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『龍族Ⅲ 黒月の刻』下・第十六章:神の死

 黒ずんだ赤い水の中に、点々と銀藍色のかすかな光が輝く。何万匹もの鬼歯龍蛇が、蟒蛇のようなその姿形を血紅色の瀑布の中で明滅させているのだ。色々な音を出してもいるが、何一つとして人の世のものとは思えない。宮本志雄が打ち開いたのは一本の川ではなく、ひとつの地獄だった。


 巨大な機械が多摩川地区の夜空を揺り動かしている。鳥の群れが空を旋回しているのは、降りられる枝が無いからである。半径数キロ以内のあらゆる木の枝が、同じ周波数で揺れ続けているのだ。
 宮本志雄は真っ赤な水の中に膝まで浸かっていた。彼の目前ではスーパーボーリングマシンが170デシベルの高周波ノイズを出している。施工人員がみなノイズ抑制ヘッドホンを被っているのは、そうでなければ強烈な騒音で鼓膜が破れてしまうからだ。
 砲弾のような形をした巨大なマシンが軌道に沿って前に進み、巨大な超硬ドリルヘッドが高速で回転する。堅い岩層が前進するごとに次々と崩壊していき、密集した砂嵐のような石クズがトンネルの中を飛んでいく。スーパーボーリングマシンの後続はシールドマシンと呼ばれる機械であり、トンネルの壁に軽くて堅いシールドを埋め込み、掘ったばかりのトンネルが崩壊するのを防いでいる。こうしてボーリングマシンの進んだ後には滑らかな壁が伸びていき、直径にしておよそ六メートル、列車が一本通せる規模である。
 かつて英仏海峡を掘り通したこの伝説的な機械の力で、宮本志雄達は十日も掛からずして一キロメートルのトンネルを掘り終え、遂に赤鬼川に辿り着こうとしていた。前方にはデボン紀に火山から噴出したマグマが冷えて固まった玄武岩層が広がり、本来なら黒色のはずだが、キセノンランプが照らし出すその表面は艶やかな血赤色だった。割れ目から噴き出す血のような液体が、ボーリングマシンの軌道を水没させている。
 赤鬼川とは、その名の通り赤色の水が流れる地下河川だ。桜井雅彦が命と引き換えに得た情報がそれを証明している。この赤い血のような水は、神とそれに追随する龍族亜種どもが、この日本の地中深くに生まれ育っている証なのだ。
「音波探測。赤鬼川までの距離を測れ」宮本志雄が命令を下した。
 赤鬼川に近づくごとに彼は慎重になり、掘削一時間ごとに岩層の厚さを測定させていた。トンネルが赤鬼川に到達すれば、蔵骸の井戸と人類世界の扉が開き、赤い水と共に龍の胚が現れて来てしまうかもしれないからだ。
 たとえ胚であろうともそれは危険極まりないモノだ。胚の形態のままで、日本海溝からこの赤鬼川まで辿り着いた存在なのだから。
 宮本志雄は腰に提げた刀の柄を撫でた。菊一文字則宗、その刀が意味するのは大族長からの信頼だ。だがこの刀は神に対抗することはできない。実際に神を殺す武器は赤井戸の中にある五千トンの水銀とテルミット焼夷弾だ。もし水銀とテルミット焼夷弾が失敗しても、竜馬弦一郎が掌握している自衛隊のミサイルが「赤の井戸」と神を一挙に壊滅させることになっている。
 蔵骸の井戸を開く時間は明日の深夜、大族長が直々に立ち会って人類による神殺しの偉業を称えることになる予定だ。宮本志雄は掘削ペースを落とすよう指示するのも忘れていなかった。
「約二十メートル!」前方の技師が大声で叫んで報告した。「岩層のノイズが大きすぎて、測定結果が不明瞭です! 再測定を準備します!」
 宮本志雄はわずかに眉をひそめた。岩層内の騒音とは恐らく小規模の地震だ。これはつまり、神の覚醒が加速しており、残された時間も少ないという事だ。
 彼は腕時計を見やった。深夜三時、予定時間まではあと二十一時間もある。ボーリングマシンを全速力で稼働させれば残りはあと数時間も掛からないだろう。ここで作業は一時中断し、ボーリングマシンを冷却させ、部品の交換を済ませ、時間になってから一気に蔵骸の井戸を打ち開けばいい。
 彼はトンネルの外に繋がる有線通信機を手に取った。全長一キロのこのトンネルの深さでは無線が届くはずもなく、外部との通信はこの有線連絡頼みとなっている。
「竜馬君、蔵骸の井戸から二十メートルの所まで来た。掘削作業を一時停止する」彼は竜馬弦一郎のチャンネルに接続した。
『宮本君、お疲れ様。全て順調だよ。この区域は我々の制圧下にある。安心してくれ』竜馬弦一郎の低い声がトランシーバーから聞こえた。


 竜馬弦一郎は「赤の井戸」からおよそ一キロ離れた場所にいた。日本国航空自衛隊の軍用ジャケットを着こみ、沸き立つ黒雲の下、黙々と煙草を吸っていた。
 赤の井戸に向かう道はこの一本道だけだ。竜馬弦一郎と航空自衛隊員250人はこの道路を制圧し、堅固なバリケードを設置した。誰かが空中から赤の井戸に近づこうものなら、航空自衛隊の「ニードル」対空ミサイルにたちまち撃ち落とされることになるだろう。さらに35キロ離れたキサラヅ基地にはF-2戦闘機中隊が待機し、随時赤の井戸への航空支援を準備しているほか、カメラレーダーは赤の井戸付近一帯をくまなく監視している。
 猛鬼衆が赤の井戸まで辿り着こうとするなら、密林を突破するのが筋になるだろう。だが密林の奥で待ち構えているのは風間家の忍者部隊だ。現代の忍者は忍者刀や手裏剣だけでなく、ハイテクトラップやレーザー監視装置をも使いこなす。現代の利器の力を借りて容易に侵入者を発見した現代忍者は、不届き者の背後から音もなく近づき、その喉を一つずつ掻き切っていくのだ。
 この一帯の野山野峰、その防御の固きこと金城湯池の如し。
 明日はここで盛大な式典が始まる。竜馬弦一郎には既に緊張と興奮があったが、兵たちの前で見せる事は無かった。兵たちは赤の井戸でなにが起こっているかなど一切知らされておらず、ただ命令に従っているだけなのだ。
 その時、竜馬弦一郎のスマートフォンが鳴った。電話の発信者は関東支部の責任者、明智阿須矢。執行局、関東及び関西支部は大族長の直属であり、明智阿須矢はカッセル学院に留学したこともあるエリートだ。
『竜馬家当主、大族長は早朝頃に赤の井戸に到着します。関東支部は五分後にそちらに到着、防衛に加勢します』明智阿須矢は簡潔に要件を伝えた。
 電話が完全に切れるよりも前に、竜馬弦一郎は改造スポーツカーの轟音を遠くに聞いた。地平線の向こうから現れたのは一台の真っ赤なアルファ・ロメオスポーツカー、時速200キロの高速で矢のように一直線に向かってくる。
 兵士たちは一斉に武器をあげた。アルファ・ロメオの明るいヘッドライトはまるで蛇のようで、兵士たちは自然と警戒を強めた。スポーツカーはバリケードに近づくと急ブレーキをかけ、セラミック製のブレーキディスクから明るい火花を散らしながら、竜馬弦一郎の前で滑って止まった。
 扉が開き、深冷な若者が車から降りた。
 関東支部長、明智阿須矢は、竜馬弦一郎に深くお辞儀をした。立場上は明智阿須矢と竜馬弦一郎は同等といえるが、厳格な家父長制を敷くオロチ八家では、年長者や当主には敬意を払わねばならない。
 エンジンの轟音がさらに近づいてきた。頭を揃えた二台のスポーツカーが並走して来る。紺色のポルシェと金色の日産GT-Rがまっすぐに阿須矢の方へ向かって行く。阿須矢はよけようともせず、代わりに自分の車のトランクを開いて、中から古雅な刀箱を取り出した。ポルシェとGT-Rは彼のすぐ傍を通り過ぎ、強風が阿須矢の前髪を跳ね上げる。二台の車はドリフトしながらアルファ・ロメオの両側に並んで止まった。
 二台の車から黒服の若者が同時に飛び降りた。「「阿須矢、どっちが勝った!?」」二人は同時に尋ねた。
「長船じゃねえか? 俺の所がゴールラインなら、ポルシェの方が車半台くらい速かったぞ」阿須矢は言った。
「クソッ、荷物が重すぎたんだ。最後のコーナーで差を付けられたぜ」敗者は長船と呼ばれたポルシェのオーナーに札束を投げた。
「アハハ、帰りにもう一回やればええやん」長船が言った。
 ポルシェのトランクが開くと、そこには分解された一台の狙撃銃があった。長船は慣れた手つきでそれを組み上げていく。
 続いて、さらに多数の車がバリケードの前に止まっていく。全て高馬力のスポーツカー、持ち主は皆二十代くらいの若い男女だ。彼らは車を一列に駐車し、即座にトランクを開けて装備を確かめた。関東支部の十二人の組長全員がここに集まっているのだ。
 関東支部の組長は全員、古刀の名前をコードネームに使っている。コードネーム「長船」の風魔木勝は優秀な狙撃兵、コードネーム「影秀」のGTR乗りは空気爆弾を作り出す言霊を持っている。阿須矢のコードネームは「菊一文字」だ。
 長年の同僚であり、カッセル学院の同級生でもあるが、組長たちがアイサツを交わすことはない。アイサツなど関東支部のスタイルではない。虎はむやみに鳴くことはない。一緒になってニャーニャー鳴くのはネコだけだ。
「予定では、明日の深夜に蔵骸の井戸は開くそうだが。大族長は明日の朝に来るのか?」竜馬弦一郎は尋ねた。
「はい。大族長曰く、水銀とテルミット焼夷弾の効果があるかは疑わしいので、自分で立ち会うことにしたいと」阿須矢は小さくお辞儀をした。「上杉家当主も来るそうです。そちらには関西支部がお迎えに」
 竜馬弦一郎は頷いた。「道路の方は問題ない。森の方に人が欲しい」
「了解です」阿須矢は言った。「武器を確認したらすぐ出発します。森の守りは任せて下さい」
「……虎徹、お前の車の荷物、どうしたんだ?」竜馬弦一郎は眉をひそめた。はっきりとは言わなかったが、彼は凄まじい臭いが虎徹の車のトランクからするのを感じていた。
「ああ、俺が出発しようとしたとき、コロンビア人のグループに囲まれちまいましてね。死体を処理するヒマが無くて、そのまま持ってきちまいました」虎徹は笑った。彼の金属製の下顎がギラギラと輝いている。
 虎徹の下顎はかつて刀で両断され、金属製のものに置き換えられている。彼はそれを恥じることも無く、むしろ周りの人々に見せびらかすように、意図的に金属顎に着色することを拒んでいた。
 竜馬弦一郎は嫌な気分になった。虎徹というこの男が暴力狂人であり、得意とする獲物が鋸歯付きのフックナイフだということを知っているからだ。虎徹は相手の肌と肉と骨を一度に切断する感覚が好きだという。トランクの中の死体もおそらくバラバラなのだろう。
 関東支部というのは要するに問題支部なのだ。組長はどれも天才だが、少し頭がおかしい者ばかりだ。カーレースに麻薬中毒、ただのギャンブル好きかと思えば愛人の手指を賭けモノにしていたりする。生前の橘政宗も頭を抱えていたが、放っておくしかなかった。多少おかしくなければ天才とは呼ばれない。天才とはある意味で怪物の別名なのだ。橘政宗の保護が無ければ、こんな怪物どもはすぐにでも一族から追放されていただろう。
 支部長を務める明智阿須矢は怪物のなかでもまともだった。少なくとも他人に危害は加えない、死体解剖マニアなだけだ。彼は違法行為で死体を手に入れ、自前の「手術室」で骨やら皮やらの一つ一つに解剖しているらしい。
 竜馬弦一郎は彼らが好きではなかった。森の中の風間家の忍者を支援させることにしたのも、これ以上自分の目の前でウロウロさせたくなかったからだった。
「竜馬家当主、コロンビア人でオタノシミしましょうぜ」虎徹はトランクに手を掛けた。「まだキレイなのも残ってるんでね。ヘッヘッヘ……」
「貴様! それが当主に対する口の聞き方か!」竜馬弦一郎はたまらず怒鳴った。彼は八家当主の中でも最も規律を重んじる人なのだ。
 だが虎徹がトランクを開けた瞬間、吐き気を催す悪臭がたちこめ、竜馬弦一郎は一瞬眩暈を起こした。なんと不愉快な臭い! 死体の匂いなどではない、まるで爬虫類の腐ったような――
 その瞬間、蛇の形をした影がトランクから躍り出て、宙でまっすぐな矢のように身体を伸ばした! それは竜馬弦一郎の喉を噛み、長い牙を首の奥深くまで突き刺した。
 竜馬弦一郎の目の前は真っ暗になったが、意識はまだ消えておらず、腰の通信機に手を伸ばそうともがいた。
――関東支部謀反! 関東支部謀反! 猛鬼衆の「赤の井戸」への攻撃が始まった!――
 明智阿須矢はしゃがみ込み、堕武者に喉元に食いつかれて苦しみ悶える竜馬弦一郎を興味津々に眺めた。通信機を手にしたところでどうなる? 既に喉も気管も潰されているし、竜馬弦一郎はもはや唸る事すらできない。
 影秀の言霊「陰雷」が強烈な圧縮空気爆弾を作り出し、スポーツカーを中心に強烈な衝撃波が全方位に発した。兵たちは武器を構える前に衝撃波を受けて内臓出血した。遠方で見張りをしていた兵たちは、反応する前に長船の狙撃銃によって撃ち殺された。他の組長たちは兵の半数以上が休憩している路肩のテントに向かい、鬼魅の如き黒影となって高速で暗殺任務を執行した。虐殺は音もなく行われ、虎徹だけがテントの外まで聞こえる狂った叫び声を上げている。外から見えるのは窓に飛び散る血飛沫だけだ。
 阿須矢はその虐殺に加担しなかった。この程度の相手に自ら手を下す気にならなかったからだ。彼は立ち上がり、夜風に血の匂いを深く吸い込み、かすかに耳に届く、死にゆく肉体の甘い悲鳴を聞いた。
 なんと素晴らしい日だろう。今日より関東支部はオロチ八家から離脱し、完全なる自由を手に入れたのだ。橘政宗は彼らを見誤っていた。天才は確かに貴重な人材だが、それゆえ誰にでも仕える事ができる。オロチ八家だろうと猛鬼衆だろうと、阿須矢にとってはどれも同じだ。
 阿須矢が興味を持つのはただ二つ、死体解剖の喜びと、力だけだ。
 彼は一族のなかでも最も優秀な若者の一人であり、カッセル学院に留学したこともあった。カッセル学院で阿須矢は白兵戦で無敗の記録を誇り、「妖刀」の異名すら得ている。
 妖刀の伝説は阿須矢がカッセル学院を離れてからも流れ続けたが、ソ・シハンが入学した途端、学院における白兵戦の月桂冠はこの新たなる獅子心会会長に授けられることになった。
 本人にとっては遺憾だったが、既に日本に戻って関東支部に就任していた阿須矢には、学院に戻ってこの本科生と真剣勝負をする機会は無かった。
当然、阿須矢がこんなぽっと出の中国人に自分の記録が破られたことを認めるわけもなかった。あるいは、ソ・シハンには日本刀芸術に精通した隠者か大先生でも付いているのだと推測した。彼は日本からソ・シハンにメールを送り、先生は誰なのかと聞いた。ソ・シハンはかなり懇切丁寧にメールを返し、「武蔵」という道場で二年程学んだ、あとは剣道のビデオを見て独学で覚えた、と答えた。阿須矢はこの武蔵なる道場に達人の隠者がいるのだと確信した。
 ソ・シハンのルーツを知った彼は、もはや学生と手合うことは無かった。彼は特別に中国出張を申請し、家に伝わる宝刀を持っていった。沿岸都市で飛行機を降り、タクシーに乗り、武蔵道場なる場所を探してウロウロ歩き回った。そうして遂に見つけた「武蔵」の看板の前で、阿須矢は沈黙してしまった。同じ看板の上にさらに大きな文字で「市立少年宮」と書いてあったからだ。いわゆる武蔵道場研修センターは、「聶耳ピアノ研修センター」「サバリ・ベリーダンス研修センター」とか「白石・山水画研修センター」などと同じ、収益性の高い固定した先生がいるわけでもなく、ただ剣道愛好家が子供に竹刀の振り方を教えるようなコミュニティセンターだったのだ。阿須矢は茫然としながら訓練場を歩き回り、子供たちが彼の周りでワイワイするのを眺めるだけだった。
 嘘をついたのか、それともユーモアの天才なのか。ソ・シハンという男は――
 阿須矢はさらにソ・シハンと刀を交えたいと切望した。しかしソ・シハンが日本に来たと知っても、彼に挑む為に門を出る事は許されなかった。一族の接待を請け負ったのは未来の大族長、源稚生だ。あの源稚生が部下に学院本部から来た人間に挑戦させてくれるはずもない。
 だが今はどうだ。一体の堕武者が解き放たれた瞬間、彼とオロチ八家の間にはもはや何の関係も無くなった。赤の井戸を占領し、ソ・シハンに挑戦し、ソ・シハンを倒した次はさらに心躍る相手、大族長・源稚生だ。
 俺の刀こそ日本一、それがついに証明される時が来た!
 謀叛、裏切り、なんと素晴らしい響きだろう。橘政宗が生きていた時は、関東支部もまだこの老人にそれなりの感謝の意を表し、すぐさま猛鬼衆に鞍替えすることもなかった。だがその橘政宗は昨晩死んだ。今や阿須矢を束縛する者は何もない。彼は自由になったのだ。
「死体が250体、キッチリ数えたで」影秀が背後から近づいた。
「じゃあコイツが最後だな」阿須矢は血だまりに倒れた竜馬弦一郎を見た。兵全員が死んでも、首元を一噛みされた一等空佐はまだ生きていた。老いてなお彼はオロチ八家が一柱、竜馬家の当主。強力な血統が生命をつないでいるのだ。
堕武者は未だに竜馬弦一郎に噛みついていた。竜馬弦一郎は通信機を握り締めながら、不断に指を動かしている。声を出すことはもとより、通信機を口に近づけることすらできないが、通信機を握り締めた指は癲癇のように何もない表面を弱々しく叩いている。
「ハハハ! これが本家の正義ってやつなんか? 本家の正義が死にかけてるんやな!」影秀は冷たく嘲笑った。「竜馬家当主が死にかけてるでって、宮本家当主に言ってやりたいねんな? マジ感動的や」
だが阿須矢は沈黙したまま、竜馬弦一郎の震える指を見つめ、五秒ほどたった後、突然ゆっくりと溜息をついた。「本家の正義か……バカにできるもんじゃねえな。これは俺のミスだ。竜馬家当主は既に連絡を取っている……」
堕武者が遂に竜馬弦一郎の後ろ首、脊髄神経を噛み、彼の生命を完全に終わらせた。不断に震えていた指先も力なく石の上に伸びたが、通信機はしっかりと握られたままだった。
阿須矢は一刀の下に堕武者の頭を弾き飛ばした。「能もねえこんな奴、もう用はねえ。喉も声帯も潰された竜馬家当主、モールス信号で電報を送ってやがった。『カントウ、ムホン』……赤の井戸にいる奴らはもう、俺達が来てることを知ってやがる」
 影秀は驚きの表情を見せた。若い世代からすれば、当主達など時代遅れで役に立たないジジイとババアでしかなく、特に当主の中で一番平凡らしい竜馬弦一郎などはそうだった。竜馬弦一郎の唯一の長所は誠実さであり、だからこそ自衛隊に派遣されて任務に就いていたのだ。
 だがその竜馬家当主が死の直前に覚悟を見せた。これが平凡な男の成せることか? 凶獣の牙に意識を砕かれながら、正確にモールス信号を打つ、どれだけの覚悟があればできるというのだ?
「ど、どうすりゃええ?」影秀は尋ねた。
「知られたんなら仕方ねえ。そもそも東京から援軍が来るにしても三十分はかかるし、ヘリが大族長を乗せてスクランブル準備万端ってわけでもねえだろ。早くても一時間はかかるはずだ」阿須矢は冷たく言った。「そんぐらいありゃあ十分だろうが!」


