胴体だけだ。人生や過去で何を語れる? 娼婦と客が愛について語り、政治家が大衆に理想について語るようなものでしかない。

「ところで、マドカの身体はとてもキレイだね! 特に足が長い! もしかして学校では運動部かな?」桜井は話題を変えた。
「ハイ! リズム体操部で、バスケ部のチアリーダーです!」マドカは激しくうなずいた。
「ああ、チアリーディングは僕も好きだ。定期的な運動は体調を整えるし、肌の健康にも良いって言うよね!」そんな話題に愉快を覚えながら、桜井は少女の身体を舐め尽くす毒蛇のように、マドカの全身に目を光らせた。マドカとの会話がほとんど調和し、相手の警戒心が大概削がれたと感じた彼は、ついに手を下すことにした。こんな単純な獲物が大人の男や気を寄せる誰かに手を付けられていないというのは、不思議なこともあるものだ。
「なんだか車内が暑くないかい? マドカはストッキングを履いているみたいだけど、暑くないのかい?」桜井は言った。確かに空調からは絶え間なく熱風が噴出されていて、客車の空気はだんだん暑くなってきている。
「ハイ、本当に暑いですね。丁度いい温度だと思ったんですけど」、マドカは言った。「列車って大抵涼しいじゃないですか」
「マドカ、お手洗いに行って脱いで来たらどうだい? 暑すぎるのは身体によくないよ。荷物が心配なら、外に立って手伝ってあげるから」桜井明の狩りが始まろうとしていた。トイレは列車内で手を打つのに最適な場所だ。マドカの背を一押しした後自分も入り込んで扉を閉め、彼女の口を塞げば、あとは欲望のままだ。
「先輩を困らせませんか?」マドカは躊躇っているようだった。
「ちょっと手伝うだけだし、困るなんてことないさ」桜井の心の中の毒蛇がシューシューと声を立てた。

「お客様にお知らせいたします、お客様に緊急のお知らせをいたします。ただいま制御系統に問題が生じ、8号車の空調システムが制御不能となっております。客室内の温度が上昇し続けており、緊急修理が必要な状態です。8号車にご搭乗のお客様は、直ちにお手荷物をお確かめの上、VIPコンパートメント車へ移動をお願いします。お詫びといたしまして、移動されたお客様にはVIP客車におきまして無料のアフターヌーンティーを提供いたします」車掌の車内放送が聞こえた。
「暑くなっちゃってるマジ? マジ最悪だけどマジラッキーじゃね? VIP客車に行けばタダでお茶飲めるってマジじゃん?」高校生に見える少女が興奮しながら言った。
「行こうぜ。メッチャいい席取ってメッチャ景色見ようぜ、もうすぐメッチャ山の間の橋メッチャ通るらしいし!」彼氏がささやいた。
 その場の客はむしろ、VIP客車に行けることを嬉しく思っているかのようだった。なるほど、VIP客車の乗車賃は普通客車の三倍で、普通なら高校生の手が出るものではないのだ。乗客たちは三々五々に立ち上がって、自分の荷物を手に取り、VIP客車へと歩いていく。8号車は突然がらんどうになった。
 一方、桜井はじっと座っていた。普通の人間よりも遥かに敏感な聴覚が、屋根の上を歩く人の足音を聞き取ったのだ。登山列車とはいえ、それなりの速度で走っている鉄道である。こんな軽々しく屋根の上を歩ける人間はどういう奴だ? 殺意は四面八方に浸透している。この8号車に車内放送がかかる前に、殺意は既に退路を固く閉ざしていたのかもしれない。執行者が追ってきたのだ。混血種の匂いを嗅ぎつける能力はまるで最高級のゴールデン・レトリバーだが、その爪牙はヒョウの鋭さを持っている。空調が壊れているなど、客車を空にするための執行者の方便にすぎないだろう。通常、彼らの執行は人のいない場所で行われる。執行内容が処刑であれば、対象が存在しなかったかのように肉の一片残らず消し去ってしまう。そしてこの客車こそ、執行者が処刑場として選んだ場なのだ。桜井は客車から飛び降りて外に逃げることも不可能なことを理解した。線路沿いは無人地帯、執行者にとっては最高の狩猟場だ。
 彼に残された道は執行者との闘うのみ、敗者即ち死あるのみ! 客車内の空気は乾燥した熱気の渦になっていたが、彼の身体は少しずつ震え始め、寒気が骨を刺すかのようだ。
 彼はポケットに隠した圧力注射器を握りしめた。彼の持つ最後のモロトフカクテルは、深沈な紫色を湛えている。これを注入すれば彼は完全に進化し、新しい世界へと入る事ができる。その確信があっても、未だ勇気が無かった桜井は今まで最後の薬剤を注射せずにいた。今こそ進化しなければいけない。進化することが執行者と戦える唯一の道だ。だが、進化には時間がかかる。そんな時間があるだろうか? 桜井は全霊を以って鼻をひくつかせ、空気中の異常な匂いを全て捉えた。執行者の匂いとはどんなものだろうか? 血生臭さ? 錆びた鉄の匂い? それとも、暗黒の中で腐れ爛れた匂い?
 彼が嗅いだのは、淡々しい花の匂いだけだった。
「先輩? 先輩どうしたの?」
 怯えたハリネズミが全身の棘をそばだてるように、桜井の筋肉が猛然と収縮する。辺りに人はおらず、ただ桜井明とマドカだけが残っていた。日光が窓から差し込み、光柱の中で小さな埃が舞い翻る中、心配そうなマドカの目が桜井に向けられた。
「先輩、どこか具合でも悪いの?」マドカが尋ねた。
「VIP車に行かないのかい?」桜井明がかすれた声で尋ね、マドカの目を見た。その目に少しでも危険な匂いがすれば……その瞬間彼は反射的にマドカに飛びつき、首を引き裂くだろう!
「先輩が行かないから」マドカは細々と言った。
 桜井はその可愛らしく虚ろな瞳を認めると、身体の緊張を少し解いた。この晩熟な少女は本当に自分が好きなのだ……三分の時間が経っても、執行者はまだ現れない。桜井はその時、マドカが8号車を離れないからだと理解した。執行者は無関係な人間を傷つけることを恐れている。狩るには時間をかけすぎたこの獲物が、今では時間を遅らせるための舞台装置になっている。数分しか遅らせられなくとも、その数分が彼にとっての命綱! 彼が注射器の封を破ると、高圧空気で圧力注射器を押し込み、薬液は一滴残らず桜井明の血管へ捻り込まれた。
 桜井明の心に希望の火が灯った。進化さえしてしまえば、執行者を打ち倒すチャンスがあるかもしれない。その後この列車から降りれば、後は永劫自由の身だ!
「VIP車には人が多い。人が多いところはあまり行きたくないんだ……コワイ」桜井は静かに言った。
 モロトフカクテルが鎖を脱した狂龍のように血管の中を荒れ巡り、不可思議な化学反応と生物進化を桜井明の身体に齎す。煮えたぎるような熱が頭の頂から手足の先までを満たし、全身の骨格がゆっくりと再生し生長していくのを感じると、瞳孔の奥から燃え盛る金色の火光が映し出される。忘れかけていた全世界に君臨するあの無敵感、狂乱する自信が沸き上がり、執行者への恐怖は消えた。そう、執行者の奴らは彼を十七年投獄した。彼らの胸を引き裂き、心臓を抉り取る、復讐の時が来たのだ! 進化はあと数分もすれば終わる。終われば、最初にやることは一つ。マドカの首を摘まみ上げ、陽光の中で引き裂くのだ。少女の身体は純白の仔羊のように輝き果てるだろう。生贄としてこれほどふさわしいものもない!
「先輩、どうして人が多いとコワイの?」マドカが聞いた。
 クソが! なんで質問なんかするんだ!? お前は延々とクソ猫のことを喋り散らしていればいい、そうしている限り執行者の奴らは入って来ないんだ! 何も聞くな、何も問うな、どうせ死ぬ奴が何かを知って何になる! 桜井明の頬が引きつり始め、進化が身体に科す巨大な負荷が激烈な痛みとなって彼を押し潰す。もう一言も発する余力はない。だが答えなければ。執行者はどこかから桜井を監視している。目からあふれ出る光に気付かれ、進化の途中にあると知られたその瞬間、彼は終わってしまう。

