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虚構fictionと機能function

 最近、自分のオマワリ警察嫌いを猛省している。
 私はオマワリ警察官が大嫌いだった。物陰に潜み、いたいけな原付の交通違反を待ち構える権力の手先の卑怯者に見えていたからだ。しかも天気のいい昼間にしか出てこない。「ケッ!あいつら、虫とおんなじ時間帯にしか出てこねえじゃねーか」とさえ言っていた。
    自分に見えている現象だけを軸に「国家の暴力装置」という枠組をそのまま目の前の相手に当てはめ、思考停止していたのだ。警察は官僚的に組織化されていて、とてもたくさんの警察官がそのなかに配置されているけれど、突き詰めれば結局、一人ひとり違う人間だというのに。
 ごめんなさい。私が悪かったです。もう、そんなふうにひとくくりにしません。

優しい警察官

 最近いろいろあって、警察官のなかには弱い人々を大切にしたいと思っている人々がいることを、私は心の底から了解した。せざるを得なかった。入所者や卒業生がお世話になったとき、彼ら彼女らのことをとても大切にしてくれるからだ。留置されても「あそこなら大丈夫だね」となる。
 考えてみれば警察官と私たちは、部分的には似たような人々への対応をしている。いわゆる累犯障害者。行方不明になった認知症高齢者。精神疾患等でパニック状態になっている人。DV被害者/加害者、等々。福祉界で「対応困難」とされるような人も多いことだろう。
 そして夜間休日を問わずかけつける。このゴールデンウイークの深夜にも、シェルター卒業生のもとに急行した刑事氏から電話があった。
 あの人のもとに駆け付けてくれたのがあなたで、本当によかった。

 「国家の暴力装置」という枠組では語りつくせない現実があって、それがとても大切だということを、優しい警察官たちが教えてくれた。彼ら彼女らは例外的存在かもしれない。突き詰めれば警察はやはり「国家の暴力装置」なのかもしれない。でも、彼ら彼女らは実際にいるのだ。警察を抽象的に捉えたところで思考停止に陥り、個々の具体的なあり方を見ようとしない態度は実にもったいない。似たような志を抱いていて、仲間になれるはずの人々を、あやうく無視して切り捨てるところだった。

 同じことが無料低額宿泊所(無低)批判にも言える。無低は2010年あたりから「貧困ビジネスの温床」として批判されてきた。私が勤務する<かなりや>も法制度上は無低なので、これには実に困惑してきた。下の記事で述べたが、「貧困ビジネスの温床」イメージに合致する現象だけが抽出され、そうでない現象は切り捨てられてきたからだ。

 無低は突き詰めれば「貧困ビジネスの温床」なのかもしれない。それを超えられないのかもしれない。だが、日々「良い無料低額宿泊所でありたい」と念じて仕事をしている私たちは何なのだろう。かつての私にとって「国家の暴力装置」であるはずの警察に「優しい警察官」がいることなど想像できなかったのと同じように、そこには何か見落としがあるのかもしれない。

 そこでいったん「貧困ビジネスの温床」言説の外側から、何が起きているかを考えたい。ソーシャルワーク(SW)理論を通して<良心的な無低>をスケッチし直すところから始めよう。ポーター・リーの理論である。

ポーター・リーの理論から

 リーはアメリカ合衆国でソーシャルワーカー(SWer)の専門職化が進行する時代のリーダーのひとりで、1909年にメアリー・リッチモンドの後継としてフィラデルフィア慈善組織協会の書記長に就任した。1912年にはニューヨーク慈善学校の教員に、1929年には全米社会事業協会の会長となり、この年の全国大会の会長講演が1937年に出版された。その講演のタイトルは、'Social Work as Cause and Function'[Lee 1937]。ご存知の方も少なくないだろう。

 その骨子は次のとおりである。
 SWには<大義>の側面と<機能>の側面とがあり、<大義>は<機能>へと変化することで、その成果を永続的なものにする。
 <大義>に軸足を置くSWerは、不公平や不平等、無視、無知といった悪、あるいは社会問題に怒り、立ち上がり、戦う。その主張が認められ政策や法律に反映されると、やがて<大義>の勢いは減衰するが、改善状態を永続的・安定的に維持するために今度は組織的な教育、官僚制、運営管理、知識体系の発展が必要となる。これを担うのが<機能>に軸足を置くSWerである。両者に求められる資質は異なる。