 宮本志雄の腕がゆっくりと下がっていった。通信機から何も聞こえなくなったのだ。秘密の通信に気付かれたか、通信を送っていた人間が死んだか。モールス信号は途絶えていた。
 カントウムホン、かんとうむほん、関東謀反……連続して繰り返された信号の文字列はただ一つ、意味は明確。関東支部が裏切った――昔から一族の悩みの種だった支部だ。
 竜馬弦一郎は話すこともできなかったのだろう。それはつまり、彼が何か大きな問題を抱えていたということだ。竜馬弦一郎のいる場所は赤の井戸からほんの一キロ、そこで問題が起きたということは、裏切り者は既に赤の井戸に近づいているという事だ。竜馬弦一郎が抵抗できなかったということは、関東支部が電撃的な手段を用いたという事だ。宮本志雄は竜馬弦一郎をよく知っていた。平凡ではあるが、一筋の望みさえあれば決して屈しない男。だからこそ宮本志雄は、竜馬弦一郎は死んだのだと漠然と理解した。橘政宗に続いて、当主の犠牲は三人目だ。
「さよなら、竜馬君……」宮本志雄は静かにそう呟くと、再び源稚生のチャンネルに接続した。「大族長! 竜馬君から報告がありました。関東支部が裏切り、赤の井戸に近づいているとのことです!」
 源稚生は常にオンラインになっているわけではないが、この報告は即座に彼の下に届くだろう。問題は、赤の井戸を守り抜く方法だ。
 竜馬弦一郎の死と同時に、赤の井戸付近の防衛圏も崩壊した。源稚生は自衛隊を直接指揮できない。彼が自衛隊の力を借りようと思えば、一等空佐の地位を持つ竜馬弦一郎の権力を通さなければならない。キサラヅ航空基地の戦闘機群は無効、カメラレーダーも無効、対空誘導弾も無効。唯一機能しているのは密林の中の風間家忍者隊だけだが、関東支部は密林に立ち入ることも無く、直接道路を車で突っ切ってくるだろう。距離にして一キロ、一分もあれば駆け抜けられる。
 赤の井戸自体の警備人員は限られており、関東支部に歯向かっても卵で岩を打つようなものだ。宮本志雄は冷汗を流し、思考を緊張させた。オロチ八家は全ての当主が優秀な戦士というわけではない。宮本志雄の武器は戦略と学術だけだった。
 複雑な状況だが、彼の頭の中には一つの疑問があった。
 猛鬼衆の攻撃は間違いなく計画的なものだが、なぜ今なのか? 不意打ち、奇襲、こういった類はタイミングが重要なはずだ。掘削作業は終了間近、蔵骸の井戸は何時でも開くことができる。赤の井戸を占拠して猛鬼衆はどうする? 蔵骸の井戸を開けて神を持ち去るのか? 猛鬼衆にそれができるとは思えない。神とはすなわち白王の遺骸、暴虐残酷な代物を持ち去るなどこの世の誰ができる? それとも、蔵骸の井戸を開いて赤鬼川の水を赤の井戸に流し込み、五千トンの水銀に神を沈める? それこそ今オロチ八家がやろうとしていることだ。
 そう、今突き止めるべきは猛鬼衆の目的。対策を講じる前に、まずは入念な論理分析をする……これが彼のスタイルだ。
「当主! 二回目の音波探測の結果が出ました!」イヤホンからエンジニアの声が聞こえた。「赤鬼川までの岩層の厚さは約二十メートル、ですがノイズのデータがおかしいです! 確認願います!」
 宮本志雄がコンソールの前に行くと、ノイズのデータが激しく揺れる一本の曲線となって画面上に表示された。明らかに地震の類ではない。振れ幅が均一すぎる、どうやら人工の機械か何かが起こしているようだ。
 エンジニアは、音の曲線の一部分を取り出し、ノイズデータと比較し、二つのラインが基本的に一致していることを確認した。
「比較用に、我々の掘削機の音波曲線です」エンジニアは宮本志雄の目を見つめた。
 宮本志雄は理解した。彼ら以外にもう一台、岩層を掘っている同型のスーパーボーリングマシンがあるということだ。そう考えれば、奇怪なノイズが数日間ずっと続いているのも不思議ではなかった。
 目の前のこれと同型のスーパーボーリングマシンが、この世にはもう一台存在する。英仏海峡トンネルを掘削する際、両側から同時に中間に向かって掘り進み、途中で合流することで掘削時間を削減していたのだ。だが彼らが白神山空軍基地で見かけた時は既に一台しかなかった。もう一台はどこに? 日本が新たなトンネルを掘るために引き取ったとするなら、わざわざ一台だけ引き取るのはおかしい。答えは、猛鬼衆の手にある、ということだ。オロチ八家が掘ったトンネルに繋がる別のトンネルを掘っているのだ。オロチ八家のトンネルの入り口を爆破した後、赤鬼川の水を猛鬼衆のトンネルの方に流れ込ませ、その先の地下空間で神を捕まえる――そういう算段に違いない。
 なるほど、完璧な計画だ。オロチ八家のトンネルを借り、神を己のワナに引きずり込む。……こんな横取りを、中国では麻雀用語で「截和」だとか言ったか? 宮本志雄は唸った。
 どれだけ冷静な精神で、どれだけ完璧な情報を揃えたのか。それらの要素を全て考慮し、唯一の方法を導き出す才能。宮本志雄はこれが人類にできる業とは思えなかったが、王将はやり遂げた。もしかすれば彼は人類ではないのかもしれない。
 宮本志雄は落ち着いていった。焼け付いた鋼鉄が冷まされていくかのように、身体がだんだんと冷却されていき、大脳がさらなる高速で巡り回る。逃げるという選択肢は最初から無い。王将が人間であろうとなかろうと、ここに留まり一局仕掛けるだけだ。王将の戦略は完璧だ。一杯一杯に隙が無い、まさに宮本志雄の望む相手だった。謀略の分野で誰にも負けたことのない宮本志雄にとって、単に暴力を極めるなど無粋の極みだ。たとえ力量で劣ろうとも、必要な時に必要な力さえ発揮すれば、たちまち相手は崩れ去るのだから。
 刻々と過ぎて行く時間が、宮本志雄の勝機を着々と奪い去っていく。だが、彼は興奮し、瞬きも素早く、口元に一筋の笑みを浮かべていた。東京大学で学んでいた時も、カッセル学院で研修していたときも、彼にはある特別な習慣があった。試験時間の最初の三分の二の間は設問も解答用紙も見ず、ただ座ってぼんやりとしているのだ。試験時間が三分の二ほど経過し、他の学生が答案用紙を提出し始める頃になって、彼は問題を解き始める。試験時間は他人の三分の一、思考速度は三倍にしなければならない。彼はこうして自身の思考速度を高め続け、最後まで素早く考え抜く力を身に着けた。試験時間終了のチャイムと同時にペンを置いても、彼は常に一位だった。
 王将の計画には隙があるはずだ。竜馬弦一郎の殺害は明らかにリスクだったはず。オロチ八家内部に潜む猛鬼衆の手先を暴くことになるからだ。ここに王将の計画の弱点があるからこそ、関東支部を動かしたのだ。
 弱点さえわかれば、勝利は宮本志雄の側に転がり込む。智将だけが、最後の一瞬で戦場を覆すことができる!
 暗闇の中に冷ややかな光が突然現れ、宮本志雄の後ろ首に向かった。消防斧が一振り、一人のエンジニアの手に握られていた。宮本志雄は思考を続けながら頭を伏せた。掘削機を守っていたエンジニアたちが突然向きを変え、トンネルの出口に向かって走って来た。
 そして宮本志雄の傍を通りかかった瞬間、隠していた消防斧を振りかざしたのだ。トンネルに武器は持ち込めないが、各種金属工具は大量にある。宮本志雄が斧を避けると同時に、彼の助手の背中を鋭利なドライバーが突き刺し、鮮血が噴き出した。殺戮が進み、作業中のエンジニアたちがハンマーで頭を叩き割られたり、ペンチで喉を潰されたりしていく。エンジニアたちは一瞬で、殺す者と、殺される者の二派に分かたれた。
 宮本志雄のミスだった。岩流研究所の能力主義が仇になった。研究所に王将の手下が紛れ込んでいたのだ。王将は対策を講じる隙も与えてくれないらしい。いかに強力な智将でも、首を斬られてしまえば何の策も考え出せない。
 宮本志雄の戦闘力は限られている。護衛も居ない。それは広く知られていることでもあった。
 趨勢が決まろうとしていたその時、宮本志雄の背後にいた一人の痩せたエンジニアが彼の服を掴み、ぐいと引っ張り、斧の刃から逃れさせた。九死に一生を得た宮本志雄、しかし彼は逃げず、ただ地面に座り、突然笑い出した。斧を振るう裏切り者が機会とばかりに二度目の斧を振るい、刃が宮本志雄の脳天めがけて落ちる。だが斧は彼の頭上で止まり、半センチほども動かなくなった。
 誰かが斧の刃を掴んでいた。例の痩せたエンジニアだった。一体誰なのか、何処から出てきたのかも分からないが、そのエンジニアは何も言わずに手を伸ばし、コーヒーでも飲もうとしているかのような余裕気に、消防斧を掴んでいた。
 次の瞬間、そのエンジニアの手にした黒く長い物体が裏切り者の喉に差し入れられ、血に染まった刃がゆっくりと引き抜かれた。一本の黒い軍用レイピアだった。
 痩せたエンジニアは宮本志雄を椅子に座らせた後、高所の作業台まで雷電のように駆けあがり、一発の高速弾丸のごとく人の群れへ突撃した。一度の突撃で軍用レイピアが突き刺し、引き抜かれ、血の弧を描いたレイピアが更なる突撃一閃、一閃、さらに一閃。宮本志雄はそれを見ながらアハハと大笑いし続けた。笑い声の中に狂気を孕ませながら。
 叛逆者を全て片付けた後も、宮本志雄は笑いを止めなかった。痩せたエンジニアが作業台の天辺で止まり、レイピアを振り下げると、一筋の血が足元の鉄板に滴り落ちた。立ったままの最後の数人のエンジニアがゆっくりと膝を折り、地面に倒れた。
 一分前までトンネル全体を震わせていた人々の阿鼻叫喚が、一分後には死の如き寂静となった。今もまだ呼吸を続けているのはただ二人、宮本志雄とこの正体不明の護衛、あるいは刺客だけだ。
 宮本志雄は何度も深呼吸して落ち着こうとしたが、それでも笑いを抑えずにはいられなかった。
「何が面白いの?」その痩せた人影は首をかしげて宮本志雄を見た。
 宮本志雄はその時初めて、自分を守ったその者が女であることを理解した。冷冽の気が漂う声、しかしどこか少女のように稚嫩な感じがする声。
「王将の弱点が分かった……ハハッ……王将の弱点が分かったぞ!!」宮本志雄はコンソールに腕をついて立ち上がると、天下睥睨の如き傲慢さを浮かべながら、再び笑った。「王将が何を恐れているのかわかったぞ!!」
「王将が? 何を恐れているの?」女は尋ねた。
「こちらが先に蔵骸の井戸を開くのを恐れているんだ!!」宮本志雄は大声で言った。「もし二つのトンネルが繋がる前に蔵骸の井戸を開ければ、赤鬼川は神の胚と共に、赤の井戸になだれ込む! アーッハハハ!! 今すぐ五千トンの水銀を赤の井戸にぶち込むぞ! テルミット焼夷弾を起爆するんだァ! 赤の井戸を龍族の地獄と化してやる! 生きた神など手に入れさせてたまるものか! そう、だから奴は私を殺そうとするのさ! 関東支部を送ったのも、私の部下を抱き込んだのも、私が蔵骸の井戸を開くのを恐れているからだ! 今この時、この瞬間、王将が最も恐れているのはこの私だ! だから、私を殺そうとしているのさ! ハハハ! ハハハハ!!」
 女はただ黙ってその狂った笑いを聞いていた。そもそもあまり聞き上手ではない彼女は、宮本志雄の酔狂が自分と全く関係ないかのように、拍手も軽蔑もしなかった。異邦人の彼女がここにわざわざ現れたからには、決して関係のないことではないはずなのだが。
 宮本志雄としてははやや遺憾かもしれない。人生最高のアイデアを手にした瞬間に、オーディエンスがそんな彼女一人しかいないというのは。彼女だけがこの世界でただ一人、この瞬間の彼の慧智を知ることができた。なぜならこのアイデアが実行されれば、宮本志雄は死ななければならないからだ。
「……あのマシン、一人で動かせるの?」女が聞いた。
「問題ない! 私は日本で一番このマシンに詳しい男さ!」宮本志雄は大人四人ほどの高さのある巨大マシンにひょいと飛び乗り、コンソールに手を伸ばした。「燃料バルブを調整し、一時的に出力を二倍にする! 出力が二倍になるとどうなると思う? 掘削速度が四倍になるのさ! もちろんドリルヘッドの過熱は問題になるが、水冷システムをフル稼働すればいい! 軌道の問題は……チッ! 軌道敷設が間に合わない、ならば釘式履帯を使うが、これで速度は二割低下……二割、二割……土砂の問題もある、運び出せないなら埋めるか? しかし面倒な……」
 研究者ってみんなこうなの? まるでバナナを見つけた猿のように興奮して……女はこのおかしな人間の背中を見つめた。数分前には頭を叩き割られる寸前だったことも、自分の命がもうすぐ終わることも、すっかり頭になくなったかのようだ。
 宮本志雄の計画は複雑ではないが、彼一人では蔵骸の井戸を開いた所で逃げることもできず、赤鬼川の水で赤の井戸まで流され、神や鬼歯龍蛇諸共死ぬしかない。
 だが彼は気にしない。この土壇場で戦局を覆し、王将の軍を打ち負かせるのだから。この将棋盤において、彼は決して重要な駒ではない。源稚生と王将がそれぞれ玉と王なら、宮本志雄は精々香車か角行だ。最期に功を立てられるならそれに越したことはない。
「チッ! あと三十分は必要か!」宮本志雄は突然、自分の計画の障害となる要素を思い出した。こちらに駆け付けて来ているだろう関東支部だ。厚さ二十メートルの岩盤を穿つには三十分は必要だが、外の警備隊では数分も持たないだろう。
「三十五分あげるよ」女は踵を返した。
「……ところで、君は大族長が寄越した護衛かい?」宮本志雄はこの重要な問題を尋ねることを忘れていた。
「ううん、オロチ八家は関係ないわ。でも神は目覚めさせたくない。その点に関しては同じよ」女は遠くまで走っていった。
 歩きながら重厚な防護服を脱ぎ去った女は、甲冑のような防護服から真っ白なドレスへ衣代わりし、膝にスカートを跳ねさせた。どことなく、宮本志雄にとっては馴染みある服装だった。よくは見えなかったが、痩せこけた姿はまさに窈窕、密林を駆ける精霊のようでもあった。こんな少女が殺人を繰り返してなお落ち着いているなどは想像し難いが、その冷ややかな口調、まるで世界の殆どの感情が彼女と絶縁しているかのようだ。
「……名前を聞かせてくれ」宮本志雄は尋ねた。
「名乗れる名前は無いわ。それに、貴方が知る必要もないでしょう?」少女が遠い暗闇の中で立ち止まり、氷雪のように冷たい声で返した。
「そうだな、人間の存在に名前は必要条件ではない。だが一つだけ言わせてもらおう」宮本志雄は深くお辞儀をした。「私は宮本志雄だ。最期の瞬間に君と同じ戦場に居られて、嬉しく思うぞ!」
 彼は腰に提げていた菊一文字則宗を解き、放り投げると、それは少女の手に収まった。二人は何の言葉も交わさず、少女は振り返って去っていった。彼女の背後からは、スーパーボーリングマシンの耳を劈くような咆哮だけが響いた。