「奴らは……俺を殺す」桜井は力を振り絞って小さく声を出した。
 彼が言ったのは無意識の内に漏れた声、執行者を恐れる心の底の声だった。奴らは決して覗けない影に潜む、殺しのプロだ。桜井がまだ執行者にとってもカワイイ子供だった頃、口の軽い執行者から暴走する標的を氷室に閉じ込めたという話を聞いたことがあった。数十トンの液体窒素で満たされる中、標的は氷点下二百度近い液体の中で必死にもがいていたが、やがて灰白色の人体彫像へと変わり、ゆっくり沈んでいったという。桜井は話を聞いた夜、その冷たさを想像した。氷点下二百度の液体窒素に沈んだ灰白色の人体彫像のように、ゆっくりと沈んでいき、心までも凍りついていく……。
 彼のここ数年の生活は恐怖の中にあった。心の中に一匹の鬼がいるかのようだった。鬼が目覚めれば肉体は完全に乗っ取られ、執行者には否応なく処刑にかかってくる。だから彼は、自分が正常であることを全力で表現してきた。調査票の質問にはそれぞれの正答をやってみせたが、夜中になれば身体が熱くなり、意味もなく走り回りたくなってしまう。ワンピースを着て腰を振るナミをしつこく追いかけたこともあった。深々と頭を下げて謝っている間に突発的に怒りが湧いてきて、自分を叱る体育教師を引き倒して壁に叩きつけようとしたこともあった……だが、誰にも言わなかった。真夜中に水量を最大にした冷水シャワーを浴び、夜中に体の中で燃え盛る熱を鎮めようとした。そしてシャワー室の隅で肩を丸めて静かに泣き、窓の外のカラスの鳴き声を聞いた。この暗黒の世界は悪魔の叫び声で満ちている、誰もが自分を殺したがっている……。

「先輩……も自閉症だったりします? 私の子供の病気の時と……似てる」マドカは立ち上がり、桜井に寄りかかって言った。
 バカめ、アホめ! 寄るな触れるな、こんな時に! 桜井は心の中で叫び、恐れるように顔を手で覆った。マドカが身を乗り出すと制服のネックラインが下がり、下着の白い肩ストラップが見えてしまう。モロトフカクテルの薬効に苦しむ桜井にとってそれは致命的な誘惑であり、毒だった。マドカの身体が発する少女的な匂いが媚薬の如く強烈に働く。仔羊のように完全な獲物が目の前にあっても、それを狩るべきは今ではない。
 マドカが桜井の額におずおずと手を伸ばす。桜井は必死に後ずさったが、椅子の背もたれで止まった。モロトフカクテルの薬効は暗黒の海波のような欲望で心を呑み込もうとする。こんな時に素肌を触れ合わせるのも致命的な誘惑だ。全身が焦がれるように熱く痛んでいる。彼はマドカの花びらのような唇をじっと見つめ、飢え死にしそうな男のように飛び掛かって噛みつきたいと思った。
 クソが! クソが! クソが! まだ進化は終わっていないんだ! 自分を制御できなければ何もかも終わりなんだ! クソが、黙れバカ女! お前が話すこと全部誘惑なんだよ! お前の質問に答えるつもりなんかないんだ! ……桜井明は心の奥底で弱弱しく叫んだ。テーブルの下に隠された彼の手は変異し始めている。鋭い骨棘が手の甲の皮膚から突き出て、指先から鋭利な刀のような爪が伸び始め、小さな鱗片が皮膚に食い込み始める……こんな手で裸の女を抱きしめたところで、背骨を折ることくらいしかできないが、テーブルの下で伸び続ける爪を桜井がどうこうできるわけでもない。それを振るってマドカの制服とストッキングを破り、怯えと叫びを愉しむくらいだ。
「こわくなーい、こわくなーい。人がいっぱいの所にはいきません。先輩と一緒にいますよぅ。にゃぁにゃぁ、にゃぁにゃぁ」マドカは桜井明の額に沸いた冷や汗を手で拭いた。
「にゃぁにゃぁ、にゃぁにゃぁ」マドカはささやいた。ニャオニャンとか呼ばれている猫が取り付いたかのように、唇の間からこぼれるような声を上げる。
 刀のような爪から力が抜ける。マドカの膝小僧が僅か一センチのところまで近づいて、桜井の目は混乱にたじろいでいる。
「にゃぁにゃぁ……にゃぁにゃぁ……」マドカは続けた。
 彼女のにゃぁにゃぁの鳴き声は一つ一つ微妙に違っていた。違う音律に違うリズム、違う強弱を持っていて、まさに山の精霊の言葉のようだとも思える。桜井はナミの言っていたタシロ島にあるネコ神社なるものを思い出した。深い山の奥にある神社にはどこからともなくネコがやってきて、蛍の光の中で互いを嗅ぎ合いながらニャーニャー鳴いているという。毎年暇を持て余した多数の観光客が船に乗ってネコ神社を訪れるが、誰もネコの言葉を理解できやしない。ある僧侶が言うにはここのネコはみんな神の化身であり、訪問者一人一人の悲しみと喜びについて話し合い、救いが必要な人や親切な人には九回の転生のうちの一回を使って報いるのだという。

「助けてくれるのか?」桜井明はしわがれた声で笑った。泣き虫の笑い方だった。
 暗黒の欲望に溺れる野獣、日本の全ての仏教寺院で青銅の鐘が鳴ったとしても人間性を取り戻すことなどできないような者だったのに、少女のニャーニャーという鳴き声で頭蓋を叩き割られ、そこから光が注がれ、脳から身体全体へと溶け込み、暗黒の暴力的欲望は浄化され、心は空虚に満たされる。獲物のバカバカしさを嘲笑してやるつもりだったのに、自閉症患者なのは結局自分なのかもしれない……だが、自分はそんなに弱いのか? 夜のとばりの落ちた街を走り回り、妖魔の眼光を放つだけで厚化粧した女どもを懇ろにしてみせたし、この異様に鋭く進化した爪で雪のように白い胴体をひとつひとつ引き裂いてやったではないか。自分こそ征服者、すなわち暴君ではないか!
「にゃぁにゃぁ……」マドカはまだ続けている。
 彼女に知性があれば、おそらく桜井の笑いの中に皮肉なども感じただろうが、彼女が理解したのは桜井が笑ったということだけ。気持ちが逸ったらしくニコニコと笑いながら、子猫のヘアピンに付いた尻尾をフワフワ振っている。
 ニャーニャーうるせぇ! このバカ女! ネコで自閉症を直したからって、もう世界にお前を傷つけるものは無いとでも思ってるのか! 顔が良くてキレイな長い脚を持ったところで、知恵遅れなら何の意味がある? 将来誰かと結婚したところでお前は騙され続けて、新宿のナイトクラブやバーのもっとエロい女に金を使われるだけだろう……ヤクザにも警戒できず、今日のように他人に同情してニャーニャー鳴くこともあるかもしれない……緒方円、お前みたいなバカ女はいずれ死ぬだろうな! 低能で知恵遅れのガキ、唯一守ってくれるニャオニャンなるネコは死んでる! 桜井明は心の中で大笑いし、両手を振り上げて踊りたいとすら思った……だが、同時に泣きたくもあった。
 桜井は取って付けた笑みを浮かべ、窓ガラスに寄りかかった。顔半分に日光が当たり、肌を白か透明かに映す。長い前髪が風に揺られ、窓の外の山々が流れていく。
「マドカ、君は実にカワイイね。気分も良くなったよ」桜井明はマドカの綺麗な目を見つめて言った。「君が好きだ。君と一緒に小樽まで行きたい」
 マドカの顔が酒に酔ったかのように熱くなり、反射的に身を起こして深くお辞儀をした。「ありがとうございます、桜井明先輩!」
「私も北海道に親友を葬りに行くんだ。君と同じようにね。もしよかったら、ニャオニャンと一緒に埋葬してくれないかい?」桜井は言った。「ニャオニャンにはこれからも会いに行くんだろう?」
「ハイ、毎年! ニャオニャンのオトモダチになれるといいな!」
「彼もきっとニャオニャンが好きさ。信じよう」桜井は自分のトラベルバッグをマドカに手渡した。「私はちょっとお手洗いに寄るから、VIP車には後から行くよ。私の荷物を持っていてくれないかい?」
「私がですか?」マドカは桜井のトラベルバッグを胸に抱きしめた。
「もちろん、私はマドカを信じているよ。さぁVIP車に行こう。急ぎすぎても遅れすぎてもいけないよ」
 そう、急ぎすぎても遅れすぎてもいけない。執行者に何かおかしいと感じさせることになってしまう。マドカが逃げおおせたと分かった瞬間、執行者はすぐに姿を現して攻撃してくるだろう。その時には地獄のような血の光景が生まれるかもしれない。だから遅すぎてはいけない。人の心を保つためには……。
「先輩、VIP車でお手洗いに行きましょうよ? 一緒に行きましょう」マドカは言った。
「いや、いいんだ。君にしてもらいたいことがある。抹茶アイスを確保しておいてほしいんだ」桜井は微笑んだ。
「わかりました! 出発、目標抹茶アイス!」マドカも笑った。
 彼女はハローキティのリュックと桜井のトラベルバッグを抱え、客車の端まで飛ぶように走っていった。桜井は日光の一筋一筋の中で彼女が映え、埃が後を追うように舞うのを見た。扉が閉まり、視界から少女の背中が消えると、桜井はテーブルの下から刀のように鋭く、しかし醜い爪を露わにし、彼を憐れんだ唯一の女性に別れを告げた。
 俺は恐怖している……だから暖かく強く抱きしめてやりたかった……でもどうやって? 今の俺にはできない。この双腕は、もはや他人を受け入れることなどできないのだ。

