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『龍族Ⅲ 黒月の刻』上編・第八章:極楽天都

「違うよ、シーザー・ガットゥーゾじゃなくて、このロ・メイヒっていう子のことさ」彼は写真の隅に映った目立たない青年を見つめている。まるで今でも『楊貴妃』でいるかのように、涙を浮かべて。「彼のその目は、多くを語っている。愛しさ、卑しさ、悲しさ。でもその奥底には、獅子が宿っているんだ」

 大阪郊外の山中、極楽館。
 山間に建てられた建物の前には渓流が流れ、そこに架かった精緻な橋のそばで、着物姿の美女たちがゲストを送り迎えしている。フラミンゴを模した羽を振りかざすサンバダンサーがドラムの音に合わせて胸を揺らし、インド式ターバンを被ったウェイターが往来しつつ客人に礼をする。春寒料峭の中、タイトなスカートで尻と腿を豊満に強調した妖美な女たちが身体をくねりひねり尽くし、ヒールで砂利を叩きながら、車から出てくる男たちに腕を回す。
 建物の表裏には黒スーツの男たちがうろついている。彼らが腕を開くと露わになる銃口はイスラエルの「HSプレシジョン」製の重型戦術ハンドガン、その大口径マグナム弾は警察の防弾ベストすらも貫通する代物だ。ゲストたちが彼らの姿に不安を覚えることはない。この場の規則に触れない限り絶対に安全であり、むしろ彼らが外敵から守ってくれるからだ。だが一度誰かが極楽館で騒ぎを起こせば、彼らはすぐさま凶暴な野獣と化す。

 極楽館はここ二ヶ月でオープンしたばかりの巨大カジノだ。巨大といっても客足激しいわけではなく、他のカジノに比べれば半数にも及ばない。だがここの賭け金には制限が無く、ギャンブラーは他のカジノの十倍の額を持ち歩いている。ギャンブラーたちも極楽館には極道の後ろ盾があることも分かっている。カジノが極道と関係があるのは当然であり、それまで彼らが訪れた様々なカジノにもそれぞれの極道とのつながりがあるからだ。極楽館が他のカジノと違うのは、ギャンブラーのあらゆるオネガイが叶うと謳っていることだ。勝負に勝ったゲストは敬意を表されつつVIPルームに通され、若くて美しい女経営者とヴィンテージワインを傾けながら、微酔の赴くままに実現したい欲望を語ることができるという。人気の日本ドラマのヒロインと寝たい、首相とディナーをしたいとか、あるいは人気の日本ドラマのヒロインとディナーをしたい、首相と寝たいとか……こういった欲望はまだ表面的なもので、実際のオネガイは自分の運を高めるためにタイの若い処女を買いたいだとか、ビジネスのライバルを破滅させたいといったようなものばかりなのだが……極楽館のオネガイ・ファンドに寄付さえすれば、どんな願いも叶えてもらえるという。

 東京のカジノにどれだけ極道と強い繋がりがあろうとも、ここまで無茶苦茶をやれるところはない。非合法の世界にも一定のルールというものがあり、例えば風俗の若い女の子が勝手に大人の男と酒を飲むのは、店が売上のいくらかを極道に収めている限りは何の問題にもならないが、その女子高生に身売りを強要してしまえば、強要した者は指の一本や二本を失うことになる。日本では、ルールと伝統が重んじられる。極道もまた然り、己から一線を越えようとする者は居ない。一線を越えた者に待つのは死である。だが、極楽館というルールの無い世界では、勝者のみが語る権利を持ち、勝利したゲストの欲望はパーフェクトに満たされることができる世界だ。相応の金を勝ち取りさえすれば、どんなに背徳的・垢穢的・違法的だろうが血生臭かろうが、その願望を実現する事ができ、実現の為のあらゆるリスクは極楽館が受け持つのだ。極楽館はあらゆる欲望の場所であり、法も天もない場所。その場の摂理は法律でも無ければルールでも無い、語り得るのは富だけなのだ。

