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『龍族Ⅲ 黒月の刻』中・第十章:正義の味方

「そんな感情が何だというんだ。戦場の死は平等だ! 君はリーダーなのだろう!? チームの安全を最大限確保する、それがリーダーの務めだろう!」源稚生は大声で叫んだ。
「違う! 俺はリーダーではない! 俺は――」シーザーはゆっくりと言った。「正義の味方だ! いつかお前は俺が正義の味方か何かかと訊いてきたが、そうだ、俺が正義の味方だ! 友を見捨てないこと、それが俺の正義だ! 俺は俺の正義の為に生き、俺の正義の為に死ぬ!!」

 少女は髪を拭きながら歯を磨いていた。口元は歯磨き粉の泡でいっぱいになっていて、寝る前のシャワーのように至って日常的な光景だ。
 ロ・メイヒの背後は一面血だらけで、少女にそれが見えない筈もない。この状況で落ち着き払って歯を磨き続けるなんて、どれだけ世界に無関心だというのか。少女はロ・メイヒを冷ややかに見つめながら、歯を磨き続けた。
「君……君、会ったことあるよね……覚えてる?」ロ・メイヒは震えながら両手を上げた。
 初めて会ったのは水深七百メートルの海中だった。黒藍色の海水の中、少女の顔の記憶は曖昧だが、その深紅色の瞳と海藻のような長髪は、はっきりと頭の中に刻み込まれている。ロ・メイヒは確信した。氷山を踏みつけながら天から降り、一撃の下に大型龍の尸守を抹殺せしめた少女、オロチ八家の人型秘密兵器……。それだけの重要存在ならどこかの高級マンションで手厚く接待でもされてそうなものだが、この少女はこんな人間性の欠片もない病院の奥に閉じ込められている。まるで孤独な怪物のように……。
 孤独な怪物――ロ・メイヒの心は少し揺れた。彼はロ・メイタクの存在を誰にも絶対に話さない。龍王であるノートンとフェンリルを自分が殺したことも。経緯は複雑だが、彼は自分が禁断の領域に片足を突っ込んでいる事を理解していたし、その秘密が人に知られれば、自分が孤独な怪物になってしまうこともわかっていた。そうなれば他人から仰ぎ見られ、畏怖され、研究の為に閉じ込められ、フィンゲルと一緒に夜食三昧することもできなくなってしまうだろうから。
 その時、彼はまた恐怖した。あのニ十センチ厚の金庫扉、鋼鉄で固められた病室と排気装置のある通路は、彼女が逃げるのを防ぐためのものにちがいないのだ。オロチ八家がどれだけ彼女を恐ろしい存在と理解しているのか、その全てをこういう設備が物語っている! 彼女は金庫扉の向こうから軽描淡写に堕武者を殺してみせた。彼女のような孤独な怪物にとって、人命など価値のあるものではないのだ。だから死屍累々を目にしても髪を拭いたり歯を磨いたり、さも当然のように振る舞えるのだろう。彼女は堕武者より危険な存在だ。扉が開き切った今、彼女を妨げるものは何もない。
 少女は左の臼歯をしっかり磨いた後、右側に歯ブラシを移行させた。歯科医の言葉を一つ一つ忠実に実行していくかのような、丁寧で丹念な歯磨きだった。
 ロ・メイヒはふと思い出し、手を伸ばしてトレンチコートの裏ポケットから卵大のゴム製アヒルを取り出した。戦々兢々しながら彼女の目の前に捧げ、流暢でもない日本語で一語一句繰り返した。「コン……コンニチャ……コレ…キミ……キミノ……」
 少女はアヒルを見て、道端で子ネコや子イヌに出会った普通の少女のように目を輝かせたが、ロ・メイヒの顔に目線が移った瞬間、その目はすぐさま冷漠なものに戻ってしまった。古代の死刑執行人がナイフで死刑囚の身体を一寸一寸切り取っていったように、彼女はロ・メイヒの全身を上から下までじろじろと眺めた。ロ・メイヒは恐怖と羞恥で無意識に足を締め、胸の前に手を握り締め、身体を横に逸らした……黒いトレンチコートがシースルードレスであったなら、この動作はそれなりにセクシーだっただろうが。
 少女が突然爪の伸びた手を伸ばし、ロ・メイヒの頭に乗せた!
 指の甲が頭皮に触れた瞬間、ロ・メイヒは心の中で叫んだ。万事休す! まさか日本に九陰白骨爪の使い手がいるなんて!?
 少女は風のように爪を動かし、鶏のようにロ・メイヒの頭皮をがしゃがしゃと引っ掻くと、突然ぐっと顔を近づけてロ・メイヒを見つめた。しばらくして、彼女の顔に笑顔が湧き出した。薄く、冷たく、久遠の雪原に昇る朝日のような笑顔だったが、彼女の漫然としていた顔に、頬紅のような美しさが浮かび上がった。
 ロ・メイヒは突然何が起こっているのか理解した。海の中で彼女に出会った時、彼の髪の毛はぐちゃぐちゃだった。少女は彼を認識する為に、彼を海中の時の状態に戻さなければならなかったのだ……クソッ! ホストのベッタリワックスの何が悪いってんだ! さる老子の本体があのチリチリ白髪だとでも!? ロ・メイヒはパニックから解放され、憤りすらした。
 だが相手は人型の巨龍レベルの大殺戮兵器、ロ・メイヒが不満を露わにしても何の意味もない。「……エリイ=サン?」彼はおどおどしく尋ねた。
 ゴム製アヒルの横腹には、防水ペンで雑に「絵梨衣のDuck」と書かれていた。彼女の名前はエリイで間違いないはずだ。ほんの短い署名に漢字、平仮名に英語の文字が並んでいる。絵梨衣の語学教師は早死にしたのかもしれないと、ロ・メイヒは想像した。
 絵梨衣は頷きながら、歯を磨き続けた。
「ロ……Sakura、僕はロ・サクラだ……」彼女に本名を教える必要はないと、ロ・メイヒは判断した。
 絵梨衣は再び頷き、ロ・メイヒの手からゴム製アヒルを取り、それを自分の頭の上に置いた。彼女が纏っているのは大きなバスタオル一枚で、そこ以外に置く場所は無かったらしい……ロ・メイヒは突然この深刻な問題に気付き、顔を赤らめて身を翻した。

 通路の向こう側から大きな音がした。光はほとんどないが、ロ・メイヒはその時、通路の向こう側にある気密扉のガラス窓に貼りついた無数の惨白色の手と、その先端に備わる変形した鱗爪を見た。どれだけの堕武者が集まっているのかは分からないが、狂ったように扉を叩いたり、突撃したり、どうにか突破しようとしているらしい。中から漏れる血の匂いに引かれているのかもしれない。気密扉は堅固に作られており、観察窓も厚さ五メートルの高強度有機ガラスになっている。しばらく突き破られる心配はないだろうが、いつまで持つのかは分からない。この建物がいつ堕武者の巣穴になったのかは分からないが、今この瞬間、この嗜血性凶獣はビルの隅々にまで彷徨っている。
「逃げないと……逃げよう! ここに他の出口は!?」ロ・メイヒは顔面蒼白になった。
 絵梨衣は歯ブラシを口に咥え、片手でロ・メイヒの首筋を掴んで背後に引っ張り、もう片方の手で金庫扉に突き刺さった紅い長刀をいともたやすく引き抜くと、稚拙なフォームでその刀を投げた。よくあるただの日本刀が、超音速戦闘機のごとき衝撃波を響かせながら飛んでいき、医療室のテーブルに乗っていたコピー用紙や床の鮮血を波立たせて吹き飛ばし、高速回転を続けながら、ゆっくりと飛んでいく。さながらハリケーンでも吹き込んだかのように、通路一面に鮮血や白い紙、小さな金属片を飛び散らしながら、紅い長刀は音もなく気密扉を切り裂き、その周りを飛び回るコピー用紙が堕武者の肉体を高速でズタズタにしていく。
 言霊・審判! 人類を超越したこの奇跡をロ・メイヒが目にするのは二度目だった。絵梨衣はこの世界のあらゆるものを武器とする事が出来る。彼女が手にする全ては、彼女の齎す死の命令の信使となるのだ。
 この一撃で何人の堕武者が片付けられたのかは分からないが、轟音が過ぎ去った後の通路はまったくの寂静無声となった。
「逃げ……逃げよう!」ロ・メイヒは絵梨衣に手を伸ばしたが、届くことはなかった。
 堕武者の群れは一掃されたが、今までそれを阻んでいたであろう気密扉も消えてしまった。まだどれだけの堕武者がこの建物に居るのかも分からない。もしここに侵入されて混戦となれば、絵梨衣のような人型兵器はともかく、凡肉弱体のロ・メイヒはすぐにでも死んでしまう。
 そして彼の予想通り、黒い血でいっぱいとなった地面に何者かが足を踏み入れた。その惨白色の人型は細長い蛇の尾を引きずり、肩を並べて進んでくる。長い尾が地面に一筋の波を作り出すのは、さながらアップグレード版の『バイオハザード』である。だが今のロ・メイヒには弾数無制限のシカゴタイプライターなんてものもなく、堕武者はゾンビより遥かに機敏だ。……しかし、チーターよりも早く走り、車に轢かれても無傷な堕武者が、こんなにゆっくり進んでくるとは? ロ・メイヒは、堕武者たちの内に何か恐れのようなものがあるのを感じ取った。
 血だまりの中に沈んだ医療者たちの死体を見た絵梨衣は、悲しげな表情を一瞬見せた。彼女は人の死に無関心ではない。ただ鈍いだけなのだ。
 彼女は歯ブラシを口から抜いて捨てた。歯ブラシは放物線を描きながら通路に飛んでいき、堕武者の群れの前に滑り込んだ。普通のプラ製歯ブラシだったが、堕武者にとってはいつ爆発するかも分からない爆弾のように思えたのか、慄きながら歯ブラシから飛び退り、存在もしない警戒線を踏み越えまいとしている。エデンの園からアダムとイブが追放された後、神が扉の外に燃え盛り回る剣を置いたかのように。人類はもはやエデンに足を踏み入れることはできない。堕武者の絵梨衣への恐怖は、罪人の神への恐怖の如く。強者に対する自身の命の恐怖のそれではなく、至高の存在に無意識に平伏すようなものだった。

 絵梨衣はロ・メイヒの手首を握り、踵をかえして長い通路を歩いて行く。金庫扉の後ろにあったその通路は、床は木板で覆われ、両側に木製の引き戸があり、引き戸の後ろに燭台が置かれている。暖かい蝋燭の光がロ・メイヒと絵梨衣に格子状の陰影を投げかけ、ビャクダンの香りがどこからともなく漂ってくる。その通路は大きな古民家の一部のように、構成する全ての木材に永い月日を見てとることができた。木の床は何年も磨き続けたのか鏡のように明るく、埃一つ落ちていない。ロ・メイヒが靴を脱いで足を床に付けると、わずかな冷たさが浸透してきた。
 同行する少女の後ろ姿を眺めている時間ではないと分かってはいたが、ロ・メイヒは絵梨衣に目を向けずにはいられなかった。その背中は玲瓏なふくらみが露わになり、蝋燭の光に照らされた肌は淡い金色に輝いている。彼女が格子状の影を通り抜けていく様は、さながら月夜の竹林で笹の影の中を歩いていくかのようだ。
 ロ・メイヒは、ロ・メイタクの正直を認めなければならなかった。血みどろの世界の中で、鶏一匹捕まえられない書生が千年孤独の女幽霊に出遭う、まさに蘭若寺のようだ。
 絵梨衣は引き戸の一つを開け、畳敷きの床を指差し、恐らくロ・メイヒに待っていろと合図した後、翻って奥の部屋に入っていった。
 部屋の真ん中には掘りコタツが一つ備えられていた。ロ・メイヒはコタツに入って辺りを見回した。真っ白な壁には装飾らしい装飾がなく、天照大神、月読と須佐之男の彫像が吊るされているだけだった。あまねく陽光の中で八尺瓊勾玉を持つ天照、漆黒の満月の下で八咫鏡を持つ月読、少年の姿形で日本神話究極の神剣「天叢雲」を持ち、八つ首の巨龍の死体の上に立つ男神、須佐之男……ロ・メイヒは神道に学があるわけではないが、無数のアニメの中でよく見かけた元ネタの事は知っていた。
 この三体を除けば部屋に装飾品は一切無い。日本人の一般家屋でよく見られる生け花もなければ家具もなく、大きく開いたウォークインクローゼットの中に全く同じデザインの巫女服が大量に整然と並んでいるだけだ。絵梨衣はクローゼットに入ってもドアを閉めておらず、その中も掘りコタツが備え付けのベッドに変わっている以外は全く同じスタイルだった。「娯楽」と言える唯一のものは、某PS3が接続された一台の巨大な液晶テレビのみ。豪華絢爛と言うにはほど遠いが、久遠の年月を超えた桜木の廊下だけでも相当の価値があるのが分かる。もし自分の家にこんな廊下があったらゲストに披露したくてたまらないだろう。しかし、こんな家に一人で住んでいるのが、高齢になって宗教に帰依したおばあさんではなく、絵梨衣のような少女だとは。
 ロ・メイヒは背筋をぴんと張って座り尽くしながら、こんな部屋の暮らしがどんなものかを想像した。……荒野のど真ん中に一生立ち尽くす木偶、感じられるのは太陽の光、雨露、朝日に夕陽、自分がだんだんと一本の大樹になっていくかのような……。

 見た限り、絵梨衣とノノの年齢はそう変わらない。彼女は何年ここに住んでいるのだろう? 十五年、それとも二十年? 木偶人形のような心でもなければ、こんな所に住んでいたら病気になってしまう。
 ふと顔を向けると、絵梨衣が下着姿で奥の部屋から出てきた。鼻血で畳を汚さないようロ・メイヒは腰を弓なりに曲げてテーブルに突っ伏した。絵梨衣は意にも介さずにクローゼットから巫女服を引き出し、それを着た。彼女の服はそれしかないらしい。そしてロ・メイヒは確信した。彼女はこの部屋からろくに出たことが無い。スケベオヤジやヘンタイチンピラを見たこともなく、AVはおろか生徒に手を出す教師のニュースすら見たこともなく、だから男に対して無防備なのだ。彼女にとって、ロ・メイヒは単に同類の生物としか――胸が平らな種族のヒトとしか映っていないのだろう。
[いこう。]絵梨衣が小さなノートに綺麗な平仮名を書き、ロ・メイヒに見えるよう持ち上げた。
 その時、ロ・メイヒは理解した。彼女は言葉を話せない。だから常にペンと小さなノートを持ち合わせているのだ。
「え、何? どこに行くの?」ロ・メイヒは聞いた。
[外。]
「外は堕武者だらけだ!」
[もっと外に。]
 ロ・メイヒは絵梨衣に眩暈すら覚えた。絵梨衣の血統が堕武者も恐れない程強いと言っても、ロ・メイヒからすれば堕武者は恐怖だった。混乱の極みの外に出るより、ここで茶でも啜って待つ方がよっぽどいいはずだ。あるいはさっさとあの金庫扉を閉めて、PS3で一緒に遊べばいい! 『三国無双』だろうが『バイオハザード』だろうが、ハードモードでノーダメクリアするまで付き合ってやる!
[あそびにいきたいの。お兄ちゃんがいないから]
 その時ロ・メイヒは理解した。絵梨衣は家出したいのだ。彼女にとって、世界は内側と外側に分かれている。外側に出さえすれば、彼女は何でもできると思っている。
 絵梨衣はクローゼットを開け、そこから段ボール箱を一つ取り出し、ロ・メイヒに渡した。箱の中には様々なオモチャが入っていた。プラ製のウルトラ・フィギュアやポッケモン、リラックマーやコンニチハ・コネコのぬいぐるみ……その一つ一つに小さく[絵梨衣のUltraman]や[絵梨衣のRilakkumar]などと書かれている。絵梨衣にも普通の少女程の所有欲はあるらしく、おもちゃごとに自分の名前を書いていた。ロ・メイヒは絵梨衣の後ろで箱を持ち、凶悪な堕武者の群れに向かって、絵梨衣の足取りをピッタリ辿るようにして、恐怖に震えながら一歩一歩進むしかなかった。重苦しい血の匂いが、風呂から出たばかりの少女の石鹸の匂いと混じっていた。

 堕武者の群れが音もなく道を開いていく。抑制された叫びを喉の奥に隠し、頭を下げて地に伏し、絵梨衣への絶対的な従順を示した。だがロ・メイヒが通りかかると、何匹かの堕武者が口を開けて漆黒の牙を見せ、ただ唸っただけなのか、ロ・メイヒの首を咬みたくて仕方ないのかも分からない声を上げた。絵梨衣が突然手を伸ばしてロ・メイヒの手首を握ると、その小さな動きだけで堕武者はロ・メイヒが少女のものであると、頭を高く持つことも許されない絶対君主の所有物なのだと理解した。声は収まり、堕武者は再び首を伏して耳を窄めた。ロ・メイヒはその横を一歩一歩戦慄しながら歩いていく。絵梨衣は女王のようにその前を歩いて行くが、ロ・メイヒは女王の側近ですらなく、女王によって運ばれる皿の上のソーセージのようなものなのだ……。女王は空腹の狼の群れの中を歩いていき、狼は涎を垂らしながらも、女王の食べ物に手を伸ばすことはしない。
 とんでもない脱出劇だ! 脱出というか出荷というか――彼女は本当に少女なのか? それとも怪物中の怪物なのか!?
 通路の突き当りの壁には真っ黒な血の花が大きく咲いていた。その血の花の中心に突き刺さっていた紅い長刀を、絵梨衣は引き抜いてハンカチで綺麗に拭いた後、腰の鞘に納めた。そして小さなノートを取り出して何かを書き、ロ・メイヒに見せた。
[あとはおねがい。道がわからないの]
 わからないのにあんな堂々と歩いてたのか!? 君が知らないのに僕が知っているとでも!? 怪物の巣に真っ逆さまの道しか知らないぞ!?……ロ・メイヒは心の中で嘆いた。