 シーザーは麻雀を打っていた。上家にソ・シハン、下家にフィンゲル、対面には着飾って美しいゲストが座り、ロ・メイヒはお茶酌みをしていた。
 高天原はどんなゲストの要望にも応える――相応の金さえあれば。勿論、限度はあり、ホストを裸にして屋上で愛を叫ばせるなんてことは出来ないのだが。今日のこのゲストからの要望はさほど多くなく、Basara King、右京、ヘラクレスと一緒に日本式麻雀を打ちたいという要望だった。それを聞いたロ・メイヒはあきれ果て、心の中で再び愚痴を垂れ流した。……何だ今日のゲストは! 寂しいのか、孤独なのか、こんな真夜中に凍え死なすつもりか?! ホストクラブで麻雀の相手を漁るなんて、三ショット負けで心でも砕かれたか、自尊心でも欲しいのか?!
 麻雀がしたいなんて言うゲストが何を考えているのか、ロ・メイヒは全部分かっていた。要するに、本物の脱衣麻雀をするつもりなのだ。
 シーザーは既に下着一つと靴下を失っていた。ソ・シハンは少しまともで、脱いだのはズボンだけだった。最も悲惨なのはフィンゲルで、不用意にもゲストに数個も中張牌を食われてしまった彼は折角仕立てた和服を全て脱ぎ去って、フンドシ一丁になっていた。スカーフを二枚も巻いてしっかり準備万端だったゲストは、現在スカーフ二枚とストッキングを脱いで計三負けだが、牌を打つ勢いは未だ高らかに、軽快で余裕綽々だ。
 シーザー、ソ・シハンとフィンゲルは自然と示し合わすようになった。ガットゥーゾ家の尊厳を守りたいシーザーと、身体を晒すのを嫌がるソ・シハン。フィンゲルは素っ裸になってもなんとも思わないが、単にゲストが服を脱ぐのを見たいがために勝ちを求めた。ロ・メイヒは茶を注ぐ際にゲストの牌を覗き、シーザーに目配せする。だが関西麻雀協会の理事を務めているらしいこのゲストの前に、彼らは着実に追い詰められていく……今のところ取れる戦術は時間稼ぎだけだった。ゲストはホストの時間を買うものだが、今夜始まった麻雀は既に三時間小が経過し、閉店時間まで残り数十分。シーザーの計画は時間が終わるまで脱衣を遅らせることだった。ゲストが時間延長を要求しても、彼は応じないだろう。
 だが容姿端麗なゲストはブラウスのボタンを二つ外し、肩を捻って誘い文句を言い放った。「ほらイケメンくん頑張って、このゲームに勝ったら上着脱いであげるわよ」
 フィンゲルはその誘惑に抗えなかった。彼は「拷問には屈しない!」などと力強いフレーズをよく言うが、ロ・メイヒからすれば信じられる話ではなかった。しかしフィンゲル曰く、「拷問に耐えられなきゃ、その後の色仕掛けにも耐えられないだろ? 俺は絶対に色仕掛けなんかに屈しないぞ!」
 フィンゲルが牌を捨て始めてから、ゲストは既に二度もチーを鳴いていた。
 ゲストは既に上がり牌が見えているようで、シーザーは焦りの表情を露わにした。もう一回負ければパンツ一丁になってしまう。残り数十分、パンツ一丁でどうやって持ちこたえればいい?
 まるでササン朝ペルシャとビザンツ帝国の戦いだ。最終的にチグリス川まで追いやられたササン朝の皇帝が国民に「もう一歩も退くことは出来ぬ、一歩退けば国が滅ぶ!」なんて叫んでいるかのような……いや、これはナンセンスだ。もう川まで退いているのだから、これ以上退けば川に落ちるのは自明だ。結局ササン朝は征服されて滅亡しているし、シーザーがこのパンツ一枚に頼って持ち堪えるのも難しいだろう。
 征服と滅亡のこの決定的瞬間、ソ・シハンが牌を捨てた。九萬!
 ゲストは九萬を掴んで自分の手牌の横につけ、手牌を全て倒した。またアガリだ!
 せ、せせせ先輩!? 麻雀も数学も分からないの!?……ロ・メイヒは心の中で先輩の不幸を嘆いた。卓上に九萬は一つも出ていない。誰かが九萬を二つ保持してるのは明らかなのに、そこで九萬を捨てるなんて。
 ソ・シハンは賭けに負けたことを悟り、無表情のままベルトを外してテーブルに置き、自分の牌を倒し、洗牌を始めた。ロ・メイヒはその時、ソ・シハンの手牌の中にもう一つ九萬があることに気付いた。そして理解した。ソ・シハンはまだ脱ぐものが若干あるが、シーザーはこれ以上負けるとパンツ一丁になってしまう。ソ・シハンはシーザーを守るために自爆したのだ。何という男気! 簡単に言えば扶貧救困、大袈裟に言えば災害救援だ!
 これにはシーザーも多少の感動を覚えたらしい。危機の中で諸手を上げて捨て身となったのがライバルだったとは。

 その時、ウェイターが一人バタンと扉を押し開けた。
「おい、ゲストがいるんだぞ。そんな乱暴にドアを開けるんじゃない、一体何なんだ?」シーザーは訊いた。すっかり感慨にふけっていた彼は、こう問いかけるまで数十秒かかった。
「何故か知りませんが、皆さんの顔が外の広告に!」ウェイターは満面の驚きを隠しもせずに言った。「店長に聞いたら、この店は広告なんて出していないって……」
 シーザーは一瞬唖然とした後、即座に顔色を変え、身を翻して部屋から出た。しかしドアを出た瞬間全身にさわやかな風を感じ、彼は部屋に跳び戻って自分の服を拾った。ソ・シハンは既に脱いだ服を全て身に着けていて、まるで最初から何も脱いでいなかったかのようにキッチリと振る舞っている。
「おい! 俺達はサービスマンだぞ! 店のルールに従え! ゲストがまだいるんだぞ!?」フィンゲルが思わず立ち上がると、全身に万遍なくついた隆々の筋肉が露わになった。
「フィンゲルも早く服を着るんだよ! 状況がまずいんだよ!」ロ・メイヒはフィンゲルの腰を殴った。「お店のルールが命より大切なわけあるかって!」
 フィンゲルは未だに脱衣麻雀に夢中だった。今日のゲストが貴族のような風貌、魅力的な身体だったこともあって、肝心な事を忘れていた。今彼らは高天原に身を隠しているが、この状況で写真が広告に出たらどうなる?
 広告にデカデカと顔を晒しながら密命を執行できる男はこの世界にただ一人、ジェームズ・ボンドくらいだ。スパイのプロフェッショナルでも何でもない人間にとっては、この状況は隠れ場所がバレたということを意味する。
 
