『龍族Ⅲ 黒月の刻』「前編 氷海の玉座」第六章:王の裁決

 低く歌う声が、空と大地を駆け抜けて響き渡る。パイロットはそれをコックピットの厚いガラス越しに、はっきりと聞くことができた。『この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い……』
 「目覚めろ、獣!」彼が忽然と目を見開くと、金色に照る瞳孔が夜空の半分を埋め尽くした。


 Su-27戦闘機が暗雲を突き抜けた。こんなにも視界の悪い吹雪の中の飛行は、Su-27のような重戦闘機には危険なことだが、任務を遂行するためにはこのルートを通るほかはなかった。この戦闘機中隊は今日のベルホヤンスクの駐留部隊だ。名もなき港で問題が発生した場合、Su戦闘中隊は迅速にそれらを焼き尽くすように命令されている。いかなる手段をもってしても、国家機密は守られなければならないのだ。
「コール・ホワイトスコーク。コール・ホワイトスコーク。スウィフト、見たか?」灼熱のブラックスワン港が戦隊長の視界に現れた。港の建造物全体が、まるで活火山の火口に投げ込まれたように炎を噴き出し、赤くなった骸骨がむき出しになっている。信じられない光景だった。
「コール・スウィフト。こちらも確認している。幻覚ではない」右側の僚機が答えた。
 アロー・フォーメーションを維持する三機のSu-27は、ブラックスワン港の上空を高速で通過した。機体にはエース戦隊を表す赤い五つ星のエンブレムが見える。
「戦隊長、とてもじゃないですが救助可能とは思えません」左側の僚機は言った。
「いや、救助など不要だ」戦隊長は溜息をついた。「我々の任務は『白鳥の死』なのだからな」
『白鳥の死』とは、破壊工作の事である。国家機密が漏洩した場合、Su-27中隊は生存者を一人残らず処理し、さらに真空爆弾を起爆する権利も与えられる。ブラックスワン港からは髪の毛一本発見できず、黒炭となって残っても、その死の事実と共に凍土の中に沈んでいく。ソビエト連邦の凍土の中に。外様の手に落ちることなど決してあってはならないのだ。Su-27重戦闘機は業火の上に飛び込んで、残った建物に多連装ロケット弾を浴びせた。連続する爆発が即座に発生し、崩れかけていた建物は次々になぎ倒れていく。
「コール・ハチドリ。任務完了」左側の僚機は言った。
 ロケット弾の雨の中、サーチライトの灯台も倒壊した。遺構は吹雪の中でも燃え続けていた。おそらくは港の石油貯蔵庫から燃料が漏れているのだろう。炎の温度は数千度にも上り、仮に誰かが耐火服を着ていても、耐えられるものではない。
「真空爆弾まで起爆するのですか?」スウィフトが聞いた。
「あと数分様子を見よう。生存者が完全に確認できなければ、真空爆弾を使う必要はない」中隊長は言った。「廃墟を封鎖し、モスクワに報告する」ダッシュボードの時計を一瞥する。23:59。操縦桿を引き、炎を横切る最後の飛行の準備をした。
 
 その瞬間、目を刺すような赤い光がコックピット一面に広がった。
「ホワイトスコーク、ホワイトスコーク! いきなりアラートが出た!」ハチドリが驚いて叫んだ。
「ホワイトスコーク、ホワイトスコーク! こちらも不明なアラートを確認!」スウィフトも叫んだ。
 戦隊長は数秒間考えて、ハッと理解した。目を大きく見開き、息を呑んだ。
「撤退! 撤退しろ!」大声で叫んだ。「真空爆弾の点火信号だ! 繰り返す! 真空爆弾に火が付いた!」