 日本極道と少しでも関係のあるゲストは極楽館に畏敬を表する。このカジノはまさに大阪の山々に咲く一輪の妖花だ。道理に屈せぬ、色褪せぬは、伝説に見える末日の紅蓮の如し。
 極楽館を訪れた者はこの妖花の虜になってしまう。大金を得た一握りのギャンブラーだけがオネガイを叶えられると分かれば、取り付かれたかのように四面八方から現金を集めて賭けに来る。それゆえ極楽館では小額のベットは殆どなく、ギャンブラーは勝つも負けるも関係なく、大量のチップをディーラーに差しだすのだ。彼らが期待するのは、目の前に積み上げられる山のようなチップとそれを見て一斉に跪く妖美な女経営者、そして彼女に誘われるVIPルームでの酌杯。これを手に入れた幸運なゲストの背中は、VIPルームの扉が閉まるまでギャンブラー達の賞賛と嫉妬の目線で射抜かれ続けることになるだろう。数十億円の総資産を持つハイギャンブラーまで卓上に一擲千金を賭けているのは、そこで勝ち取られるのが単なる酒ではないことを意味する。毎分毎秒莫大な利益を上げるビジネスを持つ彼らが欲しがるのは、貫くような快感である。賭け金が増えるにつれて欲望も深まり、それはやがて『聖書』の中のバベルの塔のごとく天まで伸びて行き……そしてオネガイは満たされる。極楽館とはこうしたハイギャンブラーの心を敏鋭に掴み取り、夢想の仙境へと彼らを誘う場所でもあるのだ。


 真仲英樹は重厚な花の彫刻が施されたブロンズの扉を押し開き、目を見開いた。
 パチンコ[1]マシンから注がれる小さな鉄球の音が空間全体を満たしている。ルーレットマシンが回り、カップの中でダイスが跳ね、ディーラーが牌九をジャラジャラと切り、女の子達が大声で歓声を上げる……その一つ一つの音すべてが血潮を滾らせる。光り輝くような美女ディーラーたちは腰から上は黒いスーツを着ているが、テーブルの裏に回れば、太腿に絡みついた黒い網ストッキングと小さな白い兎の尾を見ることができる。ウェイトレス達は真っ赤な赤色シルクの水着で豊満な胸部の大半を露出しており、スティレットヒールを鳴らしつつ誘惑的な腰を振りながら、目を奪われた男たちに艶やかな視線で応えている。

原注[1] パチンコは日本で大流行している一種のゲームであり、小さな鉄珠を使ってギャンブルする装置。ラスベガスやマカオのスロットマシンに少し似ている。

 ロビーの半分はパチンコエリア、残りの半分は各種ゲームテーブルだ。パチンコは日本では年齢問わず遊ばれるギャンブルであり、小銭数枚から遊ぶ事ができる。パチンコ台の前に座っているのはコーラを飲みながら球をつぎ込む少女たち。いずれも雑誌の表紙を飾れる程度に可愛い子たちばかり、中には制服のスカートに白のチューブソックスを履いた年軽稚若な子や、赤いハイヒールとハイレグチャイナドレスを着た冷絶妖婉な子もいれば、シースルーのイブニングドレスで超ド級の胸部を露出させている子も何人かいる。パチンコ少女たちは極楽館のゲストのためのコンパニオンであり、そのパチンコの音もカジノを盛り上げるバックミュージックのひとつである。あるいはゲストがパチンコ少女の一人を飲みに誘うならば、少女たちは喜んで同意することになっている。

 真仲はこの究極の贅沢空間を一目見ただけで震撼し、無意識の内に逃げ出したくなってしまった。深紅に染まったイタリア大理石の床、艶々しく輝くレッドクリスタルの窓壁、少女たちの妖美な四肢と肌……空間を彩るあらゆる物が欲求を誘い、もう一歩踏み出せば二度と出られない迷宮のようにも感じられていた。――だが今この瞬間、彼の視界にそういった誘惑はない。その目にはVIPルームの真っ赤なガラス扉だけが映っている。彼はそれに向かって歩いていた。その足取りがフラフラとおぼつかないのは、数日間何も食べていないからだ。
 後ろでハイヒールが床を叩き、若々しく美しい女経営者が腕を組んだ。「真仲さん、いらっしゃいませ。今日は素晴らしい夜になりますわ。貴方の願いが叶う瞬間ですもの」
 女経営者はぴっちりとした黒いスーツとタイトスカートを着ており、髪は大きなシニョンにまとめられ、その身体はスレンダーで美しく、ぱっちりとした明るい目を持っていた。これほど若い女性がこのカジノのマネージャーの地位まで上り詰めているとは驚きだった。彼女の美貌は身体を曝け出しているディーラーやウェイトレスよりも遥かに優れているが、その装いは控えめだ。真仲は彼女が桜井小暮という名であることを思い出した。幸運の女神が降りて来たかのようにテキサスホールデムで勝ち尽くした彼は、わずか700万チップで対戦相手を一掃し、最終的には12億を超えるチップの山に変えた。その瞬間、彼は清幽な香りを嗅いだかと思うと、少女的な暖かい身体が腿に触れ、黒い服を着た女マネージャーが膝をついているのを見た。「VIPルームにご招待してもよろしくて? 私はここのマネージャー、桜井小暮です。小暮とお呼びください」
 興奮してキスを迫ったりするような他の幸運ゲストと違い、真仲はこの言葉を聞いた瞬間椅子の背もたれにぐったりと倒れ込んだかと思うと、微動だにせず大雨のような涙を流したのだった。