 桜井が生まれて初めて嗅いだ執行者の匂いは、予想に反し淡々しく、まるで清酒のような匂いだった。
 客車の扉が開き、黒いロングトレンチコートを来た若者が入ってきた。あたかもこの車両の利用客であるかのように、自然に前列の席へ座る。陽の光が男の半身を照らす。その手には金色のバッジが付けられたIDケースが握られている。巨大な蛇が世界樹に絡みついてるバッジ。男の指には龍胆紋が施された銀の指輪がはめられ、暗赤色の鞘の長刀を携えている。男は刀を座席の横に立てかけ、指輪をしている方の手で刀の柄を握っていた。刀がゆっくり抜かれ、また鞘に戻される。刀には「蜘蛛山中凶払夜伏」と刻まれている。人と異形のどちらの鮮血も味わった、実に優雅で美しい曲線を持つ古刀だ。
 男の刀を抜く音が重苦しい呼吸音を断ち切る。今車両の後部にいる桜井明は、もはや人間とはいえない姿をしている。青い鱗が手の甲から腕までを覆い、その体とは不釣り合いな巨大な爪が床まで垂れ下がっている。ほんの少し前まで端正だったその顔には、蛇のように脈打つ青白い血管が浮き上がり、赤金色の瞳には闘志がみなぎっている。
「一人でこんな遠くまで旅行とは、大したものだ」男がつぶやく。
「お前は誰だ?」桜井の声はひどく濁り、かすれている。
「私はカッセル学院日本支部執行部部長、源稚生。初めまして、そしてさようなら、桜井明。この場で極刑を執行します。言い訳は要りません。聞いてくれる人もいませんから」
「言い訳などしない。俺が何か言ったところで聞いてくれる奴なんていない、そんなことぐらい分かってる。お前らが俺を緑と言えば緑になるし、赤と言えば赤になるんだ」
「同情も要らないでしょう。何の役にも立ちませんからね」源稚生は言った。「あなたはプレゼントを貰うべきではなかった。その薬の名前、モロトフカクテルの意味がわかりますか? 瓶で作られた焼夷弾のことです。フィンランド人はこれをソビエト戦車に投げて怒りを発散していたそうです。同じようにこの薬は、あなたの憎悪を発散させる。燃料はあなたの命です。この世界に完全で安全な進化などありません。人間はどうあがいても人間です。龍に生まれ変わることなどできない」
「でも、遥かに良い」桜井明はその強張った恐ろしい顔を上げ、満足そうに歪んだ笑い声をあげた。「少なくとも、この十五日間は自由だった。自信と幸福感で遥かに良かった」
「女を嬲り殺すのが幸福ですか。その幸福に一生分の価値があるとでも?」
「お前たちには決して理解できない。俺は何の代償も払っていない。俺の人生には……何の価値もないからな」
「最後の質問です。なぜあの高校生を手放したのですか? 貴様が途中で獲物を諦めたことなど今までなかった」
「見た目が最悪だからな」桜井はあっけらかんと笑った。「ゲロマズだ。口に合わねぇ!」
 桜井が緒方円を手放したことに執行部は驚いたが、獲物は手の内に収まったままだった。狩られないにしても人質に取れたはずだが、桜井はそのまま解放したのだ。岩流研究所の分析によれば桜井明の進化は最終段階に達し、桜井明という人間的な意志能力は薄弱になっている。暴力的な野獣へと変化し、動物のような嗅覚を持ち、殺人と血と女への欲望を烈火のごとく燃やしているはずだ。野獣は自発的に獲物を手放したりなどしない。強烈な欲望のまま、巧みに自らの罠へと誘いこもうとするだけだ。
 何が野獣に獲物を諦めさせたのか? それを問い詰める時間は源稚生にはなかった。慣性走行に移った列車が少しずつ減速し、峡谷を渡る大橋の中間で止まった。執行部が選んだ、桜井明の処刑地だ。

 峡谷に渡された全長1,200メートルの鉄道橋の下には、剣で割られたような谷の裂け目が広がり、幾つもの滝が流れている。その上方には山桜が立ち並び、この観光列車の道中で最も有名な景色を映している。逃げ道の無い、完璧な処刑地だ。カラスと夜叉が鉄道橋の両端を守っているし、橋下は100メートル以上の深さの谷。A級混血種が飛び降りても確実に死ぬ高さだ。仮に崖を飛び移ろうとしてもカラスがいる。刀剣を崇拝する本家の中でもカラスはイレギュラーな存在で、銃を使う狙撃手だ。桜井が列車から飛び降りた瞬間、その脳天はカラスの銃弾によって吹き飛ばされるだろう。
 源稚生に残された時間は多くなかった。十三分経てば列車が大橋を渡りきってしまう。稚生は指にはまった銀の指輪をじっと見つめ、刀の柄をゆっくりと握った。暴走するA級混血種を侮ってはいけない。表面的にはリラックスしているように見せつつ、銀の指輪の反射で桜井明の所作を完全に捉える。動かなければ何も起こらない、しかしいったん動けば雷の如く、一瞬で互いの生死が決まることは、桜井明の血統からもわかる。

「女を殺した。後悔はしていない」桜井明の声がはっきりと聞こえる。狂気のようなものは感じられない。「苦しんでいるのはあいつらの勝手であって、俺じゃない。俺はむしろ満足している。薬を打つのは俺の意志だ。一本ずつ注射して、お前らが刃を向けたって、俺は薬を使う。それが無ければ何もできないからな。この世界には何もない。俺は隅っこに、いつ落ちるかもわからない崖っぷちに追いやられ続けてきた。俺は十五日間逃げ続け、女を犯して殺した。俺の人生はその十五日だけだ、俺はたった十五日しか生きちゃいないんだ!」
「あなたの所為で多くの人たちが犠牲になっています。人はみな自分の為に生きる権利があります、それを奪う権利など誰にもない」源稚生は言った。
 桜井が稚生にそんなことを無邪気に言うのも当然だ。堕落者はみなそのようなことを口にする。堕落者は人間の道徳や法律を無視し、欲望と暴力だけを追い求める。不合理な言い分かもしれないが、実際に従っているのは血の論理、すなわち、龍族の論理なのだ。
「お前みたいな人間には理解できないだろう。一生の間に光を見たことが無い蛾は、火を見るとすぐに向かっていく。他人を焼いたってかまわない、自分が焼かれるのも惜しくない、全世界を燃やしても何でもない! 只々その光だけが欲しい……」桜井明は手を伸ばして空を掴む。まるで何か生きている影がその先に立っていて、抱き締めようとするかのように。「これは蛾の、光に対する、飢えだ……!」

 源稚生は理解した。今の桜井明は盲目だ。モロトフカクテルの強い副作用が視力に影響を及ぼしているのだ。最終進化によって眼球が破壊され、目があったところは虚ろな空洞になってしまった。
「暗闇の中の蛾に少しでも光を見せてくれれば、自分を暖めるために全世界を燃やすことだってしなかった。そうだろう? 源稚生執行官」桜井は言った。
 落ち桜が降雪のように窓の外から漂う。日光の中の花弁は色あせた唇のように薄い。稚生は一瞬気を取られつつ、桜井明の言葉に何か違う雰囲気を感じ取った。蛾と光のあの比喩は桜井明にしては深すぎる。彼の言語能力は非常に乏しいはずだ。国産ドラマを見てようやく喋れるようになった人間が、どういう吹き回しだろうか? だが、その比喩が俳句や詩のように、凍てつくような孤独を映しているのは間違いない。源稚生はその言葉の奥に誰かの影を感じ取った。桜井は、誰かの言葉を繰り返しているにすぎない……?
 再び銀の指輪に目をやった時、もう桜井の姿はそこにはなかった! 逃げ道の無い処刑場で、死刑囚が煙のように消えた!

