旧日光街道ウォーク⑦ 幸手宿→栗橋宿
こんにちは、ばーどです。
2024年2月17日(土)。
埼玉県最後の宿場、栗橋宿を目指し、日没との戦いに挑みます。
1.内国府間村・外国府間村
県道を進み、1本の水路を渡ります。
水路は小川ではなく、名前は北側用水。
渡る橋の名前は、筋違橋。
どちらも珍しい名前なので、由来を調べたかったのですが、わからず。
しかも同じ名前の用水路や橋が各地にあることがわかりました。
内国府間と書いて、「うちごうま」と読むそうです。
この先、外国府間(そとごうま)という地名もあり、どちらもかつては幸手宿の助郷村だったそうです。
その名前の由来、すごく気になります。自治体のHPやいろいろなブログをググってみても、なかなかヒットしない。(今日はこんなのばっかり)
まず「国府」と付くから、律令制で全国に設置された国府が関係すると思うが、この付近に国府跡や国分寺(尼寺)はない。近くで言えば、
・武蔵国 東京都国分寺市 (約51km)
・下総国 千葉県市川市国府台 (約44km)
・下野国 栃木県下野市国分寺(旧国分寺町) (約33km)
・常陸国 茨城県石岡市 (約50km)
と、どこも離れてます。
「国府」の「間」という解釈にしたら、これらの国府間の連絡道が通じている場所、という考え方もできないか。日光街道含めて関東各地に通じる道がこの近辺に複数存在し、利根川も近いので水運も活用できる。
あくまでも個人的な発想(妄想?)ですが・・・。
河川の氾濫から村を守るために、江戸時代に整備された、権現堂堤。
今は「桜の名所」として、埼玉県民によく知られたところだそうです。
春には、桜のピンクと菜の花の黄色の美しい風景が広がり、一度実際に見てみたいです。
このあたりが、かつての外国府間村。
さきほどの説はともかく、筑波道を使って常陸国方面へも行けそうですね。
時刻は16時を回り、日中の小春日和からだいぶ冷え込んできました。
2.小右衛門村
日光街道は、しばらく国道4号線と並行します。
と言っても、国道は高い築堤の上を走り、旧道はその脇の、畑や住宅と同じ高さにあるので、国道を走る車は見えません。音だけ聞こえます。
江戸時代に、梅沢小右衛門が開発した地であることから、小右衛門村の名がついたとされています。
この先でようやく国道と接続できる高さになり、旧道沿いの民家の車もようやく行き来できるようになりました。
日光街道は宇都宮で奥州街道を分岐します。
芭蕉や会津藩士など、今の東北地方へ向かう旅人の痕跡が、それを物語ってますね。
3.<第七番>栗橋宿
炮烙地蔵。
栗橋の関所破りで火あぶりの刑に処せされた人を、地元の人々が供養したのが始まり。
今日の行程は、ここで終了。
次回は利根川を越えて茨城県、さらに栃木県へと進みます。
奥州にいる義経を追って北に向かう途中、義経の死を知ってこの地でとどまり、生涯を終えたそうです。
次回は、栗橋宿を抜けて、利根川の対岸にある中田宿を目指します。
幸手宿→栗橋宿
距離 8.3km
所要 2時間00分(休憩除く)