 真仲英樹は三十九歳、家業は使い捨てプラスチック加工食器の工場を経営だった。元来の彼に極楽館でギャンブルできるような蓄えなどなかった。プラスチック工場の経営以外には、妻子の為に細々と貯蓄をするだけだった。彼の妻はまだ二十八歳の見目麗しい人気二流スター、何人かの金持ちボーイフレンドとの破局を経て、真仲のような小企業経営者の結婚に辿り着いた。真仲は妻子をこの上なく愛し、彼女が麻雀を打ちに行くのにもよく付き合っていた。妻はそれ以前まで東京に長らく住んでおり、有力な友人も多く、三度も会えば全員と仲良くなった。ある日その中の一人、とある良家の坊ちゃんが真仲の資産を見て、これじゃビッグプロジェクトには投資できない、家の山を抵当に入れてまとまった金を借りて一緒に投資しよう、そうすればこれからもより良い関係を築ける、などと誘った。真仲は躊躇った。その山にはプラスチック工場もあれば先祖の墓もあり、住宅ローンが返せなければ家族を罪人にしてしまう。だがその時妻は妊娠中であり、プラスチック工場の収益も年々下がってきていた。子供を東京で育てられるならと、真仲は決心した。幸福に浮足立っていた真仲は勧められた通りに融資会社に行き、山を抵当に入れ、その坊ちゃんが推すビッグプロジェクトに全ての財産を投資したのだった。
 だが現実は残酷だった。彼の幼馴染が、当の坊ちゃんと手を繋いで都内のホテルから出てくる妻を目撃したのだ。次いで、真仲の投資したプロジェクトが既に破産しており、経営者が夜逃げし、投資家には一銭のリターンも無いことが明らかになった。一方では妻と坊ちゃんの怪しい関係、もう一方では融資会社への返済が土地を寄越せと迫る。そこで真仲は融資会社の背後に極道がいる事、その実が単なる高利貸しだったという事を理解した。夢は崩壊し、妻が荷物をまとめて家を出た日、真仲は法廷から離婚訴訟を受けた。子供の事を考えてくれ、と懇願する彼に対し、妻は笑いながらこう言い捨てたのだ――まさか、本当にこの子が自分の子供だと思ってるの?
 融資会社が土地を差し押さえに来た日、真仲の母は心臓発作を起こした。救急車で家族の墓地の前を通った瞬間、真仲家が代々経営してきたプラスチック工場は解体屋によって爆破された。
 真仲は母親の遺影の前で三日跪いた後、母親が老後に小さな店を開きたいと残していた僅かな私財を銀行から引き出し、その最後の七百万円を持って極楽館を訪れた。彼は賭博を好む人間ではなかったが、絶境に立たされた人はしばしばこうしてギャンブルに唯一の希望を賭けるものである。

「――いささか大きすぎる願いですわ。いくら素晴らしい夜と言っても、十二億円では足りないかもしれません」VIPルームで、桜井小暮は真仲の話を聞いた。
「あといくらですか!? 俺はまだ賭けられます!」真仲は物乞いのように跪いた。
 小暮は真仲の手を取り、まだ指輪の跡が残っている左手の薬指を撫でた。「この指を、この指を入れれば十分ですわ」
 真仲は狼狽し震え上がったが、手は引っ込めなかった。「奴らは極道、あなた方も極道……つまりグルで、俺にケジメをしろということですか?」
「極道と言っても一つではないのですよ。極道の法を掌握しているオロチ八家に比べれば、私達のような『鬼』の方が、もっと信頼に値するのではなくて?」小暮は微笑みながらそう言うと、テーブルの上に一本の短刀を残して扉から出て行った。