 パイロットの頭は真っ白になっていた。彼が真空爆弾を起爆させたのではない。真空爆弾は自ら起爆シークェンスを開始したのだ。Su-27はスリリングな動作で旋回し、全速力で撤退した。ツバメが身を翻して高空からのワシの啄みを往なすような、難易度の高いアクロバットな動きを一糸乱れずこなす、まさしくエース中隊たるに相応しい動きで。
 爆発の大きな音が脳を震わせ、戦闘機の尾翼が揺れた。ターボジェット・エンジンの推力は限界まで上げられている。パイロットは理解していた。この爆発は終わりではなく、破壊の始まりなのだ! ブラックスワン港の周囲に、48個の真空爆弾が地下から顔を出した。最初に小さな爆弾が空気中に爆薬の粉末を拡散すると、数十秒後、爆薬と空気は均一に混合される。高温のアーク光がきらめくと、ブラックスワン港上空の空気は、一つの超級爆弾と化した。
 白色の光は世界の創造のように眩しく、48の空気柱は竜巻のように上がり、炎を天空に吸い上げ、最終的には直径100メートルの巨大な炎竜巻を作り上げる。炎竜巻は、一定の高さに達して突然膨張し、一面に白いキノコ雲を作り上げる。僚機ハチドリの翼が衝撃波に切り裂かれ、翼全体が折れた。パイロットが救難信号を送る前に、ハチドリは高速で拡大するキノコ雲の中に飲み込まれた。
 残り二機のSu-27は、二キロメートルを飛んでようやく振り返った。炎の閃光を散らすキノコ雲はまだ残っていて、夜空を光で煌々と握っていた。

 レナータは天空へ舞い上がるキノコ雲を呆然と見つめていた。輝煌と光る火柱は、かつてレナータが淹れられていた監獄の崩壊を象徴していたが、幸せな気分とは程遠かった。レナータは無限の氷原に一人で座し、忠実だけれども馬鹿なそり犬を連れている。あらゆる手を尽くしてレナータを誘惑した犯人は隣で寝ているだけ。正確に言えば寝ているわけではないのだが、微動だにせず広がった白目で天を仰いでいる零号を、レナータはたまらず寝袋に詰め込んだのだった。一応、指示されたことではあったけれども。
 ついに監獄から脱出した。だがその次はどこへ行く? レナータにはわからなかった。零号がいつ起きるのか、そもそも目を覚ますのかどうかすらわからなかった。レナータは家に帰りたかった。でも家がまだあるのかもわからない。ならモスクワに行きたい。でもモスクワって何? レナータはこの世界の事を何も知らなかった。レナータの世界には獄だけがあった。レナータは静かに涙を流し、おバカなそり犬たちを呼んで傍を離れないように頼んだ。
 アガタが手のひらを舐めて暖かくしてくれると、レナータは腕でアガタの頭を抱き、その毛皮の頭に頬をすり寄せた。
 レナータとそり犬たちは氷の尾根の下に留まっていた。零号が言うには、氷の稜線の両側には雪がすべり落ちることによって形成される平行な縞模様があるという。氷原に立っているだけでは見えないが、空中のパイロットははっきりと見ることができる。この縞模様は錯覚を起こし、パイロットは氷原の上のレナータを見つけることができなくなる。脱出に利用できる最善の策であり、空中からの捜索を回避する事ができるのだ。
 Su-27の編隊がブラックスワン港から翻ってきた。高度は地上から400m以下、極地の夜空の下、テールノズルの炎がはっきりと見える。低空飛行をしているのは、地上を捜索しているからだ。そしてそれは、零号が望むところでもあった。レナータは膝を抱いて空を見上げた。戦闘機を知らないレナータは、それを恐れることもなく、空を飛んでいる鷹のようにも思えていた。パイロットが氷原を見下ろすと、絶え間なく続く氷の尾根だけが見える。氷の稜線の両側の模様はパイロットの目をちらつかせ、レナータが隠れている尾根の上を通過しても、そり犬や女の子に気付くことはなかった。レナータは黒と白のストライプの冬服を着て、そり犬自体も白黒だ。白黒の森の中にシマウマが隠れているようなものだ。