 この議論では、SWという現象一般の背後にある法則、繰り返し現れるパターンが抽出されている。SWを<大義>のフェーズと<機能>のフェーズとに大別し、両者は時間的先後関係にあって、かつ前者から後者への移行は質的変化を伴うという動的パターンとして捉えているのだ。

 このパターンのなかに<良心的な無低>を位置づけたい。ネットでお借りした化学反応、吸熱反応のグラフをベースに、私なりにリー理論を図式化してみた。青い丸が<良心的な無低>、グレイの丸が<悪質な無低>のポジションを指す。

https://subarumusyou.web.fc2.com/chemi-13.htmlより引用し筆者加工

 何かしら、よろしくない状態がある。左下の黒線部分である。グレイの丸で示した<悪質な無低>は、「貧困ビジネスの温床」状態が手つかずのまま維持されていることを指す。
 それに問題を感じた人々がどうにかしようと動き出す。赤い曲線、<大義>のフェーズがはじまる。それは活性化し、熱を帯び、社会の承認を得ていく。頂点が活性化エネルギーのピークだ。<悪質な無低>を批判する「貧困ビジネスの温床」言説は、この<大義>の運動として捉えることができる。

 やがて<大義>の勢いは減衰しはじめるが、その主張や営みは制度化される。黄色い長方形がその過程にあたる。<悪質な無低>問題についていえば、2020年の改正社会福祉法施行に伴う無低への規制強化が当てはまる。
 最後に右側の黒線部分に至る。<大義>の主張が法制度を通して安定供給される<機能>のフェーズである。

 では<良心的な無低>はどこに位置づけられるのか。
 図では<大義>のピークに至る手前の段階で、<機能>化によって要求される水準よりも高いエネルギーを必要とする位置に描いた。
 <良心的な無低>は採算割れを承知で運営し続けているからである。

 無低の収入源は入所者から受け取る利用料だけで、公的補助はない。だから「ビジネス」として成り立たせようとすればするほど<悪質>になるし、<良心的>であればあるほど「ビジネス」として成り立たたなくなる。
 なぜ採算割れでも運営し続けるのか。
 どこにも行く場所がない人々を、放置するわけにはいかないからだ。
 <良心的な無低>はそういう<大義>の運動のひとつと捉えられる。

 だからこの図の<大義>の描く放物線は、実は重なりあった2本の線なのだ。1本目は「貧困ビジネスの温床」言説に代表されるアジェンダ形成運動として。2本目は<良心的な無低>に代表される実効的な支援を提供する運動として。
 問題は、この2本の放物線のうち1本目だけが可視化され、2本目が不可視化されていることにある。単純には、それは運動体のあいだの主導権争いとしても解釈できる。
 だがその背後には、もっと重要な問題が見え隠れする。

駆け足米国SW史

 ポーター・リーの講演から100年近くが経った。彼の枠組が正しければ、100年ほどの間にたくさんの<大義>が生まれ<機能>に移行していったことになる。蓄積されるのは<機能>だけだ。数知れぬ<大義>が<機能>に移行せぬまま消失していっただろう。リーの時代とは異なり現代の<大義>は、無数の<機能>に取り囲まれていることになる。

 先述のように、リーは合衆国でSWerの専門職化が進行する時代の人物で、<機能>への移行を推すスタンスにあった。反面、この国の「自主性」を重んじる文化は、その主体として個人、家族、近隣、コミュニティ、地方自治体、州政府、連邦政府という同心円を描く。したがって社会改良運動――SWだけでなく公衆衛生、都市計画なども含む――の基調もローカリズム(地方主義)にあり、資金不足に悩まされると連邦政府との関係形成が試みられた。つまりナショナリズム(国家主義)である。それは自主性を離れ国家の管理下に置かれることを意味したので、しばらくするとローカリズムへの揺り戻しが生じた。つまり当時のSWerのベースは、ナショナリズムではなくローカリズムにあった。
 リーの講演は1929年、世界恐慌がはじまった年だ。合衆国の社会改良運動は、この年を期に大きく変容していった。失業者を支援してきた専門職さえ失業し、SWerは職を求めてニューディール政策の国家計画策定に参加するようになった。連邦政府に取り込まれていったのである[Kirschener 1986]。
 第二次世界大戦後、福祉国家の枠組が世界規模で広がると、市民の権利は国家が保証するものと位置づけなおされ、SWのナショナリズム化に拍車がかかった。先進国の脱工業化が進むなか、合衆国では連邦予算が投下され、その統制下でSWerは<機能>を担う対人サービス労働者になっていった。1960年代には<大義>の運動が盛り返し、ローカルな社会改良運動が一定の成果をあげた。だが1980年代、レーガン政権の新自由主義政策のもと連邦予算が大幅に削られ、権限と責任が州政府に委譲され、民営化が推進されるなか、SWは不安定雇用のもとで<機能>を担うことになっていった[Wenocur&Reisch 1989]。