 源稚生は思考を捨てて立ち上がり、抜刀して円を描くように振り下ろす! 鞘から抜かれた瞬間、古刀は鞘の中で雷鳴が爆発していたかのように奇妙な青白い光を放った。まるで源稚生が刀ではなく一筋の空虚な冷気を抜いたかのように!
 同時に金色の太陽が彼を包み込むかのように、金剛力士が降臨するかのように光輝く炎の輪が稚生を囲う。古刀の切っ先が描いた弧が日輪のように舞う!
 刀の上を一筋の火花が流れた。桜井の爪が古刀の刃に切りかかったのだ。桜井は客車の屋根から飛び掛かり、稚生の頭部に巨大な爪を突き立てようとした。明らかに稚生の首を狙って頭を吹き飛ばすつもりだった。ほんのわずかなスキをついて、龍化した桜井は客車の屋根裏、稚生の真上に登っていたのだ。稚生の完璧な刀はそのまま、空気も乱さず桜井を真っ二つにすることができたはずだが、桜井は鱗状に硬化した爪を使って古刀を掴み取った。桜井は刀を支点として空中で身を捻り、もう一方の巨大な爪で稚生の喉を狙う。野獣のような攻防。全てが敵を殺すための動きだ。
 稚生はコートを開き、腰から短刀を抜いた。再び金色の日輪光が彼の周りを満たし、短刀は桜井の爪に突き立てられた。稚生は身を翻して桜井の胸に強烈な膝蹴りを食らわし、その反動で飛び退りながら短刀を引き抜いた。
 桜井は座席の列に叩き込まれながら角に転がったが、稚生が刀を構え直す前に荒々しく立ち直り、その爪が分厚い椅子の背もたれを貫きながらまっすぐに稚生の心臓へ向かう。稚生の双刀が十字に交差し、その爪を防ぎつつ後退する。しかし桜井の牙突は勢いを緩めず破壊を続け、稚生の動きを封じた。異形の爪は金属程度なら容易く切り裂いてしまうほどに鋭い。桜井明にはその必殺の刃が十本備わっているが、源稚生には二本の刀しかない。爪が繰り出される度に、切り裂かれる風が嵐のようにこだまする。
 鋭い爪が客車の鉄壁に突き刺さり、剣戟の終わりを告げたが、桜井が人体を刺す快感を得ることはなかった。客車の一端からもう一端まで古刀と爪の斬撃が数十回ほど交わされ、源稚生は袋小路に追い詰められていたはずだった。だが桜井が狂喜のままに致命的な刃を振り下ろしたとき、源稚生はそこから消えていた。源稚生が消える瞬間に桜井が見たのは、朝日のように強烈な光だった。
「つまりお前が……天照命か!」桜井は呻いた。「誰かが言っていたな。執行者の中に天照命がいるってな!」
 源稚生は右手に長刀、左手に短刀を持ち、客車の逆端からゆっくりと歩いてきた。黒いロングトレンチコートが開かれると、裏地に描かれている壮大な浮世絵が露わになる。巨人の屍が地に横たわり、その骸の左目からは清流が生まれて泉となっている。金色長髪で全裸の女神がそこから生まれ、その手には太陽が抱えられている。窓の外の落陽が稚生のトレンチコートを照らし、そこで新たに本物の朝日が昇らんとしているかのように耀かせる。執行人はそれぞれ異なる浮世絵を外套の裏地に刺繍しているが、源稚生は何時でも寒さを拒むかのようにトレンチコートをしっかりと閉じていた。あたかも保守的な学者のように。
 だが、ひとたび彼がその絢爛な佇まいを露わにすれば、千年世界に光が満ちる。

「天照命! お前が天照命か!」
「私の名は源稚生だと言ったでしょう。源家の人間は私一人ですから、源家当主でもあります」源稚生は淡々と語る。「それを天照命というなら、そうなのでしょう。諦めなさい。あなたに勝ち目はありません」
「天照命が何なんだ?」桜井は呟いた。
 稚生は眉をひそめた。
「天照命は人々に光を見せるというが、俺たちみたいな暗闇に住む蛾は……」桜井明は狂ったように笑った。「ただその光に焼かれるだけなんだよ!」彼の巨大な爪が振り回され、致命的な冷たい風が吹き荒れる。背水の獣の死力だ。桜井明は全てを忘れ、果てしない暴力の喜びに浸っているのだ。
 


 カラスはレールの上にしゃがんで煙草をふかし、遠くへ延びる山々を眺めながら、ロングバレルのハンドガンを手に抱えていた。夜叉はパンツを下げて深い谷間に向かって野小便をし、自分の体液が深い谷に落ちていくのを見て面白がっている。そのすぐ横で客車が激しく振動し、中からは激しい剣戟の音が聞こえている。鋭利な武器が客車の内側に傷をつけたらしい。旧式の客車だが使用されている鋼の質は良く、電気ドリルを使っても穴をあけるのは難しい。客車の両側の扉が施錠されていてよかったとカラスは思った。桜井が出てきたら夜叉と一緒になっても止められないかもしれない。止められるにしても、走って追いかけるのは疲れる。
「ご当地ガイド読んだか? 特産品は冷泉酒造の米酒と温泉だってよ。真冬になったらサルが入りに来るんだと」カラスは言った。
「桜井明がどうなるかしらんねどよぉ、若君に言ったら二、三日はここらで休めるんじゃねぇか? 俺たちゃ東京由来のナイスガイだ、田舎の姉ちゃんなんて即ホレボレよ!」夜叉は歯をむき出しにして言った。
「北海道では混浴温泉があるらしいな」
「聞いたことあるぜ。でも混浴に来るのなんて胸ダルンダルンのバアちゃんだけらしいぞ。あ、それともカラスってババ専?」
 客車が激しく揺れ、天窓が吹き飛び、車体が風船のように一瞬膨張する。ガラスの破片が飛び散り、捻じれて変形した窓から灼熱の空気が流れ出る。
「んなわけねぇだろ、小麦肌の元気っ娘が最高だろ。お前だってさ、好きって言えるバアさんなんてお祖母ちゃんくらいだろ」カラスは両手で頭を抱え、ガラスの破片から身を守った。
「何だよお前。祖母ちゃんはずっと前に死んだって言っただろ? 俺が五歳の時にさぁ、居酒屋の女に誑かされた親父のせいでさぁ、祖母ちゃんがバイクで居酒屋に突っ込んでさぁ、大量の爆弾ぶん投げてさぁ。警察が凶悪殺人事件だっつってさぁ、死刑になってさぁ。一緒に入れる風呂なんざ地獄の硫黄泉しかねぇよ」
「そんなヤベー祖母ちゃんだとは知らんかった、むしろ尊敬するわ。欲情なんてできんわ」
「親父もお袋もいねぇってのは気楽だぜ。クラスの一番可愛い女の子にチョッカイ出しても、他の誰かをぶん殴っても、そいつらの親は誰にも文句言えねぇんだもん。だからフィクションの剣士とか勇者とかって大体親がいねぇんだよ。俺は勇者だからさ」夜叉は煙草をくわえた。「たまに寂しいって思っても、それだけ勇者らしくなってくってことだよな?」
「変な本でも読んだか? 哲学染みたこと言ってるぞ」カラスは肩を竦めた。「お前の祖母ちゃんが死んだって話してんだぞ。じゃあお前の親父は何で死んだんだ?」
「え? あ、言い忘れてたか。爆弾ぶん投げられたねーちゃん、その時親父の膝に座って歌ってたんだよ」

 二人の会話の内容はあまりにもカロリーが低い。要するにただ時間つぶしをして、源稚生を待っているだけなのだ。稚生の執行者としてのやりかたはいつもこうだ。獲物を罠に誘い込み、一人で突入し、退路となる扉を封鎖する。カラスと夜叉は死体袋を持って外で待っているだけ。あと数分もすれば稚生が出てきて、涼しい顔をしながら血染めの刀をカラスに投げてよこすはずだ。カラスも夜叉もそういった段取りに慣れてしまい、稚生が出てくるまでの間に自慢話や女の話をするのも当然のことになっていた。トイレに行った友人を待っている仲間たちのようなものだ。追って入ったところでどうしようもないし、遅かれ早かれいずれ出てくる。今回の戦いは少し長引いていたが、だからといって扉を開けて桜井明の様子を見ようとはしない。長い間この若当主、執行局局長に追随してきて、彼の強さがどれだけのものかは知りたくないほど知っている。伝説の天照命、なんたる恐るべき血統か。