……信じられる人間など、もうこの世界にはいない。なら、鬼を信じるしかないんじゃないのか――真仲は考えた。


 桜井小暮は四方の壁に赤いクリスタルガラスが嵌められたVIPルームに戻らず、代わりに人目につかない非常口を案内して、白と灰色の階段を一段ずつ下っていった。
 このカジノの地下がこんなに深いなど、真仲は思ってもみなかった。自分と小暮の足音以外は何の音も聞こえない。巨大な排気ファンがゆっくりと向きを変え、熱く暖かい風を吹き出す。握り続けている小暮の手から暖かさを感じられなければ、真仲にはこの奥まで行ける勇気も無かっただろう。極楽館の下に隠されたこの道は、まるで幽冥黄泉に繋がっているかのようだ。
「桜井様、真仲さんですか?」階段の終点に現れたのは、黒服の男。
 指先もろくに見えないこの場所で、男はサングラスをかけていた。真仲は震えながら彼をちらりと見たが、サングラスの奥から奇妙な金色の視線を感じただけだった……どことなく冷血動物の目のようにも思える。
「B431号室、真仲さんのオネガイはすぐそこにありますよ。ついてきてください」男は振り返って真仲と小暮を黒い鉄扉の前まで招くと、磁気カードを扉の鍵にかざした。

 四方を鉄板に覆われた小部屋だ。地下にあるゆえ当然窓はなく、ほんの小さな通気口があるのみ。家具らしい家具はないが、四つの椅子に四人が座っている。全員が背中の後ろで手首を縛られ、頭に麻布の袋を被されている。それぞれ身体を震わせたり、モゴモゴとした泣き言のような声を出したりしている。男は鉄扉を閉めると、予め用意していた書類を取り出した。
 彼は最初の麻布袋を外し、書類の中の写真と合わせて一瞥した。「藤田寿太郎、これは貴方にローンを貸した融資会社の社長であり、三合会の構成員です。ご確認を」
「こいつだ」真仲はくぐもった声で言った。
 男がサイレンサー付きの拳銃を抜いて藤田の眉間に押し付けると、「プシュ」という音と共に死体と椅子が倒れた。
「山口智、不動産プロジェクトの計画者であり、貴方の投資先です。彼と貴方の友人である赤松秀形は共謀者。山口が発起人となり、赤松が投資家を引き込むという役割です。山口は日本の強制送還条例未締結国家である東アフリカの国に逃げ込んでいました。赤松も被害者かもしれませんが、山口は持ち逃げした金をロンダリングして赤松に送金していたようです。強制送還できないので東アフリカまで人をやったのですが、道中で事故があり、商品が少し欠損しております。申し訳ありません」男の言う欠損というのは、山口の両耳が切断され、黄色い粉末で止血されているというものだ。
「ご確認を」男は山口の眉間に拳銃を向けた。
 真仲が頷くと、山口の頭が銃弾で吹き飛び、血漿が天井に届くまで噴き出した。
「赤松秀形、貴方の妻の友人です。良家の息子だと言っていたそうですが、その実は地下レスラーであり、金のある女性に付いて小銭を稼いでいます。貴方の妻の情夫であり、貴方の家産を掠め取るのを思いついたのも彼のようです。ついでに言えば、貴方の妻のお腹の中の胎児は、お望み通り強制堕胎させられました。DNA鑑定の結果、赤松秀形が父親で確定です」男は言った。「ご確認を」
 真仲は自分よりずっと若くハンサムな男をじっと見つめ、軽く頷いた。言葉は無かったが、雨のような涙を流したその顔は悪鬼のように歪んでいる。
「貴方の妻についても、お望み通りお連れしてまいりました。我々による処理は望まないとのことで、後は貴方にお任せします」男は最後の席で震えている人間を指差した。麻布袋が被せられているが、その下に伸びる白いドレスの下のたわわで甘美な身体には、まさに稀有な美しさがあった。
「お気に召されなくともご安心ください、諸々の処理は一括で我々が無料サービスさせていただきます。あるいはまだ心残りがおありなら、二階に最高級VIPスイートをご用意しております。貴方への永遠の愛に回心させるまで、お好きなだけご利用ください。もちろん無料でございます」桜井小暮はマホガニーの箱を開け、真仲の良く知っている短刀を取り出した。彼はこの短刀を使って三週間前に薬指を切り落とし、対価の一部に換えて極楽館に滞在したのだ。
「左手は指が足りないでしょう? 右手に持った方が扱いやすいのではないかしら」小暮は真仲の耳に息を吹きかけ、同時に鞘の付いたままの刀を真仲の手に押し込んだ。
 真仲はその場に呆然と立ち尽くし、命も捧げられるほど夢中になっていた女、それと同時に己の家の破滅を招いた女を見つめていた。恐ろしく獰猛な表情を見せたかと思うと、次の瞬間には屈折した子供のような顔をする。小暮と黒服の男が部屋を出て扉を閉めると、真仲は美しくカツカツと響く小暮のハイヒールの音を聞いた。残されたのは彼と妻ただ二人。彼の心は半赤半白だった。それは母が死の床で吐いた血の赤色と、妻が結婚式で着た「白無垢」ドレスの白色。

