旧東海道ウォーク 53 草津宿→大津宿
2023年11月4日(土)。
「東海道五十三次」の53番目、最後の大津宿へ向かいます。
1.矢橋道
2.萩の玉川
3.弁天池・月輪池
4.瀬田の唐橋
5.京阪石山坂本線
6.膳所城
7.<第五十三番>大津宿
1.矢橋道
草津宿黒門跡を抜け、西へ向かいます。
琵琶湖の南端部は、細長く南に垂れ下がっている形で、陸路を辿ると「瀬田の唐橋」まで迂回をするルートになります。
これを、湖岸の矢橋(やばせ)からの舟で湖上を渡るのが、矢橋道と呼ばれるルート。
「瀬田へ廻ろか矢橋に出よか ここが思案の姥ヶ餅」と呼ばれた分かれ道には、立派な道標が立っています。
「急がば回れ」の言葉のルーツになったとは、恐れ入ります。
でも、自分は忠実に東海道のルートを辿ることにしました。
国道1号と県道、それに旧東海道が交わる六差路、非常に複雑です。
旧道が通り抜ける公園は、静岡県内の藤枝宿の手前にもありました。
もとは沼が多い地域で、大規模な造成で住宅や工場、さらに大学のキャンパスができ、平成6年(1996)年には東海道本線に南草津駅が開業。一時期は草津駅よりも多い乗降客数だったとか。
2.萩の玉川
壇ノ浦の戦いでとらえられた平宗盛の嫡男、清宗(清盛の孫)が、鎌倉へ護送中にこの地で斬首されたという。わずか15歳での最期。
塚と五輪塔は個人宅の敷地内のため入れず、説明書と写真が旧道からも見えるように。ありがたい配慮に感謝です。
野路地区は、古くから歴史のみどころが凝縮されているところで、町内会がホームページを立ち上げていて、見どころを紹介してました。地元に誇りを持っていることが、よくわかります。
在郷軍人とは、太平洋戦争期に、普段はい一般市民として生活しながら、 いざという時には戦場に赴かなねばならない男子たちのこと。
ここにはかつて神社があり、竹槍の訓練や防火作業を教えていたようです。
江戸時代だけでなく、源平の戦いから、太平洋戦争まで、歴史がぎっしり詰まっている地区ですね。
野路の名所のひとつ、「萩の玉川」。
玉のような清水が湧き出て、また周辺が萩の名所だったことから、平安時代より知られる名所だったようです。
ちなみに、全国に「六玉川」があり、野路(近江)、三島(摂津国)、野田(陸奥国)、 調布(武蔵)、井手(山城)、 高野(紀伊)だそうです。
いずれも古くから和歌や浮世絵の題材になっていたとのこと。
自治体や観光協会が、地域の名所を広く紹介するパンフはよくあるが、スポット的に単独の名所を紹介するものは、珍しいです。すばらしい取り組みですね
3.弁天池・月輪池
前に書いた通り、この地はもともとは多くの池や沼がある地域でした。そして今でも残ってる池が、現れました。
池を琵琶湖に見立て、池の中の島は(琵琶湖に浮かぶ)竹生島の弁財天とのつながりだそうです。
上り坂のサミット付近で、草津市から大津市に入ります。
大津市域は広いので、自治体は変わっても大津宿はまだ先です。
黒鉛、と聞くと鉛筆やシャープペンを連想しますが、通電性と潤滑性を生かして、乾電池・電車のパンタグラフ・自動車のブレーキパッドなどにも必要な素材だとか。我々の日常の生活には絶対に必要なものですよね。
回りの道路や住宅がやや小高くなっていることから、かつては池だった場所が埋め立てられて畑に変わったのではないかと、想像します。
大津市の月輪地区に入ります。
オオカミ川の先に、月輪クマが現れた、ような感じです。
月輪の地名の由来となった、月輪池。
その脇には、立場跡の石碑があります。
月輪の地名の由来は、①この池に映った美しい月の姿から、②月輪殿九条兼実の荘園がここにあったから、の2説あり。
ただ現在の月輪池は、水がまったく無く、枯れた草が広がる荒れ野でした。
当時の旅人は、弁天池や月輪池の水面を眺めながら、歩いたことでしょう。
地名や橋の名前から、次の一里塚が近いことがわかりますね。
4.瀬田の唐橋
大江地区の旧東海道、複雑に曲がりながら、瀬田の唐橋を目指します。
あくまでも想像ですが、宿場町や城下町の中にある防御目的の曲がり道ではなく、荘園の境に沿って街道が曲げられているような気がします。
T字に交わった、右方向へ進む道は、東海道の脇街道の一つの芦浦街道。
琵琶湖の湖岸を進み、付け替えられる前の草津川の河口があった芦浦まで伸びる道です。
琵琶湖の南端まで来ました。
琵琶湖の水は、ここから瀬田川として流れ出て、最終的には淀川として大阪湾に繋がります。その瀬田川を旧東海道が渡るところには、「瀬田の唐橋」が架けられています。
「瀬田川を制する者は国を制する」と言われ、軍事・物流の重要拠点です。
江戸時代になって、膳所藩の本多氏が、唐橋以外の橋の建設を禁じたとされ、東西の往来を掌握していたと言われています。
現在は、一般道4本、高速道2本、鉄道2本の橋が、ここに集中してます。