 古銅色の手がソ・シハンの足首をガッチリとつかんだ。
 襲撃者はエレベーターシャフトの影に隠れ、ソ・シハンの足首を掴み、全身の体重で引き込みにかかった。その筋肉質の腕は世界トップクラスのボディビルダー並で、握力もすさまじい。ソ・シハンの武器は全てトレンチコートに収められており、咄嗟に振りほどくこともできない。エレベーターシャフトに落ちそうなソ・シハンを見て、源稚生は即座に手を伸ばして彼の襟首を掴んだ。ソ・シハンは全身を仰け反らせ、身体の殆どをエレベーターシャフトに引き込まれながらも、片手でドア枠を掴み、源稚生の助けを借りて耐えた。シーザーは連続で銃撃したが、鋼梁の上に火花を散らすだけで、ソ・シハンの背後に隠れた襲撃者を狙うことは出来なかった。
 目論見通りエレベーターシャフトにソ・シハンを引き込めなかった襲撃者は突然力を込め、ソ・シハンを引き下げながらその反動で跳び上がった。それは上の鋼梁を掴んで揺れ、細長い尾をソ・シハンの首に巻き付けた。金色の瞳孔が、暗闇の中に燃える一対の仏灯のように揺れる。
 人身蛇尾の怪物だった。滝のように長い黒髪からは、不断に水滴が垂れ続けている。長髪の中から突出した惨白に角ばった顔は、人間の女性のそれだった。鋭く長い歯が大きく裂けた口から飛び出し、二股に裂けた舌が小さな赤蛇のように震え、歓喜とも嘲笑ともつかない声を上げた。
 突然、その眉間に赤黒い花が咲き、水銀コアの鈍金破甲弾の弾頭が脳髄を破裂させ、頭蓋骨を破砕した。
 デザートイーグルから放たれた弾丸だった。シーザーは残りの弾丸も怪物の脳髄に打ち込み、目の前で頭部が完全に炸裂したのを見届けた後、足を上げて怪物の胸元に当て、エレベーターシャフトに蹴り落とした。
 その怪物の胸口を蹴り込んだ時、彼は複雑な気分を覚えた。まるで人間の女性の胸を蹴ったような、裸体の女性を乱暴に蹴りつけてしまったような罪悪感を覚えたのだった。
「堕武者……!?」ソ・シハンは首筋にまとわりついた冷たい粘液を拭き取った。怪物の長い尾は鱗と粘液で覆われており、さながら大蛇に巻き付かれたかのようだった。
 シーザーはその時ようやく、自分が倒したのが堕武者だったことに気付いた。堕武者の襲撃!
 彼は雑念を頭から振り払った。堕武者は堕武者であり、堕武者は人ではない。堕武者に堕ちた瞬間、彼らは人の魂を失っている。
 蛇形の死体はシャフト下の暗闇に落ちて行ったが、待てども底に落ちた気配はなかった。その理由はすぐに判った。シャフトの底の暗闇に忽然と数十対の金色の瞳孔を輝かせ、貪欲に血の匂いを嗅ぎつけた者達が、落下の途中でその女堕武者の死体に鋭い爪を伸ばして捕らえ、バラバラに引き裂いたのだ。四肢の末端から伸びるその爪は刀のように鋭利、女堕武者はまさに無数の刃に罰を受けたかのように切り裂かれた。鉄骨を上りつつある堕武者の群れの中で、その女堕武者は最も小さく、動きも軽快だったために、最も早く登り詰める事ができたのだった。
 シーザーは震撼した。悪魔の爪に心臓を抱かれたかのようにも思えた。彼は同じような光景をかつて一度だけ見たことがあった。高天原、尸守の巣――海中に漂うトリエステ号の中から、天へと昇る尸守の群れを、シーザーは見たことがある。
 彼らはいつの間にか、再び悪鬼の巣へと迷い込んでしまっていたのだ。
「こいつらは何だ!? お前らのペットか!?」シーザーは源稚生の胸元を掴んで大声で訊いた。
「仮にそうだとしても、自分の家で飼う馬鹿はいません! 米国防総省も核兵器をペンタゴンには置かないでしょう!?」源稚生はシーザーの目を真っすぐ見返した。
 シーザーは片時の間躊躇った。堕武者の群れを見て彼が最初に考えたのは、オロチ八家がこの建物でこうした危険生物を育てているという可能性だった。それは数匹の蛇が絡み合っているのを見て蛇の巣が近くにあると考えるような自然な思考だ。だが源稚生の反論も十分説得力がある。仮にオロチ八家が研究の為に堕武者を育てるにしても、本部に繁殖所を置くような愚かな真似はしないだろう。安全措置に問題が出れば、このビルは地獄と化してしまう。シーザーは源稚生が嘘をついているのかどうかわからなかった。
 ソ・シハンはトレンチコートからケミカルライトを取り出し、数度曲げてエレベーターシャフトに投げ込んだ。オレンジ色のライトが層々重々と殺到する鱗を照らし出し、エレベーターシャフト奥の鉄骨の上にびっしりと並んだ堕武者を露わにした。鉄骨に長い尾を纏わりつかせ、奇形の双爪で這い上り、猿か蛇か蜘蛛かのように蠢いている。その数は数十いや数百、数える事すらままならない。未だ動いているエレベーターも幾つかあり、金属製のカゴが堕武者の群れの至近距離を通過していく。パニック状態の人間を満載したエレベーターは冷汗と恐怖に満ち、人間が汗と共に分泌するホルモンやアドレナリン、あるいは傷を負った人間が滲ませる鮮血の匂いが混ざり合い、堕武者の群れにほとんど薬物のような刺激をもたらす。エレベーターが通りかかるたびに堕武者たちは鋭い爪でカゴの表面を削る。中の肉を喰らう為には鉄籠をすばやく切り裂く必要があるが、その方法を彼らは持っていない。
 エレベーターの中の人間にも、外からの奇怪な摩擦音や何者の激しい呼吸音は聞こえたのだろう、叫び慌てふためいているが、彼らに逃げ場はない。
「蛇尾の堕武者……見たことあるか?」ソ・シハンが訊いた。
「いや。今まで見て来た堕武者も色々な奇形がいたが、外見は大体人間だったはずだ」シーザーは言った。「ただ、人身蛇尾というシルエットには三つだけ心当たりがある。高天原、壁画の間、あとは『悪魔学』の授業だ」
 ソ・シハンは頷いた。「そうだな、高天原の『人魚』に似ている。だが奴らは生きている」
 外形は似ているが、尸守と蛇尾堕武者は異なる存在である。尸守は古代混血種のミイラであり、その肉体は激しく腐敗しているが、神秘的な生物錬金術が最後の精神とパワーを死体の中に封じ込め、都市の守護者として作り出したものだ。人類の歴史にも同様の野蛮習俗がある。例えばメソポタミア平原の古代王国では、都市の基礎を築く際に周辺に地下室を建設し、生きた人間を地面に埋め、その肩で基礎を支えさせたという。彼らは死して骨と化すまで支え続け、その死後も彼らの魂がこの都市の基礎を支え続けることを象徴したともいわれている。これは人類が龍族文明から学んだ儀式でもあるが、龍族が都市の基礎の下に埋めたミイラは、繭を破って活動することができる戦士でもあり、人類はその形を真似しただけに過ぎない。
 一方、堕武者は生物である。知性を失ってはいるが、自律する血と肉の塊であり、物質構成上は人類と大差ない。生殖・繁殖能力すら持ち合わせている。それが出現したということは、長らく絶滅したと思われていた古代種が人の世に再び現れたという事を意味する。事実上の恐竜復活である。
 この生きた「古の末裔」に、人類は対峙しなければならない。人類を遥かに超越したこの存在は、龍により近い混血種とも言える。
「堕武者の異常変形が、誘発されている……」源稚生が突然口を開いた。
「誘発? どういうことだ?」シーザーが冷ややかに訊いた。
「龍血の特徴として、遺伝子の複製因子を大幅に活性化させ、制御不能な突然変異を引き起こさせるというものがあります。皮膚の変化、骨の変形、血液組成の変化……この堕武者は蛇形の変形を遂げています。元々足があったものが変異の過程で尾に吸収され、今の姿になったのでしょう。骨の形は人類と爬虫類の中間、似ているものと言えばティタノボア……サーノイン教授の授業をサボっていなければ、知っているはずです」
 ソ・シハンは頷いた。「ティタノボア、Titanoboa、暁新世に生息していた、有史以来最大のヘビ。最大体長は約二十メートルといわれている……あれか?」
 源稚生が言った事は、ソ・シハンにもシーザーにも理解できることだった。三人とも、カッセル学院本科生の必修科目であるサーノイン教授の「古生物学史」を受講しているからだ。敵ではあれども、三人は間違いなく同門の徒であった。
「ヘビの祖先には足があったと言われています。進化の過程で消えていきましたが、ティタノボアのような古代種には変形した足の名残があるかもしれません。不完全な進化の結果として」源稚生は言った。「この堕武者共も、龍血に突然変異を促進され、人類と爬虫類の中間のような形態となったのでしょう」
「それが『誘発』というのは、どういうことだ?」シーザーは訊いた。
「進化を制御するというのは不可能です。龍血は単なる無秩序な変異の触媒に過ぎません。堕武者も進化の形態は様々なはずですが、この堕武者共は皆同じような蛇形の変異を遂げている……遺伝子技術が用いられた結果かもしれません。蛇形の変異というのは、奇形変異の中でも龍形に次いで高度で稀な進化ですが、此処の下に居る蛇形の数は見ての通り、数十体も下りません」源稚生は言った。「誰かが奴らを作り上げ、このビルに解き放った……つまり、これは計画的な攻撃だということです」
 シーザーとソ・シハンは互いを見つめた。信じられないことだが、確かに緻密に練られた犯罪計画のようにも思える。壁画の間に忍び込んで人間を殺し続けた暗殺者も、死者に残った傷が示している通り、人類とは思えなかった。堕武者の群れはエレベーターの中の人間の匂いにつられてシャフト内を上下に移動している。幸運にも橘政宗がビルを封鎖していなければ、このティタノボアのような凶獣が安全扉を突破して各階に侵入していただろう。このビルにいくら執行局のエリートが集まっているとしても奴らを阻むことは出来ず、ビルの床の隅々まで鮮血にまみれ、蛇の尾が残す波だけが残っただろう。
「つまり、この攻撃の目的はビルの占領ではなく、破壊です」源稚生はゆっくりと言った。
 彼の心は落ちつかなかった。橘政宗が下方の梁の上で待っているはずだが、今その梁は堕武者に占領されている。このビルにはまだ数百か千人かの人々が取り残されており、いつ堕武者のエサになってもおかしくない。何らの防衛手段も立てる事ができず、オロチ八家は堕武者の攻撃に有効な対処手段がない……時は一秒一分と過ぎて行く。今夜がオロチ八家の末日となるかもしれないが、源稚生の声に揺らぎはない。恐慌も錯乱も無用。彼が今すべきことは、シーザーとソ・シハンを説得し、協力してこの状況を脱すること……一度だけでもいい。この二人以外に肩を並べて戦える人間はいないのだから。
 ソ・シハンは小さく頷いた。占領ではなく破壊、それは歴史にもある征服王のやり方でもある。
「神の鞭」と形容され恐れられたフン族のアッティラ王は、西へ進出する際に征く先々の街を破壊して回り、土地や人を管理することなど微塵も行わなかったという。彼は絶世の鋭い矢のように、どれだけ遠くまで放たれてもその威力は衰えることがなかった。西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス三世はかつてこう尋ねたという。野蛮人は何を求める? ローマは神に愛された国、どんなものでもくれてやる、奴の野心はいかほどか! と。それに対して姉のホノリア王女が答えるには、彼が望むのは破壊、ただそれだけです、と。アッティラの方途はまさに龍王のように、相手を完全に破壊することだけを目的とした、磅礴なる怒りを纏った戦争、それはまさに龍族の戦争のようなものだったのである。
「理論上は、堕武者を制御することもできるんだったか?」シーザーは訊いた。
「古代ペルシャ王室では不死隊という名で堕武者が組織されていたらしいが、伝説の域を出ないな」ソ・シハンは言った。
 古代ペルシャ帝国においては、王室が一万人で組織された「不死隊」なるものを持っていたという。神話色の強い軍団であり、この軍団の戦士は不死であるとも言われ、地獄から来ただの、狩りに目が無いだの、重傷を受けても即座に自己回復するなどと語られている。正統な歴史学の観点から言えば、彼らは単によく訓練された戦士であり、戦場で多少の死傷者が出ても即座に人員が補充されることから不死と形容されたに過ぎないとされる。しかしペルシャ帝国の伝説では、彼ら戦士は驚くべき自己再生能力を持っているという。
 ソ・シハンはそこでシーザーが何を考えているのか理解した。人間あるいは混血種が堕武者を制御するというのはほとんど不可能に思える。となれば、可能性があるのは「神」――それが既に目覚めていて、この攻撃を仕掛けているのかもしれない。
「曲がりなりにも手を組むべき状況だと思いますが、どうでしょう?」源稚生は言った。
 数秒の沈黙の後、ソ・シハンは頷いた。「そうだな。学院の規則とアブラハム血統契約の双方に従い、シークレット・パーティの構成員として、命を懸けてでも龍族や堕武者から人類を守る。君とも協力すべき状況だろう」
「冗談じゃない! 協力だと? 何をバカな!?」シーザーは源稚生のこめかみに銃口を向けた。「こいつは偉大なる皇様、人か龍かと言えば龍というべき奴だ! こんな奴を信じられるか!」
 シーザーの言葉を聞いてソ・シハンも躊躇わざるを得なかった。源稚生は信頼できる人間か――「人間」であるなら、そうだっただろう。しかし思えば源稚生に出会って以来、彼らは常に死の崖縁を歩かされてきた。ここまで生きられたのは単なる運だ。
「俺達がこいつの為に一生懸命堕武者を倒してやったら、シャンパンでも開けてくれるのか?」シーザーは冷笑した。「舐めるなよ。どうせすぐに執行局の奴らを呼んで、英雄どころか囚人扱い、囲んで銃で撃たれなければマシな方だ。考えてみろ、ほんの数分前までこいつの刀は俺達の心臓を狙ってたんだぞ! さらに言えば、俺達が海の底で何度叫んでも、縄を切って深海に置き去りにしたのがこいつだ! 俺の言ったことは間違っちゃないだろう、ミナモト・チセイ=サン」
「ええ。チャンスがあれば、あなた方を取り囲んで確保はさせていただきます」源稚生はシーザーの目を見据えて、ゆっくりと言った。「どれだけオロチ八家に恩を売ったとしても、それは変わりません」
 シーザーは唖然とした。源稚生が自身の背信を弁明しようと躍起になるなら、鋭い言葉で嘲笑し、心底軽蔑してやるつもりだった。だが彼はいとも率直に認めてしまい、シーザーはしばらく口を噤むしかなかった。
「三つだけ言いましょう。一つ――」源稚生は言い聞かせるように言った。「男の為すべきことと、恩義は無関係です。男が大事を成す理由は、恩義のような小事からは生まれません」
「二つ。私は極道の者です。あなた方を深海に置き去りにするより、ずっと悪劣な事をしてきました。私は決して『良い人』ではありません」
「三つ。私を連れて逃げるなどとは思わないでください。手を貸すつもりが無いのなら、私の刀を置いて行きなさい。一族のリーダーとして、戦う義務がありますから」
 シーザーは自分の額に手をやった。熱でも出て聞き間違えたのかとも思えて、笑いすら込み上げてきた。
 魂の奥底から打ち倒されたような感覚だった。この種の感覚を引き起こさせたのは、これまでの人生でもロ・メイヒとフィンゲルだけだ。理想、情操、信念、尊厳、そういった崇高なものを全て投げ捨てたような態度が、真のエリートとして英才教育を受けたシーザーに精神的ショックを齎したのだ。源稚生がシーザーを打ち倒したのは「無恥」だ。自らの悪事を恥じることなく、当然のように理路整然と語る、そんな恥知らずがこの世に居るなど、シーザーにとっては信じられない事だった。
 シーザーは何度も頭を掻いた後、ソ・シハンに向いた。「聞いたか? 日本人の辞書には『善』も『悪』も無いらしい……忠孝や節義の欠片もない。お前達中国人が二千年かけて島国の辺境人どもに教えてきたことは、全部無駄だったらしいな!」
 ソ・シハンは小さく首を横に振った。彼はシーザーが不平不満を誰かに零したいだけだと理解していたが、だからといって何か言い返すことも無く、Uzi短機関銃のタングステン合金運動エネルギーカートリッジを交換し、シーザーの決定を待つだけだった。リーダーはシーザーなのだ。
 シーザーは源稚生の頭を銃先で小突くと、青筋を立てて天を仰いだ。「ふざけるな! 自分の正義も信じられないなら、そんな人生に価値などない! その頭を粉々にしてやる!」
 源稚生の言葉は、シーザーにとっては全身の肌が粟立つような、到底耐えられないものだった。自ら正義を為さないような者は、悪魔に魂を売り渡した、歩く死人のような者である。ガットゥーゾ家は例外なくカトリックを信仰しており、宗教的にいえば、こういった存在には人間である資格すらないのだ。
「言いたかったことは先の三つだけです。もう何も言う事はありません」源稚生は淡々と言った。
 彼の目は清澈、陽柔の美を備えた顔には「千万人と雖も吾往かん」とでも書いてあるかのようだった。戦国時代の名武士のように、敵の大群が地平線上に現れてなお、無表情に琵琶を弾き続けているかのようだ。彼は自らの命を、武士の命を理解している。一人の武士として、戦場で死ぬさだめにあることを悟り、人が運命の相手を待ち望むように、死地との出会いを待っているのだ。
ソ・シハンは理解していた。自分とシーザーがここから出ようとも、源稚生はここに留まり、堕武者の群れを待ち構えるだろうと。彼自身が言った通り、リーダーとして、一族への義務を果たすために。ここで彼を信頼する理由は確かに無い。しかしソ・シハンはこの時、彼がフランスに日焼け止めを売りに行きたいと言っていた時のような、奇妙な真剣さを彼に感じ取ったのだった。
 ソ・シハンはUziをリロードした。「皆、時間がない」
「俺はお前を信じない」シーザーは源稚生の目を見返した。「だがチャンスはやる。……お前を信じる奴らに、罪はないからな」
 ディクテイターが下から上に振り上げられ、源稚生を縛っていたロープが切断された。源稚生は礼を述べることも無く、シーザーの手から蜘蛛切をさっと奪い取った。
「Shit!」シーザーが小さく怒った。
 他に可能性があれば、彼が源稚生と協力することなどはなかっただろう。彼は源稚生を信じていない。日本人は「無恥」だからだ。戦国時代の大名などは、しばしば大義名分の為に仲間を犠牲にしていたという。兄上よ、天運が我に死を迫る故、我こそ代わりに死にたもう、などと涙ながらに言いながら、火縄銃で義兄の心臓を狙っていたり……源稚生であればわざわざ悲痛なパフォーマンスなどせずとも、一発で屍に変えられるだろう。だが彼のそれは単なる「無恥」というわけではないようで……源稚生の落ち着き払った態度には、深い悲しみが感じられて、まるでこの世のあらゆる罪を背負った悪霊のように、からっぽの魂になって必死に背中を支えながら、助力を請うて来ているとも感じられる……彼をこうまで疲れ倦ませ、嘆き苦しませるその信念、一体どんな信念なのだろうか? シーザーには分からなかった。
 少なくとも、このビルに留まっている多くの人間は無実だ。彼は危険を理解しながらも、源稚生に一度だけチャンスを与えることにした。

「まずは、シャフト内に奴らを足止めする。しかしこちらの弾だけではあれだけの堕武者は抑えられない。シーザー、そっちの弾はどうだ?」ソ・シハンは訊いた。
「残りの弾倉は二つ、全部で十四発だ」シーザーは新しいマガジンを取り出し、銃柄に詰めた。「全弾当てても、殺せるのは精々五体ぐらいだろうな。奴ら、知性は無いに等しいが、肉体組織は龍類に劣らない」
「なら、Uziのタングステン弾の効果も限られるか。弾が無限にあるというなら別だが」ソ・シハンは源稚生を見た。「接近戦になると、皇の身体でも堕武者の集中攻撃には耐えられないんじゃないか?」
 源稚生は屋根から吊り下げられた阿修羅の木彫画の前に立ち、その裏に隠されていた橘家の家紋を動かすと、木彫画が壁の一部と共にスライドし、隠されていた空間がシーザーとソ・シハンの目の前に現れた。内部のディスプレイキャビネットがかすかな青い光を発している。
「オロチ八家の珍宝館へようこそ。今夜は無制限大サービスです」源稚生は扉の前に立ち、シーザーとソ・シハンを手招きした。
「お……!?」シーザーは驚くほかなかった。
 見渡す限りに武器が並んでいた。日本刀や十文字槍から始まり、ピストル、ショットガン、ライフル、サブマシンガン……隅に置かれているのは伝説のガトリング重機関銃、壁に掛けられている光沢を放つ甲冑は十七世紀にフィレンツェで作られた白鉄重鎧だろう。日本風の南蛮胴具足まである。オークションに出せば高値が付くような代物ばかり、世界に一つしかない物まである。このコレクションに比べれば、ガットゥーゾ家の武器博物館ですら見劣りしてしまう。シーザーは日本刀を抜いて具合を試してみた。当てたシャツの袖口はいとも容易く裂かれ、その刃は千年以上の歴史を経てなお、研がれたばかりのように鋭いことがわかる。
「オロチ八家の武器博物館といったところか?」シーザーは鋭利な刃を鞘の中に納めた。
「近現代の武器は全てここにあります。古刀は父上の刀剣博物館にありますが」源稚生は刀の柄でショーケースのガラスを叩き割り、武器を一つずつ取り出して並べた。
 ソ・シハンはステン短機関銃を手に取って調べた。第二次世界大戦中、イギリスで作られたサブマシンガンだ。古い銃だが、保存状態は良好で、丹念な錆取りと油差しが行き届き、今すぐにでも使えそうな状態だった。
「ほとんど古いものばかりですが、ご自由にどうぞ。不発や不具合があるかもしれないので、保険として多めに持っていくといいでしょう」源稚生はショーケースから金細工の嵌められたコルト・リボルバーを取り出し、シーザーに向かって投げた。
 アメリカ西部開拓時代、記念品として特製された「バントライン・スペシャル」という銃だ。特殊な弾丸を使用し、驚くべき大口径を誇り、当時の記録でもパイソンの頭蓋骨を一撃で粉砕したとされている。唯一の欠点は反動が大きすぎることで、銃に不慣れな人間が扱えば一発撃っただけで後ろに転げてしまうのだという。シーザーは口笛を吹いた。デザートイーグルを獲物とする彼にとってはこの上ない選択肢だ。
「水銀爆裂弾です」源稚生はシーザーに弾薬箱を投げた。「学院開発の鈍金コア破甲弾ほどの貫通力はありませんが、炸裂して水銀の霧を作り出せます。龍類や堕武者を抑えるには有効かと」
 シーザーはクローゼットの中にスペイン製フリントロック式マスケット銃を見つけた。貴族風の猟銃で、銃柄には象牙とエナメルが装飾されている。直径二センチほどの口径は、この旧式猟銃が凄まじい火力を持っていることを物語る。当時の貴族はこれを使ってライオンやサイを狩っていたのだ。シーザーは葉巻を手に取り、猟銃に弾薬を詰めて口元に銃口を寄せると、大きな音が鳴り響き、葉巻に火が付き、鉛弾が天井に反射して床を叩いた。どうやらこの部屋の床の硬さは「変態」レベルで、これだけの威力を持ってしても穴一つ開ける事すらできないらしい。
 彼が骨董猟銃を背負って振り返ると、そこには紅漆塗りの南蛮胴具足を身に着けた源稚生がいた。
「Cosplay?」シーザーはウィンチェスターM97ショットガンを手に取り、古銃に弾を込めようと力を入れた。銃身の側面に触れると十二条の刻印があった。かつてこの銃を使った兵士が、戦場で十二人の敵を殺した、ということなのだろう。
「銃だけでシャフト内の敵を抑えられるかは分かりませんから。接近戦の用意もした方がいいかと」源稚生は深呼吸し、ベルトをきつく締めた。
 甲冑を身に着けた源稚生は、まるで戦国時代の若大名のようで、腰には長刀、蜘蛛切と童子切、そして下腹部にはモーゼル・ピストルが提げられていた。
「別の様式もありますよ。好きなものをどうぞ」源稚生はずらりと並んだ眩くばかりの鎧の列を指差した。
 シーザーは少し狼狽えた後、ガトリング重機関銃と弾薬箱を手に取り、外に出た。「わからん、日本人の美的感覚は……」
 ソ・シハンはキャリングバッグ一杯にステン短機関銃とトンプソン・サブマシンガンを詰め、名刀を束ねて背負った。キャリングバッグを両手に外へ出ると、黄銅製の弾丸がバッグの中からカラカラと音を立ててこぼれ落ちていく。
 二人の男の背中を見て、源稚生は突然、深海での光景を思い出した。有肺類の山に胸まで浸かりながら進む二人が、源稚生の指示に従って小型核動力炉を手動で爆発させようともがいていた時。高天原が崩壊し、海底の亀裂はさらに広がり、マグマが水中で光の軌跡を描くと、大海が白昼の如く照らされ、ツェッペリン深海作業装備が変形していく……それでも二人は歩みを止めることも退くこともなく、不器用なアヒルが水を掻くかのように、只々全力で前へと進もうとしていた。
 源稚生は深い息と共にタバコの煙を吐き出し、足の裏で吸殻を踏みつぶした。