 <大義>と<機能>の動的パターンにローカリズムとナショナリズムという軸を差し込み、リー以降の合衆国のSW史をざっくり捉えると、こんな感じになるだろうか。合衆国のSWがローカル志向だった背景には「自主性」「民主主義」を重んじる文化だけでなく、SWが公衆衛生や都市計画、つまり具体的な地域性を前提とする社会改良運動のなかにあり、ナショナルな施策が常にローカルなニーズとズレるという経験の蓄積もあった。
 無数の<機能>に取り囲まれ、しかも自民党政権下の新自由主義的政策のもと、ローカリズムそのものをナショナリズムが統制――「地域共生社会」推進――する現代日本にいるとわかりづらいが、SWはずっと国家の統制下に置かれてきたわけではない。としか言いようがない。

 では、無低の話に戻ろう。

「安心で安全な国」

 無低を「貧困ビジネスの温床」とする言説は、リーマンショック後に活発化していった。リーマンショックが2008年、その3年後の2011年には東日本大震災、2020年にはコロナ禍が世界を席巻した。不況が日本国内に根を伸ばし、格差が拡大する過程で、困窮者の存在が急速に可視化されていく。この過程のなかで、<悪質な無低>の被害者の存在が浮き彫りにされていった。
 2020年には「地域共生社会の推進」を軸とする改正社会福祉法が施行され、<悪質な無低>を排除する目的で無低への規制も強化された。同時に<良心的な無低>を支えるため「日常生活支援住居施設」(通称「日住」)という新制度が創設された。<良心的な無低>が福祉事務所から委託を受けて入所者の支援を計画的に行い、その対価を受け取るものだ。ただし対象は生活保護制度利用者に限られ、年金や貯蓄など自費で無低を利用する人々は対象外となる。

 この経過の伏流はいろいろあるだろうが、2010年の日本弁護士連合会(日弁連)の意見書もその一つだろう。

無料低額宿泊所等の入所者,入居者の中には,アルコールやギャンブル依存症,知的障がいや精神障がいなどによって,金銭管理に問題があるなど,居宅生活を送るために日常的な支援を必要とする人々が一定割合存在し,このような支援を行っている良心的なNPO等の取組も存在する。したがって,無料低額宿泊所等に対する規制を強化し,悪質業者を排斥するだけですべての問題が解決するわけではない。

日本弁護士連合会2010「『無料低額宿泊所』問題に関する意見書」より
「第2 意見の理由 9 日常生活上の支援を要する人々に対する支援体制拡充の必要性」
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/100618_2.pdf

 さすがは日弁連である。「アルコールやギャンブル依存症、知的障がいや精神障がいなどによって,金銭管理に問題がある」人々の存在を無視しない。ただし論理的には、これらの人々を受け入れてきたのは当該の無低が<良心的>か<悪質>かを問わないはずだ。<良心的な無低>は<大義>によって、<悪質な無低>は「貧困ビジネス」ゆえに受け入れてきたことになりはしないか。
 続きはこうなっている。

中長期的には,生活保護受給者に対する自立支援プログラムや高齢者・障がい者に対する既存の支援策の拡充などによって対応できる範囲とその限界を見極めつつ,こうした人々に対する有効な支援策を構築していくことも重要である。

前掲 日本弁護士連合会2010
強調は引用者

 生活保護受給者に対する自立支援プログラム、高齢者・障害者に対する既存の支援策の拡充。
 従来は<良心的な無低>が<大義>によって引き受けてきた支援のうち、<機能>によって対応できる範囲があるだろうということだ。確かにその通りで、<かなりや>もしばしば既存の福祉サービスのお世話になっている。
 だが、そもそもなぜ「既存の支援策」があるにもかかわらず、これらの人々が無低にいるのか?という問題はスルーされている。なぜアルコール依存症やギャンブル依存症の人が?なぜ知的障害者や精神障害者が?
 その<機能>をもつ専門機関はないのか?あるならば、なぜこれらの人々を受け入れないのか?