 一階のダンスホールはひっそりとして人影一つない。ここの所最近ナイトクラブは閉店時間を早めている。どんなに飲み食いが好きなゲストでも、酒にふらつきながら雨に打たれるのは嫌だからだ。
 シーザーは正面玄関を押し開け、「眠らぬ街」の商店街に出た。外は止まない大雨が降り続け、雨水が街道一帯を洗い流し、道路は一本の川のように急流が溢れている。道行く人々は大きな傘を広げ、雨が傘を打つパラパラという音がこだまする。
 見渡す限りの街道の店は全て閉まり、高天原のネオンサインだけが黒の背景に赤と紫の光を跳ねさせている。嵩張った雨水が足首を撫で抜けていった後、シーザーは歩道に立ち、辺りを見回した。
「おい、その広告はどこにあるんだ」シーザーは凄んだ口調で訊いた。
「う、上です。ほら、向こうにまだ……」ウェイターは言った。
 鮮やかな青い光が水面を照らす。雨に打たれた水面に光が反射し、輝く花畑のようにきらめいている。シーザー達が顔を上げ、通りの向こう側の建物の屋上を見ると、巨大な電子広告スクリーンが煌々ときらめく青い光を湛えていた。この光が水面まで投げかけられているのだ。
 バラ色の背景の上に、まずはシーザーの顔、次にソ・シハンの顔、そしてロ・メイヒの顔が次々と表示され、年齢・身長・血液型・趣味・店に来た月日と性癖が、高天原の住所と共に、東京のあらゆる淑女たちを招いていた。
 そして最後に表示されたのは風間琉璃の顔だった。明らかに隠し撮りだったが、不意に顔を向けたその瞬間を捉えた写真は、その目線と微笑みで致命的な誘惑を醸しだしていた。当然、彼が「風間琉璃」だった時に撮られたものだろう。
「……なんで俺がいないんだ!!」フィンゲルは遺憾の意を示した。「新人だからってバカにしてんのかぁ!?」
「いやフィンゲル、そこはヨカッタ~って安心するとこでしょ!?」ロ・メイヒはため息をついた。
 おそらく東京史上最大のホストクラブ広告だろう。未だ眠れぬ新宿の人々が窓の外を眺めれば、気取った彼らの顔が夜空に明滅するのを見ることになるだろう。眠らぬ街の東から西まで、街道に沿って点々と、数百枚の広告スクリーンが次々と点灯し、全く同じ広告を流している。まるで無数の鏡が互いに反射し続け、世界がその数人の顔で埋め尽くされてしまったかのようだ。
 ソ・シハンは無言で抜刀し、一振り、降りしきる雨を薙いだ。それを見たフィンゲルは無意識に隅に縮こまってしまった。ソ・シハンを「キラー」と名付けたのはフィンゲルだが、それはソ・シハンの刀術とは何の関係もない。刀を抜く、それは人を斬るための所作の筈だが、彼は今一体誰を斬ろうとしたのだろうか。
「人が押し寄せるのも時間の問題だろう。ロ・メイヒ、フィンゲルは高天原に戻れ」シーザーが囁いた。「源稚女の面倒を見るんだ」
 シーザーの周りの雨粒が震え、衝撃波が拡散し、不可視の領域が展開した。言霊「鎌鼬」を放ったのだ。道の真ん中に立ち、東西にそれぞれ銃を向けた。彼にとってはこの上なく頼れる「保険」だった。
「何だ? 何が起こってんだ?」フィンゲルは未だに状況が理解できていないようだった。
 その時、ロ・メイヒですら感じられる殺気が、遠くから響くエンジン音と共に押し寄せてきた。
「まるで軍隊だな」ソ・シハンが呟いた。
「エンジンの轟音、タイヤと地面の摩擦音、激しい心拍に銃の装填音……確かに、軍隊だな」シーザーは鎌鼬のもたらす超聴覚に精神を集中させている。
 その時、猛烈な風が吹き込んで水を吹き飛ばして波打たせたかと思うと、真っ黒なヘリコプターが空から舞い降り、サーチライトで彼らをロック・オンした。
「警視庁か、オロチ八家か、お前はどう思う」ソ・シハンが訊いた。
「考えるまでもないだろうが。源稚女が警視庁に引き渡されるのをオロチ八家が許すはずがない。それに、日本の公機関がこんなに手際よくヘリを出せるわけないだろ?」シーザーが言った。
 光は嵐を突き抜けて四方八方から殺到し、シーザーとソ・シハンの眉毛が銀色に光るほどになった。まるで妖怪か鬼でも走り回っているかのようにビル風が吹き荒れ、正面玄関の扉の裏に隠れたロ・メイヒですら、突き破りそうな胸の心拍を感じた。
 しかし実際、オロチ八家がこんな大陣容を展開しているのは彼らの為ではない。オロチ八家が求めるのは源稚女だけなのだ……オロチ八家にとって源稚女は妖怪の如き存在であり、身一つで相対しようとする者などいない。
 だが、今源稚女をオロチ八家に渡したらどうなる? 風間琉璃だった時ならそうかもしれないが、今の彼はほんの少し前まで山中で暮らしていた只の少年、目覚まし時計のアラームにすら怯える男の子だ。
 交渉ができるかどうかも分からない。今日の源稚生はもはや日本から逃げ出したいゾウガメではない。橘政宗の死の後、彼は遂に自ら日本極道の玉座に座り、偉大なる一族の使命を完成せしめんと欲している。
「オッス、新人にSakuraさん、夜食ですよ」夕食を買いに行っていたウェイターが正面玄関を開け、ドアに寄りかかってビクビク縮こまっていたロ・メイヒとフィンゲルに怪訝な目を向けた。
「ハァ~! ナイス・タイミング!」フィンゲルはビニール袋をひったくった。
「……何なんだよ! よくこんな時に食い意地が張れるよね!?」ロ・メイヒは心底感服した。
「何もせずにじっとしてるたって無理だろ? そりゃ、夜食なんか食ってる場合じゃないのは分かってる。遺産相続してくれる美女がご同伴の時とかなら食わないさ」フィンゲルはエビテンプラを頬張った。「でも今俺達がいるのはホストクラブだ。居るのは着飾ったケバ男だらけ……食う以外にやってられないだろ?」


 風魔小太郎は小走りで源稚生の執務室に踏み込んだ。小太郎という名だが、彼は八家当主の中でも最年長であり、忍者の中でも生きる骨董品というべき存在である。
 源稚生は今まさに出立する寸前だった。屋上ヘリポートにヘリが着陸し、多摩川近くの「赤の井戸」に向かうのだ。三十分前、宮本志雄の報告が源稚生のデスクに届いたが、一族はヘリを用意するにもこれだけの時間をかけてしまった。
 関東支部がヘリの燃料弁に細工を施し、最初に飛び立ったヘリが離陸した瞬間発火し墜落してしまったのだ。他の二機も検査すると同様の細工が施されており、源稚生は他の場所からヘリを寄越すほかなかった。
「弟君が見つかり申した」風魔小太郎の言葉はいつも簡素だ。「新宿区のホストクラブ。カッセル学院の一行と一緒に居るようです」
「……どうやって見つけた?」源稚生は驚いた。二つの事件が同時に起こり、源稚生は同時に対処できなかった。橘政宗はもういない。
 風魔小太郎がカーテンを開け、大きなフランス窓の外に一面の巨大広告スクリーンが現れた。シーザー、ソ・シハンにロ・メイヒの顔が映り、ピッチリしたベルベットスーツ、ラインストーンの小さな蝶ネクタイと、唇の光沢が輝く……源稚生の頭の中で三人のおかしな人達が周りで舞い踊る感覚が再び蘇り、彼は額を抑えずにはいられなかった。なるほど、普通の人間の思考回路とおかしな人達の思考回路は違いすぎる。まさか命からがら逃げだした後にホストクラブに身を隠し、自らホストになって、大人気になってしまうとは。
 だが広告スクリーン上に風間琉璃の横顔が現れた瞬間、源稚生は苦笑を即座に引っ込め、鉄のように硬い表情へ一変した。
「空中、下水道、あらゆるルートを抑えて包囲しております」風魔小太郎は言った。「事は重大ゆえ、皆、大族長の到着を待っておられます」
「誰かが我々に情報を漏らしている……誰だ?」源稚生は尋ねた。
「東京の大型屋外電子広告を運営する会社は三社。今夜、とある謎の顧客からその三社全てに同時にホストクラブの広告掲載が依頼されたそうです。その顧客はかなりの広告料を現金小切手で支払い、深夜三時に同時に掲載されております」
「謎の顧客というのは、誰も分からないのか?」
「分かりませぬ」
「推測は出来る。王将だ」源稚生は言った。「赤の井戸への攻撃も三時、広告掲載も三時。同時に事を起こし、私を東京に留めさせるつもりなのだろう」
「まったく、陰謀というよりも当て擦りですな! 実弟と、蔵骸の井戸の神、どちらかに優先順位を付けろというのは!」
「しかし、わざわざ奴の手の上で踊るつもりもない」源稚生は言った。「風間殿、あなたはどう考える」
「大族長が赤の井戸に行くべきでしょうな。弟君の事はご心配でしょうが、貴方はオロチ八家の大族長。蔵骸の井戸の中身には一族の未来が掛かっております。それさえ解決すれば、我ら一族は白王の課した呪縛から解放されましょう」
「そうだな」源稚生は大きく深呼吸した。「私は……オロチ八家の大族長なのだから」
「ですから、高天原の問題は私めと桜井家当主にお任せ下され。弟君の安全は我らも全力を尽くします」
「抵抗するならどんな手段を使っても構わない。稚女はもう数年前から別人だ。その恐ろしさは貴方の想像以上だろう。我々に制御できないなら、いっそ死んでもらった方がいい」
 風魔小太郎は少し沈黙し、頷いた。「……了解申した!」
 源稚生が蜘蛛切と童子切を携えて執務室の扉を開け、風魔小太郎がその背後に続いた。二人は異なるエレベーターに乗り、一人は上へ、一人は下へ、異なる戦場へと赴いていった。