 絵梨衣が立ち止まり、自動販売機のオレンジ色の飲み物を指差した。最近女子に人気らしい、親垣結衣が主演のCMが毎日テレビで流れているそのジュースは、ロ・メイヒも知っていた。
「それが飲みたいの? はいはい、分かったよ。ここを出てからいくらでも飲めばいいのに……」ロ・メイヒは愚痴りながら、ポケットから小銭を取り出した。
 ジュース一本ぐらいの金銭的損失などはどうでもいい。問題は、決して遠くない場所から堕武者の大群が彼らを見ている事だ……異形の凶獣は身を低くし、巨蛇のように揺れ動きながら、焼け付くような視線でロ・メイヒを見つめている。小さなものは三~四メートル、大きなものは五~六メートル。学院寮室の幅ほどもあるその身長は、立てばロ・メイヒの二倍以上の背丈になるだろう。現存するヘビ類の中で最も重いのはアナコンダとされ、人類も半トン程の重さのある巨大アナコンダを捕獲したことがある。これら堕武者の重さは恐らく百キロを下らない程度だが、でっぷりと太った腹を持っているわけでもなく、マスケット銃弾並の高速で動くことができる。要するに、生き残る確率はどれくらいだとか、そういうことを考えても無意味だという事だ。仮にこの堕武者たちの八割を仕留められたとしても、あるいは残り一匹や二匹いるだけでも、ロ・メイヒは一撃でも喰らえば死んでしまう。彼は銃の安全装置を解除し、腰に挿すと、尻に火が付いたような気分になった。
 今いる場所は恐らく六階だ。幸いにもこの階の人間は全員避難したらしい。そうでなければ今頃死体安置所と化していただろう。堕武者は階段を上り下りしていたが、ロ・メイヒはあのヘビのバケモノがこの階に来るとは思わなかった。恐らく絵梨衣のプレッシャーが効いているのか、堕武者の群れは決して近づこうとはしないが、あの欲深い生物のことだ、「ごちそう」であるロ・メイヒの事を諦めたりなどはしないだろう。一方の絵梨衣は何の不満も見せることなく、ロ・メイヒを連れて思いつくままに道を進んだり進まなかったりした。
 二本の飲み物が取り出し口に落ち、ロ・メイヒはオレンジ味ジュースを絵梨衣に渡した。もう一つは自分用の缶ホットコーヒーだ。
彼はスマホ画面の建物構内図を見つめた。出口は数多いが、そのどれの先にも、恐らく執行局の構成員を表しているであろう赤い点が表示されている。そして建物中央部と彼らの背後に密集している金色の点が表すのは……ロ・メイヒはそこで理解した。建物の中央部はエレベーターシャフト、今や堕武者の巣穴となっている場所だ。
[まいごになっちゃった]絵梨衣はノートをロ・メイヒに見せた。
「いや、迷子っていうか、同じところをグルグル回ってるだけだよ……道がわからないなら、僕についてきて」少なくとも地図はあるのだから、と、ロ・メイヒは心の中で意気込んだ。
[見つかったら、かえらないと]絵梨衣はノートを掲げると、上を指差し、真下を指差した後、自分の耳を指差した。
 ロ・メイヒはハッとした。絵梨衣が指差した方向はどれも出口に続く抜け道だが、スマホの画面をよく見てみると、そのいずれにも執行局の見張りが付いていた。ロ・メイヒたちから少なくとも数十メートルは離れていたり、階が違っていたりするにも関わらず、絵梨衣は気付いている。唯一考えられる可能性としては、彼女は「鎌鼬」のような知覚強化の言霊を使わずともシーザーと同等の聴力を有している、ということだ。絵梨衣を中心とした巨大な空間の中は、ほんの些細な音も聞き漏らされることはない、まさに不可視の全知領域といった様相だ。
 絵梨衣があちこちへハエのように回り道をしたのは、見張りを避ける為だったのだ。
 それだけの力があって、何で家の人たちなんか怖がるんだ?……ロ・メイヒは心の中で言った。家の人をずらずらと引き連れてリムジンを回させて、オレンジ味でもリンゴ味でもケース一杯のジュースを持ってこさせて、止められようものなら[遊びに行く]と書かれたノートを振る、それでいいじゃないか。全知全能なのに外で遊んじゃいけないなら、そんな全知全能に何の意味がある?
「仕方ないな……やってみるよ」ロ・メイヒはスマホを取り出し、画面の『緊急支援』ボタンをタップした。迷子になった頃に突然現れて点滅し始めたボタンだった。
 ガラス窓の外からガラガラという音が聞こえたかと思うと、黒影が上から降りてきて、ガラス窓の外で止まった。外壁掃除に使われている作業用エレベーターだ。どういうわけか、ロ・メイヒのスマホがこのエレベーターに指示を出し、最上階から降りてきたのだ。
 このエレベーターに乗ってどうなるのかは分からないが、ロ・メイヒが今信頼できるのは小悪魔だけだった。今夜の小悪魔はたぶん大丈夫だろう。ほとんど全裸の少女に遇って、彼女を連れ出す、イベントはそれだけのはずだ。唯一の問題は……この少女が人類なのかどうかだ。
 絵梨衣が初めて驚きの表情を見せ、ノートに[すごい]と書いてロ・メイヒに見せた。そうだね、スゴイ男に見えるだろうね……ロ・メイヒは心の中でそう言いながらも、可愛らしい少女の前で面子を立てられたことに気を悦ばせた。
 ロ・メイヒが絵梨衣をガラス窓に向かって引き寄せると、突然、廊下の向こう側から凄惨な悲鳴が聞こえてきた。堕武者の群れが背の高い鉄製キャビネットを囲み、貪欲にその中身の匂いを嗅いでいる。この階にまだ人がいたのだ。逃げ遅れて、キャビネットの中に隠れるしかなかった女性がいて、堕武者が彼女の匂いに気付いたのだ。何てバカなことを!……ロ・メイヒは心の中で言った。『バイオハザード』か『メタルギア』のやりすぎじゃないのか!? キャビネットなんかに隠れてやり過ごせると思ってるのか!?
 堕武者が身を起こし、蛇のような尾を露わにする。絵梨衣の前で伏していた時は一メートルにも満たなかったその体躯が、突然二メートルを超える屈強な肉体となった。その鋭い爪が鉄製キャビネットを突き刺すと、亀裂から血が噴き出し、鋭利な爪の表面の角質に沿って流れた。中の女性が痛みに泣き叫ぶと、堕武者はさらに身体を伸ばし、さながら竪笛を奏でる蛇使いのように高揚する。ロ・メイヒは目尻をひくつかせ、キャビネットの中の女性の絶望を感じ取った……あの長江三峡ダムの底、潜水鍾に閉じ込められながら、外に流れ出る血を見るだけだったあの時と同じだ。彼は駆けつけることも手を出すこともせず、ただ無意識のうちに、絵梨衣の手を強く握った。
[Sakuraはあれ、きらい?]目の前にノートが掲げられた。
「誰が好きなものか……君は好きなのか!?」ロ・メイヒは呟くように言った。「人殺しなんだぞ……」
[わからない、Sakuraがきらいならぜんぶ殺す]
 絵梨衣はノートを袖に入れ、無表情で長刀を抜いた。彼女に表情の機微は少ないが、その無表情はソ・シハンのものとは全然違う。ソ・シハンの無表情は凄惨なる孤独から来るものだが、絵梨衣の無表情はあらゆるものに対する無関心、あるいは無知からだ。
 空気が奇妙に震えた。絵梨衣は何の声も出さなかったが、ビルの外に古代の呪文を唱える巨人がいるかのように、重々しい震動がビルの表面を奔り、耐震ガラス窓の上に一つ、また一つと円形の白斑を刻み、ガラス窓が割れた。まるで次々と殺到する流星のように、空気振動がビルの外壁に叩きつけられていく。床が震え、テーブルと椅子が震え、動き出したかと思うと、堕武者がキャビネットを諦めて地面に伏した。一切の恐怖と痛みを忘れた堕武者が、この瞬間、再びあの「至高」に圧倒されたのだ。
 ロ・メイヒには、もはや地震が続いているのか、絵梨衣の言霊が効いているのかもわからなかった……ここまでする謂れはない! 言霊なら言霊らしく、もっと単純でいいのに! 毎度毎度天変地異を引き起こす必要なんかあるのか!?
 絵梨衣の双眸は金色の大海が満ちているかのよう。その潮が彼女の瞳孔に最後の暗紅色を一筋残すと、彼女は刀で目の前の虚空を横薙ぎに斬った。剣術の欠片もない、ただ無造作に振っただけで、一切の音も振動も消え、その瞬間、その階全体に寂静が訪れ――

死んだ。

 紙切れ、ペン、ゴミ箱、コンピューター、電話……コピー機やそれ以上に大きな物までが全て宙に浮かび、次の瞬間、四散した。鋭利な破片と空気の砕片が一挙に広がり、さっき通路で起こした竜巻のように、堕武者の群れの黒い血がインクのように飛散した。効果は全然違うものの、結果は同じだ。その領域の中では、彼女が死ねと命じた存在は死ぬ。
 絵梨衣は刀を鞘に納めたが、その周囲はまるで爆撃された後のような様相だった。
 ロ・メイヒは鉄製キャビネットに駆け寄り、その扉を開けた。制服を着た女性はキャビネットの隅に縮み込み、目を見開いて、泣くことすらできないでいた。幸いにもキャビネットが破片を防ぎ、彼女に影響はなかったようで、堕武者の爪も肩に深い傷を残してはいたが、致命傷にはなっていない。ロ・メイヒが別のキャビネットから救急箱を探し出して彼女に渡す間に、絵梨衣はガラス窓を小突いて粉砕していた。彼女は作業用エレベーターに乗り込むと、暴風雨に曝され、夜風の匂いにくしゃみをしながら、明るく照らされた東京湾を呆然と見つめていた。

 シーザーは防音ヘッドホンとサングラスをかけ、ガトリング重機関銃の銃口を下に向けると、ソ・シハンと源稚生に親指を立てて振った。
 堕武者の群れが鋼梁の間を飛び交い、鋭い爪で鋼鉄に深い痕を付ける。フレッシュな食物が近くにあることを感じ取りつつも、見つからないことに苛立っている様子だ。そんな中で、エレベーターの一つが停止して堕武者に取り囲まれている。高速走行中に一匹の堕武者の尻尾を切断し、エレベーターのコンピューターが自動で異常と判断し停止したのだ。堕武者たちはエレベーターの上側に食い付き、力を合わせて鉄の皮を引き剥がそうとしている。それはいわば、カンヅメを素手で開けようとする空腹の人間たちのようなものだ。尻尾を失った堕武者は血を流して尚死なず、鋭利な爪を鉄箱の表面に食い込ませ、この類まれなる饗宴の機会を逃さまいと躍起になっている。エレベーターの中からは女性の絶望の悲鳴が響く。
「まずい!」源稚生が蜘蛛切を抜いて自分の手首に軽く当てると、ポタポタと垂れる血がエレベーターシャフトに流れ込んだ。
 血が一滴、堕武者の一匹の額に当たった。御馳走のカンヅメを開けようとしていた堕武者たちが突然動きを止め、鼻孔をひくつかせてその神秘的な匂いを嗅ぎ取ると、まるで恵みの雨でも降ったかのようにゆっくりと顔を上げた。堕武者は舌を伸ばして額の血を舐めようとするが、変形した舌先でもなお届かず、嬰児のような叫び声を上げて憤った。さらに多くの血がその顔に滴ると、その叫びの中に狂喜が混じっていく。だがその喜悦もほんの数秒しか続かない。周囲の堕武者がその血の美味を味わわんと殺到し、その顔に飛び掛かって次々と噛みついたのだ。顔を咬まれた堕武者はエレベーターシャフトの奥へ落ちていき、別の堕武者が同じ場所に取って代わる。その熱き血の流れを少しでも舐めようと、堕武者の群れは互いに食らい合いながら、源稚生の下へと集まっていく。まるで数百年飢え続けてきた悪鬼のように。
「なるほどな! 堕武者どもに味覚があるとすれば、皇の血は白トリュフみたいなものだ!」シーザーは賞賛した。
「堕武者から見れば、私は最高の食材のようですね。何故かは分かりませんが」源稚生は淡々と言った。「奴らはより高位のものを求めているのかもしれません。地獄の苦痛から逃れるために」
「苦痛だと?」シーザーは一瞬驚いた。
「終わらせましょう」源稚生は呟いた。「苦痛を終わらせられるのは、死だけです」