「六分経った。若君はまだか?」客車の影から声が聞こえた。
「桜、着替えたのか? 終わってるならちょっとそっち行ってもいい?」カラスがスケベに笑った。
「こっち来る? 来ても何も見えないけど」影の中の人が言った。
 制服と白い靴下が影から投げ捨てられ、黒色の装束に身を包んだマドカが現れた。だが、彼女はもはや「緒方円」ではない。オーラも見た目も、すっかり変わっている。十分前には十八歳の女子高生だった彼女は、今や長髪のポニーテールを垂らした成人女性となり、甘く美味しそうな獲物ではなく、冷気を醸しだす刃となった。マドカが化粧の仕方やセクシーな服の着こなし方を覚えれば魅力的になれるというのは桜井の見立てだったが、その若々しい透明感のある肌こそ化粧の効果だということには、ついぞ気が付かなかった。「緒方円」の素肌は、血の気が透けて見える雪のような純白とは程遠い。

 執行者、矢吹桜。彼女の任務は、ターゲットの意識をコントロールして周囲の乗客に危害が加わらないようにすること。桜井明がマドカとニャオニャンの物語に入れ込み、生まれて初めて同情的な温かさを感じていた時、緒方円は何十通りもの攻撃手段を秘めていたのだ。もし桜井明が「緒方円」の制服を引き裂いていれば、そこに見えたのは少女の死体ではなく、無数の刃先だっただろう。
「桜のガード硬すぎだっつぅの。このままじゃファンタジーがなくなっちまう」夜叉は桜の姿を上下に見た。
 「緒方円」は寒がりだから黒いストッキングを履いていたというのは桜井明の誤解だ。桜が制服と靴下を脱ぎ、今ここで明らかにした真実はこうだ。黒いストッキングだと思われたのは、極細金属繊維で織られた黒色のワンピースアーマーなのである。第二の皮膚のように体をぴったりと覆い、急所に当てられた保護鋼板のほか、多種多様なブレードが仕込まれている。桜は常にこのアーマーに身を包み、わずかに露出した肌の色も完全に同じ黒色。桜が服を脱いだところで、カラスや夜叉が褒められるのは露わになった肌ではなく、輪郭の曲線美だけなのだ。

「イメージしたまえ、友よ」カラスは目を閉じ、両手の人差し指をこめかみに当てた。「イメージイメージイメージ……ハッ! そうかッ! 桜はアフリカ出身の女ニンジャ! 肌は黒くてツルツル、全身にホワイトクリームが塗られている!」
「イメージのパワー、マジでストロング&グレイト! あの頭おかしい太郎が桜をほっぽった理由、いまなら何となくわかるぜ!」夜叉は目を閉じてスケベに笑った。
 桜は何も言わず、レールの上に座って制服と靴下を拾い、手製の陶壺や子猫の髪留めと一緒にまとめて「十三」と書かれたポリ袋に詰め込んだ。桜井はこの骨壺を見て桜への疑念を払拭していたが、忍者・桜として使い分ける多数のアイデンティティのほんの一つだとは思いもしなかった。髪型や化粧を変えれば、老若十年くらいの年齢なら簡単に作ってしまえるのだ。もちろんこの世界にニャオニャンという猫などおらず、桜が用意した台本の登場人物でしかない。普通の人間の変装は大抵どこか弱みがあるものだが、忍者は自分の中に想像の他人を長い時間をかけて形作り、絶えず子細を作り上げて魅力的な人格にする。「緒方円」は、こうして生まれた人格のひとつだ。
 桜井明は初めから執行者を過小評価していたにすぎない。何百年も前から日本の裏側に存在し続ける暴力機関の前では、力なき赤子でしかなかった。執行者は歴史の裏で桜井明などよりもはるかに狡猾で凶悪な目標を始末してきたし、その中で醸成された数多の手段は、桜井明のような凡庸な知性には一生かかっても理解できないだろう。

 客車の振動が止まり、扉が開いた。沈重な煙とともに源稚生が現れる。
 夜叉とカラスは驚いた。今まで仕事を終えた源稚生はいつも多少疲れた表情をしていても、身に傷一つ付いていたことはなかった。しかし今日の彼のロングトレンチコートには多数の裂痕が入り、沈黙の中での倦怠感は以前の何倍も重い。
「若君、ご無事で!?」桜は尋ねた。
 源稚生は首を横に振った。古刀の柄を白いハンカチで包み、カラスに手渡した。「獲物の血液サンプルとして少し採取したら、あとは全て拭いておいてください。刀身も焼いておくように」
 カラスは古刀を恐る恐る受け取った。刀にこびりついた血はほとんど黒色に近く、何か化学反応が起こっているかのようにボコボコと泡立っている。
「夜叉、死体の処理を」稚生は煙草を一本手に取って手すりにもたれ、空を見上げた。
 カラスはその場でしゃがみ込み、古刀の洗浄を始めた。このクラスの武器は番号付きの錬金武器であり、混血種に対しては弾丸よりも効果的なことが多いが、使う度に清掃・点検する必要がある。黒い血を拭きとった後、桜井明の遺伝子が金属紋の中に残らないようにバーナーで刀身を焼いていく。最後に指で刀身を弾くと、研ぎ澄まされた刀は鏡のように滑らかに輝いた。カラスは満足して口笛を吹き、刀を鞘に仕舞った。
「解脱したかのような死に顔か」源稚生はしばらくして口を開いた。「人生をやりきったと感じたのか。結局、個人主義だったわけだが」
「彼は人間らしく生きたかったとでも? 薬剤を打ったのは、龍に進化する為だったのでしょう?」稚生の独り言に堪えかねて、桜はきっぱりと言った。
「誰だって自分の過去は簡単には捨てられません。そうでしょう?」
「彼はただの子供だ」
「まあ、ただの子供ですね」
「彼は君のことが好きだったらしい。確かに人生最後の瞬間に突然見知らぬ理解者、それも無垢な少女に出会ってしまえば、心理学的に言っても特別な愛情を持つに至るのは簡単だ。本物の一目惚れと言える。清純な君の人生と引き換えに、自身の腐った人生を投げ打とうとした」源稚生は言った。「私が言える解釈はこれくらいです。でなければ何故彼が君を解放したのかが分からない。殺人衝動が消えたわけでもない。獲物を狩り惜しみするような奴でないのは、これまでの全ての獲物が死んでいることからもわかる」

「それとこれは別かもしれません」桜は分厚い帳本を渡した。「私に預けられたトラベルバッグの中にありました。親友を小樽に埋葬しに行くとか言っていましたが、彼の持ち物はこれだけです。書いてあるのは小説……自伝小説です」
 稚生が帳本を開くと、隅々までぎっちり詰め込まれた青いペンの文字と挿絵らしきマンガ絵が描かれていた。冒険少年が人の背ほどある大剣を持ち、太腿に魔法めいた短槍をくくりつけ、その背後には巨大な暗黒神が立っている。日本刀を携えたポニーテールの少女がその足元にいる。冒険物語……光と闇の息子である桜井明の冒険物語だ。剣はアズールジャッジメントと名付けられ、魔法めいた短槍はドゥームスデイと書かれている。セレスティアルルートへ続くスカイルートの門を開くために、スカイルートを封印した武神フェイミンを倒そうとしているらしい。長旅の途中で透き通った翅のエルフ使者レイラ・G・ナミに出会うが、この刀を振り回すポニーテール少女との運命に縛られて……
「これがラノベとかいうものか。この主役は奴自身か?」源稚生はそれ以上読む気がしなかった。
「十年以上同じものを描いているようです。ほんの少し前までずっと。中学二年生が二十三歳になるまで続いていたんですね」桜は言った。
「十五日間であれだけの都市を回って女性を狩っておいて、手持ちはただこんな落書きだけとは。捨てたくないのか、過去の自分を埋めるためにどこか遠くへ行きたかったのか」稚生は帳本に火をつけて鉄道橋から投げ捨て、それが落ちて燃える火の花になるのを見届けた。「まあ、どうでもいいことです。私たちはただの執行者、仕事をすればいい。獲物を理解する必要などありません。獣でない私たちには、獣の考えなど理解できないでしょうし」
 ふと彼は立ち止まり、呟いた。「暗闇の中で生まれた蛾だけが、暗闇の恐怖を知っている……太陽の下を飛ぶ胡蝶は、永遠に理解しない」……

