旧甲州街道ウォーク⑬ 関野宿→上野原宿
こんにちは、ばーどです。
2024年7月28日(日)、猛暑の休日。
今日2つめの県境越え。山梨県に足を踏み入れました。
1.境沢橋
御留=おとめ、とも読めるので、この先の県境(当時は国境)を「止める」に繋がりそう。真偽はともかく、地名の起源をあれこれ想像するのも、楽しみが生まれます。
かつての道は、国道を横切って反対側の谷下まで下りが続いたようですが、道の痕跡すらありませんでした。
谷を下った先の境川が、神奈川・山梨の県境です。
かつては相模・甲斐の国境。北条氏と武田氏という東国の有力大名の領地の境で、当時は警固が厳しかったのでは。
旧道は車も人もほとんど通らず、県境を示す案内板もなく淋しい県境ですが、ここから山梨県に入りました。
2.諏訪関
県境で川の名前が変わるケースはよくあります。
日本一長い「信濃川」も、上流の長野県内では「千曲側」で、新潟県に入ると「信濃川」(信濃の国では信濃川ではない不思議…)。
「相模川」は、上流部の山梨県では「桂川」。上の写真は(川の上の)県境のわずかに下流なので、ちょうど改名したばかり、といったところです。
諏訪関、別名は諏訪番所。
海が無い甲斐国は、隣国と接する24箇所に関所を設け、旅人や物資の取締りと合戦時の防御の役目を担っていました。ここは特に江戸への玄関口として重要な場所でした。
かつての古道は、境川を渡ると直線的な急坂がこの関まで続き、「乙女坂」と呼ばれていました。同じ読みで字が違う、相模国側の「御留坂」と対になっているのも、興味深いです。
坂を登り切った右側が、上野原自動車教習所。路上教習を終えて戻る教習車、お疲れ様です。
3.塚場の一里塚
上野原の地名の由来は、上の原。
桂川の谷沿いには平地が少なく、少し上の段丘にJR中央本線と上野原駅、更に数段上の平地に甲州街道と上野原宿がある、という位置関係。
社会科の地理で、河岸段丘の例で取り上げられていたのを、思い出します。
山中の寺らしからぬ名前ですが、伊豆で流罪となっていた日蓮上人を救出した漁師がこの地出身、日蓮上人から「船守」の字をいただいたとのこと。
一里塚は神社の裏にありました。
塚は片方のみ残っていましたが、塚木がなく土がむき出しなので、一里塚らしくなかったのが残念。
神社の前のベンチで休憩。
今日は朝から、小仏峠を越え、道なき道を歩き、階段や坂を上り下りし、お疲れ気味です。さらにこの日の最高気温(大月市)は35.4℃で、たぶん熱中症寸前だった気がします。
水分補給と休息をとって、上野原宿内に向かいます。
4.<第十八番>上野原宿
街道沿いの「小・中学校」と「郵便局」は、すべて写真に収めていますが、
郵便局の本局は、甲州街道では初めてですね。
上野原本陣跡は、現在は国道沿いの消防団の建物の裏手の民家。
立派な門が残っているそうですが、そこへ通じる小道も私有地のようなので、国道でそのまま通過しました。
この町も、明治と大正の大火で多くの街並みが焼失しました。
小原宿、ひとつ飛ばして吉野宿と関野宿、そして上野原宿と、大火が続いてます。
今日予定しているゴールまでは目的地までは、あと2宿。
暑さと疲労で多少ぼーっとしているので、ここで中断してJRで帰ろうか、とも思いましたが、コンビニのイートインでトイレ休憩と糖分補給し、予定通りあと6kmあまり進むことにします。
関野宿→上野原宿
距離 3.8km
所要 1時間20分(休憩除く)
上野原宿の次は、鶴川宿へ。
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