 エレベーターシャフトの奥の堕武者たちは歓喜欲狂、エレベーターに群がっていた堕武者たちも新鮮な人肉には今や見向きもせず、いそいそとシャフトを登り始め、我先にと壁画の間へと這い上がっていく。彼らにとって壁画の間はいわば饗宴が開かれようとするレストランであり、源稚生の鮮血は最高のメインディッシュなのだ。
 ガトリング重機関銃が咆哮を始める。引き金を引いた刹那、数十発の黄銅弾頭がエレベーターシャフトに落ち、一番乗りを決めようとしていた堕武者の脳天を直撃、一瞬で頭部を粉砕した。転げ落ちる堕武者が墜ちる間に、更に数十発の弾が命中する。
 およそ一メートルの銃身から伸びる銃口の炎は松明のように噴き出し、猛烈な銃声は雷雲の中にいるかのようにけたたましい。防音ヘッドホンとサングラスが無ければ、シーザーの耳と目は無事では済まなかっただろう。
 ソ・シハンのステン短機関銃と源稚生のトンプソン・サブマシンガンも「弾幕メーカー」に仲間入りした。二人はエレベーターシャフトの鋼梁の上に立ち、常に新しい弾丸や銃を取り出せるようにキャリングバッグを前に吊るして準備していた。
 金属弾頭の嵐が堕武者たちの喜悦を打ち砕く。一番乗りの堕武者は連続射撃で頭部を粉砕されたが、それ以外の堕武者は多少傷がついた程度にとどまった。尋常でなく屈強なヘビのバケモノ相手では、大抵の弾は鱗に火花を散らすだけで、何とか貫通した数発の弾も肉体を貫通できずに硬い骨の前に止まってしまう。エレベーターシャフトの中には限界まで開いた巨大な口がいくつも現れ、上方のシーザーに向かって金切り声を上げた。
 それが怒りの叫びであることはシーザーにも理解できた。堕武者は尸守とは異なり、感覚神経を持っている。四肢を断裂しても髪を引き抜かれる程度の痛みであり、退かせうるほどではないのだが、凶暴さに火を注ぐには十分だった。
 シーザーはガトリング重機関銃をしっかりと握り締め、下方に向かって金属の嵐を吹かし続けた。ガトリング重機関銃は時代を変えた武器である。改良された同種の武器は最大で毎分一万発にも達する。シーザーは断続的な発射によるバレルの過熱ばかり心配していたが、ソ・シハンと源稚生のサブマシンガンが火を噴いた後は、弾が密集しすぎて互いに弾け合う程になってしまった。堕武者は野獣程度しかない知能を働かせ、即座に鋼梁の下に潜って弾丸の雨を避けることを覚え、弾幕の合間を縫って登るという機転を利かせた。
「撃つだけじゃ駄目だ! 時間稼ぎにしかならん!」シーザーは弾倉を交換する間隙に源稚生とソ・シハンに向かって怒鳴りつけた。怒鳴り付けるしかなかった。ガトリング重機関銃が一度咆えれば、耳元でシンバルが鳴らされても何一つ聞こえないのだから。
源稚生は弾の尽きたトンプソン・サブマシンガンをエレベーターシャフトに投げ捨て、第二次世界大戦中に米軍が標準配備していたM3サブマシンガンをバッグから取り出し、射撃を続けた。彼はシーザーの言葉の意味を理解していた。弾丸の雨が堕武者の群れを十分抑制しているのは確かだが、これまでに撃ち殺せた堕武者は精々十匹にも満たず、その間に堕武者の群れは八階から九階へと登っていた。このまま続けたところで、堕武者が源稚生のいる階に到達するのは時間の問題だ。一方、源稚生の当初の目論見は、派手に銃撃を行うことで建物内に何百人といる執行局エリートの警戒を喚起させることだった。例外なくA級混血種である彼らの力を借りれば、地形に乗じて堕武者をエレベーターシャフト内部に閉じ込めつつ殲滅することもできたはずだった。だが、まるでこのビルには既に彼ら三人しか残されていないかのように、駆け付ける者は誰もいなかった。源稚生のスマートフォンも戦闘の最中で壊れたらしく、外界との連絡は全て断たれた。最後に信頼できるのはただ一つ、今この手にある武器のみ。
 ソ・シハンも新しいステン短機関銃に持ち替えた。手を止めて弾を込める暇もない現状ではバッグの中に溢れる弾丸は何の役にも立たない。シーザーが弾倉を交換している間、機を伺って這い上がろうとする堕武者を抑えるには両手に短機関銃を持って撃たなければならなかった。短機関銃の銃身もガトリング重機関銃と同様、高速射撃で少しずつ銃身が赤くなっていく。このままオーバーヒート状態になればいずれ弾詰まりが発生し、致命的な隙を与えてしまう。
 ガトリング重機関銃が再び唸りをあげた。シーザーが弾倉を交換し終えて、眼前に迫っていた危機は回避された。源稚生はこの隙に自分の銃のマガジンを交換しつつ、周囲を見回した。エレベーターシャフトの鉄骨を完全に破壊し、堕武者の群れを一挙に叩き落せないか――。いくら堕武者でもこの高さから底に落ちればただでは済まないはずだ。しかし、高速エレベーターの運行を支える超剛性フレームは「君焔」を使ったところでびくともしないだろうと思えて、源稚生はこの思い付きをすぐさま振り捨てた。
 彼がマガジンを換え、再び撃ち始めようとしたその時。突如上方から重く生腐った臭いがするのを、彼は感じた。
「避けろ!!」彼は叫んだが、射撃に全神経を集中させていたシーザーには聞こえなかった。ガトリング重機関銃の巨音が全ての音を覆い隠している今は、シーザーの「鎌鼬」も使えない。
 源稚生は短機関銃を投げ捨て、二刀抜刀、空中に跳んだ。「巻刃流」と「逆巻刃流」の予備動作を整え、十字型の刀光が宙に浮き、滴り落ちる黒い血が源稚生の鎧の上に血痕を残した。
 堕武者の知能は想像を彼らの想像を超えていた。三人が真下の堕武者に火力を集中している間に、攻撃の機会を伺っていた堕武者たちは別のエレベーターシャフトを通じて真上に回っていたのだ。まさにバイキングテーブルに乗せられた料理のように、最も近いものは既に源稚生からわずか一メートル弱しか離れていなかった。
 傷を受けた堕武者はエレベーターシャフトに墜ちたかと思えば、空中でひらりと身を翻し、その鋼鉄のように硬く長い尾をシーザーに向けて繰り出した。シーザーは身を仰け反らせて躱したが、尾はそのままガトリング重機関銃の銃架に伸び、それをギチギチと締め付けたかと思うと、エレベーターシャフトに引きずり込んで落とした。
 更なる黒影が次々と高所から落ちてくる。上方に隠れていた堕武者は一匹ではなかった。
 源稚生は鋼梁に沿って走り、刀を振るって堕武者を押し退け、足場から突き落としていく。シーザーはデザートイーグルを抜き、水銀コア弾頭を堕武者の肉体に一発ずつ撃ち込んでいった。対龍族用に開発された弾丸は堕武者に明らかな効果を及ぼし、撃たれた堕武者は一匹残らず泣き喚きながら墜ちていく。上下左右全ての鋼梁が堕武者に占拠され、梁と梁のあらゆる隙間に黒と赤の血が飛び散っていく。黒の血は堕武者の血、赤の血は源稚生の血。上方から忍び寄る堕武者の刃がその肩甲骨をかすめる。フリガ弾の効果がまだ残っているのか、源稚生の力はかなり弱っており、骨格や筋肉の強化もできず、機敏さも剛直さもシーザーやソ・シハンと対峙していた時に見せたそれとはかけ離れていた。
 ソ・シハンはUziサブマシンガンを腰から抜いて撃ち、シーザーと自身の周辺の堕武者を追い払おうとした。だが一目見下ろしたその瞬間、彼の背筋から脳天にまで寒気が奔った。弾幕が消えたそのほんの数十秒の間に、下方の堕武者の群れは素早く這い上がり、最も速いものは既に距離にして二十メートルも離れていなかった。泣き喚く声は奇怪なハーモニーと化し、エレベーターシャフトを震わせる。この一波を凌げなければ、防衛線は完全に崩壊してしまう。
 ソ・シハンは猛然と目の前に提げていた鞄をひっくり返し、何千もの弾を黄銅色の雨の如く落とした。次いで彼はまた別の何かをシャフトに投げ入れた。電子ヒューズの付いたC4プラスチック爆弾だ。彼が下げていたもう一つの鞄には、プラスチック爆弾が満載!
 爆弾はおよそ二十メートル落ちたところで爆発した。衝撃波と火光はシャフトに阻まれて上下に伝播する。三人は深い井戸から立ち上る火の雲の美しい光景を目の当たりにした。烈火の中で全ての弾丸が爆発し、何千もの弾頭がシャフトの中で高速反射する。蛇形の黒影は一匹残らず弾丸と火の雨に呑み込まれ、シーザーと源稚生もまた若干の巻き添えを喰らった。だがシーザーは一声「よし!」と叫んだ。ソ・シハンの機転はシーザーにも傷をつけたが、堕武者の牙にかかるよりは弾丸に撃たれ死んだ方が彼にとっては本望だった。シーザーは両手でデザートイーグルを撃ちかけ、一匹の堕武者に断末魔を鳴かせた。シーザーの目の前まで迫っていた堕武者は、銃口からの炎に焼かれながら最後の水銀コア弾丸を口腔に受け、水銀元素に脳髄を吹き飛ばされた。その堕武者が甲高い声をあげながら暗闇に墜ちていく中、源稚生も一匹の堕武者の心臓を刺し貫いた。
 黒くべとついた血をゆっくりと流しながら、三人は沈黙した。
 武器も地形も活用し尽くしても、しっかりと仕留められた堕武者は精々十五匹程度だった。もはやティタノボアだの何だのという話ではない。最新式の時限爆弾ですら致命傷にならない危険生物……どれだけ突き落とそうとも長い尾を使って鉄骨をよじ登り、全身に血痕をつけながら登り続ける。そして人類の側の切り札であるガトリング重機関銃も、既に失われてしまった。
 もはや鋼梁の上に陣を構えることは出来ない。彼らはビルの中に飛び込み、シーザーと源稚生は重い神輿の鉄輪を動かしてエレベーターの扉を塞いだ。ソ・シハンが武器庫から出てきて、三人分のサブマシンガンと銃弾をそれぞれに投げ渡した。これが精々時間稼ぎにしかならないというのは三人とも承知の事だった。どれだけ神輿が硬かろうが重かろうが、堕武者の人間離れした力なら無理矢理動かすこともできてしまうだろうし、そうなればすぐにでも壁画の間へとなだれ込み、盛宴に踊るに違いない。源稚生はメインディッシュ、シーザーとソ・シハンがサイドディッシュ、そこらに転がる死体はデザートだ。仮に堕武者が突撃しなくても三人は死ぬ。壁画の間を燃やす火は未だ燃え続けている。可燃物の少ないこの場所では火も遅かれ早かれ消えるだろうが、燃え尽きる前に空気中の酸素が使い果たされ、人間は窒息死してしまう。
 三人は神輿に寄りかかって大きく喘いだ。シーザーとソ・シハンが出来る限りの速さで弾を込める間、源稚生は炎に包まれた壁画の間を見つめていた。尸守の標本が燃え尽きかけ、青銅のように輝く暗金色の骨格を露わにしている。

「C4爆弾、残りはどのくらいですか」源稚生は突然訊いた。
「15ポンド、だがどうも奴らには効かないみたいだ。C4が無理なら『君焔』でも無理だ」ソ・シハンは言った。
「爆発は効かないかもしれませんが、炎ならどうでしょう。たとえば尸守、人魚の油は燃えやすく、素晴らしい燃料になりますよね」
 ソ・シハンは驚いた。「だが、さっきの爆発で奴らは燃えなかった」
「それは、奴らが生きているからです。尸守は脱水されたミイラですが、堕武者は大量の水分を含んでいますからね。ですから、燃やすためには火の中に長時間留まらせる必要があります。この壁画の間の密閉空間なら、最高の火刑場になると思いませんか?」源稚生は大声で言った。
「堕武者をオーブントーストするわけか。いい考えだが、逃げられるんじゃないのか?あのエレベーターの扉が一方通行ならともかく」シーザーは言った。
 源稚生はエレベータードアの上部を指差した。「あの扉は一本の鉄筋で支えられています。鉄筋を壊せるだけのC4爆弾があれば、奴らの逃げ道は塞がれ、逃がすこともありません」
 ソ・シハンは計算した。「ヒューズを遅らせれば20秒で爆発させられる。シャフトに入って爆発範囲から逃げるには十分だろう」
 シーザーはしばらく考えた。「だとしたら、堕武者の群れをなるべく奥まで引き付けるべきだな。集まればそれだけ燃やしやすい」
「問題ありません。私がエサになりますから」源稚生は言った。


 ロ・メイヒは絵梨衣を伴って屋上に飛び乗った。作業用エレベーターは屋上まで到達して機能を停止してしまった。まるで二人の旅はここまでだといわんばかりに。
 屋上には配管と貯水槽がびっしりと並んでいたが、人ひとりいないようだった。内部に通じる扉は全て完全に閉められている。ロ・メイヒは扉を激しく蹴ったが、足の痛み以外の結果は得られなかった。まるで絶海の孤島、地表数百メートル、天にも地にも行き場がない。四方八方から暴風雨が吹き込んでくるだけだ。
 ロ・メイヒはスマホを取り出し、ロ・メイタクに助けを求めようとした。……だが、なんたる不運! スマホの画面は一瞬点いただけで、バッテリー不足で自動シャットダウンしてしまった!
 暗闇の中、道の向こうにある鉄扉の奥から激しく何かがぶつかる音がしたかと思うと、続いて断続した銃声が鳴り響き、ロ・メイヒの耳奥を震わせた。建物の中の人たちが屋上に出ようとしている。扉が開かないと分かったオロチ八家の人々が銃で鍵を壊そうとしているのだろう。どんなに扉が頑丈だろうと、開くのは時間の問題に違いない。
 オロチ八家がまさか、拷問をするような野蛮な組織じゃないだろ――そうロ・メイヒは祈った。最近の諜報機関は捕まえたスパイに拷問はしないと聞いたことがある。飲めば自然とペラペラと話してしまうような、高性能な自白剤があるからだ。仮にオロチ八家にそういった薬を飲まされて、ボスや先輩の居場所をバラしてしまったって何の心配もない。ボスも先輩も強いんだから、ほんの災いなんて福に転じて助けてくれるはずだ。
 彼が振り向くと、屋上から嵐の中の東京を眺望する絵梨衣が見えた。地震は既に収まっていた。停電していない建物には灯りが戻り、けたたましいサイレンを鳴らす緊急車両たちが高速道路を突っ走っている。未だ華やかさを孕む美しい大都市に、薄い雨粒のヴェールが被せられていく。
 雨の中の彼女は、息を呑むほど美しかった。長い睫毛の先は水滴に当てられて揺れ、すっくと伸びた鼻先からも水滴が零れ、清澈な瞳は街並みの光を抱いて輝いている。
 家出の計画もパーだな、とロ・メイヒは独り言ちた。もうすぐオロチ八家の人たちがやってくる。僕は濡れた皮鞭で叩かれて、君はあのおかしな部屋に閉じ込められる。親垣結衣プロデュースのオレンジジュースも飲めず、君のノートに書かれた言葉を読む人はいなくなる……せめて、もう少し普通の人間らしく、落ち込んでみたりとかしてくれないかな?
[きれい]絵梨衣はロ・メイヒの手を掴み、指を伸ばして手のひらにゆっくりと平仮名をなぞった。
 キレイ、この日本語の意味は……そうか、絵梨衣はこの街が綺麗なのだと言っているんだ――絵梨衣はそのまま雨の中の街を眺め続け、遠くにあるひときわ高い建築物、金色にライトアップされた「東京スカイツリー」を指差して、ロ・メイヒを見た。
 ロ・メイヒはその時突然、彼女の意図を理解した。家出計画は台無しになったわけじゃない。彼女はただ、街を見てみたかっただけなのだ。彼女は都会に住んではいるが、自由に街を見てみる機会はない。家出という彼女の計画に目的地はなく、ただ外の世界に、もっと外の世界に行きたいと思うだけ。彼女の計画は、捕まるまでただ前に進み続けることだけ。だから落ち込んだりもしなければ怒ったりもしない。あの作業用エレベーターに乗った瞬間から、すばらしき旅は始まっていたのだ。
 古人は言う、「生者は過客為りて、死者は帰人為り。天地は一逆旅にして、同じく悲しむ萬古の塵」と。生きるために死から逃げ続け、捕まるまでずっと遠くへ、ずっと美しい世界を求めて走っていく。いずれ必ず捕まると分かってはいても、息の続く限り、懸命に走り続ける、それが人なのだ。
「あれはトーキョー・スカイツリー、世界で一番高い電波塔だよ。展望台もあるんだ。東京で一番きれいな景色といえば、あの展望台からの眺めだろうね」ロ・メイヒは言った。
 彼は買ったばかりのホットコーヒーを絵梨衣に差し出した。こんな時にホットコーヒーが飲めれば、手も心も温まって、この世界全てを握り締めたかのようにだって思える。この温かみには、親垣結衣プロデュースのオレンジジュースの甘さなど!
 絵梨衣がホットコーヒーを両手で持って、ちびちびと啜っていくと、白い蒸気が彼女の鼻の前で弥漫していく。
 その時、ロ・メイヒは理解した。この女の子は「いい子」なのだ、と。見目麗しく育てられ、お利口で従順で、ただ屋上から街を眺めているだけで幸福を感じられる……もちろん、怪物ちゃんでなければそれ以上のものはないのだが。
 彼はトレンチコートを脱いで絵梨衣の肩に被せ、寒さを防ぐために襟を上げた。そして狼狽えながらも彼女をしばらく見つめ、心の奥にしまっていた言葉を捻り出した。「それで……僕が捕まっても、オナサケしてってオネガイできない? チャイルドハントとかじゃないんだし……」
 彼はすすり泣きながら、満身の真誠を込めてそう言った。
 鉄の扉が崩れ始めていく。向こう側の人たちも何か重工具を見つけて破壊しようとしているのだろう。絵梨衣は頷いたが、ロ・メイヒの方には目もやらない。この怪物少女がオネガイという言葉の意味を理解しているのかもわからないが、理解してくれたと信じるしかなかった。
 彼はため息をつき、あらゆる考えを捨てた。
 雨の中の東京はまったく美しいけれども、孤独な気分だった。明るい窓一つ一つに地震が収まったことを喜ぶ家族がいる。父親はまだテレビの地震速報を眺め、母親は子供の頭を撫でて寝かしつける。ゲームセンターは地震など無かったかのように輝き煌き、マスクをつけた少女たちがボーイフレンドに電話を掛け、地震のスリルを興奮交じりに話し立てる。だが目の前には万丈の高崖、天塹の鴻溝、漣綿の雨幕ばかりがあって、彼らの明るい窓辺と雨の中の絵梨衣とを分け隔てている。かすかな憧れを湛えた目の向こう、雨の向こう側、窓の中の人々はその生活が誰かに憧れられているとも知らない。
 その時だった。眩い光と巨大な風が天から降り荒び、黒い影がロ・メイヒと絵梨衣を包んだ。一台の黒いヘリコプターが空中に停まり、その鋼鉄のローターで大雨を切り裂いている。胴体には金色の桜の徽章と、“MPD”なる文字が見える。
 “MPD”、それは“Metropolitan Police Department”の略、すなわちこのヘリが警視庁所属であることを示している。
 いくらオロチ八家に捕まりたくないとはいっても、ロ・メイヒは今現在警視庁からも手配されているテロリストである。警察に捕まったところで同じようなものだろう。源稚生は警視庁にもオロチ八家の協力者がいると言っていた。となれば恐らく警察も彼をオロチ八家に引き渡すはずだ。警察に行く方が良いのか、オロチ八家に降伏するのが良いのか、そうこう考えているうちに重武装の特殊警察が空から降り立ち、大股でロ・メイヒに向かって歩いてきた。特殊警察隊員たちは黒い戦闘服の上にMPDと描かれた防弾チョッキを着こみ、防弾ヘルメットを被り、胸の前にはショート・サブマシンガン、まさに警視庁の精鋭隊だ。ロ・メイヒはすぐに銃を換気パイプの中に投げ捨て、両手を上げた。特殊警察隊員はロ・メイヒの傍まで駆けつけると、一言も言わずに彼と絵梨衣を肩に乗せ、「生存者救出!」と叫びながらヘリに向かって走った。
 ロ・メイヒは唖然とした。コンニチワ・ポリスメン、僕が生存者だって? 何もしていないぞ!? ただ屋上で夜景を眺めていただけなのに!
 特殊警察隊員は彼と絵梨衣をキャビンに投げ込むと、説明も無しに酸素マスクを押し付け、キャビンの扉をすぐさま閉め、離陸するよう指示した。パイロットが操縦桿を引くと、ヘリは勢いよく上昇した。救助活動はほんの三十秒も経たずに完了してしまった。執行局のエリート達は遂に屋上の鉄扉を突破したが、黒いトレンチコートをカラスの尾羽のように風になびかせ、警視庁のヘリが源氏重工ビルの周囲を旋回するのを見ているだけで、発砲する様子はなかった。ロ・メイヒはキャビンのガラス越しに、ヤクザがコルト・リボルバーを握り締めて顔を歪めているのを見た。
「はい、リラックスして、怖かったね、もう大丈夫だ。さぁ、深呼吸をして。はい、深呼吸……」特殊警察隊員はロ・メイヒの肩を揺らした。「私の顔が見えるね?」
 医療班らしき人がペンライトを使ってロ・メイヒと絵梨衣の瞳孔を確認し、親指を立てて上下に振った。その後血圧測定や膝蓋腱反射テストなどが行われ、ロ・メイヒも絵梨衣も異常のないことが確認された。その医療班はさらに小さな金属棒でロ・メイヒの耳の辺りを軽く叩き、聴力に異常がないかを確認した。ロ・メイヒは頷き、全くはっきり何の問題も無く聞こえることを示した……もしかして雨で聴覚障害が起こったとでも思われてるのか? なぜこんなに念入りな検査がされているのか、ロ・メイヒは全く理解できなかった。それから数分のあいだ、彼と絵梨衣は二人ともほぼ全身に渡って身体検査を受け、安全無事にて概ね健康であることが分かった。特殊警察や医療班の慎重な態度はまるで、震災瓦礫の中から救出されたばかりの息絶え絶えな子供でも診ているかのようだ。
 自分で気付いていない怪我でもあるのか? ロ・メイヒは全身を軽く触ってみたが、特に痛みはなかった。
「ドルフィンチームより本部へ! ドルフィンチームより本部へ! 源氏重工ビルより男女一組を救出! 負傷なし! これより帰還する!」トランシーバーを掴んだ特殊警察隊長が、昂ったような声で言った。
「本部了解、本部了解。帰還せよ、帰還せよ」トランシーバーからはどことなく馴染みのある無機質な女性の声が聞こえた。
「ぼ、僕ら……このまま飛んでっちゃっていいんですか?」ロ・メイヒはわけもわからず聞いた。
「大丈夫だ。建物の中には別のチームが向かっているからね。このヘリが来たのは、源氏重工ビルの通路が崩落して屋上に人が取り残されているという通報を受けたからさ。君達は幸運だったね。いま本部は救助依頼が殺到しててんてこ舞いだから」特殊警察隊員はヘルメットを脱ぎ、爽やかな口調で元気づけるように言った。「他の屋上の友達は別のチームが助けるから心配しないで。このヘリはもう定員だから」
 確かに、ヘリコプターは満員だった。特殊警察の隊長と隊員、医療班、皆が笑顔を浮かべてロ・メイヒと絵梨衣に向かって頷いている。……バカか!?救助チームだけで五席も使うから二人しか乗れないんじゃないか! 日本の警察は何考えてるんだ!? ロ・メイヒは心の中で騒いだ。

「オーケー、イルカチャンがバカップルを捕まえたわ。東大病院までナイトデート中よ」酒徳麻衣は通話を切ると、軽く伸びをした。
「足長、流石故郷のコネは凄いわね。こんな短時間でMPDのヘリを呼び出すなんて。あんたとデートしたいお偉いさんでもいるのかしら?」ス・オンギは全裸でソファに寝転がり、文庫本を読んでいた。
「まさか、ホンモノのMPDなわけないでしょ。日本の警察っていちいちちゃんと出動記録付けてるんだから。テキトーなヘリを買って塗っただけよ」
「あら、安上りでいいわね。で、お巡りさんもニセモノなのかしら? 大丈夫なの?」
「人選に関しては心配ないわ」麻衣は長い眉を上げた。「職業病が出なければだけどね。彼、東京遊覧ヘリコプターツアーのガイドだから、黙っていられないかも」
「何? あの子たちの為にガイドまでつけてあげたの?」
「クソ真面目なゴールドクラスガイドをね」
 ス・オンギは何か言おうとしたが、言葉が見つからず、肩を竦めるだけだった。「アは!」