 レナータはアガタをぎゅうぎゅうと抱きしめた。「こら! 吠えちゃダメ! 私たちは自由になるんだから!」

Su-27の二機がこの氷の尾根を背に飛んで行って、レナータが立ち上がろうとした時、突然背後から低く唸る風の音が聞こえた。Su-27が折り返してきて、前翼をもたげて急降下してくる。高速機関砲が銃口から一メートルの炎を吐き出し、氷の上に弾孔を打ち付けていくと、数匹のそり犬が吹き飛んで血だまりと化した。レナータはただ茫然と立っていた。何かまちがったことをしたのではないかと思った。零号の言うとおりにすれば何もかもうまくいくはずなのだから、このような事態を招いたのは自分のミス以外に何もない。Su-27に見つかってしまう何かしらのミスを。何を? レナータは頭を抱えたが、考えても分からなかった。Su-27は飛びすさった後にもう一度向きを変えてやってきて、更に一斉射すると、4,5匹のそり犬が血だまりの中に消えた。
 レナータはハッとして、そり犬の体に登って首輪を外し、首輪の中に仕込まれたマイクロ送信機を認めた。レナータはようやく理解した。そり犬たちのこの首輪のマイクロ送信機が、Su-27のレーダーに映ってしまったのだ。人だろうが犬だろうが、ブラックスワン港の生物に逃げる権利などないのだ。だからこそSu-27はレナータを狙わなかった。パイロットはレナータを発見すらしていない。ただ、ブラックスワン港から逃げるそり犬の集団があって、それを処理しているにすぎないのだ。レナータにとって最善の策は、犬たちに追ってこないように命令して、静かに安全な場所まで離れることだろう。だがレナータにはそんな賢明な発想はまったくなかった。そりに駆け寄り、犬を繋ぐフックを外した。
「逃げて! アガタ! 逃げて!」レナータはアガタの首を抱き、おバカな母犬の額にキスをした。
 道徳的な理由からしたことではなかった。レナータはブラックスワン港で育ち、道徳を教えられたこともない。レナータはただ、この馬鹿なそり犬たちを一緒に逃げる仲間だと思っていただけだった。

「ホワイトスコーク、犬の群れの中に人間が!」僚機スウィフトが小さな人影を目視で捉えた。
 零号は再三、何が起きても氷の尾根の下に隠れて移動しないように言っていた。レナータが動いた時点で、かくれんぼは終わってしまったのだ。
「軍事制限区域だ。確認は不要、殲滅しろ!」ホワイトスコークは答えた。
 そり犬たちが散り散りに逃げ出していく。僚機がそれらを追い、一匹ずつ正確に血漿と肉片に変えていく。ホワイトスコークは低高度かつ高速でレナータの頭上を飛び、標的の正体を確認しようとした。明らかに子供だった。戦隊長は震えた。彼は軍の秩序の厳しさを知っていたが、一児の父でもあった。子供を撃つことが忍びなかった。その結果、初めてそれを照準に収めた時、無意識のうちに銃口をそらすことになった。レナータの足布のすぐ横に着弾し、人の高さまで雪塵が噴き上がった。
 レナータは動かなかった。百メートル離れたところには零号が寝袋の中に横たわっている。すぐに走っていって寄り添って、多少の安心感を一秒でも得たいとも思っていた……零号に突然立ち上がって何かしてほしいと思ったわけでもないし、零号が幻境のような空間でしか全能でなかったり、黒蛇はもういないということも分かっているのに。
 森に二匹の野生のシマウマが隠れている。狩人が追う一匹はもう一匹の所へと逃げるだろうか? そんなことをしても意味はない。ただ二匹共々狩られるだけだ。だがこんな死の雨の中で、誰がその衝動に抗えるだろうか?