 アルファ・ロメオがリフトに乗り込み、他の車もその後に続く。赤の井戸の側面にあるこの大型リフトは、トラックを井戸の入り口まで移送する為に使うものだ。
 長船はリフトに乗らなかった。彼は狙撃手として百五十メートル離れた自身の陣地に留まり、赤の井戸周辺を狙撃射程に収めた。
 ここまで阿須矢の刀は一滴も血を被っていない。長船の狙撃だけで赤の井戸周辺の警備兵は片付いてしまった。岩流研究所の警備兵など関東支部の前では歯牙にもかからない。彼らは殺人のプロなのだ。
 聴覚を満たすのは水流の轟音だけだった。ここ数日の大雨で赤の井戸が満水なのかもしれないが、井戸の中の腐った水が海のような大音をどうやって立てているのか、阿須矢は全く分からなかった。
 リフトの上昇があまりにも長く感じられて、阿須矢はギアチェンジレバーを退屈そうに叩いた。このイベントももうすぐ終わる。トンネルの奥にいる協力者は既にボーリングマシンを制圧しているはずだ。関東支部が赤の井戸を占領したのは、単なる安全措置に過ぎない。
 彼はソ・シハンとの真剣勝負を妄想した。頭の中で、最初の一撃をどうやって繰り出すか、ソ・シハンの反撃をどう防ぐか、色々な状況で取るべき戦法を想像し続けた。しかし最後の結果はただ一つ、自分の刀がソ・シハンの喉を切る光景だ。その時の刀の感触は涙溢れる程素晴らしいに違いない――阿須矢は、ソ・シハンの鮮血がカエデの葉のように舞い散るその瞬間を想像し、悦に浸った。
 彼が右を向くと、そこには小篠のポルシェ911があった。小篠はゆっくりと桜色の唇を舐め、阿須矢に視線を定めた。漆黒の長髪が顔の半分を隠している。
 小篠はまた色情症を発症しているらしい。小篠と姉の落葉は双子で、彼女達のコードネームは伝説中の武器「雪篠双刀」だ。小篠は関東支部の男全員と寝たことがある――阿須矢を除いて。阿須矢は女に興味が無く、死体解剖にしか興奮しないからだ。これは小篠にとってはかなりの屈辱だったらしく、彼女は「関東支部征服」を完遂するため、阿須矢を手に入れることを公然と誓っていた。小篠はまごうこと無き美女で、阿須矢も決して嫌いではない。もしソ・シハンを倒せたなら、小篠の誘惑を受けるのも悪くない――阿須矢は悦に浸った。
 リフトが終点に到達した。阿須矢がこれだけ大きな垂直井戸を見たのは初めてだった。表面積約一平方キロメートル、地下湖の水を全て納めることができる。そして今、銀色の液体が壁の十数か所の出口から噴出し、まるで水を吐く龍の群れのように、井戸の底へと注ぎ込まれていた。銀色の液体が井戸の壁にぶつかり、無数の銀の珠に弾けた。強烈な質量でステンレス鋼のガードプレートが凹む。井戸の底からたちこめる濃密な銀色の霧がここにまで充満し、阿須矢は霧を一息吸って、即座に息を止めた。
 毒性の高い水銀蒸気だ。井戸から雷鳴のような轟音が聞こえたのも不思議ではない。井戸の壁に備えられていた五千トンの水銀が全て赤の井戸に注ぎ込まれているのだ。五千トンの水銀は地下湖の容量に比べれば何でもないが、井戸の底に溜まった水と混合し、龍類に致命的な水銀溜まりを作り上げる。どうやらトンネルの奥の協力者は失敗したらしい。宮本志雄は未だスーパーボーリングマシンを制御し続け、蔵骸の井戸を打ち開き、赤鬼川の水を神もろとも赤の井戸に注ぎ込もうとしているのだろう。
 死を了解した宮本家当主に、もう手出しはできない。
 作業台の上には人影一つ見えず、エンジニアたちもすっかり逃げ出したらしい。阿須矢は前進ギアに変えてゆっくりと進み始めた。情報によれば、赤の井戸に重火器はなく、脅威となる物は何もないはずだ。
 機械音が下方から響き、阿須矢は用心深くブレーキを踏んだ。
 工業用エレベーターがゆっくりと上昇して来ていた。フェンスに囲まれた巻き上げ式のリフトだ。白いドレスを着た少女がその中央に立ち、大きな黒い傘を広げ、その姿にそぐわない長刀を握り締めていた。
 菊一文字則宗。一族至高の信頼を表す物品を、この少女は携えていた。
 暴風雨の中に立てば風に飛ばされてしまいそうな少女だった。彼女の周りで噴出する水銀と、白い霧と銀色の飛沫が、空気中で銀河のようにきらめいている。
 阿須矢は無意識のうちに刀柄に手をやった。水銀の暴流の中に立つ彼女はまるで森の精霊のようだったが、阿須矢は彼女の傘を持った手を見て、刀を抜けば一級品なのだろうと見抜いていた。
 断続した銃撃音が鳴り響いた。長船の狙撃銃だ。長距離から不意打ちで仕留めるつもりだったのだろうが、少女の姿がリフトの鉄格子の裏で煌くだけで、弾は鉄格子に火花を散らすだけだった。
「おい、撃つな。お前の弾は奴には効かねえ」阿須矢はトランシーバーに向けて言った。
 彼は理解していた。少女が乗っているエレベーターがトンネルへの近道であり、唯一の道、これを制圧するほかないのだと。車の空調では水銀蒸気を浄化することは出来ない。長時間ここに留まるのは、組長たちにもこの少女にも危険だろう。
 狙撃が出来ないなら強攻するしかない。阿須矢は命じた。「行け!」
 小篠のポルシェが最初に飛び出し、リフトに突入していった。彼女はハンドルを猛然と回し、ポルシェは旋転して車体側面を少女に向けた。小篠は抜刀、同時に車のドアを開き、防御にした。
 しかし少女が車のドアを蹴り込むと、ドアは溶接されてしまったかのように微動だにせず、小篠の力ではもはや全く押し開けることができなくなってしまった。力が完全な反動となり、小篠は手首の骨を一瞬で捻挫した。
 小篠は震撼しながら短刀を放り、グローブボックスから銃を抜こうと手を伸ばした。しかし彼女が引き金を引く前に少女の手が銃に伸び、握り締められると、バネや銃身が飛び出し、黄銅色の弾丸が散乱し、銃は一瞬でガラクタ部品と化してしまった。
 少女が小篠のこめかみに指を突き入れると、小篠は一瞬で意識を失った。
 そして車の裏から走り出たその少女は、金色の校章を胸につけていた。
「半朽の世界樹」、知る人ぞ知るエンブレム。宮本志雄と赤の井戸を守るこの少女は、カッセル学院本部の人間だったのだ!
 阿須矢は否応なく昂った。彼は知っていた。カッセル学院は一見すればこそおかしな人達や狂った人たちの楽園だが、ソ・シハンのような危険分子もまた紛れ込んでいるのだと。シーザー・ガットゥーゾやロ・メイヒのような人間がカッセル学院の主流などと、阿須矢は絶対に信じなかった。彼が期待するのはこういった殺人のプロだ。現れた瞬間から、少女は絶対零度の高慢と威圧を表し続けている。阿須矢の敵となるに相応しい人間だ。
 少女はエレベーターから大股で歩き出し、阿須矢たちの方に歩いて行った。次鋒を出せ、とでも言うのだろう。
 関東支部がそれに応えない筈が無かった。小篠の姉、落葉が続き、車のサンルーフから勢いよく飛び出した。少女は傘を持ったままその車の屋根に飛び乗り、落葉の斬撃を舞うように避けると、強烈なチョップを落葉の肩に食らわせた。落葉の肩が脱臼し、片腕が斜めに吹き飛んで行った。少女は落葉の刀を奪い取ると、身を翻して「長光」の銃を斬り飛ばし、刀峰を使って長光の頬骨を叩き砕くと、その刀を投擲し、虎徹の右胸に穴を開けた。
 組長たちが車の屋根から飛び出し、少女に向かっていく。棘付きメリケンサックをつけた「正宗」は、一瞬で手首を脱臼した。「兼光」は天窓から半身を出したところで胸口に蹴りを入れられ、首の骨を折って意識を失った。「景光」は鋼鉄のような肉体を高々と跳躍させたが、少女はさらに高く跳躍し、空中で景光の後ろ首に強烈な膝蹴りを食らわせ、景光ははるか下に止まっている長船のGTRに全身を強く打った……水銀の雨の中で影が蠢き、組長たちは一人ずつ少女の前に吹き飛ばされていく。
 阿須矢は突然笑い出し、大きな拍手をした。「ブラーボー!」
 なるほど、美しい一幕だ。白い人影が車の屋根から飛び出し、あるいは通り過ぎる度、組長たちが引っこ抜かれた雑草のように空中に吹き飛んでいく。少女は圧倒的なパワーというよりも、流れる水の隙間に刀が入り込むかのように、精確で致命的な動作を繰り返していた。阿須矢も師匠から聞いたことがあった。この世のものには人間の骨から流水まで、ありとあらゆるものに隙間があり、その隙間を斬り開けられれば力も要らずして水をも断ち得て、刀もまた水を得た魚のように活きるのだと。
 少女の戦闘能力は素晴らしいものだった。攻撃の殆どは肘や膝を使ったムエタイのような体術だったが、彼女はそれを軽霊舒展、踊るように繰り出してみせる。もはや着地する必要すらなく、繰り出す膝撃が次の跳躍となる。
 阿須矢は思い出した。これは一種の軍用格闘術だ。KGBが諜報員に教え込もうとしたが、屈強なロシア人男性ではスムーズに行えなかったとかいう戦闘術だ。
 落葉が空中から飛び降り、少女の後ろ首に斬りかかる。彼女の言霊は『鬼活』、自身の痛覚を完全に取り除く言霊だ。人間の能力は自らの痛覚によって制限されている。人間が肉体の100%の力を発揮しようとすれば、強烈な痛みが意識を支配する、これが人体の自己保存機制である。だが鬼活の力を借りれば、落葉は自身の耐久力を完全に無視し、通常の八倍の身体能力を発揮することができ、時には自身の骨を折ることすらある。
 「雪篠双刀」が長刀を使うのを、阿須矢が見るのは初めてだった。刀光の中に黄色い葉が翻っている。巧妙な目くらましだ。刀背に金メッキ工芸が施されており、高速斬撃の中に虚影を生み出し、黄色い葉が回りながら落ちていくかのように見せるのだ。
 ほぼ同時に、少女の足元の「バイパー」スポーツカーの中から虎徹が突き出した。負傷して隠れていた彼が機会とばかりに現れ、銛刃付きのフックナイフで少女の足首を狙う。
 阿須矢は目を見開き、少女が二方向からの攻撃にどう対処するのか考えた。ここまで少女は回避らしい回避をしておらず、攻撃と回避が一体化していた。刀光の中で跳躍してきたこの女、この同時攻撃の前にどんなステップを踏む? 同時に二人のダンスパートナーを相手取るのか? 阿須矢はせめて少女が美しく踊る事を望んだ。落葉の可愛らしい顔をぐちゃぐちゃにしようが、虎徹の金属顎をバラバラにしようが構わない。阿須矢はただ美しい踊りを見たかった。彼さえ立っていれば、関東支部の負けは無いのだ。
 少女は跳び上がり、落葉の刀先へと向かった。
「自分から死にに行くか」阿須矢は呟いた。上下に敵がいるこの状況で、少女は避けられない空中へと逃げた。魚が水を離れるが如き無力、このダンスもついに終局か。
 少女は突然手を伸ばし、刀光を横切って落葉の腰を抱き、下に向かって強烈に引き込んだ。彼女は落葉自身を武器として使い、車内の虎徹に向けて突き刺したのだ。
 虎徹は仲間を傷つけるのも厭わない、というような性格でもなく、つい武器を引っ込めてしまった。そして落葉は少女によって天窓に叩き込まれ、ハンドルで首の骨を折って意識を失った。少女は車の屋根に着地し、天窓から虎徹を引っ張り上げ、肘で彼の下顎を打った。
 金属顎が空中に吹き飛び、地面に落ちて数度バウンドしたが、少女はそれを見ることも無く、最後の一人、ゆっくりと刀を抜く阿須矢に向かって歩いていった。
「始める前に聞きたいことが或る。お前は、学院本科生の何位だ?」
 彼は知りたかった。この女子学生を彼は知らない。ソ・シハンの事しか聞いたことのなかった彼は、ソ・シハンとこの女、どっちが速いのか知りたかった。
「四位」
 阿須矢は衝撃を受けた。これだけ熾烈な攻撃力、相手の攻撃を全て読み切る分析力があっても、学院本部では四位だと? その上の三人は誰だ? ソ・シハンは何位なんだ?
「もう一つ聞かせろ。ソ・シハンは……」阿須矢は長刀を顔に当て、刀峰で少女の眉間を指した。
 その瞬間、白いスカートが一閃し、阿須矢は少女の淡い香りを嗅いだ。彼の刀が粉砕された。少女が跳び出し、重い膝蹴りを阿須矢の顔面に繰り出し、防御した古刀を破砕したのだ。破片のいくつかが阿須矢の頬に突き刺さり、阿須矢は仰向けに地へ倒れた。
 彼は天から降る雨をじっと見つめた。自分の失敗を受け入れられなかった。彼には質問が三つあったが、突然攻撃されるなど。しかも、あまりにも速すぎた。
 少女の最後の攻撃には舞踏の美など微塵も無かった。直接的で、簡潔で、暴力的な跳び膝蹴り、速すぎてまともに捉える事すら出来ない。鋼鉄を打つような膝蹴り、これが少女の学ぶ技だというのか?
 少女は身を乗り出し、地面に落ちていたライフル銃を拾い上げ、150メートル先の長船の狙撃陣地に向けて、冷たい目線を送った。双眼鏡を使わなければ顔の輪郭すらはっきりしない距離で、彼女の持つライフル銃の命中率など長船の狙撃銃とは比べ物にもならない。
 だが十秒の対峙の後、長船は遂に一発も撃てなかった。彼には少女を一発で撃ち抜く自信が無かった。そして自分が撃てば、相手に反撃されるだろうと漠然と理解していた。相手の銃の腕がどれくらいか長船は知らないが、完全に気圧されてしまったのだ。
 狙撃手の性とでも言うべきか。弾丸と他人の命を交換する事には躊躇いが無いが、自分の命に関しては何よりも大切にする。
 阿須矢は喉をグルグルと唸らせた。「お前……の上の三人……誰だ? ソ・シハンは……何位だ?」
「さあ。私もソ・シハンも一位じゃないから」少女は淡々と言った。
 重症と失血で意識がだんだんと薄れていく中、阿須矢はなんとか少女の言う所を理解しようとした。彼女もソ・シハンも一位ではない……一位ではない? 一位ではないとはどういうことだ? 阿須矢は肝心な事を――何のランキングかを言うのを忘れていた。
「この前の総合期末テストの成績でしょ? 私は学年四位よ。ソ・シハンは一位ではないと思うけど、そもそも選択科目も年度も違うし」少女はようやく阿須矢の心配を得心したらしい。
 完全に意識を失う前に、阿須矢は仰天して一声苦笑した。成績……この女は、テストの点数を訊いてるなんて、本気で思っているのか? カッセル学院が本物の学院だと思っているのか? こんな学院でテストの成績などなんの意味もない、必要なのはただ実力だけ……これだけの実力がある女が、なぜテストの成績なんて気にするんだ?
 結局彼が死の際に理解できたのは、カッセル学院本科生は未だにおかしな人達の楽園であり、奇怪と奇妙が花を咲かせているということだけだった。
 
 少女は手首のデジタル時計を一瞥した。宮本志雄に別れを告げてから二十五分経過している。宮本志雄に約束した三十五分の時間まで、あと十分。
 地層内では二機の掘削機が全速力で進んでいる。宮本志雄が先に蔵骸の井戸を開けば宮本志雄の勝利、猛鬼衆が先にトンネルを作り上げれば猛鬼衆の勝利。
 水銀が傾き、吊り下げられていたテルミット焼夷弾が水面近くまで下ろされる。少女は傘を開き、高所の横柱の上に立っていた。
 ひ弱な体躯、突風に吹きすさぶスカートはまるでパラソルで空中旅行するお嬢のようだが、彼女の威厳は赤の井戸全体を鎮めていた。自分こそその場の権力者であるのだと、赤の井戸を守り、何人たりともその空間に入らせまいと、その姿形そのもので示していた。
 長船は彼女から150メートルの距離にいた。何度も勇気を奮い立たせようとしたが、狙撃銃をリロードすることすらままならなかった。音が少女に聞こえれば、鬼のように追撃して来るのではないかと思えてならなかった。150メートルの距離など、混血種にとっては数歩の間合いだ。
 結局、長船は隠れていた古い松の木から静かに下りた。名スナイパーが恥を忍んで密林に入り、逃げようと両足を地に付けた瞬間、彼は凍り付いた。目の前に一台のレーザー監視装置があった。風魔家忍者が彼を見つけたのだ。