「まさに美男美女、二人共本当にお似合いだ。私の祖母は夫妻相を見るのが得意なんだけど、君達を見ればまさに運命だって言うだろうさ……」
「こんな可愛い女の子と屋上でデートなんてロマンチックだね。私も高校生の時は同級生と屋上デートしていたよ。学校の屋上からは富士山が見えてね……」
「生きていればいつかいいことがあると言うだろう? 君達は命を懸けた試練を乗り越えたんだ。神でも仏でも君達を祝福する……」
 ヘリコプターは東京大学に直行しているらしい。そこでは地震で負傷した市民が検査を受けているという。特殊警察隊員はどういうわけか道中ずっと話を続け、ロ・メイヒと絵梨衣を本気で美男美女カップルだと思っているらしい。ロ・メイヒは窓ガラスに映る自分の顔をちらりと見た。絵梨衣は間違いなく玉のような美少女だと言えるが、自分の顔には美のイデアの欠片もあるかどうか疑わしい。だが、仮にお世辞だとしても、美しいと言われて嫌な気分にはならない。美男子だなどと人生で初めて言われたロ・メイヒは、心を弾ませるだけだった。
 それにしたって身元確認とか何とかもう少しするべきことあるだろ、とロ・メイヒが思っていると、「あちらに見えるのが国立東京大学でございます」特殊警察隊長が前の席から振り返り、朗らかな声で言いながらロ・メイヒを見た。「東京大学は、その発祥を明治時代にまで遡る歴史ある国立大学です。その前身を遡れば江戸幕府の『天文方』を発端とし、東京開成学校と東京医科大学を経て、1877年に現在の大学へと正式に改制されました。東京大学は日本の最高学術機関として、多くの政治家や国際的リーダーを輩出しています。下をご覧ください、あちらにございますのが東京大学のシンボル、『赤門』でございます。さぁ少し高度を下げてまいります、美しい赤門の夜景が……写真はいかが?」特殊警察隊長はデジカメを構えた。
 絵梨衣はこの警察らしくもない長ったらしい話を耳に入れてもいないようだった。街を彩る灯火は長大な巻物のように広がり、彼女の瞳に幾万ものきらめきを作った。

 シーザーは武器庫の自動ドアに寄りかかり、ウィンチェスター・ショットガンの銃身を指でなぞった。彼の背負ったバッグには12挺の同型ショットガンが入っている。ソ・シハンが背負っているバッグには9挺のステン機関銃があり、手に持っているのはナチ・ドイツ製「フォイヤーファウスト」M46突撃火炎放射器である。第二次世界大戦中に使われた古典的な軍用装備だ。フォイヤーファウストが三挺と無制限の燃料があればドアの外の堕武者の群れも簡単に抑えられるかもしれないが、燃料は一缶しか用意されておらず、それも長年のうちにほとんど蒸発して底にわずかに溜まっているだけだった。
 背後から大蛇が這い寄るような音が聞こえたかと思うと、三人の背筋は凍った。堕武者の群れは既に壁画の間に侵入し、三人との間を隔てているのは木製の扉一枚しかない。堕武者のパワーを以ってすれば扉を壊すことなど容易いが、知能の低い獣である堕武者は秘密の武器庫の存在に気付いていない。堕武者の中には変異の結果、視覚や聴覚、嗅覚を異常発達させるものもあるが、この蛇の変異を遂げた堕武者たちは一般的な堕武者とさほど感覚能力は変わらないようだ。金色の瞳は獰猛なように見えて視力は弱く、壁画の間の血や熱風によって鋭い嗅覚も乱れ、聴覚に至っては蛇には存在しない感覚なので堕武者にも当然何の影響もないだろう。蛇が敏感なのは触覚、すなわち地面の震動である。シーザーやソ・シハンが動きさえしなければ、堕武者が隠れ場所を見つけるのは難しいだろう。
「どれぐらいだ?」ソ・シハンはそっと訊ねた。
「百から先は分からん。とりあえず堕武者は全部壁画の間に入ったらしい、シャフトはもう空だ。……死体を食ってるらしい。肉の噛みちぎれる音が聞こえる。最悪だ」シーザーは呟いた。「あの蛇形堕武者、戦力評価したらどれぐらいだ」
 ソ・シハンは少し考え、言った。「少なくともA級だ。シマウマのスピード、ライオンのパワー。細胞活性も強く、生半可な傷は直ぐに治る。心臓、頭と神経が弱点だ。四肢が千切れるぐらいでは致命傷にならない」
 シーザーは頷いた。「同意見だ。一対一ですら危険か」
 カッセル学院には堕武者の評価基準も存在する。これまでシーザーとソ・シハンが対峙した堕武者にC級を超えるものは無かった。だがA級堕武者ともなれば、A級執行者ですら命の危険が迫るレベルの相手であることを意味する。
「お前はあの日本人を信用するのか? 今頃逃げられてるかもしれないぞ」シーザーは小声で言った。
「協力を決めたのはお前だろう。お前も信用する以外ないはずだ」
「そんなめでたい頭でよく生き残れてきたものだ。奴の血は龍の血だぞ。龍に感情なんてものはない。奴が本気を出したら、お前なんてすぐに食われる」
 ソ・シハンは何も言わず、目を少しだけ細めてシーザーを見た。
「オーケー、オーケー、あの娘のことじゃないぞ。俺も彼女は好きだった、彼女はキレイだった……だが、龍血を信用するべきじゃないのは間違いない」シーザーは深呼吸した。「Ready?」
 ソ・シハンは両手で一本の十文字槍を握り締め、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、行くぞ」シーザーは扉を押し開け、歩き出した。
 一体の堕武者が武器庫の扉にぶら下がっていた。蛇形の変異を遂げた堕武者はおよそ二倍となった神経反応速度で即座にシーザーの後ろ首に齧り付こうとしたが、シーザーは既に「鎌鼬」でそれを察知しており、全身を仰向けに捻ってウィンチェスター・ショットガンを空中に向けて撃ち放った。
 ショットガンは威力に優れるが、貫通力に欠ける。傷を負った堕武者は地面に倒れた後、転がって立ち上がり反撃の素振りを見せた。すかさずソ・シハンが十文字槍で腹を貫いて地面に釘付けにし、二挺のステン短機関銃を押し付けると、二個の弾倉が空になるまで撃ち続けた。
「学院の奴らがキラーと呼ぶわけだ。サツバツなのは嫌いじゃないぞ」シーザーはショットガンを捨て、ソ・シハンの背中のバッグから二挺のステン短機関銃を引き抜いた。
「好きなわけじゃない。憐れんだところで無駄な被害が出るだけだ」ソ・シハンは右手で十文字槍を引き抜き、左手でシーザーのバッグからウィンチェスター・ショットガンを引き抜いた。
 二人は自分が使う武器を仲間のバッグに入れることで、取り出しを速めている。中国・明の時代では、長刀を使う兵士は二人一組で互いの刀を背負うことで、刀の長さに関係なく極めて速く抜刀することができたという。シーザーはステン短機関銃を使う攻撃を担い、ソ・シハンは十文字槍とショットガンで防御を担う。ショットガンは堕武者を確実に殺すまでには至らないが、強力な弾幕で敵を押し戻す効果が期待できる。
 シーザーは遂に、蛇の繁殖池と貸した壁画の間の状況を目の当たりにした。堕武者たちが絡み合い、交尾し、死体の骨を貪るために血を流し合う。まったく地獄のような光景、吐けるもの全てを吐き出したくなるような光景だ。
「俺はヘビがこの世で一番嫌いなんだ!」叫ぶと同時に、シーザーはステン短機関銃を撃ち鳴らした。
「俺もウナギは苦手だ」ソ・シハンは呟いた。
 巨大な扇のように広がった弾丸の雨が堕武者の鱗に火花の光を散らす。鱗の隙間に入り込んで肉まで達した弾丸はわずかで、大抵の堕武者はかすり傷あるいは無傷のまま、嬰児のように泣き叫ぶと、海潮のようにシーザーとソ・シハンに向かってなだれ込んでいった。
「チッ、子供の泣き声も嫌いだ!」シーザーは空になった弾倉を引き抜き、ソ・シハンから新しい弾倉を受け取りながら再装填した。ガトリング機関銃がもうない以上、サブマシンガンの連射速度を限界まで活用するしかない。
 シーザーはホール中央の壁画に少しずつ近づいていく。前進するたびに四方八方から堕武者が集まってくる。堕武者からすれば、二人は自らテーブルの上に配膳されていくオードブル・ディッシュである。堕武者が一匹シーザーを側方から襲う。シーザーは弾幕作りに集中していて目を向けもしなかったが、次の瞬間、その堕武者はソ・シハンの十文字槍に刺し貫かれていた。少年宮の剣道教室で剣術を学んだ彼は、独学で日本武術も学んでいる。この刺突はまさに、宝蔵院槍流の精神を受け継いだ、一振の歪みもない直突きだった。堕武者は両手を交差させて防ごうとして、掌の骨を貫通されながらも、手を握って槍先を掴んだ。ソ・シハンが前屈みになってそのまま突撃し、堕武者を押し出しつつある間、シーザーは腰からコルト「バントライン・スペシャル」を引き抜いていた。
 一筋の雷光のように放たれたバントライン・スペシャルの大口径弾丸が堕武者の腹部に直撃し、炸裂した。拡散する水銀が火薬で加熱され、白い水銀蒸気が発生する。堕武者の群れが散り散りになり、水銀弾を撃たれた堕武者の鱗は蒼白に変色、次いで剥がれ落ち、青白い水銀斑を皮膚の上に曝け出した。
「フッ、このメイド・イン・ジャパン、カッセル学院の水銀弾より使えるぞ!」シーザーは破顔一笑した。
 このコルト銃が放ったのは岩流研究所特製の水銀炸裂弾だ。旧式だが他に類を見ない大口径リボルバーだけが、この危険な炸裂弾を放つことができる。
 ソ・シハンは槍に刺さった堕武者をそのまま柱に釘付けにした。腹に大穴を開け、水銀が体を侵蝕し、強力な十文字槍が胸部を貫通してなお、その堕武者は雄叫びを上げてソ・シハンに食らいつこうとした。堕武者は十文字槍を力づくで胸から引き抜くと、真っ黒な血溜の中に投げ捨てた。ソ・シハンは素早く肩から下げたバッグを振り、中から長刀の束を零れさせた。そしてそのまま、素早く抜き去った刀を振るい、堕武者の胸口から背骨を貫いて斬り飛ばした。神経系は堕武者の弱点だ。背骨が破壊された堕武者は、糸が切れたかのように地に伏す。ソ・シハンは長刀を腰の鞘に戻すと、散弾銃を引き抜き、翻ってシーザーと背を合わせた。
 シーザーがコルト銃に装填された六発の水銀炸裂弾全てを放つと、精製水銀の煙がホールを満たしていく。炎と風が煙の拡散を速めていく中、堕武者は本能的な恐れをなして、しばらく二人に近づこうともしなくなった。シーザーはこの隙を逃すまいと、サブマシンガンの弾倉を交換し始めた。
 二人は百体以上の堕武者に囲まれながら、一歩一歩とホールの中央へ進んでいく。嬰児の泣き声が四方八方から共鳴し、無数の蒼白な人面が焔光の中に浮かぶ。老人の顔から若者の顔まで、変形し尽くした醜顔もあれば、そこらの歩行者天国にいてもおかしくないような顔もある。可愛らしい少年、妖媚な熟女、だがひとたび顔骨を鳴らして荊棘のような刃を見せれば、みなすべて一瞬にして悪鬼へと変わってしまう。
「こいつらからすれば、こっちの武器なんぞパチンコ程度にしか思っちゃいないんだろうな」シーザーはステン短機関銃を捨て、ウィンチェスター・ショットガンを引き抜いた。
 どちらの銃にしても精々堕武者の皮膚を割って血を滲ませる程度の効果しか無いが、まだショットガンの方が効果があった。反動は大きいが、少なくとも堕武者にインパクトを与えることはできる。シーザーは発射と装填を幾度もなく繰り返し、カラカラという薬莢の転がる音が重奏する。狙いを付けるまでもなく、一発一発が何かしらの敵に命中した。
 ホールの中央では恐らく群れのボスであろう、他の二倍程のサイズを持つ堕武者が死体を食い漁っていた。もとよりシーザーとソ・シハンへの攻撃に加わることも無く、目の前の大餐に一心不乱、粘液を吐き出して死体をある程度溶解させてから、蛇のようにゆっくりと丸ごと飲み込んでいく。堕武者の群れには動物の群れと同様、階層的な構造があるらしい。最強の堕武者はオオカミのボスのように、最も新鮮な血肉を独占している。他の堕武者が手出しすることはない。そうでなければ、仲間であろうと食い尽くされてしまうからだ。シーザーの目の前にいるその堕武者はハゲの中年堕武者、あるいは堕武者になる前までハゲの中年男性だったものだ。病的に太った冴えないデブ男だったであろう彼が、龍化した瞬間これだけ大きな肉体を得て、肥大した腹部を地面に引きずり、倍以上に膨張した頭部や首をすぼめ、欲望のままに狂乱することができるなど、彼自身も想像しなかっただろう。
 その堕武者はシーザーとソ・シハンに顔を向け、笑った。この類の堕武者の笑みを見るのは初めてでは無い。蛇形堕武者が食物を見つけた喜びを表す笑みだ。堕武者の群れは、最も新鮮な獲物、即ち生きた人間をこの堕武者に捧げるべく、二人をホールの中央に導いていたに過ぎなかったのだ。
「俺はハゲもデブも嫌いだ!」シーザーは叫んだ。
 堕武者の笑みを直視した人間は、大抵の場合恐怖で気を失ってしまう。だが二人はカッセル学院の問題児だ。ソ・シハンが無表情にステン短機関銃を抜くと、次の瞬間、密集した弾丸が堕武者の腹に血の穴を開けた。
 堕武者はゆっくりと立ち上がった。目を覚ました人間が立ち上がるように、肥大した腹部を震わせて背を伸ばせば、その身丈は一段と高くなる。腹を地面につけていた時には人間一人程度の背丈だったが、今や地面にとぐろを巻いた尾を抜きにしても三メートル級の巨人と化していた。壮碩なる蛇身の上に細身な人の身を戴いたその姿は不格好で、まるで妊娠したカマキリのようにも見える。
「堕武者になってから、どれだけタンパク質を食ったんだか!」シーザーは吐き捨てながら、バントライン・スペシャルに新たな水銀炸裂弾を装填した。
 ソ・シハンは両手に刀を持ち、ゆっくりと腕を伸ばした。前に道はない。ここが最後の戦いだ。その場の全ての堕武者が「立ち」、強靭な尾で魁梧なる上半身を支えた。その「身長」はいずれも二メートルから三メートル。シーザーとソ・シハンを取り囲み震える蛇の肉体は、まるで多肉植物の森のようでもあり、狂い果たした芸術家が乱れ描いたような絵図だった。
「そういえば日本人は、食べる前に祈ってみせるんじゃなかったか? お前らもやってみろよ、イタダキ・マスってな」シーザーはおもむろにバントライン・スペシャルの転輪を閉めた。

 古の呪詛が落ち、冷厳なる光が天より注ぐ。
 北辰一刀流・霜降――

 紺碧の刀光を曳く黒影が、ボス格の堕武者の背に沿って奔った。名刀・童子切安綱が後ろ首から背骨に向かって一直線に切り裂き、脊髄骨のことごとくを叩き割ると、堕武者は背骨を抜かれた蛇のように力なく倒れた。源稚生は着地と同時に身を乗りだし、右手の蜘蛛切を水平に一振りすると、堕武者の尾椎の部分を斬り飛ばした。巨体が完全に支えを失い、源稚生の側に倒れ込むと、源稚生は一閃、両手の刀で堕武者の背脊に斬りかかり、まるでトンカチで鉄を打ったかのような音が響き渡った。堕武者の脊髄は鉄のように硬く、源稚生の所業は鉄を斬ったも同然だ。
 たった一連の動作で堕武者のボスを仕留める。シーザーとソ・シハン、二人共が背中に悪寒が奔るのを感じた。天罰のような刀光は、源稚生の冷酷な一面を間違いなく表していた。
 源稚生は両手で「血振り」をすると、蛇身が織りなす森の中で古の呪詛を唱え続けた。更に速く、更に重く、響き渡るような声がホールを満たし、山中の仏寺が響かせる古鐘の木霊のように。領域が展開されようとしている。未知の言霊が解放されようとしている。
 シーザーとソ・シハンは一斉に銃を乱射し、源稚生に群がろうとする堕武者を牽制した。大いなる瞬間、皇が遂に言霊を解放する!
 混血種である身ならば誰でも、言霊という現象の限界を知りたがるものである。マイケル・ジョーダンがシュートを決める瞬間のように、その力には敵でさえも敬服するのだ。
 領域はゆっくりと、静かに拡大していく。その境界は蛍火のような淡い光を放っていた。領域内の堕武者は突然強張ったかのように地面に伏し、痙攣したかのように手足を地に付け、目から黒い血の涙を流していく。
 シーザーとソ・シハンは震えた。彼らは何も感じていない一方で、堕武者は明らかに何かしらの影響を受けている。敗軍の将が君王に相対するように、源稚生に跪いている。領域が遂に壁画の間全体を覆うと、童子切と蜘蛛切を携えた源稚生は堕武者の群れに分け入り、一匹ずつ堕武者の首を斬り落としていった。草刈り機のように進んでいく刀の後には、黒い血が噴き出す首の断面だけが残された。源稚生の言霊には、敵に殺戮を自ら受け入れさせる何かがあるようだった。
「Shit! 何だこれは、マインドコントロールか!?」シーザーは呟いた。
「いや、そんなものじゃない。堕武者の足元を見ろ!」ソ・シハンは言った。
 大理石の床にヒビが入っている。床に驚くべき重量が掛かっているのだ。大理石の床が砕ける重量! 何トン、いや、何十トン、何百トンの負荷? この超重力に耐えられる骨などこの世に存在するのだろうか?
 シーザーは理解した。堕武者は喜んで殺されているのではなく、抵抗できずに平伏しているのだと。一瞬のうちに体重が数十倍に増え、腕を上げる事すらままならず、背骨を圧し潰されているのだ。
 言霊・王権、序列91。それは人智を超えた言霊の一つに数えられる。
 発動者の許可が無い限り、王権の範囲内に立つ事はできない。体重が何十倍、何百倍にまで膨れ上がり、血が皮膚を貫通して身体の下へと流れ、脳は夥しく血を奪われる。脳に血を残そうとするには、膝をついて頭を低くし、屈服しなければならない。無論、それだけで済めば幸運だ。王権の力が更に強まれば、発動者はその者の骨を砕き、死体を地面に広がるちょっとした汚れと成り果てせしめることすらできる。「王権」という名ではあるが、それは正々堂々たる王者の征服などではなく、圧倒的な超重力を相手の身体にかけ、静かに無情にすり潰していく覇道の所業なのだ。
 堕武者を壁画の間の中央に集め、王権の力で強制的に動きを止め、火を放つ。これが源稚生の作戦だった。源稚生が剣の柄で常夜灯の油槽を割り、透明な液体が溢れ出すと、ソ・シハンは黒い石鹸のような形のC4爆弾を壁画の間のあちこちに放り投げた。C4爆弾は銃弾が当たっても信管が無ければ爆発しない超安定性で知られるが、火の熱を受けると数分で爆発し、その熱と衝撃波は床をバーベキューグリルへと変えてしまう。ソ・シハンは背中から火炎放射器を取り出し、十メートル級の炎のシャワーを油に浸った堕武者たちに浴びせかけた。
 炎は一気に人間二人程の高さまで昇り、堕武者は全く動けないまま、ただ焼かれるのを待つだけだった。蒼白の顔が燃え、黒髪が燃え、まだ人間らしい胸部や綺麗な鎖骨が燃えていき、堕武者の群れが常人には聞こえない慟哭を発すると、シーザーは脳の奥底がズキズキと痛むのを感じた。まるで、中世の魔女が火炙りにされて泣いているような……。結局のところ人類も、多少「キレイ」な手段を使えるというだけで、本質的には血塗れの獣と何も変わらないのだ。
「早く!……行け!」源稚生が血だまりの中で倒れた。
 ソ・シハンは腰から刀を抜き、血だまりの中の彼を支えようと駆け寄ったが、彼の顔を見てゾッとした。
 源稚生は気を失う寸前だった。痙攣する身体を支えるために心臓は狂ったように鼓動を速め、皮膚の表面には紫黒色の毛細血管が浮き出ていた。源稚生が言霊発動に躊躇いを見せるのも無理はない。「王権」は解放者の生命力を一瞬で消耗し、身体に大きな負担を強いるからだ。言霊はそのランクが高ければ高いほど身体にかかる負担も大きくなる。例えば神話級言霊「ライン」を解放した者は、生み出した自らの領域内でほんの一瞬しか生きられなかったという。
「行け!」源稚生は繰り返した。
 そこでソ・シハンは源稚生の意図を理解した。源稚生が気を失えば、「王権」の領域は崩壊し、堕武者が再び動き出し始める! ソ・シハンが反応する間も無く、背後からシーザーの銃声が聞こえた。ソ・シハンの背後に飛び掛る堕武者を見逃さなかったシーザーは、火炎放射器でトドメを刺した。彼が源稚生に飛び掛って地面を転がると、すぐそこまでいた場所に一匹の巨大な火蛇が落ちてきた。「王権」の領域から解放されたばかりの堕武者が、自分の身体についた火も顧みず襲ってきたのだ。その爪は源稚生の脹脛を掴み、ソ・シハンは骨が捩じれるかすかな音を聞いた。堕武者の握力は、鋼鉄に手形を残せる程に強力なのだ。
 ソ・シハンはその時、手に何かが触れるのを感じた……蜘蛛切の刀柄! 源稚生は決定的なその瞬間、決して肌身離さなかったその刀をソ・シハンに差し出した。ソ・シハンは逆手にその刀を抜き、源稚生を取り囲む堕武者の腕に突き刺した。刃は両腕の骨の間の筋肉を貫通し、そのままソ・シハンが振り抜くと、蜘蛛切は堕武者の腕に沿って若竹を断つが如くに切り裂いた。彼は翻って一歩踏み出し、堕武者の胸口に向かって刀を振るう。鮮烈な火花が散るのも構わず、左手に最後のステン短機関銃を抜くと、堕武者の胸元に撃ちかけた。
「そいつをエレベーターに乗せろ!」シーザーがバントライン・スペシャルを乱射しながら、ソ・シハンに駆け寄ってきた。
 堕武者の一握りは源稚生の脹脛の骨を砕いていた。龍骨形態を解除した源稚生には、もはや金剛の如き堅さの欠片も無かった。ソ・シハンは彼を肩に背負ってエレベーターまで進んだ。三人共に体力は限界に近い。心臓は胸を割かんばかりに激しく鳴っている。その鼓動をかき消すかのように、地面が揺れた。水銀炸裂弾が作り出した水銀煙幕を引き裂き、一匹の巨大な堕武者が現れた。上半身の屈強さはまるで馬か熊か、変異する前から相当な偉丈夫だったのだろう。その筋肉は龍血に遺伝変異を促されて、双肩が奇妙に隆起し、双腕はゴリラのように長い。だがそれよりも目を引くのは、爪の中に流麗な構えで携えられた長刀だ。ソ・シハンが火の中に置き去りにした長刀を拾い上げ、捻じ曲げて自分の武器とし、蛇武神となって現れたのだ。堕武者が武器を使ったという記録は数多い。人類として獲得していた武器の使用技術はそのまま堕武者になっても継承される。だがこれほど洗練された刀術を堕武者が使う例はなかった。その蛇身は妖美に舞い、双刀の切っ先がその身の周りを流れ、無欠の防御の構えを取る。
 シーザーは背中から骨董品モノの猟銃を引き抜いた。旧式の猟銃は一般的に銃身が長く、この銃はバレルだけでも優に180センチ程もあった。シーザーは慣れた手つきで猟銃を構える。蛇武者の刃の範囲外にいながら、その銃口は蛇武者の胸元すぐに迫った。
 蛇武者は一刀の下にバレルの三分の一を断った。瞬間、旧式銃独特の轟音が響き、堕武者の胸元に大口径鉛弾が火花を散らした。シーザーは反動を受けて吹き飛んだ。
「刀でも振って楽しい年頃か?」シーザーは旧式猟銃を投げ捨て、新たな散弾銃を抜いた。「くだらないな!」