 レナータは動かなかった。
「この道で私たちは互いに見捨てない、絶対に裏切らない、たとえ死の果てに至ろうとも……」レナータは呟いた。
 レナータにとって人生で初めての誓い。レナータはそれを守っている。

「ホワイトスコーク、早く終わらせてください! 奴を殺さなければ、我々は軍事法廷行きです!」スウィフトは叫んだ。
「わ……分かっている! やるさ!」戦隊長は腹をくくった。
 彼は機関砲を小さな影に向けた。弾丸の暴雨がレナータの体を擦過して氷雪に撃ち込まれた。レナータの冬服と美しい綺麗なスカートが切り刻まれ、少女の肉はぱっくりと割れた。あと皮一枚程も弾道が違っていたら、全身が肉片になっていた。戦隊長の腕をもってしても、レナータは小さすぎた。
 戦隊長は時間を無駄にすることがないように、武装を多連装ロケットランチャーに……より慈悲深い殺害方法に切り替えた。
 レナータの顔は血で覆われていた。弾丸は鼻をかすめ、手のひらほどの長さの傷をつけていた。どこかの運命の少年の目に留まる前に、レナータの顔は永遠に砕け、目は自らの血でつぶれてしまった。
 こんな死に方が、悲しい? あれだけ苦労した結果、パパとママの家に帰る事もできなかった……。

「死ぬのか? それが、レナータ・エフゲニー・チチェリンが期待していた人生なのか?」心の中で不可思議な声が高鳴った。
「違う。こんなの、私の望んだ人生じゃない」レナータはつぶやいた。
 心の中で何かが爆発した。信じられないような力、何千もの太陽が燃えて、そのエネルギーが血を滾らせているような感覚。レナータは躓きながらも、「DShK1938」に向かって走った! 零号が準備させたからには、今使うべきなのだ! レナータは零号の指示に従う。最後の最後まで。この地獄から抜け出すその瞬間まで!
 レナータ・エフゲニー・チチェリンはまだ、人生の愛と幸福をまだ知らない。ここで死ぬ意味も理由もない。
 レナータは細い腕で機関銃の銃口を持ち上げ、急降下してくるSu-27に向けた。この武器の使い方を習ったわけではない。レナータがこの銃の持ち手を握った時、その目にはあらゆる細部が透けて見えるように思えたのだった。DShK1938は無数の断面図となり、心の中に入り込んだ。重い鉄の鋳造品は何千もの部品に分解され、分析され、あらゆる尺寸が分析され、分析され、あらゆる接続が分析された!
 脳がオーバークロックされたコンピューターのように機能し、頭痛を纏いながらも、まるで全く新しい世界に入り込んだかのようだった。情報の流れの内実は一寸違わず暴かれ、完全に分析される! 分析!分析! 分析……分析完了! 再結合!
 武士が己の剣を知るように、レナータはこの武器を知った。
 戦隊長は突然、額に鋭い剣が向けられているかのように、自分に向けられた殺意を感じ取った! たまらず発射ボタンを押し、多連装ランチャーからロケット弾が吐き出されると同時に、レナータは「DShK1938」のトリガーを引いた。
 銃口から炎は出なかった。トリガーがロックされ、銃身に弾丸が詰まった。レナータは自分に出来ることが何もないことを悟った。ロケット弾を空中で撃ち落とすこともできたはずだったが、銃が古すぎて弾が詰まってしまった。ロケット弾はレナータの肩をかすめ、その背後で爆発した。高温と強烈な衝撃波がレナータの衣服と皮膚を引き裂き、全身を火傷で覆った。遠くまで吹き飛ばされ、身体の中に潜り込んだ榴散弾が臓器を引き千切り、頭蓋骨を砕き飛ばし、美しく長い髪は焼け焦げ、身体の下の血だまりは広がるばかりだった。