 五分後――宮本志雄と別れて三十分、地面の振動が突然弱まった。彫刻のように佇んでいた少女が頭をもたげ、下方のトンネルの入口を見た。
 トンネルの奥からまるで龍の咆哮のような、不可思議な轟音が聞こえた。次いで高温多湿の暴風がトンネルから噴き出し、十数秒後、数十トンのスーパーボーリングマシンが激流に流されて飛び出し、井戸の反対側の壁に激突した。
 宮本志雄だ。彼がやり遂げたのだ。蔵骸の井戸は誰が予想したよりも早く開いた。揺れが止まったその瞬間、少女はトンネルの向こうに、誰かの歓声と笑い声を聞いていた。
 狂気か、覚悟か。岩壁が裂け尽くし、壁のように押し寄せる赤い濁流を目の前にして、彼は間違いなく喜んでいた。
 赤鬼川の水が飛沫を上げながらトンネルから流れ出て、巨大な滝を作った。ヒトの体温に近い温度、血のように赤い水。神が作り変えた赤鬼川の水だ。元々神を閉じ込める為に作られた蔵骸の井戸を、神は龍族の子宮へと変え、多数の龍族亜種を孕ませ育てていた。黒ずんだ赤い水の中に、点々と銀藍色のかすかな光が輝く。何万匹もの鬼歯龍蛇が、蟒蛇のようなその姿形を血紅色の瀑布の中で明滅させているのだ。色々な音を出してもいるが、何一つとして人の世のものとは思えない。宮本志雄が打ち開いたのは一本の川ではなく、ひとつの地獄だった。
 血の色の滝と共に銀色の水面に打ち付けられた瞬間、更なる轟音が湧き出てきた。それが憤怒なのか悲鳴なのかは分からない。何万匹、何百万匹もの龍化生物が水銀の混ざった水中でもがいたが、水面は井戸の口から遥か下、八十メートルの高さを跳び上がることはできず、井戸の壁を無駄に叩くだけだった。龍族亜種どもにとっては虐殺だった。こうして生命を奪われるというのは悲しい事だが、彼らはみな、人の世に現れた瞬間、また別の災厄となりうる存在なのだ。
 少女は梁の上に佇み、黙々と獣の虐殺の如き惨状を見つめていた。そのからっぽの瞳には、何の感情も無いようだった。

 頭上から光が輝き、黒いヘリが赤の井戸の真上に到着した。源稚生が東京から最速で駆け付けたのだ。蔵骸の井戸が開かれる瞬間は見られなかったが、この悲しき光景を目撃するには間に合った。
 蛇にも龍にも似た生物が井戸の底で跳ね回り、水銀斑が鱗から腹にまで急速に広がっていき、凄まじい苦痛を物語る。あと多少でも知性があれば、即座に自ら命を絶つところだろう。
源稚生はかつて読んだ古書に書かれていた、龍を飼った家族の話を思い出した。深い井戸の中で龍を飼った彼らは、様々な方法を講じて龍を閉じ込めていた。井戸の口に鉄格子を設置したり、尾を井戸の底に釘付けにしたり。龍のような強大な生物ですら、こうも狭い空間の中では、己より遥かに弱小な人類に命運を握られてしまうのだ。何故人類が龍を飼ったのか古書の中では語られなかったが、恐らく龍の身体の一部が希少な珍味になるとか、その強大な力を欲しがったか、どうせそんなところだろう。
龍の側に立つとしても、この苦痛はかつて龍族の奴隷となっていた人類の祖先と同じようなものなのだ。しかし、だから何だというのか。これは二つの文明の戦争なのだ。最後に残るのはどちらか一方しかない。

龍を飼う一族、豢龍氏という名は中国の古典の中に見られる。中国神話における舜の時代、龍を育てることに長けた董父という人物がいて、舜帝より「豢龍氏」という姓を賜ったとされる。彼が龍を育てたのは滑の国の韋城という場所とされ、豢龍氏はそこに「左右直股に上日流るる木の下に八十一口」を持っていたという。滑の国は今の湖南省にあり、韋城もそこにあるとされているが、正確な立地は未だに判っていない。

 サーチライトが少女に当たると、彼女は手を伸ばして顔を隠した。源稚生も彼女の姿をはっきりとは見えなかったが、その隠された顔の下で鼻血が垂れているのを見てとった。水銀の蒸気が立ち込めるこの劣悪な環境、耐えてはいても、彼女も混血種として血液の変質を引き起こしていたのだ。
 彼女は横梁の上に立ち続け、源稚生が降りるのを待っているようだった。
「ライトを消せ」源稚生はサーチライトを操作していた夜叉に命じた。「私は少し降りてくる」
 吊り索が源稚生を横梁の上に下ろした。少女は源稚生を見る事もなく、ただ自分のスマホの画面を、そこで増え続ける数字を眺めていた。……三十五分経過。彼女は宮本志雄との約束を果たした。彼女は絶対に約束を破らない。たとえ約束の相手が既に地の底で眠っているとしても。
 彼女は踵をかえし、阿須矢のアルファ・ロメオに向かって歩き始めた。何の言葉も発さず、源稚生の傍を通り過ぎて行った。源稚生は彼女の胸元に校章を認め、その身元をおおよそ理解した。根本原則的な事情として、学院とオロチ八家は協同関係にある。神の目覚めはどちらにとっても許さざる事だ。だからこそ、この決定的な瞬間にカッセル学院の人間がオロチ八家の人員に紛れ込み、赤の井戸を守ったのも不思議な事ではない。
 だが、源稚生に彼女への感謝はない。少女が赤の井戸を守ったのはオロチ八家を助ける為ではなく、神を確実に殺すためだ。学院とオロチ八家には協同はあっても、同盟関係はない。
 少女は一歩進む度に片脚を引きずっていた。左膝から足の甲まで血が流れ、白い靴下を赤く染めている。傷は決して浅くない。阿須矢を葬った最後の一撃で砕けた刀の破片が、彼女の膝をも傷つけていたのだ。阿須矢は自身の置かれた状況を誤解していた。そうでなければ、彼に勝機もあった。あの軽やかな格闘戦術はパワーこそ要らないが、少女もまた美しく舞う事を追求していたわけではない。阿須矢に対峙した時、彼女は既に体力を使い尽くす寸前であり、精巧な膝蹴りや肘打ちを狙うだけの体力が残っていなかったのだ。最後の一撃は賭けだった。彼女はガサツで暴力的になった膝蹴りで、重傷と引き換えに勝利を手に入れたのだ。
「おい!」源稚生は言った。
 少女は立ち止まった。源稚生が救急箱を掲げると、少女は近づいてそれを受け取り、代わりに握っていた菊一文字則宗を源稚生に手渡した。「これ。くれた人は、トンネルの向こうで死んだわ。貴方に渡してほしいって」
 源稚生はその刀柄を撫で、宮本志雄という若き宮本家当主を思い出した。「君は?」
「カッセル学院本科生、学生番号、A1042251。執行部臨時要員、零って呼ばれてる」少女はふらつきながらアルファ・ロメオに乗り込み、車をリフトの方向に向けた。
 源稚生は赤の井戸の縁に立ち尽くし、そのテールランプを見つめていた。乱心でもしているかのようにアクセルを吹かし、時速150キロメートルの速度で東京に向かって一本道を突き抜けていく。それを見て源稚生はとある一流ドライバーを思い出した。無口で寡黙なところが、零に少し似ているとも思えた。
 彼の背後で、複合材料で補強された鋼鉄の井戸蓋がゆっくりと閉じていく。赤の井戸の奥底では魚流が苦痛に狂い舞い、巨大な波を作り、地獄の叫びのような音を立てていた。


 潮水のような光が街道を塞いでいる。車、トラック、オートバイ、ブルドーザーに至るまで、何百台ものエンジンが轟音を立てている。巨大建設機械がこの街道の出入口を全て塞ぎ、オートバイの後部座席には日本刀や散弾銃が掛けられている。車のトランクが開けば、レミントン散弾銃と短銃身散弾銃が詰め込まれているのが見える。車の波は巨大な広告スクリーンの下で止まり、その画面の下で、シーザーとソ・シハンが背中合わせに立っている。その姿はさながら凶暴な野獣だ。
 両者が対峙してから既に一時間ちょっとが経過していた。オロチ八家の極道たちは一歩も進みも退きもせず、シーザーとソ・シハンに何百もの銃口を向けていたが、発砲する者は誰もいなかった。
「あいつらのお偉いさん、渋滞にでも捕まったんかねぇ?」フィンゲルは首を伸ばして外を見た。「もう満腹なんだが、エライ人はまだなのかよ?」
 茫然としているのはシーザーもだった。双方から迫る殺意は圧倒的だったが、オロチ八家はただ人壁で封鎖しているだけで、誰かを待っているかのようだった。
「こういう大事は源稚生が直々に解決するんだろう。まだ来てないみたいだが」ソ・シハンが呟いた。
「本当に渋滞なのかもしれないな」シーザーは店に向かって振り返った。「ロ・メイヒ、ウィスキーのボトルを一本。氷をバケツ一つとグラスだ!」
「ボス、こんな時にマジで飲むつもり!?」ロ・メイヒは冗談だと思いたかった。
「ガットゥーゾ家の男には、どんな時だろうと酒を飲めるだけの余裕がなければな」シーザーは深呼吸し、心を少しずつ落ち着かせていった。
 シーザーはオロチ八家の強攻武力制圧はないだろうと判断した。オロチ八家が求めるのは源稚女であり、源稚女を求めるのは猛鬼衆と王将の情報を聞き出すためだろう。そうでなければオロチ八家は今すぐにでも高天原の屋上に焼夷弾を叩きこみ、炎の海と化させているだろうからだ。オロチ八家が今まで攻撃を仕掛けてこないのは、交渉する資格のある人間がまだ到着していないという事だろう。そしてそれは恐らく源稚生だ。シーザーは源稚生が到着するまでに心を落ち着けることにした。源稚生にこちらの心理を読ませなければ、交渉に使えるカードも増えるというものだ。
 当然、既に待つのに飽きてしまったからでもあった。仮に源稚生が何か別の用事で手を放せないというなら、一体どれだけ重要な事件なのだろうか。


 蜘蛛の徽章があしらわれたロールスロイスが、地下鉄シンジュク線の鉄道橋の下に止まった。風魔小太郎はパイプを吹かしながら、赤の井戸からの連絡を黙って待ち続けていた。
 彼は今、シンジュク区を封鎖している諸々の組合の指揮を執っている。気を緩めず、衝動的にもならず、源稚生が戻るのを待つのが最善策だろうと彼は考えていた。風魔小太郎はかつて外五家のリーダーだったが、自分に交渉する資格などはないと、彼ははっきりと理解していた。
 彼は源稚生に絶大な期待を寄せている。赤の井戸の事はすぐにでも解決してくれるだろう、と。もっとも、稚生が子供っぽく若々しかった頃はそこまで評価していなかったのだが。初めて二人が会った時、未だあどけない顔の源稚生は風魔小太郎にこう言ったのだった。「コソコソ裏社会で金稼ぎしかしない極道など、潰れて当然だ!」と。その時風魔小太郎は、この世間の暗面を知らない「正義少年」に、軽蔑の念を抱いたものだった。だがそれから十数年が経って、少年から青年へと成長しても正義を貫く源稚生に、風魔小太郎は敬意を示さずにはいられなくなってしまった。
 いわゆる覚悟というのものは、時や試練を経ても崩れない意志のことである。源稚生にはそんな意志があった。どんなに幼稚な意志であろうと、幼稚な夢だろうと、源稚生なら現実にできる――風魔小太郎はそう思っていた。
 突然、頭上にエンジンの轟音が響き渡った。無意識のうちに顔を上げた風魔小太郎は、赤いアルファ・ロメオが鉄道橋から落ちてくるのを見た。それはロールスロイスに直撃し、ガラスが砕けて四散し、二台の車のエアバッグが全て弾け出る。エアバックに圧し込まれた風魔小太郎めがけて、一本の黒い軍用レイピアが屋根を破って突き出され、彼の後ろ首にあてがわれた。


「あいつら何を待ってんだ? なんか企んでんのか? それとも雨で銃が撃てないとかか?」フィンゲルは耳をそばだてた。
「フィンゲル……ホントお前って『次男坊』だよな……」
「何で次男坊なんだよ! 年で言ったら圧倒的に確実に長男だろうが!」
「『西遊記』のブタのことだよ! 怪物に蒸し器に入れられちゃった時仲間たちに『こいつらバカだぜ! 蒸し器の蓋の仕方も知らねえんだ! 蒸し器はな、ちゃんと蓋をして、薪をちょっとだけ、火は小さく、一晩焚き続ければいいんだぜ』とか言っちゃう奴のことだよ!」
「お前、そんな、人を豚に例えるなんてひどいぞ!」
「いやさぁ、図星だって分かるんだったら黙ってくれないかな!?」
 ウィスキーを半分飲み干した頃、シーザーは遠くから高級車のエンジン音が近づいて来るのを聞き、眉先を挑発的に上げて微笑んだ。
 ようやく交渉担当の大物の登場のようだ。ロールスロイスの高出力エンジンの音は、排気管の音まで重厚で優雅だ。
 極道たちが道を開け、ロールスロイスが高天原の正面玄関前に停まり、運転手が後部座席のドアを開けると、桜井家当主・桜井七海が静かに車を降り、シーザーの目の前に銃を突き付けた。
 妖媚なる少婦、桜井七海。彼女は平時の服装、豪華な「黒留袖」の着物に、精巧なエルメス・バッグを携えていた。
 シーザーは三杯のグラスにワインを注ぎ、それぞれソ・シハンと桜井七海に手渡した。風雨の中に立つ三人。雨粒が琥珀色のワインに波紋を作る。
「ドーモ、コンニチワ。貴女が今夜のオロチ八家の交渉人かな?」シーザーはグラスを挙げた。
 桜井七海もグラスを挙げ、静かに微笑んだ。中年と言える年齢に突入している彼女だが、その微笑みにはまだティーン少女の面影が見える。眉尻や目元の言い難き美しさは、若りし頃の万里挑一なる姿が想像できる。
 美女の前にシーザーは緊張してしまい、風はオロチ八家の方に吹いているとも思える。しかし桜井七海もまた緊張しているようだった。
「いいえ、私に交渉する資格はありません。あなた方と交渉する資格があるは、大族長ただ一人ですからね。大族長が別件の用事で忙しいので、風魔家当主にあなた方を引き留めるよう頼まれまして」桜井七海は小さくお辞儀をした。「私は風魔家当主の代わりに言を授かったのみで、カッセル学院の皆様に悪気はありません。我々の要求は、恐らく学院の皆様も理解していらっしゃると思いますが?」
 人の壁が再び裂け、風魔小太郎が厳粛に、揺るぎない足取りで、大股で歩いてきた。二本の真っ白な長眉は重く凝り固まった表情を作り、まるで堂々とした武士のような鎧を一式着こんでいる。
「交渉というのは体力勝負でもあります。ご老人、お体に無理をなさらないように」シーザーは冷ややかな目をこの威厳ある老人に向けた。
 風魔小太郎は何も言わなかった。随伴する少女が背後に立ち、傘を彼の頭に被せている。
「おぉい! 早くなんか言ってくれよ! 俺らの組長が何言ってるか、わかるよな!?」フィンゲルが扉の後ろから飛び出し、階段上から堂々と虎の威を借りて叫んだ。数百の銃口が向けられていても、彼は天才的な嗅覚で自分らの側に風が吹いていると感じ取っていた。
「フィンゲル、丁度いい。椅子を二つ持って来い。座って話がしたい」シーザーが言った。