 再び地面が揺れ、大きな影が上から落ちて来た。重さ十数トンの鉄梁が地面にセンチほどめり込み、人の背丈以上の高さまで粉塵をまき散らした。天井や壁が割れ、内壁には縦横無尽に亀裂が入る。積層鋼板の床板が、ついに地震と火災に耐え切れなくなったのだ。あらぬ方向から炎が噴き出し、光と埃と煙が視界を遮る。壁に吊るされた木製仏像は炎の中に落ち、黒鉄の神棚が赤く燃える。オロチ八家の由緒正しき神社から運ばれてきた、千年以上の歴史を持つ遺物たちが今、天命を全うしようとしている。
 殿を務めていたシーザーが発砲を止めた。炎が堕武者の群れとシーザー達を分断した今、銃撃したところで位置を晒すだけだと判断したのだ。煙を吸わないよう姿勢を低くし、比較的近い堕武者に気付かれないよう、小走りに進んでいく。震動に敏感な蛇類は、地に付いた腹部をセンサーのように使っている。有名なインドの蛇使いも、笛で蛇に踊るよう指示しているのではなく、足で地面を叩くことで蛇を刺激しているのだという。蛇形変異を遂げた堕武者もまた同様の能力を持っている。シーザー達が警戒しているのはそれだった。蛇類が他に持つ感覚器官である嗅覚や赤外線視覚は、火炎と黒煙と高温によって遮られ、シーザー達を見つけるには役に立たなくなっていた。
 だが、シーザーの心には漠然とした不安があった。彼は聴き取っていた――蛇群の蠢く音が段々と近づいている! どういうわけか、炎を纏ったこの堕武者たちは、まるで源稚生の目論みを見抜いたかのように、シーザー達がエレベーターへ向かっているのを察知しているようだった。
 黒煙の中に隠れたシーザー達を堕武者が見つける術はない。シーザーのような超聴覚でもあれば別だが、そんなものがあるはずもない。火の中を闇雲に彷徨っているだけだ――シーザーは、自分の錯覚だろうと思うことにした。
 彼は振り向くことも無く、ソ・シハンと共に源稚生を引きずってエレベーターへと向かった。火の中で燃え盛るC4爆弾は、あと数分で爆発する。
 ようやくエレベーターへと辿り着いた三人だったが、その瞬間顔色を変えた。さっきの衝撃がそうだったのか、床や壁が割れているだけでなく、エレベーターの入口上方の鉄骨が折れ、入口が完全に塞がっていた!
 唯一の脱出路が塞がってしまった。「君焔」の威力では源氏重工の隔壁を破壊することは出来ない。数分もすれば壁画の間には爆発炎が満ち、彼らは堕武者の骸への手向けとなってしまう。
「蛇のオーブン焼きに巻き込まれて死ぬとは思わなかったな」シーザーは崩れかけた壁を荒々しく蹴ったが、重い瓦礫はびくともしない。
「どんな死に方なら本望なんだ?」ソ・シハンは刀を抜いた。
「シャンパン色のプールサイド、フルオーケストラが奏でる音楽の中、セクシードレスの少女たちがバレエを踊り、花火で埋め尽くされる空の下、世界中の記者が偉大な当主シーザー・ガットゥーゾの崩御を待つ――」
 突然、源稚生がソ・シハンの肩を掴み、不自由な足を踏み出して、貨物用エレベーターの下りボタンを押した。ボタンが光り、エレベータードア上の数字が少しずつ変化していく。このエレベーターはまだ生きている!
 二人はVIP用エレベーター同様、貨物用エレベーターも終わったものと思っていた。上階からまっすぐ急降下し、みるみる減っていく階数を見て、シーザーもソ・シハンも墜落したものと考えていたのだ。ロ・メイヒが乗ったままかどうか、生きているかどうかも、心配しても仕方ない事だとして話すことも無く、目前の危機に対処するだけで精一杯だった。だがこの鈍重な旧式エレベーターが、地震の衝撃に耐えていたとは! 九死に一生を得たというべきか、ゆっくりと貨物用エレベーターが上がり始めた。数分もすれば到着するはずだ。
「だから言っただろう、奴の事は心配するなと」シーザーの緩んだ声。
 ソ・シハンの心はわずかに揺らいだ。そんな事は言っていなかったが、最初にロ・メイヒの事を訊いた時のシーザーの反応は確かにこういった感じだった。何も言わなくても、ずっとあのバカの事を気にかけていたのだ。
 彼はC4爆弾の一切れにヒューズを入れ、エレベーターの扉に接着すると、壁際に退いた。大きな音と共に、鉄板が埋め込まれたアルミ合金扉が吹き飛んだ。
「朗報だ。追加の乗客がやって来たぞ」シーザーは振り向いた。
  シューシューという蛇お馴染みの音や嬰児に似た泣き声が近づいてくるのが、ソ・シハンや源稚生にも聞こえた。炎と黒煙の中を痛みに耐えながら進んできたのだろう、身体についた火で煌く蛇武者の姿が現れた。シーザーの懸念は幻覚では無かった。堕武者は間違いなく、シーザー達の位置を認識する何かを持っていた。双刀を振るうその堕武者の姿は、まるでインド神話の蛇の神ナーガだ。刀は炎に赤く焼かれ、振るう度に大きな炎の風を巻き起こす。シーザーの放った猟銃の鉛弾は致命傷にならなかったらしい。
「血だ」ソ・シハンは言った。「血の匂いに引かれているんだ」
 シーザーは理解した。堕武者の脳髄の奥底にまで根付いた血と殺戮への渇望は、死してなお消える事はない。そのうえ、高位の血を求める彼らにとって源稚生の血は垂涎の珍物である。源稚生の肩の傷から滲み出た血が草編み作りの南蛮具足に染み渡り、鼻腔を焦がす血の匂いを滾らせ、源稚生のビーコンと化していたのだ。
「早く脱げ! 燃やすんだ!」シーザーは怒鳴った。
「無駄だろう。堕武者もバカじゃない。鎧だけに反応するとは思えない」ソ・シハンは素早く鎧の紐を解き、基本となる胸部と肩部の甲だけを身に纏った。源稚生の血が特に染み付いた部分だ。
「海の底ではお前が先に出た。次は俺が先だ。エレベーターが着いたら呼んでくれ、すぐに向かう。援護を頼む」ソ・シハンは無表情だった。危険な役目を誰が引き受けるか、などといった葛藤は、彼にはない。

 シーザーは散弾銃の弾を一つ取り出し、薬莢のプラスチック部分を切ると、中身の火薬を源稚生の肩に振りかけ、シガーに火を付けて傷口に強く押しあてた。炎が上がり、源稚生の顔が引き攣る。一般人では失神してしまうような、末端神経が焼ける感覚。火傷は一時的に血管を塞ぎ、傷口の表面の血液を乾燥させ、源稚生の身体から血の匂いを消す事ができた。

 ソ・シハンは散弾銃をコートの中にしまい、長刀を抜いた。銃器では自分はシーザーに劣る。だからこそではないが、こういう時は刀の方が信頼できる……記憶の中、あの雨の日、神の座に立ち向かったあの人も、手にしていたのは刀一振りだけだった。
「君」源稚生が言った。
 振り向くと、そこには源稚生が蜘蛛切を投げ寄越していた。「この刀なら、堕武者の骨も斬れる」
 ソ・シハンは頷くだけで、感謝の素振りも無かった。彼は驟然と炎の中に入り、大鷲の翼のように外套を羽搏かせた。堕武者の群れも反応し、蛇のうねる音がソ・シハンを追っていく。

 シーザーは貨物用エレベーターの階数を見た。壁画の間に辿り着くまで約二分。彼は一発ずつステン短機関銃に弾を込めた。何かをしていなければ、冷静ではいられなかった。
 堕武者と肉弾戦をするなど、ソ・シハンは狂っている。一対一ならなんとかなるかもしれないが、ここには何十、何百もの堕武者がいるのだ。しかし、ソ・シハンという男は昔からこうなのだ。だからこそ、他人を狂ったように惹き付けもする――シーザーは弾倉を叩きつけるように挿れた。
「シーザー・ガットゥーゾとソ・シハンは、学院ではライバルだと聞きましたが」源稚生はエレベーターの近くにだらんと寄りかかって座った。
「嫌な奴だ。上辺は好青年だが、自己中心的で、自分で決めたことは絶対に変えない」シーザーは呟いた。「今もそうだ。まるで自分がリーダー気取りで勝手に判断する。俺はこういう奴が一番嫌いなんだ」
「確かに他人受けする性格ではありませんが、噂ほど仲が悪いようではありませんね」
「ただ嫌いなだけだ。同じ性格の奴を好きになれる奴がどこにいる」
 源稚生は驚いた。
「俺も自己中だ。俺が決めたことは絶対に変えない、変えさせない。そうでなければライバルになどならん」シーザーはステン短機関銃一丁ずつに弾倉を装填していく。「一度の失敗も許されない、隙を見せれば次はない、ライバルがいるってのはそういうことだ。まあ、お前には分からないだろうさ、天下無敵で孤高の皇にはな」
 炎の中からは何かが当たり散らす音が聞こえる。ソ・シハンが堕武者の骨を断ったのか、蛇武者と斬り結んでいるのかは分からない。シーザーは一挙、ステン短機関銃を唸らせて飛び出した。ソ・シハンへの帰還信号だ。貨物用エレベーターが来るまでもう三十秒程もかからないが、彼は待てなかった。
 ソ・シハンとの距離は次第に離れていくようにも思える。シーザーは炎の奥を見やったが、ソ・シハンの姿は見えなかった。ソ・シハンは炎の中に自ら深く突っ込んで行くようなバカではない、ということは、それだけの堕武者に集中攻撃されているという事だ。方向を見失っているだけなら、シーザーの銃声が頼りになる。
 銃声が新たな餌の位置を示しても、飛び込んでくる堕武者は居ない。皇の血への渇望が全てのを圧倒しているのか、堕武者たちは炎の中で悶絶していたり、ソ・シハンを追いかけようとするばかりだった。
「バカが!」シーザーは叫んだ。炎の奥からは刀の音が未だ激しく聞こえる。ソ・シハンが逃げ切れていないのは間違いない。シーザーが用意したステン短機関銃はこの状況では全く役に立たない。不用意に銃撃すれば、ソ・シハンを撃ってしまうかもしれないからだ。
 洪水のように湧き出る冷汗が、熱風で即座に蒸発する。シーザーは視線を駆け巡らせ、意識を張り巡らせた。一秒でも逃げ遅れれば、二人揃って15ポンドのC4爆弾の炸裂に巻き込まれてしまう!

 小さな鐘の音が鳴り、エレベーターが到着した。扉が開いた瞬間、無数の紙が吹き出してきた。無人のエレベーターの中には五十箱程の文書箱が積み上げられており、炎と風に巻かれて燃え上がった紙が灰と化しながら渦を作っていく。炎の中の温度は今や常人には耐えられない程高く、仮に夜叉やカラス、桜でさえも、エレベーターに乗っていたなら高温と酸欠で即座に気絶してしまっていただろう。そして、ソ・シハンは更に劣悪な、酸素など微塵も残されていない場所にいる。
「ソ・シハン!」シーザーは叫んだ。
 次の瞬間、強烈な衝撃波がシーザーと源稚生を壁に叩きつけた。温度がさらに数十度上昇し、瞬間的な超高温が焼け付く。ソ・シハンの『君焔』だ。彼自身の言った通り、閉鎖された空間で『君焔』を使えば熱風と衝撃波が自身に跳ね返ってくる事を意味する。だがこの時、彼には他に選択肢が無かったようだ。限界まで出力調整された『君焔』は堕武者を焼くには十分とは言えないが、衝撃波で退かせることはできる。シーザーは遂に見知った人影を見た。大鷲のように、燃え盛る堕武者の死骸を踏み越えて、ソ・シハンが遂に脱出してきた。シーザーは喜ぶ代わりに短機関銃を掃射し、ソ・シハンの背後に弾幕を張った。ソ・シハンを追撃する堕武者がいれば、辿り着くのは彼ではなくシーザーの弾丸だ。
「Go! Go! Go!」シーザーは撃ちながら叫んだ。
 ソ・シハンは鼻先が地面に付く程まで屈んで走り始めた。火事現場では高い場所にある空気ほど温度が高く、反対に床際ほど空気が残っている可能性が高い。炎にまみれて床を転がっていた堕武者達は皇の血の誘惑に耐え切れず、ソ・シハンに爪や腕を伸ばすが、彼は走りながら左右に刀を繰り出し、堕武者の腕や喉を斬り裂く。そして具足の胴綱を切ると、鮮血に染まった具足を炎の中へと投げ込んだ。

「おい! 動けるなら援護しろ!」シーザーは怒り気味に振り向いた。源稚生はステン短機関銃を手に取ったものの、その銃口が上がらない。狙いを定められない程に体力が落ちているのだ。『王権』が源稚生の身体に与える負荷はそれほどのものだった。拳で厚さ数センチの青銅を叩き割る男が、今やほんの小銃すら持ち上げることができない。
「チッ、もういい、エレベーターに乗れ! 早く!」シーザーは叫んだ。「足手纏いにだけはなってくれるなよ!」

 ソ・シハンが突然、燃える堕武者の死体に躓いた。エレベーターまで残り数十メートル、シーザーは不安げに手招きしながら銃を向ける。その時だった。ソ・シハンの頭上から血腥い風が吹いたかと思うと、しなる蛇影が彼の背を激しく打ち据え、燃える堕武者の死体の上に吹き飛ばし、トレンチコートをたちまち燃やしてしまった。
 シーザーは自分の目を疑った。自分の弾幕を全て避けてアンブッシュだと? だが上方を見やった瞬間、彼は理解した。壁画の間の装飾は古代寺院を真似て、大梁や垂木を備えている。源稚生もこの上方の構造物に隠れて、堕武者の群れの中心に降り立つことで、『王権』の効果を最大限に発揮した。この堕武者も同じように何処かから梁の上に登ったのだろう。あの重苦しい体のどこに蛇のような柔軟さがあるのか――堕武者は長い尾でソ・シハンを縛り上げ、上半身を捻じり、ソ・シハンの腰を折ろうとしている。ソ・シハンの黄金の瞳に紅が混じり、脳内出血の兆候が見える。蜘蛛切を探るように手を動かすが、視界がぼやけて見えないのか、そう遠くない所に転がった蜘蛛切を、彼の指は何度も逃した。
 シーザーの銃を握った手は震えていた。撃てなかったし、撃たなかった。堕武者の脳髄に正確に銃弾を叩き込もうとしていたし、ソ・シハンが突然堕武者を引き剥がして躍り出るその瞬間を待ちわびてもいた。
 だがその時、ソ・シハンの背後に影が生まれた。燃え盛る蛇神ナーガの姿。焼け付いた長刀でソ・シハンの身体を突き刺すと、もう一刀で彼に巻き付いた仲間を引き裂き、ソ・シハンの頭を掴んで持ち上げた。鼻翼が震え、ソ・シハンの匂いを嗅ぐ。獲物の血の匂いが突然薄れた理由が理解できなかったのだろう。蛇の尾が一周すると、ソ・シハンは炎の中に引きずり込まれた。彼の血染めの視線はシーザーに向けられていた。命令する目だった。

 シーザーは苛立った。あの表情! 自分で決めたことは絶対に変えない、あの強情! ソ・シハンは、リーダーたるシーザー・ガットゥーゾにその視線で命令した。今すぐ逃げろ、と。 
 その場に置かれていたステン短機関銃の全てを拾い上げ、五つか六つの銃が連なったガンベルトを鷲掴み、シーザーは大股で歩み出した。「死にたいのか、バカが!」

 背後からエレベーターの扉の音がして、シーザーは驚き振り向いた。エレベーターに乗り込んだ源稚生が、「閉」ボタンを押したのだ。
「早く! もう彼は無理だ」源稚生の声は弱々しかった。「C4が爆発する。君一人で彼を助けるなど……」
 シーザーは眉を顰めた。大いなる皇が何てことを言うんだ。今彼は何と言った? 早く? 友を炎の中に残したまま、早く逃げろと? ああそれとも、早く奴を助けろ、そういう事か? B級映画の二級雑兵の台詞じゃないか。貴族たる者、早くしろなどという言葉は最期の言葉だ。誰かの為に、誰かに向かって、一族の剣を抜いて殿を務める時の台詞だ。それが皇野郎の口から出れば、尻尾を巻いて逃げろ、などという意味になるのか? オロチ八家の伝説は何か間違っているに違いない。超混血種など居る筈がなかったんだ。全ての混血種の頂点に立つ超混血種が、こんなに陰険で、卑屈なはずがない。
 シーザーはエレベーターに駆け込むと、源稚生の胸を蹴り付け、床に引き倒した。「行かせるものか! 俺の友が逃げ延びられないなら、お前も同じだ。いいか、脱出順はお前が三番目だ!」
「そんな感情が何だというんだ。戦場の死は平等だ! 君はリーダーなのだろう!? チームの安全を最大限確保する、それがリーダーの務めだろう!」源稚生は大声で叫んだ。
「違う! 俺はリーダーではない! 俺は――」シーザーはゆっくりと言った。「正義の味方だ! いつかお前は俺が正義の味方か何かかと訊いてきたが、そうだ、俺が正義の味方だ! 友を見捨てないこと、それが俺の正義だ! 俺は俺の正義の為に生き、俺の正義の為に死ぬ!!」
 彼は源稚生の髪を掴んで鉄床に叩きつけると、腰に巻いていた紫色の絹縄で彼を縛り上げた。そうでなければ、ソ・シハンを助けに行っている間にエレベーターを使われてしまうか、あるいは背中から撃たれてしまう。この日本人ならやりかねない。日本人は銃を使う時、いつも背中から撃とうとする。「正義」の名の下に。
「俺は俺の不正義を許さない。俺が生み出した不正義なら、俺の手で決着をつける!」彼は源稚生に蹴りを入れると、振り向き、矢のように炎の中に飛び込んでいった。