 薄れゆく意識の中、レナータは両親の事を考えていた。声無く涙が湧き出てきたかと思うと、すぐさま凍り付く。レナータの目は最後の光を失い、ゾロをしっかりと抱き締めた。小熊のぬいぐるみはレナータに守られ、爆発の火に焼かれることはなかった。
 だがその時、一筋の、黄金の光がレナータを照らしていた。
「いったい誰に殴られたというのだい、私の姫はこんなにも醜くなってしまって!」誰かがレナータの頭を撫で、そっと言った。「起きなさい、レナータ」
 レナータは、目の前で小さなアザラシの心地よい目が揺れているのをぼうっと見つめた。戦闘機は行ってしまったのか? レナータの意識は混乱していた。零号が目覚め、レナータは死ぬのか。
「私……死ぬんだよ」レナータは声を絞り出し、涙の氷に涙を重ねた。
 零号はレナータのそばにしゃがみ込み、点々と散った血肉を無表情に見ていた。「馬鹿な女、俺にすがればよかっただろう? 俺がちゃんと片付けてあげるのに」
 レナータは答えられなかった。もう、痛みも感じなかった。爆発が中枢神経のどこかを吹き飛ばしたらしい。視界が徐々に暗くなっていく。これが死の影か、と思うと、レナータは中空に手を伸ばし、零号の手を握ろうとした。少しだけ暖かいものを感じた。
「この道で…………見捨てない、絶対に……、たとえ……に至ろうと……」レナータは呟いた。
 零号は少しの間凍り付いて、溜息をついた。「本当に馬鹿な女。騙されたこともないのか? 誓約っていうのは世界で一番頼れないものなんだよ! 人間が誓約を守るのは、相手が役に立つ間だけなんだぞ。体がこんなに吹っ飛んだ以上、誓いもくそもない。守る必要なんかないだろうが」零号はレナータの煤けた金髪を撫でた。「まったく、これじゃ俺が悪い奴みたいじゃないか……罪悪感が倍点だ! あぁくそ、確かに俺は本当に悪い奴だけどな、誰かに借りを作るのは嫌なんだ」
「契約を結びなおすぞ。俺はこれから、いつもお前を俺の傍に置くことにする。見捨てないし、離れない。お前はちゃんと生きて俺の役に立て。役に立たなくなったら、今度こそ捨てるからな!」
「……死ぬのに?」レナータの声はどんどん低くなっていく。
「いや、レナータ、お前は死なない。Papaver radicatumを覚えているだろう? 死ぬことが無い命。世界には、蘇るために死にゆく生命というものもあるんだ」零号は白いブリキの箱をレナータの手に載せた。極寒の中で、若々しい黄色のホッキョクヒナゲシが咲いていて、その緑色の茎は春を思わせた。
「俺はお前の誕生日プレゼントに自由をやると約束した。お前はそれが初めての誕生日プレゼントだと言った。すべての女の子は誕生日プレゼントを受け取るべきだ。誕生日プレゼントがない子供なんて、可哀そうすぎるだろう」零号はレナータに口付けした。「レナータ、生きろ。外の世界には好きな人とハグしたりだとか、キスするとか。男女が愛し合う中でお前の経験したこともない素敵なことがいっぱいあるんだぞ。だから、死ぬな」
 零号はレナータを氷の上に寝かせ、雪を掬ってレナータの顔を覆い、古めかしい文言を唱えた。恍惚の中のレナータは、漣を見た。暖かい水だった。一対の屈強な腕がレナータを支えながら、暖かい水に沈めていく。これは洗礼だ。レナータは転生するのだ。レナータに洗礼を施すのは光の中の零号。彼はレナータを水から持ち上げると、唇にキスをした。
 数千年の別れの後の再会のような歓迎の礼節だった。喜びに満ちているのがはっきりとわかる。二人の間には何千万年もの間の契約があった。死んだ者が生まれ変わり、枯れた花を再び咲かせることのできる契約が。そして今日、彼はこの契約を以って、全世界に向けて彼女の存在する権利を肯定させるために、彼女の元へと戻ってきたのだ。
 それが彼女の運命なのだ!