 しばらくして、降りしきる雨の中に二脚の椅子が用意され、シーザーは風魔小太郎と相対して座った。交渉人二人を除き、座る資格のある者は誰もいない。
 風魔小太郎の後ろには傘を差した白い服の少女が、シーザーの後ろにはソ・シハンが立っていた。各々の表情はそれぞれだったが、最初に口を割ろうとする者は誰もいない。ただ、シーザーのワニ革の靴が雨の中で悠々と地面をリズミカルに叩くだけだった。
「ボス、すごい極道っぽい!」ロ・メイヒは小声でフィンゲルに言った。
「ガットゥーゾファミリーの黒歴史を知らないのか? ありゃガットゥーゾファミリーのお家芸だぞ。一般にガットゥーゾといえば、シシリーのガットゥーゾだ」フィンゲルは言った。
「シシリーのガットゥーゾ?」
「南イタリアの小島だよ。オリーブ、オレンジ、ワイン、そして裏社会で有名だ」
「そうじゃなくて! ボスのファミリーは名門なんだぞ!? ロボットがたくさん埋もれてるわけでもないんだから、黒歴史なんて……」
「確かに有名だよ、マフィアのね。一世紀ちょっと前まで、シシリーのマフィアといえば赫々たるガットゥーゾファミリーだったのさ。バレエとダブルバレットショットガンで有名でね。ガットゥーゾ家の誰かが恨みを買ったら、真夜中に正装でバレエを踊って、ダブルバレットショットガンを二挺持って街を練り歩いた挙句、扉という扉を蹴破って、片っ端から銃をぶっ放して、相手の寝室を硝煙と鉄砂でいっぱいにした後、バレエを踊りながら夜の街に消える。そういう話がいくつも残ってるんだよ。もちろん、後で足を洗ってはいるけどさ」
「黒歴史っていうか黒社会っていうか、その教育がなんで今も続いてるわけ?……」
 シーザーの心持ちは穏やかではなかった。鎌鼬の能力で、彼はこの内緒話を一語一句完全に聞き取っていた。どこかおかしな表情をしている風魔小太郎を見て、彼の耳に届いていないのを祈るばかりだった。
 まさに豚の次男坊。弓の弦を引き絞るが如く張り詰めていて欲しいものだが、仲間は家の黒歴史を掘り下げることしかしてくれない。
「そんなに昔話が好きなら、オロチ八家の黒歴史でも暴いてくれればいいものを……」シーザーは我慢できず言ったが、フィンゲルのコソコソ声は際限が無かった。
「っていうかなんだよ! ただのイモ洗い係だったくせに、いつからそんな黒歴史ブルドーザーになったわけ?」
「何だそれ? イモも無いのに洗う訳がないだろ? まあいい、今日はゴシップ屋も出血大サービスしてやる――あのキレイな桜井家当主、実は竜馬家当主の愛人だったらしいぞ。桜井家の前当主、要するに桜井七海女史の夫が死ぬ前からな。桜井女史が桜井家を継承できたのも、竜馬家当主の力があったかららしいぜ」
 桜井七海の顔色が明らかに変わった。フィンゲルとロ・メイヒのコソコソ話が聞こえたのだろう。オロチ八家の当主として、彼女もまた並ではない血統を有し、常人を遥かに超えた聴覚を持っているのだ。
「だからなんだよ? まだ何かあるのか?」
「もちろんあるぞ。俺は諜報のプロだからな! ……風魔家当主と桜井女史の関係は、とぉ~っても複雑なのさ」
「……いや、年齢が違いすぎない?」
「年齢が違いすぎるからこそ、ゴシップ点数も高いんだよ。……桜井家に嫁ぐ前の桜井女史、つまり生まれ名は、冬月愛子だ。有名な演歌スターでな、風魔家当主は孫娘みたいに大切にしていたそうだ。しかし当の冬月ちゃんは、自分より遥かに年のいったこのおじいちゃんにラブをした。怒り狂った風魔家のご夫人がバイクで冬月ちゃんの所属事務所に乗り込んで、ショットガン一丁で『交渉』したこともあったらしい。結局和解が成立して、冬月ちゃんは身を退き、演歌業界からも退いて、イギリスに留学したんだ」
「風魔夫人、どんだけヤベー奴だったんだよ……人の事務所にバイクで突っ込むとか……で、まだなんかあるの?」
「もちろんこの話にも続きがある。冬月ちゃんは名前を変え、イギリスから帰国した後に桜井家に嫁ぎ、夫が亡くなった後は桜井家当主になった。竜馬家当主との関係もあって、風魔家当主は昔自分にラブだった女の子が同じ立場にあるのも、自分と同じ立場の男に手を出してるのも、ガマンしてるってわけだ。さあここで質問だ。桜井女史は何で竜馬家当主なんかとくっついたんだろうな? 中年だから? 不倫が嫌だから? 恋愛に疎いメイヒ君にはわからないかな~」
「バカにするな! 僕は純情少年だ、純情のパースペクティブで考えてやるぞ……そうだ、風魔おじさんに復讐したいんじゃないかな? 結局自分を選んでくれなかったから……」
「ほう! 最愛の後輩ロ・メイヒ、ようやく人生の真実を理解したようだなぁ! そうさ、今すぐこの情報を東京のありとあらゆるゴシップ雑誌メディアに漏らせば、日本の極道に嵐が起こるぜ?」
「それ全部でっち上げとかじゃないよな? っていうかこんなゴシップ、いま役に立つの?」
「もちろんだ! 向こうが好き勝手暴れるつもりなら、ゴシップっていう手綱を引けばいいんだ」フィンゲルは意地悪そうに言った。「今奴らが俺達に手を出したら、この情報は自動で東京の各大手メディアに送られる。日本中が一世一代の大恋愛に沸き立つぞ!」
 シーザーは風魔小太郎の表情に注視し、交渉相手の心理的活動を判断しようとした。おかしな仲間、フィンゲルは間違いなく先手を打ち、交渉相手に先制の一突きを加えてくれた。
 風魔小太郎は突然笑い出した。声無き物悲しい笑顔ではなく、面白可笑しそうに声を上げた大笑いだった。
「フッハハハハ……まさか、あの『若さゆえの過ち』を掘り起こす奴がいるとはな」彼は振り返り、近くにいた桜井七海へ目を向けた。「そう。かつての彼女は冬月愛子、儂の囲っていた娘だった。家内の紛糾もよく覚えておる。確かに彼女には儂を憎む心もあろう。だが儂のような老骨があんな若娘を囲ってどうする? それに今の彼女は桜井七海殿。あの可愛らしい冬月愛子少女ではないのだ」
 活力に満ちたドスの聞いた声は、周りの極道たちもハッキリと聞き取れたに違いない。二人の当主が曖昧な関係にあることを告白したも同然だった。
「これがお前たちの脅しだというなら、何か勘違いをしているようだな」風魔小太郎はシーザーの目をまっすぐ見返し、静かに言った。「我らも人の子ということだ。人の犯す過ちを我らも犯し、人の持つ欲望を我らも持っておる。儂のように墓穴に片脚の埋まったような老いぼれは、時折小娘に惹かれることがあるのだ。本当に愚かだったな、あの時の儂は。毎日娘の事を考え、証券会社を買収して贈ったり、花を寄越したり、彼女自身を買いもした。自分が老い、枯れていくのを感じて、愛情なんてモノで活力を取り戻そうとでもしていたのだろうな」彼は相手に全て理解できるよう、流暢な中国語に切り替えて語った。
 表情を変えたのはシーザーだった。枯木のような老人の率直さに面して、敬意を示さずにはいられなかった。
「だが、ここで交渉の為に来たのは、そういった人の子としての儂ではない」風魔小太郎はゆっくりと言った。「神殺しは人の子にはなし得ぬ。我らはその道を歩み始めた時から、『背水』の覚悟を決めておる」
「ハイスイ?」シーザーはその言葉を理解できなかった。
「背後に水の流るとき、即ち、退かざる意志だ」風魔小太郎は説明した。「人の子としての儂は、若娘の笑い声、清らかな肌、芳しき匂いを悦び、死んだ儂の家内の老いた皺や、薪のような匂いと比べたりもした。人の子としての儂は酒に酔い、若りし頃の栄光について、多分の自慢と共に同じく酔うた人に語ったりもする。人の子としての儂は私財をミシビツ銀行に投資したり、毎年の利益で旧友をストリップクラブに誘ったり、若娘たちの猥褻な接待を買い叩いたりもした」
 自嘲気味に彼は言ったが、シーザーはほんのわずかな笑みも零さず、ただ黙々と聞き続けていた。
「だが風魔家当主としての儂は違う。身を呈してこの家を、この国の未来を、風魔家の栄誉を守らねばならぬ。これは儂の趣味でも好みでもない、苦痛ですらある。人の子が享受する女子の香り、肌の輝き、酒も友も、目合いも、二度と味わう事はない。儂はこの少し前に家内の墓参りをした。もう一度別れを告げる為にな。若い頃は見事な女だった。バイクに乗るのが好きで、墓石も二輪車の石彫刻でな……」
 シーザーはただただ頷いた。
「今、儂は来るところまで来た。儂の背後には無限の深淵、退けば奈落に落ちるのみ。だが儂には覚悟がある」風魔小太郎は言った。「儂は今まで多くのものを犠牲にしてきた。儂自身の名誉など今更たかが知れておる。今お前たちの言ったようなことは人の子としての儂の犯した愚かさだが、今の儂は人の子ではない。ここに居るのは風魔家当主、風魔小太郎、それだけだ」
 彼が和服の外套を解くと、腰に一本の黒い短刀が差されていた。刀柄には精巧な紅縄が鞘と結ばれ、複雑な花模様を作り上げている。切腹の為の刀だ。
「今の時代なら、ピストル自殺の方が楽じゃあないのか?」シーザーは言った。
「そうだな。だがこれは真に腹を切るというよりも、覚悟を示すモノだ。だが必要とあらば……こんな老いぼれの命、何時でも家の為、国の為にくれてやるつもりだ」風魔小太郎は刀を握り、恭しくシーザーの目の前に差し出した。
 満天の嵐の中、極道たちは銃を握りながらも頭を下げた。拒絶されればその瞬間、彼らは全ての武力を解放するだろう。たとえ桜井七海や風魔小太郎が居ようとも。
「なるほど、理解した。今ここに居るのは風魔家当主か」シーザーは手を叩いた。「単なる一般人の『風魔小太郎』ではないというわけだ」
 貴族同士の相互尊重だ。風魔小太郎が「人の子としての自己」と「当主としての自己」と言っているものは、いわばフロイトのいう自我と超自我である。この瞬間、彼は自我を超越し、庸俗も悪名も超え、泰然たる自己をシーザーに曝したのだ。
「それでは、風魔家当主の議題とは何かな?」シーザーは続いて訊いた。
「元より、儂に交渉することなど無い。お前たちが匿っている男、源稚女に関する処遇は、ただ大族長本人だけに裁量が許されておる。だが今、大族長は特別な用事でここには来られぬ。儂の仕事はただ一つ、この場所を封鎖し、これ以上事態を悪化させない事だけだ」風魔小太郎は言った。「お前たちの仲間は、儂を人質に取れば安全は確保できると思っているようだがな」
「俺達の仲間だと?」シーザーは驚いた。今日本にどんな仲間がいるというのか。今の彼らの仲間と言える者はホストやウェイター、キャッシャーくらいなもの、それも全員背後の店にいるはずだ。
 風魔小太郎の背後にいた少女は差していた傘を高く挙げ、プラチナブロンドの長髪と、スカートの裾に眩く輝く金色の炎を露わにした。彼女は風魔小太郎の肩を借りており、その姿は祖父と孫娘かのようにも見える。
「零?」ロ・メイヒが呟いた時、同時にその周りにいた人々も凍り付いた。
 零の膝が明らかに重傷だった。血が雨水と混ざってだくだくと流れ、左足の真っ白な靴下を赤く染めていた。彼女が風魔小太郎の肩を借りているのは、そうでなければ立てないからだった。彼女の黒い軍用レイピアは傘の柄に隠されており、いつでも風魔小太郎の心臓を背後から突き刺すことができるようになっている。
「みんな、久しぶり」零が挨拶した。まるで東京の路上で偶然会ったかのように、周囲の数百丁の銃が向けられていることなど気にも留めず。
「ゴメンね。捕まえた人を間違えたみたい」零は風魔小太郎の背中を見下ろした。
「儂は交渉人ではない。仮にそうだとしても、人質にされながら交渉など出来るはずもないだろう」風魔小太郎は淡々と言った。「儂の首を取るなら取れ。だが儂に交渉を迫るというなら、傷つくのは儂の栄誉だけだ」
 零は頷き、軍用レイピアを鞄にしまい、シーザーに向かって足を引きずっていった。しかし長時間動きもせず立っていたために突然傷が広がり、転びそうになってしまった。
 風魔小太郎がさっと身を翻し、零の腰を横から抱きかかえ、ゆっくりとシーザーに向かって歩いて行った。近づいて来る時の彼の息は修羅鬼神のように恐ろしく、シーザーはついデザートイーグルに手を伸ばしそうになってしまった。
 風魔小太郎は恭しく零を送り出した。「貴校の生徒だが、日本でも尊敬されておる、武士の心を持った少女だ。戦いは火の如く、静かなること山の如く、信条に奉じておる。どうやら海外研修も終わりのようだな」
 このジジイ、彼女の事を何も分かってないじゃないか――ロ・メイヒは心の中で言った。零が真面目なのは、役立たずになると捨てられると思っているからだ。信条だの何だのとは全く関係ない。
「ねえ、見てないで。助けてくれないの?」零はロ・メイヒに目を向けた。
 ロ・メイヒが手を伸ばそうとした瞬間、好漢が一人、雷の如く走っていき、零を抱きかかえた。
「大丈夫だ! もう安心だ!」フィンゲルが微笑みながら零の頭を撫でた。まるで美女を救ったヒーローのように、溢れるばかりの男気を眉目に満たしている。
「え?……アナタに言ったんじゃないわ」零が少し驚きながら言った。
「いいや、問題ない! 後輩も俺もヒマだからな!」フィンゲルは得意げに眉先を躍らせた。
 風魔小太郎は自分の目の前に突き付けられた銃口を黙々と見つめた。銃はフィンゲルの手にあった。ロ・メイヒの近くを通り抜けた瞬間に銃を奪ったのだ。彼は零を確保しながらも、風魔小太郎を手放そうとはしなかった。なんという恥知らず! これが新聞部のやり方か!
「カッセル学院の皆が全員、信条を持っているという訳ではないようだな」風魔小太郎は冷ややかに言った。
 フィンゲルは満面の歪んだ笑顔で、腕の中の零に口を寄せようとした。「よく分からんが、彼女が学院の信条の賜物なら、俺は学院の猥褻の賜物だぜ。おおっと、無駄口は叩くなよ! それとも逃げるのかい? そんなことしたら、アンタらの覚悟とやらに傷がつくだろうがな」
「何が望みだ?」風魔小太郎は訊いた。
「……お酒をご馳走しますよ、あちらでね。こんな雨じゃ、ご老体にはこたえるでしょう?」フィンゲルは背後の高天原を指差した。
 シーザーはフィンゲルの考えの正しさを認めずにはいられなかった。確かに現状、オロチ八家の覚悟とやらを信じるよりは、一人でも人質を取って高天原を潰されないようにする方が現実的だ。
「あんな風俗店で、一体何を話すというのだ」風魔小太郎は雨の向こうに鎮座する、空まで突き抜けていくかのようなネオンライトに照らされた豪華な建物を見上げた。
「風俗店ですって? いやいや、我々が提供するのはヘルスクラブですよ。エリートな女性がストレスを解消し、リラックスもできる、新しいタイプのね」フィンゲルはどうしても風魔小太郎を高天原に連れ込みたいらしい。
「……君達の店は、男性客にも対応するのかね?」風魔小太郎は、この意味不明な男に対して、完全に無力だった。
「同行サービスはありませんが、お飲み物はいくらでも」
 風魔小太郎がゆっくりと手を挙げると、数百丁の銃が同時に装填された。彼が再び手を振ると、数百の銃口が同時に逸れた。目標は風魔小太郎とフィンゲルだ。
「儂が三度目の手を振れば、此奴らは儂諸共お前たちを粉砕するだろう。どうやらお前たちはまだオロチ八家を知らんようだ。当主の命令を無視する者など、オロチ八家にはおらん。たとえ儂を撃てという命令でもな」風魔小太郎はゆっくりと言った。「それでもなお、儂を人質として扱う意味はあるのか?」
 状況は膠着した。フィンゲルも風魔小太郎を放そうとは思わず、半歩も動こうとはしなかった。結局のところ、彼らの間に交渉の余地など最初から無かったのだ。オロチ八家は源稚女を要求し、学院は源稚女を守る。互いに調停できるような落としどころなど無いのだ。