 転がり落ちたソ・シハンは極限まで身を低くし、一息ついた。蛇武者の双眸からは真っ黒い血が滴り落ちている。ソ・シハンの返す刀が一太刀にその両目を破壊したのだ。頭蓋骨が割れそうな程の痛みに耐えながら「蘇秦の陰剣」の構えを繰り出した彼は、蛇武者の両目を一挙に重傷まで追い込んでみせた。だが肋骨の痛みは酷い。蛇男の刃に胸甲を貫かれ、真紅の刃に腰を焼かれた後の反撃だった。
 彼はエレベーターの方向を見やったが、見えるのは炎と黒煙だけだった。燃え盛る炎の中心で、数十匹の堕武者に取り囲まれている、そんな状況だけが理解できた。
 これが最後の戦いになるのかもな、と彼は思った。いつ爆薬が炸裂して堕武者と共に葬られてしまうのかも分からない。今ここで堕武者と戦おうが、諦めようが、結果は同じかもしれない。だが彼は刀を強く握った。二本の刀を携えて、二刀流の構えを取る。
 振り返ってみれば、良くも悪くも頑固に生きて来たと思える。頑固さのおかげで己の運命を切り拓いてこれたし、頑固さのせいで夏弥という少女を本当の意味で理解できなかったし、頑固さで他人を拒絶してばかりで、人の群れから外れて生きていくしかなかった。シーザーが中二病なら、自分も中二病だ。自分は普通とは違う人間だという自覚があって、だからこそ「世俗的」な何かを受け入れようとしなかった。死ぬまで剣の柄を握り締めるのは、生きているという感覚がそこにしかないからだ。
 
 蛇武者は痛々しくも妖々しく舞い、灼熱の双刀で鮮やかな孤を描きながら、徐々にソ・シハンに迫っていく。他の堕武者達は皆も揃って姿勢を低くし、長い尾を背後でS字に捻じっている。蛇が攻撃する際の予備動作だ。背骨を曲げて筋肉を緊縮させ、全身をバネにして獲物へ飛び掛る為の体勢。その様子はまるで狼の群れがバッファローを狩るようなものである。圧倒的に有利なのは狼の群れだが、野牛もまたその鉄蹄で狼の頭を砕きうる。それゆえ、最強の狼だけが野牛の正面から攻撃を仕掛け、他の仲間は周囲で伏して待つのだ。戦いの最中に生み出される、飛び掛ってはらわたに爪を食い込ませるその隙を。
 ソ・シハンの意識は蛇武者の双刀に集中していた。両目を失ったところで、鋭敏な嗅覚を持つ蛇武者の戦闘力は微塵も落ちていない。その証明のように蛇武者はソ・シハンに顔を向けたまま、長刀を振りかざして熱風の中で踊っている。かつては余程の剣道愛好家だったのだろう、無数の練習を重ねて記憶の奥底まで刻み込まれた攻防の技は、変異の後も未だ衰えていない。
 柳生新陰流・五方の構。ソ・シハンは蛇武者の刀術流派を判断した。五方の構とはいわゆる予備動作ではなく、上段、中段、下段、右脇下、左脇下という五種の基本的な斬撃法の訓練の事である。蛇武者が驚くべき長さの腕を存分に振るい、一度に五つの斬撃を繰り出せば、周辺二メートル程には炎刃の影が風も通さぬ嵐となって荒れ狂う。ソ・シハンは左脇下に隠した伝説の斬鬼刀「蜘蛛切」を握った。チャンスは一度きり。その一太刀で蛇武者の首の骨を折り、その戦闘力を完全に奪い去らねばならない。
 地を踏み締めた彼は、蛇武者に吶喊する。背後の堕武者達と距離を離したと同時に跳び上がった。直立すれば三メートル近い背丈のある蛇武者の首を斬るためには、跳ぶしかない。
 その時、背後から何か耳を刺す笛のような音が聞こえた。知らないもう一つの刃が風を切っている――武器が使える堕武者が他に居たのか? だがソ・シハンは既に跳んだ。空中で勢いを変える事はできず、そのまま密集した火紅の刃光へと突き進む。

 蜘蛛切は蛇武者の胸口を捉えた。新たな謎の刃に気を取られ、刀を繰り出すタイミングを逸してしまった。だがソ・シハンが着地した時、既に勝敗は決していた。決定的なその瞬間、蛇武者の脳に鋭い刃が突き刺さり、その炎剣乱舞を終わらせたのだった。
 その刃は、黒い狩猟ナイフだった。ソ・シハンの横顔すれすれを通り過ぎたナイフが、蛇武者の脳天を一点打突、行動不能に至らしめた!
 「ディクテイター?」ソ・シハンは思わず笑みを零した。俺ほど頑固な人間が、この世にもう一人居るなんてな――火の壁を突き破って来たその黒影は、両手に抱えた短機関銃を撃ち回した。大袈裟すぎる大立ち回り。彼はいつもそうだ――見せつけるのは、王者の気概とプライドばかり。
「伏せろ!」シーザーは叫んだ。
 ソ・シハンは転がりながら跳び退り、数メートル走ってから地面に突っ伏した。蛇武者は手を伸ばして額から狩猟刀を抜き、高く掲げて怒りを喚き散らした。
 ディクテイターの鋭さとシーザーの腕力を以てなお、刃は二寸程しか食い込まず、堕武者を殺すには至らなかった。だがその狩猟刀にはもう一つ、泥塊にも似た何かが突き刺さっていた――C4爆薬、最後の一片!
 目を刺すような光が蛇武者の手中で炸裂した。一瞬にして周囲の空間は衝撃波と高温で満ち、シーザーも、ソ・シハンも、周囲にいた堕武者も残らず吹き飛ばされた。シーザーとソ・シハンが身を起こして振り返ると、蛇武者はまだそこに立っていた――腰の上に銅色の骨だけを残して。爆発が起こした炎が、残りの身体を半分燃え切った蝋燭のように焼いていた。源稚生の予測は正しかった。堕武者の油は可燃性だ。鱗の下の脂肪に直接火を付けられれば、C4爆薬でも倒せる。
「自由の女神のポーズで死ねるとは、おめでたい奴だ!」シーザーは銃口を上げ、燃え続ける蛇武者に撃ち放った。
 蛇武者の死体が地面に倒れ、手骨に握られたディクテイターが滑り落ちた。黒檀製の柄は燃え、黒象牙の装飾は見る影もないが、錬金術で作られた刃はそのまま残っている。シーザーはディクテイターを拾い上げてトレンチコートの中にしまった。ソ・シハンは身に着けていた残りの鎧を炎に投げ、シーザーからステン短機関銃を一挺受け取る代わりに、ウィンチェスター散弾銃を一挺投げた。二人は互いの背を合わせ、弾幕で堕武者の群れを牽制しながら、エレベーターホールの方向にゆっくりと進んでいく。衝撃波で吹き飛ばされた堕武者が再び集結していき、シーザーとソ・シハンを取り囲む金色の目が近づけば、その度に銃声と共に押し戻される。二人の間に言葉は無かった。弾丸を機械的に装填、発砲、装填、発砲。こうして作られる目前の弾幕が唯一の防御だった。一度消えてしまえば、堕武者の群れに噛まれ引き裂かれてしまう。堕武者たちは二人の手にある銃を、轟音を上げ、炎を噴き、痛みを生み出すその装置を怖れ始めた。それは堕武者に致命傷を与えられるものでは無かったが、群れを引き裂く事は可能だった。
 だが、弾というのは思うより早く尽きるものである。人は狼を避けようとして松明を掲げるが、その火もいずれ燃え尽きてしまうように。
「戻ってくるなんてバカな事を!」ソ・シハンは撃ちながら叫んだ。「どうせならガトリング銃でも持ってくるんだったな!」
「何だと!? 誰が好きでこんな事を!」シーザーはステン短機関銃を掃射、口いっぱいに咥えた散弾銃の弾を装填しながら叫んだ。二挺のうちどちらかの銃は、必ず引き金が引かれていなければならない。「だがあのバカ日本人が早く早くとうるさいんでな。俺はバカの指図に従うなんて御免だ」
 ソ・シハンはもう何も言わず、ただ笑った。

 蒼紅色の柱が次々と倒れていく。熱風と黒煙が空間を吹き抜け、今にも飛び立ちそうな龍蛇の描かれた壁画が火の中でめくれ上がっている。
 源稚生の視界が一瞬開かれたかと思うと、黒煙の向こう、二人の男が互いに背中を預けて戦っていた。すぐ傍まで迫る堕武者に対して、シーザーが開かれた大口の中に銃弾を注いだり、ソ・シハンが長刀や蜘蛛切を突き出して弾き返してから銃弾を放ったりしている。濃霧のようにホールに立ち込める煙と埃で視界は劣悪の極みに達しており、源稚生は自分の手元すら見えないほどだったが、はるか遠くで背中合わせで戦う二人の男は、黒煙にも霧にも隠せない光で輝いているようにも見えた。
 雪のような紙資料が火に吸い込まれて燃え、炎風の中で震えて火炎の胡蝶と化せば、源稚生は紅蓮の炎に包まれた極楽館を思い出さずには居られなかった。あの夜に炎の中で舞っていた胡蝶は、燃える一万円札だったが。
 あの時、十二単と真っ白な高下駄を纏った美しき娘が炎の中に佇み、優しい微笑みを湛えて語っていた。『いずれにせよこうなる運命だったの。暗闇の中で生まれた蛾は、火に焼かれて死ぬ運命。自分の翅が焼かれても、それでも飛びたいから――』
 思い返してみれば、桜井小暮は美しかった。それこそ、源稚生の好みに近い女性だった。もし東京のバーで出会っていれば、稚生は彼女に歩み寄り、グラスの一つでも奢っていただろう。
 だが彼女はあの時死んだ。稚生は救ってやりたいとも思ったが、どうすることも出来なかった。彼が極楽館へ赴いたのは、敵を潰すためだ。敵は全て殲滅する、そして桜井小暮こそがその敵だった。彼女は源稚生に勝ち目がないと知りながら、それでもモロトフカクテルを使い、炎の中に長刀と髪を乱れ舞わせたのだ。
 この世には、そんな頑固さを持つ者が、罅隙一つなき意志を持つ人がいる。道理を知って尚膝を折らない、己の足で踊りたい、己の踊りを舞ってみせたい、たとえ半ばで焼き尽くすとしても……炎の中で戦う二人のように、有肺類の山を踏み締める二人のように……己が道に拘り続けて死に至る事、それは美徳か、それとも愚蠢か。
『そうだ、俺が正義の味方だ! 友を見捨てないこと、それが俺の正義だ! 俺は俺の正義の為に生き、俺の正義の為に死ぬ!!――』シーザーの叫びが彼の耳に再来する。
 なんという子供じみた言葉……だが、羨ましくもある。その恐れ無さ、無邪気さ、若さ……。

 源稚生は残された力を全て左背に集中させた。骨格が爆裂し、左腕から肘、肩にかけての全てが脱臼した。特殊な骨格構造が為せる業だ。彼は激しい痛みに脳神経を焼かれながら、脱臼した腕を回して拘束を脱した。脱臼した腕はゆですぎたパスタのように柔らかくなり、関節も逆方向に曲げることができる。続いて右腕も自由にした彼は、片手でワイシャツを脱ぎ、丸め、童子切安綱で左手首を切り、手首から流れる血でシャツを赤く染めた。シャツがある程度血を吸ったのを見ると、稚生はそれを火元の近くに投げ入れた。
 堕武者の大好物、皇の血だ。血などくれてやる、血などもう――稚生はエレベーターの扉に捕まりながら、ゆっくりと座り込んだ。酸欠と出血で、もう視界は真っ暗になっていた。バカらしい? そうかもしれない。遥かなる高みに居るはずの皇が失血死、正確には失血昏倒の後に火事で焼死などと……歴代の皇の霊魂たちはこんな無能を嘲るだろう。でも、どうしようもないことだ。自分は歴代の皇の中でも最弱だ。一族の神官の記録が誇張されていないとするなら、歴代の皇には自分が十人居たって叶わない。こんな無能な皇には、この程度が限界なのだ。

「何だ?」シーザーは自分の目を疑った。青く焼け付いた銃撃痕が点在する中、両手の銃を全て撃ち尽くしても、自分が死んでいないことに。
 彼らの銃弾が撃ち尽くされた瞬間、堕武者は突然身を退き、壁画の間のどこかへと我先に向かっていく。ほんのついさっきまで塩とコショウを撒いてグルグル焼いていた豚の丸焼きが、突然汚物混じりの泥水ゼリーと化してしまったかのように、興味を失ったというよりも、まるで何かに惹きつけられていくかのようだ。
 悪運の神がまた味方をしたのか? 今度はどういうカラクリなんだ。血に飢えた堕武者に、今にも手に届く食物を諦めさせるなど。
「おい! 行くぞ!」ソ・シハンは叫んだ。
 シーザーはハッとした。今この奇跡の合理性を考えている時間はない。炎の中のC4爆薬はいつ爆発するか分からない。跪いて悪運の神に感謝するのは後だ。彼らは気力を振り絞り、走りながら重いトレンチコートを脱ぎ捨てた。銃器や弾丸を多数納めたコートは、逃げに転じれば邪魔になるだけだ。背後から轟音と灼熱の風が到来する。どこか向こうでC4爆薬が炸裂したのだろう。闇影をも揺るがすC4爆薬の威力は、空中のジャンボジェットを吹き飛ばせる程だ。テロリスト御用達のそんな危険兵器が今、壁画の間に合計7キロ程も散りばめられている。
 黒煙を突破したシーザーは、遂に前方に貨物用エレベーターを見た。源稚生が拘束を脱し、半身まで外に出ているのも見えた。この日本人はそこまで逃げたいのか! シーザーは直感するとデザートイーグルを抜き、源稚生の脹脛に狙いを定めた。
 ここまで来て源稚生にエレベーターを閉じられる訳にはいかない。これが最後のチャンスだからだ。シーザーは躊躇いなく引き金を引き、源稚生の脹脛から血の花が散った。鋼芯実弾、一般人なら脹脛以下の足が吹き飛ぶ代物だ。源稚生の筋肉や骨格が常人の耐久力を逸しているとしても、龍骨形態を解除した後に耐えられるものではなかった。
 源稚生がその痛みで目を覚ました時、彼の襟を引いてエレベーターの中に引きずり込んだソ・シハンは、既に後ろ手にエレベーターの閉ボタンを叩いていた。最後にエレベーターに駆け込んだシーザーは源稚生の顔面に一発拳を叩き込み、エレベーターの端に打ち倒した。
 爆発の連鎖が始まった。壁画の間の隅々まで太陽のような光が満ち、台風の何倍もの速さの熱風が吹き荒れ、他の爆薬へと火を運んでいく。旧式貨物用エレベーターはギシギシと音を立てながら、ゆっくりとその扉を閉めていく。残った数センチほどの隙間からわずかな熱風がエレベーター内に吹き込み、残っていた紙文書に火を付けた。扉が完全に閉まるとエレベーターは少しずつシャフト内を下っていき、数秒後、上から天が割れるような爆発音が響き、きらめく気浪がシャフトに押し寄せ、燃え盛る死体を運んできた。蛇影が囂々と炎の中で燃え、脂肪が融け、古銅色の骨格が露わになる。この暴虐生物は遂に命を断たれた。シャツ一枚の周りに群がり、それを引き裂いている途中で、彼らは死んだ。

 貨物用エレベーターがガタガタ言いながら下りていく間、シーザーは燻る紙文書を踏み消すと、疲れ果てたように文書箱の上に倒れ込み、源稚生の顔の上に足を乗せた。
 ソ・シハンも座り込んだ。二人の体力は限界だった。炎の中を走っていた時も、何度と視界を暗くして倒れ込みそうになったことか。
 源稚生は何も言わない。手首の傷に布を巻くのが精一杯だった。手首の動脈を切り、全身の血液の少なくとも五分の一を染み込ませたことで、例のシャツは堕武者達を中毒者にとっての麻薬以上に惹きつけるものとなった。その代償として、彼は足を立てる事すらできなくなったが。
 稚生はなんとか意識を保とうとした。堕武者を排し、建物の人々を守ったのはいいが、オロチ八家とカッセル学園との緊急同盟はもはや終わったと考えるべきだった。源稚生とシーザー、ソ・シハンは再び敵同士となる。壁画の間の秘密を知られた以上、二人をオロチ八家の手から逃す訳にはいかないが、今の源稚生は彼らを制圧するどころか、命すら握られている。シーザーとソ・シハンが自分を源氏重工から連れ出そうとしているのは間違いない。皇の血の価値は、カッセル学院にとっても計り知れないものがある。学院に送られるのは何としてでも避けなければならない。それはオロチ八家の敗北を意味することになる。
 源氏重工ビルの中にはまだ、A級混血種の執行者が百人以上いる。彼らの助けを借りられるなら、シーザーとソ・シハンを包囲し制圧、秘密を守るだけでなく、捕らえる事すらできる。
 だが、どうやって連絡を取ればいい? 源稚生は考え続けた。

「こいつはどうする」シーザーはデザートイーグルで源稚生を指した。
「連れて行けるなら一番いいが、この状況では源氏重工から離れるのが最優先だ。彼がいてはそれも難しい」ソ・シハンが言った。
「人質にするのはどうだ。類まれなる皇をオロチ八家だって見捨てる訳にはいかんだろう」
「東京はオロチ八家の本拠地だ。仮にそれでオロチ八家の目を撒いたとしても何の意味もない」
「なるほどな。要するに、ここでトドメを刺しておくのが最善って訳だ。いずれ学院とオロチ八家は戦争になる、その時こんなバケモノが居たら学院はどうなることか! どちらにせよ、こいつに流れる血は龍の血だ。こいつを殺すというのはつまり、龍殺しなんだ――」シーザーは銃のスライドを引いた。
 その言葉は、確かに源稚生に向けられたものだったが、銃のコッキングは無意識の所作だった。シーザーはその時、第四者の呼吸音を聞いたのだった。エレベーターの中にいる三人とはまた別の、四人目の呼吸を。
 その瞬間、突然エレベーターの壁が崩壊した。シーザーが反応する前に、奇変した骨爪が壁を貫通し、源稚生の背後から両肋骨に突き立てられた。鮮血が血泉の如く襲撃者の顔を汚し、耳障りな歓声が発せられた。
 シーザーはその堕武者を見て、唖然とする他無かった。自分の血で血路を開き、漸く堕武者の群れを搔い潜って来たというのに! それどころか、その堕武者は通常個体の倍以上に大きかった。先の群れを為していた堕武者はといえば最小三メートルから最大五メートルほど、上半身は人間とほぼ同じで、腰から下にかけて徐々に細くなり、脚先は完全に蛇の形、この程度だったが、その新たな堕武者は全高八メートルを軽く超え、妊娠中の蟻のように膨れた腹部を持っていた。恐らくはその過剰奇変した腹部のために壁画の間まで辿り着けず、結果唯一死を免れた堕武者となったのだろう。それが源稚生の血の匂いに惹かれて、エレベーターを襲ったのだ。
 