 戦隊長は自分の目を信じられなかった。拘束着を着た少年はゆっくりと氷原から立ち上がっていた。痩せ細った体躯に似合わず、吹雪の中でもしっかりと大地を踏みしめている。あとほんの少し指に力を込めればランチャーから全てのロケット弾が発射されるというのに、できなかった。指はただ震えるばかりだった。
 零号は弾薬箱の蓋を蹴り飛ばし、弾薬を手に取って空中に置いた。それはまるで地球の重力から解き放たれたかのように、フワフワと地から離れて宙に浮いている。一つ一つ、天空に新たな星々を配する神のように置いていく。この大口径機関銃用の弾丸は、夢から目覚めた精霊の集団のように震え、その黄銅のスラッグが鈍く光ったかと思うと、古めかしい模様が浮かび上がってきた。
 零号は冷たい目線を接近してくるSu-27に投げかけた。「コイツは生まれてから今までずっと、最初の誕生日プレゼントを待ち続けてきたんだ。お前にそれを奪う権利があるかよ!」
 零号は拳を虚空に向けて突き上げた。全ての弾丸の雷管が凹んだ! 数百発の弾丸が同時に発火し、弾幕となってSu-27に殺到する! 弾薬箱からは次々と弾丸が浮き上がり、見えないレールに従って零号が指定した位置まで滑り、絶え間なく発砲された。
 戦隊長はトリガーを引いた。
 零号は狂ったように笑い、弾丸の雨が止まることもなかった。ランチャーから放たれたロケット弾は全て破壊され、Su-27の胴体には無数の弾丸が突き刺さる。やがて零号の頭上を飛んで行き、巨大な火球となって爆発した。
 僚機スウィフトはこの一幕を全て見ていた。パイロットは完全に憔悴していた。氷床に立つ少年はもはや「人」とは思えず、米国巡洋艦の「ファランクス機銃」にも思えた。まるで世界の全ての力を掌握しているかのように、一発一発がスウィフトを一瞬で墜とす威力を放っていた。
「コール・スウィフト! コール・スウィフト! 何があった? ホワイトスコークの信号が消えたぞ!」副隊長の声がヘッドセットから聞こえた。
 スウィフトは神の恩寵をせがむかのように叫んだ。「全武装展開! 全武装展開! 全火力を以って指定座標を攻撃してください! すぐに座標を送ります! 座標に対して全火力を集中してください! 怪物です! モンスター!」
 副隊長は唖然とした。スウィフトは中隊長の僚機であると同時にエースパイロットだった。これほどまでに火力支援を求めたことなど一度もない。要請に応じたのは戦隊に残っている8機のSu-27。中には対地炸裂弾を装備した機体もあり、全火力を放出すれば、半径五キロメートルの地面を焦土にすることができる。
「即時攻撃せよ! 非視認攻撃! 急げ! 目標は中隊長を撃墜した敵だ! スーパー・ウェポンだ!」スウィフトは叫んだ。
 彼は敢えて少年だということを言わなかった。そうでなければ副戦隊長は、スウィフトが敵を認めたのではなく気が狂ったのだと考えるだろう。スウィフトは、隊員が視認した後で攻撃するのでは遅すぎるということを理解していた。あの少年が何をしでかすか分からない。物理法則を完全に無視した攻撃だった。唯一の勝機は、奴を飽和火力で飲み込む事だけだ!