「あの真仲英樹を部屋に残して、本当に良かったのですか」男は小暮に小さな声で訊いた。
「ゲストに手を出す必要など在りませんよ。金の卵を産んでくれるガチョウなのですから」小暮の声は厳しかった。
「ええ、もちろんです。ただ、こんなひどい男共を見ていると胸糞が悪いと言いますか。一人の女に家を破滅させられ、命を賭けて復讐を為そうとしているのに、その元凶が惜しいなんて。感情もないとすれば、惜しいのはやはりその肉体――」男は言った。「ああいう男は結局、刀なんて捨てて飛び掛かって、服を破ってセックスしたがるんじゃないんでしょうか?」
「いいえ、きっとあの女を殺しますわ」桜井小暮は微笑んだ。
「桜井様は確信がおありで?」
「私達にオネガイした時はただの臆病な男でした。でも今は、権力の美しさを知っている。今まではあの女の前で卑屈に膝を折る奴隷でしかなかったのに、今はあの女が奴隷になっている、その生殺与奪が手の内にある、そして彼はもう、彼女を愛していない……」小暮は淡々と言い放った。
 彼らはさらに歩みを進めた。死の淵の女の断末魔が背後から追いかけ、細長い廊下に不断に反響し、しばらくは収まることを知らなかった。
 

「あらあら、三井さんもここにいらっしゃるの? 今晩はいったいどんなお説教を頂けるのかしら」
「代田様もいらっしゃいますって。前回の勝ち金だけでは満足できなかったのかもしれませんね? 今日はさらに大きな財布を持ってきてますよ」
「市村さんに白川ウイスキーを、オンザロックで」
 エレベーターを降りてカジノロビーに足を踏み入れると、桜井小暮は一気に目線の的となり、甘美な笑顔で常連客の皆に挨拶して回った。その様はまるで彼女が経営する居酒屋のようだ。常連客達は若く陽気な女将と仲良くなりたがり、何か特別な接待でもないかと期待している。小暮が絶妙に可愛らしいのは言うまでもない。とある客が言うに桜井小暮は甘酒に乗ったアイスのようなもので、決して憎まれることなく、その笑顔で底へ底へと浸透していくのだという。
「今日は東京から様々な女性スターがいらっしゃいます。どなたがお好みかしら? 運が良ければ、極楽館が貴方のオネガイを叶えますわ」桜井小暮は軽く微笑み、三菱重工CEO・益田茂の耳元でささやいた。
 益田は小暮の手の平を撫でた。「女スターには興味がないんだ。女将さんにお時間はあるかな」
「私?」小暮は妖媚に笑った。「私のような女は舞台裏の者。VIP様のオネガイを満足させられるような者ではありませんわ」
「でも、制服を着た女性というのを見るとムラムラしちゃうんだよね、ぼく」益田はワインで酔っているのか、かなり横柄だった。
「私のような女は深夜まで休みなく働かなければなりませんの。もしその時に酔っていらっしゃらなければ、二階の『千本桜』のディナーにでも益田様をお招きいたしますわ」
「桜井さんは本当に、まるで赤狐のように賢いねえ」益田は小暮からさっと手を引っ込めた。黒服の男が今にも爆発しそうな青筋を額に浮かべて迫ってきたからだ。