「クソが! 死んでんのは確かだが、中はまるごと爆撃されたみてぇだな!」夜叉が黒い死体袋を引っ張り出した。
「若君、小樽に行ったことあります? この線路の終点です。それがとてもいいところらしいんですよ。山中には鎌倉時代の仏教寺院があって、米酒や温泉がすごい。肌の透き通った可愛い美女と一緒に温泉に混浴できるそうですよ?」カラスは小樽の素晴らしさをアピールした。稚生を煽って、少しばかりバカンスでもしたいと思っているのだ。
「でもお前さっき、混浴に来るのは胸ダルンダルンのバアさんだけだって……」
「バカかお前?」カラスは即座に否定し、自分の胸に手を当てた。「ここに背の高い美女がいるじゃねぇか、なぁ!」
「今の二人の話題は夜叉のお母様ということにしておきます」稚生が言った。「ところで、今までどこかに旅行したことは?」
「俺は中学校を中退したんで、旅行なんてとても。でもいいんですよ。旅行の真の価値は道中で可愛い女子と親睦を深めることですからね。運が良ければそのまま……」カラスは言った。「まあ、そんな感じに同級生に手を出したからドロップアウトしたんですけどね」
「まったく。悪人なのは獲物なのか私達なのか、どちらなのやら」稚生は呆れて言った。「でしたら、数日休暇を取って小樽にでも行きましょうか。桜、線路は好きか?」
「線路?」
「私は線路が好きなんだ。線路に沿って歩けば、必ずどこかの街や人の済む場所に行く事ができるから。目的地があるかもわからない空の鳥とは違う」稚生は言った。
「処理終わりましたぜ!」夜叉が死体袋に封をした。「書類は全部まとめてポケットに入れましたぜ。客車には二十ガロンの灯油をぶちまけやした。これで火を付ければ鉄の傷までまとめて丸焦げ、証拠はなんも残りゃしません」
「北海道支部に連絡。死体は岩流研究所の解剖に回すように。次の列車がここに着くまであと三分です。急いでください」稚生は言った。
「了解!」夜叉とカラスが客車の屋根に飛び乗った。

 猛烈な風が空から吹き付ける。山の向こう側で巨大な工業用ヘリコプターが顔を出し、鉄道橋の上までホバリング飛行した後、固定鈎の付いた二本のスチールケーブルを垂らした。二人がそれぞれの鈎を客車に取り付けた後、夜叉は煙草に火をつけて一服し、その吸殻を客車の天窓の中に投げ込んだ。猛烈な炎が爆発する瞬間、夜叉とカラスは飛んだ。風圧が急に激しくなったかと思うと、工業用ヘリが客車を釣り上げて鉄橋から引きずり下ろし、鈎を外して谷間に落とした。炎に巻かれた客車が岩に激突しながら転がり、大きな音を立てて森中の鳥たちを叩き起こす様子を、四人の執行者は鉄道橋の手すりの上から見下ろしていた。北海道の山々に強風が轟き、丘の中腹の植物が少女の多層スカートの裾のように絶えず翻り、その表情を青緑から翠緑へと変えていく。
「実際、カラスが休暇を取りたいというのも尤もです……少し疲れました」源稚生は言った。
「よっしゃぁ! 休暇! 休暇! 休暇!」夜叉とカラスが腕を組んで小躍りする。
 その時、稚生の携帯電話が鳴り、稚生は着信を一瞥した。
「学院本部の人がもうすぐ東京に来ると、政宗氏から連絡がありました。休暇はキャンセルです」源稚生は手に持った煙草を投げ捨てた。「東京に戻るぞ!」

 霧雨が山中に降りしきり、松林の風はまるで海の潮のようだった。小屋の中から灼熱の火光が染み出し、ハンマーが鋼を打つ音がはっきりと響く。源稚生が扉を開けると、白い麻布を着た老人が炉の傍で刀を研いでおり、火花が散っている。
「本部の人間が来るというので公室で待っていると思ったのですが。山の工房で刀を打つぐらいの余裕はあるようですね」源稚生は衣服を脱ぎ、火の傍に吊るして乾かした。
「中国の先人曰く、目前の大山崩れども顔色変えることなかれ、鹿の突出されども瞬きすることなかれ、という。剣豪宮本武蔵氏も同じようなことを述べておる。敵と相対する時には我を強く保たなければならぬ。敵の息遣いに呑まれては、己を曝け出すことに繋がる」老人は再び炭火の中に刀を入れた。「少し休んでいくがよい。本部の話はそれからだ。関西産の焼酎がある、一口飲んで身体を暖めたまえ。……今年の春は雨が多い、骨まで染みる寒さよの」
 老人は振り返り、焼酎を飲みながら火を見つめている源稚生を見た。
「お前は子供の頃から私が刀を打つのを見るのを好いておいたな。お前が大きくなるまでに良い刀を仕上げられなかったのは残念だが」
「私は火の光を見るのが好きなのです。暖かくなりますから」源稚生は言った。「良い刀と言いますが、我々の刀剣博物館にも名刀はいくつかあります。自分で打つ必要などないのでは?」
「刀造りは日本の国民的芸術だからな。日本刀、ダマスカス剣、クリスナイフは世界三大名刀と言われておるが、ダマスカス剣もクリスナイフも良い鉄が取れる地域で生まれたものだ。イスラームの民は広大な勢力圏から洗練された鉄が集められ、オニキスのように煌びやかで美しい模様の鉄を生み出した。マレー諸島は天の恵みである隕鉄の合金が多く、実際蛇の形をしたクリスナイフは隕鉄で出来ておる。だが日本は違う。資源に乏しい日本には良質な鉄鉱石も高品質な石炭もない。だから刀匠は紫薪と槲で炭を作り、それを用いて鉄を作る。この炭火は粗糙でざらついた鉄しか焼き出せぬ故、千万度叩いてようやく形が整う。日本刀の鋭さの源は、この一槌一槌を打ち込む刀匠の心にあるのだ。こうして作り上げられた刀を武士が一閃する時、刀匠が刀身に宿した千万度の槌撃が解き放たれ、赫々たる雷嵐を纏うのだ」
「つまり、刀を打つのが修行だと?」源稚生は言った。
「この世の全ては修行だ。一茶、一飯、一花、一葉の全てが修行……執行者にとっては、修行となる」老人は手を叩いて炭を払った。「桜井明のことは聞いた。よくやってくれたようだな」
「父上、あなたも私と同じように多くの人間を処刑してきた人です。目を赤く染めて血を流す者達を見て、心を痛めたことは?」
「初めは少しあったさ。だが時間と共に消えていった。堕落した人間は死霊のようなもの、抹殺あるのみだと知ったのだ。殺人は避けられぬ。ゆえに修行あるのみだと知った」
「一度堕落してしまえば、人間失格だと?」
「そうだ。混血種が歩みうる道は二つある。人の道と、龍の道。龍の道とは即ち堕落。堕落者は、人間失格だ」
 源稚生はしばらく沈黙した。「モロトフカクテルと呼ばれる遺伝薬のサンプルは、分析の為に岩流研究所に送りました。副作用はともかく、龍血を活性化する効果は確かにあるようです。歴史の中で龍族の血統を純化する研究は数多行われてきましたが、成功例は殆どありません。ですが現在、小山隆造が遺伝子技術を用いて強制進化の道を開いた以上、いずれ完全な血統浄化薬が生まれるでしょう。いったいどれだけの混血種がその誘惑に抗えるでしょうか?」
「猛鬼衆は欲しがるだろうな? 人間であることを倦み、龍への進化を日夜待望するような奴らであれば」
「モロトフカクテルの購入者の詳細は不明です。猛鬼衆の可能性は高いかと」
「奴らを野放しにしては置けぬ。禁忌の扉を開けさせてはならぬ。その向こうにあるのは天国ではない、地獄だ! 龍の力を追う者は、必ず龍に飲み込まれるのだ!」
「その通りです」

