クリエイター投稿55回目 世界の終わりが近づいているのだと友は言う

連日増え続けるコロナ感染者数、毎年繰り返される大雨による災害、頻繁に起こる地震。私は今コロナにも感染していないし、豪雨に見舞われた地域にも住んでいないし、地震により何かを壊されてはいないが、これはたまたま現時点ではそういうものから免れているだけのことだ。

去年の台風では4日間の停電を経験し、その時壊れた屋根の一部がまだ治っていないほどの影響を受けた。といっても、棟の一部がとれただけなので、私が回収して元のところに置いてガムテープで留めてあり、頼んである工務店がまだ来てくれないだけのことだ。屋根に設置してある太陽光温水器のガラスも暴風で飛んできた何かに壊されたのかほとんどなくなってしまったが、まだお湯は沸くのでそのまま使っている。

壊れた物は人が手を出してやらないと治らない。時間がたてばとれた棟が自然にくっついたり、温水器のおおいのガラスが元通りになるなんてことは起こらない。ところが面白いことに、傷ついたとまでもいかないまでも何らかの影響を受けた人の気持ちというものは時間が経つことで回復するようだ。台風のピークの真夜中、家が風に揺れ、飛ばされるか倒されるのではと、それこそ風前の灯火のような心細さを味わい、もう何もかも終わりかとまで思っていた、そのことをこれを書いていて思い出した。朝になって風がやみ、家が揺れなくなると、俄然生きる力が盛り返したようで、もう終わりかもしれないなどと思ったことなどすっかり忘れる。そういえば、40年前にも集中豪雨で床下浸水を経験していた。あの時も浄化槽のモーターがだめになったくらいの被害で収まったが。道路や庭にまで押し寄せた川の水がみるみる上昇するのを2階の窓から見ていた自分を、今は冷静に思い出せる。あれほど恐ろしい思いをしていたというのに、まるで他人事のようになっている。時間というものの働きのせいなのだろうか。

私の場合プチ被害しか受けていないし、災害によって肉親を失うなどの経験はしていないので、時間が経てば気持ちは元通りなどと暢気なことを言っていられる。天災でも人災でも、家族や友人をなくしてしまった人達はそういうわけにはいかないだろうことは想像できる。心のよりどころも危うくなるだろうから。自分の支えとなっていた存在、あるいは自分が支え庇護していた存在を突然奪われる、ということはどれほど大変なことか。おそらく、風前の灯火的心細さ状態がいつまでも続くということになるのでは。崖っぷちを歩かされているような、綱渡りをさせられているような気持ちかもしれない。自分の終わりも常に意識することにもなるだろう。

ある宗教の一宗派に入って活動している友人がいる。(公開を前提に書いているため当然ぼかしておきます) 彼女が言うには、今の世の中の状態は、ある人が予言したことがそのまま起こっており、この世の終わりが近いそうだ。だから私たちは終末に備えて云々、と話は続き、彼女は私を勧誘というか折伏というか伝道活動を続ける。もう何十年も繰り返されてきていることだ。私は、流行病は歴史上何度もあったし、川の氾濫や地震も数え切れないくらいあったのでは、などと応じて、今回もすんなりとは彼女のお仲間にはならない。それに、彼女たちの宗派ではどう考えているのか知らないが、今現在世界中にいるこの世の崖っぷちで生きている大勢の人達(シリア、アフガニスタン、ロヒンギャ、クルド人等々数え切れない) の中には日常的にこの世の終わりを経験している人がいるのでは。そういう人達にも自分たちの信心を薦めるのだろうか。

終末論を素直に受け入れられる人はそのまま信じればよい。別に反対はしない。私の場合は、信じる信じないよりも前に、呼ばれていない感が強い。どういうことかというと、彼女たちの宗派が信じているおおもとの存在(そういうものがあるとして) から直接呼ばれてはいないというか、相手にされていないように思えているのだ。なんとも不遜な態度ではあるが仕方がない。だから、この世の終わりも黙って迎えるだけだ。ライナスにとっての毛布みたいにすがれる物を握りしめているかもしれない。そうだ、終活の一端として何か用意しておこうか。毛布でも、あるいはくまモンのぬいぐるみでも。しかしそれは、自分で用意することは出来ない、目に見えないもであるかもしれないが。

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