 極楽館には「首相と寝たい」といったヘンテコなオネガイを除いて、口にはしないが誰もが抱くオネガイが幾つかある。「小暮と寝たい」というのもその一つだ。あの若い女は一体どうやってこんな豪華なカジノを運営しているのか、そしてあの女には……一体どれだけの値が付くのだろうか? このオネガイをしたとき、途方もなく高額な値を提示されるのか、あるいは永遠に世界から消し去られてしまうのか、誰も知らない。
「桜井様、将軍の緊急ファックスです」群衆を通り抜けた秘書が、黒いファイルを一枚小暮に渡した。
 それを一瞥した小暮は突然笑顔を失い、礼儀正しくお辞儀をして詫び、VIP常連客を置き去りにしてロビー中央の金箔で覆われたエレベーターまで歩いていった。カードをかざすだけで動き始めるそのエレベーターは、ここで最も豪華なスイートルームに繋がっているとか、極楽館の金庫に繋がっているとか、あるいは桜井小暮自身の寝室に繋がっているなどとか噂されている。


 エレベーターの扉が開くと、そこに広がるのは極楽館最上階の和式スイートルーム。小暮はエレベーターの中でハイヒールを脱ぎ、音もたてずにタタミの上を歩いた。
 最高級スイートルームの床は伝統的タタミマットで覆われ、室内はシンプルな白紙の屏風で区切られており、開け放たれた窓の外には月光が満ちる。白木の屏風の横に一つ小机があり、白磁の花瓶が載せられ、まだ咲いていない春桃の花が差されていた。白く透明な手がその春桃を摘まみ上げ、片手でつややかな長髪をかきあげると、もう片方の手で桃の花をかんざしにして刺し、玉のように白い首筋を露わにした。

「倦兮倦兮釵為証、天子昔年親贈
 別記風情、聊報他、一時恩遇隆
 還釵心事付臨卭、三千弱水東、云霞又紅
 月影兒早已消融、去路重重
 来路失、回首一場空」

 月光の中の人影は歩き、吟い、詠み、その声音はまだらに彩られた古画を思い起こさせる。着込んだ和服の広袖は血のように赤く、大輪の彼岸花が刺繍されている。曼殊沙華とも呼ばれるこの花は鮮血のように赤く、彼の白く透き通った肌にコントラストを映す。女の歌を唱う彼の者は男だったが、質素に細い肩と腰が踊る様は、性別など忘れさせてしまう。純粋な日本歌舞伎の演目ではあるが、その曲目は唐代中国を題材とした『楊貴妃』であり、全編に渡って中国語で詠まれている。その初演を日本歌舞伎の継承者である坂東玉三郎が楊貴妃の役を演じたものだ。

 多くの外国人の想像に反して、本物の歌舞伎に出演するのは男性だけであり、歌舞伎で女性を演じているのは女形と呼ばれる男性である。出雲国の巫女、阿国が創始した歌舞伎は元来女性も出演していたが、江戸時代に売春を伴った「遊女歌舞伎」、または少年が女性役を演じて同性愛を含む「若衆歌舞伎」とその規制を経て、成人男性だけが舞台に立つことを許される「野郎歌舞伎」が成立し、それを以ってようやく本格的な芸術となったのだ。女形は一生をかけて女性を観察、研究、模倣し、鑑賞者が作者よりも一層絵画を理解するが如く、女性よりも「女性の美」を理解している。彼ら自身が美しいだけではない。その歌声と所作こそが、衆生の心を奪うのだ。
 桜井小暮もそんな衆生の一人だった。白粉をしたこの男が舞い歌えば、いかなる心情であっても一瞬で凪いでしまう。カジノ客にとっての小暮は絶世の美人だが、遥かに端麗で優婉な彼の前に立てば、小暮は自分の姿など塵のように霞んでしまうとも思えていた。彼の美貌の前では、男女の意味など無駄なのだ。

 彼は軽くため息をつきつつ足を組んで座り、手に持っていた白い扇をゆっくりと閉じた。春桃のかんざしは既に落ち、髪は黒い滝のように広がっている。
ファイルの内容がどれだけ急ぎの事なのかもわからない小暮は、しばらく声もなしに立ち尽くした。
「今宵はまさに素晴らしきかな。名酒、美人、黄金と堕落。紙醉金迷の香しき、そのかひなしは酒のごとし……」彼は呟いた。
 階下で沸き立つ人々の声が沸騰した水蒸気のように昇ってきて、開いた窓から流れ込んでくる。女の体臭と男の酒気を纏ったそれはまるで大潮のようだ。
 小暮は彼の背後まで歩いて、その肩を揉んだ。「ごめんなさい。予想外の事案で試験体を失うことになって。東京発北海道行の列車で、執行部に抹殺されたんです」
「僕は、北海道こそ君の死に場所に相応しい、って桜井明に言ったんだ。本当に行くなんてね……明君は君の異母弟じゃないのかい? 死んだって言うにはずいぶん涼しい顔じゃないか」
「自由な人は、その人自身で結果を引き受けなければいけないんです。少なくとも明は自由だった。それなら私が哀れむ必要なんてないでしょう?」
「うん、良い試験体だったよ。小山隆造のモロトフカクテルはまだ不完全だったか。用済みのケモノを処理してくれた、素敵な兄さんに感謝しないとね」
「はい」小暮は言った。「まだ試験体が必要ですか? 私と明は同父異母ですから、血統もそれなりに近いはずです」
「早合点をしないでくれ」男はつぶやいた。「僕はまだ、君を手放すつもりは無い」
 彼の紡ぐ言葉はまるで音楽の旋律、あるいは夢枕のようだ。小暮はそれ以上語ることなく、ただ彼の肩をひたすら揉み続けた。