「分かったな! スウィフトからの座標データに従って対地ミサイル用意! 対地炸裂弾用意! ランチャー用意!」副戦隊長が命じた。
 零号は頭を上げ、南の空に輝く星のような飛行編隊を見て、海潮が運ぶ危険な吐息を感じ取った。零号が目を閉じると、聴覚がほとんど無限に等しく増幅し、対地ミサイル弾や炸裂弾のカチカチという作動音、ランチャー内部のロケット弾が中で軋む音、機関銃の銃口の回転音が聞こえた。零号の足元の弾薬箱は空になっており、周りに武器になるものはもうない。
「お前ら人間は本当に卑しくて哀れだとも思うが、つくづくその愚昧さは御しがたいな!」零号は天を仰いだ。
 白骨の翼が背中を突き破って広がり、気流が彼を空中へといざなう。零号は十字架に縛られているかのように腕を開いた。痛みに悶え、わずかに痙攣しているようだった。混沌とした黒い息が目から、鼻から、口から、耳から噴き出し、収束したかと思うと、それは高速で流れながら毒蛇のように体全体を包み込んだ。
低く歌う声が、空と大地を駆け抜けて響き渡る。パイロットはそれをコックピットの厚いガラス越しに、はっきりと聞くことができた。『この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い……』
 「目覚めろ、獣!」彼が忽然と目を見開くと、金色に照る瞳孔が夜空の半分を埋め尽くした!

 ハローはゆっくりと降下し、巨大な龍骨はレーニン号の甲板に横倒しになった。ボンダレフは信じられない程に巨大なその残骸に近づき、手袋をはめた手を伸ばして、鋼よりも硬い骨をそっと撫でた。
「船長、すぐに出航しますか?」一等航海士が甲板に登ってきた。
「出航だ、ただし速度を出しすぎないように。焦って見つかっては元も子もない」ボンダレフは空を指差した。「空に目があるからな」それが指す意味は、低軌道周回する米国のスパイ衛星だ。
「了解です。我々は目標地点へ生き、北極海の水質を調査する為に停泊しました。我々は科学調査船です」一等航海士は軍隊式の敬礼をした。
「なるべくスムーズな運転をしてくれよ、道中で少し作業があるからな」ボンダレフは既に準備しておいた箱を開け、折りたたまれた金属製のブラケットを取り出すと、龍の青白い左目の上と顔面の骨の間を支えるように開いた。
 ボンダレフは数歩下がり、金属製のスタンドに備わったレーザーを遠隔操作で起動した。レーザーが円形の軌道を描き、龍の眼窩に沿って切られるようにうごめいた。龍骨であろうと、レーザーの高熱エネルギーには耐えられず、すぐに切断が完了した。ボンダレフは持ち手の付いた吸盤カップを使い、龍眼を持ち上げた。バスケットボールくらいのスケールで、大きさだけならクジラの目にも似ている。何年も凍った後に石化したのか、表面は細かく粒状になって線が入り、白い大理石のようだ。
 ボンダレフは龍眼の表面を軽く拭いた。普通、目には膨大な量の毛細血管や神経管がつながっているはずだったが、この龍眼はダチョウの卵のように美しく、一つの筋も見受けられない。
「ヘルツォークはあれだけ長い間研究しておいて、自分の足元で新たな命……真の古代龍が生まれていることにさえ気づかなかったとはな」ボンダレフは溜息をついた。
 眼が突然震え始めた。ボンダレフは空から重圧が降り注ぎ、押し潰されそうな感覚を覚えた。衝撃的な威厳だった。まるで神が世界に降臨し、人類を一息で粉砕するかのように! その重圧領域は龍眼から広がり、ボンダレフの耳には何千もの神々が一斉に叫んでいるかような、刀剣が金切るような音、暴風の海嘯が荒ぶるような轟音が響いた。
「早く! 液体窒素だ!」ボンダレフは叫んだ。
 船員はすぐに準備されたタンクを開けた。沸き立った乳白色の蒸気はタンク内壁に沿って迅速に這い出てくる。それが液体窒素の物性だ。金属タンクの中はマイナス200度の液体窒素で満たされている。ボンダレフは龍眼を投げ入れ、金属タンクと液体窒素ボンベを銅のパイプで接続した。ほとんど無限ともいえる液体窒素は、否応なしに龍眼を「冷却」し続けるだろう。