「最近執行局とおまえの一家の地位が上がっているそうだが、素晴らしいことだ。このまま順当にいけば、お前に大族長の地位も引き継ぐ事ができるやもしれぬ。気を抜くでないぞ」
「あなたが築き上げたこの一族を、本当に私に?」稚生は微塵も喜ぶ様子を見せない。
 老人は困惑した様子で頭を振り、稚生を見た。「お前はオロチ八家の若当主だ、若当主はいずれ大族長を継ぐ。お前以外に誰に譲れというのだ? 天照命たる男である、お前以外に……」
 源稚生は長らく沈黙した。「極道の大族長という地位にはあまり興味がないのです。あなたが恐れているのは一族の解体でしょう? 私が一族を解体して、フランスに行くとか……あそこは食べて寝て死ぬにはとてもいい場所だとか。ネットで知り合ったフランス人の友人が、モンタリヴェビーチで日焼け止めを売る小さな店をやっているんです。羨ましい生活です」
「モンタリヴェ……あの有名なヌーディストビーチか?」
「はい。彼は毎年夏にビーチに行って、ひと夏に何十万人もの裸の女性を見ることもあるそうです。麦わら帽子を被って、多種多様な日焼け止めを入れた木箱を持ってビーチを練り歩き、素晴らしい身体の女性に出会えば無料で試用を提供する。夏が終わってビーチから人が引き上げると、彼は店を閉め、パリへ失業給付金を受け取りに行き、翌年また同じ営業を始める……」源稚生は煙草を一服し、煙を口から吐き出した。「たったそれだけの素晴らしい人生です。枕の下に銃を隠して寝る必要もなく、酒に酔い潰れることもできる」
「お前は、暴力には飽きたと?」
「桜井明が言っていたんです。暗闇の中で生まれた蛾は火を見るとすぐに向かっていく、他人を焼いたってかまわない、自分が焼かれるのも惜しくない。これは蛾の光に対する餓えだ……」稚生は煙が空気の中でぐちゃぐちゃになるのを見つめた。「そう言っている時の彼は皮肉に笑っていました。ああも大胆に笑う堕落者など想像もしなかった……。ここに来るまでずっと彼の言ったことを考えていたんです。もしかしたら私は、彼が正しいかどうか言える立場にはないのかもしれません。私は暗闇の中で生まれた蛾ではなく、光の中で生まれた胡蝶でしかないのですから。胡蝶と蛾に何の優劣があるのでしょう? 蛾の翅は黒く、胡蝶の翅は彩しいから?」
 老人は考え込んだ後、溜息をついた。「稚生、お前は優しい子だ。昔からずっと……しかしな。天照命を背負った男が、そんな考えではいかん」
「天照命……」稚生は首を振って笑った。「はぁ、この話はやめにしましょう。とりあえず、我が学院の本部が来るというのはどういうことです?」
「今日の午後、正式通知が来た。海底調査の為に校長が精鋭チームを日本に派遣したそうだ。海底調査に使う潜水艦が先発して既に東京港に着いているとの連絡があった。今回の調査は学院本部が指揮権を握り、潜行隊の人員も本部から直接拠出される。その潜水艦も本部の建造だ。執行部部長シュナイダー教授が海の向こうから指揮し、学院本部のエンジニアAI、ノルマが全過程を監視する」
 稚生は驚いた。「本部は何十年も我々には干渉してこなかったでしょう。何故今回日本に?」
「詳しくは知らぬ。だが『日本海溝に龍の胚が有る可能性』なる理由は、アンジェが日本に手を出す理由としては十分だ。海溝の中に龍胚が無いということを証明できなければ拒否も許されぬ」
「有人潜水艦……神葬所が見つかってしまうのでは!」稚生ははっとした。「彼らを止めなければ!」
「アンジェがこれと決めたら誰にも止められぬ。この男の影は何十年も我らの上に掛かっておった。我々がその圧力に耐えられなくなったにすぎん」老人は火を見つめ、瞳孔を煌々と輝かせた。「この機会だ。神葬所を永遠に埋めてしまえばよい。ただの神の墓だ。神は死んだ……そう、奴を永遠に骸にあらしめよ! 奴を人間界に還らせてはならぬ、絶対に!」
 稚生はしばらく黙りこくっていた。「父上、そうなればもはや後戻りはできません。本気でお考えでしょうか?」
「人の世は永劫なる深淵の如きものよ。『回顧』の二字などあってはならぬ。これは新たな事始めなのだ!」
「各家の当主は同意するでしょうか?」
「できなければ、説得せよ。この世のいかなる征伐をも、まず人が立ち、その者に人が追い従いて始まるものよ!」
「父上……ここ数年で神葬所と猛鬼衆に対する敵意を随分と露わにされるようになったと見受けます。何故です?」
「アンジェと同じと思うか? 獅子心会の第一世代を粉砕されてのち、龍族に対する仇恨を骨身に刻んでおるアンジェと。わしも同じく、神葬所や猛鬼衆を消し去りたいと思っていると」老人は焼酎をがぶりと呷った。「違うな。わしは神葬所や猛鬼衆に何の怨恨も持たぬ。わしが望むのは断絶、我が一族オロチ八家の悲運を断ち切ることだ! わしはもう長くない。悪鬼共を道連れに死に往けるのなら本望よ。かつて照和月詠がしたようにな!」
「悲運……とは?」
「お前に話した北欧神話を覚えておるか? 三人の運命の女神が、運命の糸を手繰り、引き伸ばし、断ち切るという話だ」
「覚えています。そうやって運命を玩具のように弄ぶような者は許せない、その女神の心臓を貫いてやりたいと言っていたことも」
「受け入れられぬというだけだ。人の一生に於いては、生有るところに死もまた有る。出会いの美しさが有ればこそ、離別の悲しみも有る」老人は語った。「オロチ八家の運命も同じよ。我らを造りし白皇は、我らの滅びもまた運命づけた。今でも彼の者の霊は黄泉から我らを覗き、死装束で魂引きの舞を踏んでおる。彼の者の子孫はみな、その遺産を巡って殺し合うよう運命づけられておる。執行者と猛鬼衆は戦う定めにある。そうして若者の血は永遠に流れ続け、命は消えてゆく」
「それが、彼の者の紡いだ運命だと?」
「そうだ。だが彼の者が死んで幾何の年を経た今、最早わし等が運命に縛られる謂れなどない! 運命の糸車を打ち壊さんと思ったことはあるか? 運命を紡ぎしあの白皇をも……粉砕せねばならぬ!」老人はしわがれた声を上げた。
「そうすれば、私達は悲運を免れるのでしょうか?」
「この世で運命を逃れる唯一の方法は、己を運命そのものとすることなのだ。 運命の歯車は自ら組まなければならぬ、オロチ八家の運命も、日本の運命も……世界の未来もだ」老人は語った。「今まで誰もやらなかったことだ。だがわしはやる。成功すれば、オロチ八家とその子孫は永遠に血の闘争に別れを告ぐことができる。失敗した時はお前が大族長を継ぎ、一族を導くのだ。同胞の希望を絶やしてはならぬ」

 松林の中を鬼の嘆きのような風が吹き抜ける。世界が雨音の中に沈んだかのようだ。広大な山の中腹に位置する工房には、遠い山中の寺から古鐘の音が響いてくる。
「分かりました。私に出来る事であれば、いかなる手助けも致しましょう。まずは他家の当主を説得する事から始めます」稚生は刀を抱き、炉の火を見た。「父上の意志が叶えば、私もフランスに行けますから」
「愚か者! 怖気づいたか?」老人は凍り付いたが、しかしすぐに笑った。「……いや、そうだな。成功すればわしもお前も自由になる。フランスに行って日焼け止めを売りつつ、安らかに死を待つのも悪くない」
「はぁ、まったく。父上はまだ若いでしょう」稚生は呆れた。
「まあな。お前と一緒に日焼け止めを売りにフランスに行ける位にはな」老人は笑った。