 彼の為に、小暮はタイに行って特別なマッサージテクニックを学んできた。彼女にマッサージを教えた先生は、パタヤのナイトクラブでマッサージ師を務める鍼治療に造詣の深い老人だった。トカゲのような舌を持ち、発情期のジャッカルのように欲情的な目で女性を見る人間だが、神懸かった手腕を持っていた。彼が一万バーツで女性客をステージに招待し、肩や背中を数分間マッサージすれば、一万バーツの報酬が入る。どんなに彼を憎む女性であっても、その神の手にかかればすぐさま身体が軽くなり、遥かにリラックスして眠りについてしまう。その間に老人は女性客の頬や首にキスをしたり、罠に落ちた女性に男性客の前で様々な猥褻的動作をしたりするのだが、10分後にベルの音で目覚めた時、女性は老人に感謝までするのだ。こんなに快適な寝落ちは初めて、疲れが全部消えたわ、なんて言ったりして。
 小暮は老人の技を学ぶために自分自身の身体を賭けた。最初に老人は小暮で手本を見せるのだが、小暮はいつも寝てしまい、目覚めた時には自分の身体に多数の赤紫のアザが付いていた。小暮は恐れも怒りもするどころか、より熱心に老師に学ぶようになった。小暮が老人をマッサージする番では、老人はいつもくすぐられているかのように笑っていた。こうした不断の触れ合いと不断の試みの中で、小暮は遂に神の手を模倣するまでになった。そして遂に、そのマッサージが老人を眠らせしめた時、小暮は老人の首を斬り落とした――老人は己の命で小暮を猥褻した代償を払った。彼は己の罪を知らなかったのだ。

 小暮の手はあらゆる者に催眠術を賭けることができる。だが彼にはかけられなかった。多少リラックスさせ、張り詰めた弓をほぐすくらいだ。
 彼は傍にあった酒を飲み干した後、小暮の首に腕を回して唇にキスをした。小暮が無意識の内に身体を合わせると、彼は獣のように激しいキスを重ねる。彼はいつも突然、嵐のように、狼が獲物の喉を噛んで血を吸うようにキスを迫る。だがそんな激しいキスが、小暮を雲の中に落とすかのように脱力させ、意識も朦朧となってゆく。小暮はタイで莫大な代償を払って催眠術を学んだが、彼はちょっとしたキスで同じことをやってのける。そして彼は彼女の小柄な体を腕でしっかりと抱き締め、その胸に頭をうずめて、長い間沈黙した後、彼女から手を離した。小暮はドレスを整えると恭しく跪いた。
「疲れているんだね」彼は言った。「僕と同じくらいに」
 小暮は答えなかった。確かに極楽館の仕事は殆ど不眠不休であり、龍血の恩恵が無ければすぐにでも倒れていただろう。それでも彼女に不満はなかった。極楽館は極道世界に支配されている博打産業を徹底的に「洗牌」する、対オロチ八家の重要な経済的戦略拠点であり、その運営を任されているというのは小暮にとってこの上なく嬉しい事なのだ。極楽館の成功によって「猛鬼衆」内での地位を高める事、それこそ彼女が彼の傍に居るための唯一の方法なのだ。彼女にとっては彼が世界の全てだが、彼女のものというわけではない。彼が他の女性にキスしたり、あるいはされたりするのも小暮は見たことがある。だがそのキスは決して愛情からではない、ただ欲望と渇望からのものだと思えた。
 キスされた小暮の心の中で快楽が沸き上がると、再び彼女は、彼の安寧の為にひと時の身を捧げた。