 龍眼から発したザワザワとした力が次第に弱まり、ボンダレフを圧し潰そうとしていた威厳が次第に姿を消していった。
 ボンダレフは額に浮いた冷や汗を拭いた。「卵一つでこれだけの暴君か。孵化したら一体どんな悪魔になることやら……!」
「これを下のデッキへ。私の命令なしに誰も近づかせるなよ」ボンダレフは船員に命じた。
「この大きなものはどうしますか?」水兵の一人が残った龍骨を指差して言った。「公海に投げ込むと、漁師たちに見つかる可能性もあります。かといって持ち運び続けるには、文字通り『荷が重すぎ』ます」
「実を言えば、私のそれについては深く考えていなかった。どうすればいいのかは知らんが、捨てるのも勿体ないか。オークションハウスにでも持ち出せば、少なくとも数百ドルの値は付けられるだろうが、我々の秘密と引き換えになってしまうな」ボンダレフは首を横に振った。「防雨布で覆い、数日間はデッキに置いておく。龍の繭は分離されているから、危険ではないはずだ」
 防雨布が龍骨を覆い、ボンダレフがコックピットに足を踏み入れようといた時、船員の叫び声が聞こえてきた。彼は、そこから太陽が昇ってきたかのような南の空を見た。天穹の半分が黄金の光に覆われていた! 大気が振動し、一千万の雷霆が夜空の中で滾る中、『聖書』を朗読する低い声が響いていた。
「どういうことだ!? ありえない!」ボンダレフの表情が豹変した。完璧な計画に致命的なイレギュラーが起こったことに気付いたのだ。
 北極の極夜に太陽が照るなど、当然あり得ないことだ。太陽は今の時期、地平線から顔を出すことすらないのだ。
 だがボンダレフが恐れたのは南の太陽ではなかった。防雨布で覆われた龍骨が、ゆっくりと立ち上がったのだ。骸の巨大生物は忽然と防雨布を振り落とし、夜空に向かって青い息を吐きだし、その後、人間に聞こえないモスキート音を続けた。刳り出されてない右目から金色の炎がきらめき、乾いた骨の爪が甲板を叩くかと思うと、真っ直ぐに空中へと舞い上がった。身を翻すと、膜を張った翼を広げ、海上を滑りながら咆哮を放つ。衝撃波が氷を裂き、黒い水が裂け目から噴き出す。白い音速のコーンが一閃し、消滅した。音速を突破した証拠に、レーニン号の分厚い二重ガラスが粉々に砕け散った。
「神……!」ボンダレフは呟いた。

 副戦隊長の照準画面の中、無数のロックオンを示すフレームが音を立てて重なり、浮遊する少年に収束した。全戦隊の武器は、少年に向けられていた。天国から神すらも引きずり下ろせるような力を持った少年に。
「発射!」副戦隊長がトリガーを引いた。
 数え切れないほどの煙の跡が空中へと散らばり、互いに絡み合う。零号は防ぐことも逃げることもせず、ただただ笑っていた。
 黒い影が吹雪の中を横切った。影の行く処では、積雪が空へと吹き飛ばされ、氷床が露出している。まるで空気を突き刺す黒い刀のようだが、あまりにも大きい。吹雪の中、その一つ目はSu-27のライトよりも明るく輝いている。
「あれは……コウモリか?」副戦隊長がは自分の目を疑った。
 しかし、晴天であればの星々を残らず覆うほど大きなコウモリなど、この世界には存在しない。それは龍だ。朽ちかけの龍。その牙と牙の間には稲妻が走り、鉄の鱗は破滅の輪舞曲を奏でる。長きにわたってレナータの希望となった友人であり、今再び、偉大な生命となって甦ったのだ。
 龍は弾幕に正面から突っ込んだ。暗黒の空間は炎の烈光に満たされ、その光を伝って龍はSu-27に襲い掛かる。鷹に狩られる燕のように、Su-27の金属製ボディは粉砕された。

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