 彼は炉の傍から文書を一つ手に取り、稚生に渡した。「本部からファックスで送られてきた履歴書によれば、今回日本に出向いて来るのは三人だ。アンジェの王牌部隊だな。易々とは扱えん奴らばかりだ」
 源稚生は履歴書を捲りながら、眉を顰めずにはいられなかった。「……若すぎる、子供ばかりだ。校長はバカにしているのでしょうか?」
「確かに経験のない若者ばかりだが、血統は優秀だ。アンジェは恐らく、胚に近づくには優秀な血統が必要だと考えたのだろう。胚が仇為す者を排除する領域を形成すると考えてな」老人は言った。「これだけでもアンジェの見識は分かるだろう。奴は人を軽んじる事無く、人を錯する事も無い。……オロチ八家の族長会議を手配したまえ。若者たちには手厚く接待して信頼を得、我らの計画に協力してもらうのだ。絶対に猛鬼衆に接触させてはならぬ。彼らが日本の地に足を着けたその瞬間から、監視と保護を徹底せよ!」
「了解です。猛鬼衆の接触を防ぐ確実な方法として、本家の地下牢に閉じ込めます。よろしいですね?」稚生は挑発的に眉を上げた。
「また本部の人間を虐待するのはやめたまえ。わしが言いたいのは要するに、彼らを良く遇し、『御持て成し』の一面を見せつけるということだ」老人は苦笑した。
「私が『御持て成し』の一面を?」
「まあよい。だが本部の若者を甘く見るでない、彼らは学院本部の最強チームだからな。しかしお前も日本支部最強の男だ。ある意味、お前とあやつらは競争相手の立場におる」老人は刀身を引き抜いた。炎に赤く焼かれた刀身に刻まれた模様は、霞掛かった夕陽のように鮮やかだ。
「歌舞伎、AVショップ、援交少女、ラブホテル……外国人は日本を放蕩の国と見ていると聞きます。要するに、そういったものを与えてやれば彼らは満足して親指を立てるのではないでしょうか。私は戻って工作の準備をします」稚生はトレンチコートを羽織った。「そうだ、絵梨衣の様子はどうですか?」
「まだ悪夢を見るらしい」老人は焼酎を呷り、赤熱した刀身の上に唾を吐いた。烈火が湧き上り、彼は火が着くままにハンマーを打ち荒び、火光が彼の年老いた筋肉質な上半身を照らす。その姿はまるで、鉄で出来た武士のようだ。


 イタリア、ローマ、日光満ちる早朝。
ガットゥーゾ家当主代行のフロストは城の郊外で世界中の銀行家をイタリアンの朝食に招待しており、ギャラリーには談笑が絶えない。彼らはスコットランド北海の海底ガス鉱山に220億米ドル投資する計画に取り組んでいる。ガットゥーゾ家が昨年末、その採掘権を取得したのだ。2014年までにガス鉱山事業で英国政府に支払われる税金は年間70億米ドルに達すると推定され、ガットゥーゾ家の収益はその数倍になる。世界中の銀行がこのプロジェクトに投資し、利益の一部を得たいと思っているのだ。
 この朝食は実に優雅な食事だった。フロストが理解するに、テーブルを叩いて交渉事に躍起になるのは生真面目なビジネスマンだけだ。真の権力者は穏やかな会話の中ですでに協力関係を完成させている。
「ブルボン家の私生児にはもっとすばらしい話があります。1732年、彼は今まで一度も会ったことのない母親から男爵位を継承し、突然上流社会の世界に足を踏み入れました、そして……」フロストが語るのは有名な笑い話だ。女性銀行家たちがそれを聞いて大笑いしている。

 白シャツに黒服を着た秘書が突然彼の後ろに現れた。「当主代行、重大案件です」
 フロストは微笑んだ。「パシ、朝食時にはテーブルに積まれたチーズ以上に重大な案件はないんだよ。わかるね?」
 銀行家の前で失礼が無い様に気遣っているのだ。ガットゥーゾ家当主代行に、朝食中に対処しなければならない物事などあるだろうか? 世界はこういった貴族を中心に広がっている。世界が破壊されつつあっても、フロストが朝食を食べる間は時を止めなければならない。
 パシは下がる様子も見せず、フロストの耳元で囁くように身を乗り出した。

「……あのアンジェのクソ野郎が!」フロストが怒り散らしてテーブルを叩き、チーズ皿を吹き飛ばし、銀行家たちに説明することもなく走って去っていった。
「食事中に申し訳ありません。緊急事態なもので。家族の相続に関わることなのです」パシは頭を下げた後、フロストを追いかけた。
 銀行家たちはただただ沈黙していた。フロストをああも激昂させてしまうようなこと、フロストが言った「クソ野郎」の事……彼らも察しているようだった。

 防音室に入った後も、フロストが怒りを抑えるまでには時間がかかった。その怒鳴り声はジェットエンジンの噴射に匹敵するレベルだ。「シーザーをそんな危険な任務に送り込むなど、どういうわけだ!」
「昨年我が家が校長を解任しようとしたものですから、アンジェとの関係は決裂に等しいんです。アンジェはもう何の機会も与えてくれないでしょう。シーザーは学院の生徒ですし、アンジェは彼をいいように使える。我々に干渉する権利はありません」
「だが我々は彼の親だ! シーザーの保護者会には毎年参加している! 私には彼の安全を問う権利があるだろう!」
「お言葉ですが」パシは頭を振った。「……あなたはポンペイウス当主に代わってシーザーの保護者会議に参加しているのですから……出席する権利はあるでしょうが、任務を止める権利はありません」
 フロストは頭を殴られたような気分になった。「だったら……日本支部に連絡しろ! 奴らに任務を止めさせろ! 奴らが恩を売ってくれるなら、ガットゥーゾ家は相応の見返りをしてやる!」
「日本支部はやめた方がいいです。アンジェの命令にすら従わないかもしれない奴らです」パシは言った。「日本支部は半独立的な組織です。学院の外部機関というよりも、極道組合と言った方が近い」
「極道組合?」フロストは大袈裟に驚いた。「学院の麾下になぜ極道組合が?」
「日本支部は元々学院が設立したものではありません。前世紀の初め、秘密裏に船で日本に渡ったマイエク卿が見たのは、日本国のアンダーグラウンド、つまり極道において、日本の混血種が遊女、アヘンに武器といった巨額な利益をもたらす違法な事業を支配していたということです。日本という国家体制に根深く入り込んだ彼らに対し、シークレットパーティは同化するなんの手立てもなかった。結局シークレットパーティは日本の混血種ファミリーと取引することになりました。シークレットパーティは日本支部を作らず、日本の混血種ファミリーはシークレットパーティが運営する学院を支持する。彼らは毎年留学生を学院に送り、その留学から帰った人が形成する部署を日本支部とする。極道の幹部と学院の事務員という、二重の身分があるということです」
「アンジェは教育費を非合法ビジネスにつぎ込んでいたのか? アヘンでも売ってるのか?」
「学院は違法取引に干渉しません。違法取引は日本支部を構成する家族によって管理されています。日本の極道でも最も古い八つの姓を持つ一族、総称して『オロチ八家』と呼ばれています。オロチ八家は直接違法取引を行うわけではありません。彼らは極道の執行者なのです。多くの極道の暴力団は彼らを本家と認識し、その管理を受け入れています。オロチ八家は日本の極道における法を司っているのです」
「奴はなんでそんな重要なことを教えてくれなかったんだ?」
「ポンペイウス当主は知っているでしょう。多分、あなたに言うのを忘れただけで」
「忘れただぁ?」フロストは唖然とした。

 彼はポンペイウスの教育委員会の席を十五年間引き継いできた。この十五年間、彼は常に自分が権力を握り、大学で何が起こっているのか明察できていると思っていた。しかし今彼は悟った。この学院の構造はいわばタマネギのようなもので、一つ皮が剥がれてもまた皮、部外者は永遠に真相に触れることはできない――そして、彼は「部外者」だった。彼を更に苛立たせたのは兄のポンペイウスだった。フロストがポンペイウスに関連文書を求めた時、ポンペイウスは文書を渡さない理由をこう説明した――「お前が言っているのは教育委員会の会議で渡された紙のことか?」「あれならオリガミして船にしちまったぞ」「どっちにしろ、アンジェは重要機密を記録に残さない。どうでもいいことだ」
「ある意味、日本支部は世界でもっとも穏やかな支部です。毎年学院に送られる年次報告書を見ても、日本は一切平安といえるでしょう。一つだけ言えることは、日本支部は何か巨大な幕に覆われているということ。幕の下で何がされているのか我々にはわかりません」バシは言った。「恐らく、学院から独自で何かをしているのでしょうが……」
「当主につなげ」フロストは身をこわばらせた。「あいつはシーザーの実父だろう、あいつの名前でアンジェに任務を止めるように頼んでみれば!」
「来週まで当主との連絡は難しいでしょう。当主はチベットの『心の旅』というチャリティーイベントで、ヒマラヤ山麗のラマ教寺院で一週間過ごしているんです。衛星電話も持っていっていませんから、通信もできません。唯一の方法は馬で物理的に連絡を付けることですが、去年の冬の雪が融け切っていないので一週間以上かかります」
「あいつが修行生活だぁ? 何の苦しみがあるんだよ?」フロストは聞き間違いを疑った。ポンペイウスが要求する生活水準は相当厳しい。世界旅行するにしても自分はベッドの中から動こうとしないような人間だ。チベットのラマ寺でどういう生活をしているのか想像もできない。
「教えを聞いて何か学んでくれればいいんだがな。何か良い事をさ……」

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