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カトマンズの仕立て屋
カトマンズ滞在中のこと。お気に入りのデニムシャツで旅をしていた私だったが、ある時そのシャツのボタンが取れてしまった。裁縫道具などもっていなかったためどうしたものかと一瞬途方にくれたのだが、街中で幾度か「仕立て屋」の類を見かけていたことを思い出し、さっそく街へ繰り出すことに。しかしいざ目指そうとするとその仕立て屋をいつどのあたりで見かけたのだか皆目見当もつかない。それもそのはず、カトマンズの街はまるで動物の内臓のようにぐねぐねと道が入り組んでおり、その道に沿って極々小規模の個人経営の店が数珠つなぎのように無数に連なっているのだ。いつも悪鬼に取りつかれた夢遊病者のようにうろついている私の頭では、何の店がどこにあったかなど覚えていられるはずがなかった。再び途方に暮れかけた私だったが、「適当に歩いていればそのうちみつかるだろう」と、そのシャツを身にまとい、取れたボタンをポケットに入れて、12月の儚い光に満たされたカトマンズの街へと繰り出した。
どれほど歩いたころだろうか、さっそく仕立て屋の一軒を見つけた私は店内を覗き込んだ。中では30前半と思しき女が一人ミシンを奏でて作業をしていた。
ポケットのボタンを取り出し、小粋な若旦那風味を演出しながら女に問いかける。
「ちょいと嬢ちゃん、しゃっつのボタンが取れちまったんだが、直してくんねえかい?」
女は突然現れた若旦那に驚いている様子だったが、すぐに状況を理解したようで「よこせ」と無言で手を差し出してきた。その場でシャツを脱いでボタンと一緒に手渡す。もちろん下にインナーは着ている。女は一瞬ぷっと吹き出した。
すぐに作業に取り掛かった女だったが、一瞬手を止め、部屋の隅を指さす。その指の先には一脚の椅子。そこに座って待ってろというのだ。言葉に甘えて座って待つことに。
………
薄暗い店内で私のシャツに針をたてる女。12月のカトマンズは同時期の日本と比較するとはるかに暖かいが、薄暗い室内でインナー一枚でいるのは少し肌寒い。外では人や車がせわしなく行きかいいつも通りの騒々しさだ。野良犬が店の前を駆け抜けていく。何か得体のしれないものに追われるように、あるいは得体のしれない何かを追い求めるように。そんな見慣れた景色のなか、私の隣では見知らぬ女が私のシャツを直している。店内は静かで、女の作業する衣擦れの音だけが鼓膜にふれる。小さい頃、田舎の親戚の家へ遊びに行った時の、大人の話に飽き何もすることがなく、ただ壁時計の秒針の音に耳をすませて過ごしたあの時と同じ退屈な時間が再びそこに流れていた。
「私はもしかすると、この女と夫婦ものとしていつかここに暮らしていたのではなかったか?」
唐突にそんな幻想が頭に浮かんだ。
いつか遠い昔の生のなかでそんなことがあったのでは、と。
「あらあなた、今日もボタンがとれてるわ」
「なんだいまたかい。今日もつけてくれるかい」
「ええもちろんだわ」
そうして女の直した着物をまとって通りへ出る。すると男の声が呼び止める。
「おおっと。そこを行くのは仕立て屋の旦那じゃねえか。なんでぇなんでぇ今日も小粋だねえ!」
そこで私は照れ隠しに言うのだ。
「よせやい。おめえさんのその禿げ上がった頭のまぶしさにはかなわねえよ!」
「こいつぁ一本とられたねぇ!」
離れて見ていた女も一緒になって笑っている。
そうして12月の淡いカトマンズの光の中をぼくらの笑い声がこだまする。平和であたたかで希望に満ちた笑い声が…。
始まりもない遠い昔から幾度となく続けられてきた生の繰り返しの中で、この女と一緒にそんな素朴な人生を歩んだことが、いつかどこかであったのかもしれない…。
ふと我に返り、作業を続ける女の横顔に目をやる。その顔は少し微笑んでいるように見えた。
「まさか照れているのかい。日本という洗練された国から来た若旦那に?」
「まさか、まんざらでもないというのかい?」
昔好きで繰り返し鑑賞した鈴木清順の映画「夢二」のとあるワンシーンが脳裏に浮かぶ。
沢田研二演じる主人公・夢二が宿の女将・大楠道代に対して誘いをかけるのだが、女将の返答が、
「それはもう御つもり次第ですちゃ…」
と、ほほを赤らめながら答える、というシーンだった。
その後邪魔が入り二人の逢瀬はなくなるのだが、それに対して夢二が、
「せっかく女将が御つもり次第でいて下さっているというのに…」
と不満を口にしてシーンは終わる。
ああ、あのシーンを私は思い出します!
「まさか、君も御つもり次第だというのかい…?」
唐突に動揺し始める私。
いや、しかし、この女と今生を共にする、そんな選択があってもいいのかもしれない。幸いここは仏教国、チベットの僧院も無数にある。学習・修行の機会には事欠かないであろう。それにこの女の生活だって私が頑張れば楽させてやれるだろう。
いっそ言ってしまおうか。
「これからも私のボタンを付けなおしてはくれないか?」
と。
あるいはもっと古風に、
「毎朝私の味噌汁作ってはくれないか?」
でもいい。
「その際、ちょっとばかしスパイスが効いてしまってもいいよ」と。
だがそこで我に返った。
だめだ!私はこれでも生涯の梵行を誓った身。いまさら後に戻ることなどできない。そうあの日私は誓ったのだ。鹿島神宮のフツヌシの神の御前で…。
「嬢ちゃん、すまねえが、あんたの気持ちには答えらんねえよ…」
そうして心の中でヒマラヤの雪解け水のような冷たい涙を流した。この女のために…。
「おまえのなかで雨が降れば 僕は傘を閉じて濡れていけるかな」
(細野晴臣「恋は桃色」)
そんな妄想の網に捕らわれて一人で踊っていると、いつの間にか女の作業は終わっていた。
シャツに腕を通しボタンをはめる。問題はない。10ルピーでいいという女にあえて100ルピー札を差し出す。
「嬢ちゃん、あんたもさ、はやく「いい人」みつけなよ…」
「そしてその「いい人」と、この金で熱いチャイでもしばきにいきねえ…」
断腸の思いで金を差し出す私。
(こだまするヒマラヤの沢の音…)
するとどうしたことだろう?女は突然口を押えて大きく笑いはじめた。
突然のことに動揺する私。しかし女の笑いは一向に収まる気配がない。
まるで堪えに堪えたダムがとうとう決壊した、という具合の爆笑ぶりだった。
私は取り乱しながらも、
「い、いいからとっておきねぇ!」
無理やり金を渡して立ち去った。
そう、この女はなから照れてなどいなかったのだ。
笑っていたのだ、はじめから、私のことを…。
再びカトマンズの淡い光の中に歩み出た私は、冷たく濡れた目元をぬぐいながら一人寂しく歩を進める。
「あンた、背中が煤けてるぜ!」(「月下の棋士」能條純一)
そうしてまた、ある幻想に捕らわれたのだ。
それは険しく切り立ったヒマラヤの谷底深く、月光の淡く差し込む寂しい場所で、一人の仮面の男が、さみしそうに佇んで、世にもかなしげな旋律を口ずさんでいた。
しゃっつのボタンはついたけど こころのボタンははずれたよ
あの子の店でなおるかな あの子の糸でなおるかな
またいつか カトマンズの仕立て屋さん…
男は歌い終わるとその手でゆっくりと仮面をずらし始めた。月光に映し出されるその顔は…。
完