クリエイター投稿53回目 本を読むのも植木の剪定も同じこと

kindle で何冊くらい読んだのか考えたこともなかったが、「コンテンツの管理」によると600冊以上購入したことになっており、この90%は読んでいると思う。kindleで読むようになって5年経つから、一月10冊見当か。平行して図書館の本も借りられるだけ借りて読んでいるし、手持ちの積ん読本も少しずつ消化しており、本読み仕事は順調だ。お金を得る仕事からリタイアした古希女子にとっては、本を読むことが仕事になっているのだ。

もっとも、お金を得る仕事についていた頃も、私の中では本を読むことが最優先事項で、本当にやりたい「仕事」であったかもしれない。所属していた組織から与えられた仕事は、本を買うお金を得るためにやることと考えていた節がある。当時は図書館は一切利用しないで、ひたすら買いまくっていたし。外出するときは、今ならマスクが欠かせないように、文庫本を必ずバッグにいれていた。それも、読みかけの本が終わった場合次に読む本も用意しておくので2冊の時もあった。たぶん活字中毒だったのだろう。お医者にもかからなかったので、この中毒症状はそのままだ。

単なる活中を仕事だなどとごまかしているが、一体、本を読むってどういうことなのか。何をしているかというと、誰かが考えたり創り上げて紙の上に活字で著したもの (電子書籍の場合はどういうことなのかわからない) を視覚を通して取り込んでいる。取り込んだものはどうなるのだろう。食べ物を体に取り込むのとどう違うのだろうか。食べ物では、例えば豚肉を食べてもブタにはならないし、魚を食べても魚にはならないようになっているらしい。豚肉や魚のタンパク質はアミノ酸に分解されて、そのアミノ酸を材料に体を作ったり動かしたりしているのだという。お米、ご飯にしても同様で、消化してブドウ糖にして、それを使っている。それにしても、生まれてこの方、体に一番多く取り入れてきたのはお米だと言っていいと思われるが、どう見てもお米でできている体のようには見えない。草ばかり食べている牛が牛肉の持ち主になるのも不思議だが。

今までたくさん本を読んできた、つまり取り込んできたけれど、消化分解してほとんどそのまま排泄しているのではないかと思ったことがある。分解したものを使って自分仕様の何かを創り上げるということもないので、排泄というか蒸発というか、とにかく無いものにしていると。そうすると何のために本を読んでいるのかと、考え込んでしまうことになる。

暗示にかかりやすいたちなのか、本を読んでいるときはその本の世界にどっぷりつかっている。たとえばマザーテレサの本を読んでいるときは自分も同じ事をするべきだと本気で思う。そのくせ一度として行動を起こしたことがない。本を閉じて日常に戻るとたちまち本来の姿になるからだ。ちょうど、おいしい豚カツを食べているときは豚を堪能していても、食事が終われば、そのおいしさは忘れてしまうのと同じように。

本を読むことに特別の意義を見つける必要はないのだと思えるようになった。豚肉を食べてもブタにはならないように、マザーテレサの本を読んでもマザーテレサにはならない。豚肉も本も味わう過程が大事なのだ。豚肉なら豚肉、本なら本に向き合っているときが大事なのだ。

それに、本を読むという行為自体も特別のものではなく、ほかのすべての行為と同じ意味合いを持っているだけだ。万巻の書を読もうと、だから何、ということで、読んだ量には何の意味もない。365日三人分のお弁当を作るの同じこと。あるいは、豚カツ屋の厨房でひたすらキャベツをきざむのも同じだ。お弁当にどう向き合っているか、キャベツとどう取り組んでいるかが大事であるということで。その時、その事だけを考えていればいいだけのこと。

先日、梅雨の合間を有効に使おうと庭木の刈り込みをした。低いところは剪定はさみでいいが、高いところは脚立に乗りノコギリでもってそれ以上伸ばしたくないかなり太い枝を切り落としたのだ。これも終活の一端。脚立に乗れるうちに、そしてノコギリを引く力があるうちに切れるところは切っておこうというのだ。お隣さんが市のシルバー人材センターに頼んで植木の手入れをやってもらったのを見て、今のうちなら自分でもできると思い立った。お隣に来たシルバーさん、本職の植木屋さんではないのでとにかくチェンソーで切りまくっていて、あれだけ思い切りよく切ってしまえば当分刈り込みの必要はなくなると、私も真似することにしたのだ。何年もかけて成長した藤や槙や三叉をこちらの都合でちょん切るのは可哀想だが、これ以上大きくしてしまったら手に負えなくなるだろうと思いきることにした。脚立ごと倒れたり、あるいは段を踏み外さないようにしようと慎重さを保ちつつノコギリをギコギコ動かすのは、私にとってはかなり面倒だったがなんとかやり終える。当然、余計なことを考えて頭を留守にするわけにはいかないので、目の前の作業にのみ集中していた。気持ちのあり方としては、1冊の本を集中して読んでいるのと似ていたのではないかしら。いや、言い方が間違っている。脚立に乗るのもノコギリを使うのもそう頻繁にあることではないが、「私」が何かをするということでは、本を読むのも植木の刈り込みをするのも全く同じことなので、気持ちのあり方が似ていたとしても当然のことなのだ。

本を読むことを大袈裟に考える必要もないし、何かの役に立っているのかと反省しなくてもいいと思うことにした。晩ご飯のおかずを作るのと同じくらいに考えて、読みたいから読んでいくということにする。


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