 その堕武者は中年女性の顔を持っていた。顔色には堕武者らしい青白さはなく、赤みを湛えて艶やか。あたかも人間の女性のように、妊娠して丸み豊かとなっているかのようだ。シーザーはその肥大した腹部を見て理解した。鱗の無い雪白色の腹部に、蛇の尾のような痕跡が見え隠れしている。この堕武者は孕んでいる。堕武者は世代が進むにつれてより純粋な龍血に近づき、恐るべき存在になっていく。堕武者の胎児は源稚生の血を、皇の血を感じ取って、母体の中で歓喜している。
 堕武者には繁殖能力がある――龍殺しの人々が長年抱いてきた仮説の懸念が、今ここで証明された。肥大奇変したこの母親堕武者の子宮には、悪魔が宿っている! そして仮に源稚生の推測が正しければ――源氏重工を襲った堕武者たちが仮に「育てられていた」としたなら、黒幕は堕武者の軍勢を「繁殖」させているのかもしれない。
 堕武者は源稚生をしっかりと抑えつけ、その鮮血を舐め取った。源稚生はエレベーターの外に引きずり込まれないよう、必死に手すりにしがみついている。数百キロは下らないであろう堕武者の肥大した身体をエレベーターと繋げているのは、源稚生の肉体だけだった。
 シーザーは何度も狙いを定めようとしたが、源稚生の背後に巧妙に隠れる堕武者の頭を捉えることが出来ないでいた。源稚生ごと撃ったとしても、彼を貫通して堕武者に当たるかどうかも分からなかった。つい先程まで撃ちたくて仕方の無かった源稚生に向かって、シーザーは撃てなかった。源稚生は今や失血ですっかり蒼白になり、たたえていた陰柔の美は死にかけた少女のよう、今すぐにでも魂が抜け出てしまいそうに見える。デザートイーグルで傷つけてしまえば、源稚生は死ぬかもしれなかった。

 皇だろうが、ただの人だろうが、死に際というのは変わらないのか――シーザーはふとそう思った。
 源稚生が皇なる存在であることを知って以来、シーザーにとって彼は「危険な怪物」という認識となっていた。「危険な怪物」を撃ち殺す、それは堕武者を撃つのと何の変わりもない。だが、今にも死にそうな弱々しいただの人間を撃つというのは違う。シーザーの目の前に居たのは、ただの人間だった。

 堕武者は長い舌で源稚生の後ろ首を舐めた。鋭い歯で源稚生の頸動脈を探っていると、興奮のせいか突如分娩し始め、青白い蛇のような胎児が次々と生殖器から吐き出され落ちていく。
 その時、エレベーターの上方から断裂音が聞こえたかと思うと、エレベーターが急速に下降を始めた。既に文書箱だけでも最大荷重量に近かったエレベーターは、巨大堕武者と三人の成人男性で耐久重量を超えており、そうでなくとも地震で各部が壊れかけてもいた。加速度を上げたエレベーターが最下部に落ちれば、堕武者も当然粉砕されるだろうが、三人も一緒に赤い染みと化すだろう。

「撃て!」源稚生は最後の気力を振り絞って言った。
 決して消えることのない不可思議な影を纏っていた彼の目がその瞬間、金剛の如く目眦尽裂。シーザーはそんな彼の目を見て驚きを隠せなかった。
「早く撃て!首の中心だ!こいつの頭が――」源稚生の口から鮮血がこぼれる。
 シーザーは歯を食いしばり、銃を向けた。源稚生は正しい。撃てばブレーキを利かせてエレベーターも止められる。撃たなければ、全てが終わる。皇の仁慈は婦人の仁、活路はその顔の吹き飛んだ先にある。
 だが、シーザーの指は震えた。彼の目の前にいるのは一人の生きた人間だった。発射された弾丸はその人間の首を貫通する。結果も当然、その通りの結果となる。そこまで思い至った時、シーザーの脳裏にふと、過去ともいえない程度の情景が浮かんだ。傘を差してマンガ喫茶を後にした雨の夜。見渡す限りの無限の土砂降りの中、源稚生が頭を下げながらシガーに火を付ける。得体のしれない未知の極東の島国で出会った新たな友。シーザーには、そう確信していた瞬間が間違いなくあった。

『友を見捨てないこと、それが俺の正義だ! 俺は俺の正義の為に生き、俺の正義の為に死ぬ!』

 それは人間として余りにも不十分な生き方。彼に欠けているのはただ一つ、理性だ。だからこそソ・シハンを救う為に火の中に飛び込むし、一緒に火の中で吹き飛ばされても構わないとすら考えてしまう。彼の貴族のプライドを保ってきたのは、この生き方そのものに他ならない。

 源稚生は突然笑った。ほんの小さな微笑みだったが、美しい笑みだった。
「ガットゥーゾ君、私もかつては憧れていたんですよ……正義の味方にね」

 源稚生が手を放した。

 堕武者と共に落ちながら、彼は腰から童子切を抜き、勢いよく自らの腹部に突き刺した。長刀は彼の身体を貫通して堕武者の咽頭を突き、頸椎骨に達した。源稚生が刀柄を力強く捻ると、彼の内臓と共に堕武者の骨が砕けた。シーザーとソ・シハンが堕武者の開けた穴からシャフトを覗き込み、大声で何か叫んでいるようだったが、彼にはもう何も聞こえなかった。
「稚女……皮肉なものですね。兄弟揃って、同じ末路とは」彼は心の中で呟いた。
 彼の目に浮かんだのは、数年前の光景だった。あの蒼白繊細な顔が底無しの深井戸に落ちていく。こぼれた涙が宙を舞い、水晶のような光点が一筋に流れていく――



 冷たく湿った風が流れてくる。ゆっくりと目を開けたが、辺りは暗闇のままだった。腹の傷が痛むが、身体はそこまで弱っていない。だが動けなかった。どうやら暗闇の中で、カイコのようにしっかりと束縛されているらしい。
 ここはどこだ? 地獄か? 古くて暗い井戸の底か……宗教的信念も持たず、天国も地獄も信じていない彼でも、この暗黒の空間では、自分が本当に死んだのだと思わずにはいられなかった。
 夢のようなものなら何度も見たことがある。死んだ自分が底の見えない深い井戸の中に落ちていき、その奥には自分が殺した鬼たちの骨が埋まっている。もちろん、その中の一つは――

 その瞬間、明るい灯りが目を焼いたかと思うと、紙巻き煙草が一本口元に差し出され、その先に火が付けられた。
「とんでもないな、皇ってのは。セプクしても一時間少しでほぼ完治とは。そんな便利な肉体になってみたいもんだ」シーザーはライターを自分の顔に近づけ、源稚生に見えるようにした。
 ソ・シハンは傷口に抗菌軟膏を塗っている。皇の肉体が細菌に感染するかは疑わしいが、間違った手当ではない。片腕に包帯を巻き、身体の至る所に傷跡が残っていた。
 あの高さから落ちて死ななかったのか? 源稚生には何が起こったのか分からなかった。確かに自分には超常的な治癒力がある。しかし切り傷はともかく、龍骨形態でもないのに数百メートルの高さから落ちれば、内臓が耐えられないはずだ。そこで彼は、自分が宙にぶら下がっていることに気が付いた。このエレベーターに乗る前、シーザーが自分に巻いた紫色の太縄。それが源稚生を空中に留めると同時に、気絶させもしたのだ。シーザーとソ・シハンが、同じ高さの鉄梁の上に座り込んでいる。
「降ろしてくれませんか?」源稚生は苦笑いした。「このままでは煙草も吸いにくいのですが」
「そうしたいのは山々だが、降ろした瞬間ヤクザに囲まれて捕まるなんて御免だからな」シーザーはシガーを巻いた。「冗談が言えるくらいには大丈夫そうだな」
「そこまで疑いますか。混血種の名門ガットゥーゾ家が、そんなに卑屈でいいんですか?」源稚生は口元から煙を吐いた。
「卑屈だ?」シーザーは肩を竦めた。「うちの種馬親父を知らないからそうも言えるんだ」

「……悪いな」数秒の沈黙の後、シーザーが言った。
「私が君の友を見捨てようとしたのは本心です、謝る事なんてありません。当然、正義の味方の筈もない。多くの悪事を為してきました。人殺しも含めて」
「鬼以外にも?」ソ・シハンが訊いた。
「我々は彼らを鬼と呼びますが、実際の所は我々と同じ混血種です。ただ、堕武者になりやすいというだけの」源稚生は言った。
「壁画は失われたが、俺達はその写真を撮った。不本意ではあるが、オロチ八家に敵対する学院には必要なものだ。堕武者の群れも退けた今、俺達はもう、敵だ」シーザーは煙を吐いた。
「なら、すぐに逃げた方がいいでしょう。もう少しすればフリガ麻酔弾の効果も薄れて、こんな縄、すぐに引きちぎれるようになりますから」源稚生は笑った。
「舐めるなよ。ゾウをも引き摺れるその縄で、もがくほどきつくなる水夫結びをしてやったんだ。お前の肉体は俺達が思っていた程じゃない、ただ俺達より少し強いだけの『超』混血種だ。骨も筋肉も本物の龍どころか、堕武者程度ですらない。言霊は確かに相当なものだが、それもほとんど捨て身みたいなもので……要するに、お前は確かに強いが、欠点がないわけじゃない」シーザーは嗤った。
「ええ、大変的を得た評価です。それで、私をどうしようと?」
「誘拐は難しいから、お前はここでそのままにしておく。このビルにはお前の部下がごまんといるんだろう? エレベーターシャフトで宙吊りになっているとは思わないだろうがな。まあ、お前に気がありそうなミス・桜なら見つけられるかどうかもわからんが――彼女の事、流石に分かってるよな?」
「日本にいるうちは、女性関係は断つと決めています。フランスで日焼け止め売りになるからキャリアを捨てろ、なんて言えないでしょう」
「そこまでフランスに行きたいのか? 大族長の地位を捨ててまで」
「私は悪人です。多くの鬼の血に手を染めてきました。何処か遠くへ行って安らかに過ごせるなら、それ以上のことはありません。フランスでなくても、どこかへ逃げられれば」源稚生は力なく言った。
「それで、正義の味方になりたかったというのは……」シーザーは眉をひそめた。
「子供というのは、正義の味方に憧れるものでしょう?」源稚生は淡々と言った。
「つまり、俺が子供じみているとでも?」シーザーが肩を小突くと、稚生は回転した。
「正義の味方とは、要するにウルトラ・ヒーローのことですよ。子供が見るSFXドラマです」
「ウルトラ……?」
「宇宙人と融合した地球人がヘンシンして、カイジュウと戦うヒーローです。ガットゥーゾ家の坊ちゃんが知るはずもありませんが。小学生が中休みにどのヒーローが最強か話し合ったり、おやつを我慢してフィギュアを買ったり、そういう時代が私の小さい頃だったんですよ」
「フィギュア……!」聞き覚えのある単語を聞いて、シーザーは思わずほくそ笑んだ。確かそれは、ロ・メイヒが言っていた……。
「ええ、フィギュアです。子供にとってのウルトラ・フィギュアは、ウルトラの星の友達なのですよ。私が持っていたのはウルトラ・ヒカリ……赤いウルトラ・ヒーローたちの中で一人だけ綺麗な青色をした、ビームブレードが必殺技のウルトラ・ヒーローでした。ウルトラ・ヒーローは正義の味方です。ウルトラ・ヒーローが味方なら、我々も正義の味方になったと思えたんです。何度も襲ってくる凶悪なカイジュウも、正義の味方なら倒せる。それが毎週テレビの中で繰り返されて、その度に日本中の子供たちが沸いたものです」源稚生はつらつらと語り続ける。「昔、学校のステージでウルトラ・ヒーローの主題歌を歌ったこともあるんです。思い出ですよ……『光の国から、正義の為に――』」
 奇妙な空間だった。日本極道の頂点に立つ、唯一無二の皇が宙吊りになりながら特撮ヒーローの主題歌を歌い、それをガットゥーゾ家の御曹司シーザー・ガットゥーゾとA+混血種のソ・シハンが聴いている。この不条理な状況は、G8参加国各国首脳が厳重警備のキャンプ・デービッドに集まり、和太鼓の乱打を聴いているようなものだった。笑ってしまえばそれまでの空間だったが、笑う者は居なかった。稚生の歌は高く深く伸びるエレベーターシャフトに響き渡り、十数年前の一人の子供の歌が、時を超えて共鳴しているようにも聞こえる。体育館のステージの上で胸を張って、自分こそ正義の味方だと信じていた歌声が。
 稚生が一通り歌い終えると、シーザーは軽い拍手を送った。
「ですが結局、私は正義の味方ではなく、悪人になりました」稚生は呟いた。「私は言うまでも無く悪人。夜叉は傷害・致傷の常習犯、カラスは情け容赦ない高利貸し、桜は血も涙も忘れた殺人者……我々は、あなた方が考える以上の悪事をいくらでもやってきました。真さんのおもちゃ屋の件は平和的に終わりましたが、執行部が出る案件というのは、血を見ない方が極めて珍しいものです。極道の世界とは暴力の世界、暴力の大きさが即ち声の大きさとなる。極道で生き延びる為には、悪事を働き、一族に仕え、忠義を通さねばならない。一族の利益の為なら無辜の人々をも喰い漁り、己も仲間も犠牲にする。より多くの誰かの明日の為に、常に誰かが犠牲になる、残酷な世界……。私はウルトラ・ヒカリではなく、皇となりました。しかしこの広い世界の前で、そんな称号が何になるでしょう? 私が正義を為したところで誰も救えはしません。しかし、悪事を為して誰かに明日が訪れるなら、私はいくらでも悪人になります」
「どうだか。神のものは神に、サタンのものはサタンに。たとえ悔い改めても、悪を為した罪は永遠に消えない」シーザーは言った。
 稚生は首をひねり、シーザーに目を向けた。「その年になって尚、そんな言葉が言えるとは。羨ましいですよ、ガットゥーゾ君」
「またジャパニーズ・イロニーか」
「いいえ。正義を信じられる、その幸せが、本当に」稚生は呟いた。

 シーザーはしばらく沈黙した後、眉を上げた。「言いたいことはいくらでもある。が、近づいて来るこの足音は、お前の仲間だろう?」
「さあ。ともかく、ここから出口まで一本道ですよ」稚生は言った。
「次に会う時は敵同士だ。感動的な別れ方をしたいものだが」
「もう会いたくありません。早く日本から出て行ってください。ここであなた方に出来る事はありません」
「これ以上減らず口を言うなら、サヨナラだ」
「ええ、サヨナラ」稚生は言った。
「サヨナラ」シーザーも言った。「……お前は世界が残酷だと言ったが、それは違う。この世界は滅茶苦茶なんだ。友になるはずだった人間が、こうもなるんだからな」
 シーザーとソ・シハンの足音が遠のくと同時に、桜とカラスの足音が近づく。稚生がシガーから最後の煙を深く吸い込むと、口元から落ちたシガーは下方の暗闇の中に落ちていく。暗く赤い小さな光が蒼灰色の鱗で弾けた。エレベーターシャフトの奥底には、蛇に似た死体の山だけがあった。


「見つけたのは偶然なんです。若君を探していたら……」カラスはその扉の前で、源稚生を引き留めた。「中がとんでもないことになってるんですよ……こんなに弱った若君を連れて来るべき場所でないことは分かってます。ですが、我々三人でどうこうできるもんじゃなく……」
「今日はいつになく舌が回るようだな、カラス」源稚生は眉を顰めた。
 稚生は桜の肩を借りてやっと歩けるという状態だった。医者から応急処置を受けている途中で、カラスに「大変なものを見つけちまいました」などという切羽詰まった報告を受け、鉄穹神殿のある地下区画を通り、稚生も知らないようなエレベーターで降り続けた先に、この斑斑しく錆びた鉄扉はあった。扉の向こうに一体何があるのか、稚生にはおおよその見当が付いていた。大量の粘液がまき散らされた床、無数の堕武者の大群が腹を引き摺って歩いたのだろう、すなわちその扉の先こそが堕武者の巣穴なのだ。
 堕武者たちは下水道を通って侵入したのだろうというのが稚生の予測だったが、地下ドックの警戒隊員が誰一人サメ以外の生物を見ていないと言うのだから、可能性は一つしかなかった。堕武者の巣穴は、このビルにあるのだ。
「とにかく、俺達は見つけたものを若君に報告するだけで、エライ人の考えなんて何も分かりゃしねぇんで……」
「どけ!」稚生は扉を押し開けた。
 覚悟はしていたが、その光景を目の当たりにすると、稚生は脳の髄まで刺すような悪寒を感じた。一面に散乱する工具と器具。錆び付いた鉄の手術台、鋭利なナイフ、骨格切断用のナタ、垂れ下がる無数の鉄鈎。充ち満ちた血腥い臭いと相まって屠殺場のようにも思える。驚くべきガラス壁になっているその奥側で、一部が圧壊しながらも貯水槽からは数万トンの水が吹き出し続け、床に半尺程の深さの水を残している。淀んだ水の中で幼蛇のような形をした生物は、白い鱗が生え揃う頃合いから既に鋭利な骨のような爪と恐るべき筋肉を備えていた。第二世代の堕武者、間違いなく第一世代よりも強靭な肉体。ただ、成長するまでにはもう少し時間が必要なようだ。
 稚生はカラスから拳銃を受け取ると、堕武者の胎児の心臓を一発ずつ貫いていった。
「こいつら飼われてたみたいっす。魚とか牛とか羊とか、デカい動物を手あたり次第エサとしてぶち込んでたみたいです。堕武者の死体もキレイに骨までしゃぶりつくされてます。マジで何でも喰うんだ……」カラスはハンカチで口を塞ぎながら言った。下町の路上で悪名を馳せた彼ですら胃を痛める類の血腥さだった。水槽の中を覗いてみれば、底には骨や腐った有機物がヘドロを成しており、夕食のパスタを吐き出しそうになった。
「そうだろうな」稚生はカラスの説明を遮るように手を振った。
 堕武者を初めて見た時から、稚生はその可能性を推測していた。龍血が人類にもたらす変異は速いが、身長や体重はそう簡単に変わらない。生前は1メートル強の人間が堕武者になっても、身長4メートル前後や体重200キロ以上までになる為には、大量の食物が必要となる。これだけ大量の堕武者がエサを探して東京を歩き回り、なおかつ誰の目にも見られていないなどとは考えにくい。つまり、これらの堕武者は家畜のように、誰かに育てられていたのだ。
 だが、その畜産場がこれほど近くにあるなどとは、稚生は思いもしなかった。
 カラスが手招きすると、一人の執行者が丸い金属製のタンクを担ぎ上げた。一見すればドラム缶のようでもある。アセチレンバーナーで切り開けられて見えた中身は、変異途中の人体だった。顔は青白く、脚も残っている。まだ生きているが、麻酔薬のようなものを注射されているらしく、ドライアイスの中で深く眠っている。稚生がその後頭部に数発撃つと、黒い血がドライアイスに流れ込み、堕武者は夢の中で死んでいった。
「数時間前に潜水艦で地下ドックに運ばれてきた貨物です。担当者は中身も知らず、ただ上からの指示で運んだだけとのことでした。数日おきにこのドラム缶が一本追加されて、食糧も全てあの小型潜水艦で運んでいたんでしょう。毎日数十トンは下らない量を」桜は言った。
「このビルを建てたのは丸山建造所だったな」稚生は訊いた。
「ええ、設計から施工まで全て。一族が自ら建てたようなものですから、監督などいないようなものです」桜は準備していた資料を稚生に渡した。「この繁殖池は設計図にはありませんが、鉄穹神殿の地下水濾過装置から水を引いているとなれば、丸山建造所が造ったのでしょう。そんなことができるのは彼らだけですから」
「若君、丸山建造所の奴らをしょっ引いてみましょうか」カラスは慎ましく提案した。「俺と夜叉がなんとかします。若君と桜はとりあえず休んで下さいよ、数時間にはすべて明らかになりますって」
「いや、いい。丸山建造所が造ったのは間違いないが、管理は別の者だろう。誰にも見つからずに、悟られずにこんな繁殖池を作り、運用し続けられる者……丸山建造所に指示を出せて、このビルの管理権をも持つ者……そんな人間は、一人しかいない」稚生は呟いた。「政宗氏を探せ。話がしたいと伝えろ」
 夜叉とカラスは互いを見やった後、深く頭を下げた。ここを見つけた時、カラスはこの繫殖池の背後にいる者を推測して夜叉と議論していた。一族の中でこんな事ができる者といえば、橘政宗か、源稚生しかいない。無論、源稚生への信頼は揺らぐべくもないが、橘政宗を疑う勇気も無かった。橘政宗は大族長の座を退いたとはいえ、オロチ八家のいわば功臣であり、彼無くして今日のオロチ八家は無かった。猛鬼衆との断固たる戦争を決断した武士が、堕落し鬼と成り果てた堕武者を密かに飼っていたというのか? 何故?
「ここに呼びますか?」カラスは大きくクシャミをした。
「まさか。その前に私がおかしくなる。……桜、酒を用意してくれ。それと壁画の間に行き、死んだ仲間たちに白布を被せるんだ。放っておくのは忍びない」
「はい」桜は言った。


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