 
「何か話すことがあるんじゃないかい?」彼は言った。
「将軍からファックスが来ました。今晩カッセル学院のエースチームが東京に到着、ペニュンシラホテルに泊まったそうです」小暮はハッとした。彼のキスに夢中になり、すっかり大事なことを忘れていたのだ。
 彼は真剣な顔になり、月光の中で双眸をギラギラと輝かせた。「それは探るほどのことなのかい?」
「はい。今夜、オロチ八家の幹部全員が神社で集会を開いたそうです。ここ何十年は例を見ない程の規模です。残念ながらスパイは忍ばせられず、論題については分かりません。ですがカッセル学院のエースチームが東京に到着した夜と同時にこんな集会なんて、なにか大きな動きがあるのでしょう。恐らく、神葬所に関係のあることが」
「探る必要はないさ。橘政宗の考えは分かってる、オロチ八家は僕たちと全面戦争をする気なんだ。カッセル学院が介入するとなれば、表面上の平和はもう続かないよ。『猛鬼衆を徹底的に駆逐する、最初で最後の戦争の時だ』、僕が橘政宗だったらそんな感じのことを言うよ。戦意を煽るにはそれが一番だろう?」彼は軽描淡写に言った。

「これがエースチームの写真です」小暮はファックスで送られてきた写真を渡した。「子供ですね」

 シーザー、ソ・シハンにロ・メイヒの三人が一緒に写った、恐らく世界で唯一の写真だ。北京のニーベルンゲンから脱出した後、日光の下で疲れ果てた三人がヒビ割れた壁にもたれかかっている時の写真。シーザーとソ・シハンが互いに同じレンズに写ることを許すのはこんな時以外にはないだろう。恐らく地震の負傷者として扱われ、救助を受けた後なのだろう、全員が北京市警のコートを肩に羽織り、配給のパンを齧っている。外国人のシーザーとフィンゲルにはクロワッサンが配られていた。美少女に声をかけるヨーロッパ都市のチンピラのように壁に片手をついたフィンゲルに迫られたノノは、大きな赤いウェディングドレスを着たまま、小さな脚と赤いパテントレザー製ハイヒールをスカートの下に覗かせ、壁にもたれて両手を抱きながら嫌がる素振りを見せる――もっともこれは、フィンゲルがノノとクロワッサンを交換しようとして拒否されているシーンだ。シーザーはノノの肩に腕を回し、しかめ面でクロワッサンに齧りついているが、気に障っているのは自分の女に手を出しそうなフィンゲルではなく、挽きたてのコーヒーが無いという事実だ。重傷を負ったソ・シハンはちまきのように巻かれ、ストレッチャーの上に横たわり救急車を待っている。その目は真っ直ぐに天に向けられ、からっぽで虚ろだった。ロ・メイヒは隅っこに一人でしゃがみ、激しくパンを咀嚼しながら、他の人達を横目で見ている。

 彼は真っ白な指で写真の顔を撫で、咲き誇る花のような笑顔を見せた。「すばらしい……僕はこんな子を待っていたんだ!」
「そうでしょう。カッセル学院はガットゥーゾ家の後継者を日本に送ってきたんです。今回の顔ぶれは本当に楽しみですよ」小暮は言った。
「違うよ、シーザー・ガットゥーゾじゃなくて、このロ・メイヒっていう子のことさ」彼は写真の隅に映った目立たない青年を見つめている。まるで今でも『楊貴妃』でいるかのように、涙を浮かべて。「彼のその目は、多くを語っている。愛しさ、卑しさ、悲しさ。でもその奥底には、獅子が宿っているんだ」

 彼は立ち上がり、緋色の鞘の長刀を肩に担いだ。「小暮、僕は東京に行くよ。家のことは君に任せた」
「ハイ!」小暮は小さく叫んだ。
 彼は窓の外の真っ白な月明かりに長刀を投げると、その月光の中にさっと飛び込んだ。桜井小暮の潤んだ瞳に映るのは、漆黒のヘリコプターが月光を遮って上昇し、そのキャビンに彼岸花の刺繍された真紅の和服姿の彼が座る姿。彼の傍には初めて見る妖媚な女性が座り、恭しくオンザロックのリキュールを差し出していた。小暮が屏風の傍にある机に目を向けると、いつの間にか虹色の注射剤が並んだ檀木の箱が置かれていた。

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