5.京阪石山坂本線
瀬田川を渡り、石山地区の市街地に入ります。人も車も増えてきました。
京阪電鉄の石山坂本線。
源氏物語ゆかりの地、石山寺駅から、比叡山の滋賀側の玄関口、坂本比叡山口駅まで結ぶ鉄道です。(わかりやすい線名)
社名の通り京都と大阪を結ぶメインルートから、山一つ越えた滋賀県内で完結しているローカル線。途中のびわ湖浜大津駅から、京津線(けいしんせん)と京都市営地下鉄の直通運転があり、かろうじて京都と繋がってます。ちなみに京津線の三条駅は、旧東海道のゴールの三条大橋のすぐ脇です。
この先、大津市の中心部までは、旧東海道と石山坂本線が、絡み合った糸のように何度も踏切でクロスします。
この川の少し手前(江戸寄り)に、粟津の一里塚があったとされるが、一は不明です。日本橋から百二十一里目。
このあたりは粟津地区と呼ばれ、石山坂本線の駅名にも粟津駅がありますが、実際の地名は、大津市晴嵐(せいらん)と言います。
「近江八景」のひとつ、「粟津の晴嵐」。
琵琶湖畔に広がる松並木が風になびく姿をあらわしているが、そこからとられて地名になったようです。
精密機械系の企業の本社や工場が、集積しているように感じます。
6.膳所城
晴嵐の交差点を抜けると、静かな住宅地に入ります。地名は、大津市御殿浜。
関ケ原の戦いに勝利した家康は、翌1601年に膳所(ぜぜ)城を築城し、1617年からは家臣の本多家を配してる。多くの城が山城であるのに対し、膳所城は「琵琶湖の浮城」と呼ばれる水城でした。
ここは、その城の江戸口番所があったところとされ、また本多氏の別邸である瓦ヶ浜御殿があったことから、御殿浜の地名がついています。
この地に居を構えた名金工師、奥村管次寿景は、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作していたが、交流のあった頼山陽が「晴好雨竒亭」と名付けたと言われています。
城下町としての膳所の中心地となるのは、このあたり。
旧東海道は南北に直進するが、その東側に膳所城(現在は城跡公園)、西側に膳所神社があります。
和田神社で休憩。予備知識なく入りましたが、実は見どころ満載でした。
関ケ原の戦で捕らえられた石田光成が、京へ護送される途中でこの木に繋がれて小休止をとったとされています。
檜皮葺の屋根と、正面の軒唐破風造りが、独特なスタイルです。
神社で休憩ののち、出発。
すぐ先のY字路を、旧道は左へ進みますが、あえて右へ寄り道します。
右へ進んで100m、琵琶湖岸に出ました。
和田の浜と名付けられ、現在歩ける旧東海道と琵琶湖が最も近くなる地点です。
左側に、義仲寺(ぎちゅうじ)が見えてきました。
街道沿いの寺は比較的大きく、また膳所エリアは城下の由緒ある門を移築している寺が多い中では、割とこじんまりとした寺に見えます。
ここは、ふたりの有名な歴史上の人物が眠る地で、ひとりは寺の名にもなっている木曽義仲、もうひとりは松尾芭蕉。
木曽義仲は、宇治川戦いで敗れて粟津で討死。この地に葬られ、室町期に近江守護が寺を建立したとされています。
そして、江戸時代の俳人芭蕉がなぜここに眠るかというと、この周りの美しい風景を好んで何度も訪れていて、この寺を墓所とする遺言を残していたそうです。
義仲は信濃、芭蕉は伊賀の出身。二人は隣合わせで異国に眠っています。
7.<第五十三番>大津宿
京阪電鉄と4つめの踏切を通過。
この踏切の先辺りに、石場の一里塚(日本橋から百二十二里目)があったとされますが、不明です。
市街地化の進行、鉄道建設、水害、はたまた戦争の影響か。
大津駅前の道を越えると、大津百町と呼ばれる地区。町の区割りが100にも及ぶことからその名がついたそうです。
その大津百町の旧東海道沿いには、町屋風の景観の再生が進んでいます。
旧東海道沿いに点在する町屋をリノベーションした商店街ホテル。
新しい宿泊コンテンツとして、各地に広がることを期待しています。
大津百町の景観再生プロジェクトは、地域住民と民間企業と大津市が一体となって進めてられているようです。
京阪神からの地の利もよく、訪れる人々も多くなることでしょう。
京町一丁目の交差点を、旧東海道は左折します。
この県道の中央には、京阪鉄道の京津線(けいしんせん)の線路が敷かれています。
この先、逢坂山を越えて京へ向かう区間も、この列車と並走します。
大津宿は、他の宿場に見られるような江戸見附や京見附が見当たら、本陣跡を過ぎるといきなり逢坂山に向かう急坂が始まっていました。
最後の宿場町を抜けて、残すは1区間のみ。逢坂山と九条山を越えて、三条大橋を目指します。
草津宿→大津宿
距離 15.2km
所要 4時間30分(休憩を除く)
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