「ねぇ、こんな時間になってもまだ寝ないの? お前たち、明日目元にクマを付けてお客様に会うつもり!?」不愉快そうな大声が雨を震わせた。
 正面玄関が外向きに叩き開かれ、クリスタルシャンデリアの光芒の中、女が一人大股で歩いてきた。グラスを両手に、通りいっぱいに群がって張り詰めた人々を凝視している。
 灰色のスーツとスカートに黒いハイヒール。右耳のダイヤモンドピアスが光に跳ね、その場の全員の視線がおのずとそれに向く。
 店長のザトウクジラが彼女の後ろに恭しく立ち、ハンドバッグと上着、雨具を持っていた。それがこの女性の身分を表す全てだった。
「まさか、オーナーさん?」ロ・メイヒは唖然とした。
 高天原で二週間働いてきたが、一度もオーナーに会ったことは無かった。店の責任を負っているのはいつも「男の花道の王」や「歌舞伎町の皇帝たる男」なる尊号の付いた店長・ザトウクジラ、素手でビールを開けたり、ヤクザ並みに麻雀が強かったりして、「君達はまだ伸びしろがある、なぜなら俺は店長になる前、新宿最高のハンサムだったんだからな」などと奇怪な演説をする男だ。そんなザトウクジラをパシリにして、背後に坐するオーナーなんて……パシリの時点で凶暴なのに、オーナーとなったらどれだけ凶暴なのだろう?
 だがオーナーは見る限り清純そのもので、森ガール系の顔つきに、パーマもかかっていない長髪を垂れ下げている。化粧も程々で、ホストクラブというよりは銀行員のようだ。
「ねぇ、うるさくしてるのは誰?」オーナーはすらりと伸びた眉毛をしかめた。「あら、ヘラクレス。どうしてご老人とご一緒してるのかしら?」
 初めて会うくせにやたら気さくだな? ロ・メイヒは心の中で言った。まさか盲目なわけでもあるまいし、銃とか刀とかに囲まれてるのが分からないのか?
「店の商売とは何の関係もありませんよ。ただ、友人が来たから話をしているだけです」シーザーは突然現れたオーナーに興味を持ったらしい。「ご興味がおありで?」
「友人?」オーナーは笑った。「ごめんなさいね。眼鏡が無くてよく見えないの。雨がひどかったら、どうぞご友人にもお店に入ってもらいなさいな」彼女はポケットからスペアの眼鏡を取り出した。
 そうか、だからこんな落ち着いてるんだ! ロ・メイヒは心の中で言った。状況が分かってないんだ! 眼鏡をかけた瞬間絶叫してぶっ倒れたりしちゃうんじゃ?
「いやいや大丈夫です! 大丈夫で~す!」ロ・メイヒは慌ててオーナーの目の前に立った。「オトモダチと仲良しおしゃべりはやっぱり外でないと! 涼しいんで! ほらオーナーさん、服が濡れちゃいますよ、お店のソファにどうぞ! 早く寝た方がいいですよ! 早寝早起きは精神にいいんですから!」
 ロ・メイヒはザトウクジラに目配せした。店長は何も見なかった、いいね? 早く意味不明な状況からこの女性を連れ出してくれ! ……だがザトウクジラは高貴冷絶な顔をしたまま、ロ・メイヒに目を向ける事すらしなかった。まるでオーナーの操る巨大人型兵器のように、オーナーが命令を下さなければ何も動かないかのようだ。
 オーナーが突然、ロ・メイヒを篤く抱擁し、彼の肩を叩いた。「Sakuraってなんていい子なのかしら! 思いやりがあるのね!」
 ロ・メイヒは彼女の淡く暖かい香りに眩暈を覚え、まるで雲の中に落ちたかのように感じていた。オーナーは柔らかく、暖かく、シャツの襟からは高級香水の匂いがした。これに比べたらカッセル学院の女子の大半は弓のようなものだ。ノノや零の蹴りは成人男性を壁に磔にできる程でもある。ロ・メイヒの保護欲が強烈に湧き立ち、オーナーの声が小さくなったのを見計らって、背伸びして何か言ってみせようと考えた。「バカ、何やってんだ! オーナー様の前だぞ、どけ! あのクソ野郎は僕に任せろ!」
 しかし彼女はロ・メイヒを引っ掴んでザトウクジラに押し付け、眼鏡をかけた。
 重厚な黒縁眼鏡だった。柔らかな翡翠に顔が反射し、フレームの中で彼女の美しい双眸がゆっくりと開いていく……その瞬間、神が附いたか悪魔が憑いたか、威風堂々、完全武装!
 オーナーは漆黒の銃口に見向きもせず、階段下の風魔小太郎を凝視し続けた。数百柄の刀の磨き抜かれた表面が、彼女の顔を映す。
「彼らの友人ってあなただったんですね。風魔さん? この女性向けのヘルスクラブを買ってから、こんなすぐにあなたみたいな大物にお越しいただけるなんて、まったく思いませんでしたわ」オーナーは突然笑い出した。
いつの間にか、ホストクラブはすっかり「女性向けヘルスクラブ」扱いになってしまっていた。オーナーも扉の裏で一部始終を聞いていたのだろう。
「蘇さん、この店は貴殿のものだったのですか。これはたまげた……」風魔小太郎は彼女の姿を認めて心底驚いたようだが、即座に落ち着きを取り戻し、恭しく言った。
 シーザーとソ・シハンは互いに目をやった。裏から自分たちを庇護していたのはこのオーナーだったのだろう。オロチ八家をも恐れず、逆に師匠か何かのように風魔家当主を恭しくさせるこの若い女、一体どんな力を持っているというのだろうか。
「買ったばかりではありますけど、以前から自分のお店も持ちたいと思っていましたし、日々成長していくこの子たちを見ていると、人生にリアリティが戻ってくる感じがするんですよ」オーナーはシーザーチームに目を向けた。まるで女皇が自分の親衛隊を眺めるかのように。「こんな美少年たちを侍らせられて、私の人生、幸せの極みだわ」
「ハイ! 自分も、その美少年の一つに数えられていただけますか!」フィンゲルがわざとらしくその後に続いた。
「素晴らしいわ。そういうユーモアのセンスがこのお店には必要なの。お客さんにもおしゃべりを楽しんでもらわないとね」オーナーは小さく頷いた。
「蘇さんは、こやつらを庇う為に出てきたのですかな?」風魔小太郎は訊ねた。
「庇うとまではいきませんよ。ただ、ウチの従業員ですから、面倒を見てあげないと」
「貴殿の店の者がオロチ八家の未来に関わっております。その上、当事者をこちらに渡そうともしないのです。確かに蘇さんには敬意を示しますが、この事については蘇さんであろうと、取引の余地は無いものと思っていただきたいですな」
「私もこの件についてあなたと取引するつもりはありません。どちらも譲歩しないなら、膠着状態を続けても意味がないですし、とりあえずこの話し合いを置いておくのはどうです? 今から二十四時間以内、彼らが高天原から逃げない事を約束いたします。そして明日の夜、高天原の扉を開いて、あなたと大族長をご招待したいと思います。そこで平和に、穏便に、一切の事を明らかにする、というのはどうでしょう?」
「我々には、とりあえず退けということですかな?」風魔小太郎は雪のように白い眉をぴくりと動かした。
「そういうことです」オーナーは風魔小太郎にスマホを一台投げた。
 風魔小太郎はそれを耳に当て、静かに聞き続けた。彼の目尻の血管がわずかに跳ね、明らかに落ち着きを失いつつあるようだった。こうした圧力下での交渉の経験がない風魔小太郎は、電話の向こうの声に屈したらしい。
「蘇さんの提案は悪くないですな」風魔小太郎はスマホを投げ返した。「蘇さんが保証してくれるのであれば、問題はないでしょう」
「風魔さんの寛大な心に感謝を」オーナーは微笑んだ。
「今晩は邪魔をしたな。申し訳なかった」風魔小太郎がゆっくりと退き、両手を頭の上に挙げて手のひらを合わせた。
 銃口が下がり、刀が鞘に収まり、張り詰めていた雰囲気が一瞬で瓦解した。たった一人の若い女が、自分の信用を担保に掛けただけで。
 風魔小太郎が再び手を叩くと、東から西まで、街路の灯りという灯りが、ネオンというネオンが一つずつ消えていく。残った光は、暗闇の中で金色に輝く、数百もの瞳孔のみ。
 街から一切の音が消え、屋根上の野良猫すら呼吸するのを忘れた。数百人の男達と思えたものは、数百頭の獣だったのだ! オロチ八家はわずか数時間で、シンジュク区を封鎖する為に千人近いA級混血種を招集していた。彼らが本当に武力制圧に踏み込んでいたら、学院側に勝算などあるはずもなかった!
 「東京」は日本国東京都ではなくオロチ八家の領土、東京市民の中には一個の軍隊がある……オロチ八家がそう言うのも不思議ではない。
 沈黙した極道メンバーたちの列が中央から割れ、雨水を踏み割って退いていったが、彼らの威圧感は消えなかった。ロ・メイヒは未だに左右の両側に高い壁が建っているように思えてならなかった。オーナーの庇護がなければ、この東京で今頃どうなっていたか、想像もつかない。
 彼が膝を折りそうになっていた時、ソ・シハンが曲がったその膝に素早く蹴りを入れ、神経反射で思わず直立してしまった。シーザーチームは日本における学院の力の象徴だ。学院がオロチ八家に対して弱みを見せてはならない。
 いつの間にかオーナーは細長い「メンソール・モア」タバコを咥えており、フィンゲルが素晴らしい機転でこの高天原の女皇の前に出て火を付けていた。オーナーは微笑みながら彼の顔に煙を吹き掛けると、雨の中を優雅に歩き出し、ザトウクジラが傘を差してその背後に続いた。
 街路に残ったのはオーナーと、彼女に傘を差すザトウクジラのみ。彼女は風魔小太郎の背に別れを告げるかのように、小さく手を振った。
 恐ろしくも優雅。こんな女性に出会ったのは、ロ・メイヒにとって初めてだった。ハイヒールの先が軽く地面を叩けば、それはまるで黒い池に一輪の白蓮の花が咲いたかのように、嵐の中で輝いた。

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