 おそらく日弁連はわかっていたのだろう。無低に来る人々のなかには、既存の<機能>では対応困難な人々が含まれることを。多くの専門機関が通所型であることを。入所施設での受け入れがハイリスクとされる人々がいることを。既存の専門入所施設の利用を断られた人々がいることを。そもそも政府がこうした現実を直視したがらないことを。だから「対応できる範囲とその限界を見極めつつ」としたのだろう。

 だが、その「限界」の向こう側に追いやられた人々はどうなるのか。
 この意見書は、そこまでは語らない。日弁連が法制度に即して社会正義の実現のために働く弁護士の団体である以上、無理もない。弁護士の論理では<悪質な無低>問題もまた、法制度に即してーー<機能>の論理でーー解消されねばならないからだ。だから<機能>の「限界」の向こう側について語ることはできない。その結果「限界」の向こう側に追いやられる人々は、不可視化されてしまう。そして「そんな人、今の日本にいるわけがない」という「常識」の再生産に加担してしまうのだ。過去記事で私が<認知的棄民化>と呼んだ現象である。

 認知的棄民化は、福祉がきちんと機能している「安心で安全な国」という虚構的イメージの再生産に貢献する。現代日本は国家によるガバナンスが行き届いており、機能すべきものがちゃんと機能している安心で安全な国であり、何か問題があるとすればその当事者に由来する局所的な問題にすぎないので、法制度を通して是正させればよいというナショナルな虚構、日本国政府に都合のよい自己責任論の再生産にもつながりうるのだ。

ふたすじの<大義>

 長い不況のなかで困窮者の存在が可視化されるとともに、日本国内にもチャリティが広がってきた。子ども食堂、学習支援をはじめとする各種のボランティア活動やクラウドファンディングを通した寄付などである。喜ばしくもあるが、日本国政府が弥縫策を繰り返しながら新自由主義的政策を維持し続けるなかでのことである。民間諸団体は寄付を募るための発信力、幅広い人々にアピールする物語の構築を求められるようになった。

 <悪質な無低>問題をはじめとする現代版<大義>もまた、こうした潮流のなかにある。<大義>は多数の賛同を得て<機能>に変化するが、認知的棄民化の対象とされた人々を幅広くアピールしたところで、その物語を世間が受容することはまず期待できない。だから回避される。その結果いよいよ「存在しないこと」にされていく。無低を「貧困ビジネスの温床」とする<大義>の運動は、不可避的に再-棄民化を伴うのだ。

 これに対し<良心的な無低>の<大義>の運動は、実効的な支援の提供という形態で行われてきた。<悪質な無低>とは異なる選択肢を用意することで、少しでも<悪質な無低>の被害者を減らすのである。だがやはり認知的棄民化という壁ゆえに、世間の理解を得ることはまずできない。実効的な支援の提供以上の展開ができないまま、経営的にはジリ貧になっていく。

 いずれの<大義>にも限界がある。その鍵は認知的棄民化にあるのだ。「貧困ビジネスの温床」系の人々と、せめてこの認識が共有できたらなぁ……

 きっと<かなりや>は潰れるまで地味に地道に、ローカルなニーズに対応しながら実効的な支援の提供を試み続けるだろう。<機能>の枠組では語りつくせない現実があって、実はそれがとても大切だということを、優しい警察官たちが教えてくれたからだ。
 警察、とりわけ留置場の<機能>には「優しさ」は求められない。だが彼ら彼女らは優しかった。疑いようもなく人の幸せを願っていた。
 無低の<機能>は「福祉風味の単なる宿」に過ぎず、法制度上は専門的な支援などあり得ないことになっている。だが私たちもまた人の幸せを願いたいと思うので、<機能>の外側でベストを尽くし続けたい。

   ふふふ、オマワリなんざにゃ、負けねーぞ!

(おしまい)

*追記* 投稿後、語句を直しました。「ケアごころのある」は「ケアフル」ではないですね。「優しい」と改変しました。


■Lee, Poter R. 1937 'Social Work as Cause and Function', Lee, P.R., "Social Work as Cause and Function and Other Papers", Colombia University Press., pp.1-24.
 日本語訳があるが未読。
(=1975,岡田藤太郎訳「『大義』および『機能』としてのソーシャルワーク」『ソーシャルワーク研究』1(1): 52-55 , 1(2): 43-46.)
■Wenocur, Stanley & Reisch, Michael 1989 "From Charity to Enterprise: The Development of American Social Work in a Market Economy", University of Illinois Press.
■Kirschner, Dons S. 1986 "The Paradox of Professionalism: Reform and Public Service in Urban America, 1900-1940", Greenwood Press.